2022/06/13 うつせみ

原始仏教と空の哲学に関する補足資料です。

参考1)フロイトの夢判断

意識が感覚器官であることに気が付いた人物が、もうひとり存在していました。
『ジークムント・フロイト 』です。19~20世紀初頭のドイツの精神科医です。

彼は、その著書『夢判断』で、意識のついて、次のように述べています。

では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。

それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。

この組織はそのメカニックな諸性質に於て知覚諸組織Wに似ていると考えられ、それゆえ性質によって興奮させられるが、変化の痕跡を保持することができない。

つまり記憶力を持たない。知覚組織の感覚器官をもって外界に向けられている心的装置は、それ自身が意識の感覚器官にとっては外界であり、この関係にこそ意識の目的論的な存在理由がある。

出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社

と、述べています。

つまり、「意識は、自己の心的システムを知覚対象とした感覚器官である。眼が外界を知覚対象とした感覚器官であるように、意識は、自己の脳(心的システム)を知覚対象としている。」と述べています。

世の多くの哲学者や思想家が、意識を『観念的存在』として捉えていたのに対して、フロイトは、物理的存在、即ち、『感覚器官』と捉えていました。

ゴータマ・シッダッタとフロイトが、2500年の時を隔てて、同じ結論に辿り着いていたのには、驚かされました。

注)ゴータマもフロイトも、まぼろし体験の経験者だろうと推測しています。
ゴータマは、苦行による幻体験によって、フロイトは、コカインの薬物幻覚によって、この知識を得たものと思われます。

確かに、二人とも、心の中を覗く技術に優れていましたが、それだけでは、この結論には至りません。夢は全ての人々が毎日見ていますが、夢体験から、この結論に辿り着いた人はいないからです。

『ゆめ』と『まぼろし』は決定的に異なっています。ゆめ(夢)体験はコントロールできませんが、まぼろし(幻)体験はコントロールできます。「コントロール出来る」ことに気が付いた時に、始めて、実感します。「全ては自分自身が作り出したものだ。」と。

注)夢の正体

フロイトは、『夢は願望充足行為だ。』と考えていました。多くの人々は、気に入らない、つまり、受け入れたくないと思いますが、でも、自分は事実だと思っています。
『願望充足』という言葉が誤解を与えています。『ストレスの発散行為』と置き換えれば、もう少し理解を得られるのではと思います。

願望充足の最も原初的な行為は、八つ当たりや趣味、ショッピング、スポーツによる溜まったストレスの発散です。この行為の場合、ストレスの原因と、発散先には何の因果関係もありません。ともかく、ストレスを発散すれば、願望は充足され、スカッとします。皿やビンを、壁に力一杯投げつけて壊せば、スカッとします。一時の快感に過ぎませんが、それでも、一瞬だけ、満足体験が得られます。

夢もこのようなストレスの発散行為です。性欲などのように、社会的制約によって運動器官に向かって発散できない困った欲望を、意識器官に向かって発散して、そこで、『架空の願望充足(夢)』に耽っています。肉体の具体的行動によって充足できない欲望は、意識器官に向かって放出され、そこで、『架空の願望充足(夢)』が起こっています。

夢が、覚醒時の行動に影響を与えないのも、このストレスの発散と密接な関係があります。ストレスが発散されると、心の中の(行動の)原因が消滅してしまう為です。ストレスの発散によって原因が消滅するので、行動も生まれません。つまり、夢は、ストレスが発散されるので、欲求不満が解消されて、覚醒時の生活に影響を与えません。

ただし、背後では、ストレスの発散という重大な影響を与えています。心の健康を保っています。
でも、この影響は目には見えません。見えない為に見過ごされている点で、(存在していない点で、)数学のゼロと、どことなく似ています。人々は、存在しない物(無)には、あまり興味はありません。存在している物(有)にのみ、興味を持ちます。

参考2)現代仏教における意知覚の扱いについて

現代仏教においては、「意識は感覚器官である。」という理解が、薄いように感じられます。

経典で説かれているから知識としては理解しているが、しかし、実感としては、いまいち、ピンときていないみたいです。仏教の伝統として、受け継いでいるだけのような印象を受けます。場合によっては、理不尽な宗教的ドグマだと見なしています。

空理空論の空想で、難解な仏教用語が、一人歩きをしています。何とか、言葉と知識で理解しようと四苦八苦しています。理解しようとするから、益々、空理空論が空理空論を生み出して、混迷の度合いを深めています。この姿は、現代哲学と、何処となく、似ています。現代哲学も、空理空論の積み重ねで、混迷を極めています。

このような事情は、インド仏教最後期を代表する学者、モークシャーカラグプタの著書『タルカバーシャー』の言葉が、全てを物語っています。

意知覚というものは、教典の中に出てくるのであるが、しかし、その存在を確定する証拠はなんらないというのが実状である。

世尊(仏陀)は、「比丘(教団の修行僧)たちよ、色形はときとして二種(の認識)によって認識される。すなわち、眼(視覚)とそれによって引き起こされる意(意知覚)とによってである。」と言われたのである。

通常の経験に適合しないものを述べてみて、いったいなんの役にたつのか、と言うかもしれないが、この場合の目的は、もし意知覚が上述のように定義しうるものならば、なんの誤りもないし、したがって、それによって教典のことばにまちがいのないことも教えられる、ということなのである。

論理のことば (中公文庫)
モークシャーカラグプタ (著), 梶山 雄一 (訳注) P34

彼の言葉は、1000年前にもかかわらず、現代仏教の実情を、実に的確に表現しています。これ以上、付け足す言葉はありません。

「通常の経験に適合しないもの」と、彼は述べていますが、彼は、その肝心の通常の経験をしていません。通常の経験には興味が無かったみたいです。経典にしか興味が無かったみたいです。彼にとっての「通常の経験」とは、学問や経典の世界のみだったみたいです。

確かに、意識感覚器官は、脳内部にあるので、眼や耳鼻などのように、手で直接触って確認することはできません。その意味では、通常の経験には適合していません。(手で触れないので)唯物論の先入観には適合していません。

しかし、原因と結果の因果関係に興味を持っていたなら、その存在に気が付いたと思います。意知覚によって、行動が生じている事に。眼からの知覚刺激によって、行いが生じているように。

現実に目を向けるなら、知覚刺激が欲望を活性化させ、活性化した欲望は、行いを生じさせます。行いは、「満足する。」という結果を生みます。「通常の経験」に興味があるなら、意識知覚によって行動が生じている事に気が付いた筈です。

知覚と行い

知覚と行い
知覚刺激は行いを生じさせます。

1. リンゴを知覚します。
2. そこから、リンゴという知覚刺激が生じます。
3. この知覚刺激は欲望を活性化させ、「食べたい。」という食欲が生まれます。
4. この食欲から、「リンゴを食べる。」という行動が生まれます。
5. 行動の結果、食欲は満足されます。

ところが、活性化した欲望から生まれる筈の行動が、何らかの原因で阻害されたら、欲求不満が溜まって、イライラします。心の中に、ストレスが溜まります。ストレスに苛まれる事になります。

欲求不満

欲求不満
欲望が満足されないと、欲求不満になります。心の中に、ストレスが溜まったままになります。

3. この知覚刺激は欲望を活性化させ、「食べたい。」という食欲が生まれます。
4. しかし、食べる事ができないと。
5. 欲求不満で、イライラします。
6. 心に溜まったストレスは、そのはけ口を求めて、貧乏ゆすりを始めます。

我々は、常に、このようなストレスを溜め込んでいます。
そこから解放される道は、知覚への拘りから離れる事です。六根清浄です。

意識感覚器官から生じている知覚刺激を、仏教では、『意知覚』と呼んでいます。

我々人間は、眼で見た景色、耳で聞いた音で、行動を起こしています。それと同じように、意識感覚器官から生じている『意知覚』によっても、行動を起こしています。
動物は、一般に、感覚器官からの知覚刺激で、行動を起こします。意識感覚器官も、そのような感覚器官のひとつです。
それ故、意知覚から、どのような行動が生じているかを、観察する事が大切なです。
それが、原始仏教の心だった筈です。

現実に目を向け、原因と結果の因果関係を観察していれば、気が付いた筈です。意識感覚器官からの刺激(意知覚)で、『行い』が生じていた事に。
彼は、皮肉にも、通常の経験には興味が無かったみたいです。

彼は、確かに、経典には興味がありました。その知識も豊富だったみたいです。でも、それだけです。『行い』にはあまり興味が無かったみたいです。現実世界への興味を感じられません。薄っぺらです。

現代仏教の姿と、何処となく重なります。

参考3)共通智と分別智

仏教用語には、『分別智』という言葉があります。

良く似た二つの事象を比較して、その相違点を抽出する能力です。
一般に、人間の知能と言えば、この『分別智』を指しています。如何に良く似た二つの事象の違いをセンシティブに指摘、識別できるかが、才能だと思われています。

分別智は、別名、価値判断能力の事です。情報を、「いい、悪い」等のように両極端に分別するの能力です。仏教では、価値判断や価値観の事を、『両極端』と表現しています。「いい、悪い」等の価値観のように、両極端のコントラストが鮮やかな為です。

分別智、価値判断は、情報を「いい、悪い」等の両極端のどちらかに分別する能力の事です。

分別智の反対語

『分別智』の反対語は、『無分別智』と、仏教では主張しています。

しかし、これは安易過ぎます。ただ単に、否定語を付加しただけの表現に過ぎないからです。これでは、「どう行動すれば良いのか。」、その具体的『行い』が見えてきません。

『分別智』の反対語は、『共通智』です。でも、残念ながら、『共通智』の概念は誰も主張していません。

『共通智』は、ふたつの全く異質な事象の根底に横たわる共通の性質を見つけ出す能力です。人は、とかく、相違点には神経質になりますが、共通点には、無頓着です。

でも、『共通智(共通点)』こそが、物事を体系化する基盤です。
共通点が見つかるからこそ、この共通点を手掛かりにして、ふたつの事象の統合が可能となります。全体を、統一して理解する事が可能となります。この能力は、『統合智』と呼んでもいいかと思います。
統合智』なら、仏教で主張している『無分別智』と近くなると思います。

『統合智』の基本は、共通点を見つける能力です。即ち、『共通智』です。
共通点を見つける事ができるからこそ、二つの異質な事象の統合が可能となります。

参考4)ゼロ と ヌル と 神

ここでは、実体という言葉を、世間一般の常識に従って使っています。

コンピュータプログラムを例題にして、哲学上の形而上学の問題を論じてみます。これで、哲学者たちが、形而上学で何を論じているのかが明らかになります。現実は、哲学者たちの思いとは裏腹に、身も蓋もない話です。
どちらかと言えば、金剛般若経の世界です。理数系の方には、参考になると思います。

コンピュータプログラムの世界では、『ゼロ(zero)』とよく似た概念に『ヌル(null)』があります。どちらも、一見、「何も無い状態」を指示しているように見えます。しかし、このふたつは全く異なった意味です。

コンピュータプログラムの学習では、多くの方々が躓く問題です。経験上、この『ヌル(null)』を理解出来ているプログラマーは、(上級者の)数割程度という印象です。
哲学者が、形而上学の思考で行き詰まってしまうのも、この『ヌル』の概念を理解していない為です。そもそも、哲学の世界には、この概念自体が存在していないのかもしれません。今までに、この概念(思考パタン)を前提とした哲学書を読んだことがありません。

この『ヌル』を理解できると、『ゼロ』や形而上学、金剛般若経の発想も理解し易くなります。

名前とイメージの対応関係

名前と実体は、対応付けることが出来ます。
例えば、皿という実体には、『皿』という名札を付けることが出来ます。

言葉と実体の対応関係

言葉と実体の対応関係
『皿』という言葉には、皿という実体が対応しています。
『山』という言葉には、山という実体が対応しています。
『川』という言葉には、川という実体が対応しています。

ところが、世の中に名前はあるけど、実体が対応していないものがあります。
その代表が、『神』や、『無』です。神や無は、言葉は存在しているけど、実体は対応していません。

言葉に実体が対応していない場合

言葉に実体が対応していない場合
言葉に対応する実体が存在していない場合です。

『神』という言葉に、神という実体は対応していません。
『神』という言葉は、人間の欲望によって、生み出された言葉です。『山』や『川』のように、実体に対応して発生した言葉ではありません。その発生源は、人間の欲望です。
もちろん、宗教家たちは、自らの欲望を正当化する事に夢中になっているので、全力で否定します。「神は実在している。」と。その心の働きが、欲望の働きであることに気が付いていません。

『無』という言葉も同様です。『無』という言葉にも、無の実体は対応していません。
そもそも、『無』の言葉の定義は、「何もない。(実体がない。)」です。
一方、言葉自体に対する先入観は、「言葉には実体が対応している筈。」です。
『無』の言葉の定義と、言葉一般の先入観の間で、矛盾が生じています。哲学者は、この矛盾に気が付かないまま、ドン・キホーテのように、形而上学の幻想に果敢に挑みかかっています。(言葉に対応している筈の)『無』の実体を、(言葉で)捉えて明らかにしようと。

神を実際に見た人間はいません。でも、それでは実感が湧かないので、多くの宗教は、偶像を作って神の代用としています。反対に、神経質な宗教の場合、偶像崇拝を禁止しています。偶像は、神でないからです。間違った信仰を生むと心配しています。

なお、たまに、まぼろし体験中に、「神に遭遇した。」と錯覚する人々はいます。死後幻覚と同様な体験です。現代科学では、まだ、未知の現象です。

無も同様です。無という概念にも、『無』という言葉は存在していますが、その言葉に対応する『無』という実体は存在していません。

このような言葉は存在しているが、実体が存在していない状態を、コンピュータの世界では、『ヌル』と呼んでいます。
名前だけあって、実体が伴っていない状態です。神という概念には、『神』という言葉は存在していますが、その言葉に対応する(『神』という)実体は存在していません。これが、『ヌル』の存在状態です。

神 と ヌル

神とヌル
皿という名札には、皿という実体が対応しています。
ところが、神という名札には、神という実体は対応していません。
このような言葉に実体が対応していない状態を、『ヌル(null)』と呼んでいます。

それ故、一部の神経質な宗教は、偶像崇拝を禁止しています。偶像は神ではないからです。(神ではないものへの)間違った信仰を生むからです。

(でも、偶像があるとイメージし易いのも、また、事実です。)

原始仏教でも、偶像崇拝は、推奨されていませんでした。でも、別に、宗教的戒律として、禁止していた訳ではありません。仏教や、その偶像への拘りは、意味がない為です。寧ろ、そのような拘りは有害な為です。合理的な理由からです。

それが証拠に、ガンダーラでは、仏教の精神性とギリシャの写実性が融合して、素晴らしい仏教芸術が花開きました。素晴らしい仏像が数多く作られました。別に、宗教的戒律で禁止されていた訳ではなかったからです。
別の分野でも、仏教の精神性と何かが結びつくと、素晴らしい芸術を生み出す可能性があります。例えば、科学とか、音楽の分野で。。。



ゼロの存在状態

たくさんのリンゴを管理する場合を想定します。

これらのリンゴは、何らかの入れ物に入れて管理する必要があります。この入れ物として大きな皿を二枚準備します。

これらの皿にリンゴを乗せる操作を言葉で指示する場合を想定します。
皿が複数枚ある場合、夫々の皿に名前を付けないと指示できません。そこで、夫々の皿にA,Bと名前を付けます。そうすると、言葉での指示が可能になります。

例えば、「Aの皿に、リンゴを3個乗せなさい。」とか、「Bの皿から、2個取り出しなさい。」と言った具体的指示が可能になります。

このような言葉での指示を、コンピュータの世界では、『プログラム』と呼んでいます。そして、皿の事を『変数』、皿に付けた名前を『変数名』と呼んでいます。この場合は、「Aの皿」、「Bの皿」が変数名です。
皿の上のリンゴの数は、操作の度に、刻々と変わっていきます。「リンゴの数が変っていく入れ物」という意味で、この入れ物の事を、数が変るもの、即ち、『変数』と呼んでいます。

この処理手順を詳細に分析すると、言葉で指示する前に、三つの準備作業が必要な事が分かります。

最初の準備は、A,Bと書かれた名札を二つ準備する作業です。次に、実際に作業を行う皿を二枚準備する必要があります。そして、最後に、名札と皿を結びつける作業が必要です。具体的には、左の皿の前には「Aの名札」を、右の皿には「Bの名札」を置く必要があります。

これだけの前準備を行うと、曖昧なく言葉で指示が可能になります。このような準備作業を、コンピュータ業界では『変数宣言』と呼んでいます。名札の付いた皿を準備する作業です。

【変数宣言の詳細な手順】

  1. 名札を準備する。
  2. 皿を準備する。
  3. 名札と皿を結びつける。

そして、手続き(プログラム)を記述します。

名札と実体と手続き

名札と実体と手続き
1. 名札を準備します。(「Aの皿」と変数名を宣言)
2. 皿を準備します。(メモリー上に作業領域を確保)
3. 名札と皿を関連付けます。(変数の宣言)

そして、「Aの皿にリンゴを乗せろ。」と指示します。
この指示の事を、プログラムと呼んでいます。

ゼロは、まだ、一個もリンゴが皿に乗っていない状態です。

このような名札の付いた皿(メモリー)に、リンゴが一個も乗っていない状態を、コンピュータの世界では『ゼロ』と呼んでいます。世間一般の常識と同じです。

上記の操作を、実際のコンピュータ上の操作で説明します。
この説明は、「人間の為(人間用)」と、「コンピュータの為(機械用)」の二種類の操作が混在しています。誰の為かを、適時、注釈します。源氏物語のように、主語を(人間か機械か)適時切り替えて頂ければ助かります。

源氏物語は、ひとつの文のなかで臨機応変に主語が切り替わっています。しかも、やっかいな事に、日本語の特徴として、主語は一般に省略されます。暗黙の前提条件として。日本語は、主語を省略した方が、スムーズな文章になります。主語を明示的に表記すると、その瞬間に(思考が)そこで止まってしまいます。だから、その省略されている筈の主語を(頭の中で)補いながら、読む必要があります。

下図を前提にして説明します。

コンピュータ上の変数割り当て操作

コンピュータ上の変数割り当て操作
上記の「名札と実体と手続き」を、実際のコンピュータ上の動作として説明します。

メモリー空間は、メモリーセルが、直線状に並んだ一次元空間を形成しています。
メモリーセルは、小さな四角(□)で表現しています。日常生活に例えるなら、一文字がやっと書けるような小さな付箋紙を想像して頂いたら理解し易いです。その小さな付箋紙が机の上に、(たくさん)一列に並べて枚貼り付けられている状態が、メモリー空間です。そして、その一枚一枚の付箋紙が、メモリーセルです。

この絵では、メモリーセル2個を作業用領域(変数)として確保しています。付箋紙に例えると、2枚分確保されています。だから、この作業用領域(変数)には、2文字分記録する事ができます。即ち、00~99個までのリンゴの数を管理できます。2文字で管理できる数の範囲は、0~99 だからです。

なお、現代のフォンノイマン型コンピュータの場合は、このメモリー空間には、変数だけでなく、プログラム(操作手順)も書き込まれています。プログラム領域と変数領域が共用されています。プログラム自体も、データの一種に過ぎないからです。それを、どう矛盾なく正しく使うかは、全て、人間の責任です。でも、現実には、正しく使えなくて、いつも(システムを)暴走させています。

コンピュータ上の操作です。
メモリー空間上に作業領域(変数)を確保して、そこにリンゴの数を書き込む操作手順です。

なお、メモリー空間は、日常生活に例えれば、小さな付箋紙を、机の上に一列に並べて複数張り付けている状態と同じです。この小さな付箋紙の一枚一枚を、メモリーセルと呼んでいます。このメモリーセルには、鉛筆で一文字だけ書く事ができます。消しゴムで消して、書き換える事もできます。

コンピュータ操作は、原理的には、紙と鉛筆でシミュレート可能です。

手続きの詳細は下記の通りです。
人間か、機械(コンピュータ)か、どちらを対象にした操作かを注意しながら読んで下さい。

  1. (人間用)
    まず、「Aの皿」という名前の書かれた名札を準備します。なお、書かれている名前は自由です。人間が理解出来れば、それで充分です。
    .
  2. (機械用)
    メモリー空間が存在している事実に注目します。
    これは人間の主義主張ではなくて、目の前に横たわっている冷酷が現実です。
    .
    コンピュータには、メモリが実装されています。それは、個々のメモリーセルが直線状に並んだ一次元空間を形成しています。
    このメモリー空間は、先ほどの話で皿が存在している空間と同等の意味を持っています。現実の空間は三次元ですが、メモリー空間の場合は一次元です。現実の皿は、目の前に広がっている三次元空間の中に存在していますが、次に説明するコンピュータ用の作業領域(皿)はメモリー上の一次元空間に存在しています。
    .
  3. (機械用)
    このメモリー空間に、作業用領域(皿)を確保します。先ほどの話では、リンゴを乗せる皿の事です。皿(作業領域)を、メモリー空間上に確保、準備します。そして、この作業領域に、リンゴの数を記録します。つまり、皿の上にリンゴを乗せる操作を記録します。現実世界と機械の世界は、対応関係にあります。
    上図(現実世界)と下図(機械の世界)の対応関係
    現実世界コンピュータの世界
    確保した作業用領域
    皿が存在している空間(三次元)メモリー空間(一次元)
    .
  4. (人間用)
    人間用に準備した名札と、機械用に確保した作業領域を結び付けます。この操作を、コンピュータ用語では『変数宣言』と呼びます。
    以後、人間がプログラムを組む場合は、この作業領域(皿)への操作を、この作業領域に関連付けられた名札(変数名)を使って行います。
    .
    なお、この確保された作業領域を、一意に使う責任、つまり、多重使用して誤動作させない責任は、人間(プログラマー)にあります。操作の全ての責任は人間にあります。
    ところが、残念ですが、現実には、これがうまく行かなくて、しばしば誤動作(バグ)の原因になっています。一意に使う事が出来なくて、二重使用して誤動作の原因になっています。この種のバグはタイミングに依存し、再現性がないので結構苦労します。
    .
  5. (人間用)
    以上の準備が出来たら、始めて「変数(作業領域)にリンゴの数を書き込め。」という指示が可能となります。やっと、プログラムを組む準備が出来ました。「Aの皿に、リンゴを三個乗せろ。」とか、「一個取り出せ。」といった指示が可能となります。
    .
    ここまでの前作業が長かったですね。充分疲れました。
    実際のプログラムを組む作業はこれから始まります。
    今まで話した内容は、まだ、準備作業です。準備作業の手順を説明しました。
    人間の場合、この思考過程は、通常、当たり前の常識として、スルーされています。しかし、機械には、その当たり前の常識は通用しません。いちいち、プロトコルとして明示的に記述する必要があります。人間には常識がありますが、機械にはそれがありません。
    人間には「死の恐怖」がありますが、機械にはそれがありません。

コンピュータ上のゼロは、この作業領域にゼロの値が書き込まれている状態を意味しています。



現代のコンピュータの致命的欠陥

ちなみに、このような余分な作業をいっぱいする必要があるのは、コンピュータには、人間の常識が通用しない為です。常識を、全て明示的に、ひとつひとつ、作業前にプログラムする必要があります。つまり、機械(コンピュータ)に指示する必要があります。

このような操作手順や手続きを記述したプログラム言語を、『手続き型言語』と呼んでいます。大部分のプログラム言語は、手続き型言語です。

手続き型言語の致命的欠陥は、目的を記述できない事です。
コンピュータは常識を理解出来ず、従って、目的も理解出来ない為です。当たり前ですね。機械は人間では無いので。

この為、苦肉の策として、この欠陥を補う為に、プログラム作成時には、プログラムの行間に、大量のコメントを記述しています。
コメントは注意書きなので動作には影響を与えませんが、プログラムを組む人間が、プログラムの目的を見失わない為に必要です。人間に理解出来る言葉で、プログラムの使用目的をメモしています。記述量は、文字数換算で、プログラム全体の約半々程度です。これよりも、コメントの量が少ないと、品質に影響が出ます。
極端な表現をすれば、プログラム品質は、コメントの品質によって決まります。コメントが適切なら、バグがなく、正しく動く可能性が高まります。

つまり、一番重要なコンピュータの処理目的は、プログラムを組む人間(プログラマー)に、コメントの形で自覚させる必要があります。それ以外に、有効な手段がありません。現代の技術では、処理目的自体をプログラム出来ない訳ですから。つまり、手続きしか記述出来ない訳ですから。

現在流行りのAI(人工知能)は、理屈なき技術です。
遊びで使っている分には笑い話で済みますが、人命が掛かっていると、動作が保証されないので、深刻な問題になります。AIは、経験則で学習しているだけです。一番深刻な問題として、機械には、『恐怖心』がありません。従って、最後の一線の歯止めが効きません。『生きる』という常識がないから当たり前ですね。

AIは、歴史的には、現代版錬金術です。
現代の技術で、脳を作れると思っています。つまり、過去の錬金術が本物の金(gold)を作れると思っていたように。欲望だけが先走りしています。現代の人々は中世の錬金術を偽物の代名詞として鼻で笑っていますが、未来の人々はAIを「悪い冗談だった。」と鼻で笑っているかもしれません。歴史的教訓として、歴史に刻まれているかもしれません。

AIは、「使える部分だけ使う。」と用途を慎重に限定する必要があります。
用途を限定すれば、結構使える技術です。でも、本物の金(gold)だと錯覚して、命を預けたら不幸な結果を招きます。人命が掛かっている場合は、くれぐれも慎重な対応が必要です。『AI』という夢と空想の宣伝文句に誤魔化されないことが大切です。『AI』は夢であって、現実ではありません。

まさか、「夢を売るのが、営業の仕事だ。」という言葉に、ここで出会うとは思いもしませんでした。その昔、「コンピュータは神様だ。」と言って、夢を売り歩いていた時代がありました。その時代の再来です。「AIは人工知能だ。何でも可能だ。」「錬金術の夢を、もう一度。」です。



ヌルの存在状態。

初級のプログラム言語では、『変数宣言』は、上記三つの手順を、一度に実行しています。名札の準備、皿の準備、名札と皿の結び付け、この三つの作業を一度の行っています。処理が単純化して、分かり易くなる為です。この為、初心者でもプログラムを組み事ができます。

しかし、上級になると、変数宣言の三つの手順(名札の準備、皿の準備、名札と皿の結び付け)をバラバラに行った方が、複雑なプログラムを効率よく簡単に記述できる場合があります。

プログラム自体は、同じ名前の名札を使って組みます。
実行時に、名札と皿の結び付きを指定、又は、変更します。
このようにすると、同じ名札で、複数の皿を適時操作することが可能になります。名札と皿の結び付きを(明示的に)変更するだけで済むからです。

このような操作を、『ポインター操作』と呼んでいます。

コンピュータの世界での『ヌル』は、名札と皿が結び付いていない状態を指します。つまり、名札は存在しているけど皿はまだ存在していない状態、或いは、名札と皿が結び付いていな状態です。いずれにしても、名札で実体を操作できない状態です。この存在状態を、『ヌル』と表現しています。

(哲学者が思い込んでいる)形而上学的な『神』や『無』の状態です。『神』という名札には『神』という実体は対応していません。『無』という名札には『無』という実体は対応していません。このような状態が『ヌル』の状態です。

注)哲学者が思い込んでいる形而上学の思考には、ここに曖昧さが潜んでいます。『ヌル』と『ゼロ』の状態を区別できていません。「『神』や『無』は、言葉が存在するから実体も存在している。」と、素朴に思い込んでいます。神や無の実体を探し求めています。この探す作業を形而上学だと思っています。だから、いつも「あ~う~、あ~う~」と要領を得ません。

ちなみに、『0(zero)』は、名前と皿は結び付いているが、皿にリンゴが乗っていない状態です。メモリーにゼロの値が書き込まれてる状態です。名札と皿が結び付いていない状態(ヌル)ではありません。

ヌル と ゼロ と 名札

ヌルとゼロと名札
ゼロは、名前の付いた皿に、リンゴが一個も乗っていない状態を指します。
ヌルは、名札は準備したけど、まだ、皿は準備していない状態を指します。
名札と実体との対応関係が、まだ、定義されていない状態です。

ゼロ:名札の付いた皿に、リンゴが一個もない状態。
ヌル:名札は準備したけど、まだ、皿が準備されていない状態。

コンピュータ処理では、「皿を準備する」とは、メモリー空間上に、作業用の領域を確保する操作を意味しています。そして、この作業領域に付けられた名札が『変数名』です。プログラム言語では、メモリー操作を、この変数名を使って記述しています。

『ヌル』は、変数名(名札)は準備しているけど、まだ、メモリー空間上に作業領域を確保していない状態を意味しています。
だから、この状態でプログラムを動かすと、操作対象が存在していないので、動作不定となって暴走します。「NullPointerException」の例外処理で停止します。

自慢じゃないけど、頻繁に起きているバグです。このバグは、動作状態に依存して流動的に変化するので、原因の追究が難しく厄介です。

つまり、『ヌル』は、プログラマーが、プログラム言語を操作している時に直面する問題です。ヌルの状態が、つまり、名前はあるけど実体が不定の状態が、いつもトラブルの原因になっています。
プログラムは、名前を使って組みますが、いざ、そのプログラムを実行してみると、その名前に対応する実体が存在していないからです。実体が存在していないので、操作を完了できないのです。

そして、哲学的には、皮肉にも、形而上学の問題です。
形而上学は、言葉と実体の対応関係が曖昧になって、動作不定に陥っています。「無」という言葉には「無」という実体が対応していません。そもそも、「無は実体が存在しない状態」という意味です。

ところが、言葉全体への先入観は、「言葉には実体が対応している筈だ。」です。「無」という言葉の定義と言葉への先入観が一致していません。矛盾しています。この矛盾を克服できなくて、形而上学は訳が分からなくっています。つまり、言葉と実体との対応関係を見失って、(哲学者は)バグで暴走しています。

「無の定義」と、「言葉自体への先入観」の間に生じている矛盾
項目説明
無の定義無は、「実体が存在していない」という意味です。
実体が存在していない状態、即ち、無の状態です。
言葉への先入観言葉には実体が対応している筈だ。
形而上学の矛盾「無の定義」と「言葉への先入観」が一致していません。
形而上学は、言葉の先入観に従って、無という言葉に対応している筈の「無」という実体を探し求めています。
ところが、言葉の定義は、「無は実体が存在していない状態。」です。
このような矛盾に突き当たって、動作不定に陥っています。



金剛般若経

このように、名前と実体との対応関係、そして、その言葉に抱いている先入観を明確に自覚していると、金剛般若経の発想も理解し易くなります。

金剛般若経では、「意識知覚している事象」と、「その事象に付けた名札」と、「その事象に抱いている先入観」の三つを区別しています。

例えば、イルカのイメージを例に取ります。

  1. 我々は、イルカのイメージを意識知覚することができます。
  2. そのイメージには、『イルカ』という名札が付いています。
  3. そして、そのイメージを、実体だと思い込んでいます。

でも、イメージは脳内部の事象なので、つまり、脳内部の存在なので、実体ではありません。『一切は空なり』です。

イルカ

イルカ
『イルカ』という言葉には、イルカというイメージが対応しています。
でも、そのイメージは実体ではありません。脳内部の事象です。

「実体だ」と、思い込みたい気持ちは理解できますが。

これを、金剛般若経は、

イルカは、イルカに非ず。故に、これをイルカと名づく。

と、表現しています

意識知覚している『イルカ』というイメージは、思い込んでいるような実体の『イルカ』ではありません。だから、この事象には『イルカ』という名前が付いています。
実体でないから、名前を付けることが出来ます。
言葉は脳内部の事象です。その言葉と結び付くものも、同様に脳内部の事象です。共に、同じ現象界(意識された世界)に属しているからこそ、結び付くことが出来ます。

金剛般若経の『空』の説明です。
この経典では、空をこのように説明しています。「意識知覚している事象」と、「その事象に付けた名札」と、「その事象に抱いている先入観」の三つの関係を厳密に表現しています。この為、哲学者は宗教的ドグマと錯覚してしまいました。彼らは、意識は感覚器官であるという知識と現実を知らなかった為です。「意識知覚している全ての事象は脳内部の事象である。実体では無い。」という現実を知らなかった為です。

要は、「意識知覚しているイメージは、実体ではない。」、「一切は空なり。」と、言いたいだけなのですけど。当時の言葉と知識では、これが限界だったみたいです。まだ、『空(シューニャ)』という便利な言葉が確立していなかった為です。
以後の仏教経典では、こんな回りくどい説明をしないで、『空(シューニャ)』の一言で処理しています。その為に、表現は直観的で単純化したのですが、その副作用として、『空』の現実から人々の心が離れてしまいました。空という言葉だけが、一人歩きを始めてしまいました。
『空』とい言葉には、『空性』という実体が対応している筈だという先入観の下、『空性』という真理の言葉だけが、一人歩きを始めてしまいました。

まとめ

以上の話は、別に理解して頂く必要はありません。コンピュータ業界のローカルな話題です。

ただ、金剛般若経の背景には、このような「名前と実体の関係」と、「名前への先入観」が潜んでいる事を、雰囲気として感じて頂ければ幸いです。

(「これじゃ、プログラマーが心身症やノイローゼになってしまうのは当たり前だ。哲学者よりも遥かにヤバい。」と感じて頂ければ、それで充分です。哲学者は現実逃避して哲学的空想に耽っていれば済みますが、プログラマーは現実に直面しています。バグ(誤動作)という冷酷な現実が待ち受けています。若いと、人間の都合と機械の都合の切り分けがうまく出来なくて苦労します。苦労しない人間は、逆に、トリッキーな人として精神科のお世話になります。正常な日常生活に支障を来して、社会的な落伍者になります。)

この名前と実体との関係は、通常は、当たり前の常識として、ほとんど自覚していません。実際、それを自覚した哲学書を、ほとんど読んだ事がありません。
哲学者は、「哲学は言葉を使って思索に耽る事だ。」と、錯覚しているからです。全てが、「言葉有りき。」から、始まっていると思っています。全ては、現実から始まっている事を理解していません。
悲惨なケースでは、「現実とは何か?」を言葉で定義する作業から始めています。「言葉有りき。」の先入観から離れる事が出来ないでいます。そもそも、大部分の哲学者は、言葉の世界以外の世界を知らないように見えます。

最初に戻る ( 空の哲学 )