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4.1 学習本能 


   学習行為自体は、本能である。

   個々の動物において、この学習がどの様にしてなされるのか、その詳しいことは分かりません。
   しかし、色々と調べていくと、そこにいくつかの興味深い学習本能が存在しているらしいことに気が付きます。そこで、それについて述べます。まず最初は、学習本能そのものの構造についてです。


   行動の為のプログラムの構造

   我々動物の行動のためのプログラムは、二つの部分より構成されています。その一つは、行動の動機や原因、目的となっている欲望です。もう一つは、その欲望を具体的に実行するための手順です。

   例えば、ライオンは、生きるために獲物を捕らえなければなりませんが、この『生きるために獲物を捕らえなければならない』というのが、もっと直接的に表現すれば、『腹がへったから獲物を捕らえて食べたい』というのが、行動の原因となっている欲望や衝動です。実際に獲物を狩る行動が、この欲望を具体的に実行するための手順です。


   本能的行動の段階では、当然のことですが、欲望と手順の両方が前もって遺伝的に与えられています。
   しかし、学習された行動の段階では、この両方ともが学習に依存しているのではなくて、手順だけが依存していると考えられます。そして、欲望の方は、この手順を組み込むための学習本能として振舞っていると考えられます。
   なぜなら、手順だけが依存している場合には、同種の個体は、同じ欲望を持ちますから、その基本的行動様式も同じになりますが、全てを学習に依存した場合、偶然に支配されてしまいますから、バラバラとなり、種の統一性を失ってしまうからです。
   何を学習したらいいのか、その目標が本能として与えられていないと、学習行動そのものが成り立ちません。

   例えば、我々人間やサルなどの高等動物の性欲を例にとれば、性欲そのものは、本能です。しかし、それを具体的に実行するための性行為は、学習に依存しています。だから、学習しなければ、うまくできません。動物園のゴリラなども、育児や性行為のテレビを見せて、これを行っております。

   この性欲は、我々人間の場合、小さな子供の頃より、その行動を支配しています。しかし、もちろん、子供たちが、セックスに対する直接の欲望を持っているとか、性と関連した快感を求めているなどと、主張をしているのではありません。
   性欲は、性と関連した学習欲として振舞っていると主張しているのです。この世には、男と女が存在することを、そして男と女では体の仕組みや社会的役割が異なっていることを、子供たちは、セックスに対する直接の自覚を持つよりもかなり早い時期に学習します。

   お医者さんごっこに熱中したのは、保育園や幼稚園の頃ですが、しかし、もちろんそれは大人たちの秘め事と同じではありません、秘め事は、セックスに対する直接の自覚と欲望の上に成り立っておりますが、こちらの方は、性に対する素朴な疑問の上に成り立っています。

   この性欲は、直接生殖とは結び付いていないが、しかし、性と関連した学習においても、重要な役割を演じています。
   我々が男と女の違いを意識するのは、セックスの時だけではありません。日常生活においても、明確に区別しています。
   我々の社会は、男と女から構成されており、その男の演じる役割と、女の演じる役割は異なっています。その様な分業の上に成り立っています。だから、子供たちは、この様な性と関連した社会性についても学習する必要があります。
   男の子は、男としての役割や振舞いを、女の子は、女としての役割や振舞いを学習し、普通の健全な社会では、この選択において混乱が生じることはありません。

   もっとも、現代のような高ストレスで、綺麗ごとの建前だけが一人歩きしている社会では、ここに著しい混乱が生じつつありますが。『男女平等、イコール、女が男の真似をする。』と勘違いされている現代社会は、本当に幸せなのでしようか。

   男には男の生き方が、女には女の生き方と幸せがあるような気がします。男と女では、物事を信じる時の心のメカニズムが異なっています。ヒットラーが、『大衆は女だ。』と言ったように、男は納得できるものを信じる傾向にあります。女は実感できるものを信じる傾向にあります。大衆は、女性と同じように、実感で行動する傾向にあります。物事を信じる時の心のメカニズムが異なっています。

   自らの心のメカニズムに逆らった生き方、即ち、綺麗事を振る回しているリベラルな生き方が、本当に、幸せなのでしょうか。リベラリストは、言葉のドグマの虜になっているだけではないでしょうか?。そのような無理な生き方は、何処かで破綻します。
   脊髄反射的に、言葉で欲望を正当化する事に夢中になるよりは、自らの宿命としての欲望そのものと向き合った方がいいような気がします。

    個体密度が高くなって、性欲が生殖と結び付かなくなるのは、種のレベルでの個体密度の調整メカニズムかもしれません。リベラリストにとっては、『自我の尊重』の象徴かもしれませんが。


   まとめ

   以上のように、この欲望は、学習において重要な役割を演じていると考えられます。
   もし、この様な欲望の働きがなければ、動物は、学習目標を失ってしまいますから、ネコはネコらしく、イヌはイヌらしく、人間は人間らしく、一人前の大人になることが不可能になってしまいます。

   この意味において、『人間は、小さい頃から性欲の支配を受けている。』、『行動の源泉は性欲である。』というフロイトの(評判の悪い)主張は正しいと思われます。そもそも、性欲と食欲を区別して、別物だと思い込みたい知識人たちの願望(欲望)が無謀なのです。

   生物は、一般に、環境条件が良ければ、栄養成長に向かい、悪ければ生殖成長に向かうだけなので、性欲と食欲を区別することは無意味だと思われます。

   育ち盛りの子供たちにとっての関心事は、「花より団子」です。自らの『生きる』という欲望が、性欲にではなくて、食欲に向かっています。

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