2020/05/14 うつせみ

数学は、思考形式学です。
ここでは、思考部品のISO規格化を目指します。

前半は現代数学のおさらいです。現状を整理しています。内容も常識的です。
後半が本題です。多分、始めて接する内容です。現代の哲学や科学の常識とは、かなり異なった内容になっています。

2.2 はじめに

数学は、人間という動物が持っている思考形式を、一般化、記号化した学問です。
ここでは、その中でも、人々が気が付いていない相互作用の思考形式の重要性について論じています。

現代の数学は、二つの顔を持っています。ひとつは、算術としての側面です。もうひとつは、思考形式学としての側面です。

本来、数学という学問は、我々人間という動物の持っている思考形式を、紙の上に記号化した学問であると考えられます。なぜなら、算術も、そのような我々の持っている思考形式のひとつに過ぎないからです。

数学が持っている2つの顔

数学が持っている2つの顔
数学は2つの顔を持っています。算術としての顔と、思考形式学としての顔です。

歴史的には、最初、数学は、数を計算する学問として発達してきました。
ところが、現代数学は、集合論や写像論に代表されるように、数を計算するだけでなく、我々の持っている思考形式を、記号化し処理する方向へ発展してきました。



思考形式学の必要性

自分が一連の作業を行うにあたって、一番悩まされたのは、世の中の多くの理論が、現実と数学を区別できていないことでした。

当人の向き合っている現実と、その現実を表現し理解する為に使っている数学形式が、区別されていなくて、それが、『数学的形式が作り出している先入観』なのか、それとも、『向き合っている現実』なのかを識別するのに、非常に多くの時間を費やしてしまいました。この2つが、混然一体となって、グチャグチャになっていたのです。
みんな、算術ばかりに夢中になっていました。

そこで、ここでは、この数学を整理して、規格化し、思考作業を合理化したいと思います。

即ち、数学を思考形式学として整備し直して、その規格化された思考部品を使って、様々な分野の理論を記述して行きたいと思います。向き合っている現実と、それを理解する為に使っている思考形式を、出来るだけ、分離したいと思います。

幸いな事に、我々人間という動物は、それ程、多種多様な思考形式(思考パタン)を駆使している訳ではありません。比較的少数の思考形式だけを、繰り返し、色々な現象を理解するのに使っています。従って、その規格化作業は比較的単純です。

もし、数学体系が、この様な思考形式学として完成されるなら、全ての分野の理論は、この数学という共通の思考部品を使って記述可能となります。

そして、ここにはじめて、学問的レベルでの産業革命が成立します。現代は、まだ研究室という名の徒弟制度のもとで、個人の勘と経験に頼って理論が作り出されているマニュファクチュアの時代です。今求められているのは、思考部品のISO規格化です。

数学は思考形式学です。

数学で使われている思考部品を規格化します。そして、全ての自然科学の理論を、この規格化された共通の部品を使って記述することを目指します。

向き合っている現実と、それを理解する為に使っている思考部品(数学)を分離します。

現状は、自分の専門外の分野を勉強しようと思ったら、まず、その分野の生活習慣に慣れることから始まるので、時間も掛かって、いつも、たいへんです。微妙な生活習慣が、なかなか理解できません。それらは、デフォルト(常識)として、往々にして、語られることがないからです。問題は、いつも、「その分野の専門家が、何を常識だと見なして、端折っているか」に翻弄される事です。

その道の専門家は、いつも、自分の興味ある事しか、話題にしていません。(その道の)常識は、話題にしません。せめて、その分野の現実と、その思考形式を分離してくれれば、楽なのですが。その当たり前だと思い込んでいる常識の中にこそ、(根本的)問題が潜んでいるので。それを抽出する為に、いつも、多大な時間を浪費しています。

例外もあります。その分野を立ち上げた創始者の文献を読むことです。
フロイトやアインシュタインの文献を読むと、自分の向き合っている現実を、くどいほど、これでもか、これでもかと論じていました。自分の見ている現実が、半信半疑で、不安感に苛まれた結果と思われます。「自分には現実がこう見えるが、ほんとうだろうか?」という不安感が、滲み出ていました。

だから、「(自分には)こう見えている現実を、こう理解した。」と、現実と思考形式の分離が明確でした。

最も効率のいい学習法は、その分野を立ち上げた創始者の文献を読むことでした。(確かにデータ的には、当然、少し古いですが、)そこには、彼らが向き合っていた現実と葛藤が、延々と、くどいほど、述べられていました。
注意)2番手、3番手は、ダメです。向き合っている筈の現実を無視して、形式主義に走っています。それ故、学者(オタク)受けは、いいのですが。

2.2.1 現代数学を支えている4つの基本概念

現代の数学は、数、群、集合、写像の4つの基本概念によって構成されていると考えられています。

2.2.2 数

数は、0,1,2,3,4... 等の数です。

この数という概念は、宇宙の真理ではなくて、我々人間という動物の認識の形式に依存しています。我々人間という動物は、現象を2つの概念間の相互作用として理解していると述べましたが、この認識の形式が、即ち、数の出発点です。この両端が、即ち、一個、2個の認識の基となっています。

数は、演算規則との関係で存在しています。『足し算、引き算』の計算規則からは、『整数』という数のグループが定義されます。『掛け算、割り算』からは、『少数』が定義されます。2次方程式を解く為には、『無理数』とか、『虚数』といった数の世界が広がります。
2次元以上の空間を表現する為には、『ベクトル』という数の概念が導入されています。この空間の計算規則として、マトリクス演算などがあります。

新しい演算規則が開発される毎に、新しい数の概念が広がっていきます。数は、あくまでも、人間という動物の『計算する。』という行為と結びついた存在に過ぎません。宇宙の真理とは、全く関係ありません。

数は、宇宙の真理と結びついた存在ではありません。
人間という動物の「計算する」という行為と結びついた存在です。

それ故、人間の行為が広がれば、それにつれて数の世界も広がります。

数直線の連続性?

不思議なのは、『数直線の連続性』の証明です。

紐と数直線の類似性から、或いは、微積分の正統性を主張する根拠として拘っているのだと思いますが、本来、『数』という概念と『連続』という概念は無関係です。『連続』という概念は、どのような演算規則と関りを持っているのでしょうか?。微積分の正当性を主張する為に必要なら、それが『連続』の数学的根拠(内輪の都合)に過ぎません。

『連続』という概念は、どのような演算規則と関係しているのか?

整数だって、定義の範囲内では連続です。『1』の次は『2』です。『1』の次が『3』で、途中の『2』が欠落して、不連続になっている訳ではありません。
『1』と『2』の間に、『1.1』や、『1.2』なる少数が存在している事に気が付くのは、新しい演算を定義した時です。つまり、掛け算、割り算を始めた時です。新しい演算が定義されて数の世界が広がった時に、始めて、昔の数の世界が不完全だったことに気が付きます。

数の概念は、新しい演算が定義されたら、その定義に準拠して、拡張していくものです。整数、少数、実数、無理数、虚数、ベクトル 。。。。と。『連続』は、どのような演算規則に準拠しているのでしょうか?。

数は真理ではありません。思考部品のひとつに過ぎません。言霊(ことだま)信仰ならぬ数霊(かずたま)信仰に根拠はありません。現代の数学者は、「数には宇宙の真理が隠されている筈だ。」という数霊信仰を持っています。「言葉には摩訶不思議な霊力が宿っている筈だ。言葉には魂が宿っている筈だ。」という言霊信仰と同じです。

思考の前提は、仮定より成り立っています。それは、数学とて例外ではありません。ところが、数学の世界では、思考の出発点となる仮定を、勿体ぶって、『定理』と呼んでいます。あたかも、真理であるかのような印象操作を行っています。数霊信仰の賜物です。正直に『仮定』と表現して現実と向き合えばいいのに。数学者は、コンプライアンスが欠如しています。現実から目を逸らすことは、問題をややこしくするだけです。厚化粧の年増女は嫌われます。

このような、本来、証明出来ないものを、証明出来たと錯覚している背景には、世の常として、トートロジーが隠れています。『数直線の連続性』の証明は、トートロジーの可能性が極めて大です。証明過程のどこかに、『連続』の同義語が使われていると思われます。
例えば、『切断する。』という概念は、『連続(繋がっていること)』を前提とした概念です。「切断できるから、連続だ。」と言う主張は、トートロジーです。演算行為とは関係がありません。連続しているから、その連続を切断できるのです。連続していなけれは、最初から切断されている状況ですから、わざわざ切断することは意味を成しません。

「我こそは。」と思われる方は、ぜひ、挑戦してみて下さい。『数直線の連続性の証明』のトリックを解いてみて下さい。ポイントは、次の3点です。

  1. 数は演算行為によって、その存在が定義されている。
  2. 『連続』なる概念は、どのような演算行為によって定義されているのか?
  3. 証明過程に、演算行為と関係のない概念が使われていないか?そして、それがトートロジーになっていないか?

数は宇宙の真理ではありません。
数霊(かずたま)信仰に根拠はありません。
数直線の連続は、実在性の問題では無くて、定義の問題です。ただし、演算行為とは無関係の。

ゼロと空の哲学

数学の『ゼロ(zero)』と仏教の『空』は、古代インドで同じ時期に成立しました。共に、サンスクリット語で、『シューニャ』と、同じ言葉で呼ばれていました。実際、両者とも、「空っぽ」とか「何もない」という意味合いで使われています。

歴史的には、『シューニャ』が、西のアラビアに渡って数学の『ゼロ(zero)』になり、東の中国に渡って仏教の『空』になったみたいです。

空の哲学から見たゼロの話を、「8.1 空とゼロと形而上学」で取り上げています。ゼロの哲学的背景が明らかになるので、数学関係の方にも興味があるかもしれません。

空の哲学の立場では、「ゼロは、『存在しない状態』が存在している」、即ち、「『無』が存在している状態。」と理解しています。この(無の)存在状態を表現した記号です。

現代数学の常識、「何も存在しない状態」を表現した記号とは、大きく意味が異なっています。現代数学では、ゼロは、『無』を意味しますが、空の哲学では、「『無』が存在している状態。」、即ち、『無』の存在を意味します。それ故、この(無の)存在状態を、(存在している)記号『0(zero)』で指し示すことができると理解しています。

もし、「存在していない」なら、記号『0(zero)』は、指し示す対象を失ってしまいます。記号に対応する『存在』を指示していないので、思考作業そのものが成り立ちません。

このような思考作業が破綻した状態を、コンピュータプログラムの世界では、記号(変数名)が、実際のメモリー領域を指し示していない状態、即ち、「ヌルポインター」と呼んでいます。このような状態でプログラムを実行すると、(変数名に対応する)操作対象が存在していないので、操作出来なくて、動作不定に陥ります。通常は、暴走するか、「NullPointerException」の例外処理が発生してプログラムは止まります。

実際、哲学者の『無』に関する形而上学の思考作業も、動作不定の状態に陥っています。「NullPointerException」のジレンマに苛まれています。

ちなみに、コンピュータプログラムの世界でのゼロは、記号(変数名)が指示しているメモリー領域にゼロの値が書き込まれた状態を意味しています。ゼロとヌルは、よく似ていますが、「名前が実体を指示しているか」という点で、根本的に異なっています。ゼロは指示していますが、ヌルは指示していません。

ヌル:変数名が実際のメモリー領域を指示していない状態。
ゼロ:変数名が指示している領域に、ゼロ(無)の値が書き込まれている状態。

このコンピュータプログラムの(ゼロに関する)考え方は、空の哲学と同じです。ゼロ(無)が存在している。つまり、記号(名前や言葉)は存在を指示している。その存在状態がゼロ(無)になっていることを意味しています。ソロバンのゼロの桁と同じです。ソロバンのゼロの桁は存在しています。その桁の珠(たま)の状態が、ゼロの値になっているだけです。
現代数学の主張、つまり、「(指し示すべき存在が)何もない状態」とは大きく異なっています。コンピュータプログラムの場合、記号は存在を指示しています。

言葉と実体(存在)の対応関係
言葉 or 記号実体との対応関係備考
言葉一般言葉は、実体(存在)を指示している世間一般の常識
無 or ゼロ
(先入観)
何も存在していない状態。
指示すべき「実体」が存在していない状態。
哲学者数学者の先入観
ヌル(computer)変数名が、メモリー領域を指示していない状態。プログラムの世界
ゼロ(computer)変数名が指し示すメモリー領域に、
ゼロの値が書き込まれている状態。
プログラムの世界
ゼロ(そろばん)ゼロの桁は存在している。
その桁の珠(たま)がゼロの値になっている状態。
そろばん
シューニャ(ゼロ)「無の存在」を指示している。
無が存在している状態
空の哲学、インド数学
世間一般の先入観として、言葉は、(ポインターとして、)実体を指示しているです。(化肉化、つまり、言葉は、肉という実体を纏っている筈です。)

「シューニャ」は、古代インドのサンスクリット語で、(現代語の)「ゼロ」又は「空」を意味します。
空の哲学のゼロと、コンピュータプログラムのゼロは同じ意味です。共に、記号が存在(実体)を指示しています。その実体の存在状態が「何もない状態、即ち、ゼロの値」になっています。
そろばんのゼロと同じ意味です。そろばんは計算に必要な桁が前もって準備されています。ゼロの桁は、その桁の珠(たま)の状態がゼロの値になっていることを意味しています。
ゼロの桁自体が存在していない訳ではありません。ゼロの桁は存在しています。即ち、無は存在しています。

一方、哲学者や数学者のゼロと、コンピュータプログラムのヌルは同じ意味です。「ゼロは、(存在が)何もない状態」なので、実体が存在しない状態であり、記号が存在(実体)を指示していません。ヌルも、変数名がメモリー領域(実体)を指示していない定義未定の状態です。
日本語や英語の数の表現と似ています。例えば、数字の「101」は、「百一、one hundred one」と言葉で表記されます。十の位はゼロなので、言葉で表記されません。当たり前ですね。存在していないのだから、言葉で指し示す事は不可能です。その為の言葉も存在していません。そろばんの場合と「存在していないもの」の扱いが大きく異なっています。

ここに、形而上学のジレンマが潜んでいます。哲学者が形而上学を理解できない原因があります。

言葉一般に対する先入観は、「言葉は実体を指示している」です。「ゼロ」や「無」という言葉も、(言葉が存在する限り、)何らかの実体を指示していると思っています。だから、哲学者は、無という言葉が指示しているの「無の実体」を探し求めています。
ところが、無という言葉の定義は、「何も存在がない。」です。指し示すべきの実体の存在を否定しています。

『言葉に対する先入観』と、『無という言葉の定義』が矛盾しています。哲学者は、この矛盾に気が付かないまま、(無という言葉が指示している筈の)無の実体を捉えようと果敢に挑み掛かっています。先入観と定義の矛盾の間で、いつも右往左往しています。先入観に従って思考すれば定義に躓き、定義に従って思考すれば先入観に躓いています。これの無限ループです。ジレンマに陥っています。

ちなみに、インド数字は、「無が存在している」ので、その存在を「シューニャ(ゼロ)」という言葉で指し示しました。コンピュータのゼロの定義と同じように、(言葉一般に対する先入観と定義の間で)論理的矛盾が生じていません。さすが、哲学のインドですね。現代の哲学者が解決できない問題を、遥か昔、2000年前に解決しています。後世の人々が、それを理解できなかっただけです。欲望と先入観のせいで。

注)下記の記号(言葉)は同じ意味です。
実体 = 存在     (名詞と動詞の違い)
ゼロ = 無      (記号を使用している分野の違い)
言葉 = 記号 = 変数名 (記号を使用している分野の違い)



ゼロは偶数か奇数か?

なお、空の哲学的には、「ゼロは偶数でも奇数でもない。」、即ち、「定義の範囲外」と理解されます。

偶数奇数は、存在している状態を表現した整数「1,2,3,4...」に対して定義された概念です。
一方、『0(zero)』は、存在していない状態を表現した記号です。定義の範囲外です。
(存在を前提とした)偶数奇数という定義を、その定義が及ぶ範囲外の『0(zero)』に適用して、一体何の意味があるのでしょうか。定義の及ぶ範囲外に、その定義を適用しても無意味です。そこは、その定義が成り立たない特異点です。

これ以外にも、数学の世界では、『0(zero)』は色々な場面で、困った問題を引き起こしています。例えば、割り算で分母がゼロとなる場合です。「1/0」は値が不定となります。存在しないもので割る行為自体が意味をなさないからです。

身も蓋もない話をすれば、
もし、様々な手法を使って偶数奇数を論ずるなら、それは、ただ単に、新たに「偶数奇数を再定義している。」行為に過ぎません。
定義がそうなら、「ゼロは偶数とみなせる。」だけの問題です。数学上の概念は、全て、仮定(定義)の問題です。(数霊信仰の)真理の問題ではありません。

「ゼロは偶数か奇数か」の話の根底には、「数は真理だ。」という錯覚と先入観があります。数直線の連続性の問題と根は同じです。いつも、仮定(定義)と真理を、ごちゃ混ぜにしています。

ちなみに、カジノのルーレットでは、「0」、「00」は、偶数でも奇数でもないと見なしています。偶数や奇数に掛けても、支払われることはなく、ディーラーの総取りになるみたいです。
空の哲学と同じ見解です。

2.2.3 群

群は、足し算や掛け算などの演算規則を一般化した概念です。

数学の分野では、『所変われば品変わる』で、色々な演算規則が現れますが、しかし、その演算規則の記述形式上の性質は非常に似ており、それらを総称して群と呼んでいます。

演算規則の記述形式上の性質は同じであり、その規則そのものを、一般化、形式化したものが『群』です。

2.2.4 集合

集合は、共通の性質を持ったものの集まりを論じる学問です。

数を数える学問とは少し毛色が異なっています。集合の考え方は、初等教育で教えている集合論と、数学者たちが普段使っているそれとでは、大きく異なっています。

初等教育の教科書を読み返すと、目からウロコ、その新鮮さに驚かされてしまいます。「えっ!集合って、そういう意味だったの?」と。余りにも、意外な説明に、心が少しの間、止まってしまいました。

教科書では、まず、現実世界が存在して、その現実世界を分類する手法として、集合論が教えられます。例えば、赤い服を着た人の集まりとか、帽子を被った人の集まりと言った分類手法です。当たり前ですよね。

ところが、数学者たちは、逆に、これから行なわれる数学的思考の土台、即ち、架空の思考空間を定義する手法として集合を使っています。『世界創造』の手段として、集合を使っています。まず、最初に集合を定義して、これから行う数学的思考は、この集合内で行われることを宣言しています。

既に存在している現実世界を分類する為に使うか、思考作業の為の前提条件となる数学的架空世界を定義する為に使うか、ターゲットになっている世界の捉え方が、正反対になっています。

教科書の集合論では、世界は既に存在していることを前提としていますが、数学者の集合論は、これから、その世界を作ります。つまり、(神になったつもりで、思考空間という)世界を作る為に、集合を利用しています。(前提条件としての)世界の捉え方が真逆になっています。

これには、ほんと、心が止まるほど、驚かされてしまいました。向き合っている筈の現実と、それを理解する為に使っている筈の思考形式の関係が逆転していたからです。自分は、(何の疑問も抱かず)数学者と同じ先入観で捉えていました。

ここでは、時として、集合を、数学者と同じように、これから行なわれる思考作業の世界と、その思考範囲を定義する為の手法として使います。即ち、(現実世界を分類する為の手法ではなくて、)思考空間と、その思考範囲を定義する為の手段として使っていきますので注意して下さい。

集合という思考形式の使われ方
使用場所前提と使われ方
初等教育の集合論世界は、既に、存在している。
既に存在している現実世界を、共通の性質に基づいて分類する手法。
数学者の集合論これから、世界を作ります。
何もないところに、数学的思考空間を定義する手法、又は、思考範囲を限定する為の手法。
思考作業の前準備として、思考空間を定義する手法として使われています。
初等教育と数学者では、世界(思考空間)の捉え方が真逆になっています。
初等教育では、世界は既に(絶対的真理として)存在しています。
数学者は、これから世界(思考空間)を作ります。つまり、思考空間を定義し、その思考範囲を限定する手段として「集合」という道具を使っています。

この違いには、本当に驚きました。
「記号」と「記号が指示している筈の対象」との対応関係に、ここでも、しつこく拘っています。

2.2.5 写像

写像は、関数を一般化した概念です。
常に、集合とセットで運用されます。

ふたつの集合間の対応関係を論じます。例えは、集合Xを、集合Yに投影する関数は、下記のように記述されます。

記述例1   y = f (x)
記述例2   f : x -> y

記述例1の場合は、数学の世界では一般に『関数』と呼ばれています。
集合間の対応関係を、演算式で定義した場合には、この記述形式が使われます。例えば、「y = x + a 」のような一次関数の場合です。

記述例2の場合は、『写像』と呼ばれています。
集合間の対応関係を抽象的に論じたい場合は、この記述形式が使われます。具体的に、演算式で定義できない抽象的な話をする場合などに使います。

これ以外に、『置換テーブル』と呼ばれている記述形式もあります。
集合間の対応関係を、集合の元ひとつひとつ列挙していく方式です。例として、置換暗号(シーザー暗号、乱数表)などがあります。シーザー暗号の場合、文字を別の文字に置き換えて、解読し辛くしています。乱数表の場合は、文字コードを乱数表に従って、別のコードに置き換えています。やり方は、原理的にはシーザー暗号と同じですが、数学的には、よりスマートになっています。

写像は、使われ方によって呼び名も変わります。あくまでも、一般的傾向ですが。

呼び名使われ方
写像集合間の対応関係を抽象的に論じたい場合、『写像』と呼ばれます。
関数集合間の対応関係を演算式で定義した場合、『関数』と呼ばれます。
置換テーブル集合間の対応関係を、いちいち列挙した場合、『置換テーブル』と呼ばれます。
前提条件として、集合は離散値で構成されていることが前提です。連続している場合、無限に列挙することは不可能な為です。

注意)呼び名は、あくまでも一般的傾向です。厳密な定義はありません。

写像

写像
写像は、2つの集合間の対応関係を論じたものです。

関数記号『f』は、いわゆる人間の『投影する』とか『対応させる』という行為に対応しています。関数(写像)は、哲学的には、人間の『行為』を一般化、抽象化した概念とみなしても差し支えありません。

写像(関数)の哲学的定義: 人間の「対応させる」という行為を一般化、抽象化した概念。

人間という動物の「生きる」という行為との接点です。この接点で、「写像」という言葉は、(人間という動物の生存と)結びついています。全ての哲学的問いは、最終的には「生きる事」との接点を探し求めています。哲学者は自覚していませんが。

2.2.6 理論を作るときに、必要になる思考形式の種類は?

注意)この内容は不完全です。完全な内容は、まとめで再度取り上げます。

一般に、理論を作る場合は、『集合』と『写像』の概念を使えば、定性的理論の記述が可能となります。
物事を定量的に論じる場合は、『量』を扱う必要があるので、数と計算が必要になります。さらに、『』と『』の概念も必要になります。

理論構築に必要な思考部品の数

理論構築に必要な思考形式の数
物事を定性的に論ずるだけなら、『集合』と『写像』があれば、かなりの事が論じれます。
定量的に論ずる場合は、『数量』とその関係を論ずる必要があるので、『』と『』が必要になります。

注)この内容は不完全です。

2.2.7 相互作用の思考形式

これ以降の話は、全く新しい内容です。始めて聞く内容だと思います。

相互作用の思考形式も、思考部品として必須です。

数学が思考形式学として機能する為には、『数、群、集合、写像』の4つの思考形式だけでは不充分だと考えています。これ以外に、人間という動物は、相互作用の思考形式も多用しています。従って、相互作用の思考形式も付加する必要があります。

この相互作用の思考形式を、思考作業の最初に使うと、現象全体の見通しが非常に良くなります。

集合と同程度に重要な概念です。

相互作用の思考形式は、現代の数学者が幾何学と呼んでいるものを、抽象化した概念です。
これを使えば、空間という概念を使わない全く新しい発想の幾何学体系が展開可能です。現代の数学者が論じている幾何学が、これの(条件を限定した)一部である事が理解できると思います。
物理学を『空間』という概念を使わないで記述する為に、この新しい発想の幾何学体系の開発を急いでいます。

我々人間という動物は、物事を、物と物の対立、又は、相互作用として理解しています。この思考形式は、平凡な日常生活から、哲学、物理学に至るまで、広く使われています。

その一般的な表現形式は下図のようになります。物と物との相互作用(関係)として表現されます。

相互作用の思考形式

相互作用の思考形式
人間という動物は、物事の関係を、2つの物の間で働いている相互作用と理解しています。



男と女の関係

世俗的な例として、男と女の関係があります。
人間は、男と女の関係を、恋愛関係(恋愛相互作用)として理解しています。男と女は引き合い、男同士、女同士は反発し合います。そして、その力の強さは、心の距離と体の距離に翻弄されて、摩訶不思議な様相を呈しています。

注)もちろん、人間なので、多少の例外(?)はあります。現代のような高ストレス社会では、この「多少の例外」が無視出来なくなっています。

男と女の関係

男と女の関係
男と女は引き合い、男同士、女同士は反発し合います。

恋愛相互作用は、引力と斥力の二相から構成されています。

この関係は、丁度、その相互作用の形式的性質が、磁石や、電気(電荷)と同じなので、しばしば、男と女の関係は、磁石に例えられます。

磁石の場合、プラスとマイナスは引き合い、プラス同士、マイナス同士は、反発しあいます。本質的に異質な物同士は引き合い、同質な物同士は反発し合います。

磁石や電荷(電磁相互作用)の関係

磁石や電荷(電磁相互作用)の関係
プラスとマイナスは引き合い、プラス同士、マイナス同士は反発し合います。

引力と斥力の二相から構成されています。
その構成形式は、恋愛相互作用と同じです。それ故、男と女の関係は、しばしば、磁石に例えられます。

男と女の関係が、しばしば磁石に例えられるのは、物理現象としては全く異質であるにも関わらず、それを理解する為の相互作用の思考形式の性質が、非常に、良く似ているからです。人間の頭が、いい加減な為ではありません。思考形式の類似性の為です。

相互作用の思考形式の重要性は、この他愛もない世俗的例の中にあります。相互作用の性質が似ていると、「似た現象」「同じような現象」として、人間は類推してしまいます。



現代哲学の認識論の思考形式

現代の哲学者は、認識論を、主観と客観の対立として理解しています。やっぱり、相互作用の思考形式を使って理解しています。

現代哲学の認識論の思考形式

現代哲学の認識論の思考形式
哲学者は、認識論を主観と客観の対立(関係)と理解しています。
でも、図解すると、その思考形式の構造は、相互作用の思考形式そのものです。

当人は、認識行為の真理を探究しているつもりかもしれませんが、現実は、ただ単に、相互作用の思考形式を使って、物事を理解しようとしているだけです。その範囲内の思考活動に過ぎません。
この動物が持っている習性(相互作用の思考形式)に、無自覚に振り回されています。動物の性(さが)に、翻弄され過ぎです。



価値観の思考形式

哲学者や思想家が拘って止まない『価値観』も、(悲しい事に)この相互作用の思考形式の上に成り立っています。

価値観は、両極端より構成されています。
例えば、『いい』という価値は、対極にある『わるい』という反価値とのコントラストから成り立っています。価値観は、一般に、「きれい、きたない」とか、「明るい、暗い」、「高い、低い」といった両極端のコントラストから構成されています。

価値観の思考形式

価値観の思考形式
「いい、わるい」に代表される価値観は、『価値』と、その対極にある『反価値』とのコントラスト、又は、対立の上に成り立っています。所詮、それは、比較の問題、即ち、両天秤の問題に過ぎません。

「いい、わるい」は、絶対的な問題ではなくて、あくまでも、相対的問題です。見る立場、見る方向によって、臨機応変に変化してしまうものです。見る立場を変えれば、逆転してしまう場合もあります。その根底に蠢いているものは、欲望の正当化です。欲望を正当化したいから、言葉を振り回して、この『いい』を正当化しようと悪戦苦闘しています。

価値観の天秤

価値観の天秤

価値観の天秤
「いい、わるい」の価値観は、『いい』という価値と、『わるい』という反価値との比較の上に成り立っています。それ故、『わるい』から離れた絶対的『いい』は存在せず、『いい』から離れた絶対的『わるい』も存在しません。
でも、人々は、自己の欲望を正当化したいので、絶対的『いい』を見つけようと四苦八苦しています。(そのような欲望の正当化の無意味さに、早く気付かれる事を希望します。)

悲しい事に、価値観の思考形式も、今話題にしている相互作用の思考形式の一種です。両端の比較とバランスの上に成り立っています。右側があって左側が存在します。同時に、左側があって右側が存在します。相互に関連し合って、始めて成り立っています。
人々が追い求めている(欲望を正当化してくれる)片側だけの絶対的価値は存在しません。絶対的正義も、絶対的善も、絶対的真理も存在しません。(綺麗なものに拘っている)人々の欲望が、そのような幻想を求めているだけです。

言葉と、その言葉の裏側に潜んでいる欲望への拘りから離れて、冷酷に目の前の現実を観察されることを希望します。目の前の現実は、原因と結果の因果関係から構成されています。



マクスウェルの電磁気学の思考形式

マクスウェルの電磁気学は、電荷と電磁場との電磁相互作用について記述しています。

この相互作用は、プラスとマイナス、即ち、引力と斥力の二相から構成されます。プラスとマイナスの間では引力が働き、プラス同士、マイナス同士の間では斥力が働きます。重力相互作用に比べたら、遥かに、力の強い相互作用です。

でも、宇宙全体などのマクロな世界に適用した場合は、プラスの電荷とマイナスの電荷が中和されて、殆どマクロ効果を生じません。この為、太陽系や銀河系、宇宙全体などのマクロな物理現象を理解する場合は、ほとんど、無視しても差し支えのない相互作用になります。

一方、ミクロな現象に注目したら、電荷の一個一個が際立ってくるので、支配的な相互作用となります。分子間引力や、原子の周期律表などは、この電磁相互作用のミクロな性質から作り出されています。
分子や原子の化学的性質は、最終的には、この電磁相互作用によって生み出されています。

マクスウェルの電磁気学の思考形式

マクスウェルの電磁気学
マクスウェルの電磁気学は、電荷と電磁場との電磁相互作用について論じた理論です。

電磁相互作用は、引力と斥力の二相を持ちます。
このような『物』と『場』の相互作用を扱った理論を、物理学では「場の理論」と呼んでいます。近代以降の物理学理論は、ほとんどが「場の理論」の思考形式で組み立てられています。



相対論の思考形式

アインシュタインの相対論は、重力現象を、物質と重力場の重力相互作用として記述しています。

アインシュタインの相対論(近接作用の理論)

相対論の思考形式
相対論は、物質と重力場の重力相互作用について論じた理論です。

重力相互作用は、引力のみの単相です。
この理論も、物質と重力場の重力相互作用について論じているので、「場の理論」の一種です。

重力相互作用は、電磁相互作用に比べたら遥かに力が弱い相互作用です。しかし、引力の単相のみなので、電磁相互作用のように中和されること無く加算されるだけです。この為、銀河系や宇宙全体などのマクロな現象に適用した場合は、巨大な力となって、支配的な相互作用となります。つまり、この宇宙は、重力相互作用によって作り出されているように見えます。

この相互作用の問題点は、様々なマクロ効果が生じていることです。

現代の物理学は、基本的には、人間サイズの物理現象を記述することから出発しました。それを、広大な宇宙全体や、微小な素粒子の世界に拡張してきました。この為、日常の常識と極限の世界の間に誤差が生じて、あたかも、不可思議なマクロ効果やミクロ効果が発生しているように見えてしまう現実に直面しています。

物理学の世界の広がり

物理学の世界の広がり
物理学は、最初、日常生活の範囲内の現象を記述する事から始まりました。(例:ニュートン力学)

ところが、時代が進むにつれ、もっと広い範囲の物理現象を扱うようになりました。
マクロな銀河系とか、その銀河の集団で構成された宇宙全体とか。反対に、ミクロな原子とか、その原子を構成している素粒子の世界を記述するようになりました。

これらの日常生活と大きく乖離した世界では、日常の常識が通用しません。(見かけ上の)様々なマクロ効果やミクロ効果に直面します。現代物理学は、今、これに苦しんでいます。

例えは、相対論では、「空間は曲がっている。」とか、「時間と空間は相対性を持っている。」などと、日常の常識に著しく反した不可思議な主張していますが、これは、宇宙の真理ではなくて、日常の常識を極限の世界に拡張した為に生じてしまった見かけ上のマクロ効果です。
日常の常識が、そのままでは通用しなくなったので、意味不明のテクニカルな概念を導入して、観測データと合うように補正した結果です。

これと同じ事がミクロな世界でも起こっています。量子力学では、「不確定性原理」とか、「物質と波の二重性」の主張を行っていますが、これも同様に、日常の常識をミクロな極限の世界に拡張した為に生じてしまった見かけ上のミクロ効果です。

諸悪の根源は、日常の常識を使って極限の世界を理解しようとした無理にあります。
このような弊害は、天動説の末期にも起こりました。「地球は宇宙の中心」と思い込んでいたので、惑星の不可解な動きが理解出来ず、「周転円」なる極めてテクニカルな概念を導入して、無理矢理、理解していました。
これでも、観測データと、そこそこは合っていたみたいです。



今西錦司の『棲み分け理論(場の理論)』

今西錦司は、生物進化の現象を、『』と『生活の場』の相互作用と理解していました。

今西錦司の棲み分け理論

棲み分け理論

種と種の相互作用
今西は、生物進化の現象を、『種』と『生活の場』との相互作用(棲み分け)と理解していました。
当然、『種』と『種』の間でも相互作用が生じています。この相互作用を、今西は『棲み分け』と呼んでいました。

当人には自覚がありませんでしたが、近代物理学同様、場の理論の発想が使われていました。マクスウェルの電磁気学やアインシュタインの相対論と、その思考形式がよく似ていました。『種』と『種を取り巻いている環境』との相互作用として、進化を論じていました。近接作用の理論でした。
哲学的には、残念ですが、今西の方が、物理学者よりも、場の理論としては、遥かに優れていました。場を、静的なものではなくて、動的な『自己増殖するもの』として捉えていたからです。物理学者、形無しです。

ちなみに、今西の主張する『棲み分け理論』は、物理学の排他律の問題と同一でした。机の上に置いた2つのコップは、同時に同じ場所に存在することはできません。同じ場所に無理に置こうとすると、既に有るコップは、押し退けられます。排他されます。
それと同じように、夫々の種は、この生活の場を共有できない。互いに排他的にしか存在できない。、即ち、「棲み分けている。」と主張していました。

生活の場でも、排他律が成り立っているらしいことは、非常に、興味深いことでした。このことは、生物進化を、排他律の問題として論ずることが可能なことを意味しているからです。

今西の棲み分け理論を物理学的に解釈すると、生命現象は、『生命』と『生命場』との『生命相互作用』と理解できます。

生命現象を作り出している相互作用を、物理学の流儀に従って、『生命相互作用』と呼び、その生命相互作用から作りだされている場を、『生命場』と呼びました。重力場、電磁場からの類推です。
今西の用語を使えば、『生命場』は『生活の場』のことです。なお、その物理的性質は、まだ、未知です。それを解くことが、今後の課題です。現代科学のドグマが通用しないので、困難な作業になります。

この『生命場』内で、排他律が成り立っています。

生命現象の物理学的解釈

生命現象の物理学的解釈
生命現象は、『生命』と、『生命場』との『生命相互作用』と理解されます。

生命にとって自己を保存(生きる)とは、生命相互作用を通して、自己と生命場との相対関係を、自己にとって都合がいい、ある一定の状態に保ち続けることを意味しています。

例えば、動物は自己にとって最適な温度帯に留まり続けようとします。
わざわざ用もないのに、暑すぎる場所や、寒すぎる場所に移動して、自己を危険に晒すことはありません。自己を取り巻く近傍の場との関係が、自己保存に都合が良くなるように行動します。つまり、最適な温度帯に移動します。

この『生命』と『生命場』との相対関係を、生命にとって都合がいい一定の状態に保つ為に生命の側が積極的に変化する行為を、生物学では『適応行為』と呼んでいます。
適応行為を生物学者が認めている事実は、(自覚はしていないが、本音では)生物の主体性を認めているみたいです。

『生命場(生活の場)』は、温度や水などの『物理環境』と、食物連鎖に代表される他の生物たちとの関わり合いによって構成される『生物環境』の2つの独立変数から構成された抽象的2次元空間を構成します。
今西は、この抽象的2次元空間を、『生活の場』と呼んでいます。「この抽象的2次元空間内で、種は互いに排他的に存在している。」、つまり、「2つの種が、同時に同じ生活の場を共有することはない。互いに生活の場を排他的に棲み分けている。」と主張します。

思考形式上は、生命現象は、この生命場(生活の場)の様々な変動に対する自己保存系の振る舞いとして記述可能です。つまり、制御工学の理論を使って記述可能です。

生活の場と棲み分け
(生命場の構造)

生活の場と棲み分け
生命が存在している場は、『物理環境』と、『生物環境』の2つより構成されます。つまり、数学的には、2つの独立変数から構成された2次元空間を形成します。

この生命場(生活の場)内で、種は互いに排他的に存在している。つまり、棲み分けている。」と、今西は主張しています。種と種の間でも、相互作用が働いています。これが、棲み分けを生み出しています。

生命現象は、この生命場の変動に対する自己保存系の振る舞いに関する現象です。
生物進化の現象も、生命現象の一部ですから同様です。種のレベルの自己保存系の環境変化への適応行為(自己保存)です。

注)この生活の場は、(適応放散で)種が増えたり(絶滅で)減ったりするので、自己増殖と自己衰退を繰り返します。つまり、場全体のサイズが変動します。これを、世間では環境変化と呼んでいます。

ちなみに、電磁相互作用や重力相互作用の場合は、メンバーが増えたり減ったりしないので、場のサイズ自体は普遍です。今のところ、そのような現象は見つかっていません。将来、見つかる可能性はありますが。

超重要)この生命場は、排他律が成り立っているようです。

参考までに、地球の生態系における自己保存系の階層構造について述べます。

最も下位の自己保存系は、細胞です。
細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。
その個体の集合によって、種レベルの自己保存系が構成されています。
その種の集合によって、この地球の生態系が構成されています。

人間の体は、細胞の集合によって構成されています。
そして、その人間は、ホモサピエンスという種のいち構成員です。
生殖という行為によって、ゲンプールを共有しています。そして、そのゲンプールから個体が生み出されています。
(人間は個体レベルの自己保存系なので、ついつい個体に拘っていますが、そのような拘りは、生物学的には無意味です。哲学者や生物学者の自我への拘りは、だだひと言「知らんがな。勝手にオナってろ!」です。)

生物進化の現象は、このような階層構造の中で、種のレベルの自己保存系の様々な環境変化への適応行為です。特殊な現象では無くて、生命現象としては極平凡な環境変化への適応行為の一種です。
(それ故、形式的には、自己の保存される過程を、制御工学の理論を使って記述可能です。)

地球の生態系における自己保存系の階層構造

自己保存系の階層構造
地球の生態系における自己保存系の階層構造です。
生物進化の現象は、このような階層構造の中で、種のレベルの自己保存系の環境変化への適応行為です。

なお、単細胞生物については、データ不足の為、曖昧です。

なお、現代の正統派進化論は間違っています。いや、正しいとか間違っているとか以前の問題です。これは、自然科学の理論ではありません。疑似科学です。関わるだけ時間の無駄です。

これに代わる新しい進化論は、こちらを参照下さい。今西の発想を参考にして、生命現象そのものを理解しています。物理学と生物学を統合する準備を行っています。そして、生命現象の一部として、生物進化を論じています。



遠隔作用の理論と近接作用の理論

物理学理論は、相互作用の記述形式で分類すれば、2種類存在しています。

物と物との相互作用を論じた『遠隔作用の理論』と、物と場との相互作用を論じた『近接作用の理論』です。

古典物理学は遠隔作用の理論が多く、近代物理学は、近接作用の理論が多くなっています。近接作用の理論は、別名、『場の理論』とも呼ばれています。

遠隔作用の理論

遠隔作用の理論は、遠く離れた『』と『』との相互作用を論じます。その代表が、『ニュートン力学』です。
ニュートン力学では、リンゴと地球、或いは、地球と太陽のように、遠く離れた物と物の間に働く重力相互作用(万有引力)について論じています。

ニュートン力学の思考形式(遠隔作用の理論)

ニュートン力学の形式
ニュートン力学は、遠く離れた物同士の間で働いている重力相互作用(万有引力)について論じています。
ニュートンのリンゴ

ニュートンのリンゴ
ニュートンはリンゴと地球が引き合っていること、即ち、リンゴが落ちることから、力学を思いつきました。



近接作用の理論

近接作用の理論は、『』とその物を取り巻いている『近傍の場』との相互作用を論じます。その代表が、『マクスウェルの電磁気学』や、『アインシュタインの相対論』です。今西錦司の『棲み分け理論』も近接作用の理論(場の理論)です。

マクスウェルの電磁気学の思考形式(近接作用の理論)

マクスウェルの電磁気学
マクスウェルの電磁気学は、電荷と、その電荷を取り巻いている近傍の電磁場との電磁相互作用について論じています。
アインシュタインの相対論(近接作用の理論)

相対論の思考形式
相対論は、物質と、その物質を取り巻いている近傍の重力場との重力相互作用について論じています。
今西錦司の棲み分け理論(近接作用の理論)

棲み分け理論
今西は、生物進化の現象を、『種』と、それを取り巻いている近傍の『生活の場』との相互作用(棲み分け)と理解していました。

【物の性質】

物の性質は、他の物との関わりによって、始めて発現します。

他の物との関わりを無視した絶対的な物の性質というものは存在しません。関わりが無ければ、現象も生じないからです。現象が生じなければ、物の性質も発現しません。

相手が変れば、その関わりも変わりますから、そこから発現する現象も異なってきます。即ち、相互作用が物の性質を決めています。
原子論の先入観への拘りを捨てることを希望します。

思考作業の最初に相互作用の思考形式を使うと、物の性質の背景が明らかとなって、現象全体の見通しが非常に良くなります。<< 超重要

2.2.8 相互作用の思考形式の数学での位置づけ

相互作用の思考形式は、現代の数学者が幾何学と呼んでいるものを、抽象化した概念です。

相互作用の思考形式は、上で述べたように、現象を記述する為には必須です。思考作業の出発点です。この相互作用の思考形式を使って、現象の枠組みを記述すると、それ以後の作業が、非常に見通しがよくなります。現象の骨格が解り易くなります。

この相互作用の思考形式は、現代の数学者の方々が、幾何学(空間)と呼んでいるものを、一般化、抽象化した概念です。ユークリッド幾何学でもない、非ユークリッド幾何学でもない、位相幾何学でもない、空間という概念を使わない全く新しい発想の幾何学体系を構築可能です。厳密な論理を展開した場合、位相幾何学と内容が重複する場合も結構あります。

たとえば、地図の4色問題や、それを3次元に拡張したシャボン玉の5色問題とでも呼ぶべき問題も論ずることが可能です。そして、それらが、全て、物理学者が、排他律、即ち、排他性原理と呼んでいる問題と同一であることが理解できます。地図の4色問題は、物理学的には、排他律の問題です。

相互作用の思考形式と排他律は、表裏一体の関係にあります。と言うよりは、一枚のコインの裏と表の関係です。同じものが、見る方向によって、違って見えているに過ぎません。

この新しい幾何学は、数学者の方々にとっては、受け入れがたい主張だと思います。なぜなら、幾何学とは、空間の性質を研究する学問だからです。この新しい幾何学体系は、その空間という概念を使わないで、幾何学体系を構築するので、根底から、その前提を覆してしまいます。

新しい幾何学の定義 :相互作用の思考形式を論理的に展開したもの。
注)空間という概念は、その特殊な例である。



なぜ、『空間』を使わない幾何学体系が必要か?

このような空間という概念を使わない幾何学体系が必要になるのは、物理現象を、『時間、空間、物質』という概念を使わないで記述していく必要がある為です。

現代の物理学者は、物理現象を、『時間、空間、物質』という概念を使って記述しています。このような思考の枠組みで理解しています。そして、それらは、物理的実在物だと信じています。我々の存在しているこの宇宙は、『時間、空間、物質』という実在物で構成されていると思っています。

ところが、それらは実在物ではありません。『時間、空間、物質』は存在する実体ではありません。我々の存在しているこの宇宙は、そのような実在物によって構成されている訳ではありません。

これは、認識の形式です。脳内部の情報処理の形式です。

我々は生きる為に、外界を知覚しなければいけませんが、『時間、空間、物質』という形式は、その現象の認識された形式です。現象の構成形式でありません。我々人間という動物は、このような形式を使って、現象を認識しているに過ぎません。それは、脳が持っている情報処理の形式です。

認識するという行為の写像表現

認識するという行為の写像表現
我々動物は、外部感覚器官から得られた情報を処理して、脳内部の仮想空間にマッピングしています。この仮想空間の構造は、『自己、時間、空間、物質』という四つの概念から構成されています。この原則は、犬も人間も共通です。それ故、犬と人間の間で共通のゲーム、つまり、鬼ごっこが可能になります。

『自己、時間、空間、物質』の正体は価値観です。『いい。わるい』の価値観と同じ性質を持ちます。それ故、これら四つの項目は、互いに相対的関係にあります。つまり、相対性を持ちます。時間と空間は、アインシュタインが主張するように、相対性を持ちます。
ちなみに、『自己』は、幾何学における座標原点の事です。

現代物理学の理論は、全て、この形式の上に成り立っています。物理現象を、『自己、時間、空間、物質』という形式に投影しています。

現象の真の姿は不可知です。外界を知覚した瞬間に、それは、パルス信号に変換されています。脳に流入しているのは、感覚器官で発生した電気信号です。つまり、我々は、知覚された範囲内においてしか、物事を理解することができません。この認識の形式は、生物進化の過程で獲得されたものです。従って、それは、動物の生きるという行為とのみ結びついて、最適化されています

日常生活の範囲なら、感じたまま行動しても、それで、不都合を感じることはありません。実際、眼の前のコップを、何の疑いもなく、手で確実に掴むことが出来ます。動物進化5億年の実績によって、最適化されているからです。そのように脳がプログラムされているからです。

目の前のコップを手で掴めるのは、コップがそこに実在しているからではありません。脳が最適な制御システムを構成しているからです。実在性の証明ではなくて、最適化の証明です。
信じたくない気持ちは分かりますが。。。。

この為、日常生活の範囲内の物理学だったら、素朴な唯物論を使って、物理現象を記述しても、問題になることはありませんでした。『時間、空間、物質』を、実在物だと見なしても差支えありませんでした。

ところが、現代物理学のように、平凡な日常から大きく乖離した物理現象を扱うようになってくると、多くの不具合が生じてしまいました。その日常生活の最適性の範囲を超えてしまったからです。

原子よりも、遥かに小さな素粒子の世界とか、太陽系よりも遥かに広大な銀河系とか、その銀河の集団で構成された宇宙全体とかは、今までの動物進化5億年の中では経験してこなかった世界です。従って、最適化もされていません。だから、日常世界を延長して、理解しようとすると、多くの不具合に突き当たってしまいました。

その不具合を回避する為に、様々なテクニックが導入されてきました。ちょうど、天動説末期に、惑星の不可解な動きを理解する為に、周転円のテクニックを導入したように、相対論は「時間と空間の相対性」や「曲がった空間」を主張しますし、量子力学は「物質と波の二重性」や「不確定性原理」、「物理量の不連続性」といった意味不明のテクニックを導入しています。
現実は、ただ単に、「日常の常識が通用しなくなった。」に過ぎません。

もし、これ以上、物理学を発展させようとしたら、生物の宿命を乗り越えていく必要があります。「時間、空間、物質」という動物進化5億年の実績で獲得した情報の処理形式を乗り越える必要があります。自らの宿命とサガ(性)に向き合い、空間という概念を使わない幾何学体系を構築し、それを使って物理現象を記述していく必要があります。

相互作用の思考形式を使えば、そのような空間という概念を使わない幾何学体系と、新しい物理学が展開可能です。現在、その基礎となる思考モデルを準備中です。

あっ!、その前に、大切な事があります。
不用意に、『時間、空間、物質』の否定された状態は、想像しないで下さい。
死の恐怖の虜になります。

現代の哲学レベルでは、このストレスには耐えれません。これに耐える為には、空の哲学が必要です。

2.2.9 理論構築に必要な思考形式 まとめ

理論を構築する為には、相互作用の思考形式も必要です。

理論を構築するのに、必要な思考形式(思考部品)は、纏めると下図のようになります。定性的レベルだと、集合写像相互作用の3つが必要です。定量的レベルだと、数量を計算する必要があるので、さらに2つ追加して、も必要です。

経験的に分かっている事は、自然科学の理論を作る作業の場合、これら五つの思考形式の内、最初に使うのは、『相互作用』の思考形式です。現象の全体像と、骨格が明確になります。哲学的話になりますが、(脳内部での)存在と認識の形態が明確となります。

次に『集合』です。思考の範囲、即ち、思考空間とその範囲を定義します。「これから行う思考作業は、次のような集合で定義された範囲内で行われます。」と、思考空間を宣言します。

その次が『写像』です。上で定義した集合間の対応関係を論じます。原因と結果の因果関係を記述するのにも、この『写像』の発想を使います。
要するに、現象の流れ、即ち、時間に関連した要素を表現する目的で使用します。中には、時間に関係のない静的対応関係を論ずる場合もありますが、自然科学の場合、多くが、時間の流れに関連した動的対応関係を論じています。時間の流れと共に、刻々と変わる対応関係を論じています。多くの場合、写像が、時間を含む関数になっています。

定量的に扱える程に、関係が詳細に分析出来たら、『数』『群』が必要になります。現象を定量的に記述する為です。

この順番で思考形式を使うと、効率良く自然科学の理論を作ることが可能となります。

理論を構成する思考部品について

理論を構成する思考部品
定性的理論を作る為には、集合写像相互作用の3つの思考部品が必要です。
定量的理論を作る為には、量を表現する為に、の2つの思考部品を追加する必要があります。

なお、相互作用の思考形式は、現代の数学者が、『幾何学』と呼んでいるものを抽象化した概念です。

理論を作る場合、次の順番で思考部品を使うと比較的上手くいきます。

(1)最も大切な事は、思考部品を使う前に、現実に目を向ける事です。思考部品は、あくまでも、現実を理解する為の手段に過ぎません。まず、現実に目を向けなければ、話は進みません。

(2)次に、相互作用の思考形式を使って、現象の全体像を捉えます。現象全体を支配している物理的作用の因果関係が理解し易くなります。現象の全体像を理解する為には、非常に大切な部品です。

(3)三番目が、集合と写像を使って、因果関係を記述することです。

【思考部品の使用順番】

現実に目を向ける) ⇒ 相互作用の思考形式 ⇒ 集合 ⇒ 写像 ⇒ 数 ⇒ 群



なお、数学の定義は、下記のように纏めることが出来ます。

【数学の定義】

数学は思考形式学である。

人間が持っている思考パタンを、記号化したものである。
従って、もし、これが完備されたら、全ての理論は、この共通部品を使って記述可能になる。即ち、ここで始めて、思考部品の規格化と共通化が可能になる。
(思考部品のISO規格化)

注)相互作用の思考形式も、人間という動物が持っている重要な思考形式のひとつです。幾何学の構築には欠かせません。

ここで述べる理論は、全て、定性的レベルであって、定量的レベルには達していません。従って、使用する思考形式は、『集合+写像+相互作用』の3種のみです。

できるだけ、論じようとしている現実と、その現実を理解する為に使用している思考形式を分離したいと思います。そのように、心がけて、論理を展開していきたいと思います。



参考)現代数学の常識に即した表現

「相互作用の思考形式」は、現代の数学者が、「幾何学」or「空間」と呼んでいる概念を抽象化したものです。

従って、上の「理論を構成する思考部品について」の図は、下記のように表現すれば、現代数学の常識に最も近い概念になります。必ずしも正確な表現ではありませんが、凡その傾向は掴めます。

「空間」の概念は、哲学的には「存在」に関する思考形式です。この「存在」が、幾つの独立変数で構成されているかによって、空間の次元が決まっています。「存在」が五つの独立変数で記述されていれば、それは、五次元空間内の現象だと理解されています。

参考)思考部品についての現代の常識に即した表現

思考部品についての現代の常識に即した表現
「相互作用の思考形式」は、現代の数学者が、「幾何学」or「空間」と呼んでいる概念を抽象化したものです。
従って、「相互作用」を「幾何学」or「空間」に置き換えれば、(現代数学で理解可能な)最も近い概念になります。多少、正確さは犠牲になりますが。

2.2.10 理論を作るという行為の数学的表現

さっそく、『自然科学の理論を作る』という人間の行為を、上で述べた思考部品を使って表現してみます。ここで使用する思考部品は、集合写像の2つです。

『自然科学の理論を作る』という人間の行為は、物理現象の数学的形式への投影であると理解されます。従って、集合と写像(関数)の思考形式を使って表現すれば、次のように記述されます。
言葉で表現した例と、数学らしく記号で表現した例を列挙します。

自然科学の理論を作るという行為の関数表現

表現の種類表現式
写像を言葉で表現理論:現実 -> 数学的形式 への投影
関数を言葉で表現数学的形式 = 理論(現実)
関数を記号で表現y =f(x)
y :数学的思考形式
x :現実{物理現象}
f :理論{投影するという人間の行為}

物理学の場合は、大雑把には、物理現象の幾何学体系への投影であると理解されます。実際の認識論は、もう少し複雑になりますが。

物理学の理論を作る行為

理論を作る行為
物理学理論を作るという人間の行為は、形式的には、物理現象を数学的形式へ投影する行為を意味しています。

ニュートン力学は、物の運動を、ユークリッド幾何学に投影したものです。

ニュートン力学の思考形式

ニュートン力学の思考形式
ニュートン力学は、物理現象をユークリッド幾何学に投影したものです。
正確には、重力相互作用を投影したものです。

アインシュタインの相対論は、非ユークリッド幾何学に投影したものです。

アインシュタインの相対論の思考形式

アインシュタインの相対論の思考形式
アインシュタインの相対論は、物理現象を非ユークリッド幾何学に投影したものです。
正確には、重力相互作用を投影したものです。

これ以上、物理学を発展させる為には、日常への拘りを捨て、物理現象を、空間という概念を使わない、全く新しい発想の幾何学に投影する必要があります。その発想のヒントは、相互作用の思考形式にあります。相互作用の思考形式を使えば、『空間』という概念を使わない新しい幾何学体系の構築が可能です。扱える問題は、位相幾何学と重複する部分が結構あります。

新しい物理学の思考形式

新しい物理学の思考形式
現代の物理学が突き当たっている壁を乗り越える為には、『空間』という概念を使わない新しい発想の幾何学体系に投影する必要があります。



動物の認識するという行為の写像表現

参考までに、動物の認識するという行為の写像表現を述べておきます。

我々動物は、物理現象を脳内部で処理した結果を、『自己、時間、空間、物質』という形式に投影しています。この形式を使って、自分の身の回りの物理現象を統合して理解しています。
つまり、外部感覚器官から得られた情報を処理して、その結果を『自己、時間、空間、物質』という形式にマッピングして、外部の状況を、統一して理解しています。

その関係を、今までの発想で図解すると、下図のように表現されます。

認識するという行為の写像表現

認識するという行為の写像表現
我々動物は、外部感覚器官から得られた情報を処理して、脳内部の仮想空間にマッピングしています。この仮想空間の構造は、『自己、時間、空間、物質』という四つの概念から構成されています。この原則は、犬も人間も共通です。

『自己、時間、空間、物質』の正体は価値観です。『いい。わるい』の価値観と同じ性質を持ちます。それ故、これら四つの項目は、互いに相対的関係にあります。つまり、相対性を持ちます。時間と空間は、アインシュタインが主張するように、相対性を持ちます。
ちなみに、『自己』は、幾何学における座標原点の事です。

現代物理学の理論は、全て、この形式の上に成り立っています。物理現象を、『自己、時間、空間、物質』という形式に投影しています。

なお、『自己、時間、空間、物質』の詳細な説明は、次の章「2.2.12 意識知覚された世界の構成形式」を参照下さい。

2.2.11 新しい認識論の枠組み

以下の話は、意識感覚器官の知識を前提にしています。現代では、まだ、未知の知識です。発想に、違和感を感じたら、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。

なお、このようにして作成した物理学理論は、このままでは、人間には理解できません。
我々人間が理解できる思考形式は、『時間、空間、物質』だからです。空間の枠組みの中でしか、物事を理解できません。そこで、これを人間の理解できる形式に翻訳する必要があります。平たく言えば、全く新しい発想の認識論の枠組みが必要となります。

我々は、物理現象を認識した結果、意識された世界(『時間、空間、物質』の世界)を作り出しています。
一方、物理学理論は、物理現象の数学的形式への投影です。

古典物理学のように、日常生活と密着したレベルの物理現象を扱う場合、物理現象を、直接『時間、空間、物質』という意識知覚された世界(情報処理の形式)に投影すれば充分でした。物理現象と、それを記述する数学的形式、意識知覚された世界を同一視しても問題ありませんでした。

ところが、近代物理学のように、日常生活と遥かに乖離した物理現象を扱うようになると、単純に『時間、空間、物質』に投影しても、うまく理解出来なくなってしまいました。多くの不具合が発生してしまいました。

このような不具合を克服する為には、新しい認識論の枠組みが必要になりました。

物理現象』とそれを理解する『数学的形式』、そして、『意識知覚された世界(情報処理の形式)』を、明示的に分別して、『数学的形式』から、『意識知覚された世界』への翻訳(投影)作業が必要になりました。

認識:『物理現象』を『意識された世界』に投影する行為。
理論:『物理現象』を『数学的思考形式』に投影する行為
翻訳:『数学的思考形式』を、『意識された世界』に投影する行為。(人間が理解できるように)

認識論は、これら三つの行為で構成する必要があります。

理論と認識の新しい枠組み

理論と認識の新しい枠組み
事象は、物理現象界数学的形式意識知覚された世界の3つより構成されます。
意識知覚された世界は、『時間、空間、物質』という枠組みから構成されています。

理論を作る行為は、物理現象の数学的形式への投影です。
認識行為は、物理現象から意識知覚された世界を作り出す行為です。

数学的形式と意識知覚された世界が大きく異なっている場合、数学的形式から意識知覚された世界への翻訳作業が必要になります。

注)物理学において、このような認識論の枠組みが必要なかったのは、意識知覚された世界と数学的形式を同一視していた為です。つまり、日常生活の範囲内の物理現象を扱ってきたからです。
しかし、日常から大きく乖離した物理現象を扱う現代の相対論や量子力学の場合は、辻褄が合わなくなってきています。この為、『時間と空間の相対性』や 『 物質と波の二重性』などの極めて不可解でテクニカルな概念を導入して強引に理解しています。『時間、空間、物質』という認識された形式が、そのままでは通用しない限界の為です。

重要)意識とは何か?

意識は感覚器官の一種です。その知覚対象は、脳内部の事象です。
「意識する」とは、「意識感覚器官で知覚する」ことを意味しています。
我々知的生命体は、意識知覚からも、(視覚や聴覚同様)『行い』を生じさせています。
この認識論は、この知識を前提としています。



現代物理学の認識論

現代の物理学が採用している認識論は、ここまで、複雑ではありません。と、言うよりは、認識論らしき認識論を持っていません。もっと、素朴です。
これら三つも物、即ち、『意識された世界』、『物理現象』、『数学的思考形式』を同一視しています。

物理現象 = 数学的思考形式 = 意識された世界

そもそも、現代物理学では、これら三つの概念を識別していません。素朴に同一視しています。同一視しているので、認識論も必要ありません。三つの概念を区別する必要もありません。素朴な同一視で通用しています。



【行為1】唯物論の先入観

まず、唯物論の先入観から、我々は実体を認識していると思っています。『時間、空間、物質』は、実在物だと思っています。
現代の物理学は、このような唯物論の先入観の上に成り立っています。

我々の意識知覚している世界は、動物進化5億年の実績で裏打ちされているので、日常生活の範囲内なら、最適化されています。何も不具合を実感する事はありません。目の前のコップは、何の疑念を抱かずに手で掴むことができます。
それ故、『意識された世界』と『物理現象』は、同一だと思っています。実際にも、日常生活を記述したニュートン力学の範囲なら、素朴な唯物論でも困ることはありません。


【行為2】数学的形式の作成

次に、『意識された世界』の構成形式に合わせて、『数学的思考形式』、即ち、幾何学体系を作成しています。

ユークリッド幾何学は、このようにして作成されました。それ故、我々の直観と一致しています。
相対論を記述する非ユークリッド幾何学は、対象になっている物理現象が、日常生活と乖離している為に、少しだけ、直観と一致せず、奇異な印象を受けます。


【行為3】理論の作成

そして、その幾何学体系を使って、物理現象を記述しています。
つまり、物理現象を、これらの数学的形式に投影しています。当人には、この自覚が余りありませんが。

これら三つの行為を繋げた結果は、極めて単純です。
『意識された世界』、『物理現象』、『数学的思考形式』の間に差異はありません。同一の物に見えます。実際にも、素朴に同一視しています。

この関係を図で表現すると、下記のように単純になります。

『意識された世界』=『数学的思考形式』=『物理現象』

現代物理学の認識論

現代物理学の認識論
『意識された世界』、『数学的思考形式』、『物理現象』は、同一の物だと思っています。区別していません。極めて素朴です。

それ故、「物理学理論を作る作業は、物理現象を数式を使って表現することだ。」と思っています。認識論らしい認識論がありません。唯一の認識論は、「この三つは一体だ。だから、区別する必要はない。」です。

現代物理学では、認識論らしい認識論は必要ありません。素朴な唯物論があれば充分です。この三つを区別することなく、同一視しているからです。

この単純な発想でも、日常の物理現象を扱っている限り、問題となることはありませんでした。動物進化5億年の実績で最適化されていた為です。

ところが、現代物理学は、日常生活とは遥かに隔たった物理現象を扱うようになってきました。この為、我々が認識している『意識された世界』の構成形式、即ち、『時間、空間、物質』の枠組みが通用しなくなってきました。これらは、実在物では無くて、脳内部の情報の処理形式に過ぎなかったからです。

今現在、それに起因する様々な不具合に直面しています。この問題を克服する為には、同一だと思っていた三つのもの、即ち、『意識された世界』、『数学的思考形式』、『物理現象』を、キチンと分離して、この三者間の関係を論ずる必要があります。全く新しい枠組みの認識論が必要です。

注)相対論や量子力学の背景にある認識論

相対論や量子力学も、ニュートン力学と発想は基本的に同じです。この三つを同一視しています。
だだ、これだけだと、現実の観測データと合わないので、様々なテクニカルな概念、『時間と空間の相対性』とか、『曲がった空間』とか、『物質と波の二重性』とか、『不確定性原理』などを導入して補正しています。
これらの理論群が、日常の直観に反して不可解なのは、この現実に合わせる為のテクニカルな補正が原因です。ちょうど、天動説末期の『周転円』のように。

2.2.12 意識知覚された世界の構成形式

意識知覚された世界は、『自己、時間、空間、物質』の4つの要素から構成されます。

我々動物は、下図のような枠組みで物理現象を理解しています。脳が持っている動物進化5億年の実績に裏打ちされた情報処理の形式です。

これらは、価値観としての構造を持っています。それ故、相対性を持っています。例えば、『時間』と『空間』の相対性のように。相対論が主張するように、『時間』と『空間』が相対性を持つのは、これらが、価値観を構成している為です。
物質』と『時空(時間と空間の融合物)』も、価値観ゆえに相対性を持っているようです。『質量』は『エネルギー(位置と速度の変化)』に転換されます。エネルギーは、時間と空間の入れ物の中で、存在位置や存在状態を変化させる原因です。質量の変化は、存在状態の変化に繋がります。我々は、その変化の原因をエネルギーと呼んでいます。

意識知覚された世界の構成形式

意識知覚された世界の構造
意識知覚している世界(情報処理の形式)は、『自己、時間、空間、物質』の4つの要素から構成されます。
自己は、幾何学的には、座標原点を意味します。

この構成形式は、犬などの動物と基本的に共通です。
それゆえ、人間と犬の間で共通のゲーム(鬼ごっこ)が成り立ちます。

演劇は、(観客(自己)の目から見て)舞台の上で、役者が演じています。物理学は、(座標原点を中心として)時空の入れ物の中で、物質が動き回っています。
通常、自己(座標原点)は、デフォルトなので、思考過程から省略されています。

自己は演劇を楽しんでいる観客自身を意味してます。幾何学的には座標原点を意味しています。時間と空間は舞台(入れ物)を意味しています。物質は、その入れ物の中で演じている役者を意味しています。犬や人間などの動物は、こうのような思考の枠組みで、物事を理解しています。それ故、犬と人間は、共通のゲーム(鬼ごっこ)を楽しむことが出来ます。
共通の先祖と、同じ進化の歴史を持っているからです。

演劇の世界と物理学の世界の対応

物理学の世界演劇の世界
座標原点観客(自己)
時間、空間舞台(入れ物)
物質役者

各種物理学理論と投影している幾何学体系の関係を一覧表に纏めます。

理論と投影

理論投影元投影先
ニュートン力学ものの運動ユークリッド幾何学 へ投影
アインシュタインの相対論ものの運動非ユークリッド幾何学 へ投影
新しい物理学物理現象空間という概念を使わない新しい幾何学体系へ投影

現在、数学的形式から、意識知覚された世界への翻訳作業を行っています。でも、まだ、目途は立っていません。問題の洗い出しを行っているところです。多方面から、様々な可能性を試しています。少しづつ、もつれた糸が解れてきました。

参考1 地図の4色問題と排他律

数学上の地図の4色問題は、物理学的には排他律の問題です。

原子核の周りを回っている複数の電子が、夫々、異なった軌道上に存在している事と同一の問題です。

「二次元平面内で、互いに接する領域(国)を仮定した場合、それらの領域が互いに異なった存在として識別できる為の存在状態は、何種類あれば充分でしょうか」
という問題です。

答えは、4色、つまり、四つの存在を仮定すれば充分です。
相互作用の思考形式が、潜在的に抱えている問題です。

互いに、相互作用によって、異なった存在として認識出来る為には、夫々、異なった存在状態になっている必要がある為です。もし、同じ存在状態になっていると、これは別の存在として認識出来なくなります。同じ物になってしまいます。

例えば、『A、B、C』三つが存在している。そして、これらの三つは互いに相互作用していると仮定します。『AとB』、『AとC』、『BとC』の間で相互作用が生じます。

Aを起点にして考えてみます。
Aから見た相互作用、『AとB』、『AとC』に注目します。もし、このふたつの相互作用がAから見て同じなら、BとCの存在を区別をすることができません。同じ物に見えてしまいます。区別する為には、異なった相互作用、異なった存在状態になる必要があります。

例えば、ヨーロッパの地図で、スイスとドイツとオーストリアの三国に注目します。この三国は、互いに国境を接しています。スイスから見て、ドイツとオーストリアが異なった国になる為には、異なった色、異なった存在状態になる必要があります。もし、同じ色で塗ったら、ドイツとオーストリアの区別が付かなくなって、同じ国に見えてしまいます。

この問題は、B、Cを起点にした場合も起こります。結果、三体問題では、異なった存在状態が三種類必要になります。

これに、自分自身も含めます。自分から見てという起点を追加すると、もうひとつ、自分自身という存在状態が必要になります。合計四つの存在状態(四色)が必要になります。

二次元平面は、三角形の組み合わせで表現できます。それら二次元平面を構成している全ての三角形に、この三体問題を適用します。
ある三角形の頂点に注目した場合、自分を取り巻くように、三つの三角形の頂点と結ばれます。

結果、自分も含めて、四つの存在状態が必要になります。

排他律と地図の四色問題

排他律と地図の四色問題
「S」は自分自身と仮定します。
四つの存在「S,A,B,C」が、互いに排他律が成り立って異なった存在として認識される為には、四つの存在状態が必要です。存在状態を色で表現すれば四色必要です。

「S」から見て、「A,B,C」が異なった存在として認識される為には、「A,B,C」三つは異なった存在状態にある必要があります。もし、「A,B」同じだと、「A」と「B」異なった存在として識別できないからです。
当然、自分自身も存在する必要があるので、自分の存在状態も「A,B,C」と異なっている必要があります。合計、四つの存在状態、即ち、四色が必要です。

思考を二次元空間に限定します。
新たな存在「X」を仮定します。この「X」を何処に配置しても、接している存在は常に三つです。例えば、「S」の外側に配置しても、接しているのは「A,B,C」の三つです。だから、四色あれば充分です。この場合、「S(色)」= 「X(色)」と、「S」と「X」が同じ存在状態になっても、排他律上は何も問題もありません。
この事情は、ユークリッド空間のように開いた空間でも、球の表面のように閉じた空間でも同じです。

この「地図の四色問題」を、三次元空間に拡張したのが「シャボン玉の五色問題」です。
思考を三次元に限定すれば、この空間内で排他律が成り立つ為には、五つの存在状態を仮定すれば充分なようです。即ち、シャボン玉の五色問題です。

このような排他律は、素粒子の世界で支配的な現象となっています。
互いに各素粒子が異なった存在として区別される為には、異なった存在状態になる必要があります。有名なのは、原子核(陽子、中性子)の周りを回っている複数の電子の軌道です。全ての電子は、原子核から見て、異なった存在状態(軌道とスピン)になっている必要があります。同じ存在状態になったら、違った存在として区別できない為です。この為、後から侵入した電子は、異なった存在となる為に、外側の軌道に押しやられます。(内側は満席なので。)

排他律は、存在が確立される為の最低条件です。互いに異なった存在状態になる必要があります。我々の存在しているこの宇宙は有限である。従って、排他の存在状態も有限となる。結果、物理量は、あたかも、不連続になっているように見える。物理量の不連続性と宇宙の有限性の間には、非常に密接な関係があるみたいです。

地図の四色問題が、物理学の排他律の問題と同一だと見なす所以です。

ちなみに、今西錦司の『棲み分け理論』も、この地図の四色問題と同じ排他律の問題でした。ただ、今西の扱っている空間は、ユークリッド空間ではありませんでしたが。もっと、抽象化された空間(?)でした。正確に理解する為には、『空間』という概念を使わない全く新しい幾何学体系を構築する必要がありました。

シャボン玉の5色問題

ちなみに、地図の4色問題を、3次元に拡張したらどうなるでしょうか?

イメージ的には、お風呂場のシャボン玉の小さな泡の塊を想像してみて下さい。泡の塊のひとつひとつのシャボン玉に異なった色の気体を封入すると仮定します。その時、「互いに、接しているシャボン玉には、同じ色の気体を封入してはいけない。」というルールを課します。
その時に必要になる色の数は何色でしょうか?

答えは、どうも、5色らしいのです。即ち、『シャボン玉の5色問題』です。

これも、やはり同様に、相互作用の思考形式と排他律の問題です。
このことは、我々の存在している宇宙が、

  1. 自由度を持っている事。
  2. その自由度は三つ

即ち、この宇宙を構成している空間の自由度が三次元であることと密接に関係しているみたいです。
(厳密には、『時間、空間、物質』は存在する実体ではありません。脳内部の情報の処理形式です。)

でも、詳細は、まだ分かりません。

この問題に挑戦したいのですが、今の自分には残念です。その前に、積み上げる必要がある理論群が膨大にあります。やればやるほど、(積み上げるべき)積み木の数が増えてしまいます。仕方ないですね。現代の科学体系を、根底から全て作り替える必要があるので。(一歩一歩、永遠に続く不毛の努力に耐えながら、)優先順位を付けて処理しています。