2021/07/20 うつせみ

夢は夜見るものです。
では、いったい、どこの誰が何を見ているのでしょうか?
そもそも、『見る』とは、いったい何を意味しているのでしょうか?

ここでは、人間の脳の構造と夢の関係を、フロイトの夢判断に沿って考察します。
意識感覚器官と夢の関係を、願望充足過程として説明しています。
現代科学には無い全く新しい知識です。

注)この話は意識感覚器官の知識を前提にしています。先に、こちらを参照頂くと、誤解が少なくなります。

5.4 はじめに

夢について考えてみます。
この夢現象と、人間の脳の構造との間にある関係を、フロイトの夢判断に沿って考察してみます。

夢は夢みるものであって、それは夜睡眠中に体験します。そのとき当然、まぶたは閉じているわけですから、その夢みている視覚情報は、眼から流入したものではありません。

では、夢は、いったい、どこの誰が何を見ているのでしょうか。そもそも、我々にとって、「見る。」という行為は、あるいは、「体験する。」という行為は何を意味しているのでしょうか。

眼で見る事だけが、「見る。」という行為の意味なのでしょうか?

意識とは何か?

「夢とは何か?」を論ずるには、「意識とは何か?」を理解する必要があります。
現代においては、まだ、未知の新しい知識について述べる必要があります。

意識は、生物学的には、感覚器官の一種です。「意識する。」とは、「意識感覚器官で知覚する。」ことを意味してます。その知覚対象は、脳内部のイメージです。

フロイトは、その著書『夢判断』の中で、意識について、次のように述べています。

では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。

それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。

この組織はそのメカニックな諸性質に於て知覚諸組織Wに似ていると考えられ、それゆえ性質によって興奮させられるが、変化の痕跡を保持することができない。

つまり記憶力を持たない。知覚組織の感覚器官をもって外界に向けられている心的装置は、それ自身が意識の感覚器官にとっては外界であり、この関係にこそ意識の目的論的な存在理由がある。

出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社

フロイトは、「意識は、脳内部の事象を、知覚対象とした感覚器官である。」と、主張しています。
原始仏教も同様の主張をしています。

雪夜叉が言った。「何があるとき世界は生起するのか?何に対して親愛をなすのか?世間の人々は何ものに執着しており、世間の人々は何ものに害(そこな)われているのか?」

師(ゴータマ)は答えた。「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親愛をなし、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに害われている。」

(雪夜叉)「それによって世間が害われる執着とは何であるのか?お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてくだされ。どうしたら苦しみから解き放たれるのであろうか。」

(ゴータマ)「世間には五種の欲望の対象があり、意(意識の対象)が第六であると説き示されている。それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。」

出典「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 中村元訳 岩波書店

  1. 世間には、「眼、耳、鼻、舌、身」の五感に根ざした五種類の欲望の対象がある。
    (世間には五種の欲望の対象があり)
  2. これ以外に、六番目の意識(意識知覚)に根ざした欲望の対象もある。
    (意(意識の対象)が第六である)
  3. これら六つの感覚器官が知覚世界を作り出している。
    (六つのものがあるとき世界が生起し)
  4. これら六つの知覚と、そこから生み出されている六種の欲望への愛着、執着が迷いや苦しみの原因になっている。
    (六つのものに対して親愛をなし、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに害われている。)
  5. それ故、これら六つの知覚への拘りから離れるなら、迷いや苦しみからも解放される。
    (それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。)

と、述べています。

意識を、五感同様、感覚器官の一種と捉えていました。
仏教の目的は、迷いや苦悩からの解放です。(教団の欲望を正当化する為の)深淵なる教義体系や知識体系の構築ではありません。だから、迷いや苦悩の原因と、その因果関係を説明する一部として、(間接的に)『意識知覚』にも触れています。

「意識知覚された情報が『行い』の原因になって、様々な迷いや苦しみを生み出している。だから、この大元の原因に目を向けることが大切だ。」と述べています。

原因と結果の因果関係に目を向けるなら、知覚刺激が原因となって、眠っている欲望を揺り動かして活性化させます。活性化した欲望は、『行い』を生じさせます。『行い』は『結果』を生みます。この原因と結果の因果関係を観察することが大切です。因果関係は、悲しいことに、連鎖しています。

因果関係:知覚 -> 欲望の活性化 -> 行い -> 結果

六根(六種の知覚) -> 六種の欲望を活性化 -> 行い(拘り、執着) -> 結果(迷い、苦悩)


意識知覚からも、『行い』を生じさせています。これが、迷いや苦悩の原因になっています。
それ故、仏教では「六根清浄」と唱えます。(六種の知覚が揺り起こしている六種の)欲望を鎮めることが大切だと説きます。
原始仏教は、人間の心を支配している因果関係を、淡々と指摘しているだけなので、(現代の哲学や心理学よりも、遥かに)合理的です。

仏教の詳細は、『空の哲学』を参照下さい。

ここでは、この意識器官と夢の関係について論じています。

ここでの話題
夢を見ている主体は、この意識感覚器官です。眼ではありません。
その知覚している世界は、脳内部に作り出された信号空間(仮想現実)です。

ここでは、この意識器官と夢の関係について論じています。
夢は、意識器官を使ったストレスの発散行為です。その副作用として夢が生じています。
覚醒時の白日夢(daydream)と同様です。



フロイトと仏教が、何処となく似ている原因は、この辺りに在りそうです。両者とも、「意識知覚された世界(仮想現実)」の存在に、薄々気が付いていたみたいです。フロイトはコカインと夢によって、ゴータマは断食の苦行によって。

あと、「欲望が行動の原因になっている」事を、指摘したのも共通しています。
もっとも、これが、フロイトや仏教が煙たがられる原因にもなっています。「夢は願望充足である。」と指摘したことも、嫌われています。「全ての欲望の根源には、『性欲』がある。小さな子供も、この性欲に振り回されている。」という主張は、もはや、狂気の沙汰と思われています。(本当のことを言っているのですが、本当であるが故に、煙たがられています。)
人々が、せっかく、(美しい言葉で飾り立てようとした)欲望を、あるいは、(臭いものに蓋をして、見なかったことにしたい)欲望を、赤裸に、晒したからです。
でも、因果関係に目を向けるなら、行いの原因は欲望です。欲望が行いを生じさせています。しかし、これが、欲望の正当化には邪魔だったみたいです。自分の本音を隠して、美しく飾り立てたいのに。

最近、鏡を見て悲しくなりました。そこに映っていた目は、あのフロイトの「死んだ魚の(ドロンとした)腐った目」だったからです。「欲望の正当化」という健康な行為への限りない疑念だったからです。自分は、フロイトと同じ目をしていました。(これはあかん。人並の健康な目を取り戻さなければ。嘘と建前を信じるのだ。健康になるのだ。)



意識器官

我々知的生命体の脳は、想定外の構造をしていました。二組の独立した制御システムより構成されていました。この構造が、いい意味でも、悪い意味でも、人間性の根源でした。夢も、この構造が関係していました。

第一システムは、この肉体の生存と行動を制御しています。
本来の脳です。全ての動物に共通の機能です。世間では、漠然と「無意識」と呼んでいます。

第二システムは、肉体の架空行動、即ち、考える行為を制御しています。
知的生命体に固有の機能です。世間では、漠然と「意識」と呼んでいます。ここでは、より正確に『意識器官』と呼んでいます。
夢を見ているのは、この第二システムでした。

人間は、未知の状況に直面した場合に、肉体を使った探求反射ではなくて、『意識器官』を使った架空の探求反射、即ち、考える行為によって、新しい状況に対応する為のプログラムを作り出しています。
第一システムではなくて、第二システムを使っています。体ではなくて、頭を使っています。

即ち、『意識器官』を使った『考える』という行為は、生物学的には、探求反射を意味していました。(ただし、架空の。。。。。)それは、肉体を使った現実の探求反射に対応しています。

厳密な話をすれば、『意識感覚器官』は、この『意識器官』の為の入力装置です。ここでは、出来るだけ『意識器官』と『意識感覚器官』を区別して論じてます。
現代科学には、まだ、この知識がないので、『意識器官』と『意識感覚器官』の区別がありません。『意識』というひとつの言葉で(漠然と)論じられています。この為、論点が曖昧になっています。詳細は、「知的生命体の心の構造」を参照下さい。

以下の図は、脳の進化と、行動様式の関係です。動物の行動様式は、次の三段階の進化を遂げてきました。そして、この夫々の行動様式に合わせて、脳の構造も進化してきました。これによって、『意識器官』の生物学的由来と働きが明確になります。

  1. 本能的行動
  2. 学習された行動
  3. 意識された行動
脳の進化と、行動様式の関係

脳の進化と、行動様式の関係
脳は、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。
本能的行動、学習された行動、意識された行動へと進化してきました。
この3つの段階で、夫々異なった特徴的構造を持っています。

意識感覚器官を持った人間の脳は、2組の独立した制御システムから構成されています。
第一システムは、肉体の現実行動を制御しています。五感から構成されています。
全ての動物に共通のシステムです。
第二システムは、肉体の架空行動を制御しています。意識感覚器官から構成されています。
知的生命体に固有の機能です。

『考える』という行為は、この第二システムを使った、肉体の架空行動を意味しています。
即ち、人間の脳は、意識器官というシミュレーターを搭載した二重構造になっています。
ここに、知的生命体の秘密と、苦悩が隠されています。

注)現代の哲学者や科学者にとっては、未知の知識です。

このような知的生命体の脳において、意識器官の働きが、『夢』と大きく関わっています。これの働きを理解することが、夢を理解する事に繋がります。

本能的行動

本能的行動では、行動の為のプログラムは遺伝的に(本能として)決定されています。
この為、環境が変化して、これを変更する必要が生じた場合、進化する必要があります。本能として遺伝的に決定されている事項を変更する為には、(種のレベルで)進化する必要がある為です。この為に、結構、時間が掛かってしまいます。

注)現代の正統派進化論は、間違っています。自然科学の理論ではありません。疑似科学です。
物理的作用の因果関係に基づいて述べられていません。因果関係も成り立っていません。矛盾しています。だから、彼らの主張するような仕組みで、物理現象が起こることは不可能です。
このような事情で、現代進化論と発想が異なっていても、あまり、気にしないで下さい。詳細は、ネオダーウィニズム批判を参照下さい。

生物進化は、(種のレベルの)自己保存系の環境変化への適応行為です。個体レベルの現象ではありません。
確かに、10万年、100万年の長期の適応は、(現代の生物学者が考えているように)遺伝子の改変によって起こっていると思います。(突然変異ではない。適応の為の自己の変更です。)
でも、10年~1000年の短期の適応は、遺伝子のメチル化による機能の「ON,OFF」によって起こっているように見えます。生物学のドグマに翻弄されない方が賢明かもしてません。科学的迷信よりも、現実に目を向ける事が大切です。

学習された行動

学習された行動では、体験学習によって、即ち、探求反射(肉体を使った試行錯誤)によって、新しいプログラムを作り出すことが可能です。

動物にとって学習とは、進歩することではなくて、一人前になることを意味しています。この意味で、学習結果は、本能の代用物と言えます。本能的プログラムの一部が、生まれた後の体験学習に置き換わっています。

この段階では、プログラムの変更が、個体レベルの体験学習によって可能となりました。時間的環境変化も、空間(地理)的環境変化も、各個体にとっては、体験の差にしかなりません。この為に、進化する事無く、ひとつの種を維持したまま、多様な環境に適応可能となりました。適応速度も、(本能に比べたら)格段に、早くなりました。

環境変化と学習の関係

環境変化と学習の関係
環境は時間と共に変化します。(時間的変化)
棲む場所によっても変わります。(空間的変化)

学習が可能なシステムの場合、どちらの変化も、各個体にとっては体験の差としかならず、柔軟な適応が可能となりました。この結果、種自体の生息範囲も広くなりました。
ひとつの種を保ったまま、広い地域に生息可能となりました。

これに対して、(本能の依存度が高い)昆虫たちは、種を細分化して、個体サイズも小型化して、機能も単純化して、ある特定の限定された微小環境に適応する戦略を取りました。結果として、(昆虫界全体では)生息範囲は広範囲に及びました。

哺乳類と昆虫とでは、適応戦略が根本的に異なっています。当然、背景にある遺伝子の仕組みも、かなり異なっていると思われます。昆虫たちは、遺伝子の構造を高機能化することで、柔軟に環境に適応しています。一方、哺乳類は、個体を高機能化することで、適応しています。どちらが優れているかの問題では無くて、戦略の違いです。実際、昆虫たちは、大繁栄しています。種を細分化することで、様々なリスクを乗り越えています。

本能的プログラムが、(種のレベルで)進化する必要があった事に比べたら、(個体レベルで適応可能になった事は)画期的な事です。昆虫たちが、(小型化して、)(種を細分化して、)(限定された)ニッチ環境に適応せざる得なかった事とは対照的です。
逆に、小型化する事によって、微小環境を確保する事は容易になりました。これによって、大成功を収めました。

意識された行動

意識された行動では、パラダイムシフトが起こっています。本来の脳システム以外に、もう一組の脳システムを持っています。

本来の脳システムを、フロイトに倣って第一システムと呼ぶことにします。この第一システムは、肉体の生存と行動を制御しています。感覚器官は、目耳鼻舌身の五感から構成されます。
ほとんど全ての動物が、この第一システムのみで生きています。昆虫も、魚も、爬虫類も、この第一システムのみです。

新しく追加された(知的生命体の)脳システムを、第二システムと呼ぶことにします。我々知的生命体は、本来の脳システム以外に、意識器官から構成された(もう一組の)脳システムを持っています。

この第二システムは、第一システムに対応して発生した疑似組織です。その働きも疑似的です。肉体の現実行動では無くて、肉体の架空行動を制御しています。この架空行動を、世間では『考える行為』と呼んでいます。早い話が、第二システムは、シミュレーションシステムです。

我々人間は、第一システムを使った体験学習(探求反射)によってでは無くて、頭、即ち、第二システムを使った架空の探求反射によって、新しいプログラムを作り出しています。実際に体を動かす事無く、脳内部の信号処理、即ち、「あ~う~」と考える行為(架空の探求反射)だけで、新しいプログラムを作り出す事が可能になりました。もう、感動ものです。本能的行動に比べたら、隔世の感があります。

体験学習のように、直接、肉体を(現実に)晒す必要も無くなりました。リスクマネジメントに関しても、画期的進歩です。現実の探求反射のように、肉体を、直接、危険に晒す必要が無くなったので。これらのリスクを、架空の探求反射、即ち、シミュレーションで吸収可能となりました。

意識感覚器官は、この第二システム用の感覚器官です。それは、第一システム用の感覚器官、即ち、眼耳鼻舌身などの五感に対応しています。

そして、夢見ている本体は、この意識感覚器官です。夢を体験しているのは、第二システムです。第二システム上で起こっている架空行動(架空体験)が、即ち、夢体験です。(これが覚醒時に起こったら、肯定的意味では『思考活動』、否定的な意味では『白日夢』と呼ばれています。)

夢体験は、うつつ体験(覚醒時の体験)と同じように、第二システムを使った架空体験ですが、その架空体験を作り出している原因が異なっています。うつつ体験の時は、外部感覚器官からの信号を基にして作り出されていますが、夢体験の時は、心の奥底で蠢いている欲望やストレスが原因で作り出されています。この夢の原因が、ここでのテーマです。

なお、意識器官の詳細は、「知的生命体の心の構造」を参照下さい。

注)第二システムを使った架空体験には、夢体験、うつつ体験(覚醒時の体験)以外に、まぼろし(幻)体験があります。
この体験は、世間では、死後幻覚とか、臨死体験、神との遭遇、UFOの拉致体験、もののけ、金縛りなどと呼ばれています。作り出されている原因や特徴が、ゆめ体験、うつつ体験とは異なっています。



意識器官の生物学的由来

意識器官の働きは、生物学的には、模倣反射(ものまね)の延長線上にある機能です。元々は、模倣反射の為に発達してきた機能が、基になっているようです。
その工学的機構が、非常に良く似ています。「模倣反射」、「(音声)言語学習」、「(文字)言語学習」、「思考活動」は、その機構が同じです。意識器官への信号の入力先が異なっているだけで、共に、架空の体験学習によって、新しいプログラムを身につけてるメカニズムは同じです。

模倣反射では、意識器官を駆動する信号が眼から、(音声)言語学習では、耳から与えられています。(文字)言語学習では、視覚的記号(文字)を、音声に変換して、言語学習を行ています。これらの信号を使った架空の体験学習(模倣反射)です。

思考活動では、自ら作り出した信号で駆動しています。(言語)思考では、自ら言葉を生み出して、それで、駆動しています。つまり、脳内部で、(自ら作り出した信号を使って、)架空の探求反射を繰り返しています。この架空の体験学習で、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出して、それを使って、現実の肉体を駆動しています。この過程を、世間では、『考えてから、行動する。』と呼んでいます。架空行動から、現実行動への遷移です。

なお、思考活動は、言葉を使わなくても可能です。多くの哲学者は、「思索は言葉を使って行うものだ。」と錯覚していますが、(言葉で表現できない)イメージを、直接、動かす事も可能です。(言葉が作り出している先入観に惑わされない)思考作業も可能です。多少の訓練が必要ですが。
未知の世界を切り開く為には、言葉の先入観から離れる事が大切です。原因と結果の因果関係に目を向け、言葉を使わない思考も大切です。
ここでは、言葉を使わないで、イメージなどの別の思考形式を使った思考作業も行っています。詳細は、「数学という学問について」と「情報処理の3階層」を参照して下さい。

脳と言葉と学習プロセス

脳と言葉と学習プロセス
プログラム作成の基本は、肉体を使った探求反射です。
サルの場合、視覚情報を使った模倣反射によっても作ることができます。

模倣反射は、生物学的には、意識器官を使った架空の探求反射を意味しています。
人間の場合、視覚情報の代わりに、音声、文字、脳からの信号でも、模倣反射が可能です。

思考活動は、自己の脳で作られた信号を使った模倣反射の一種です。

模倣反射と思考活動を区別する理由は何処にもありません。いずれも、意識器官を使ったシミュレーション(架空の体験学習)である点は共通しています。

逆に、模倣反射が可能な動物は、程度の差を別にすれば、意識器官を持っている可能性があります。サルやイルカ、象なども、その行動パタンを観察すると、そこそこ、高度な意識器官を持っていると思われます。真似たりするのが、比較的得意です。

高度な意識器官を持っているなら、夢を見ている可能性もあります。逆に、夢を見る事ができるなら、自らの脳で作られた信号を使って意識器官を駆動する事、即ち、思考活動も可能になっていると思われます。夢や思考活動は、外部感覚器官から(模倣反射)では無くて、自らの脳で生み出した信号(思考活動)を使って、意識器官を駆動する行為だからです。

果たして、犬は夢を見ているのでしょうか?

彼らの行動を観察していると、「そこそこ高度な意識器官を持っているのでは。」と疑ってしまいます。元々、オオカミは群れ行動が得意な動物です。模倣反射の前提条件は、群れの存在です。模倣すべき先輩の存在です。

ちなみに、今西錦司は、このような模倣反射によって、群れ内部で継承されている(日本ザルの)行動様式を、カルチャーと呼んでいました。人間という動物の文化も同様です。子は親の背中を見て育ちます。口を見て育っている訳ではありません。背中と口が一致していないと、不信感を抱きます。

夢が可能なら、(程度の差を別にすれば)思考活動も可能です。
また、その逆も真と思われます。思考が可能なら夢も可能です。
犬は、(ある程度の思考活動も可能な)そこそこ高度な意識器官を持っているように見えます。



意識器官の生理学的由来

意識の働きは、(生理学的には)自己刺激の一種ではないかと思っています。

脳の報酬系に電極を埋め込まれたラットは、だだひたすら、(自分で)スイッチを押し続けます。現実の報酬の代わりに、電気刺激という架空の報酬を追い求めます。我々人間も、白日夢に見られるように、架空の刺激によって、架空行動を生じさせ、その架空世界の中に籠って、自己満足に耽っています。この二つの行動は、よく似ています。現実の報酬ではなくて、(自己刺激による)架空の報酬に夢中になっている点において。

意識器官の働きも、基本的には、このような自己刺激の一種ではないかと思われます。実際、意識器官の本体と思われる前頭葉にも、報酬系や罰系が存在しています。

思考活動の場合、意識器官を駆動する信号を自ら作り出しています。シミュレーションを行う為には、現実を構成している因果関係に関する膨大はデータが必要です。この為、巨大な処理系(脳)が必要です。

一方、模倣反射の場合、その駆動する信号は、外部から視覚情報として与えられます。現実に関する巨大なデータベースが不要です。この分、処理系のスペックを落とすことが可能となります。

思考活動には、高機能な脳が必要ですが、模倣反射の場合、そこそこの脳でも、実行可能なように思えます。

程度の差を別にすれば、意識器官は、多くの動物たちが持っている可能性があります。下等と思い込んでいる動物たちも、低機能ではあっても、それなりの意識器官を持っているかもしれません。まかり間違っても、知的生命体、つまり、人間だけの専売特許ではありません。

問題は、その原初的痕跡を、何処まで辿れるかです。元々、視覚と密接な関係のある機能ですから、その大元の痕跡は、(脳の部位を問題にするなら、)視覚野の近傍にあるのではと思われます。

視覚野の情報を使って、脳内部の報酬系や罰系を自己刺激したのが始まりではないかと想像しています。報酬系や罰系は、学習と密接に関わっています。ここを自己刺激すれば、学習効果を生み出します。

もちろん、(思考活動に特化した)人間の場合、前頭葉が主要な役割を担っています。現実に関する巨大なデータベースとして。或いは、(データベースが作り出す)仮想現実の構築場所として。



フロイトと願望充足

フロイトは、「夢は願望充足行為である。」と述べています。
我々人間の脳は、三種類の願望充足行為から成り立っています。快楽原則現実原則夢過程の三つです。

【願望を充足させる三つの方法】

  1. 快楽原則
  2. 現実原則
  3. 夢過程

「夢は願望充足行為である。」という言葉は、かなり誤解を与えます。実際、この誤解の為に、フロイトの考え方は、曲解されているように思えます。

夢は(意識器官を使った)ストレスの発散行為である。』と表現した方が誤解が少ないかもしれません。『願望充足』という言葉は、欲望をストレートに表現し過ぎていて、抵抗があると思います。

しかし、『欲望』や『願望』と『ストレス』、『テンション』を区別する理由は何処にもありません。欲求不満の状態がストレスです。欲望が発散できなくて溜まった状態がストレスです。(欲望が高ぶって)『やる気ムンムン』の状態が、『テンション』が高い状態です。

その欲望を発散できれば、スカッとします。ストレスは解消されます。見る方向によって、使われる言葉が異なっているだけです。
脳の中に溜まっている行動の原因となっている『心のエネルギー』、或いは、『信号(興奮状態)の塊』を、『欲望』とか『ストレス』と呼んでいるに過ぎません。

ここで問題としているのは、「(1)どのような興奮状態が、(2)何処に向かって放出され、(3)どのような行動を形成しているか。」、その因果関係です。

  1. どのような興奮状態が、 (原因)
  2. 何処に向かって放出され、(手段)
  3. どのような行動が生じるか(結果)

因果関係:原因 → 手段 → 結果

ここでは、行動の原因となっている「心の中のエネルギー」に注目しています。このエネルギーを、どのような言葉で表現するかは、あまり、問題としていません。『欲望』や『願望』、『ストレス』、『テンション』を、同じ(心のエネルギーの)意味で使っています。

寧ろ、『原因と結果の因果関係』に注目しています。脳を電子回路の一種だと見なしています。その回路の中を、どのような信号が、何処に向かって流れているかを問題としています。その信号は行動を生じさせます。そして、その行動は結果を生じさせます。その行動と結果の因果関係を問題としています。
この信号の名称には拘っていません。

言葉が作り出している先入観を避ける為に、ここでは、極力、言葉を使った思考は行わないようにしています。現象の因果関係に注目しています。
ちなみに、心理学者や精神科医は、何にでも病名を付けたがる『病名症候群』に侵されています。病名を付けた瞬間に、真実が明らかになったと錯覚して、現実から目を逸らし、言葉が作り出す世界に安住しています。気付かないうちに、現実逃避しています。(彼らの言葉を使うなら、)カウンセリングが必要かも。『病名症候群』という名の心の病に侵されている可能性があります。

ちなみに、フロイトは、「心の中のエネルギー」を、『テンション』と呼んでいました。そのテンションを作り出す過程を、今西錦司は、『状況の主体化』と呼んでいました。両者とも、言葉は違っていましたが、見ているものは同じでした。『原因と結果の因果関係』でした。 (ただし、見る方向は異なっていました。同じものを別方向から見ていました。)

心を支配している因果関係:知覚 -> 欲望の活性化 -> 行い -> 結果

知覚は『行い』を生じさせています。
意識知覚も『行い』を生じさせています。<<(ここ重要)

言葉によって思考するのではなくて、原因と結果の因果関係を観察することを希望します。



ストレスを発散する三つの方法

我々人間の脳は、溜まったストレスやテンションを放出する手段として、三つの方法を使っています。
一番基本的なのは『快楽原則』です。次が『現実原則』です。この結果、何らかの肉体的行動が発生します。

そして、三番目が知的生命体に固有な『夢過程』です。ストレスを意識器官に向かって放出する事によって、願望充足(ストレスの発散)を行っています。この「ストレスの発散」の結果、その副作用として、夢が形成されています。

3種類の願望充足

3種類の願望充足
心の原則は、溜まったストレスやテンションを外に放り投げて、自らは無興奮な快適な状態になる事です。
我々人間は、三つの方法を使って、このストレスの発散を行っています。快楽原則と現実原則と夢過程の三つです。



快楽原則

快楽原則は、心の中に溜まったストレスやテンションを、外部運動器官に向かってデタラメに捨ててしまう行為です。

例えば、スポーツや趣味、ショッピングで、ストレスを発散する行為です。八つ当たりなども、これに相当します。この行為の場合、ストレスの原因と、発散行為の間には何の因果関係もありません。要は、外に向かって捨てればいいだけです。その捨て先は問いません。発散して、スカッとすればいいだけです。
皿を(思い切り力を込めて)壁に投げつけて、粉々に割っても、スカッとします。


現実原則

現実原則は、ストレスの原因と発散行動の間に強い因果関係が存在する場合です。

例えば、「腹が減ったから食事をする。」といった行為です。現実逃避して、水を飲んでも、喉元を通り過ぎる一瞬だけ癒されますが、直ぐに現実に引き戻されます。このような場合、食事をとらなければ空腹は癒されません。

人は、とりあえず、安易に、(楽な)快楽原則を試みます。発散して、一瞬だけスカッとします。しかし、直ぐに現実に引き戻されます。そこで、渋々、いやいや、トゲトゲしい現実と向き合います。

食欲は本能ですが、食べ物を探す行為は学習です。動物は、みな探すのに苦労しています。しかし、脳は好んで学習している訳ではありません。ペナルティに促されて、渋々現実に向き合っているだけです。

要は、『クサイ臭いは、元から絶たなきゃダメ。』です。元から断たないと、いつまでもストレスや苦痛に苛まれ続けます。この苦痛から逃れる為に、始めて、現実と向き合った学習が成立します。
どうやったら、上手く食べ物を手に入れることが出来るか、その為に、試行錯誤を繰り返しています。キツネだったら獲物の捕まえ方を覚え、人間だったら(食う為に)仕事を覚えています。現実は甘くないので、みんな辛い思いをしています。

人間はキツネよりも少しだけ賢いので、腹が減ってから獲物を捕まえるのではなくて、腹が減る前に、(腹が減った時の不安と恐怖が蘇ってきて、)(その被害妄想に追い立てられて、)普段から、(せっせ、せっせと)仕事をしています。(中途半端に賢いと辛いですね。)

ここに、初めて、欲望と行動の間に因果関係が生まれます。学習結果の成立です。



夢過程

夢過程は、意識器官を使った架空行動によって、架空の願望充足に耽る行為です。

溜まったストレスやテンションを、運動器官に向かって放出しないで、意識器官に向かって放出します。その結果、夢(架空行動)が形成されます。夢は、意識器官を使った架空の願望充足の副作用です。

性欲などのように社会的に強い拘束を受けている欲望は、簡単には運動器官に向かって放出できません。セクハラになるから。このような困った欲望は、意識器官に向かって放出して、そこで架空の願望充足行為に耽っています。

どちらかと言えば、快楽原則に似ています。要は、ストレスやテンションを捨てればいいだけです。捨てる先が、運動器官では無くて、意識器官であるだけです。その結果が怖い夢になっても、心本体にとっては、知ったことではありません。要は、(心本体にとって、)発散できればいいだけです。もっとも、怖い夢を見さされる意識器官にとっては、いい迷惑ですが。

夢が覚醒時の日常生活に影響を与えない原因も、ここにあります。ストレスが発散されるので、ストレス自体が消滅して、行動の原因(ストレス)が無くなってしまう為です。心の中の原因が消滅すると、行動も形成されません。(夢は、まさしく、行動の原因となっているストレスの発散過程です。)

テーマは、欲望と、その満足過程です。(ストレスの発散過程です。)

人々が一番、目を向けたくない現実です。現実逃避して、言葉で美しく飾りたい現実です。
その欲望を、何処の誰が、どのような形で持っていて、それをどのような方法で満足させようとしているかです。

欲望は、正義や真理に化身しています。言葉の整形手術によって、巧みに本性を隠しています。常に、言葉で理論武装されています。まるで、年増女の厚化粧のように、これでもか、これでもかと、言葉を塗り固めています。分厚い言葉の鎧を纏っています。

なお、正義に化身できなかった欲望は、臭いものとして、蓋をされています。見なかったことにされています。性欲などが、その代表です。
このような困った欲望を、人間は、しばしば、宗教的戒律や法律によって、力尽くで抑え込もうとしています。しかし、いつも、手痛い反撃を受けています。人間の欲望は、そのような綺麗事で抑え込める程、やわな存在ではありません。抑え込んだと思った瞬間に、いつも、横から(想定外の)芽を出してしまいます。例えば、アメリカの禁酒法や、聖職者の幼児性愛のように。
それ故、益々、聖職者は綺麗な言葉で戒律を強化し始めます。それが原因とも知らずに。解決のポイントは、ガス抜きです。蓋をすることではありません。



脳は、心理学ではなくて、制御工学の問題

このような心の過程は、制御工学の問題です。(冷たいようですが。)

電子回路の設計技師が、信号の流れを制御するように、人間の脳の中を流れている『心のエネルギー』、或いは、『ストレス』、『欲望』などの信号の塊の流れを観察することが大切です。

フロイトの発想も、このような信号の流れとして理解していました。心の中を流れる信号の塊を、彼は『テンション』と呼んでいました。そのテンションが、何処に溜まって、何処に向かって放出されるかを論じていました。放出できない場合は、ストレスが溜まって心が病気になります。いわゆる心理学のテーマです。極めて発想が工学的なので、読むのが楽でした。

面白いのは、フロイトが『テンション』と呼んでいるものを作り出す過程を、今西錦司は、『状況の主体化』と呼んでいました。『状況の主体化』は、外部からの信号を、自己の生きる事と結びついた情報に変換する行為を意味しています。そのような行為によって作り出された情報を、フロイトは、『テンション』と呼んでいました。現象の見る方向が違っているだけで、フロイトと今西は、同じものを見ていました。極めて工学的で合理的な考え方でした。

『状況の主体化』によって作り出された情報『テンション』

しかし、心理学を制御工学の問題として扱う場合、問題もあります。
現代の工学者が使っている制御理論は、生命現象を理解する目的には使えません。あまりにも、素朴過ぎるからです。
そこで、新規に新しい制御理論を構築しました。今西錦司のアイデアを参考にして、生命現象を記述可能な制御理論を作りました。詳細は、そちらを参照下さい。



窮鼠猫を噛む

心理学は、結局、制御の問題に過ぎません。脳も生命現象の一部に過ぎない以上、生物型制御原理に従っています。

例えば、動物が持っている攻撃と逃避という相反する行動も、自己保存と、その制御の問題です。『手続き』ではなくて、自己保存、即ち、『生きる』という目的が制御されています。

敵に襲われて危機に直面するとテンションが高まります。そのテンションを下げる方法は、論理的に二通りの可能性あります。

第一の方法は、敵を攻撃して破壊することです。
第二の方法は、敵から逃げる。つまり、遠ざかることです。
何れの方法を取っても、結果的には、敵が身近から消滅しますから、テンションは低下します。

【危機的状況を打開する二つの方法】

  1. 敵を攻撃して破壊する。
  2. 敵から逃げる。(遠ざかる)

大切な事は、
この推論は、純粋に論理的思考から導かれていることです。目の前の現実を注意深く観察して、そこから導いた結果ではありません。

現実の動物の場合、この切り替えスイッチは、敵との距離によって決まっています。

充分離れている場合は、逃げて回避します。無益な争いはエネルギーの無駄遣いだからです。それに、無駄な争いでケガをすると、満足に餌を取れなくなって、詰んでしまいます。

ところが、不用意に近づき過ぎると、攻撃に転じます。敵を前にして背を向ける行為は危険だからです。至近距離で後ろから襲われたら、回避の方法がありません。攻撃しないまでも、慎重に、敵と向き合ったまま後退りします。そして、充分離れたら、身を翻して逃げます。(この切り替えスイッチの距離は、動物毎に、(大雑把には)決まっています。)

もし、追い詰め過ぎると、一か八かの暴力的反撃を受けます。『逃げる』選択肢が無くなってしまうので、唯一、残された手段、『攻撃』が選択されてしまうからです。いわゆる「窮鼠ネコを噛む。」の状態です。

人間の場合、このような「窮鼠ネコを噛む。」は、心理的な原因によっても起こります。社会的制度や建前に束縛されて、「逃げ道が無い」と感じた時に、しばしば、暴力的反撃が発生します。例えば、家庭内暴力のように。

社会全体が、閉塞感に包まれた時にも、第一次世界大戦や第二次世界大戦のように、大規規模な暴力的抗争が起ります。後発組が植民地主義に目覚めた時には、もう既に、先発組によって世界中が植民地になっていました。後発組は、先発組から奪う以外に方法がありませんでした。先発組が作り出した秩序を壊す必要がありました。また、先発組自身も、もう、新天地は残っていませんでした。(白い肌をした)帝国主義国家群全体に行き詰まりと閉塞感が蔓延していました。そのストレスと閉塞感が。。。。。
注)現在(21世紀初頭)、この欲望に目覚めているいるのが中国です。100年遅れの帝国主義に目覚め、力で秩序の変更を目指しています。破滅の道を歩んでいます。世界の秩序を力で変えるには、彼らの力は、余りにも、ちっぽけ過ぎます。巨大なのは、口と欲望だけです。これを、毛沢東は「張り子の虎」と呼んでいました。

誰が油に火を付けたのか、人々は犯人探しに夢中です。でも、そこに燃えるものがあった事には無頓着です。燃える物が無ければ、マッチで火を付けても火事にはなりません。一回だけでは、ガス抜き出来なかったみたいです。二回必要でした。あの時、大戦が、25年間隔で、二度繰り返されたのは決して偶然ではありません。悲しいことに、第二次大戦の指導者たちは、第一次大戦の時は現場の指揮官でした。(戦争に)慣れていたので、一気にエスカレートしました。

三度繰り返さなかった原因は、非白人国家日本が参戦したせいでした。アジア、アフリカの植民地の人々に自信を与え、結果、戦争の原因であった植民地がみな独立して(植民地自体が)無くなった為でした。燃える物(原因)が無くなってしまったのです。膨大は植民地利権を失った彼らは、相当、日本を恨んでいると思います。今でも時々それを感じます。

(注:肉食動物が草食動物を襲うのは、また、別の目的です。エネルギー危機、即ち、空腹を癒す為です。根幹は、やはり自己保存ですが。)

生物にとって大切な事は、自己を保存する事、即ち、生きる事です。

敵を攻撃して破壊しても、敵から逃げても、どちらの手段を取っても、自己保存の目的は達成されます。もし、逃げる事が不可能な場合、唯一残された手段、即ち、攻撃が選択されます。

根は全て同じです。自己保存です。動物の心の根本に関わる『攻撃と逃避』の問題は、制御工学の問題です。自己保存系の振る舞いの問題です。心理学の問題ではありません。

詳細は、動物が持っている攻撃と逃避という相反する行動を参照下さい。

注)第三の方法として、人間だったら、白日夢に耽って現実逃避する手もあります。いわゆる、「ダチョウの平和」です。が、しかし、これは、その~~~。。。言葉に窮します。

5.4.1 人間にとって、体験するとは?

このことを理解するためには、まず、我々人間の精神生活の特殊性に、目を向ける必要があります。

我々の精神生活は、外界に向かって開かれた五感の上に成り立っている訳ではありません。意識感覚器官の上に成り立っています。

我々が、ある物事を言葉によって説明できるのも、それが意識にとっての知覚対象だからです。それが証拠に、無意識に属していることは、たとえ、それが自分の心や体の上に起こった出来事であっても、意識知覚することができませんから、自覚することが出来ず、言葉によって説明することもできません。
言葉によって説明出来なければ、それは、『体験している。』とは言えません。

この意識にとっての知覚対象のみが、即ち、言葉で説明出来ることのみが、我々の精神生活の材料となっていることは、非常に重要な意味をもっています。

なぜなら、言葉も、そして、その言葉によって作り出された世界も、例えば、哲学や科学、宗教、芸術も、すべて意識にとっての知覚対象であるがゆえに、それは、我々の精神生活の一部を構成することができるからです。

いや、哲学も科学も、宗教も、芸術も、もっと本質的な問題として、現代の科学文明自体が、意識にとっての知覚対象の範囲内の事象でしかないからです。それらは、全て、脳内部に作り出された架空事象です。今流行りの言葉を使えば、仮想現実の世界です。

我々は、籠の中の鳥です。籠の中しか知りません。籠の外を知りません。意識知覚された仮想現実の世界、つまり、籠の中以外を知りません。

籠の中で飛び跳ねる事を「自由だ。」と錯覚しています。籠を抜け出す自由を知りません。

意識している世界と、その外側

意識の外側
哲学も、科学も、宗教も、全ては意識感覚器官にとっての知覚対象です。
言葉も意識にとっての知覚対象です。従って、言葉と結びついている全ての事象も同様です。

意識知覚している世界の外側には、広大な未知の世界が広がっている筈です。
でも、それを知る術はありません。
我々は、意識知覚している世界の内側しか知りません。

外部感覚器官は、外側の世界を知覚している筈ですが、脳に流入しているのは、神経組織上のパルス信号です。脳内部で処理をすることによって、始めて、『パルス信号』に『生きる事』の意味付けを行っています。意識が知覚しているのは、この『生きる意味付け』をされた事象です。それは何らかの形で、『自己の生きること』と接点を持っています。

現代の科学文明は、、、、もっと正確には、文明自体は、意識感覚器官が作り出したものです。その範囲内に限定された事象です。その外側に広がっている筈の広大な未知の世界をカバーしたものでは無いことです。ここに、意識感覚器官によって作り出された現代科学文明の限界があります。

仏教では、この状態を、『一切は空なり』、又は、『色即是空』と、表現しています。いわゆる、『空の哲学』と呼ばれているものです。空の哲学は、「意識は感覚器官であって、意識知覚している事象は、脳内部の事象である。即ち、それは、(欲望が生じさせた)実体のない空っぽのもの、架空事象である。」「一切は空っぽなり。」を、前提としています。

この意味に於て、夢も何らかのかたちで、意識にとっての知覚対象となっている事象であると考えられます。

覚醒時に意識知覚しているもの

覚醒時においては、これらの意識にとっての知覚対象は、外部感覚器官から流入した信号に基づいて作り出されています。

外部感覚器官から流入した信号は、我々の神経組織(第一システム)によって処理を加えられ、ある特定のかたちをとります。意識感覚器官は、それを知覚対象としています。
つまり、意識感覚器官が知覚対象としているのは、外部感覚器官からの生の情報ではなくて、いったん処理され概念化された情報です。

それは、外部感覚器官から流入した信号と、それから連想される記憶痕跡の融合物になっています。我々は、外部感覚器官からの信号を意識知覚していると同時に、そこから連想される過去の記憶痕跡も、意識知覚しています。この過去の記憶痕跡によって、外部信号の意味を理解しています。過去の再体験として。。。

覚醒時に意識知覚している情報

覚醒時に意識知覚している情報
意識知覚している情報は、外部感覚器官と、記憶痕跡との融合物になっています。
我々は、外部感覚器官からの情報と、そこから連想される記憶痕跡を同時に意識知覚しています。

情報の意味付けは、過去の記憶痕跡で行っています。

例えば、自分が今この腕にはめているデジタル時計を例にとれば、自分が外部感覚器官を通して得ることができるこの時計に関する情報は、その外観に関するもののみです。
内部に関する情報は、透けて見える訳ではありませんから、得ることができません。

しかし、自分は、この内部に関しても、認識や理解することができます。なぜなら、自分の意識知覚している事象は、外部感覚器官からの情報と、自分のもっている知識や、過去に分解した体験との融合物だからです。
自分は、このデジタル時計が、電池と水晶発振子とLSIと液晶から構成されていることを理解しています。分解した経験があるので。それに、工学に関する基礎知識は持っているので。しかし、専門家ではないので、それ以上の詳しいことは分かりません。専門家ならば、もっと詳しく回路図や、それ以上のことも、まぶたの上に思い浮かべることができると思います。

同じものを見ても、自分と専門家とでは、その知識の程度が異なっていますから、その認識の程度も異なってしまいます。素人の方は、もっと素朴で、「定期的にボタン電池を交換しないと止まってしまう。」程度の認識かもしれません。中には、もっと酷くて、なぜ動かなくなったのか、電池切れの理由さえ理解できない方も、おられるかもしれません。単純に、「壊れた!!!」と早合点してしまう人も。。。

人間は自分の知っている範囲の事しか知らないので、全て、知っていると錯覚しています。

自分の知っていることは、全て、意識知覚することができます。全て思い出すことができます。忘れている事は、意識知覚できないので、普段は、忘れていること自体を自覚することはありません。現実に直面して、始めて気付かされるだけです。
やっぱり、万物の霊長は、偉大です。全知全能です。神に匹敵します。知っていることは、全て、知っています。(知らないことは知らないこと自体を知りませんが。)
「やっぱ、俺様はすごい!!」。。。でも、実際には、なぜか、いつも殴られてばかりです。現実に殴られて、始めて自分の愚かさに気付かされます。でも、それも心配はいりません。直ぐ、忘れますから。忘れることが、健康の秘訣です。。。

腕時計には、人其々の思い出があります。見ただけで、過去の様々な思い出も蘇ってきます。意識知覚している腕時計は、眼から流入した信号だけでなく、そのものに関する過去の記憶痕跡との融合物になっています。我々は、同時に過去の思い出(記憶痕跡)も意識知覚しています。

また、閉じているドアを目の前にしても、それが自分の家なら、その向こうに何があるかを理解できます。
自分が目にしているのは、確かに閉じているドアですが、しかし、自分が意識知覚しているのは、そのドアと過去の経験とから作り出された融合物であるからです。それだけではありません。そのドアの向こうで起こった昨日の出来事も思い出すことができます。

逆に、始めて訪れたホテルの場合、ドアの前に立っても、何も思い浮かびません。過去の体験も記憶もないからです。映像から何も連想しないからです。

意識は、眼などと同じ感覚器官ですから、過去の状態を保持することはできません。すなわち、瞬間瞬間に消え去ってしまい、記憶力をもってはいませんが、過去の記憶痕跡を、もう一度、意識知覚とすることによって、その過去を、意識感覚器官上に再現することはできます。

記憶痕跡を、再度、意識感覚器官の知覚対象とすることによって、すなわち、意識器官を使った過去の再体験によって、過去を思い出すことができます。

思い出すとは、意識器官を使った過去の架空の再体験を意味しています。

5.4.2 夢を体験するとは?

夢現象における意識感覚器官の知覚対象は、このような過程を通して作り出されたものではありません。なぜなら、睡眠時には、外部感覚器官は閉じており、その流入する情報の量は、極端に少ないからです。

もちろん、夢の中には、外部感覚器官に与えられた刺激が原因となって作り出されたものもありますが、多くはそれとは別の過程を通して作り出されています。
この過程を、フロイトの夢理論に従って解釈すると次のようになります。彼は、次のように述べています。

夢は、願望の充足行為である。

我々の心の中には、様々な欲望と、その欲望が引き起こしている緊張状態(テンション)が存在しています。これらの欲望は、原則として満足される必要があります。満足されなければ、欲望は消滅せず、従って、欲求不満の状態に陥ってしまうからです。イライラきて、不快になってしまいます。

これらの欲望が満足される原則は、行動を起こすことです。我々の心を不快な状態に陥れているテンションを、外部運動器官に向かって放出し、実際の行動を生じさせ、満足体験が得られれば、欲望は消滅します。満足体験が得られなくても、取りあえずは、発散できるので、『スカッと。』とします。

つまり、第一システム(運動器官)を使った満足体験が必要です。しかし、現実問題として、全ての欲望が、このような理想的手段によって、解決される訳ではありません。我々の行動は、社会的慣例や道徳に強く拘束されていますから、どうすることもできず残ってしまうものもあります。特に性と関係したものの中には、この傾向を持ったものが多くあります。これらの欲望は、そのはけ口を求めて心の中で蠢いております。

その欲望を無理に教義や道徳、法律などの力で抑え込もうとすると、屈折して犯罪化します。禁酒法のように。妻帯を禁じた教団の司祭たちは、しばしば、性欲が、弱い者に向かい、幼児性愛などの性犯罪に溺れてしまっています。欲望を、教義や綺麗事で抑え込んでしまった結果です。適度に妻帯でガス抜きしなかった結果です。綺麗ごとを振り回しているリベラルの成れの果てです。

夢は、このような第一システム(運動器官)を使って充足することができなかった欲望が、そのはけ口を求めて、第二システム(意識器官)になだれ込む現象であると考えられます。すなわち、第一システム(運動器官)を使った現実の満足体験の代わりに、第二システム(意識器官)を使った架空の満足体験によって、欲望を解消させる行為であると考えられます。

夢見ている時、意識知覚している情報は、心の中に蠢いている満たされない欲望と、その欲望から連想される記憶痕跡の融合物(夢の塊)になっています。この夢の塊(融合物)が、連想によって繋がって、次々と流れていきます。夢は連想によって繋がっているので、筋道の通った物語ではなくて、どちらかと言えば、奇想天外なものが多くなっています。

夢体験で意識知覚している情報

夢体験で意識知覚している情報
夢は、満たされない欲望と、そこから連想される記憶痕跡の融合物になっています。その融合物、即ち、夢の塊を、意識の知覚対象にしています。
これらの融合物の塊は、連想によって、次の塊を連れてやってきています。この為、夢物語は、時として、奇想天外になります。

このような夢の構成形式は、ジャズやバッハと共通しています。これらの音楽も、論理的なメロディの連なりから構成されているのではなくて、音の塊が、次の音の塊を連想によって、連れてやってきています。この構成形式の違いが、他の音楽と異なったジャズやバッハの魅力になっています。

我々が日常経験している夢は、甘い夢ばかりではありません。恐ろしい夢もあります。恐ろしさのあまり、途中で目が醒めてしまうこともあります。
そのような夢まで、「願望の充足行為である。」と主張するフロイトは、一見矛盾しているようにも思えます。

恐い夢がなぜ願望の充足になるのか、常識では、逆のようにも思えます。そもそも、満足するとは何を意味しているのでしょうか。甘い夢に浸ることだけが満足体験なのでしょうか。

このことを理解するためには、我々の神経組織の性質に注目する必要があります。

5.4.3 願望を充足する3つの方法

我々人間の心は、不快な状態を回避して、快適な状態になる為に、3種類の方法を使っています。

第一の方法は、快楽原則に基ずく願望充足です。
第二の方法が、現実原則に基ずく願望充足です。
第三の方法が、夢過程による願望充足です。

3種類の願望充足

3種類の願望充足
心の中に溜まったテンションを捨て、願望を満たす方法には三種類あります。

1.快楽原則
 何も考えずに外に捨て、スカッとすること。
 例:趣味、八つ当たり
2.現実原則
 運動器官に向かって放出し、テンションの発生源を止める。
 例:腹が減ったから、食事を取る。
3.夢過程
 意識器官に向かって放出。
 夢の中で、架空の願望充足に浸ります。
 例:白日夢

5.4.4 快楽原則による願望充足

例えば、スポーツや趣味、ショッピングで、溜まっていたストレスを発散する行為です。

神経組織の最も基本的な性質は、自らをできるだけ無興奮な状態に置くことです。心の中にテンションやストレスが溜まった不快な状態を回避することです。
不快な状態を回避して、ストレスの無い快適な状態を保つことです。

神経組織の原則:神経組織を無興奮な状態にすること。

だから、発生したテンションは、できるだけ速やかに放出しなければなりません。テンションが溜まった不快な状態は、一刻も早く解消しなければいけません。
その放出手段は、問いません。手段を選ばずに、ともかく、外に捨ててしまうことです。外に捨てて、スカッとすることです。

たとえば、日頃から溜まりに溜まったストレスを、スポーツや趣味、ショッピングで発散するときのように、ともかく放出してしまえば、問題は解決します。このとき、ストレスの原因と、放出先との間には、何の因果関係も要求されません。ともかく、発散すればよいのです。発散すれば、モヤモヤが消えて、スカッとします。

八つ当たりなども、これに該当します。八つ当たりでは、関係のない方向に、怒りをぶつけて、怒り狂っています。机を蹴り飛ばしたり、手に持った物を、思わず、壁に投げつけています。一瞬ですが、スカッとします。
運動器官への放出路が確定しておらず、辺り構わず、デタラメに、手当たり次第に放出しています。このような行動を外から観察していると、あたかも、探求反射に見えます。

快楽原則による願望充足行為は、生物学者には探求反射に見えているみたいです。

ストレスの発散行為が、デタラメに運動器官に向かって放出されているからです。

子供がよく泣くのもストレスの発散行為です。子供の頃、「泣いたカラスがもう笑うた。」と揶揄われた思い出があると思いますが、子供は気に入らないと直ぐ泣きます。でも、泣き終わったら、ケロッとしています。涙が乾く前に、もう、ケラケラ笑っています。散々手こずった大人としては、その変わり身の早さに嫌味の一つも言いたい気分です。「泣いたカラスがもう笑うた。」と。

ちなみに、大人が泣く理由も、子供と同じです。悲しいからではありません。それは常識のウソです。哀しみを忘れる為です。文学的表現を使うなら、涙と一緒に、悲しみを流し去ってしまう為です。
耐え難い悲しみに直面した時、人生経験豊かな年配者は、そっと耳打ちしてくれます。「我慢しないで、お泣き。少しは楽になるから。」と。そう、泣けば、悲しみと向き合わなくて済むので、少しだけ楽になります。全ての真実は、この「少しは楽になるから。」に隠されています。

日中の熱い地表に、間違って出てしまったミミズは、熱さのあまり、のたうち回っています。体をよじって、飛び跳ねています。運が良ければ、涼しい草むらや、水たまりに落ちますが、大抵は、力尽きて、干からびてしまいます。

ミミズのような脳らしき脳を持っていない単純な神経組織の場合も、やはり同様に快楽原則は成り立っているようです。放出路が確定していない場合は、デタラメに放出して、のたうち回っています。土の中を這うような、合理的な行動が形成されていません。

【快楽原則による願望充足】

溜まったストレスやテンションを外に向かって放出すること。

放出先は問わない。
放出路が確定していない場合は、とりあえず、デタラメに放出してみる必要があります。
その結果は、あたかも、探究反射に見えます。

探求反射は、特別な機能では無くて、快楽原則に基づいたデタラメな外部運動器官への放出です。

ストレスの原因と、発散行為の間に、因果関係は存在していません。スカッとすれば、いいだけです。

5.4.5 現実原則と、実際の欲望の充足過程

実際の欲望の充足過程は、もう少し複雑です。クサイ臭いは、元から断つ必要があります。

心の中に発生するテンションが単発的なものなら、スポーツやショッピング、夢などによって解決できますが、しかし、空腹のように、テンションの発生が継続している場合には、このようなデタラメな放出だけでは、うまく解決できません。

空腹によって生じたテンションを第二システム(意識器官)に放出して、白日夢にふけっても、すぐに現実に引き戻されてしまいます。イライラきて、当たり散らしても、空腹は癒されません。我慢できずに、水を飲んでも、喉元を通り過ぎる一瞬だけです。直ぐに、現実に、引き戻されてしまいます。水腹は、空腹を癒してくれません。

空腹である限り、テンションは生産され続けるからです。そこで、このような場合には、そのテンションを第一システム(運動器官)に向かって放出し、獲物を捕まえるという現実行動に出なければなりません。獲物を捕まえて、空腹を癒さなければいけません。空腹で生じている耐えがたい苦痛を止めなければいけません。すなわち、空腹ならば獲物を追いかけるという因果関係に基づいた、現実の行動を起こす必要があります。

しかし、簡単に獲物が捉まる訳ではありません。試行錯誤し、苦労して、失敗して、また、苦労して、やっと、捕まえることが出来るようになります。(でも、現実は冷酷です。多くは、巣立ちの試練を乗り越えれなくて、終わっています。)うまく行った時の行動を覚えておいて、今後は、それを繰り返す必要があります。(探求反射による学習の成立。)

ともかく、空腹のように、テンションの生産が継続している場合、『クサイ臭い。』は元から断たなければいけません。

クサイ臭いは、元から絶たなきゃダメ。

もし、それをしないで、生産され続けているテンションを、第二システム(意識器官)に流して、白日夢に耽り続けたら、正常な日常生活を送ることができなくなってしまいます。心がそこに拘束されて、現実に目を向けることができなくなってしまいます。餓死してしまいます。

ここに始めて、『現実と向き合う必要性』が生じます。現実に則した行動をとる必要が生じます。即ち、『現実原則』に基ずく行動です。
「腹が減ったら、獲物を捕まえる。」という欲望と行動の因果関係が成立します。

脳は学習するものだ。」という先入観を捨てる必要があります。(冷酷なペナルティに促されて、)いやいや、渋々、トゲトゲしい現実と向き合っているだけかもしれません。現実は、優しくて心地よいものではないからです。厳しくて、辛くて、苦いものだからです。トゲだらけです。自分の都合と欲望が、一方的に勝手に無視されています。

出来ることなら、「僕は悪くない。他人が悪い。」で、現実逃避して、他人に八つ当たりしている方が遥かに楽です。改善の努力が必要ないので苦労しなくて済みます。運が良ければ、構ってもらえるかもしれません。でも、残念ながら、現実は冷酷です。それを許してくれません。惨いペナルティが待ち構えています。

人は惨いペナルティに直面して、始めて学習しています。それまでは、言を左右にして、逃げ回っています。『言葉(快楽原則)』は自由自在です。楽です。その反対に、実際に体を動かす『行い(現実原則)』は苦痛に満ち溢れています。やっぱ、楽な方がいいですよね。言い訳を振り撒きながら逃げ回る方が楽でいいですよね。

【現実原則による願望充足】

クサイ臭いは、元から絶たなきゃダメ。

空腹のように、テンションが継続的に発生する場合、ランダムに外部運動器官に向かって放出してもダメです。 放出しても、放出しても、テンションは、発生し続けるからです。

テンションの発生を止める為には、食事をする必要があります。

現実に目を向け、クサイ臭いを元から絶つべく、現実に即した行動を取る必要があります。
この現実原則に基づく行動パタンを定着させたのが、学習結果です。

ここに始めて、欲望と行動の間に因果関係が成立します。

ちなみに、快楽原則の場合、欲望と行動の間に、因果関係は存在しません。デタラメに、放出し、行動しているだけです。発散して、スカッとすれがいいだけです。

クサイ臭いに蓋をして見なかった事にしても、現実が先送りされるだけです。

ノイローゼ

仕事のストレスも、軽度なら趣味やスポーツ、酒で何とかなります。それで、また、次の一週間は何とか持ちます。でも、重度になると、それでは持ちません。何らかの根本的解決を迫られます。転職や休職を真剣に検討する必要に迫られます。

それが出来ないと、(転職や休職の決断が出来ないと、)ストレスが溜まってノイローゼになります。酒や薬に逃げても、逃げ切れなくて、益々、摂取量が増えて悪循環に陥ります。アル中や薬中になってしまいます。正常な社会生活を送れなくなってしまいます。

薬や酒などの薬物摂取を加速させているのは、ストレスです。そこからの現実逃避が、(接種量の増加に繋がって、)薬物中毒を生み出しています。
動物の神経組織は、コントラストを認識の対象としています。薬物の血中濃度ではなくて、その急激な変化、即ち、時間的コントラストが、神経組織に作用して、様々な刺激や快感を作り出します。ストレスが溜まっていると、より強い刺激を求めて、つまり、血中濃度のより急激な変化を求めて、摂取量が増えてしまいます。ストレスがある限り、この現実逃避がエスカレートします。
コカインも、南米のインディオのように、コカ茶などで、胃粘膜から緩やかに摂取している分には問題になりませんでした。しかし、精製して鼻腔粘膜から摂取するようになると、急激な血中濃度の変化が起こって、深刻な薬物中毒に悩まされることになりました。
責任転嫁して、「僕は悪くない。薬が悪い。薬は悪魔だ。」と非難しても、何の問題解決にもなりません。少しばかりの自己満足に浸れるだけです。くさい臭いの元、つまり、ストレスを何とかする必要があります。

現実原則に従った行動が必要になります。

つまり、転職や休職です。休職は、ほぼ不可能なので、転職が必要です。新しい生き方、例えば、田舎でのスローライフを検討する方が賢明かと。最近は、ネットが発達しているので、情報格差の問題は、ほとんど発生しません。たまに都会に出ていくだけです。たまになら、都会は刺激に溢れて魅力的です。女性は刺激的な服を着て、魅力的に見えます。毎日なら、刺激過多でウンザリしますが。

5.4.6 夢過程による願望充足

夢は、テンションやストレスを意識器官に向かって放出する行為です。

快楽原則に基ずくなら、心の中に溜まったテンションやストレスは、ともかく、外に放出して、自らは、無興奮で快適な状態になることです。不快な状態を解消することです。

つまり、第一システム(運動器官)に向かって放出しようが、第二システム(意識器官)に向かって放出しようが、また、第二システム(意識器官)に向かって放出された結果が、恐い夢になろうが無関係です。発散さえすればいいのです。もっとも、恐い夢を見さされる意識器官はいい迷惑ですが、しかし、心の本体は、それで目的を達成することができます。

要は、「願望充足している本体は誰か?」です。
「欲望まみれの心本体(第一システム)か?」
「全知全能と思い込んでいる意識器官(第二システム)か? 」です。

注)意識器官は、架空行動の為の制御システム系、つまり、シミュレーションシステムです。意識は、この架空行動によって、様々な架空の満足体験を作り出しています。夢体験も、そのひとつです。

夢過程は、このようなストレスが、運動器官に向かわないで、意識器官(第二システム)に向かって放出される現象です。そこで、意識器官を使った架空体験による架空の願望充足体験が行われていると思われます。

この意味において、心に溜まったストレスを、意識感覚に向かって放出している夢は、「願望充足行為である。」というフロイトの言葉は、正しいと言えます。後は、言葉尻と、言葉の定義の微調整の問題だけです。
甘い快楽体験だけが、願望充足行為ではありません。ストレスの発散こそが、最も重要な行為です。

夜の夢体験が、昼間の生活に影響を与えないのも、この願望の充足過程と密接な関係をもっています。我々は、毎晩、夢を見ていますが、しかし、ほとんど覚えていません。まるで酒に酔った時のように、記憶の中から消え去っています。

だから、その夢体験が、昼間の生活に影響を与えることもありません。この原因は、第二システム(意識器官)に向かってテンションが放出されると、行動を形成するための動力源がなくなってしまうためであると考えられます。その副作用として、結果的に夢が形成されているのですが。

空腹時のように、その生産が継続して起こっている場合、放出しても、すぐに溜りますが、多くの夢過程を形成しているテンションの場合、一度放出されると、仕事のストレスのように、溜るまでにしばらく時間がかかります。
このために、行動の原因となるべきテンションがなくなって、昼間の行動に影響を与えないのだと考えられます。
つまり、放出されると、心をドライブするエネルギーがなくなって、覚醒時の行動が形成されない為と考えられます。

夢は、願望の充足行為である。』とフロイトが言ったように、願望が充足されるので、即ち、行動の原因となるテンションが消滅するので、行動する必要が無くなるのだと考えられます。

【夢過程による願望充足】

心の中に溜まったテンションやストレスを、(睡眠時に)意識器官に向かって放出する行為。

その結果が怖い夢になろうが、そんなことは、知ったことではない。ともかく放出すれば、それで目的が達成されます。

性欲などのように、社会的規範や道徳によって、運動器官への放出が強く抑制されている場合、意識器官に向かって放出され、夢の中で架空の願望充足が行われます。

類似行為には、『白日夢(daydream)』があります。
覚醒時に、ストレスを意識器官に流し込み、そこで架空体験を作り出し、この架空体験で、願望充足に耽っています。
軽度なら問題ありません。寧ろ、心の健康を保つために(夢同様)大切です。しかし、重度になると、意識器官が、それに占拠され、正常な日常生活を送れなくなります。(殻に閉じこもって、)現実逃避が起こります。自閉症になります。

5.4.7 まぼろし体験

『ゆめ(夢)体験』とよく似ている現象に、『まぼろし(幻)体験』があります。しかし、この体験は願望充足行為ではないようです。

『まぼろし体験』は、世間では、死後幻覚とか臨死体験、お迎え現象、もののけ、金縛りなどと呼ばれています。夢と同じで、ありとあらゆる体験があります。それ故、その呼び名も、その体験内容によって様々です。

しかし、この現象は、現代の科学においては、現象の存在自体が認められていません。従って、不快に感じる方がおられるかもしれません。しかし、冷酷な現実なので、必要な情報だけ残しておきます。不快だと感じたら、この章は、読まないで無視して下さい。

我々の意識が体験している世界には、『ゆめ、うつつ、まぼろし(夢、現、幻)』の3つがあります。

『まぼろし(幻)体験』は、『うつつ(現)体験』と同じように、非常にリアルな体感を伴っています。しかも、記憶にもシッカリ残ります。
この為、うつつ世界の延長として「別世界に迷い込んでしまった。」かのような錯覚を覚えます。死後の世界に迷い込んでしまったり、心の底から感動の渦が込み上げてくるので、「神と遭遇した。」と錯覚したりします。
今までに体験したことが無い満ち足りた、光の渦に囲まれた感動的体験の場合もあります。心が負の感情に支配されていると、その反対もあります。恐ろしい悪霊の世界を体験することになります。また、ある方は「宇宙人に拉致された」ような体験をします。

慣れないと、『うつつ(現)体験』と区別が付きません。死後の世界や、神との遭遇、宇宙人との遭遇が、まことしやかに語られる原因です。

うつつ体験は、通常の覚醒時の体験です。多分?今、皆様が体験している世界は、『まぼろし』ではなくて、『うつつ』だと思います。自信はないけど。『うつつ』も『まぼろし』も、実感としては、たいして違いません。

まぼろし体験は、心の状態が、そのまま映像化されます。だから、体験を聞いただけで、その人の心の奥底が透けて見えてしまいます。恐怖心や猜疑心、恨みの感情があれば、怖い幻覚となります。

睡眠不足や、死の間際のように、心に大きなストレスが掛かった場合に体験し易いみたいです。現実世界への拘りと拘束が弱くなった時に、心の奥底に潜んでいた信号が、意識知覚にまで昇ってくるようです。

『まぼろし体験』は、『うつつ体験』(覚醒時の体験)と異なって、外部感覚器官からの信号で作り出された世界ではありません。『ゆめ体験』と同じように、心の中の事情によって作り出された世界です。従って、夢と同じように、ありとあらゆる奇想天外な体験があります。それ故、その体験内容によって様々な呼び方がされています。たとえば、死後幻覚、臨死体験、お迎え現象、UFO体験、もののけ、蛇憑き、狐憑き、金縛り、etc、、。

『もののけ体験』では、『もののけ(いきもののけはい)』は、多くの場合、キメラ(合成動物)の姿をしています。頭がサルで胴体が蛇といった具合です。自分に害をなす悪霊や邪悪なものが、追いかけてきたり、取り憑いたりします。心の状態がそのまま反映されるので、民族性が強く出ます。その民族が、最も邪悪だと見なしている怪物の姿となります。つまり、その民族の欲望を裏返した姿になります。

『まぼろし体験』の原因は、解りません。原因はひとつだけではなさそうです。

まぼろし体験で意識知覚しているもの
幻過程
まぼろし体験の時、意識の知覚対象(まぼろし)は、未知の原因心の状態の融合物になっています。

心が平安なら、お花畑のような満ち足りた世界になります。始めて味わう深い満ち足りた満足体験なので、「神と遭遇した」と感じるかもしれません。

恐怖心や、猜疑心、恨みなどの負の感情に支配されていると、恐ろしい悪霊の世界となります。悪霊に取り憑かれた幻覚を体験します。或いは、「キメラ」や「もののけ」などの邪悪なものに追い掛けられる幻覚かもしれません。



まぼろし体験は、覚醒後に影響を与える。

『まぼろし体験』と『ゆめ体験』の違いは、覚醒後に現れます。『ゆめ体験』は、願望充足行為なので覚醒後の『うつつ体験』には影響を与えませんが、『まぼろし体験』は、強い影響を与えます。覚醒した時に、強い衝動に駆られて、何かに導かれるようにして、現実世界を彷徨います。そして、やがて、『まぼろし体験』の原因と出会います。出会えば、直ぐにわかります。『あっ。これだ。』と。もっとも、その多くは辛い現実ですが。

あるいは、人によっては、強い衝動を、「神の啓示」や運命と感じるかもしれません。迷いがない強い確信です。行動に迷いを生じさせません。

この覚醒後に影響を与えるかどうかで、『まぼろし体験』と『ゆめ体験』を判別します。

【まぼろし(幻)体験】

『まぼろし体験』は、夢体験と異なって、願望充足行為ではないようです。
それゆえ、覚醒後のうつつ体験に強い影響を与えます。願望が充足されないで、残ってしまうので。それが覚醒時の肉体を支配し、具体的な肉体上の行動を生じさせます。

『まぼろし体験』は、非常にリアルな体感を伴っています。記憶にもシッカリ残ります。
それ故、「別世界に迷い込んだ。」、つまり、「死後の世界に迷い込んだ。」とか、非常に満ち足りた感動的世界なので、「神と遭遇した。」と、錯覚します。

この体験は、覚醒後の日常生活に強い影響を与えます。
夢と同じ願望充足行為ではありません。
しかし、原因は判りません。

もっと基本的問題として、現象の再現方法自体が分かりません。現状の全体像が掴み切れていません。

なお、現代においては、現象の存在自体が認められていません。全ては、それ以前の問題です。「存在しないものを論じて、何の意味があるのか?」と思われるかもしれませんね。

注)まぼろし体験を識別するもうひとつのポイントは、同じ幻覚が少しづつ細部の内容を変えながら、3度繰り返す場合があります。始まりと終わりは、いつも同じです。繰り返す回数は、1度か3度です。なぜか、2度や4度はありません。
3度繰り返す場合は、その原因が外部にあります。覚醒後に、特に強い衝動に駆られます。その衝動に駆られて現実世界を彷徨います。そして、その原因と出会うと、直観で分かります。『あっ。これだ。』と。でも、残念ながら、それは辛い事の方が多いです。

注)【 うつつ(現)体験 】

『うつつ(現)体験』は、通常の覚醒時の現実体験です。今、この瞬間に、この文章を読んでいる世界のことです。多分。。。外部感覚器官からの信号で作り出されています。

注)【 もののけ 】

『もののけ』は悪霊のことではありません。生き物の気配(いきもののけはい=ものの気)のことです。背後に、ふと、人間や他の生き物の気配を感じることがあると思いますが、その気配のことです。生き物の気配が頭の上を飛び回り、アイスピックで刺すようにズキューンと取り憑いてくる現象です。
心に未知の世界への恐怖があると、その恐怖心が映像化されるので、怖い魔物や邪悪な悪霊の姿になります。キメラ(合成動物)の姿をしていることもあります。恐怖心が消えると、ホワイトノイズの塊になります。しかし、残念ですが、ものの気配自体は消えません。やはり、同じように、取り憑いてきます。
全ては、夢同様に心の中の事象なので、その心の状態が幻覚化されます。心の状態や民族性によって、様々なバリエーションがあります。日本人の場合は、伝統的に『もののけ』や『ぬえ(鵺)』の幻覚です。

注)【 意識 】

意識という言葉は、現代において曖昧です。複数の事象を同時に指しています。ひとつは、『意識器官』、即ち、シミュレーションシステム本体です。もうひとつは、このシステムへの入力装置、即ち、『意識感覚器官』です。

意識感覚器官から生じている知覚刺激を、仏教では『意知覚(意識知覚)』と呼んでいます。これも、「意識したらダメだ。」という言葉の運用にも見られるように、『意識』という言葉を使っています。この言葉の正確な表現は、「意識知覚している情報に振り回されたらダメだ。拘ってはいけない。」です。行動が、現実ではなくて、意識知覚、(即ち、現実で無いものや言葉)に、振り回されてしまうからです。

現実に基づかない行動は、全て破綻します。たとえ、それが宗教上の真理であったとしても。それは、前を見ないで、経典を読みながら、車を運転しているようなものです。わき見運転は、理由の如何を問わず事故の元です。『宗教的真理(言葉)』ではなくて、『わき見運転(行い)』が結果を生じさせてしまうからです。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。大切なのは、『言葉』では無くて『行い』です。『行い』と『結果』の因果関係を観察することです。

もっとも、、、楽なのは、『行い』ではなくて、自由自在な『言葉』の方なので、みんな、楽な方にばかり逃げています。言葉(真理)を振り回すことばかりに夢中になっています。意識器官と、その知覚対象である言葉の弊害です。言葉と、(その言葉によって正当化されている)欲望への執着が生み出している弊害です。

参考 01) 泣き笑い

人は、なぜ笑うのでしょうか?

「笑う行為」も、肉体的な行動の一種なので、心の中のものが、運動器官に向かって発散されることによって起こっている筈です。

運動器官に向かって信号が流れなければ、そもそも、行動は起こりません。『笑い』という行動が起こっている限り、何らかの信号が、脳から運動器官に向かって流れている筈です。

では、その脳からの信号は、(1)脳のどの場所で、(2)どのように生成されているのでしょうか。そして、(3)それが人間の精神生活、或いは、脳の構造や機構と、どう関わっているのでしょうか?

【笑いのエネルギー】

  1. 脳のどの場所で、
  2. どのような原因を切っ掛けとして、生成されているのか。
  3. それは、人間の精神生活で、どのような意味を持っているのか。

今までは、行動の原因となる脳内部の信号を、『ストレス』或いは『欲望』と呼んできました。しかし、笑いの原因を、ストレスと呼ぶには、常識的に見て、違和感を感じます。
でも、行動が起こっている限り、信号の放出行為です。

笑いのエネルギーの正体は、何なのでしょうか?


泣き笑い

『泣く』行為と、『笑う』行為は、どう異なっているのでしょうか。

人間は嬉しい時(自分に都合いい時)に笑います。悲しい時(自分に都合悪い時)に泣きます。

子供や赤ん坊は、自分の欲望が満たされて嬉しい時に、笑います。大人は、この現象を逆に利用して、嫌なストレスを笑い飛ばしています。色々な大人の事情を、笑いで誤魔化しています。漫才を見て、笑いでストレスを発散しています。

逆に、自分に都合が悪い事が起こった時に泣いています。赤ん坊は単純で、お腹が空いた時に泣いています。大人の悲しみは、もう少し複雑です。人生そのものが複雑なので、都合が悪い事情も複雑だからです。

まさか、『笑う』行為は、報酬系からの信号が、運動器官に漏れてしまった為の副反応だろうか?。逆に、『泣く』行為は、罰系の信号が原因なのだろうか?。

我々の脳は、報酬系と罰系の拮抗の上に成り立っています。
チャップリンの映画は、演じられているテーマ自体は悲劇です。人生の重たい現実がテーマになっています。しかし、演じられている内容自体は喜劇です。コミカルな劇が演じられています。悲劇を喜劇として演じています。
この為、胸が締め付けらるような息苦しい笑いになっています。「息苦しくて、危うく、笑い死ぬかと思った。」という感想を抱きます。テーマで胸を締め付けられ、コミカルな仕草に笑っています。相反する二つの力、即ち、報酬と罰に翻弄されています。

う~。しかし、今のところ、これ以上は分かりません。