2020/01/20 うつせみ

夢は夜見るものです。
では、いったい、どこの誰が何を見ているのでしょうか?
そもそも、『見る』とは、何を意味しているのでしょうか?

ここでは、人間の脳の構造と夢の関係を、フロイトの夢判断に沿って考察します。

5.4 はじめに

注)この話は意識感覚器官の知識を前提にしています。先に、こちらを参照頂くと、誤解が少なくなります。

夢について考えてみます。
この夢現象と、人間の脳の構造との間にある関係を、フロイトの夢判断に沿って考察してみます。

夢は夢みるものであって、それは夜睡眠中に体験します。そのとき当然、まぶたは閉じているわけですから、その夢みている視覚情報は、眼から流入したものではありません。

それでは、夢は、いったい、どこの誰が何を見ているのでしょうか。そもそも、我々にとって、見るという行為は、あるいは、体験するという行為は何を意味しているのでしょうか。

フロイトと願望充足

フロイトは、「夢は願望充足行為である。」と述べています。
我々人間の脳は、3種類の願望充足行為から成り立っています。快楽原則現実原則夢過程の3つです。

1.快楽原則
2.現実原則
3.夢過程

快楽原則は、心の中に溜まったストレスやテンションを、外部運動器官に向かってデタラメに捨ててしまう行為です。例えば、スポーツや趣味、ショッピングで、ストレスを発散する行為です。この行為の場合、ストレスの原因と、発散行為の間には何の因果関係もありません。
要は、外に向かって捨てればいいだけです。その捨て先は問いません。発散して、スカッとすればいいだけです。

現実原則は、ストレスの原因と発散行動の間に強い因果関係が存在する場合です。
例えば、『腹が減ったから食事をする。』といった行為です。現実逃避して、水を飲んでも、喉元を通り過ぎる一瞬だけ癒されますが、直ぐに現実に引き戻されてしまいます。このような場合、食事をしなければ空腹は癒されません。
とりあえず、楽な快楽原則を試みますが、しかし、現実は許してくれません。
食欲は本能ですが、食べ物を探す行為は学習です。動物は、みな探すのに苦労しています。しかし、脳は好んで学習している訳ではありません。ペナルティに促されて、渋々現実に向き合っているだけです。
要は、『クサイ臭いは、元から絶たなきゃダメ。』です。元から断たないと、いつまでもストレスや苦痛に苛まれ続けます。この苦痛から逃れる為に、始めて、現実と向き合った学習が成立します。

夢過程は、意識器官を使った架空行動によって、架空の願望充足に耽る行為です。溜まったストレスやテンションを、運動器官に向かって放出しないで、意識器官に向かって放出します。その結果、夢(架空行動)が形成されます。
性欲などのように社会的に強い拘束を受けている欲望は、簡単には運動器官に向かって放出できません。セクハラになるから。このような欲望は、意識器官に向かって放出して、架空の願望充足行為に耽っています。
どちらかと言えば、快楽原則に似ています。要は、テンションを捨てればいいだけです。捨てる先が、運動器官では無くて、意識器官であるだけです。その結果が怖い夢になっても、心本体にとっては、知ったことではありません。要は、発散できればいいだけです。もっとも、怖い夢を見さされる意識器官にとっては、いい迷惑ですが。

テーマは、欲望と、その満足過程です。
人々が一番目を向けたくない現実です。現実逃避して、言葉で飾りたい現実です。何処の誰が、どのような欲望を持っていて、それをどのような方法で満足させようとしているかです。
欲望は、真理に化身しています。言葉の整形手術によって。年増女の厚化粧のように、これでもか、これでもかと、言葉が塗り固められています。

5.4.1 人間にとって、体験するとは?

このことを理解するためには、まず、我々人間の精神生活の特殊性に、目を向ける必要があります。

我々の精神生活は、外界に向かって開かれた五感の上に成り立っているのではありません。意識感覚器官の上に成り立っています。

我々が、ある物事を言葉によって説明できるのも、それが意識にとっての知覚対象となっているからです。それが証拠に、無意識に属していることは、たとえ、それが自分の心や体の上に起こった出来事であっても、意識知覚することができませんから、自覚することが出来ず、言葉によって説明することもできません。
言葉によって説明出来なければ、それは、『体験している。』とは言えません。

この意識にとっての知覚対象のみが、即ち、言葉で説明出来ることのみが、我々の精神生活の材料となっていることは、非常に重要な意味をもっています。

なぜなら、言葉も、そして、その言葉によって作り出された世界も、例えば、哲学や科学、宗教、芸術も、すべて意識にとっての知覚対象であるがゆえに、それは、我々の精神生活の一部を構成することができるからです。いや、哲学も科学も、宗教も、芸術も、もっと本質的な問題として、現代の科学文明自体が、意識にとっての知覚対象の範囲内の事象でしかないからです。それらは、全て、脳内部に作り出された架空事象です。今流行りの言葉を使えば、仮想現実の世界です。

意識している世界と、その外側

意識の外側
哲学も、科学も、宗教も、全ては意識感覚器官にとっての知覚対象です。
言葉も意識にとっての知覚対象です。従って、言葉と結びついている全ての事象も同様です。

意識知覚している世界の外側には、広大な未知の世界が広がっている筈です。
でも、それを知る術はありません。
我々は、意識知覚している世界の内側しか知りません。

外部感覚器官は、外側の世界を知覚している筈ですが、脳に流入しているのは、神経組織上のパルス信号です。脳内部で処理をすることによって、始めて、『パルス信号』に『生きる事』の意味付けを行っています。意識が知覚しているのは、この『生きる意味付け』をされた事象です。それは何らかの形で、『自己の生きること』と接点を持っています。

現代の科学文明は、、、、もっと正確には、文明自体は、意識感覚器官が作り出したものです。その範囲内に限定された事象です。その外側に広がっている筈の広大な未知の世界をカバーしたものでは無いことです。ここに、意識感覚器官によって作り出された現代科学文明の限界があります。

仏教では、この状態を、『一切は空なり』、又は、『色即是空』と、表現しています。いわゆる、『空の哲学』と呼ばれているものです。空の哲学は、「意識は感覚器官であって、意識知覚している事象は、脳内部の事象である。即ち、それは、実体のない空っぽのもの、架空事象である。」ことを、前提としています。

この意味に於て、夢も何らかのかたちで、意識にとっての知覚対象となっている事象であると考えられます。

覚醒時に意識知覚しているもの

覚醒時においては、これらの意識にとっての知覚対象は、外部感覚器官から流入した信号に基づいて作り出されています。

外部感覚器官から流入した信号は、我々の神経組織(第一システム)によって処理を加えられ、ある特定のかたちをとります。意識感覚器官は、それを知覚対象としています。
つまり、意識感覚器官が知覚対象としているのは、外部感覚器官からの生の情報ではなくて、いったん処理され概念化された情報です。

それは、外部感覚器官から流入した信号と、それから連想される記憶痕跡の融合物になっています。我々は、外部感覚器官からの信号を意識知覚していると同時に、そこから連想される過去の記憶痕跡も、意識知覚しています。この過去の記憶痕跡によって、外部信号の意味付けを行っています。

覚醒時に意識知覚している情報

覚醒時に意識知覚している情報
意識知覚している情報は、外部感覚器官と、記憶痕跡との融合物になっています。
我々は、外部感覚器官からの情報と、そこから連想される記憶痕跡を同時に意識知覚しています。

情報の意味付けは、過去の記憶痕跡で行っています。

例えば、自分が今この腕にはめているデジタル時計を例にとれば、自分が外部感覚器官を通して得ることができるこの時計に関する情報は、その外観に関するもののみです。
内部に関する情報は、透けて見える訳ではありませんから、得ることができません。

しかし、自分は、この内部に関しても、認識や理解することができます。なぜなら、自分の意識知覚している事象は、外部感覚器官からの情報と、自分のもっている知識との融合物だからです。
自分は、このデジタル時計が、電池と水晶発振子とLSIと液晶から構成されていることを理解しています。しかし、専門家ではないので、それ以上の詳しいことは分かりません。専門家ならば、もっと詳しく回路図や、それ以上のことも、まぶたの上に思い浮かべることができると思います。

同じものを見ても、自分と専門家とでは、その知識の程度が異なっておりますから、その認識の程度も異なってしまいます。素人の方は、もっと素朴で、「定期的にボタン電池を交換しないと止まってしまう。」程度の認識かもしれません。中には、なぜ動かなくなったのか、電池切れの理由さえ理解できない方も、おられるかもしれません。「壊れた!!!」と。

人間は自分の知っている範囲の事しか知らないので、全て、知っていると錯覚しています。
自分の知っていることは、全て、意識知覚することができます。忘れていることを除いて。忘れている事は、意識知覚できないので、忘れていること自体を自覚することはありません。結論。やっぱり、万物の霊長は、偉大です。全知全能です。神の匹敵します。知っていることは、全て、知っているので。知らないことは知らないので。

腕時計には、人其々の思い出があります。見ただけで、過去の様々な思い出も蘇ってきます。意識知覚している腕時計は、眼から流入した信号だけでなく、そのものに関する過去の記憶痕跡との融合物になっています。我々は、同時に過去の思い出(記憶痕跡)も意識知覚しています。

また、閉じているドアを目の前にしても、それが自分の家であるなら、その向こうに何があるかを理解できます。
自分が目にしているのは、確かに閉じているドアですが、しかし、自分が意識知覚しているのは、そのドアと過去の経験とから作り出された融合物であるからです。それだけではありません。そのドアの向こうで起こった昨日の出来事も思い出すことができます。
逆に、始めて訪れたホテルの場合、ドアの前に立っても、何も思い浮かびません。過去の体験も記憶もないからです。映像から何も連想しないからです。

意識は、眼などと同じ感覚器官ですから、過去の状態を保持することはできません。すなわち、瞬間瞬間に消え去ってしまい、記憶力をもってはいませんが、過去の記憶痕跡を、もう一度、意識知覚とすることによって、その過去を、意識感覚器官上に再現することはできます。

記憶痕跡を、再度、意識感覚器官の知覚対象とすることによって、すなわち、意識器官を使った過去の再体験によって、過去を思い出すことができます。

思い出すとは、意識器官を使った過去の架空の再体験を意味しています。

5.4.2 夢を体験するとは?

夢現象における意識感覚器官の知覚対象は、このような過程を通して作り出されたものではありません。なぜなら、睡眠時には、外部感覚器官は閉じており、その流入する情報の量は、極端に少ないからです。

もちろん、夢の中には、外部感覚器官に与えられた刺激が原因となって作り出されたものもありますが、多くはそれとは別の過程を通して作り出されています。
この過程を、フロイトの夢理論に従って解釈すると次のようになります。彼は、次のように述べています。

夢は、願望の充足行為である。

我々の心の中には、様々な欲望と、その欲望が引き起こしている緊張状態(テンション)が存在しています。これらの欲望は、原則として満足される必要があります。満足されなければ、欲望は消滅せず、従って、欲求不満の状態に陥ってしまうからです。イライラきて、不快になってしまうからです。

これらの欲望が満足される原則は、行動を起こすことです。我々の心を不快な状態に陥れているテンションを、外部運動器官に向かって放出し、実際の行動を生じさせ、満足体験が得られれば、欲望は治まります。満足体験が得られなくても、取りあえずは、発散できて、『スカッと。』とします。

つまり、第一システム(運動器官)を使った満足体験が必要です。しかし、現実問題として、全ての欲望が、このような理想的手段によって、解決される訳ではありません。我々の行動は、社会的慣例や道徳に強く拘束されていますから、どうすることもできず残ってしまうものもあります。特に性と関係したものの中には、この傾向を持ったものが多くあります。これらの欲望は、そのはけ口を求めて心の中で蠢いております。
その欲望を無理に教義や道徳、法律などの力で抑え込もうとすると屈折して、禁酒法のように犯罪化します。妻帯を禁じた教団の司祭たちは、しばしば、性欲が弱い者に向かい、幼児性愛などに溺れてしまっています。欲望を、教義などの建て前と綺麗事で抑え込んでしまった結果です。適度に妻帯でガス抜きしなかった結果です。リベラルの成れの果てです。

夢は、このような第一システム(運動器官)を使って充足することができなかった欲望が、そのはけ口を求めて、第二システム(意識器官)になだれ込む現象であると考えられます。すなわち、第一システム(運動器官)を使った現実の満足体験の代わりに、第二システム(意識器官)を使った架空の満足体験によって、欲望を消滅、解消させる行為であると考えられます。

夢見ている時、意識知覚している情報は、心の中に蠢いている、満たされない欲望と、その欲望から連想される記憶痕跡の融合物(夢の塊)になっています。この夢の塊(融合物)が、連想によって繋がって、次々と流れていきます。夢は連想によって繋がっているので、筋道の通った物語ではなくて、どちらかと言えば、奇想天外なものが多くなっています。

夢体験で意識知覚している情報

夢体験で意識知覚している情報
夢は、満たされない欲望と、そこから連想される記憶痕跡の融合物になっています。その融合物、即ち、夢の塊を、意識の知覚対象にしています。
これらの融合物の塊は、連想によって、次の塊を連れてやってきています。この為、夢物語は、時として、奇想天外になります。

このような夢の構成形式は、ジャズやバッハと共通しています。これらの音楽も、論理的なメロディの連なりから構成されているのではなくて、音の塊が、次の音の塊を連想によって、連れてやってきています。この構成形式の違いが、他の音楽と異なったジャズやバッハの魅力になっています。

我々が日常経験している夢は、甘い夢ばかりではありません。恐ろしい夢もあります。恐ろしさのあまり、途中で目が醒めてしまうこともあります。
そのような夢まで、「願望の充足行為である。」と主張するフロイトは、一見矛盾しているようにも思えます。

恐い夢がなぜ願望の充足になるのか、常識では、逆のようにも思えます。そもそも、満足するとは何を意味しているのでしょうか。甘い夢に浸ることだけが満足体験なのでしょうか。

このことを理解するためには、我々の神経組織の性質に注目する必要があります。

5.4.3 願望を充足する3つの方法

我々人間の心は、不快な状態を回避して、快適な状態になる為に、3種類の方法を使っています。

第一の方法は、快楽原則に基ずく願望充足です。
第二の方法が、現実原則に基ずく願望充足です。
第三の方法が、夢過程による願望充足です。

3種類の願望充足

3種類の願望充足
心の中に溜まったテンションを捨て、願望を満たす方法には3種類あります。

1.快楽原則
 何も考えずに、外に捨てること。
 例:趣味、八つ当たり
2.現実原則
 運動器官に向かって放出し、テンションの発生源を止める。
 例:食事を取る。
3.夢過程
 意識器官に向かって放出。
 夢の中で、架空の願望充足に浸ります。

5.4.4 快楽原則による願望充足

例えば、スポーツや趣味、ショッピングで、溜まっていたストレスを発散する行為です。

神経組織の最も基本的な性質は、自らをできるだけ無興奮な状態に置くことです。心の中にテンションやストレスが溜まった不快な状態を回避することです。
不快な状態を回避して、ストレスの無い快適な状態を保つことです。

神経組織を無興奮な状態にすること。

だから、発生したテンションは、できるだけ速やかに放出しなければなりません。テンションが溜まった不快な状態は、一刻も早く解消しなければいけません。
その放出手段は、問いません。手段を選ばずに、ともかく、外に捨ててしまうことです。

たとえば、日頃から溜まりに溜まったストレスを、スポーツや趣味、ショッピングで発散するときのように、ともかく放出してしまえば、問題は解決します。このとき、ストレスの原因と、放出先との間には、何の因果関係も要求されません。ともかく、発散すればよいのです。発散すれば、モヤモヤが消えて、スカッとします。

八つ当たりなども、これに該当します。八つ当たりでは、関係のない方向に、怒りをぶつけて、怒り狂っています。机を蹴り飛ばしたり、手に持った物を、思わず、壁に投げつけています。
運動器官への放出路が確定しておらず、辺り構わず、デタラメに、手当たり次第に放出しています。このような行動を外から観察していると、あたかも、探求反射に見えます。

日中の熱い地表に、間違って出てしまったミミズは、熱さのあまり、のたうち回っています。体をよじって、飛び跳ねています。運が良ければ、涼しい草むらや、水たまりに落ちますが、大抵は、力尽きて、干からびてしまいます。

ミミズのような脳らしき脳を持っていない単純な神経組織の場合も、やはり同様に快楽原則は成り立っているようです。放出路が確定していない場合は、デタラメに放出して、のたうち回っています。土の中を這うような、合理的な行動が形成されていません。

【快楽原則による願望充足】

溜まったストレスやテンションを外に向かって放出すること。

放出先は問わない。
放出路が確定していない場合は、とりあえず、デタラメに放出してみる必要があります。
その結果は、あたかも、探究反射に見えます。

探求反射は、特別な機能では無くて、快楽原則に基づいたデタラメな外部運動器官への放出です。

5.4.5 現実原則と、実際の欲望の充足過程

実際の欲望の充足過程は、もう少し複雑です。クサイ臭いは、元から断つ必要があります。

心の中に発生するテンションが単発的なものなら、スポーツやショッピング、夢などによって解決できますが、しかし、空腹のように、テンションの発生が継続している場合には、このようなデタラメな放出だけでは、うまく解決できません。

空腹によって生じたテンションを第二システム(意識器官)に放出して、白日夢にふけっても、すぐに現実に引き戻されてしまいます。イライラきて、当たり散らしても、空腹は癒されません。我慢できずに、水を飲んでも、喉元を通り過ぎる一瞬だけです。直ぐに、現実に、引き戻されてしまいます。水腹は、空腹を癒してくれません。

空腹である限り、テンションは生産され続けるからです。そこで、このような場合には、そのテンションを第一システム(運動器官)に向かって放出し、獲物を捕まえるという現実行動に出なければなりません。獲物を捕まえて、空腹を癒さなければいけません。空腹で生じている耐えがたい苦痛を止めなければいけません。すなわち、空腹ならば獲物を追いかけるという因果関係に基づいた、現実の行動を起こす必要があります。

簡単に獲物が捉まる訳ではありませんから、試行錯誤し、苦労して、失敗して、また、苦労して、やっと、捕まえることが出来るようになります。うまく行った時の行動を覚えておいて、今後は、それを繰り返す必要があります。(探求反射による学習の成立。)

ともかく、空腹のように、テンションの生産が継続している場合、『クサイ臭い。』は元から断たなければいけません。

クサイ臭いは、元から絶たなきゃダメ。

もし、それをしないで、生産され続けているテンションを、第二システム(意識器官)に流して、白日夢に耽り続けたら、正常な日常生活を送ることができなくなってしまいます。心がそこに拘束されて、現実に目を向けることができなくなってしまいます。餓死してしまいます。

ここに始めて、『現実と向き合う必要性』が生じます。現実に則した行動をとる必要が生じます。即ち、『現実原則』に基ずく行動です。
「腹がへったから、獲物を捕まえる。」という欲望と行動の因果関係が成立します。

『脳は学習するものだ。』という先入観を捨てる必要があります。いやいや、現実と向き合っているだけかもしれません。現実は、優しくて心地よいものではないからです。厳しくて、辛くて、苦いものだからです。自分の都合と欲望が、勝手に一方的に無視されている世界だからです。

出来ることなら、「僕は悪くない。他人が悪い。」で現実逃避して、他人に八つ当たりしている方が遥かに楽です。改善の努力が必要ないので。でも、残念ながら、現実は許してくれません。惨いペナルティが待っています。
人は惨いペナルティに直面して、始めて学習しています。それまでは、言葉を左右に振り回して、逃げ回っています。言葉(快楽原則)は自由自在で楽です。その反対に、実際に体を動かす『行い』(現実原則)は苦痛に満ち溢れています。

【現実原則による願望充足】

クサイ臭いは、元から絶たなきゃダメ。

空腹のように、テンションが継続的に発生する場合、ランダムに外部運動器官に向かって放出してもダメです。 放出しても、放出しても、テンションは、発生し続けるからです。

テンションの発生を止める為には、食事をする必要があります。

現実に目を向け、クサイ臭いを元から絶つべく、現実に即した行動を取る必要があります。
この現実原則に基づく行動パタンを定着させたのが、学習結果です。

ここに始めて、欲望と行動の間に因果関係が成立します。
ちなみに、快楽原則の場合、欲望と行動の間に、因果関係は存在しません。デタラメに、放出し、行動しているだけです。

クサイ臭いに蓋をしても、現実が先送りされるだけです。

5.4.6 夢過程による願望充足

夢は、テンションやストレスを意識器官に向かって放出する行為です。

快楽原則に基ずくなら、心の中に溜まったテンションやストレスは、ともかく、外に放出して、自らは、無興奮で快適な状態になることです。

つまり、第一システム(運動器官)に向かって放出しようが、第二システム(意識器官)に向かって放出しようが、また、第二システムに向かって放出された結果が、恐い夢になろうが無関係です。発散さえすればいいのです。もっとも、恐い夢を見さされる意識器官はいい迷惑ですが、しかし、心の本体は、それで目的を達成することができます。

夢過程は、このようなストレスが、運動器官に向かわないで、意識器官(第二システム)に向かって放出される現象だと思われます。

この意味において、「心に溜まったストレスを、意識感覚に向かって放出している夢は、願望充足行為である。」というフロイトの言葉は、正しいと言えます。後は、言葉尻と、言葉の定義の微調整の問題だけです。
甘い快楽体験だけが、願望充足行為ではありません。ストレスの発散こそが、最も重要な行為です。

夜の夢体験が、昼間の生活に影響を与えないのも、この願望の充足過程と密接な関係をもっています。我々は、毎晩、夢を見ていますが、しかし、ほとんど覚えていません。まるで酒に酔った時のように、記憶の中から消え去っています。

だから、その体験が、昼間の生活に影響を与えることもありません。この原因は、第二システム(意識器官)に向かってテンションが放出されると、行動を形成するための動力源がなくなってしまうためであると考えられます。その副作用として、結果的に夢が形成されているのですが。

空腹時のように、その生産が継続して起こっている場合、放出しても、すぐに溜りますが、多くの夢過程を形成しているテンションの場合、一度放出されると、仕事のストレスのように、溜るまでにしばらく時間がかかります。
このために、行動の原因となるべきテンションがなくなって、昼間の行動に影響を与えないのだと考えられます。
つまり、放出されると、心をドライブするエネルギーがなくなって、覚醒時の行動が形成されない為と考えられます。

夢は、願望の充足行為である。』とフロイトが言ったように、願望が充足されるので、即ち、行動の原因となるテンションが消滅するので、行動する必要が無くなるのだと考えられます。

【夢過程による願望充足】

心の中に溜まったテンションやストレスを、意識器官に向かって放出する行為。

その結果が怖い夢になろうが、そんなことは、知ったことではない。ともかく放出すれば、それで目的が達成されます。

性欲などのように、社会的規範や道徳によって、運動器官への放出が強く抑制されている場合、意識器官に向かって放出され、夢の中で架空の願望充足が行われます。

ちなみに、厳しい訓練に明け暮れる若い兵士たちの唯一の楽しみは、食うことと、寝ることです。辛い訓練から解放され、夢の中で一時の安息に浸っています。

5.4.7 まぼろし体験

『ゆめ(夢)体験』とよく似ている現象に、『まぼろし(幻)体験』があります。しかし、この体験は願望充足行為ではないようです。

『まぼろし体験』は、現代の科学では、現象の存在自体が認められていません。従って、不快に感じる方がおられるかもしれません。しかし、冷酷な現実なので、必要な情報だけ残しておきます。不快だと感じたら、この章は、読まないで無視して下さい。

我々の意識が体験している世界には、『ゆめ、うつつ、まぼろし(夢、現、幻)』の3つがあります。

『まぼろし(幻)体験』は、『うつつ(現)体験』と同じように、非常にリアルな体感を伴っていて、しかも、記憶にもシッカリ残ります。
この為、うつつ世界の延長として「別世界に迷い込んでしまった。」かのような錯覚を覚えます。死後の世界に迷い込んでしまったり、心の底から感動の渦が込み上げてくるので、「神と遭遇した。」と錯覚したりします。今までに体験したことが無い満ち足りた、光の渦に囲まれた感動的体験の場合もあります。心が負の感情に支配されていると、その反対もあります。また、ある方は「宇宙人に拉致された」ような体験をします。慣れないと、『うつつ(現)体験』と区別が付きません。
うつつ体験は、通常の覚醒時の体験です。多分?皆様が体験している世界は、『まぼろし』ではなくて、『うつつ』だと思います。自信はないけど。『うつつ』も『まぼろし』も、実感としては、たいして違いません。

心の状態が、そのまま映像化されます。だから、体験を聞いただけで、その人の心の奥底が透けて見えてしまいます。恐怖心があれば、怖い幻覚となります。

睡眠不足や、死の間際のように、心に大きなストレスが掛かった場合に体験し易いみたいです。現実世界への拘りと拘束が弱くなった時に、心の奥底に潜んでいた信号が、意識知覚にまで昇ってくるようです。

『まぼろし体験』は、『うつつ体験』(覚醒時の体験)と異なって、外部感覚器官からの信号で作り出された世界ではありません。『ゆめ体験』と同じように、心の中の事情によって作り出された世界です。従って、夢と同じように、ありとあらゆる奇想天外な体験があります。それ故、その体験内容によって様々な呼び方がされています。たとえば、死後幻覚、臨死体験、お迎え現象、UFO体験、もののけ、蛇憑き、狐憑き、金縛り、etc、、。

『もののけ体験』では、『もののけ(いきもののけはい)』は、多くの場合、キメラ(合成動物)の姿をしています。頭がサルで胴体が蛇といった具合です。自分に害をなす悪霊や邪悪なものが、追いかけてきたり、取り憑いたりします。心の状態がそのまま反映されるので、民族性が強く出ます。

『まぼろし体験』の原因は、解りません。原因はひとつだけではなさそうです。

『まぼろし体験』と『ゆめ体験』の違いは、覚醒後に現れます。『ゆめ体験』は、願望充足行為なので覚醒後の『うつつ体験』には影響を与えませんが、『まぼろし体験』は、強い影響を与えます。覚醒した時に、強い衝動に駆られて彷徨い、やがて、『まぼろし体験』の原因と出会います。出会えば、直ぐにわかります。『あっ。これだ。』と。もっとも、その多くは辛い現実ですが。

この覚醒後に影響を与えるかどうかで、『まぼろし体験』と『ゆめ体験』を判別します。

【まぼろし(幻)体験】

『まぼろし体験』は、非常にリアルな体感を伴っており、記憶にもシッカリ残ります。
それ故、「別世界に迷い込んだ。」と錯覚します。
この体験は、覚醒後の日常生活に強い影響を与えます。
しかし、原因は判りません。
もっと基本的問題として、現象の再現方法自体が分かりません。現状の全体像が掴み切れていません。

なお、現代においては、現象の存在自体が認められていません。全ては、それ以前の問題です。「存在しないものを論じて、何の意味があるのか?」と思われるかもしれませんね。

注)【 うつつ(現)体験 】

『うつつ(現)体験』は、通常の覚醒時の現実体験です。今、この瞬間に、この文章を読んでいる世界のことです。外部感覚器官からの信号で作り出されています。

注)【 もののけ 】

『もののけ』は悪霊のことではありません。生き物の気配(いきもののけはい)のことです。背後に、ふと、気配を感じることがあると思いますが、その気配のことです。生き物の気配が頭の上を飛び回り、取り憑いてくる現象です。
もっとも、心に未知への恐怖があると、その恐怖心が映像化されるので、怖い魔物や邪悪な悪霊の姿になることもあります。キメラ(合成動物)の姿をしていることもあります。全ては、夢同様に心の中の事象なので、その心の状態が幻覚化されます。心の状態や民族性によって、様々なバリエーションがあります。日本人の場合は、伝統的に『もののけ』や『ぬえ(鵺)』の幻覚です。

注)【 意識 】

意識という言葉は、現代において曖昧です。複数の事象を同時に指しています。ひとつは、『意識器官』、即ち、シミュレーションシステム本体です。もうひとつは、このシステムへの入力装置、即ち、『意識感覚器官』です。

そして、意識感覚器官から生じている知覚刺激を、仏教では『意知覚』と呼んでいます。これも、「意識したらダメだ。」という言葉の運用にも見られるように、『意識』という言葉を使っています。この言葉の正確な表現は、「意識知覚している情報に振り回されたらダメだ。拘ってはいけない。」です。行動が、現実ではなくて、意識知覚、(即ち、現実で無いものや言葉)に、振り回されてしまうからです。

現実に基づかない行動は、全て破綻します。たとえ、それが宗教上の真理であったとしても。それは、前を見ないで、経典を読みながら、車を運転しているようなものです。わき見運転は、理由の如何を問わず事故の元です。『宗教的真理(言葉)』ではなくて、『わき見運転(行い)』が結果を生じさせてしまうからです。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。大切なのは、『言葉』では無くて『行い』です。『行い』と『結果』の因果関係を観察することです。
もっとも、、、楽なのは、『行い』ではなくて、自由自在な『言葉』の方なので、みんな、楽な方にばかり逃げています。言葉(真理)を振り回すことばかりに夢中になっています。意識器官と、その知覚対象である言葉の弊害です。言葉と、その言葉によって正当化されている欲望への執着が生み出している弊害です。