2022/06/13 うつせみ

般若心教の作者は、芸術家肌の直観的感性を持った人物です。
彼の直観で捉えた空の話をします。

8.4.0 般若心経

般若心経には、次のような有名な言葉があります。

色即是空(しきそくぜくう)
(Image (that consciousness perceives) is empty.)

仏教では、意識感覚器官の知覚対象を、『』と、呼んでいます。現代語に訳すと、『イメージ』が最も近い概念です。
なお、『空』は、『からっぽ(empty)』という日本語が、一番、感性的にピッタリします。

人間が意識知覚しているイメージ(色)は、実体ではない。実体のない空っぽのものだ。(Image (that consciousness perceives) is empty.)
欲望によって作り出された脳内部の架空の事象です。今流行りの言葉を使うなら、それは仮想現実です。つまり、イメージ(色)は、仮想現実の構成要素です。実体の無いものです。

まるで、蝉の抜け殻のように、言葉の殻は持っています。でも、中身は空っぽです。
意識知覚しているイメージは、言葉で表現可能です。言葉の殻を持っています。でも、その言葉で表現されているイメージは、自らの欲望が脳内部に生み出しものです。存在する実体ではありません。即ち、「色即是空」、「一切は空なり」です。

空即是色(くうそくぜしき)
(Empty is image.)

「何も無い空っぽのもの、それが、意識が知覚しているイメージ(色)だ。」(Empty is image.)と、述べています。

直観的に思考を反転させて、『空』と『色』が同じものだと理解しています。このような思考の反転によって同じ内容を繰り返す手法は、芸術家肌の直観的感性を持った人に、よく見られる傾向です。

人々は、唯物論を信じています。だから、「我々は実体を認識している。認識しているものは、実体だ。意識知覚している事象は実体だ。」と思っています。
意識知覚しているイメージ(色)は、(実感できるが故に、)実体だと思っています。だから、その(実感できるもの、即ち、)知覚している事象に執着しています。拘っています。
そして、そこから、様々な迷いや苦しみを生み出しています。

意識知覚しているイメージ(色)は、欲望が作り出している心の中の架空事象です。実体ではありません。
実体のない空っぽのものです。(色即是空)

8.4.1 『眼耳鼻舌身意』の六つの感覚器官の扱い

『眼耳鼻舌身意』の六つの感覚器官の扱いが、原始仏教と空の哲学では微妙に異なっています。

2500年前の原始仏教は、『眼耳鼻舌身意』の六つの感覚器官を平等に扱う傾向にあります。原始仏教では、「(六根)全ての知覚刺激への拘りから離れることが大切だ。」と説いています。

ところが、2000年前の『空の哲学』では、これら六つの感覚器官のうち、意識感覚器官に焦点を当てた記述が多くなっています。(般若心境で述べている「色即是空」の)『色(Image)』は、そのものズバリ、意識感覚器官の知覚対象を指しています。
「意識知覚しているイメージ(色)は、実体のないものだ。空っぽだ。」と、述べています。

金剛般若経の
「イルカはイルカに非ず。故に、これをイルカと名づく。」という表現も、意識感覚器官に焦点を当てた表現です。
「(意識知覚している)イルカは(実体だと思い込んでいる)イルカに非ず。故に、これを(言葉で)イルカと名づく。」と、述べています。
意識感覚器官の特殊性に目を向けなければ理解できない表現です。

「より、洗練された。」と言うべきか、「問題の本質が絞り込まれた。」と言うべきか、「純粋培養されて先鋭化した。」と言うべきか、微妙なところです。

ここでの話でも、原始仏教から空の哲学へ至る話題で、この六根の扱いが微妙に揺れています。実際、仏教でも揺れています。どの感覚器官に焦点を当てて話を進めるべきかで。

8.4.2 般若心経の作者のプロファイル

般若心経の作者は、芸術家肌のヒラメキ屋さんタイプです。
どちらかと言えば、落ちこぼれ気味です。優等生という印象は受けません。
(落ちこぼれの悲哀が伝わってくる経典です。)

「朝から晩まで、和尚さんは、『空~、空~』言ってるけど、腹なんか減ってないわい!。あっ、それは『グ~、グ~』か。」って日々を送っていましたが、ある時、ふと。。。

あっ。そうか!。。。全ては空っぽだったのだ。(色即是空) 最初から何も無かったのだ!。(空即是色) 今まで、(空を理解しようと、)散々、拘ってきた自分がバカみたい。

と、気付き、、、その一瞬のヒラメキと感動を一気に文章に纏めました。消えてしまう前に、急いで。そんな情景が瞼に浮びます。
「理解すべき問題」ではなくて、「気付くべき問題」だったのです。「全ては、空っぽだった。(色即是空)」と。

この為、非常に短くて直観的な文章になっています。『色即是空。空即是色。』と、直観的に思考を反転させて、繰り返しています。空は、本来、空っぽの状態を表現する形容詞の筈が、状態そのものを存在と捉え、名詞として使っています。このような用法は、言葉の文法に精通した優等生ではなくて、物事を感性で捉えている芸術家肌の特徴です。

般若心経が、現代において愛用されている第一の理由は、もちろん、短い為ですが、第二の理由は、感性で直観的に読めて、親しみ易い為です。なにせ、作者は、芸術家肌のオチコボレですから。思考パタンが、我々凡人と近いものがあります。

これに対して、金剛般若経の作者は、現代に例えるなら、物理学者です。仏教界随一の理論家です。論理的に非常に正確に記述されています。だから、(物理学や数学の本を読むように、)ちょっと重たいな。遠慮した方がいいかも。」という印象を持ちます。実際、読んでいても、面白くも可笑しくもありません。仏教オタク以外にとっては、退屈です。

金剛般若経の作者と、般若心経の作者は、思考パタン、目の前の現実への向き合い方、生き様等、多くの点で対照的です。

般若心経の頃には、もう既に「シューニャ(空)」は、仏教を志す者にとっては、理解すべき基礎知識だったみたいです。ちょうど現代の学生が勉強に四苦八苦しているように、「シューニャ(空)」を理解できなくて四苦八苦していた姿が、経典全体から滲み出ていました。そして、それが晴れた瞬間、即ち、理解するものでは無くて『全ては空っぽだ。』と気付いた瞬間の感動に溢れていました。「全ては空っぽだった(色即是空)。最初から何も無かった(空即是色)。全ては、自らの欲望が生み出したものだった。」と。

8.4.3 色即是空は、賢者タイムのことではありません

色即是空 空即是色』 は、
「 Love is empty. Empty is love. 」 では無くて
「 Image (that consciousness perceives) is empty. Empty is image.」 です。

フ~。色事は所詮虚しいな、色即是空(Love is empty. )。虚しいものが色事なのか、空即是色(Empty is love. )。」ではありません。まさかとは思いますが、念の為。

意識知覚しているイメージ(色)は、実体のないものです。「空っぽ」です。そのような実体のないものが、我々の意識知覚しているイメージです。(そういう意味です。)

もっとも、実感としては、Love も Image も虚しいものなので、たいして変わりませんが。



注)『色』という日本語は、三つの意味を持っています。

一般常識として、『色』は、色彩(Color)という意味です。隠語としては、色事(Love)を意味します。仏教用語としては、「意識感覚器官の知覚対象(Image)」という意味で使われています。意識知覚しているイメージを、(仏教では)『色』と表現しています。

  1. Color(色彩)
  2. Love(愛や恋などの色事)
  3. Image(意識感覚器官の知覚対象)

なお、日常生活では、仏教用語としての色(Image)は、まず、使われる事はありません。そのような状況に遭遇した事は一度もありません。仏教関連の話題の時のみです。
日常生活で遭遇した「色即是空」は、「Love is empty.」、或いは、「人生は虚しい。」という意味でした。賢者タイムの意味合いで使っていました。



笑い話)

「色即是空。空即是色。」の英訳は、(Image is empty. Empty is image.)が、感性的には一番ピッタリします。でも、文法的には、正しくないような。。。

そこで、「Empty is」で、ネットを検索してみました。すると、なんと、フランク・シナトラの歌詞がトップにヒットしました。

Empty Is ( Frank Sinatra)

Empty is the sky before the sun wakes up
Empty is the eyes of animals cages
Empty,faces of woman mourning

思わず、目が点、笑い転げてしまいました。辞書や用例集が出てくると期待していたのに、いきなりミュージシャンの歌詞が出てきたのです。せめて、学術的綺麗事で飾り立ててほしかったのに、あまりにも、生々し過ぎます。

やっぱり、般若心経の作者は、芸術家肌のオチコボレだったのです。言葉を文法ではなくて、感性で使っていたのです。『空(empty)』は、空っぽの状態を表現する形容詞の筈が、その状態そのものを、(直観的に)存在と捉え、名詞として使っていたのです。