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6.2 第二の欠陥(模倣反射)


   第二の欠陥は、第二段階で述べた模倣反射についてです。

   結論だけを先に述べると、模倣反射は、意識器官を使った学習行為らしく、と言うよりは、意識は、本来、模倣反射の必要性に基づいて発達してきた器官らしいのです。
   だから、この学習行為は、第二段階にではなくて、第三段階に属していると考えられます。

   生物進化を支配している傾向

   これは、本来、進化論のところで述べる内容なのですが、生物の進化過程で発生する全く新しい器官は、その生物の過去とは全く無関係に突然に発生してくるものではなくて、最初それは現に存在している古い器官のコピーとして発生するようです。何らかの形で、過去の延長線上にあるようです。
   つまり、ネオ・ダーウィニストが主張するように、何もないところから突然変異によって新しいものが発生するのではなくて、新しいものは必ず古いものを土台として発生してくると考えられます。

   だから、古い体制をもった生物が、新しい体制をもった生物に変身する場合、まず最初に遺伝子のコピーと重複が起こり、それに基づいて古い器官のコピーとしての新しい器官が発生し、それが古い体制に付け加わり改良されて新しい機能をもつようになり、新しい体制が完成すると考えられます。
  1. 遺伝子のコピーと重複によって、古い器官の疑似組織として発生
  2. 改良が加えられる。全体のバランスが調整される。
  3. 発生した新しい器官 + 古い体制 ―――→ 新しい体制


   模倣反射の生物進化上の起源について

   もし、進化現象にこのような因果関係を認めるなら、いま問題となっている神経組織の進化についても、いくつかの興味ある問題が浮かび上がってきます。

   動物において最も古い学習行為は、第一システムを使った探求反射、すなわち、肉体の実体験による試行錯誤です。
   だから、その次に発生してきた模倣反射も、それ自身は、独自な機能ではなくて、同じ学習行為でも、より古い探求反射と関係があるはずですし、機能的には何らかの形で延長線上にあるはずです。
   つまり、模倣反射は、機能的には探求反射(体験学習)の一種であると予想されます。

   このことを考察するために、さらに模倣反射の延長線上にあると予想される言語学習や言語思考について考察を行ないます。そして、これを手がかりにして、逆に模倣反射のメカニズムを推測します。


   言語学習と第二システム

   我々人間は、言語を使って学習することが可能です。
   このように本を読むことも、この学習行為の一種です。この言語学習は、本来、各個体間の通信手段、すなわち、あるAという神経組織から、別のBという神経組織にプログラムを伝達するための手段として発達したようです。

   だから、言語学習とは、Bという神経組織にとってAから送られてきた言葉によるプログラムを自分自身に組み込んでいく行為であると考えられます。すなわち、コンピューター用語を使うなら、Aから送られてきたソースファイルを、コンパイルしてオブジェクトファイルを作り、それを自分自身のシステムに組み込んでいく行為であると考えられます。

   なお、この時、ソースファイルは、言葉、すなわちアスキーコードによって記述されておりますが、オブジェクトファイルは、神経組織上で実行可能な、なんらかの形式をもちます。
   この学習が、ベルを鳴らせば、よだれを垂らすような単純な条件反射でないことだけは明らかだと思います。それが証拠に、この自分の書いている文章のように、何千、何万という単語から構成されたプログラムも、伝達可能な訳ですから。

   いま現在、(我々人間において)言語は、ただ単にプログラムを伝達するだけでなく、思考のための道具としても使われています。しかも、それは我々の精神生活において、非常に大きなウェイトを占めています。
   だから、一部の哲学者は、人間は言語によってのみ思考するのだと錯覚しておりますが、この見解が正しくないことは明らかだと思います。

   本来、第二システムは架空行動のための制御システム系なのですから、我々は、頭の中に直接情景を思い浮かべて、その中であれやこれやと架空行動を繰り返すことも可能です。
   言語を使った思考の場合も、ただ単に音が頭の中を流れていくのではなくて、その言語と一緒に、その言語の意味する概念や情景が連想されながら流れて行くからこそ可能なのです。

   それが証拠に、同じ言語を使っても、人によって、そのいだくイメージが微妙に異なっておりますから、その思考結果も一致しない場合があります。だから、言語思考といっても、その原理は、それを使わなかった場合と基本的には変わりません。


   言語思考と言語学習の機能的同一性

   この言語思考と言語学習の機能的同一性に注目します。
   この二つの行為は、ともに言語によって自らの神経組織にプログラムを組み込むという点について同一です。
   つまり、二つの行為とも、言語と第二システムを使ったプログラミング行為です。ただ、異なっているのは、言語思考の場合、第二システムに流入する情報が、自らの発した言葉であるのに対して、言語学習の場合は、他人の発した言葉であるという点だけです。駆動元の情報の発信源が異なっています。

   たとえば、他人の話を聞く場合、自分はまず耳でその言葉をとらえ、それを頭の中に流し込みます。頭の中では、その言葉と、その言葉から連想されるイメージが一緒になって第二システムに流れ込み、そこで架空行動が形成され、それによって、その人の話を理解しております。
   つまり、他人の体験を、第二システムを使って自分の体験にすり替え、その自らの架空体験によって、その人の話を理解しております。だから、自分の体験したことのない話は、聞いてもよく理解できません。

   思考活動の場合は、その言葉を、自ら作り出しています。自らの作り出した言葉の流れで、頭の中に架空行動を生じさせ、その架空行動によって、思考の意味を理解しています。


   言語学習と模倣反射の機能的類似性

   さて、本題となるのですが、言語学習と模倣反射の機能的類似性に注目します。
   言語学習は、耳から流入した言葉によって第二システムに架空行動を生じさせる現象でした。それでは、それと同じ原理によって、目から流入した情報に基づいて、第二システムに架空行動を生じさせることはできないのでしようか。

   本来、第二システムは映像的な働きを持つものです。だから、こちらの方が、抽象的言語を扱うより、より可能性が高いように思えます。
   たとえば、子供が親の態度をまねる場合、親の態度をじっと観察することによって、情景を頭の中に流し込むことが可能です。このとき、親の姿と自分自身を同一視することによって、すなわち、親の姿を自分自身とすり替えることによって、その情景を第二システムに流し込むなら、そこで、ひとつの情景的思考、すなわち架空行動が成立するように思われます。

   このようなビデオ学習は、受け身です。自分で映像を動かす必要がありません。映画監督になって、映画を作るには、たいへんな才能が必要ですが、出来上がったものを見るだけだったら、誰でも評論家になれます。作り出す為には、たいへんな知識が必要ですが、鑑賞するのには知識があまり必要ありません。

   模倣反射の場合も、模倣対象は、目の前で勝手に動いてくれます。従って、思考活動のように、自分で動かす必要がないので、その現象に関する膨大な知識も不要です。より低機能な脳でも、実行可能です。思考活動に比べたら、その敷居は、かなり低くなります。

   つまり、模倣反射は、第二システムを使った架空の体験学習の一種ではないかと思われます。その架空行動を生み出している情報は、目から流入したイメージです。

   もともと、意識器官は、この模倣反射の必要性に基づいて、発達してきた器官ではないかと思われます。もし、このように考えるなら、最初の予想「模倣反射は、探求反射の延長線上にあり、それ自身、体験学習の一種である。」とも一致しますし、また模倣反射の非常識な不可解さも理解できます。


   模倣反射の異常さ

   模倣反射の非常識な点は、その学習される情報の絶対量の多さです。
   この反射がただ単に相手の行動に追随するだけのものだったら、その情報の量はたいしたことありません。せいぜい言葉によって説明できる程度の量です。
   ところが、もしそれが相手の行動の再現、すなわちビデオで再現するようなものであるなら、その情報の量は膨大なものとなります。

   たとえば、テニスのラケットを振るという動作、我々はテニスの経験がなくても、他人がやってるところを見れば簡単に真似することが出来るので、取り立てて大変なことではないように思っていますが、ロボット工学の専門家の立場に立って考えてみてください。熱がでてしまいます。我々の運動は、無数の筋肉の連携によって構成されていますが、そのプログラムの量は膨大なものとなってしまうからです。

   それが証拠に、テニスのまったく経験のない人に、言葉だけで、(身ぶりを交えずに)説明を試みてみてください。おそらく、その人はどんなに説明を受けても、ラケットを振れるようにはならないでしょう。その原因の一端は、そもそも言葉だけでは、個々の筋肉を制御するためのプログラムを伝達できないところにもあります。

   もっと本質的な問題として、その程度の情報では、その行動を理解できないからです。すなわち、言葉で説明できる程度の情報量では、絶対量が不足していてプログラムできないからです。

   また、この模倣反射が、尋常な行為でないことは、次の観察からも理解されます。
   我々は模倣するために、相手の行動をじっくり観察し、それをまぶたの上に焼き付けて行きますが、しかし、実際に自分がそれを再現するときには、自分自身が自分自身の行為を観察することはできないのです。
   すなわち、視覚上の比較によって行動が再現されているわけではないのです。我々は、このことになんの疑問も抱いておりませんが、この反射においては、学習の行なわれる場(視覚の場)と、それが再現される場(肉体の属している場)が異なっており、それが正しく再現されたかどうかを確認する手段はないのです。

   そこには、学習を成立させるような合理的なフィードバック機構が存在していないように見えます。しかし、それにも関わらず、我々はかなりの程度に相手の行動を模倣することが出来ます。

   模倣反射が、このように非常識で不可解な側面を持つのは、それが基本的に体験学習の一種であるため、すなわち、第二システムを使っておこなわれた架空の体験が、第一システムを使って実体験として再現されているからだと考えらます。
   だから、その学習される情報の量も膨大なものとなり、学習を成立させるような合理的なフィードバック機構も見いだせないのだと思われます。


   アニミズムの起源

   なお、これは直接関係ないことかもしれませんが、我々にとって最も素朴な宗教であるアニミズムも、その起源はここにあるようです。
   視覚対象に対する同一視と、すりかえの本能が、他の視覚の対象に対しても、たとえば、木や石にも自分と同じような心が宿っているという考え方を生じさせるようです。
   自分も、子供の頃はそう思いこんでいました。そして、そう思いこんでいる自分自身が、非常に不思議でした。そこには、そう思い込まなければならないような必然的理由など見あたらなかったからです。


   まとめ

   以上の結果をまとめます。
   第一システムを使った学習行為は、一種類存在しており、それを探求反射とか体験学習と呼んでいます。このメカニズムは、どのような下等な神経組織にも存在しています。

   第二システムを使った学習行為は、三種類存在します。
   第一番目は、眼からの情報に基づいて行なうもので、これを模倣反射と呼んでおります。
   第二番目が、耳からの、あるいは眼からの言語情報に基づいて行なうもので、これを言語学習と呼んでおります。言語学習には、耳からの音声言語と、目からの文字言語の二種類があります。
   第三番目が、自らの作り出した情報に基づいて行なうもので、思考活動と呼んでいます。

   これらは、いずれも原理的には、第一システムを使った体験学習に対応する、第二システムを使った架空の体験学習です。
   だから、結論として、我々動物の神経組織の進化を、以上のように三段階にわけて論ずることは、思考上の便利さはあっても、現実的意味はあまりなさそうです。
   以上の関係をひとつの表に整理しました。



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         参考文献
「ニホンザルの生態」 河合雅雄著 河出書房新社
「インナーゲーム」 W.T.ガルウェイ著 後藤新弥訳 日刊スポーツ出版社
「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 中村元訳 岩波書店
「論理のことば(タルカバーシャー)」モークシャーカラグプタ著 梶山雄一訳  中央公論社
「般若心経、金剛般若経」 中村元、紀野一義訳 岩波書店
「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社
「パース、ジェイムス、デューイ」 世界の名著第59巻 中央公論社
「進化とはなにか」 今西錦司著 講談社学術文庫