2019/04/10 うつせみ

人間の精神世界は、意識知覚の上に成り立っています。

このような意識にとっての知覚対象である精神世界は、古来の言葉を使えば、『ゆめ(夢)、うつつ(現)、まぼろし(幻)』の三つが存在しています。

注)この話は誤解を招く内容を含んでいます。現代の科学的常識と大きく異なっています。
しかし、大切な知識なので、誤解覚悟で、コミュニケーション作業を優先します。(誤解される可能性が高い、)リスクの大きな作業である事は充分に理解しています。
リスクとメリットを天秤に掛ければ、(現状では、)リスクの方が、かなり大きな作業です。でも、将来のメリットを考慮すると、避けて通る事のできない案件です。その将来のメリットに賭けざるえない状況です。
意識感覚器官の知識を前提にしています。先に、そちらを参照頂くと、誤解が少なくなります。

7._ はじめに

人間の精神世界は、意識知覚の上に成り立っています。

意識知覚できないもの、即ち、無意識の世界の事象は、この精神世界の構成要素にはなり得ません。

このような意識にとっての知覚対象である精神世界は、古来の言葉を使えば、『 ゆめ(夢) うつつ(現) まぼろし(幻)』の三つが存在しています。

この三つは、夫々異なった原因によって作り出されています。

【意識知覚している三つの世界】

  1. ゆめ(夢)
  2. うつつ(現)
  3. まぼろし(幻)
意識体験している三つの世界

意識体験している三つの世界
意識体験している世界は、 ゆめ(夢) うつつ(現) まぼろし(幻)の三つより、構成されます。

うつつ世界は、さらに、現実世界常識世界に分けられます。



意識とは何か?

人間の精神世界を理解するには、「意識とは何か?」を理解する必要があります。

生物学的には、意識は、感覚器官の一種です。「意識する。」とは、「意識感覚器官で知覚する。」ことを意味しています。
ジークムント・フロイトは、彼の著書「夢判断」で、意識について次のように述べています。

では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。

それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。

出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社

この特殊な感覚器官は、脳内部に架空行動の為の制御システムを構成しています。我々知的生命体の脳は、(肉体の生存と行動を支える)本来の制御システム系の他に、(意識器官という)肉体の架空行動を制御するシステムも持っています。独立した二組の制御システム系から構成されています。

知的生命体の脳を構成する二つの制御システム
システム名俗称目的感覚器官知覚対象該当する動物
第一システム無意識肉体の現実行動を制御五感(眼耳鼻舌身)外界全ての動物
第二システム意識肉体の架空行動を制御意識感覚器官仮想現実サルやイルカ

ここでの話題は、「この意識器官を使った架空行動には、どのような種類があるか」です。即ち、意識知覚している世界には、どのような種類があるかです。

意識器官の働きを理解する為には、まず、生物学の知識に目を向ける必要があります。

脳の構造と行動様式の進化は、下図のような三段階に整理されます。
最も基本的な構造は、本能的行動の脳です。次が本能の代用物として、学習結果が(本能の周りに)付け加わった脳です。最後が意識器官を搭載した知的生命体の脳です。脳が二重構造になっています。

脳の進化と、行動様式の関係

脳の進化と、行動様式の関係
脳は、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。それ以外の意味はありません。
本能的行動、学習された行動、意識された行動へと進化してきました。
この3つの段階で、夫々異なった特徴的構造を持っています。

意識感覚器官を持った人間の脳は、2組の独立した制御システムから構成されています。
第一システムは、肉体の現実行動を制御しています。五感から構成されています。
全ての動物に共通
第二システムは、肉体の架空行動を制御しています。意識感覚器官から構成されています。
知的生命体に固有

『考える』という行為は、この第二システムを使った、肉体の架空行動を意味しています。
即ち、人間の脳は、意識器官というシミュレーターを搭載した二重構造になっています。
ここに、知的生命体の秘密と、苦悩が隠されています。

現代科学では、まだ未知の知識です。
詳細は、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。

注)意識感覚器官は、第二システム(感覚器官)の入力装置です。第二システムは、肉体の架空行動(考える行為)を制御しています。



第一システム (無意識器官)

第二システム(意識器官)を理解する為には、まず、本来の脳、即ち、第一システムを理解する必要があります。第二システムは、第一システムの疑似組織であって、その働きも疑似的であるからです。

第一システムは、全ての動物に共通するシステムです。

この肉体の生存と行動を制御しています。感覚器官は、眼耳鼻舌身の五感から構成されています。心理学では、このシステムを『無意識』と呼んでいます。

このシステムは、二つに分類されます。行動のプログラムが遺伝的にDNAで決定されたシステムと、行動のプログラムの一部が、生まれてた後の体験学習に依存しているシステムです。前者を世間では『本能的プログラム』と呼び、後者を『学習されたプログラム』と呼んでいます。

  1. 本能的プログラム
  2. 学習されたプログラム

生物学的には、『学習されたプログラム』は『本能的プログラム』の代用物です。それ故、本能の周りに付け加わっています。学習は、「進歩する」ではなくて、「一人前になる」を意味しています。生まれた後に、(生きる為に)必要なプログラム(の一部)を身に付ける行為です。重要なプログラムは、相変わらず、本能のままです。

この学習が可能になったおかげて、動物は「時間的環境変化」にも「空間的環境変化」にも、進化する事なく適応可能となりました。短時間に、迅速に適応可能となりました。時間や場所の違いを、柔軟に吸収可能となりました。

環境変化と学習の関係

環境変化と学習の関係
環境は時間と共に変化します。(時間的変化)
棲む場所によっても変わります。(空間的変化)

学習が可能なシステムの場合、どちらの変化も、各個体にとっては体験の差としかならず、柔軟な適応が可能となりました。この結果、種自体の生息範囲も広くなりました。

一方、本能に依存している場合、その内容を変更する為には、世代の交代、即ち、進化が必要でした。時間が掛かりました。どの個体も、同じように行動してしまうので、硬直的でした。

この欠陥を補う為に、昆虫たちは、小型化して種を分散させました。種を分散させることで、(夫々の種が)様々な微小環境に適応していきました。それによって、リスクも分散させました。我々脊椎動物とは、適応戦略が大きく異なっています。
(昆虫たちは、遺伝子の仕組みも、柔軟で高機能化させているように見えます。)



第二システム (意識器官)

第二システムは、知的生命体に固有のシステムです。

肉体の架空行動を制御しています。意識された行動を制御しています。この肉体の架空行動を、世間では『考える行為』と呼んでいます。(パラダイムシフトが起こっています。)

知的生命体は、未知の状況に直面した場合、意識器官を使った肉体の架空の探求反射(考える行為、架空の試行錯誤)によって、新しいプログラムを作り出しています。そして、(それが完成したら、)それを使って現実の肉体を駆動しています。これを世間では、「考えてから行動する。」と呼んでいます。

一方、第一システムしか持たない動物の場合は、直接、肉体を使った探求反射によって、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。

この第二システムの入力装置(感覚器官)は、意識感覚器官より構成されています。その知覚対象は、脳内部の事象です。神経組織上に構築された架空環境です。この架空環境を世間では『仮想現実』と呼んでいます。

意識知覚しているイルカ

イルカ
(海を泳いでいる)イルカを見たら、イルカを思い浮かべる事ができます。この脳内部のイメージを意識感覚器官は、知覚対象としています。

そして、人々は、その意識知覚しているもの(脳内部の事象)を、存在する実体だと思い込んでいます。
「実体だ。」と思い込んでいるが故に、それに拘っています。執着しています。

意識とは
意識は、肉体の架空行動、即ち、考える行為を制御しています。
考える行為は、生物学的には、この意識器官を使った肉体の架空の探求反射を意味しています。
肉体を使った現実の探求反射の代わりに、知的生命体は意識器官を使った架空の探求反射によって、未知の状況に対応する為のプログラムを作り出しています。これを世間では『考える行為』と呼んでいます。

意識が知覚している場
脳内部に、「架空行動の為の場」、即ち、「仮想現実」が作り出されています。
意識感覚器官が知覚している対象は、この脳内部の「架空行動の為の場(仮想現実)」です。
つまり、(神経組織上に作り出された)シミュレーションの為の信号空間です。これを(意識は)知覚対象としています。

注)意識器官(第二システム)の生物学的由来

意識器官は、元々は、模倣反射の必要に基づいて発達してきた器官です。それ故、模倣反射が可能な動物は、程度の差を別にすれば、広く持っているものと思われます。サルやイルカ、象なども、(模倣反射だけでなく、思考活動が可能な)そこそこ高度な意識器官を持っているものと思われます。決して、人間だけに固有の機能ではありません。

生理学的には、自己刺激の一種ではないかと考えています。
脳には、報酬系や罰系と呼ばれる部位があります。ここを電気刺激すると、報酬や罰を与えたのと等価な効果が生じます。
意識の働きも、これと同じで、「報酬系や罰系への自己刺激によって、学習効果を生み出している」と考えています。

ここでの話題

ここでの話題
ここでの話題は、「この意識感覚器官の知覚対象である架空環境(仮想現実)には、どのような種類があり、それが、どのような原因で作り出されているか?」です。
意識が体験している世界には、うつつ体験と、ゆめ体験と、まぼろし体験の三つがあります。
この三つは、それぞれ異なった原因によって作り出されています。

注)『意識器官』と『意識感覚器官』という二つの言葉を使い分けています。意識器官は、第二システム、即ち、シミュレーションシステム本体を指します。意識感覚器官は、この第二システムの入力装置を指します。その知覚対象は、脳内部の事象です。

なお、この意識に関する知識は、現代の哲学者や科学者にとって、まだ、未知です。
詳細は、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。



うつつ(現)体験

うつつ(現)体験は、通常の覚醒時の体験です。この体験では、意識知覚されている世界は外部感覚器官からの信号を中心にして組み立てられています。

それ故、外部感覚器官が知覚している現実世界と、意識感覚器官が知覚している架空世界は、日常生活の範囲内では、ある程度の対応関係があります。目で見たコップを、何の疑念も抱かずに、手で掴む事ができます。それ故、この世界に疑いを抱いていません。いや、寧ろ、「確固とした確かな世界だ。」と思っています。唯物論は、この確信を根拠にしています。

なお、うつつ世界は、さらに、現実世界常識世界に分けられます。
皆様が、現実だと思い込んでいる世界は、ほとんどの場合、常識世界の方です。現実世界ではありません。

大切な事は、「日常の行動が、どこ由来の情報に基づいて起こっているか?」です。
外部感覚器官由来の情報か、過去の記憶痕跡由来の情報かです。多くの場合、人々は、現実に基づかないで、常識に基づいて行動しています。過去の記憶痕跡に囚われています。過去由来の情報で、行動を起こしてしまっています。

このふたつの世界の違いを識別するのは、意外と困難です。識別出来ないので、いつも、うつつ世界は、混沌としています。人々が思い込んでいる程、確固とした確かな世界ではありません。



ゆめ(夢)体験

ゆめ(夢)体験は、夜、寝ている時に体験します。
この夢体験の時に意識知覚されている世界は、心の中で蠢いている満たされない欲望によって作り出されています。瞼は閉じているので、外部感覚器官からの信号は、ほとんど関与していません。

夢 物語

夢
夢の時、瞼は閉じています。だから、それは眼からの情報ではありません。
自分自身が、脳内部に作り出したものです。

夢物語は、自らが作り出した架空世界です。
それを意識感覚器官は知覚体験しています。

外部感覚器官が知覚している世界と、意識感覚器官が知覚している夢世界との対応関係は、ほとんどありません。現実から切り離された、いわゆる、(ふわふわした)夢の世界です。純粋に脳内部の事情で作り出された世界です。

フロイトは、「夢は願望充足行為である。」と述べています。心の中に溜まったストレスを意識器官に向かって放出する行為です。その結果、副作用として夢が生じています。
肉体の現実行動ではなくて、意識器官を使った肉体の架空行動で、ストレスを発散しています。

ここに夢が覚醒時の行動に影響を与えない理由も隠されています。夢は、(意識器官を使った)ストレスの発散行為なので、夢によってストレスが解消されたら、肉体を駆動する原因も消滅してしまうからです。
肉体上の行動は、ストレスを運動器官に向かって放出ことで起こっています。その肝心のストレスが、夢によって消滅していますので、肉体上の行動は生じません。



まぼろし(幻)体験

まぼろし(幻)体験は、ほとんどの方は体験がないと思います。死後幻覚とか臨死体験お迎え現象もののけ金縛りなどと呼ばれています。

非常にリアルな体感を伴っているので、しばしば、うつつ体験と区別がつかず、うつつの延長として、別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えます。記憶にも、うつつ体験と同様に、シッカリ残ります。

神との遭遇体験」や、「死後の世界に迷い込んだ体験」、あるいは、「UFOに拉致された体験」などがあります。「悪霊に追いかけられた体験」や、「もののけに取り憑かれる体験」などの憑依体験もあります。夢と同じで、ありとあらゆる体験があります。それ故、体験内容によって、様々な名前で呼ばれています。その内容は、民族文化の影響を強く受けています。
日本人の場合、お花畑を体験する事が多いみたいです。白人系の人々は、幽体離脱を体験する事が多いみたいです。自我への執着度合いの違いが原因と思われます。
心の深淵を覗き込むことになります。

当然、夢と同じで、外部感覚器官が知覚している世界と、意識感覚器官が知覚している幻世界との対応関係は、(ほとんど)ありません。(その筈です。)

まぼろし(幻)体験の原因とメカニズムは分かりません。それ以前の問題として、現代においては、現象の存在自体が認められていません。健全な方は、ほとんど体験しないので、(当人には体験がないので)疑心暗鬼です。自分が体験しないものは信じません。当たり前ですね。それ故、薬物幻覚と同じような精神異常の一種だと思われています。非常に誤解され易い内容です。

現在、分かっていることは、そのような現象が存在している事実と、断片的知識のみです。それが、神話や宗教体験の背景になっていることだけです。
しかし、優先する問題ではないので、「真理を探究する。」なんて、バカな真似はしません。現実問題として、この現象に翻弄されている人々も存在しているので、その人々の為に、義務として、必要な情報だけを残します。
自分の向き合っている現実(まぼろし体験)が、決して異常な世界ではない事だけでも理解して頂ければ幸いです。
(運悪く、夢の世界だけでなく、まぼろし(幻)の世界も体験しているだけです。)

「バカげている」とか、「自分には関係ない」と思われる方は、無視して頂いて結構です。
それで、実害が発生することはありません。

安心して下さい。健全な方は、心を支配している欲望の方が遥かに強大なので、この手の情報に翻弄される事はありません。健全な日常を送る事ができます。
一部で、このような健全な欲望の働きが弱まった方が、(未知の世界に直面して、)右往左往しているだけです。何が起こっているか、分からないままに。

知らないで済ます事ができるなら、それに越した事はないかもしれません。余分な情報に振り回されても、何も得るものはありません。苦しむだけです。それに、そのような人々を納得させるだけの充分なデータが収集されている訳でもありません。

逆に、もし、現実問題として、この現象に翻弄されてる場合は、対処療法を述べていますので参考にして下さい。

なお、意識感覚器官に関する基礎的知識は、『意識感覚器官』『体験する。』を参照して下さい。
残念ですが、現代の心理学や哲学は全く使いものになりませんでした。唯一、フロイト空の哲学が使えるのみでした。

7._1 うつつ(現)体験

注)まぼろし世界を知る為には、その前に、うつつ世界と、ゆめ世界を知る必要があります。そこから、話を進めます。

うつつ体験は、通常の覚醒時の体験です。

この体験している世界は、外部感覚器官から流入した信号を中心にして組み立てられています。皆様が心理学だと思い込んでいるものは、このうつつ体験に関する心理学です。

現実世界と常識世界

厳密な話をすると、うつつ世界は、さらに、皆様が現実だと錯覚している常識世界と、外部からの信号で構成された現実世界に分けられます。二つの異質な世界の融合物となっています。

うつつ体験の時、意識知覚している情報は、外部感覚器官から流入した信号と、過去の記憶痕跡との融合物になっています。そして、我々は、外部からの信号の意味を、そこから連想される過去の記憶痕跡によって理解しています。

意識知覚しているうつつ世界の構造

うつつ世界の構造
外部感覚器官から流入した信号と、そこから連想される過去の記憶痕跡との融合物を、我々人間は、意識の知覚対象としています。
そして、この意識知覚している記憶痕跡によって、外部信号の意味を理解しています。(過去の体験との関連として)

自分の家なら、ドアの前に立っただけで、昨日の記憶が蘇って、ドアの向こうの情景を思い浮かべることができます。ところが、始めて訪れたホテルの場合、ドアの前に立っても、何も感じません。過去の記憶痕跡が無く、目の前のドアの映像から、過去の体験を連想できない為です。

この違いが現実世界常識世界の違いを生み出しています。意識知覚している情報のうち、過去の記憶痕跡や言葉ばかりに心を奪われていると、それは「過去の常識世界を見ている。」ことになります。外部感覚器官からの信号に、より注意を払うと「現実世界を認識している。」ことになります。

どちら側の情報に、より注意を払うかによって、見ている世界が異なってしまいます。どちら側の情報で行動を起こしているかを、注意深く観察する必要があります。

もの事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎません。
それ故、『行い』と、『結果』の因果関係を観察する事が大切です。

同じ世界を見ている筈ですが、記憶痕跡は人それぞれ異なっていますから、常識世界も人それぞれ異なっています。同床異夢の行き違いが多々起こっています。

人々は、「現実を見ている筈だ。」と思い込んでいますが、多くの場合、過去の常識を見ているだけかもしれません。
(うつつ世界は、)当人が思ってるほど、確固とした確かな世界では無いかもしれません。

うつつ(現)体験の中身
うつつ体験の現実と常識
うつつ(現)体験の時、意識知覚している情報は、外部感覚器官からの信号と、(そこから連想される)過去の記憶痕跡との融合物となっています。

過去の記憶痕跡や言葉ばかりに心を奪われていると、その意識知覚している世界は常識世界となります。
外部感覚器官からの信号に心を傾けると、現実世界となります。その区別は難しいけど。

常識世界からは常識的行動が生まれます。
現実世界からは現実的行動が生まれます。
そして、そこから、悲喜こもごもの結果が生み出されています。

錯覚してはいけない事は、結果は行動から生まれている事です。言葉からは生まれていません。
現実的行動の結果も、常識的行動の結果も、そして、思想信条に基づく空想的行動の結果も、共に、同じ肉体の世界に生み出されています。

結果が生み出されている世界は、全て、同じです。この肉体が存在している世界です。意識と言葉が作り出している架空世界の中ではありません。
そして、ここに想定外の不幸が隠されています。現実だと思っていたものが、実は常識(空想)に過ぎなかったので、しばしば、トンチンカンな結果になっています。

注意深く、『行い』と『結果』の因果関係を観察する事が大切です。欲望の働きを無視して。

ちなみに、言葉によって作り出されている世界は、常識世界の方です。現実世界ではありません。
「言葉でキチンと定義しないと論争が成り立たない。」と主張する人々がいますが、一歩間違えば、『言葉によって作り出された空想』相手に論争してしまう危険性を孕んでいます。

その代表が、現代哲学です。彼らは、言葉で定義されたマイナーな世界の中で、論争を繰り返しています。内輪でしか通用しない話題に熱中しています。このような人々を、原始仏教では、『お尻を外側に向けた人々』と表現しています。顔を突き合わせて、内輪の話に熱中していると、必然的に、お尻は外側を向いてしまうからです。
ちなみに、「お尻を外側に向けた人々」のことを、現代用語では、「オタク」と表現します。世間の目を気にせずに、自分の嗜好を追求している人々のことです。それ故、現代の哲学者を「哲学オタク」と表現しても、それ程、的は外していません。

この傾向は、宗教教団に属する人々にも見られます。彼らも、教団が生み出す利益や経典にばかり顔を向けて、現実に目を向けていません。肝心のお尻は外を向いています。彼らは、そのような自らの姿に気が付いていません。彼らは、ひょっとしたら、世間から浮いた「宗教オタク」かもしれません。

現実に基づかない全ての思考作業は無意味です。時間の無駄です。しかし、『現実』は、言葉で表現した瞬間に、『常識』に変身してしまうので、捕らえどころが無くなって、学問的論争には厄介です。哀しいことに、学問的論争は、あくまでも、言葉によって作り出された空想世界の中で行われています。それが、「現実だ」と錯覚して。

仮想世界と現実世界の対応関係

うつつ(現)体験では、意識が知覚している仮想世界と、手で触る事の出来る現実世界は、(原則的には)ほぼ対応関係にあります。

低レベルな認識では、ほぼ完全な対応関係にあります。それ故、手で触った物、眼で見た物の情報に基づいて行動を起こしても、不都合を感じる事はありません。目の前のコップは、何の疑念も抱かずに、手掴みできます。動物進化5億年の実績によって最適化されているからです。哲学的には、唯物論の先入観が、そのまま通用します。

しかし、(愛や憎しみなどの人間関係のように、)高次元の認識では、(仮想世界と現実世界の対応関係は)かなり怪しくなってきます。認識や判断が、過去の常識や、心の中で蠢いている欲望に左右されてしまっているからです。思い込みが優先してしまいます。
普段の日常生活でも、思い込みが先走って、現実が見えないまま行動を起こして、しばしば、笑うに笑えない喜劇が起こっています。誰にでも、経験のある事だと思います。最後まで、現実を受け入れる事ができなくて、(「僕は悪くない。あいつが悪い。」と、)喜劇にしがみついている人々もいます。悲劇を喜劇として演じたチャップリンの映画が、そのまま、再現されています。
彼の映画は、テーマ自体は、耐え難い悲劇です。でも、目の前で演じられているのは喜劇です。心は締め付けられるけど、口は笑ってしまいます。窒息しそうな笑いになっています。思わず、息苦しさの余り、咳き込んでしまいます。

我々は、とかく、ある特定の価値観や思想信条に基づいて行動してしまいます。価値観も思想信条も、残念ですが、現実ではありません。仮想現実です。現実に基づかない行動は破綻します。不幸な結果を招きます。仮想現実に基づいた行動は破綻します。(絶対的価値観を主張した)マルクスや(神を掲げている)宗教が、その代表です。

『結果』は『行い』から生まれます。『言葉』からは生まれません。
それ故、何に基づいて『行い』が生じているかを、(一旦、「いい、悪い」を側に置いて)冷静に観察する必要があります。

人は、「いい、悪い」を判断した瞬間に、目の前の現実への興味を失います。「これで一件落着」と、安心して、目の前の現実から目を逸らしてしまいます。
だから、一旦、「いい、悪い」を側に置く必要があります。目の前の現実と向き合う為に。

もし、(結果が)『いい、わるい』の価値観や、『言葉(アジテート)』から生まれていたら、それは壮大な集団ヒステリーです。(歴史が証明しているように、)耐え難いレミングの暴走です。



現代物理学が直面している問題

もうひとつ問題となるのが、現代物理学です。
現代物理学は、(日常とは遥かに隔った)極限の物理現象を扱うようになってきました。太陽系よりも遥かに広大な銀河系とか、その銀河の集団で構成された宇宙全体とか、或いは、(その対極にある)分子や原子よりも遥かに小さな素粒子の世界とか。

ここでも、常識と現実の対応関係が、かなり怪しくなっています。動物は、そのような極限世界で暮らしてきた経験が無く、(脳が)最適化されていない為です。

現代物理学は、『時間、空間、物質』という基本概念を使って記述していますが、この認識の形式は動物進化5億年の実績で身に着けた情報の処理形式です。即ち、仮想世界の構成形式です。現実世界の構成形式ではありません。『時間、空間、物質』は、物理的意味での実在物ではありません。我々の存在しているこの宇宙は、このような実在物で構成されている訳ではありません。

現実世界から仮想世界への投影

現実世界から仮想世界への投影
動物は、外部感覚器官から得られた信号を、
1) 『自己、時間、空間、物質』という情報の処理形式(仮想空間)の上に、マッピングしています。
2) そして、このマッピングされた情報に基づいて行動を起こしています。
『自己』は、幾何学上は、座標原点を意味します。

行動は、仮想空間の情報に基づいて、生じています。一旦、『仮想空間』という正規化、抽象化作業を行っています。このように、動物は、情報の正規化作業と、行動プロセス作成作業が分離されているので、環境に柔軟に対応することが可能となっています。

因果関係:外部感覚器官 -> 知覚刺激 -> 仮想空間へマッピング -> (仮想空間の情報で)行動

この仕組みは、動物進化五億年の実績によって、最適化されています。従って、我々は、見たままに行動しても、不都合を感じることはありません。この仕組みは、(動物進化を共有しているので、)犬たちも持っています。それ故、犬と人間の間では、共通のゲーム(鬼ごっこ)が成り立ちます。

(仮想空間へ)マッピング出来る信号は視覚情報だけではありません。目の不自由な方は、イルカやコウモリ同様、聴覚情報も、そこそこの精度でマッピング可能です。このマッピングされた聴覚情報に基づいて、我々と同じような正常な行動が可能です。(多少のハンディはありますが。)ちなみに、イルカやコウモリは、我々の視覚と同程度に、正確な行動が可能です。超音波を利用しているので、小さな物体の識別も可能です。真っ暗な洞窟で暮らす昆虫は、触覚からも、このような空間認識を作り出すことが可能みたいです。
我々普通の人間も、音のした方向に振り向く事はできます。能力は貧弱ですが、聴覚情報からも、空間認識は可能です。人間は、視覚情報に、強く執着しています。聴覚や嗅覚は、疎かにしています。かつて木の上で暮らしていたサルという動物の宿命です。風が吹き抜けている樹上では、臭いは、ほとんど残りません。

なお、現実世界は、(厳密には)不可知です。我々は、あくまでも、認識された範囲内でしか現実世界を知ることはできません。外部感覚器官から脳に向かって流れているものは、あくまでも、電気的パルス信号に過ぎないからです。外部感覚器官は知覚した情報を、神経組織上を流れる電気的パルス信号に変換して、脳に送っています。そのパルス信号を、脳内部で再構成して、仮想空間にマッピングして、信号の意味を理解しているに過ぎません。

唯物論者は、意識感覚器官が知覚している脳内部の仮想空間を実体だと思い込んでいます。仮想空間の情報に基づいて行動しても、日常生活では不具合を感じないからです。目の前のコップを、何の疑念も抱かずに手掴みできるからです。それが、動物進化五億年の実績によって、最適化されていることに気が付いていません。
この素朴な実感が破綻しているのが、現代物理学です。極限の物理現象では、日常の常識(自己、時間、空間、物質)が通用しない為です。

(現代物理学が直面している)極限の物理現象では、仮想世界と現実世界の対応関係が破綻しています。相対論や量子力学では、「時間と空間の相対性」とか、「空間は曲がっている。」、「物質と波の二重性」、「不確定原理」、「物理量の不連続性」などの意味不明のテクニカルな概念を導入して、無理やり辻褄を合わせているのが現状です。

このような破綻が生じた原因は、(日常から遥かに隔たった極限の物理現象では、)人間が持っている仮想世界と、(肉体が存在している)現実世界が乖離してしまったからです。動物進化五憶年の実績で最適化された人間という動物の情報処理(認識)が通用しなくなった為です。
そのような極限の世界で、動物は暮らした経験がなく、脳が最適化されていない為でした。最適化の範囲外なので、正しく理解できない状況に陥りました。

なお、ニュートン力学のように、日常生活に近い物理現象を扱った物理学理論の場合には、ほとんど、問題になることはありませんでした。仮想世界と現実世界の誤差は、ほとんど生じませんでした。動物の暮らしてきた世界と近かった為です。脳の最適化の範囲内だったからです。

このような破綻を克服する為には、物理学理論を『時間、空間、物質』という概念を使わないで記述する必要があります。唯物論的先入観を克服する必要があります。素朴な唯物論が通用しない世界です。その世界と、どう向き合うかが問題となっています。

ついでに、『時間、空間、物質』を否定した時に生じる死の恐怖も克服する必要があります。『空間』を否定した思考は、死の恐怖の虜になります。死の恐怖のストレスに耐える為に、空の哲学の整備を急いています。どちらが先かのチキンレースです。

ここで述べている内容が、現代科学の常識と大きく異なっているのは、このような物理学の壁を乗り越える為です。現在、(物理学者の想像力の限界を超えた)全く新しい発想の物理学理論を構築しています。それを理解する為に、新しい発想の認識論が必要でした。この内容は、その作業の一部です。脳内部で起こっている情報処理を解析中です。

原因と行動と結果の関係
原因行動結果
現実現実的行動成功
現実でないもの(常識)

 欲望
 思い込み
 言葉が作り出している世界
 理想
 価値観
 思想信条
 宗教上の教義
 哲学的先入観
 科学的迷信
 (これらは全て現実ではありません。)
空想的行動失敗
現実に基ずく行動は、成功する可能性が高くなります。
現実に基づかない行動は失敗します。
現実に基づかない行動には、「欲望」や「言葉によって作り出された世界」があります。価値観や思想信条、宗教的教義、科学的迷信などの先入観があります。
知識人やリベラリストが信じているものは、ほとんどが現実ではありません。(綺麗な言葉で飾られた)空想です。



思い出す

「思い出す」という行為は、過去の記憶痕跡を、再度、意識知覚する事によって、意識器官上に、架空行動を生じさせる事を意味しています。つまり、(意識器官を使った)過去の再体験を意味しています。

我々は、心の片隅に残っている過去の記憶痕跡を、もう一度、意識器官に流し込む事によって、そこに架空行動を生じさえ、この架空行動(シミュレーション)によって、過去を理解しています。この行為を、「思い出す」と呼んでいます。

思い出した時には、言葉だけでなく、同時に、それに関わった様々な情景も去来します。
優れた文学者の文章は、言葉だけでなく、実にたくさんの(心の中の)情景が去来します。逆に、言葉を並べただけで、情景が去来しないと、貧しい文章になります。

形容詞や副詞を多用した文章は貧しくなります。欲望ムンムンの安っぽい文章になります。動詞を使って心の機微を表現した文章は、豊かになる傾向があります。
源氏物語は、このテクニックを使う傾向にありました。動詞には、過去の体験がこびりついています。その時の(形容詞や副詞だけでは表現しきれない)微妙な臭い(におい)や体感、感情、欲望が去来します。

ここでも、できるだけ、形容詞や副詞は使わないように心掛けています。動詞を使って表現するようにしています。もちろん、話を盛って面白おかしくしたい場合は、形容詞副詞を多用します。内容がコミカルになるので。


人間は言葉を見つけた瞬間に、現実への興味を失います。

人は、それを説明できる便利な言葉が見つかった瞬間に、、、。ほんと、その瞬間に、現実への興味を失って、その言葉ばかりを見つめ始めます。言葉が作り出す先入観や常識に支配されてしまいます。言葉が見つかって、「理解出来た。」と安心してしまいます。

人は、外部感覚器官から流入した信号を見つめているのではなくて、言葉と、その言葉が作り出す先入観の方ばかりを、見つめています。即ち、言葉によって作り出されている常識世界に、安住してしまっています。

人間にとって、理解するとは、言葉を見つけることみたいです。
言葉が見つかった瞬間に、「理解出来た。」と安心して、現実への興味を失います。

あるいは、外部信号から連想される過去の常識に、安易にしがみ付いているだけかもしれません。過去の常識は、心の整理が済んだ心地良いものです。心を傷つけるトゲは、都合よく忘れ去られています。除去されています。一方、眼から流入したばかりの信号は、まだ、心の整理が済んでいないトゲトゲしいものです。

やっぱり、心地良い方がいいですよね。現実は、トゲトゲし過ぎです。心の中を、イガグリが転げ回っているみたいです。

人間は、とかく、現実世界には目を向けないで、心地良い常識世界にばかり心を奪われています。
でも、これで何度、痛い目に合ったことか。「現実だと思い込んでいたものが、実は、先入観だった。過去の常識だった。」と。。。。あわわ...!。。。

痛い目に合って、始めて知る現実と常識の違いです。

人間は悲しい動物ですね。なんやかんやと綺麗事言っても、結局は、痛い目に合わないと学習しません。

それでも、なお、「僕は悪くない。あいつが悪い。」と、責任を他人に転化して学習しない人々もいます。机のせいにして、机を蹴飛ばしている人々もいます。「机のせい」にしても、机は構ってくれないのに。結局は自分に返ってくるのに。それでも、最後の最後まで、(「僕は悪くない。」と、)自己弁護を諦めません。腹が空いて我慢できなくなるまで、これを繰り返しています。

注)病名症候群

これと似た病気に、心理学者や精神科医の罹る『病名症候群』があります。

彼らは、何にでも、病名を付けたがります。そのような性癖を持っています。病名を付けた瞬間に「真理が明らかになった。」かのように錯覚して、そこで納得しています。そして、それ以後は、自らの主張の正当性を補強する為に、(都合のいい)症例の収集に奔走しています。見えるものだけしか見ていない。見えないものは見ない。ボーダレスな現実への興味と努力を失っているように見えます。

なお、『病名症候群』は創作です。自分も負けずに病名を付けてみました。病名を付けると、あ~ら不思議、その瞬間に、彼らの性癖が理解できたような気分になります。

7._2 ゆめ(夢)体験

ゆめ体験は、夜、寝ている時に体験する世界です。

夢は、満たされない欲望の発散行為、即ち、願望充足行為だとフロイトは考えていました。意識器官を使った架空体験による架空の願望充足行為です。

即ち、「夢は、意識器官を使ったストレスの発散行為。」です。このように表現すれば、フロイトの主張も誤解が少なくなります。(言っている事は同じなのですが。でも、人々は、「欲望」とか「願望」という言葉を、極端に嫌います。)

性欲などのように道徳や社会的制約によって運動器官に放出できない困った欲望を、意識器官に向かって放出することによって、架空の満足体験を得ているようです。

夢で、意識知覚している情報は、このような欲望と記憶痕跡との融合物になっています。それが、連想によって連なって、次から次へと流れていきます。夢物語には台本が無くて、イメージの塊の連想なので、奇想天外な物語になっています。

ゆめ(夢)体験の中身
夢体験の中身
夢見ている時、意識の知覚対象(夢)は、うつつ体験のように外部感覚器官から流入した信号で作り出された世界ではありません。瞼は閉じている訳なので。

心の片隅で満たされないまま蠢いている欲望(性欲等)と、過去の記憶痕跡との融合物になっています。それらが、連想によって連なり、奇想天外な夢物語を生み出しています。
即ち、夢は、フロイトが主張するように、意識器官を使った欲望の発散行為、即ち、願望の充足行為です。

意識器官を持った知的生命体の場合、快楽原則、現実原則、夢過程の三つの方法を使って願望を充足しています。

仮想世界と現実世界の対応関係

夢の場合、(言うまでもなく、)現実世界と、意識が知覚している夢の世界、つまり、仮想世界との対応関係は、ほとんどありません。

夢は、外部感覚器官からの信号によって作り出されている訳ではないからです。その時、瞼は閉じています。
心の中で蠢いている欲望によって作り出されています。それ故、夢の内容は、心の中で蠢いている欲望に強く依存します。



願望を充足させる三つの方法(夢の仕組み)

フロイトは、夢を願望充足行為だと考えていました。

「心の中で蠢いている欲望を、脳は、どのような方法を使って解消しているか?」に、目を向ければ、夢の正体が見えてきます。

意識器官を持った知的生命体は、心の中で蠢いている欲望やストレスを、三つの方法を使って満足させています。快楽原則と現実原則と夢過程の三つです。

三種類の願望充足

3種類の願望充足
心の原則は、溜まったストレスやテンションを外に放り投げて、自らは無興奮な快適な状態になる事です。
我々人間は、三つの方法を使って、このストレスの発散を行っています。快楽原則と現実原則と夢過程の三つです。

原始的動物の場合、神経組織内のストレスを発散する方法は、快楽原則と現実原則の二つです。
意識器官を持った知的生命体の場合、もうひとつ、夢過程によってもストレスの発散が可能です。

この願望充足の過程に目を向ければ、夢の意味が分かり易くなります。


快楽原則

最も基本的な願望充足行為は、心の中に溜まった欲望やストレスを、辺り構わず、デタラメに運動器官に向かって放出する事です。ストレスを放出すれば、スカッとして、心は落ち着きます。

例えば、日頃のストレスを、ショッピングやスポーツ、趣味などで発散する行為です。机を蹴飛ばして、当たり散らしても、スカッとします。皿を壁に投げつけて粉々に割っても、スカッとします。

子供は、何かあると直ぐ泣きます。でも、泣き終わったら、(何事も無かったかのように)ケロッとしています。涙が乾く前から、もうケラケラ笑っています。あやすのに散々苦労した大人としては、「泣いたカラスがもう笑った。」と、嫌味のひとつも言いたい気分です。
大人も、耐え難い悲しみに出会った時は、泣けば、少しだけ心が軽くなります。泣く行為によってストレスが発散されるからです。

この行為の場合、ストレスの原因と発散行為の間には、何の因果関係もありません。運動器官に向かってデタラメに放出してスカッとすればいいだけです。

この行為を外部から観察すると、あたかも、(生物学的には)探求反射』のように見えます。デタラメに放出して、デタラメな行動が起こっているからです。

快楽原則:ストレスの原因と発散行為の間に、因果関係はない。
要は、運動器官に向かって捨てて、スカッとすれば良いだけです。
生物学的には、あたかも、探求反射に見えます。

注)『欲望(ストレス)』と、『行動』と、『結果』の因果関係に注目する必要があります。


現実原則

ストレスが単発的なものなら、デタラメに放出してスカッとすれば、取りあえずは、問題は解決します。次のストレスが溜まるまでに、暫く時間が掛かるからです。

ところが、空腹の時のように、継続して発生し続ける場合、デタラメに放出しても、問題は解決しません。発散しても、発散しても、次から次へと、ストレスと苦痛が発生し続けて、直ぐに、溜まってしまうからです。不快な状態は改善されません。

空腹を紛らす為に、水を飲んでも、喉元を通り過ぎる一瞬だけ満足体験に浸れますが、直ぐに現実に引き戻されます。水腹は、空腹を癒してくれません。

このような場合は、根本的対策が必要になります。現実と向き合い、そのストレスの生産を止める行動を起こす必要があります。現実に則した現実的行動が必要になります。つまり、獲物を捕まえて食べる必要があります。「臭いニオイは元から断つ。」必要があります。

仕事のストレスも軽度なら、週末のスポーツや趣味、ショッピングで何とか解消できますが、重度になると、休職や転職等の根本的解決に迫られます。

でも、最初から、放出路が確定している訳ではありません。腹が減ったからと言って、獲物が簡単に捕まる訳ではありません。だから、最初は、デタラメに放出して、試行錯誤を繰り返します。
そのデタラメな試行錯誤の中に、たまたま、ストレスの発生を止める行為があれば、この放出路を固定します。獲物を捕まえる事に成功したら、この成功体験は貴重です。以後は、この成功体験に基づいて、「このストレスには、この行動を。」というパタンが定着します。ストレスが溜まった不快な状態が、速やかに解消されるからです。延々と続く(飢えて死ぬまでの)苦痛から解放されます。

因果関係:知覚刺激 -> 欲望の活性化 ->運動器官への放出 -> 行い -> 結果

  1. 感覚器官からの知覚刺激は、眠っている欲望を活性化させます。ストレスが生じます。
    腹が減れば、食欲が活性化されます。
  2. 活性化した欲望は、運動器官に向かって放出されます。
  3. 運動器官に向かって放出された欲望は、『行い』を生じさせます。
    食欲は、「食べ物を探す」という行動を生じさせます。
  4. 『行い』は、(肉体上に)様々な『結果』を生みます。
    運よく食べ物を見つけたら、食欲は満足されます。
    見つからなかったら、自分の無能さや、(責任を転化して)神の悪意を恨みます。

心理学は、病名を付けて満足するのではなくて、この一連の因果関係に注目する必要があります。

ここに始めて、ストレスの原因と、発散行為の間に、強い因果関係が生まれます。
「腹が減ったから、食べ物を探して食べる。」という行動が生まれます。
学習の成立です。
生物学的意味での学習は、現実原則に基づいて、放出路を固定していく行為です。

現実原則:ストレスの原因と発散行為の間に、強い因果関係が存在している。
臭いニオイは元から断つ。臭いニオイに蓋をしても問題が先送りされるだけです。

注)脳は、必ずしも、好き好んで学習している訳ではないようです。

取り合えず、当たり散らして、スカッとしています。(快楽原則優先)
常に、臭いものに蓋をして、見なかったことにしています。(現実逃避)
「僕は悪くない。あいつが悪い。」と、他人のせいにして逃げ回っています。(責任転嫁)
でも、でも、最後はやっと、苦痛や不安に追い立てられて、渋々、嫌々、大嫌いな現実と向き合っています。(惨め)

脳は、怠け者ですね。

これに、『仕事拒否症(ergophobia)』が加われば、もう、(ダメ人間として)完璧です。


夢過程

知的生命体の場合、もうひとつ、ストレスの放出路を持っています。意識器官に向かって放出する事です。

人間の場合、社会的制約や道徳などの戒律から、運動器官に向かって放出できない困った欲望も、たくさん抱えています。性欲などが、その代表です。性欲は、素直に運動器官に向かって放出したら、多くの場合、痴漢等の犯罪になります。単純に、欲望を満たす行動を取る事ができません。

このような困った欲望を、人間は非常に多く抱えています。これを、人間は、運動器官ではなくて、意識器官に向かって放出し、架空の体験を生じさせ、その架空体験によって、架空の願望充足に耽っています。

この架空の願望充足行為が、夜の睡眠中に起こる現象を、心理学では『夢』と呼んでいます。

ちなみに、覚醒時に、意図的に、この架空の願望充足に耽る行為を、『白日夢(Daydream)』と呼んでいます。

夢過程は、意識器官を使った架空体験によって、架空の願望充足に耽る行為です。
心の中で蠢いている欲望やストレスが、(睡眠中に、)その出口を求めて、意識器官に向かって雪崩れ込む事によって起こっています。その結果、その副作用として、夢が生じています。

現象的には、快楽原則と似ています。快楽原則は、ストレスを運動器官に向かって、デタラメに放出してスカッとする行為ですが、夢過程は、意識器官に向かって放出し、夢に耽っています。夢の中で、架空体験を生じさせて、架空の願望充足に浸っています。それで、ストレスを解放しています。

また、思考活動とも、微妙に似ています。思考活動でも、自らが生じさせた原因によって、意識器官を駆動しています。(意識器官を使った)肉体の架空の試行錯誤(考える行為)によって、未知の状況に対応する為のプログラムを作り出しています。目的と結果は異なっていますが、(意識器官を駆動する)原因を、どちらも、自らが作り出している点で似ています。

意識器官の起源と夢との関係

意識器官は模倣反射の為に発達してきた器官です。模倣反射が可能な動物は、程度の差を別にすれば、広く意識器官を持っているものと思われます。意識器官を持っているなら、夢を見ている可能性があります。サルやイルカ、象などの行動を観察していると、(思考活動も可能な)そこそこ高度な意識器官を持っているように見えます。夢を見ている可能性は充分にあります。

群れを作る動物の場合、「群れの掟」と「個体の欲望」との間で葛藤が生じます。しかも、群れ行動の為に、模倣反射が発達しています。犬や狼、象、イルカ、サル、人間などは、典型的な群れを作る動物です。「これらの群れ動物では、特に『夢』の需要が多いのでは」と予想しています。

模倣反射の最も原初的痕跡は、魚の群れ行動に見出せます。視覚情報によって、群れ全体の行動がシンクロしています。従って、意識器官の原初的痕跡は、魚の群れ行動にまで辿れるかもしれません。しかし、これを(意識器官による)模倣反射と呼んでいいかどうかは疑問です。余りにも、原始的過ぎるからです。(当然、魚は夢を見ていない可能性が高いと思われます。そもそも、群れ行動によるストレスを溜め込んでいないので。)

ただ、(意識器官の)大元の始まりは、ここにあった可能性は充分にあります。脳の部位を問題にした場合、視覚野の近傍に、原初的痕跡を見出せるかもしれません。視覚情報を使って、報酬系や罰系を自己刺激したことが始まりかもしれません。
もちろん、人間の場合、意識器官の主要な部位は、前頭葉だと思います。前頭葉にも、報酬系や罰系が存在しています。ここを自己刺激すれば、(肉体を使った現実の)体験学習と同じように、架空の体験学習を生み出すことが可能です。

なお、模倣反射は、外部感覚器官からの信号で意識器官を駆動する行為です。思考活動は、自らが作り出した信号で、駆動する行為です。夢も自ら作り出した信号で、駆動しています。この意味で、夢と思考活動は、よく似ています。

なお、夢が覚醒時の行動に影響を与えない原因もここにあります。

架空の願望充足によって、行動の原因(ストレスや欲望)が消滅しているからです。夢は、ストレスを、意識器官に向かって発散した結果起こる現象だからです。つまり、フロイトが指摘しているように『ストレスの発散行為(願望の充足行為)』だからです。(ショッピングやスポーツ、趣味と似たような。)
ストレスが発散されて消滅したら、行動の原因(ストレス)が無くなってしまいます。原因が無くなれば、肉体的行動は生じません。

夢は、精神衛生を保つ上で重要な役割を演じています。(白日夢も含めて。)
『泣く』行為と同様の『ストレスの発散行為』だからです。

夢は、意識器官を使ったストレスの発散行為である。
夢過程:ストレスの原因と発散行為(現実行動)の間に因果関係はない。

そもそも、夢によってストレスが発散されるので、肉体的行動は生じない。

ゆめ体験の心理学は、フロイトによって確立されました。でも、彼は触れてはいけないもの(性欲)に、触れてしまったので、評判は良くありません。人々は、「性欲(臭いもの)」を、極端に忌み嫌っています。常に、蓋をして見なかったことにしています。詳細は、フロイトの夢理論を参照下さい。

注)怖い夢

怖い夢もストレスの発散行為であるという主張は、一見、矛盾しているように見えます。「寧ろ、ストレスを溜め込む事になるのでは」と、思ってしまいます。

問題は、ストレスを溜め込んでいる主体は誰かです。意識器官ではありません。心本体です。心の中には、様々な不安や恐れなどの負の感情が蠢いています。それが意識器官に向かって放出さた結果、怖い夢になるものと思われます。

怖い夢に曝される意識器官には同情しますが、心本体は、それで(ストレス発散の)目的を達成できます。
人々は、意識知覚中心に、物事を考え過ぎです。もっとも、考える行為自体が意識の働きなので、そうなってしまうのは当たり前です。ここに思考作業の自己矛盾と限界があります。

注)人は、なぜ泣く。

厳密には、「悲しいから」ではなくて、「悲しみを忘れる為」、つまり、文学的表現を使うなら「悲しみを、涙と一緒に流し去ってしまう為」に、泣いています。「悲しいから」は、常識のウソです。泣くのは、ストレスの発散行為です。

だから、耐え難い悲しみに直面した時、人生経験豊富な年配者は、そっと耳打ちしてくれます。「我慢しないで、お泣き。少しは楽になるから。」と。そう、全ては「少しは楽になるから」です。ストレスが発散できたら、少しだけ楽になります。逆に、我慢したら、永遠に背負い込んでしまいます。永遠に(憎しみを)引き摺って歩いてしまいます。

注)『笑い』の不思議。

反対に、『笑い』は、どのようなストレスの発散行為なのでしょうか?。人は、なぜ笑うのでしょうか。

(笑いの)行動が起こっている限り、何らかの信号が、運動器官に向かって放出されている筈なのですが、その信号の正体を特定できません。(行動は、何らかの信号が、運動器官に向かって放出されることによって起こります。)

今までの話は、罰系に関連したストレスでした。でも、我々の脳は報酬系も持っています。報酬系と罰系のせめぎ合いの上に成り立っています。報酬系に関連したストレスは無いのでしょうか?。
もっとも、その報酬系上の興奮状態を、「ストレス」と呼んで良いのかどうか、悩ましい所ですが。

注)果たして、犬は夢を見ているか

狼は、群れを作る動物です。群れ行動の為に、他の個体と協調した行動を取る必要があります。この為、そこそこ発達した意識器官を持っているものと思われます。
そこそこ高度な意識器官を持っているなら、夢を見ている可能性も充分にあります。

狼は、そこそこ規律の高い群れを維持しています。これを逆に解釈するなら、群れの掟と個体の欲望の間で不一致が生じていることを意味します。つまり、解決困難なストレスに曝されていると思われます。

  群れの掟 ≠ 個体の欲望 -> ストレス(-> 抑圧 -> 夢 )

そのような解決困難なストレスを、意識器官に向かって放出しているなら、その副作用として夢も生じている可能性が大です。
人間は従順な犬、つまり、ストレスを上手に抑制できる犬を選抜してきました。その分、犬は、その抑圧されたストレスを、何処かで発散しなければなりません。「犬は、気まぐれな人間と付き合って、結構、ストレスを溜めているのでは?」と心配しています。

7._3 まぼろし(幻)体験

注意)これは、冷酷な現実です。でも、不快だと感じたら、読み飛ばしてください。それで実害が発生することはありません。知らなければ知らないに越した事はありません。

まぼろし体験は、普段は、ほとんど、体験されることのない世界です。多分、ほとんどの方は、体験がないと思います。

死後幻覚とか、臨死体験と呼ばれています。お迎え現象とか、This Man神との遭遇体験金縛りへび憑ききつね憑きもののけキメラ心霊体験UFO体験の一部なども、この現象に属します。非常にバラエティに富んでいます。夢と同じで、ありとあらゆる体験があります。その為、その呼び名も、その体験内容によって、様々です。色々な呼ばれ方をしています。

意識は、覚醒しています。夢と異なって。
それ故、非常にリアルな体感と映像を伴っています。記憶にもシッカリ残ります。だから、慣れないと、しばしば、現実だと錯覚してしまいます。

「未知の世界に迷い込んでしまった。」とか、「死後の世界を体験した。」、「亡くなった(懐かしい)肉親が迎えにきた。」、「UFOに拉致された。」、「神と遭遇した。」、「悪霊に追いかけられた。」、「もののけに取り憑かれた。」といった錯覚に陥ります。うつつ体験と区別がつかず、しばしば、現実だと錯覚しています。(うつつ体験と区別が付かない)非常にリアルな体感を伴っているからです。

まぼろし(幻)の体験者が語っている内容は、多くの場合、決して嘘を付いている訳でもなければ、夢物語を語っている訳でもありません。実際に、体験した内容です。記憶にも、うつつ体験と同程度に、しっかり残っています。

但し、言葉に翻訳する時に、多少、脚色や粉飾、改ざんはされています。(夢の内容を語る時のように、)世間受けの為に、或いは、自己の正当化の為に、つまり、話す為に、多少、うつつ世界に迎合して合理化されています。話す側にも、「よく見せたい。」とか、「誤解されたくない。」「本当の自分の姿は語りたくない」という心の葛藤は生じています。言葉を使って話している瞬間は、残念ながら、うつつ世界の中だからです。欲望と、それに引き摺られた葛藤が支配している世界にいるからです。

この問題は、うつつ体験を語る時にも生じています。うつつ体験も言葉に翻訳される時に、結構、改ざんされています。「うつつ体験は確固としている。確かな世界だ。」という思いは、多くの場合、先入観、思い込みです。願望です。



死の間際とか、睡眠不足のように、心に大きな負荷が掛かった時に、体験し易いみたいです。又、断層の側などの電磁波が変動し易い場所でも、その傾向があるみたいです。富士山などの世の有名な霊場などは、この傾向を持っているのでしょうか。

あっ。もちろん健康な方は心配いりません。この程度で、脳が誤動作する事はありません。心の中を支配している欲望の方が、遥かに巨大で強力だからです。この強大な力に打ち勝てるものなど、滅多にありません。問題は、この強大な力が弱まった時です。余りにも辛くて、執着心が弱まった時です。普段は感じる筈のない、ささやかな別の知覚の影響を受け易くなるみたいです。

まぼろし体験で、意識知覚している情報は、未知の原因心の状態の融合物になっています。心が平安なら、お花畑のような満ち足りた世界となります。しかし、もし、猜疑心や恐怖心、恨みなどの負の感情に支配されていたら、もののけキメラなどの恐ろしい悪霊の世界となります。悪霊に追いかけられたり、或いは、取り憑かれる幻覚を体験します。心の状態がそのまま映像化されます。

なお、その原因は分かりません。
あってはならない事が、原因になっているらしいこともあります。

まぼろし体験で意識知覚しているもの
幻過程
まぼろし体験の時、意識の知覚対象(まぼろし)は、未知の原因心の状態の融合物になっています。

心が平安なら、お花畑のような満ち足りた世界になります。始めて味わう深い満ち足りた満足体験なので、「神と遭遇した」と感じるかもしれません。

恐怖心や、猜疑心、恨みなどの負の感情に支配されていると、恐ろしい悪霊の世界となります。悪霊に取り憑かれる幻覚を体験します。或いは、「キメラ」や「もののけ」などの邪悪なものに、追い掛けられたり憑り付かれたりする幻覚かもしれません。

この体験に関する心理学は、残念ですが、まだ、確立されていません。いや、それ以前の問題として、現象の存在自体が、認められていません。民間信仰か、オカルトの一種だと誤解されています。如何わしい話だと思われています。

しかし、この現象も、人間の精神世界を語るには欠かせません。多くの民話や宗教は、この体験を背景としているからです。

平安時代の『もののけ騒動』も、このまぼろし体験の一種です。『もののけ』は、悪霊のことではなくて、生き物の気配(いきもののけはい -> もののけ(ものの気))のことです。日常生活でも、ふと、背後に人や動物の気配を感じることがあると思いますが、そのような生きもののけ配のことです。

そのようは正体不明の生き物の気配が頭の上を飛び回って、ギューンと、鋭く、アイスピックで突き刺すように、飛び込んでくる幻覚です。もののけに、取り憑かれたような錯覚を覚えます。へび憑きやきつね憑きの一種です。

それらの もののけ は、幻覚を見ている当人の心の状態によって、様々な姿になります。心の状態が、そのまま、幻覚化されます。多くの場合、未知の世界(幻覚世界)に対する恐怖心がありますから、その恐怖心が幻覚化されて、恐ろしい悪霊やキメラヌエの姿になります。頭がサルで胴体がへびのような合成生物の姿をしています。どちらかと言えば、恐ろしい悪霊の姿となります。その姿は、人、夫々ですが、何らかのキメラの姿をしているのが、もののけ体験の特徴です。

心の中から恐怖心が消えると、その心の状態が幻覚化されるので、無味無臭のホワイトノイズの塊となります。恐怖心が消えるので、悪霊の姿とはなりません。しかし、生き物(もののけ)の気配自体は消滅しません。部屋中が満たされています。そのホワイトノイズの塊が、同じように、頭の上を飛び回り、やっぱり、体に取り憑いてきます。

もののけの原因と、もののけの姿は、別問題のようです。

取り憑かれても、別に、弊害はないので神経質になる必要はないと思います。取り憑かれた場所の臓器に、何らかの病気があるのかもしれません。それとも、身近な人と心が繋がって、その気配を感じているのかもしれません。しかし、その当たりの明確な確信はありません。

注)平安時代に「もののけ話」が増えた原因は不明です。

まさか、平安時代に起こった超新星爆発が関係しているのでしょうか?
大量の放射線が地球にも降り注ぎました。その痕跡を今でも確認可能です。
鳥は地磁気を手掛かりに渡りを行っています。牛も南北方向に整列する傾向があります。人間の場合も、敏感な方は、磁場の変化に反応します。それで、脳が誤動作したのでしょうか?
今となっては、確かめようがありません。それに、健康上の問題もあるので、まさか、実験する訳にもいきません。

お迎え現象

死の間際に、亡くなった親族などが、枕元に現れる現象です。まるで、死者がお迎えに来たように錯覚するので、『お迎え現象』と呼ばれています。

親しかった親族が迎えに来てくれるので、寂しくなくて、死の恐怖から解放されるみたいです。羨ましいですね。

死後幻覚や臨死体験の一種です。だから、人によっては、もっと、もっと、多様な体験があると思われます。お花畑を体験している人も居られるかもしれません。

死の間際には、うつつ世界の束縛から解き放されますから、普段は、心の奥底に眠っていた深層心理が、意識知覚にまで昇ってきます。この為、普段は体験することのない様々な幻覚世界が、作り出されるみたいです。

その原因は、いくつかの可能性があります。しかし、残念ながら、充分なデータが無いので詳細は分かりません。

皆様も、そのうち、体験します。

皆様も、そのうち、まぼろし体験に出会うことになると思いますので、その時、慌てないように、心の片隅にでも置いて頂ければ、幸いです。
一説によると、結構、多くの方が、死の間際に、死後幻覚お迎え現象を体験しているみたいです。
残念ですが、多くの方々は、そのまま、あっちの世界に行って仕舞われるので、その体験談を聞く事はありません。

その時は、意外と冷静で、客観的ですので、この言葉を思い出すことは、充分可能です。うつつ体験と同じように、ハッキリと、記憶にも残ります。

その時、あなたが体験する世界は、非常にリアルな体感を伴っています。肌と衣服が擦れ合う感覚や、体を動かしたときの関節にかかる負担などの現実世界そのままの体感を伴っています。それ故、慣れないと、うつつ(現実)体験と区別が付きません。うつつ世界の延長として、死後の世界や、UFOの拉致体験などのようなリアルな別世界に、迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えます。

まぼろし体験は、うつつ体験と区別がつかない程、リアルな体感を伴っている。
意識も覚醒しています。

それ故、うつつの延長として、別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥ります。

まぼろし体験は、多くの場合、心が満ち足りた安らかで感動的な世界です。始めて味合う深い満足体験です。極彩色で彩られた安らかな世界です。レーザー光線で彩られたり、光り輝く、色鮮やかなお花畑を体験することになると思います。光の泉が湧き起ってくるかもしれません。光の泉といっしょに、満ち足りた感動の渦も込み上げてくるかもしれません。懐かしい肉親などの死者に会うことがあるかもしれません。

多分、今までで一番感動的で、満ち足りた、美しい世界だと思います。うつつ世界では、体験したことのない満ち足りた世界です。心の奥底から、満ち足りた感動の渦が込み上げてきます。

冥途のみやげになれば幸いです。(I hope it will be a good souvenir of your trip to heaven.)

【念の為の注意事項】

心に負の感情があると、それが幻覚化されるので、恐ろしい悪霊の世界を体験することになるかもしれません。邪悪なものに追いかけられたり、悪霊に取り憑かれた幻覚を体験するかもしれません。自分がもっとも目を逸らしたい本音、つまり、心の奥底に潜んでいる虚栄心や猜疑心、憎しみ、恐れ、不信感などの醜い心が幻覚化されます。その実況放送を味わうことになります。念の為。。。

辛い話ですが、まぼろし体験は、その人の心の奥底が正直に反映されます。それ故、その体験談を聞くと、心の奥底が透けて見えてしまいます。心の奥底が、どのような欲望で満たされているかが見えてしまいます。話すときに、どのような言葉で誤魔化したり、正当化してもムダです。「誤魔化したい。」「飾りたい。」という欲望の働きも含めて、全て見えてしまいます。

なるべく話されない方が賢明かと。

対処療法は?

まぼろし体験に遭遇したとき、
もし、余裕があったら、自分が信じている宗教の祈りの言葉を唱えてみて下さい。
平凡ですが、効果的です。なお、宗教の種類は問いません。『信じる行い』が大切です。

後光

視野いっぱいに経典(漢字)が広がり、その背景から光の泉が湧き上がってくるかもしれません。或いは、ブッダが現れて、頭の後ろから後光が射しているかもしれません。

キリスト教の方は、キリストが現れて、その後ろから後光が射しているかもしれません。仏教と同じように、そのような絵や像も多いので、結構、多くの方がまぼろしを体験しているみたいです。宗教が異なっても、体験内容は同じなのですね。

それ以外の方は、自分が信じている宗教の象徴が目の前いっぱいに広がり、それが光の泉に包まれているかもしれません。



信じる宗教を持たない方は、望んでみて下さい。たとえば、「浮き上がれば、いいな。」と。

横になったまま、体が浮き上がって、やがて、横に流されていくかもしれません。或いは、体から、もうひとりの自分が抜け出す感覚かもしれません。この感覚を味わう人の方が多いかもしれませんね。

壁をすり抜け、どんどん流されていきます。恐怖心を抑えて、そのまま、流れに身を任せて下さい。恐れることはありません。やがて、懐かしい人と出会うかもしれません。もちろん、それはあなた自身が作り出した幻覚です。その背景には、別の人の心との出会いと干渉が。。。

それが分かった時、自分の因果応報に凹むかもしれませんが、これも現実です。余分な感情を生じさせないで、そのまま受け入れることを希望します。言葉による正当化や粉飾は、症状を悪化させるだけです。余分に苦しむだけです。
人間という動物の耐え難い悪癖は、言葉による正当化で、オナニーに耽ってしまうことです。このオナニーが、全ての問題をややこしくしています。

まかり間違っても、絶対に「浮き上がれ。」と命令してはいけません。

あくまでも、『望む』ことです。

(未知の世界への恐怖心から)間違って命令すると、金縛りに陥ります。
命令の本当の姿は、『命令している者の(命令されている者への)不信感』だからです。「幻覚を見ている自分」の、「幻覚を作り出している自分」への『不信感』が、デッドロック、即ち、金縛りの幻覚に具現化されてしまいます。金縛りは、幻覚を見ている自分と、幻覚を作り出している自分の対立を、そのまま、幻覚化したものだからです。二つの力の競合と対立が原因です。

結果は。。。恐れることはありません。全てを悟ることになると思います。『一切は空なり』と。愛も憎しみも、そして、生も死も、全ては自分自身が作り出したものです。自分が見ているものは、うつつ体験も含めて、全て、自らの心の中で蠢いている欲望が作り出したものです。
それを実感できたら、幸いです。間違っても、「自分は悪くない。あいつが悪い。」と責任転嫁されないことを希望します。

余りにもリアルな体感を伴った満ち足りた世界なので、「神と遭遇した。」とか、「死後の世界に迷い込んでしまった。」かのような錯覚に陥りますが、全ては、脳内部に作り出された架空世界です。うつつ世界や、ゆめ世界と、基本的には同じものです。うつつ世界も含めて、全ては、心の中に作り出された仮想現実です。意識感覚器官の知覚対象の世界です。

【重要な注意事項】
まぼろし体験は、現代の科学教の宗教裁判に掛けられる可能性があるので、不用意に話されない方が賢明かもしれません。科学は宗教です。現代の科学教の根本教義と激しく対立する部分があります。

(例:再現実験が難しい。心の問題なので、主観的要素が強い。客観性に欠ける。大部分の健康な人たちは、体験しない。ウソ、空想が多い。等々。。)



まぼろし体験とゆめ体験を識別するポイント

ゆめ体験とまぼろし体験は、どちらも、純粋に心の中の事情で作り出されている点は同じですが、決定的に異なった特徴もあります。(まぼろし体験には、)次のような四つの特徴があります。

  1. 非常にリアルな体感を伴っている。
  2. 深い満ち足りた感動を味わう。
  3. 覚醒した時、まぼろし体験が原因の行動が発生してしまう。
  4. 同じ幻覚が三度繰り返すことがある。



1. 非常にリアルな体感を伴っている。

まぼろし体験の時、意識は覚醒しています。

ゆめ体験は、現実から切り離されたフワフワとした感覚(所謂ゆめ体験)ですが、まぼろし体験は、(うつつと区別がつかない)非常にリアルな体感を伴っています。

この為、しばしば、慣れないと、うつつ体験と区別が付かず、「死後の世界に迷い込んでしまった。」とか、「神と遭遇した。」「宇宙人と遭遇した。」「体から、もうひとりの自分が抜け出した。」「体が浮き上がって、下を眺めていた。」といった(疑似現実の)体験を味わいます。
彼らの体験談は、決してウソを付いている訳ではなくて、余りにもリアルな体感を伴っているので、うつつ体験と区別が付かず、うつつ体験の延長と錯覚してしまう為です。彼らは、実際にそのような世界を体験してきました。

この問題を深く追求し過ぎると、ややこしくなるので、ほどほどが賢明かと思います。
今、実感として捉えてる筈のうつつ(現)体験も、本当に、現実かどうか疑わしくなってしまいます。それを確かめたくて、ナイフで手首を切りつけ、滴り落ちる血を眺めて、「あ~、やっぱり、これは現実だ。」と安心するかもしれませんが、それさえも、つまり、その体感さえも、まぼろしかもしれません。実際、まぼろしは、うつつの体感を完璧に偽装します。識別することは、慣れないと困難です。

三重になった幻体験

まぼろし体験は、玉ねぎの皮のように、何重にもなっている事があります。

【1】「まぼろし体験(1)から抜け出した。」と思ったら、そこは別のまぼろし体験(2)の世界だった。
【2】「その別のまぼろし体験(2)からも、苦労して抜け出した。」と思ったら、そこは、また別のまぼろし体験(3)の世界だった。
【3】この三度目のまぼろし体験(3)から抜け出したら、やっと、うつつ世界(4)に戻ってこれた。

【4】でも、(戻って来た筈の、)このうつつ世界(4)は、本当に、うつつ世界だろうか?。
それを、どうやって確かめれば良いのだろうか?。ナイフで手首を切って、滴り落ちる血を眺めても、それが現実とは限りません。
まぼろしは、うつつの体感を完璧に偽装します。

注意)疑念は、ほどほどに!。。。心の健康の為に、別の楽しみを見つけましょう。


2. 深い満ち足りた感動を味わう。

非常に深い満ち足りた感動を味わいます。

今まで、体験したことの無い深い感動や喜びに満ちた世界です。心の奥底から、感動の渦が込み上げてきます。レーザー光線のような純粋な光に満ちた綺麗なお花畑を体験するかもしれません。湧き上がってくる感動と一緒に、光の泉が湧き上がってくるかもしれません。或いは、経典や神、仏の背景から、後光が射しているイメージかもしれません。込み上げる感動と共に、光の泉が湧き上がってくるイメージかもしれません。
どのような世界が広がるかは、民族と個人の生き様によって様々だと思います。

しかし、心が憎しみや嫉妬、猜疑心、虚栄心などの負の感情に支配されていると、それが、そのまま幻覚化されます。(今まで体験した事のないような悪意に満ちた)邪悪な悪霊の世界を体験するかもしれません。邪悪なものに、追いかけられる幻覚を体験します。

そのような人々は、それに敵意を向けています。悪と対決しているつもりかもしれませんが、勇ましく言葉を振りまして、自己を正当化し、自己満足に浸っています。それが自分自身の本当の姿と気付かないままに。

まぼろしは、心の写し鏡です。
余分な心の働きは、症状を悪化させるだけです。
現実を、あるがまま受け入れる事を希望します。


3. 覚醒した時、まぼろし体験が原因の行動が発生してしまう。

ゆめ体験は、願望充足行為なので、(夢によって願望が充足されるので、)行動の原因となる欲望が消滅します。この為、覚醒後の行動に影響を与えません。しかし、まぼろし体験は強い影響を与えることがあります。

覚醒後、耐え難い胸騒ぎを感じ、何かに促されるようにして、肉体的行動が生じてしまう事があります。現実の世界を彷徨います。そして、やがて、そのまぼろしの原因と出会います。出会えば、直観的に直ぐに分かります。「あっ、これだ。」と。

でも、残念ですが、その出会いは決して心地よいものではありません。どちらと言えば、辛い現実です。自分の運命を恨みたくなります。神の皮肉に、恨み言のひとつも言いたい気分です。

どのような現実と出会っても、あるがままに、受け入れることを希望します。言葉で飾っても、余分に苦しむだけです。言葉によって勝利宣言に浸ったり、納得できる言葉を探し求めて右往左往しても、苦しみが増すだけです。心が混乱するだけです。

しつこいようですが、くれぐれも、言葉を振り回さないことが大切です。
あるがままに、受け入れることが大切です。



4. 同じ幻覚が三度繰り返すことがある。

まぼろし体験は、同じ幻覚が三度繰り返す場合があります。幻覚は、一度か三度です。理由は分かりませんが、二度や四度はありません。

同じ幻覚が、だんだん細部がリアルになりながら、三度繰り返します。
幻覚が一通り終わると、また、スタート位置に戻って、同じ幻覚が繰り返します。細部が微妙に異なっています。終わる場所は、一回目と同じです。そして、これがもう一度繰り返します。スタート位置と終わる位置は、前回2回と全く同じです。合計三回、同じ幻覚が(細部が、よりリアルになりながら)繰り返します。

でも、始まりと終わりは、いつも一緒です。「あっ、また、ここで終わった。」と感じます。

原因は外部にある

三度繰り返す場合は、大抵、その原因が外部にあります。外部の原因で、作り出された幻覚です。(夢のような)内部の事情で作り出された幻覚ではありません。
現実の肉体的行動が生じて、始めて思い知らされます。

興味深いことは、攻殻機動隊(イノセンス)のアニメで、この三回繰り返す幻覚の特徴が、詳細に描かれていました。原作者、又は、関係者の中に、まぼろしの体験者がいたみたいです。

この作品は、初期と、素人受けを狙って編集し直した後期作品の二種類があります。ストーリーや描画は、原作のままですが、まぼろし体験に関した内容は、意味不明の無駄な描画として、後期の編集では省略される傾向にありました。ストーリー展開が重要視されていました。作品としては、初期の方が遥かに優れていました。
原作者は、どさくさに紛れて、まぼろし体験も描写したかったみたいですが、後期の編集者には、それが理解できなかったみたいです。理解不能な無駄な描写に見えたのでしょう。この作品にとって重要な多くの部分が欠落していました。いわゆる改悪の典型例でした。平凡な作品に改悪されていました。残念です。
なお、他のアニメや漫画の中にも、まぼろし体験からインスピレーションを得たと思われる描写が散見されます。



科学は宗教です。

現代は科学教の時代です。人々の心を支配している価値観が、『神』という価値観から、『科学』という価値観に移り変わっている時代です。

現代の科学教徒は、『神』という価値観を信じないで、『科学』という価値観を信じています。だから、『無神論者』と呼ばれています。『神』という言葉を否定し、『科学』という言葉を肯定しているからです。全ては、ただ単に、神か科学か言葉上の問題に過ぎませんが、「言葉の違いこそが全てだ。」と思い込んでいるので、「本質的に違う。宗教的因習を断ち切った目覚めた人だ。」と思っています。

新興宗教は、いつも、差別化の為に、既存の旧体制派宗教を否定しています。ピューリタンはクリスチャンを否定しました。大乗仏教は小乗仏教(上座部仏教)を否定しました。科学は、宗教を否定しています。いつか来た道、既視感満載です。それもこれも、現代は、科学教が勃興している時代であるが故です。

人間、言っている事は違いますが、やっている事は、今も昔も同じです。差別化と、欲望の正当化です。

『言葉』ではなくて『行い』に目を向けるなら、両者とも、価値観の奴隷である現実は、何ひとつ変っていません。宗教は『という価値観』を信じていますが、科学は『科学という価値観』を信じています。『価値観』を信じる行為は同じです。それに振り回されている現実は同じです。付けている名札が、『神』か『科学』かだけの違いです。実体は欲望を持った同じ動物です。

ややこしくしているのは、その欲望を、言葉で必死になって正当化しようとしているからです。困ったことに、正当化の為の言葉は、大きく違っています。だから、(言葉が違うから)「本質的に違う。」と、思い込んでいます。
厚化粧の年増女のように、これでもか、これでもかと、言葉を塗り固めて、欲望を飾る事に必死です。いや、隠そうと必死です。言葉によって、差別化を図ろうとしています。「我々は、目覚めた科学教徒だ。」と。

物事は『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。
それ故、『行い』と『結果』の因果関係に目を向けることが大切です。
言葉が作り出している先入観に惑わされないことを希望します。



我々人類の未来には、『価値観の奴隷』からの解放という道もあります。
『宗教的価値観にも科学的価値観にも、ありとあらゆる価値観に支配されない自由な心』の選択肢もあります。
原因と結果の因果関係を観察して、自らを律する道です。


価値観は、心を閉じ込めている檻です。心は、価値観の檻から抜け出せなくて苦しんでいます。
浜辺のヤドカリが、次から次へと殻を取り換えるように、心は、価値観の殻を捨てれなくて、いつまでも、次から次へと新しい殻に取り換えています。『古い神』から『新しい神』の殻へ、或いは、『神の殻』から『科学の殻』へと。
「今度こそは!」と、いつも淡い希望を胸に抱いて。。。。



知的生命体の錯覚

人々は、価値観に従って行動しようとします。でも、正解は『現実に目を向けて行動する。』です。

『価値観』は『現実』の代用物の働きをしています。つまり、価値観は仮想現実です。

人々は、現実に目を向ける事が難しいので、理解し易い、しかも、真理に思える価値観にしがみ付いています。
現実は立場が変ると見え方も変わります。刻々と変化するので、捉えどころ無くて、まるで妖怪のようです。そのような曖昧なものではなくて、考えなくてもよいもの、真理に思えるもの、不偏のもの、即ち、絶対的価値観に安易にしがみ付いています。価値観を現実だと錯覚して、価値観に基づいて行動しています。現実に基づいて行動する代わりに。

哀しいことに、哲学者や思想家、宗教家が探し求めているものは、その安易にしがみ付ける絶対的価値観です。絶対的だと錯覚できる価値観です。現実に目を向けなくても済む、しかも、いちいち考えなくてよい(絶対的)価値観の方です。『現実』の代用物としての価値観の方です。
彼らは、脊髄反射的に、何も考えずに探し求めています。『探す』という行為自体に疑念を抱いていません。 「なぜ、新しい価値観を探すのか?」に疑問を抱いていません。
それ故、『価値観の檻からの心の解放』には全く興味がありません。

自分には、彼らが言葉と価値観から作り出された幻世界の中で生きているように見えてしまいます。肉体は現(うつつ)世界の中で生きている筈なのに、(心は)まぼろし世界の中で生きています。

絶対的価値観という空想世界の中で生きています。絶対的価値観は欲望の正当化には完璧に成功していますが、、、、、、でも、、、でも、現実は、たったそれだけです。自己満足に耽る事ができているだけです。それ以外は、何も得ていません。

現実に基づかない行動は、破綻します。それが如何に宗教的に真理であっても、科学的に正しくても、哲学的に絶対的真理であっても、『現実に基づいていない。』という、ただ、その一点の為に破綻します。

大切なことは、絶対的価値観や真理を求めるのではなくて、目の前の現実に目を向けることです。そのような欲望に振り回されるのではなくて、(いったん、「いい、悪い」を側に置いて、)原因と結果の因果関係を観察することです。
少なくとも、現実をあるがままに受け止めることです。全ての欲望の働きを止めて。。。

7._4 三つの世界のまとめ

三つの世界の現状と、その原因を一覧表にまとめます。残念ですが、これらの現象に関する現状の理解度は、かなり、科学的迷信に囚われています。

意識感覚器官が体験している三つの世界
世界心理学現状
うつつ(現)体験通常の心理学比較的整備されています。
ゆめ(夢)体験フロイトの夢判断フロイトの心理学は、性欲などの欲望の存在に触れてしまったので、評判が悪いです。
『性欲などの欲望を否定したい。』という欲望や、綺麗事への拘りを持った人々が、結構、大勢います。
まぼろし(幻)体験まだ確立されていないそれ以前の問題として、現象の存在自体が認められていません。
オカルトだと誤解されています。
三つの世界の原因
世界原因
うつつ外部感覚器官から流入した信号と、過去の記憶痕跡から作り出されます。

意識知覚しているイメージは、外部感覚器官からの信号と、記憶痕跡との融合物です。
だから、自分の家なら、ドアの前に立つだけで、ドアの向こうの部屋の中を理解できます。過去の記憶痕跡も同時に蘇っているからです。

我々は、目から流入したイメージだけでなく、そのイメージから連想される過去の記憶痕跡も、同時に意識知覚しています。それが、自分にとっての情報の意味です。連想された過去の記憶痕跡によって、目から流入した信号の意味を理解しています。

始めて訪れたホテルの場合、ドアの前に立っても、中の状態は分かりません。過去の記憶痕跡が存在していない為です。眼からの信号が、過去の記憶痕跡を呼び起こさないからです。

例外としては、白日夢のように、自らの作り出している空想もあります。この場合は、外部感覚器官から連想されたイメージではありません。欲求不満が原因の自慰行為です。
ゆめ心の中に溜まっている何らかのテンション(欲望)が、意識感覚器官に向かって放出されることによって、起こります。

放出によるテンションの解消行為、即ち、願望充足行為です。
ちょうど、現実の願望充足行為が、「運動器官に向かって放出している。」ことに対応しています。

夢は、本来だったら、運動器官に向かって放出される筈のテンションが、意識感覚器官に向かって放出されることによって生じています。
性欲などは、その代表です。性欲は、本来、運動器官に向かって放出されるべきですが、様々な、社会的制約や、道徳などの因習によって、困難になっています。そこで、その多くが、意識器官に向かって放出され、その中で、処理されています。架空の願望充足体験で、満足しています。

性欲は、非常に強力です。しかも、厄介なことに、社会的建て前と激しく対立しています。この為、心の中で屈折しています。神に仕える筈の司祭が、幼児性愛に目覚めてしまうのも、屈折した性欲が、弱い者に向かって放出されてしまう為です。禁酒法が、逆に、アルカポネなどのギャングを生み出してしまったことと同じ現象です。宗教上の綺麗事に振り回されて、性欲を無理に抑え込んでしまっている為です。人間の欲望を法律や教義で無理に抑え込むと暴発します。抑え込む行為は、自己満足に根差した無謀な行為です。妻帯を認めれば、少しは、ましになると思います。ガス抜きが大切です。教義よりも、現実に目を向けることが大切です。

性欲は汚いものでもなければ、綺麗なものでもありません。
否定すべきものでもなければ、肯定すべきものでもありません。
これのおかげで、我々人類はここまで生き残ってこれたのです。
そして、強すぎるが故に、いつも、トラブルの原因にもなってきました。
残念ですが、そこで蠢いているのは、生き物としてのサガ(性)です。

夢は願望充足行為なので、現実世界には影響を与えません。
夢が原因の肉体的行動が覚醒後に起こることはありません。
行動の原因となる筈のテンション(欲望)が、夢行為によって、解消しているからです。
まぼろし原因は、分かりません。

心の奥底にある何らかの情報が原因になっているようです。しかし、その情報が何処から遣ってきているのか、充分には、分かりません。

非常にリアルな体感を伴った体験なので、慣れないと、うつつ体験とまぼろし体験を識別することは、困難です。しばしば、死後の世界に迷い込んでしまったかのような、あるいは、UFOに拉致されてしまったかのような錯覚を覚えます。

まぼろし体験の実際の映像は、心の状態に大きく左右されます。恐怖感があれば、キメラなどの恐ろしい魔物になります。自分自身に対する不信感があれば、金縛りになります。心が平安なら、満ち足りた光り輝く感動的な世界となります。光で彩られたお花畑を体験することになります。

しかし、その表面的映像とは、裏腹に、それを作り出している原因は別の所にあります。本来、あってはいけないことですが、心と心が、互いに、干渉し合っているときもあります。

まぼろしから覚めた後、現実世界で、強い肉体的行動の衝動に晒されることがあります。

衝動に駆られて、意味が理解できないまま、行動を起こすことがあります。何かに導かれるように彷徨って、やがて、そのまぼろしを作り出した原因と出会うことがあります。出会えば、直観的に、直ぐに分かります。「あっ、これだ。」と。
その出会いは、残念ながら、辛いことの方が多いです。厳し現実に、神を恨みたくなります。しかし、心の整理(ケジメ)にはなります。

申訳ありませんが、その現実を、そのまま受け入れてください。いたずらに、言葉で飾り立てたり、否定したら、余分に苦しむだけです。

まぼろし体験は、尊いものでもなければ、忌まわしいものでもありません。
恐ろしいものでもなければ、優しいものでもありません。
綺麗なもでもなければ、汚いものでもありません。
神でもなければ、悪魔でもありません。
非科学的な妄想でもありません。

今、自分の意識が向き合っている現実です。
言葉で飾らないで、そのまま受け入れる事を希望します。

ゆめが、現実世界の行動に影響を与えないのに対して、まぼろしは、強い影響を与えます。うつつ体験と同じように、明確な形で、実体験として、記憶に強く残ります。それ故、それが原因の肉体的行動が生じてしまいます。
何かに導かれるようにして、現実世界を彷徨い、幻覚を作り出した原因に出会うことがあります。

これが、ゆめ(夢)とまぼろし(幻)を識別するポイントです。覚醒してから、それが原因の肉体的行動が生じるかどうかで見分けます。
ゆめ(夢)は、覚醒時の行動に影響を与えませんが、まぼろし(幻)は、影響を与えます。まぼろし体験が原因の行動が生じてしまいます。

まぼろし体験のもうひとつの特徴は、外部情報が原因の場合、同じ幻覚が、少しづつ形を変えながら、3度繰り返すことです。2度でも4度でも無くて、幻覚は1度か3度です。なぜ、3度繰り返すのか理由は不明ですが、3度繰り返す場合、ほぼ外部情報が原因の幻覚です。後で、それを知ることになりますが、さすがに、その時は凹みます。神を恨みたくなります。

この3度繰り返す現象は、なぜか『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(アニメ)』の中で描写されていました。原作者か、プロデューサーの中に、死後幻覚の体験者が紛れ込んでいるみたいです。空想で作ったなら絶対に思いつかないような何でもない些細な事実を、さりげなく、しかも忠実に再現していました。見ている人は、SFアニメの空想としか思わないでしょうが。ほとんど、興味を引かない些細な事実なので見過ごすと思いますが。



This Man

あっ、これだ。』の直観は、巷では『This Man 』現象としても知られています。まぼろし体験の一種です。

『 This Man 』は、夢の中に繰り返し現れる謎の人物です。世界中の多くの方が体験しています。
でも、肯定と否定の情報が錯綜しています。ほとんどの人は、体験しないので、疑心暗鬼なのですね。否定派も肯定派も、何とか、自分を納得させる合理的説明を見つけようと四苦八苦です。

主なストーリーは、
「ある時、不思議な男が夢の中に繰り返し現れるので、気になって、精神科医に相談に来た。精神科医が、似顔絵を作成して、同様の相談にくる別の患者に見せたところ、『 This Man 』、『あっ。この人だ!』と直観的に理解したそうです。」
現実には、ウソ、ホントを織り交ぜて、様々な半信半疑の体験が報告されています。結構、バリエーションがあります。当たり前ですね。まぼろし体験なので。

『 This Man 』の体験談は、まぼろし体験の特徴をよく表しています。この体験は、夢と違って、強く記憶に残るので、覚醒時の生活にも、影響を与えてしまいます。まぼろしを作り出した原因を求めて、うつつ(覚醒時)世界の中を彷徨います。今回の場合は、精神科医に相談に来ました。気になって、まぼろし体験の内容を、身近な人に話したり、投稿サイトにアップすことも、よくあるみたいです。何らかの行動が発生します。

その原因に出会った瞬間、直観的に分かります。「あっ、これだ。」、「This Man」と。

「This man」現象に関するデータは、大雑把には3種類混じっていると思われます。
「This man」が原因と思われるデータが全体の1/3。それ以外のまぼろし体験が1/3。残り1/3は、ウソや夢などの誤認です。

投稿内容を読んでみたのですが、多くは、ウソとは断定できませんでした。体験者しか知らない感覚に触れていました。ただ、『 This Man 』の影響を受けて作り出されたまぼろし体験の報告は、全体の1/3程度でした。それ以外の原因で作り出された(と思われる)まぼろし体験も、結構、混じっていました。当然、ウソや夢の誤認もかなり混じっていました。(特に、もっともらしい解説は、陰謀論や猜疑心を利用した合理化のウソの説明がほとんどでした。現実と向き合っていませんでした。)

ただ、データの品質が相当に悪いので、詳細な分析は不可能でした。どのような情報が含まれているか、その大雑把な傾向を掴むのがやっとでした。もっと詳細なデータが欲しいところです。せっかくのチャンスなので。

想像以上に、多くの方々が、死後幻覚などのまぼろし体験を、このような別の形で、体験していたのですね。意外でした。

「This man」現象の大雑把な傾向(印象)
原因割合備考
This man1/3共通の特徴を持っている体験。
それ以外のまぼろし体験1/3心の事情で作り出されている別の体験。例、UFO拉致体験
ウソ、誤認1/3夢を誤認したか、又は、ウソ。合理化の為の理由付け。

注)この手の情報の分布としては正常です。合理化のウソ、捏造が大量に含まれているのは、ごく自然です。玉石混淆は、世の常です。いつも、濁った水の上澄みをすくい取るのに苦労します。ウソほど、魅惑的だからです。欲望の葛藤に晒されます。UFO論争の混乱と瓜二つです。

このような玉石混淆の曖昧な現象と向き合う手順は、
1. まず、大雑把な現象の全体像を把握する。
2. その全体像に基づいて、詳細なデータ収集の為の調査方針を策定する。

残念ですが、現状は、まだ、全体像を把握する段階です。まぼろし体験が大量に含まれている筈だが、それと同程度にウソも大量に含まれている疑心暗鬼の状態です。

7.1 体験するとは

我々人間にとって、体験するとは、意識知覚すること、即ち、言葉にして話せることを意味しています。

思い出すとは、意識器官を使った、過去の再体験を意味しています。

もう一度、記憶痕跡を、意識知覚にして、そこに、架空行動を生じさせ、その過去の再体験によって、過去を思い出しています。

哲学も、科学も、宗教も、全て、言葉で表現されているものは、意識にとっての知覚対象の世界の出来事です。

確かに、この肉体は、現実世界の中に存在していて、そこで生きています。
膨大な量の情報が外部感覚器官から流入して、情報処理され、外部運動器官に向かって放出されています。しかし、大部分の情報は、意識知覚されることがないので、気づかないまま、流れ去っています。
現実世界のほんの一部しか、意識知覚になっていません。

意識された行動だけが、意味のある行動として、意識の記憶に残ります。あとは、何気ない、無意識な行動として、そのまま流れ去ってしまいます。これらの行動は、意識されることもないので、意味のない行動として、言葉の記憶にも残りません。

しかし、ここがややこしいのですが、このような意識されない行動は、確かに、我々の精神世界には影響を与えませんが、肉体の世界には、大きな影響を与えています。

精神世界と肉体の世界は、分けて考える必要があります。精神世界は、言葉と結びつきますから、言葉で説明することが可能ですが、肉体の世界は、そのごく一部しか、意識知覚することが出来ませんから、言葉で説明できるのも、一部です。精々、総体的な感情として意識知覚されるのみです。『気分がいい。』とか、『気分が悪い。』といった漠然とした感情として知覚されるのみです。
言葉で説明できない事は、存在しないものとして、無視されています。

言葉で説明することが目的なら、我々にとって体験するとは、意識にとっての知覚対象の範囲内に限定されてしまいます。つまり、意識知覚されている世界のみが対象になってしまします。
そして、それらは、全て、脳内部に作り出された信号の塊(イメージ)です。

その意味では、我々人間は、夢現幻の3つの世界を体験しています。この3つとも、意識にとっての知覚対象の世界ですので、共に、言葉で説明することが可能です。

特に、現(うつつ)と幻(まぼろし)体験は、リアルな体感を伴っているので、慣れないと識別が困難です。未知の世界、例えば、死後の世界や、神との遭遇宇宙人との遭遇体験が、まことしやかに語られる原因となっています。

宗教体験の根底には、この幻(まぼろし)体験が潜んでいます。

7.2 うつせみ

ペンネーム「うつせみ(空蝉)」の語源は、「うつしおみ」らしいです。それが訛って「うつせみ」になったみたい。

「うつ」は、「うつつ」の「うつ」で、この世を意味します。
「おみ」は、「人」を表しています。
「うつしおみ」は、この世を生きている人を指すみたいです。

仏教の影響で、この世は儚い(はかない)ものなので、「空蝉」と当て字で表現されました。蝉の抜け殻の意味です。
この世は、(言葉の)形はあるけど中身はない。まるで、蝉の抜け殻のように空っぽです。これを空の哲学では「言葉で表現されている一切は空なり(Everything is empty.)」と表現します。

形はあるけど中身がない様が、まさしく、『空の哲学』そのものだったので、そう実感したのでしょう。

思わぬところで、「うつせみ」が「ゆめ、うつつ、まぼろし」や「空の哲学」と繋がってしまいました。

しょうもないペンネームの与太話でした。失礼しました。