2019/04/10 うつせみ

人間の精神世界は、意識知覚の上に成り立っています。

このような意識にとっての知覚対象である精神世界は、古来の言葉を使えば、『ゆめ(夢)、うつつ(現)、まぼろし(幻)』の3つが存在しています。

7._ はじめに

注)この話は誤解を招く内容を含んでいます。先に、こちらを参照頂くと、誤解が少なくなります。意識感覚器官の知識を前提にしています。

人間の精神世界は、意識知覚の上に成り立っています。

意識知覚できないもの、即ち、無意識の世界の事象は、この精神世界の構成要素にはなり得ません。

このような意識にとっての知覚対象である精神世界は、古来の言葉を使えば、『ゆめ(夢)、うつつ(現)、まぼろし(幻)』の3つが存在しています。

【意識知覚している3つの世界】

  1. ゆめ(夢)
  2. うつつ(現)
  3. まぼろし(幻)

意識体験している3つの世界

体験するとは?

体験するとは、意識感覚器官で知覚することを意味しています。

意識知覚できないものは、言葉で表現することも出来ないので、語ることも出来ません。

この意識知覚が、どのようにして作り出されているかが、ここでの話です。
我々人間は、『ゆめ、うつつ、まぼろし』の3つの世界を体験しています。その3つは、夫々、異なった原因で作り出されています。

基礎的知識は、『意識感覚器官』『体験する。』を参照して下さい。

7._1 うつつ(現)体験

うつつ体験は、通常の覚醒時の体験です。

この体験している世界は、外部感覚器官から流入した情報を中心にして組みたれられています。皆様が心理学だと思い込んでいるものは、このうつつ体験に関する心理学です。

厳密な話をすると、うつつ世界は、さらに、皆様が現実だと錯覚している常識世界と、外部からの信号で構成された現実世界に分けられます。

うつつ体験の時、意識知覚している情報は、感覚器官から流入した信号と、過去の記憶痕跡との融合物になっています。

意識知覚しているうつつ世界の構造

うつつ世界の構造
感覚器官から流入した信号と、過去の記憶痕跡との融合物を、我々人間は、意識の知覚対象としています。

自分の家なら、ドアの前に立っただけで、昨日の記憶が蘇って、ドアの向こうの情景を思い浮かべることができます。ところが、始めて訪れてホテルの場合、ドアの前に立っても、何も感じません。過去の記憶痕跡が無く、目の前のドアの映像から、過去の体験を連想できない為です。

この違いが現実世界常識世界の違いを生み出しています。意識知覚している情報のうち、過去の記憶痕跡や言葉ばかりに心を奪われていると、それは「過去の常識世界を見ている。」ことになります。外部感覚器官からの信号に、より注意を払うと「現実世界を認識している。」ことになります。

どちら側の情報に、より注意を払うかによって、見ている世界が異なってしまいます。

うつつ(現)体験の中身
うつつ体験の現実と常識
うつつ(現)体験の時、意識知覚している情報は、外部感覚器官からの信号と、そこから連想される過去の記憶痕跡との融合物となっています。
過去の記憶痕跡や言葉ばかりに心を奪われていると、その意識知覚している世界は常識世界となります。
外部感覚器官からの信号に心を傾けると、現実世界となります。
その区別は難しいけど。

ちなみに、言葉によって作り出されている世界は、常識世界の方です。現実世界ではありません。
「言葉でキチンと定義しないと論争が成り立たない。」と主張する人々がいますが、一歩間違えば、『言葉によって作り出された空想』相手に論争してしまう危険性を孕んでいます。
現実に基づかない全ての思考作業は無意味です。時間の無駄です。しかし、『現実』は、言葉で表現した瞬間に、『常識』に変身してしまうので、捕らえどころが無くなって、学問的論争には厄介です。哀しいことに、学問的論争は、あくまでも、言葉によって作り出された空想世界の中で行われています。

人間は言葉を見つけた瞬間に、現実への興味を失います。

人は、それを説明できる便利な言葉が見つかった瞬間に、、、。ほんと、その瞬間に、現実への興味を失って、その言葉ばかりを見つめ始めます。言葉が作り出す先入観や常識に支配されてしまいます。人は、外部感覚器官から流入した信号を見つめているのではなくて、言葉と、言葉が作り出す先入観の方ばかりを、見つめています。即ち、言葉によって作り出されている常識世界に、安住してしまっています。

言葉と現実の区別が出来ていません。

人間にとって、理解するとは、言葉を見つけることみたいです。言葉を見つけた瞬間に、理解できたと錯覚しています。

あるいは、信号から連想される過去の常識に、安易にしがみ付いているだけかもしれません。過去の常識は、心の整理が済んだ心地良いものです。眼から流入した信号は、まだ、心の整理が済んでいないトゲトゲしいものです。
やっぱ、心地良い方がいいですよね。現実は、トゲトゲし過ぎです。

人間は、とかく、現実世界には目を向けないで、心地良い常識世界にばかり心を奪われています。
でも、これで何度、痛い目に合ったことか。「現実だと思い込んでいたものが、実は、先入観だった。過去の常識だった。」と。。。。あわわ。。。

痛い目にあって、始めて知る現実と常識の違いです。

7._2 ゆめ(夢)体験

ゆめ体験は、夜、寝ている時に体験する世界です。

夢は、満たされない欲望の発散行為、即ち、願望充足行為だとフロイトは考えていました。意識器官を使った架空体験による架空の願望充足行為です。
性欲などのように道徳や社会的制約によって運動器官に放出できない困った欲望を、意識器官に向かって放出することによって、架空の満足体験を得ているようです。

夢で、意識知覚している情報は、このような欲望と記憶痕跡との融合物になっています。それが、連想によって連なって、次から次へと流れていきます。夢物語には台本が無くて、イメージの塊の連想なので、奇想天外な物語になっています。

夢過程
夢過程
夢見ている時、意識の知覚対象(夢)は、心の片隅で満たされないまま蠢いている欲望(性欲等)と、過去の記憶痕跡との融合物になっています。それらが、連想によって連なり、奇想天外な夢物語を生み出しています。
即ち、夢は、フロイトが主張するように、意識器官を使った欲望の発散行為、即ち、願望の充足行為です。

ゆめ体験の心理学は、フロイトによって確立されました。でも、彼は触れてはいけないもの(性欲)に、触れてしまったので、評判は良くありません。
後世の心理学者は、『触れてはいけないもの(性欲)』の否定に、みな、躍起になっています。性欲と向き合っていません。そこから目を逸らそうとしています。
動物の基本は、食欲と性欲です。もっとも、『花より団子』という言葉があるように、その境界は微妙ですが。一般に、環境条件が良ければ栄養成長に向かい、悪化すれば生殖成長に向かいます。花卉栽培では、花芽が出来る時期には、水や肥料を断って(生存の危機を与えて)、花芽の成長を促します。その時期に、水や肥料をふんだんに与えると、(生存の危機が無くなって)枝葉になって、花が咲かないで、葉っぱだけが生い茂ってしまいます。このタイミングが、ノウハウです。注)花芽へのスイッチが切り替わったら、花芽の成長の為に充分な水と肥料を与えます。そこで断食したら、体力そのものが無くなってしまいます。

夢の構成形式

夢の構成形式は、ジャズやバッハと同じです。

ジャズやバッハは、普通の音楽がメロディー構成になっているのに対して、音の塊が次々に流れてくる連想形式になっています。前の音の塊が次の音の塊を連れてやってくる方法は連想です。音の塊が連想によって連なっています。この連想に感性の差が表れています。

夢もイメージの塊が次々に流れています。連想によって、前のイメージが次のイメージを連れてやってきています。この為に、夢は台本の無い奇想天外な物語になります。
夢とジャズやバッハの構成形式が同じであることは、非常に興味深いことです。

ちなみに、ジャズとバッハは、音楽を楽しんている感性が同じです。脳内の同じ場所が楽しんでいます。ロックやクラシックなどのメロディー繋がりの音楽とは、異なった場所です。
メロディーから構成された音楽は左脳音楽です。連想によって構成されたジャズやバッハは、右脳音楽です。

7._3 まぼろし(幻)体験

注意)これは、冷酷な現実です。でも、不快だと感じたら、読み飛ばしてください。

まぼろし体験は、普段は、ほとんど、体験されることのない世界です。多分、ほとんどの方は、経験がないと思います。

死後幻覚とか、臨死体験と呼ばれています。お迎え現象とか、金縛りへび憑ききつね憑き心霊体験UFO体験の一部なども、この現象に属します。非常にバラエティに富んでいます。夢と同じで、ありとあらゆる体験があります。その為、その呼び名も、その体験内容によって、様々です。色々な呼ばれ方をしています。

死の間際とか、睡眠不足のように、心に大きな負荷が掛かった時に、体験し易いみたいです。

まぼろし体験で、意識知覚している情報は、未知の原因心の状態の融合物になっています。心が平安なら、お花畑のような満ち足りた世界となります。もし、猜疑心や恐怖心、恨みなどの感情に支配されていたら、恐ろしい悪霊の世界となります。心の状態がそのまま映像化されます。

なお、その原因は分かりません。
あってならない事が、原因になっているらしいこともあります。

まぼろし体験で見ているもの
幻過程
まぼろし体験の時、意識の知覚対象(まぼろし)は、未知の原因心の状態の融合物になっています。
心が平安なら、お花畑のような満ち足りた世界になりますが、恐怖心や、猜疑心、恨みなどの負の感情に支配されていると、恐ろしい悪霊の世界となります。

この体験に関する心理学は、残念ですが、まだ、確立されていません。いや、それ以前の問題として、現象の存在自体が、認められていません。民間信仰か、オカルトの一種だと誤解されています。如何わしい話だと思われています。

しかし、この現象も、人間の精神世界を語るには欠かせません。多くの民話や宗教は、この体験を背景としているからです。

平安時代の『もののけ騒動』も、このまぼろし体験の一種です。『もののけ』は、悪霊のことではなくて、生き物の気配(いきもののけはい -> もののけ)のことです。日常生活でも、背後に人や動物の気配を感じることがあると思いますが、そのような生き物の気配のことです。

そのようは正体不明の生き物の気配が頭の上を飛び回って、ギューンと、鋭く、アイスピックで突き刺すように、飛び込んでくる幻覚です。もののけに、取り憑かれたような錯覚を覚えます。へび憑きやきつね憑きの一種です。

それらの もののけ は、幻覚を見ている当人の心の状態によって、様々な姿になります。心の状態が、そのまま、幻覚化されます。多くの場合、未知の世界(幻覚世界)に対する恐怖心がありますから、その恐怖心が幻覚化されて、恐ろしい悪霊やキメラの姿になります。頭がサルで胴体がへびのような合成生物の姿をしています。どちらかと言えば、恐ろしい悪霊の姿となります。その姿は、人、夫々ですが、何らかのキメラの姿をしているのが、もののけ体験の特徴です。

心の中から恐怖心が消えると、その心の状態が幻覚化されるので、無味無臭のホワイトノイズの塊となります。恐怖心が消えるので、悪霊の姿とはなりません。しかし、生き物の気配自体は消滅しません。部屋中が満たされています。そのホワイトノイズの塊が、同じように、頭の上を飛び回り、やっぱり、体に取り憑いてきます。

もののけの原因と、もののけの姿は、別問題のようです。

取り憑かれても、別に、弊害はないので神経質になる必要はないと思います。取り憑かれた場所の臓器に、何らかの病気があるのかもしれません。それとも、身近な人の心と繋がって、その気配を感じているのかもしれません。しかし、その当たりの明確な確信はありません。

お迎え現象

死の間際に、亡くなった親族などが、枕元に現れる現象です。まるで、死者がお迎えに来たように錯覚するので、『お迎え現象』と呼ばれています。
親しかった親族が迎えに来てくれるので、寂しくなくて、死の恐怖から解放されるみたいです。羨ましいですね。
死後幻覚の一種です。だから、人によっては、もっと、もっと、多様な体験があると思われます。

死の間際には、うつつ世界の束縛から解き放されますから、普段は、心の奥底に眠っていた深層心理が、意識知覚にまで昇ってきます。この為、普段は体験することのない様々な幻覚世界が、作り出されるみたいです。

その原因は、いくつかの可能性があります。しかし、残念ながら、充分なデータが無いので詳細は分かりません。

皆様も、そのうち、体験します。

皆様も、そのうち、まぼろし体験に出会うことになると思いますので、その時、慌てないように、心の片隅にでも置いて頂ければ、幸いです。
一説によると、結構、多くの方が、死の間際に、死後幻覚お迎え現象を体験しているみたいです。

その時は、意外と冷静で、客観的ですので、この言葉を思い出すのは、充分可能です。うつつ体験と同じように、ハッキリと、記憶に残ります。

その時、あなたが体験する世界は、非常にリアルな体感を伴っています。肌と衣服が擦れ合う感覚や、体を動かしたときの関節にかかる負担などの現実世界そのままの体感を伴っています。それ故、慣れないと、うつつ(現実)体験と区別が付きません。うつつ世界の延長として、死後の世界や、UFOの拉致体験などのようなリアルな別世界に、迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えます。

まぼろし体験は、うつつ体験と区別がつかない程、リアルな体感を伴っている。

まぼろし体験は、多くの場合、心が満ち足りた安らかで感動的な世界です。始めて味合う深い満足体験です。極彩色で彩られた安らかな世界です。レーザー光線で彩られたり、光り輝く、色鮮やかなお花畑を体験することになると思います。光の泉が湧き起ってくるかもしれません。光の泉といっしょに、満ち足りた感動の渦も込み上げてくるかもしれません。懐かしい肉親などの死者に会うことがあるかもしれません。

多分、今までで一番感動的で、満ち足りた、美しい世界だと思います。うつつ世界では、体験したことのない満ち足りた世界です。心の奥底から、満ち足りた感動の渦が、泉のように、湧き上がってくると思います。

【念の為の注意事項】
心に負の感情があると、それが幻覚化されるので、恐ろしい悪霊の世界を体験することになるかもしれません。悪霊に取り憑かれた幻覚を体験するかもしれません。自分がもっとも目を逸らしたい本音、つまり、心の奥底に潜んでいる虚栄心や猜疑心、憎しみ、恐れ、不信感などの醜い心が幻覚化されます。その実況放送を味わうことになります。念の為。。。

対処療法は?

もし、余裕があったら、自分が信じている宗教の祈りの言葉を唱えてみて下さい。視野いっぱいに経典(漢字)が広がり、それを背景にして、光の渦が湧き上がってくるかもしれません。仏教以外の方は、自分が信じている宗教の象徴が目の前いっぱいに広がり、それが光の渦に包まれているかもしれません。
キリスト教の方は、キリストが現れて、その後ろから後光がさしているかもしれません。幻覚体験なので、文化の影響を強く受けます。

信じる宗教を持たない方は、望んでみて下さい。たとえば、「浮き上がれば、いいな。」と。
横になったまま、体が浮き上がって、やがて、横に流されていくかもしれません。或いは、体から、もうひとりの自分が抜け出す感覚かもしれません。壁をすり抜け、どんどん流されていきます。恐怖心を抑えて、そのまま、流れに身を任せて下さい。恐れることはありません。やがて、懐かしい人と出会うかもしれません。もちろん、それはあなた自身が作り出した幻覚です。その背景には、別の人の心との出会いと干渉が。。。
それが分かった時、自分の因果応報に凹むかもしれませんが、これも現実です。余分な感情を生じさせないで、そのまま受け入れることを希望します。言葉による正当化は、症状を悪化させるだけです。

間違っても、「浮き上がれ。」と命令してはいけません。あくまでも、『望む』ことです。間違って命令すると、金縛りに陥ります。命令の本当の姿は、『命令している者の命令されている者への不信感』だからです。幻覚を見ている自分の、幻覚を作り出している自分への『不信感』が、デッドロック、即ち、金縛りの幻覚に具現化されてしまいます。金縛りは、幻覚を見ている自分と、幻覚を作り出している自分の対立を、そのまま、幻覚化したものだからです。二つの力の競合と対立が原因です。

結果は。。。恐れることはありません。全てを悟ることになると思います。『一切は空なり』です。愛も憎しみも、そして、生も死も、全ては自分が作り出したものです。

余りにもリアルな体感を伴った満ち足りた世界なので、「神と遭遇した。」とか、「死後の世界に迷い込んでしまった。」かのような錯覚に陥りますが、全ては、脳内部に作り出された架空世界です。うつつ世界や、ゆめ世界と、基本的には同じものです。うつつ世界も含めて、全ては、心の中に作り出された仮想現実です。意識感覚器官の知覚対象の世界です。

【重要な注意事項】
まぼろし体験は、現代の科学教の宗教裁判に掛けられる可能性があるので、不用意に話されない方が賢明かもしれません。科学は宗教です。現代の科学教の常識と激しく対立する部分があります。(例:再現実験が難しい。ウソ、空想が多い。等。。)

7._4 3つの世界のまとめ

3つの世界の現状と、その原因を一覧表にまとめます。残念ですが、これらの現象に関する現状の理解度は、かなり、科学的迷信に囚われています。

意識感覚器官が体験している3つの世界

世界心理学現状
うつつ(現)体験通常の心理学比較的整備されています。
ゆめ(夢)体験フロイトの夢判断フロイトの心理学は、性欲などの欲望の存在に触れてしまったので、評判が悪いです。
『性欲などの欲望を否定したい。』という欲望や、綺麗事への拘りを持った人々が、結構、大勢います。
まぼろし(幻)体験まだ確立されていないそれ以前に、現象の存在自体が認められていません。
オカルトだと誤解されています。

3つの世界の原因

世界原因
うつつ外部感覚器官から流入した信号と、過去の記憶痕跡から作り出されます。

意識知覚しているイメージは、外部感覚器官からの信号と、記憶痕跡との融合物です。
だから、自分の家なら、ドアの前に立つだけで、ドアの向こうの部屋の中を理解できます。過去の記憶痕跡も同時に蘇っているからです。

我々は、目から流入したイメージだけでなく、そのイメージから連想される過去の記憶痕跡も、同時に意識知覚しています。それが、自分にとっての情報の意味です。連想された過去の記憶痕跡によって、目から流入した信号の意味を理解しています。

始めて訪れたホテルの場合、ドアの前に立っても、中の状態は分かりません。過去の記憶痕跡が存在していない為です。眼からの信号が、過去の記憶痕跡を呼び起こさないからです。

例外としては、白日夢のように、自らの作り出している空想もあります。この場合は、外部感覚器官から連想されたイメージではありません。欲求不満が原因の自慰行為です。
ゆめ心の中に溜まっている何らかのテンション(欲望)が、意識感覚器官に向かって放出されることによって、起こります。

放出によるテンションの解消行為、即ち、願望充足行為です。
ちょうど、現実の願望充足行為が、「運動器官に向かって放出している。」ことに対応しています。

夢は、本来だったら、運動器官に向かって放出される筈のテンションが、意識感覚器官に向かって放出されることによって生じています。
性欲などは、その代表です。性欲は、本来、運動器官に向かって放出されるべきですが、様々な、社会的制約や、道徳などの因習によって、困難になっています。そこで、その多くが、意識器官に向かって放出され、その中で、処理されています。架空の願望充足体験で、満足しています。

性欲は、非常に強力です。しかも、厄介なことに、社会的建て前と激しく対立しています。この為、心の中で屈折しています。神に仕える筈の司祭が、幼児性愛に目覚めてしまうのも、屈折した欲望が、弱い者に向かって放出されてしまう為です。宗教上の綺麗事に振り回されて、性欲を無理に抑え込んでしまっている為です。妻帯を認めれば、少しは、ましになると思います。教義よりも、現実に目を向けることが大切です。


夢は願望充足行為なので、現実世界には影響を与えません。
夢が原因の肉体的行動が覚醒後に起こることはありません。
行動の原因となる筈のテンション(欲望)が、夢行為によって、解消しているからです。
まぼろし原因は、分かりません。

心の奥底にある何らかの情報が原因になっているようです。しかし、その情報が何処から遣ってきているのか、充分には、分かりません。

非常にリアルな体感を伴った体験なので、慣れないと、うつつ体験とまぼろし体験を識別することは、困難です。しばしば、死後の世界に迷い込んでしまったかのような、あるいは、UFOに拉致されてしまったかのような錯覚を覚えます。

まぼろし体験の実際の映像は、心の状態に大きく左右されます。恐怖感があれば、キメラなどの恐ろしい魔物になります。自分自身に対する不信感があれば、金縛りになります。心が平安なら、満ち足りた光り輝く感動的な世界となります。光で彩られたお花畑を体験することになります。

しかし、その表面的映像とは、裏腹に、それを作り出している原因は別の所にあります。本来、あってはいけないことですが、心と心が、互いに、干渉し合っているときもあります。

まぼろしから覚めた後、現実世界で、強い肉体的行動の衝動に晒されることがあります。

衝動に駆られて、意味が理解できないまま、行動を起こすことがあります。何かに導かれるように彷徨って、やがて、そのまぼろしを作り出した原因と出会うことがあります。出会えば、直観的に、直ぐに分かります。「あっ、これだ。」と。
その出会いは、残念ながら、辛いことの方が多いです。厳し現実に、神を恨みたくなります。しかし、心の整理(ケジメ)にはなります。

申訳ありませんが、その現実を、そのまま受け入れてください。いたずらに、言葉で飾り立てたり、否定したら、余分に苦しむだけです。

まぼろし体験は、尊いものでもなければ、忌まわしいものでもありません。
恐ろしいものでもなければ、優しいものでもありません。
綺麗なもでもなければ、汚いものでもありません。
神でもなければ、悪魔でもありません。
今、自分の意識が向き合っている現実です。
そのまま受け入れてください。

ゆめが、現実世界の行動に影響を与えないのに対して、まぼろしは、強い影響を与えます。うつつ体験と同じように、明確な形で、実体験として、記憶に強く残ります。それ故、それが原因の肉体的行動が生じてしまいます。
何かに導かれるようにして、現実世界を彷徨い、幻覚を作り出した原因に出会うことがあります。

これが、ゆめ(夢)とまぼろし(幻)を識別するポイントです。覚醒してから、それが原因の肉体的行動が生じるかどうかで見分けます。
ゆめ(夢)は、覚醒時の行動に影響を与えませんが、まぼろし(幻)は、影響を与えます。まぼろし体験が原因の行動が生じてしまいます。

7.1 体験するとは

我々人間にとって、体験するとは、意識知覚すること、即ち、言葉にして話せることを意味しています。

思い出すとは、意識器官を使った、過去の再体験を意味しています。

もう一度、記憶痕跡を、意識知覚にして、そこに、架空行動を生じさせ、その過去の再体験によって、過去を思い出しています。

哲学も、科学も、宗教も、全て、言葉で表現されているものは、意識にとっての知覚対象の世界の出来事です。

確かに、この肉体は、現実世界の中に存在していて、そこで生きています。
膨大な量の情報が外部感覚器官から流入して、情報処理され、外部運動器官に向かって放出されています。しかし、大部分の情報は、意識知覚されることがないので、気づかないまま、流れ去っています。
現実世界のほんの一部しか、意識知覚になっていません。

意識された行動だけが、意味のある行動として、意識の記憶に残ります。あとは、何気ない、無意識な行動として、そのまま流れ去ってしまいます。これらの行動は、意識されることもないので、意味のない行動として、言葉の記憶にも残りません。

しかし、ここがややこしいのですが、このような意識されない行動は、確かに、我々の精神世界には影響を与えませんが、肉体の世界には、大きな影響を与えています。
精神世界と肉体の世界は、分けて考える必要があります。精神世界は、言葉と結びつきますから、言葉で説明することが可能ですが、肉体の世界は、そのごく一部しか、意識知覚することが出来ませんから、言葉で説明できるのも、一部です。精々、総体的な感情として意識知覚されるのみです。『気分がいい。』とか、『気分が悪い。』といった漠然とした感情として知覚されるのみです。

言葉で説明することが目的なら、我々にとって体験するとは、意識にとっての知覚対象の範囲内に限定されてしまいます。つまり、意識知覚されている世界のみが対象になってしまします。
そして、それらは、全て、脳内部に作り出された信号の塊(イメージ)です。

その意味では、我々人間は、夢現幻の3つの世界を体験しています。この3つとも、意識にとっての知覚対象の世界ですので、共に、言葉で説明することが可能です。

特に、現(うつつ)と幻(まぼろし)体験は、リアルな体感を伴っているので、慣れないと識別が困難です。未知の世界、例えば、死後の世界や、神との出会い宇宙人との遭遇体験が、まことしやかに語られる原因となっています。

宗教体験の根底には、この幻(まぼろし)体験が潜んでいます。