2019/11/17 うつせみ

そもそも、意識とは、いったい何でしょうか。
その物理的存在さえ確認されていない意識は未知の存在です。

フロイトは、『夢判断』の中で、「意識は、心的性質を知覚するための感覚器官である。」と述べています。このフロイトの言葉の中に、自分が体験してきた不可思議な世界の謎を解く手掛かりが、隠されていることに気が付きました。

これから述べる内容は、この意識感覚器官の工学的構造と、生物学的意味についてです。
知的生命体の脳の構造の特殊性と、その宿命について触れます。

なお、この内容は、現代の科学文明を根底から覆します。

現代科学の常識から外れた想定外の内容です。(現代では、まだ未知の)多くの新しい知識を使って組み立てています。

そこで、厳密さよりも、取りあえず、直観的理解のし易さを優先して話を進めます。言葉を無視して、『原因と結果の因果関係』にのみ注目して頂くと助かります。出来る限り、この因果関係を淡々と列挙していく事で、必要な情報が伝わるように工夫しています。

1. はじめに

知的生命体の脳の構造に関する話です。

とくに「意識とは何か?」を論じています。この意識器官の生物学的意味と、工学的構造を解析しています。(現代科学には無い)全く新しい知識です。

意識は、フロイトも述べているように、感覚器官の一種です。我々にとって、『意識する。』とは、「意識感覚器官で知覚すること。」を意味しています。

彼の著書「夢判断」の一文です。

では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。

それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。

出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社

彼は、「意識は、脳内部の事象を知覚対象とした感覚器官である。」と述べています。
世の多くの哲学者たちが意識を観念的存在と捉えていたのに対して、彼は物理的存在、即ち、感覚器官の一種だと捉えていました。とても、新鮮でした。

この一見、想定外の意外な主張は、夢を思い出して頂ければ実感が湧くと思います。夢の時、瞼は閉じている訳ですから、当然、(意識が)夢見ているイメージは、外部感覚器官からのものではありません。自らが脳内部に生じさせたものです。意識は、それを知覚対象にしています。

(そして、重要な事は、)我々人間は、眼や耳などの外部感覚器官からの知覚刺激で行動を起こしていますが、それと同じように、意識された内容、即ち、意識感覚器官が知覚している信号からも行動を起こしています。
機能的には、意識は、感覚器官と同じ働きをしています。この因果関係に注目する必要があります。

知覚の因果関係:視覚聴覚 -> 行い -> 結果
意識の因果関係:意識知覚 -> 行い -> 結果(迷い、苦悩 etc)
意識知覚からも、『行い』が生じています。視覚聴覚同様に。

もの事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎません。
それ故、『行い』と、『結果』の因果関係を観察する事が大切です。
なお、その『行い』は、『知覚』が原因で生じています。

二組の制御システム

この特殊な感覚器官は、脳内部に新しい制御システム系を構成していました。

脳は、本来、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。それ以外の意味はありません。
我々知的生命体の脳は、二組の独立した制御システム系より構成されていました。この想定外の特殊な構造が、いい意味でも、悪い意味でも、人間性の根源でした。宗教も科学も、ここから生み出されていました。

脳は、本来、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。

知的生命体の脳は、二組の独立した制御システム系より構成されていました。
第一システムは、肉体の生存と行動を制御しています。(全ての動物に共通)
第二システムは、肉体の架空行動、即ち、「考える行為」を制御しています。(知的生命体固有)

これが、いい意味でも、悪い意味でも、人間性の根源でした。

この(一見意味不明な)関係を図解すると、次のようになります。脳の進化と行動様式の変遷の関係を纏めました。動物の脳は、「本能的行動」、「学習された行動」、「意識された行動」へと進化してきました。それに伴って、脳の構造も、大きく変化しました。

脳の進化と、行動様式の関係

脳の進化と、行動様式の関係
脳は、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。
本能的行動、学習された行動、意識された行動へと進化してきました。
この3つの段階で、夫々異なった特徴的構造を持っています。

意識感覚器官を持った人間の脳は、2組の独立した制御システムから構成されています。
第一システムは、肉体の現実行動を制御しています。五感から構成されています。
全ての動物に共通の機能です。これを、世間では漠然と「無意識」と呼んでいます。
第二システムは、肉体の架空行動を制御しています。意識感覚器官から構成されています。
知的生命体に固有の機能です。これを「意識」と呼んでいます。

『考える』という行為は、この第二システムを使った、肉体の架空行動を意味しています。
即ち、人間の脳は、意識器官というシミュレーターを搭載した二重構造になっています。
ここに、知的生命体の秘密と、苦悩が隠されています。

ここでの話題は、(知的生命体の特徴である)この第二システムと、そこに属している意識感覚器官の工学的構造と生物学的意味についてです。そして、そこから派生している様々な問題についてです。
この構造は、知的生命体に様々なメリットをもたらしていますが、それと同時に、死の恐怖などの深刻な副作用も生じさせています。

未知の新しい知識が結構含まれているので、抵抗はあるかと思いますが、理解して頂ければ、多くの事柄の背景にあるものが見えてくると思います。霧が晴れるように、一気に、心が広がります。我々知的生命体の出生の秘密を知る事になると思います。それと同時に、現代科学の素朴さと限界も。

なお、この内容は、フロイトや原始仏教、今西錦司、パースの考え方を背景にしています。土台になっている哲学体系は、現代科学の唯物論ではなくて、原始仏教や空の哲学を使っています。計画の立案と実行には、「孫氏の兵法(孫武)」を参考にしています。何れも、現代においては、その重要性が認められているとは言い難い人々です。
どちらかと言えば、変人扱いされています。誤解されています。

注)意識が感覚器官であることに気付いた人物は、歴史上、二人のみでした。ひとりは、オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイト です。もうひとりは、原始仏教の開祖、 ゴータマ・シッダールタ です。


第一システム

全ての動物に共通の機能です。

(我々知的生命体に固有の)第二システムは、第一システムの疑似組織です。その働きも疑似的です。それ故、第二システムについて知りたければ、第一システムを知る必要があります。常識的な話で、退屈だとは思いますが。

動物にとって、脳は、本来、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。それ以上の意味も、それ以下の意味もありません。心の宿っている場所でもありません。もちろん、神様の宿っている場所でもありません。冷たいようですが。

この制御システム系は、眼耳鼻舌身の五種類の感覚器官(センサー)と、脳、運動器官、環境より構成されています。この原則は、虫などの下等な動物も、我々人間も変わりません。クラゲのように、脳らしい脳を持っていない動物でも、この基本原則は共通しています。
クラゲの場合も、神経組織は彼らの生存と行動を支えています。感覚細胞の構成は、人間とは少し違っています。生存形態が異なっているので。

この全ての動物に共通した制御システム系を、フロイトに倣って、第一システムと呼ぶことにします。この第一システムは、肉体の生存と行動を支えています。感覚器官は、(人間の場合)五感より構成されています。

この第一システムしか持たない動物が、未知の状況に直面した場合、肉体を直接使った探求反射によって、その未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。所謂、肉体を使った試行錯誤で作り出しています。

注)生物学用語「探求反射」を、世間では「試行錯誤」と呼んでいます。意味は同じです。

脳が構成する制御システム

脳の基本的構造
全ての動物が持っている共通の基本構造です。

脳が属している制御システム系は、脳、感覚器官、運動器官、環境の4つの要素から構成されます。感覚器官は、眼耳鼻舌身の五感から構成されています。(動物によって、感覚器官の構成は異なっています。)

この4つの要素は、作用が循環しています。この作用の循環が、自己保存系(フィードバック制御システム)を構成しています。その制御目的は、この肉体の生存と行動を支える事です。

大部分の動物は、未知の状況に直面した 場合、この第一システムを使った探求反射、即ち、直接肉体を使った試行錯誤で、その状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。

内容的には、常識的で平凡です。目新しさはありません。
でも、我々知的生命体の脳の特殊性を理解する為には、まず、この基本となる第一システムの働きを理解する必要があります。知的生命体の脳は、これの延長線上にあるからです。第二システムは、第一システムの疑似組織です。


現象としての脳と、物体としての脳

脳を理解する場合に、もうひとつだけ注意点があります。
物の性質は、他の物と関連し合って、始めて発現する。」ことです。

逆に、関連し合わなければ、現象が形成されませんから、「物の性質」も確認のしようがありません。「物の性質」は、現象を通してしか確認する手段がありません。

全ての哲学的問いは、最終的には、「人間が生きる事との接点」を探し求めています。「目の前の現象は、自分の生きる事と、どう関わっているのだろうか?」と。(哲学者は自覚していませんが。)
ここでも、全ての生命現象を、「生きる」、即ち、自己保存との接点で捉えています。

脳は、環境と相互作用をして、始めて脳として機能します。だから、脳について考察する場合は、頭蓋骨の中の豆腐(物体としての脳)だけでなく、脳が関与した現象系全体の因果関係も考察の対象にする必要があります。

現象と物体を区別する必要があります。

「物の性質は、その物自身の中に宿っている。だから、その物に注目して、その物をメスで細かく切り刻めば、やがて、脳の秘密に辿り着ける。」という唯物論の先入観を克服する必要があります。

物の性質は、あくまでも、他の物と係わって、始めて発現します。哲学的先入観を無視すれば、現実は、たったそれだけです。味気なくて、不満だとは思いますが。

現象としての脳と、物体としての脳

現象としての脳と、物体としての脳
脳は、環境との相互作用の上に成り立っています。

物体としての脳は、頭蓋骨の中の豆腐を意味します。
現象としての脳は、脳と環境の間で起っている相互作用を意味します。
環境も含めた、現象系全体の因果関係を考察の対象にする必要があります。

この相互作用は、右図のように、脳と環境の間でフィードバックしています。
この作用のフィードバック過程が、自己保存系(制御システム)を構成しています。

なお、五感と運動器官は、脳自身からは、外界の一部と見なされます。
脳は五感を通してしか環境の存在を知ることが出来ず、運動器官を通してしか環境に働き掛けることが出来ません。
脳が環境とやり取りしているものは、神経組織上を流れている電気的パルス信号のみです。それ以外の物理的作用は関与していません。感覚器官から電気信号を受け取り、処理し、運動器官に向かって送り出しているだけです。

現象としての脳は、脳と環境との相互作用の上に成り立っています。脳の性質は、この相互作用を通して発現しています。
それ故、脳について知りたければ、脳が属している現象系全体を考察の対象とする必要があります。唯物論者のように、物体としての脳だけを対象にしても何も明らかになりません。



脳を理解するには

次の三点を理解する必要があります。
相互作用を構成している両端の仕組みと、その両端の間で生じている相互関係です。

  1. 脳の物理的構造と仕組み
  2. 環境の物理的構造と仕組み
  3. 脳と環境との相互作用

現象は三つの要素から構成されます。相互作用の両端と、その両端間の相対的関係です。
「孫氏の兵法」流に表現するなら、
敵を知り、己を知り、敵と己の距離を知れば、百戦あやうからず。」です。

敵と己の関係

現代戦では、ミサイルなどの飛び道具が発達しているので、敵と己の距離は重要です。「敵を知り、己をを知れば、百戦あやうからず。」では不充分です。「まだ、充分離れている」と思っていても、既に射程に入っていることが、多々あります。敵と己の距離を知ることも大切です。

一般的に、世間では、敵と己の関係を、「距離を保つ」と表現します。俗に、「君子危うきに近寄らず」です。実際には、敵と己の関係は、多くの要因に翻弄されて複雑怪奇を極めますが、そのような(もろもろの)事情を全て含めて、「距離」と表現しています。
つまり、敵と己との相互作用の問題です。敵にも思惑と欲望がありますが、己にもあります。現実世界は、欲望と欲望のぶつかり合いです。

環境を知り、脳を知り、環境と脳の相互作用を知る。

同じ脳でも、環境が異なれば、異なった動作をします。同じ環境でも、脳が異なれば、異なった現象が形成されます。目の前の現象は、脳と環境との相互作用の上に成り立っています。相互に依存し合っています。



言葉と欲望が問題を複雑にしている。

(目の前の現実を構成している)原因と結果の因果関係を観察すれば、物事は、あっけない程、単純な姿をしています。
人々の『行い』から、悲喜こもごもの『結果』が生じているだけです。

原因と結果の因果関係: 行い結果

逆に、言葉に拘ると、複雑怪奇で、おどろおどろしい姿となります。その原因は、言葉の裏側に潜んでいる欲望に振り回されてしまうからです。複雑怪奇さや、おどろおどろしさの正体は、裏側に潜んでいる欲望です。言葉には、相矛盾した幾つもの欲望が絡みついています。妖怪のように複雑怪奇な姿をしています。その妖怪に振り回されてしまいます。

みんな、(この言葉と欲望が作り出している)おどろおどろしい妖怪の世界を、学問だと思い込んでいます。(言葉を使った)欲望の正当化に血眼になっています。年増女の厚化粧のように、欲望のまわりに、これでもか、これでもかと、言葉を塗り固めています。塗り固め過ぎて、訳が分からなくなっています。

言葉と欲望の因果関係: 言葉欲望の正当化 → 複雑怪奇な妖怪の世界

マルクスの資本論が、まさしく、この姿をしていました。彼は、資本家と労働者の欲望の対立を、労働者の側に立って(「労働こそ絶対価値だ」と)正当化していました。(労働者の側に立って)欲望のまわりに、言葉を塗り固めていました。塗り固め過ぎて、訳が分からなくなっていました。
結果、欲望の正当化が高じて、耐え難い独裁政権が誕生してしまいました。共産主義が、全て、粛清の嵐を経験したのは、決して偶然ではありません。欲望の正当化が高じ過ぎた結果です。

ここでは、言葉によってではなくて、原因と結果の因果関係を淡々と列挙していくことで、必要な情報が伝わるように工夫しています。言葉は、因果関係を表現する手段として使っています。



注)数学的には、脳は環境の逆関数になっています。

脳と環境との関係を、数学的に記述すると、脳は環境の逆関数になっています。

このことは、我々の脳が左右反転している事と密接な関係にあるようです。動物の脳のように、ワイヤードロジック(配線を使って論理回路を構成)で制御システムを構成した場合、その空間配置も逆転してしまう為と思われます。決して偶然ではなくて、必然的結果だと思われます。



学習された行動

学習結果は、生物学的には、本能の代用物です。

最初期の原始的な動物の脳は、本能から構成されていました。生きる為に必要なプログラムは、遺伝的に本能として予め組み込まれていました。彼らは、本能に従って生きていました。

もう少し進化した動物では、本能の一部が、生まれた後の体験学習に置き換わりました。それ故、学習結果は本能の回りを取り囲むように存在しています。
動物にとって、「学習」とは「一人前になる。」ことを意味しています。「進歩する。」の意味ではありません。一人前になる為に、生きる術を獲得していく過程を意味しています。
あくまでも、本能の代用物です。学習は、それを獲得していく過程です。

本能的プログラムの欠陥は、変更に時間が掛かることでした。(環境が変化して)変更する必要が生じた場合に、進化する必要があったからです。遺伝的に決定された内容を変更する為には、進化する以外に方法がありませんでした。つまり、世代交代が必要でした。

しかし、学習が可能なシステムの場合、個々の個体の体験学習で変更可能となりました。この為、時間的環境変化も、空間的環境変化も、各個体にとっては体験の差としかならず、進化する事無く、柔軟に迅速に適応可能となりました。この為、(夫々の個体が、別々に、)広い地域に生息可能となりました。

学習のメリットは、プログラムの変更に、進化する必要が無くなったことです。即ち、世代交代が必要無くなったことです。(個体レベルで)短時間に迅速に環境変化に適応可能になりました。
これは、画期的なことです。プログラム変更の処理階層が、進化(種)から個体に遷移したからです。初期の動物は、種のレベルで進化する必要がありました。

環境変化と学習の関係

環境変化と学習の関係
環境は時間と共に変化します。(時間的変化)
棲む場所によっても変わります。(空間的変化)

学習が可能なシステムの場合、どちらの変化も、各個体にとっては体験の差としかならず、柔軟な適応が可能となりました。この結果、種自体の生息範囲も広くなりました。
ひとつの種を保ったまま、広い地域に生息可能となりました。(例:人間)

これに対して、(本能の依存度が高い)昆虫たちは、種を細分化して、個体サイズも小型化して、機能も単純化して、ある特定の限定された微小環境に適応する戦略を取りました。結果として、(昆虫界全体では)生息範囲は広範囲に及びました。

哺乳類と昆虫とでは、適応戦略が根本的に異なっています。当然、背景にある遺伝子の仕組みも、かなり異なっていると思われます。昆虫たちは、遺伝子の構造を高機能化することで、柔軟に環境に適応しています。一方、哺乳類は、個体を高機能化することで、適応しています。どちらが優れているかの問題では無くて、戦略の違いです。実際、昆虫たちは、大繁栄しています。種を細分化することで、様々なリスクを乗り越えています。

「小型化して、種を細分化して、様々な微小環境に適応すれば、生活の場も確保し易くなります。南向き斜面の小さな陽だまりでも、充分な広さです。だから、例え、環境が激変しても、どれかの種は生き残ります。環境が改善したら、生き残った種が、また、適応放散すればいい。」。昆虫たちが採用しているリスクマネジメントです。



第二システム

知的生命体に固有の機能です。

我々知的生命体は、これ以外に、もう一組、意識感覚器官から構成された制御システム系を持っていることに気が付きました。この意識感覚器官から構成された新しい制御システム系が、良い意味でも、悪い意味でも、知的生命体を特徴づけていることに気が付きました。

この新しい制御システム系を、フロイトに倣って、第二システムと呼ぶことにします。意識器官本体のことです。その構造は、下図のようになります。(本来の脳である)第一システムの上に、(新しい)第二システムが乗っかっています。

意識が加わった制御システム

意識が加わった制御システム
知的生命体特有の構造です。

二組の独立した制御システム系より構成されます。
第一システム:肉体の現実行動を制御。
第二システム:肉体の架空行動(考える行為)を制御。

意識は、自己の心的システム(脳)を知覚対象とした感覚器官の一種です。

その知覚結果は処理されて、また、自己の心的システムに還流します。この循環が、架空行動の為の制御システム系を構成します。
早い話が、意識器官はシミュレーションシステムです。意識器官を使った考える行為は、基本的には、肉体の架空の探求反射を意味しています。この考える行為によって、我々人間は未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。

それは、第一システムを使った(現実の肉体を使った)探求反射に対応しています。

我々知的生命体の脳は、二組の独立した制御システムから構成されています。

第一システムは、肉体の現実行動を制御しています。

第二システムは、肉体の架空行動を制御しています。
我々人間にとって、考える行為』は、この第二システム(意識器官)を使ったを肉体の架空行動を意味しています。

即ち、第二システムは、第一システムに対応して発生した疑似組織です。その働きも疑似的です。
我々は、未知の状況に直面した場合、まず、意識器官を使った架空の探求反射、即ち、考える行為によって新しいプログラムを作り出します。そして、それが完成したら、それを使って実際の肉体を駆動しています。この過程を、世間では『考えてから行動する』と呼んでいます。(架空行動から現実行動への遷移過程です。)

一方、これに対して、第一システムしか持たない動物の場合、肉体を直接使った探求反射によって、新しいプログラムを作り出しています。

未知の状況に直面したら?
システム名新しいプログラムを作る方法備考
第一システム直接肉体を使った探求反射によって作成
(肉体を使った試行錯誤で)
常識ですね
第二システム肉体の架空の探求反射によって作成
(頭を使った『考える行為』によって)

それが完了したら、それを使って現実の肉体を駆動します。
(考えてから行動)
考える行為
重要な事は、何れの場合も、新しいプログラムは探求反射によって作り出している事です。新しいプログラムを作り出す原理原則は、同じです。試行錯誤(探求反射)です。

ただし、使う器官は異なっています。片方は肉体を直接使いますが、もう片方は頭を使います。頭を使った(肉体の)架空行動、即ち、シミュレーション(試行錯誤)によって作り出しています。

「第二システム(意識器官)は、第一システム(無意識)の疑似組織だ。」と主張する所以です。
手段は異なっていますが、目的と原理原則は同じです。いずれも、試行錯誤で作り出しています。

我々知的生命体は、意識器官を使った架空の体験学習を、現実の肉体を使った体験学習にすり替えています。この架空の体験学習(考える行為)で獲得したプログラムを使って、目の前の現実と向き合っています。

要は、探求反射の時、現実の肉体を使うか、架空の肉体を使うかの違いです。即ち、第一システムを使うか、第二システムを使うかの違いです。肉体を使うか、頭を使うかの違いです。
この架空の肉体を使った探求反射を、世間では「考える行為」と呼んでいます。つまり、意識器官を使った「あれやこれやと考える行為」のことです。

判り易い表現を使えば、意識器官(第二システム)はシミュレーションシステムです。このシミュレーション、即ち、考える行為によって、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。生物学的には、それは肉体の架空の探求反射を意味しています。

我々知的生命体は、現実の肉体を使った探求反射の代わりに、意識器官を使った架空の探求反射(シミュレーション = 考える行為)によって、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。そして、それを使って、(現実の肉体を制御して)未知の状況に対応しています。

このシステムの入力装置は、意識感覚器官より構成されています。

意識器官(第二システム)は、肉体の架空行動(考える行為)を制御しています。

我々、知的生命体の脳は、本来の脳以外に、意識器官というシミュレーションシステムを搭載しています。これが、いい意味でも、悪い意味でも、人間性の根源になっています。迷いや苦悩、様々な恐怖の原因になっています。

以下は、本来の脳と、意識器官の役割の違いです。

二つの制御システムの構成
システム名俗称目的感覚器官知覚対象該当する動物
第一システム無意識肉体の現実行動を制御五感(眼耳鼻舌身)外界全ての動物
第二システム意識肉体の架空行動を制御意識感覚器官仮想現実サルやイルカ
注)素朴な疑問

二つの独立した制御システム系が、ひとつの肉体を支配しています。果たして、うまくいっているのだろうか?

心配いりません(キリッ!)。 当然、うまくいってません。

二つの制御システムが、一個の肉体の制御権を巡って、常に、葛藤と迷いを繰り返しています。
2心房1心室のカエルの心臓のように、二つの信号が混ざり合って、いつも混沌としています。生物進化上は、人間の心は、まだ、2心房2心室にまで進化していないみたいです。二つの信号が完全に分離されていません。第一システム由来の信号と第二システム由来の信号が、一個の肉体の上で衝突しています。(カエルの心臓のように、)混沌と混じり合っています。進化の途上にあるみたいです。我々は、まだ、まだ、発展途上の知的生命体みたいです。

この中途半端さが、様々な神経症や、その他の心的トラブルの原因になっています。その支配権を巡って、様々な対立と葛藤が生まれています。我々人間という動物は、この二つのシステムの対立と競合に苛まれています。そして、これが心理学の永遠のテーマになっています。

残念ですが、我々人間は、(知的生命体)プロトタイプ初号機として、まだまだ、多くの欠陥を抱えているみたいです。ここでは、この(中途半端な人間の)現実と向き合っています。「万物の霊長だ」と威勢がいいのは、口先だけです。



意識が知覚している仮想世界と、肉体が置かれている現実世界との対応関係。

多分、一番気になっている問題だと思います。

我々知的生命体の脳は、シミュレーションシステム(意識器官)を搭載した2重構造になっています。このシステムは、脳内部にシミュレーションの場、即ち、意識の知覚対象の世界を作り出しています。今流行りの言葉を使えば、仮想現実の世界です。外部感覚器官からの信号は、一旦、架空環境(仮想現実)にマッピングされ、そこで、シミュレーション(考える行為)が行われています。

我々は、仮想現実の中で、シミュレーション、即ち、架空の試行錯誤を繰り返しています。それが、意識器官を使った思考の正体です。

哲学者にとって観念的存在でしかなかった意識は、実は、工学的には明確な実在的意味を持っています。即ち、シミュレーションシステムです。意識知覚している世界は、脳内部に作り出されたシミュレーションの為の信号空間、即ち、仮想現実です。その脳内部の信号空間を知覚対象としているのが、『意識感覚器官』です。

感覚器官と、その知覚対象
感覚器官知覚対象感覚器官が属しているシステムの働きや役割
五感
(眼耳鼻舌身)
外界、肉体等肉体の生存と行動を支える為の制御システム系の一部です。
五感によって、肉体の状態や、自分の置かれている環境の状態を知覚しています。
意識感覚器官脳内部の事象
(仮想現実)
意識器官は、肉体の架空行動を制御しています。即ち、 シミュレーターです。
意識感覚器官は、シミュレーションの場、即ち、仮想現実の世界を知覚対象としています。

意識が知覚している仮想世界と、外部感覚器官が知覚している現実世界との対応間関係を纏めます。

(外部感覚器官と結び付いた)低次元の認識では、そこそこ対応関係にあります。ほとんど、問題を自覚することはありません。目の前のコップは、何の疑念も抱かずに手掴みできます。それ故、哲学者は「唯物論は正しい。我々は実体を認識している。」と、実感しています。

でも、(内部処理された)高次元の認識になると、かなり怪しくなってきます。思い込みが先走って、様々なトラブルが生じています。
愛や憎しみのように、直接見えないものは、様々な思い込みや欲望に翻弄されて、複雑怪奇さを極めます。人々は、妄想相手に、ドン・キホーテを演じています。

特に問題になるのが、現代物理学です。彼らは、「時間、空間、物質」という概念を使って物理現象を記述しています。これらも、意識の知覚対象なので、脳内部の事象です。物理的な意味での実在物ではありません。我々の存在している宇宙は、そのような「時間、空間、物質」という実在物で構成されている訳ではありません。
ただ単に、外部感覚器官から流入した信号を、このような情報処理の形式を使って、理解しているに過ぎません。

現実世界から仮想世界への投影

現実世界から仮想世界への投影
動物は、外部感覚器官から得られた信号を、
1) 『自己、時間、空間、物質』という情報の処理形式(仮想空間)の上に、マッピングしています。
2) そして、このマッピングされた情報に基づいて行動を起こしています。
「自己」は、幾何学上は、座標原点を意味します。
このようなマッピング作業を、一般に、『正規化』と呼んでいます。

この仕組みは、動物進化五億年の実績によって、最適化されています。従って、我々は、見たままに行動しても、不都合を感じることはありません。(それ故、唯物論者は、認識しているものを実体だと錯覚しています。)

(仮想空間へ)マッピング出来る信号は視覚情報だけではありません。目の不自由な方は、イルカやコウモリ同様、聴覚情報も、そこそこの精度でマッピング可能です。このマッピングされた聴覚情報に基づいて、我々と同じような正常な行動が可能です。(多少のハンディはありますが。)ちなみに、イルカやコウモリは、我々の視覚と同程度に、正確な行動が可能です。超音波を利用しているので、小さな物体の識別も可能です。真っ暗な洞窟で暮らす昆虫は、触覚からも、このような空間認識を作り出すことが可能みたいです。
我々普通の人間も、音のした方向に振り向く事はできます。能力は貧弱ですが、聴覚情報からも、空間認識は可能です。人間は、視覚情報に、強く執着しています。聴覚や嗅覚は、疎かにしています。かつて木の上で暮らしていたサルという動物の宿命です。

なお、現実世界は、(厳密には)不可知です。我々は、あくまでも、認識された範囲内でしか現実世界を知ることはできません。外部感覚器官から脳に向かって流れているものは、あくまでも、電気的パルス信号に過ぎないからです。外部感覚器官は知覚した情報を、神経組織上を流れる電気的パルス信号に変換して、脳に送っています。そのパルス信号を、脳内部で再構成して、仮想空間にマッピングして、信号の意味を理解しているに過ぎません。

唯物論者は、(意識感覚器官が知覚している)脳内部の仮想空間を実体だと思い込んでいます。仮想空間の情報に基づいて行動しても、日常生活では不具合を感じないからです。目の前のコップを、何の疑念も抱かずに手掴みできるからです。それが、動物進化五億年の実績によって、最適化されていることに気が付いていません。

日常生活に比較的近い物理現象を扱ったニュートン力学では、これで成功しました。「時間、空間、物質」という認識の形式を使って記述しても、ほとんど問題になることはありませんでした。動物進化五億年の実績で、(日常生活の近傍は)最適化されていたからです。

ところが、現代物理学は、そのような日常生活から遥かに隔たった極限の物理現象を扱うようになってきました。分子や原子よりも遥かに小さな素粒子の世界とか、或いは、反対に、太陽系よりも遥かに広大な銀河系や、その銀河の集合体である宇宙全体などのように。
これら極限の物理世界は、動物が暮らしてこなかった世界です。従って、脳の情報処理も対応しておらず、(常識の延長では)「うまく理解できない」という現実に直面してしまいました。

自分の目的は、このような物理学の壁を乗り越えることです。「時間、空間、物質」という概念を使わないで、物理現象を記述する作業に取り掛かっています。この内容も、その一部です。認識論を整備しています。脳内部での情報処理過程の解析を行っています。このような事情で、現代科学の常識とは異質な(かなりトリッキーな)作業になっています。

残念ですが、ありとあらゆる知識やデータが、現代では、まだ蓄積されていません。全てが、いちからの作業になっています。小さな針の穴から、広大な星空を眺めているような錯覚に陥っています。ごく稀に、針の穴から、遠くに、瞬く星が見える事があります。

仮想現実と外界との対応関係
事象対応関係備考
低次元の認識日常生活では、問題が生じていません。
動物進化5億年の実績で最適化されているからです。眼で見たコップを、何の疑念も抱かずに手掴みできます。
高次元の認識必ずしも、現実が正しく認識できているとは言い難い状況です。
人々は、愛や憎しみなどのように、(妄想相手に)勘違いのドン・キホーテを演じています。

愛や憎しみは、必ずしも、正しく認識出来ているとは言い難い状況です。身勝手な思い込みが先走っています。
現代物理学×ミクロな素粒子の世界とか、銀河系よりも広大な宇宙全体の場合、動物が生きた経験のない世界です。だから、脳の情報処理が最適化されていません。

現代物理学は、今、この壁に突き当たっています。「時間、空間、物質」という日常生活から作り出された概念(情報の処理形式)では、極限の物理現象を理解できなくなっています。
残念ですが、素朴な唯物論が成り立っているのは、低次元の日常生活の範囲内のみです。犬やネコと同じレベルの暮らしの中のみです。
それでも、哲学者は自らの実感に、しがみついています。物理学者は、この柵(しがらみ)を克服できないで苦労しています。



意識が体験している三つの世界

科学教の根本教義に反する内容です。でも、大切な知識なので述べます。誤解を招くリスクの大きな作業であることは、充分に理解しています。

このような意識知覚している仮想現実の世界は、古来の言葉を使えばゆめ、うつつ、まぼろしの三つが存在しています。これら三つの世界は、作り出されている原因が夫々異なっています。

意識知覚している三つの架空世界
ゆめ、うつつ、まぼろし
意識体験
の世界
備考
うつつ
(現)体験
通常の覚醒時の体験です。
意識知覚している世界は、外部感覚器官からの信号で作り出されています。
外部世界と仮想現実の世界は、ほぼ、対応関係にあります。

人間は、目の前のコップを、何の疑念を抱かずに、手で掴むことができます。それ故、日常生活では、意識知覚している仮想現実に疑念を抱くことはありません。現実問題として、不都合を感じる事がない為です。

しかし、(日常と遥かに隔たった極限の物理現象を扱うようになった)現代物理学では、(日常の常識が通用しないので)様々な不具合に直面しています。この内容は、この不具合を乗り越える為に、物理学用認識論を構築している過程で、辿り着いた結論です。
ゆめ
(夢)体験
夜、睡眠中に体験します。
瞼は閉じているので、外部からの信号で作り出された世界ではありません。
心の中で蠢いている様々な満たされない欲望から作り出されています。

当然、外部世界と仮想現実の世界は、対応関係にありません。いわゆる、外部世界と切り離された夢の世界です。
まぼろし
(幻)体験
殆どの方は、通常は体験しません。
死後幻覚とか、臨死体験お迎え現象もののけ金縛りなどと呼ばれています。
現代では、まだ、現象の存在自体が認められていません。
死の間際や睡眠不足の時のように、心に大きな負担が掛かった時に体験し易いみたいです。
なお、原因は解りません。当然、心理学も確立されていません。

非常にリアルな体感を伴っているので、しばしば、現実と錯覚します。

例えば、「安らかで感動的なお花畑の中にいた。」とか、「死後の世界に迷い込んだ。」、(今まで味わった事のない深い満ち足りた安らかな気持ちになるので、 )「神と遭遇した。」、(奇想天外な体験をするので)「UFOに拉致された。」、「もののけや悪霊に追いかけられた。取り憑かれた。」などの現実と区別が付かないリアルな体験をします。夢と同じで、ありとあらゆる体験があります。それ故、その体験内容によって様々な呼ばれ方をしています。

運が良ければ、全てを知る事になります。自らの意識が知覚している世界の正体を知る事になります。
全ては、自らの欲望が生み出したものです。「一切は空なり」です。
(Everything is empty. It was the result of my own desires.)

詳細は、意識体験している三つの世界を参照下さい。



意識器官のメリットとデメリット

この特殊な構造は、人間に様々なメリットデメリット をもたらしています。

その最大のデメリットは、死の恐怖です。

意識と、意識が作り出している仮想現実の世界は、死と共に消滅します。夢で薄々は気が付いていたことですが、自分自身の肉体だけでなく、意識知覚してる世界も、死と同時に消滅します。この(実在していると思い込んでいた)意識世界そのものが消滅します。たとえ、肉体は消滅したとしても、この世界だけは残ると思い込んでいた『その世界』も消滅してしまうのです。その消滅への本能的恐怖です。肉体の消滅への恐怖だけではありません。

我々は、唯物論の先入観から、知覚しているものは実在物だと思い込んでいます。意識知覚している世界も、意識が知覚できているので「実在している世界」だと思い込んでいます。だから、「たとえ、肉体は消滅するとも、(意識知覚している)世界は不滅だ。永遠だ。」と、(絶対的確信として)信じています。
その(実在物だと思い込んでいた)意識された世界も、死と共に消滅します。

押し寄せた波が、引き際に全てを持ち去るように、死は全てを持ち去ってしまいます。
自分も、そして、自分が存在していると思い込んでいる(意識知覚している)『この世界』も、(唯物論者が実体だと執着している)仮想現実の世界も、ありとあらゆる全てを、何もない無の世界に引きずり込んでしまいます。全ては、永遠の無の世界に帰っていきます。

我々は、意識器官を持ったがゆえに、常に、その消滅の恐怖、即ち、死の恐怖と背中合わせの一生を送っています。その宿命(仕様書)に翻弄されています。悲しいことに、人間は、誕生時に決められた仕様書(宿命)の範囲内の行動しか取ることができません。持って生まれた宿命(仕様書)は、ある程度、決まっています。個人の努力だけでは、如何ともし難い限界があります。残念ですが、死の恐怖を乗り越える事は、困難です。常に、無の誘惑に苛まれています。

それでも、ここでは、その仕様書(宿命)の限界に挑戦しています。

未来にむけて

なお、この結論は、現代の科学文明に根本的変革を迫ります。

意識によって作り出されている現代の科学文明は、宗教も、哲学も、科学も、全ては、所詮、意識の働きに過ぎないからです。意識知覚された範囲内の事象に過ぎないからです。その外側に広がっている筈の広大な未知の世界をカバーしていないからです。

我々は、籠の中の鳥です。籠の中しか知りません。籠の外を知りません。意識知覚された仮想現実の世界、つまり、籠の中以外を知りません。

籠の中で飛び跳ねる事を「自由だ。」と錯覚しています。籠を抜け出す自由を知りません。

意識知覚している世界の外側

意識の外側
意識知覚している世界の外側には、広大な未知の世界が広がっている筈です。

でも、我々には、それを知る術はありません。
(全知全能だと思い込んでいる)人間が知っているのは、意識知覚されている世界の中のみです。

我々は、知っている事しか知りません。知らない事は、知らない事自体を知りません。

ちなみに、言葉によって表現されている世界は、「意識知覚された世界」です。現代の哲学者のように、言葉で思索に耽っている場合、それは、籠の中の鳥です。籠の中を自由に飛び跳ねているに過ぎません。言葉への拘りを捨て、原因と結果の因果関係を観察されることを希望します。

注)「時間、空間、物質」は、籠の構成形式です。物理学者は、その中で、自由に飛び跳ねているに過ぎません。

現代の科学文明は、この新しい知識の前では、余りにも、素朴過ぎます。唯物論は、意識知覚している事象を、実体だと思い込んでいます。しかし、それらは、全て、脳内部の信号空間内の事象です。実体ではありません。それは、蝉の抜け殻と同じものです。言葉の殻は持っていますが、殻の中身は、空っぽです。
一切は空なり」です。全ては、自らの欲望が生み出したものです。
(Everything is empty. It was the result of my own desires.)

根本的に、何か、大切なものが欠如しています。全てを、根底から作り直す必要があります。

注)根底にある哲学体系

原始仏教と空の哲学を使っています。

現代科学の根底にある哲学は唯物論です。でも、これは素朴過ぎて全く使い物になりませんでした。そこで、(原始仏教の考え方に沿って、)哲学体系も整備し直しています。この内容も、その一部です。

この為、発想の根本的な部分で、時々違和感を感じるかもしれません。(唯物論とは異なった発想なので。)

実は、意識が感覚器官であることに最初に気が付いた人物は、今から2500年前の人物、ゴータマ(釈迦)でした。彼は、「意識知覚しているものは、実体ではない」と気が付きました。原始仏教は、この知識を背景として述べられていました。現代哲学よりも遥かに高度で合理的でした。子供と大人ぐらいの違いがありました。
この作業では、原始仏教や孫氏の兵法などの2500年前の知識を多用しています。残念ですが、現代の知識は、まだ、このレベルにまで到達していません。

現代科学や宗教の諸悪の根源は、唯物論の素朴さにあります。唯物論は、確かに絶対的確信と実感を生み出します。でも、それは「知覚されているもの」への執着です。自らの欲望が生み出している幻想です。哲学者は、この幻想に執着し、惑わされています。時間を無駄にしています。
詳細は、空の哲学を参照下さい。

1.1 フロイトの夢判断

フロイトは、その著書『夢判断』の中で、意識について、次のように述べています。

では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。

それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。

この組織はそのメカニックな諸性質に於て知覚諸組織Wに似ていると考えられ、それゆえ性質によって興奮させられるが、変化の痕跡を保持することができない。

つまり記憶力を持たない。知覚組織の感覚器官をもって外界に向けられている心的装置は、それ自身が意識の感覚器官にとっては外界であり、この関係にこそ意識の目的論的な存在理由がある。

出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社

つまり、「意識は、自己の心的システムを知覚対象とした感覚器官である。眼が外界を知覚対象とした感覚器官であるように、意識は、自己の脳(心的システム)を知覚対象としている。」と述べています。

フロイト:意識は、心的性質を知覚するための感覚器官である。

世の多くの哲学者や思想家は、意識を『観念的存在』として捉えていました。それに対して、フロイトは、物理的存在、即ち、『感覚器官』と捉えていました。この意外な新鮮さに驚いてしまいました。
今まで、モヤモヤしていたものが、一気に晴れました。今まで、自分が知覚していた世界は、意識感覚器官が知覚していた世界だったのです。眼で見ている世界では無かったのです。全てが納得できました。

でも、この主張は、何を意味しているのでしょうか。一見、矛盾しているように見えます。自分自身の脳を知覚対象とした感覚器官とは、いったい、何を意味しているのでしょうか。
今まで、自分は何を見ていたのでしょうか?。

感覚器官とは、本来、外側を向いた組織です。外界や肉体などの制御対象の状態を把握する為の器官です。制御システム内部の情報処理の状態をモニターする器官ではありません。
例えば、眼の場合、眼は外界を知覚対象としており、脳は、この眼からの情報によって、肉体の行動を制御しています。脳自身から見たら、外部の状態を知覚し、制御しています。

ところが、フロイトは、「意識は、自分自身の脳を知覚対象にしている。」と主張しています。「脳が自己の脳を知覚している?」って、何を言っているのでしょうか。意味不明です。意識は、自分自身の脳の何を知覚し、何を制御しているのでしょうか。その制御対象が解りません。矛盾に満ち溢れています。

自分は、この矛盾の中に、重要な意味が隠されている事に気が付きました。

注)全く想定外でしたが、この事実に最初に気が付いたのはフロイトではなくて、今から2500年前の(仏教の開祖)ゴータマでした。原始仏教でも、同じ事を述べていました。現代科学よりも遥かに合理的でした。

1.2 意識器官の働きを明らかにする動物実験

注)ここでの話は、チャールズ・サンダース・パースの考え方を参考にしています。
未知の状況に直面したとき、それに対応する為の新しいプログラムを、どのようにして作り出しているか?
が、話の要点です。このテーマは、次の脳の生物進化にも引き継がれます。
言葉によって思考するのではなくて、原因と結果の因果関係を観察されることを希望します。


意識器官の働きは、次のような動物実験によって、明らかとなります。

ネズミを迷路の中に入れたら、どのように行動するでしょうか。

ネズミは、迷路を抜け出すプログラムを持っていません。従って、どう行動していいか分かりません。

そこで、取りあえず、肉体を使った試行錯誤(探究反射)を繰り返します。
辺り構わず、動き回ります。この試行錯誤の繰り返しによって、偶然、迷路を抜けることに成功します。それを、何度も、何度も繰り返しているうちに、次第に、道を覚えて、最後には、迷わずに、抜けることが出来るようになります。

ネズミたちは、探究反射(試行錯誤)によって、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。

ネズミの場合

ネズミの場合
迷路に直面した場合、
ネズミは、直接、肉体を使って試行錯誤を繰り返します。
この(肉体を使った)試行錯誤で、新しいプログラムを作り出しています。

注)生物学用語『探求反射』と、世間一般の常識的言葉『試行錯誤』を同じ意味で使っています。
なお、「探求反射」なる生物学用語は、極めて不適切だと思っています。この現象の姿を、正しく形容していません。誤解を与えます。詳細は、「フロイトの夢理論」を参照下さい。


では、我々人間はどうでしょうか。

いきなりネズミと同じように、行動に移す勇ましい人もいますが、多くの方は、一旦、立ち止まって考えます。
頭の中に、迷路を思い浮かべて、「あ~でもない。こ~でもない。」と、色々試行錯誤を繰り返します。そして、解決策が見つかったら、おもむろに行動に移ります。

人間は、頭を使って、思考活動を行います。状況を思い浮かべ、あれやこれやと思考します。視覚情報が思考の邪魔をするので、しばしば、人々は、目をつぶって、思いに耽っています。

或いは、迷路の地図を見ながら、目で追いかけたり、指でなぞって試行錯誤を繰り返しいるかもしれません。何れにしても、ネズミのように、直接、肉体を使って動き回ることはありません。

人間の場合

人間の場合
人間の場合、一旦、立ち止まって考えます。
即ち、頭の中で、肉体の(架空の)試行錯誤を繰り返します。



このネズミと人間の行動を比較してみて下さい。

どこかが同じで、どこかが異なっています。

驚くべきことですが、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出す原理原則は、人間もネズミも同じです。

探究反射、即ち、試行錯誤です。試行錯誤によって作り出しています。我々人間もネズミも、未知の状況に対応する為の新しいプログラムは、試行錯誤によって作り出しています。
ネズミは、肉体を直接使った試行錯誤によって。人間は、頭を使って、「あれやこれや」と考えることによって。「あれやこれや」も、試行錯誤の一種です。(ただし、頭を使った。。。

これは、驚くべきことです。知的生命体の専売特許と思われていた思考活動が、実は原始的な探究反射に過ぎなかったからです。摩訶不思議な未知の機能を期待していたのに、それに反して、最も、原始的な機能だったのです。(思考作業は) 探求反射の一種に過ぎなかったのです。

新しいプログラムを作り出す原理原則は、人間もネズミも同じです。
探究反射(試行錯誤)です。

この原理原則が同じだったことは、本当に驚くべき事です。
違いよりも、この同一性に気が付いた時の方が驚きでした。この同一性こそが、『考える行為』の正体だったからです。思考とは探求反射のことでした。(ただし、架空の。。。)



でも、使う器官は、異なっています。

ネズミは、肉体を使いますが、我々は、頭を使います。

ネズミは、第一システム(肉体)を使った探究反射によって、新しいプログラムを作り出していますが、我々人間は、第二システム(頭)を使った架空の探究反射によって、新しいプログラムを作り出しています。

頭の中に、自分を想像して、実際に肉体を動かしたと想定して、あれや、これやと、試行錯誤を繰り返しています。つまり、肉体を、頭の中で架空行動させ、この架空の試行錯誤によって、未知の問題を解決する方法を見つけています。

早い話が、意識器官は、シミュレーターです。このシステムを使ったシミュレーション(架空の探求反射)によって、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。

実際の人間の能力は、もう少し、高度です。思考活動の多くは、思考の基本である肉体の架空行動の枠を超えて、自動車や、会社、国家などのように、自分の延長線上にある組織(外骨格)も動かして、様々なシミュレーションを行っています。我々は、自動車や国家などの外骨格も、頭の中で、動かすことが可能です。

抽象化された自分、即ち、数学や物理学に見られるような、高度に抽象化された概念も、動かすことができます。

ただし、動かす事ができる自分のアバター(化身)は、仕様上、当然、一個のみです。二個以上のアバターを同時に動かすことは困難です。無理に動かそうとすると時分割操作、即ち、時間を小間切れにして多重化する必要があります。将棋やチェスのように、交互に一手づつ指す必要があります。

未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出す手段
動物作成方法使用器官
ネズミ肉体を使った探究反射によって、作り出している。第一システムを使用
人間頭を使った架空の探究反射によって作り出している。第二システムを使用

1.3 脳の生物進化

生物進化の立場から、問題を整理します。
意識器官の生物学的由来が明らかとなります。

動物の行動は、脳によってコントロールされています。
この為、脳の構造と、その行動様式の間には、非常に密接な関係があります。逆に言えば、動物は脳の構造に反した行動は取れない訳ですから、このふたつは、表裏一体の関係にあります。
この関係に注目すれば、動物の行動様式の進化を考察することによって、背後で起こっている筈の脳の構造の進化を推測することが可能となります。

その行動様式と、それを支える制御システム(脳)の構造の進化は、次のようになります。

ものと現象の区別

まず、(本題に入る前に、)最初にハッキリさせる必要があるのは、もの現象の区別です。

脳システムは、脳と環境が一体となって、制御システム系を構成しています。環境から切り離された脳だけを論じても意味がありません。あくまでも、環境との因果関係の中に組み込まれた構成要素のひとつとして、頭蓋骨の中の豆腐を、理解する必要があります。

ものの性質は、あくまでも、他のものと関連し合って始めて発現する性質だからです。現象の全体像に着目し、環境との相対関係の中で、脳と、脳が生み出している行動を理解する必要があります。

ものの性質は、他のものと関連し合って始めて発現する。

逆に、関連し合わなければ、現象が生成されないので、性質も発現しない。なお、性質は(関連する)相手次第です。

物の性質

物の性質
物の性質は、物と物との相互作用によって作り出されています。
他の物との関連を無視した絶対的性質はありません。
他の物と相互作用しなければ、現象も形成されないからです。現象が形成されなければ、物の性質も認識出来ません。

従って、理解したければ、まず、現象系全体の因果関係に注目する必要があります。

注)発想の背景にある哲学体系は、現代科学で主流の唯物論ではなくて、空の哲学です。空の哲学と唯物論では、大人と子供ぐらいの違いがあります。唯物論は素朴過ぎて、使い物になりません。

注)言葉によって思考するのではなくて、原因と結果の因果関係を観察されることを希望します。

他のものと関わり合わなければ、現象も形成されませんから、従って、認識することもできません。我々は、現象を通してしか、認識することができません。我々の目も、そして物理的な測定器も、現象を通して、始めて動作します。測定器と現象の相互作用が起こらなければ、測定器は反応しません。測定器は客観的な神ではなくて、現象を構成している主観的ないち構成要素に過ぎません。

即ち、現象としての脳を理解する為には、物体としての脳と、環境の両方を含めた存在として考察する必要があります。現象系全体の因果関係に注目する必要があります。

ちなみに、現代の研究者は、唯物論の先入観から、物体としての脳しか、研究対象にしていません。メスで細かく切り刻むことが、脳を知ることだと思い込んでいます。唯物論の先入観から、『ものの性質は、そのものの中に宿っている。』と考えているからです。

この脳と環境の間で起こっている作用のフィードバック過程が自己保存系(制御システム)を構成しています。

注)現代の工学者が使っている制御理論では、生命現象を記述できません。生物型制御原理に基づく、新しい発想が必要です。新しい制御理論の数学的に詳細な説明は、リンクをクリックしてください。生命現象全般を記述する為に、整備を急いています。
結果的には、現代科学は素朴過ぎるので、ありとあらゆる部分を作り替える広範な作業になっています。その根本的原因は、唯物論の素朴さにあります。

現象としての脳と、物体としての脳

現象としての脳と、物体としての脳
脳は、環境との相互作用の上に成り立っています。

物体としての脳は、頭蓋骨の中の豆腐を意味します。
現象としての脳は、脳と環境の間で起っている相互作用を意味します。
環境も含めた、現象系全体の因果関係を考察の対象にする必要があります。

この相互作用は、右図のように、脳と環境の間でフィードバックしています。
この作用のフィードバック過程が、制御システム系を構成しています。

なお、五感と運動器官は、脳自身からは、外界の一部と見なされます。
脳は五感を通してしか環境の存在を知ることが出来ず、運動器官を通してしか環境に働き掛けることが出来ません。

以下の作業では、「物体としての脳」ではなくて、「現象としての脳」を思考対象とします。即ち、脳と環境との相互作用によって生じている現象系全体を考察の対象とします。この現象系全体の中のいち構成要素として、即ち、環境との関連として、「物体としての脳」を理解します。

現代科学とは少し発想が異なっているので、最初は消化不良を感じるかもしれません。現代科学の基礎になっている哲学体系、つまり、唯物論の流儀に従うなら、脳を(他との関連を排除して)純粋に取り出し、それを言葉で明確に定義すべきですよね。でないと、言葉を使った論争が成り立ちません。
この作業の基礎になっている哲学は、唯物論ではなくて、『空の哲学』です。空の哲学の発想を使って、物事を論じています。唯物論は、あまりにも素朴過ぎて使い物になりませんでした。



脳の進化と行動様式の進化の関係

脳と行動様式の進化は、大ざっぱには、下図の3段階に分けることができます。

  1. 最も原始的な脳は、本能のみから構成されます。
  2. 次の段階が、本能の代用物として、学習結果が、本能の周りに、付け加わったモデルです。
  3. 最後が、意識器官を搭載した知的生命体の脳です。意識された行動を制御しています。工学的には、シミュレーターを搭載した制御システムのモデルです。
脳の進化と、行動様式の関係

脳の進化と、行動様式の関係
脳は、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。
本能的行動、学習された行動、意識された行動へと進化してきました。
この3つの段階で、夫々異なった特徴的構造を持っています。

意識感覚器官を持った人間の脳は、2組の独立した制御システムから構成されています。
第一システムは、肉体の現実行動を制御しています。五感から構成されています。
第二システムは、肉体の架空行動を制御しています。意識感覚器官から構成されています。

『考える』という行為は、この第二システムを使った、肉体の架空行動を意味しています。
即ち、人間の脳は、意識器官というシミュレーターを搭載したシステムになっています。
ここに、知的生命体の秘密と、苦悩が隠されています。

この3種類の脳は、未知の状況に直面したとき、夫々、異なった振る舞いをします。
未知の状況に対応する為には、それに対応した新しいプログラムが必要ですが、その獲得方法が、夫々、異なっています。

本能的行動の脳は、新しいプログラムを獲得するのに、進化する必要があります。遺伝的に決定された事項を変更する為には、進化する以外に方法がないからです。

学習された行動の脳は、体を使った試行錯誤によって、獲得しています。即ち、体験学習が必要です。

最後の意識された行動の脳は、意識器官を使った架空の試行錯誤によって、即ち、考える行為によって作り出しています。脳内部の信号処理だけで、新しいプログラムの作成が可能です。

この三者は、夫々、異なった手順で、新しいプログラムを獲得しています。

新しいプログラムを作り出す方法
行動様式処理階層新しいプログラムの獲得方法
本能的行動種のレベルで、進化する必要がある。
学習された行動個体肉体を使った体験学習が必要。
意識された行動脳内部の信号処理(考える)だけで、一瞬で、作成可能になった。

注)処理階層が異なっています。
同じ目的が、異なった階層で処理されています。
本能的行動の場合、種のレベルの自己保存系で処理されています。
学習された行動の場合、個体レベルの自己保存系で処理されています。
意識された行動の場合、脳(第二システム)のレベルの自己保存系で処理されています。
現代の進化論のように、進化を固定的に考える事の無意味さを感じます。

注)詳細に観察すると、このような大雑把な分類は、色々と問題点もあります。
しかし、ここでは、そのような細かい事は無視して、大局だけに話題を集中します。大局を見誤ると、全てが崩壊するからです。細かな問題は、後で幾らでも補正が効きます。

1.4 本能的行動様式

本能だけに依存した動物の行動様式です。
例えるなら、昆虫たちの行動様式です。

本能的行動

本能的行動
脳は、本能のみから構成されています。
プログラムを変更するには、種のレベルでの進化が必要です。
プログラムが、生まれながらに本能として固定されている為です。つまり、生まれ変わる必要があります。

なお、五感と運動器官は、脳自身からは、外界の一部と見なされます。以下の思考作業では、環境と五感と運動器官の三つを纏めたものを(脳から見た)『環境』と見なしています。

彼ら昆虫は、生まれながらに組み込まれたプログラム(本能)だけて生きています。
だから、環境が変化して、行動様式の変更が必要になった場合、進化する必要に迫られます。遺伝的に決定されている事項を変更する為には、進化する以外に方法がないからです。

コンピュータに例えると、ROM(Read Only Memory)のみから構成されたシステムです。
ROMは、製造段階で基盤に埋め込まれ、後で、プログラムを書き換えることができません。プログラムを書き換えたかったら、もう一度、最初から作り直す必要があります。詳細...

(本能的行動では、)新しいプログラムを作り出すには、進化する必要がある。

注)進化 = 姿形の変更も含め、生存形態を大きく変更すること。

進歩の意味ではない。種のレベルでの自己保存系の環境変化への適応行為 の一種です。
ちなみに、現代の正統派進化論は間違っています。自然科学の理論としての要件を満たしていません。その正体は、疑似科学です。

だから、この内容が現代の進化論に反していても、あまり、気にしないで下さい。ここでは、全てを、自己保存系の適応行為として論じています。即ち、合目的的に論じています。生命現象には、自己保存という目的があります。

注)遺伝子に関する古典的先入観は捨てるベキ?

「生物は、遺伝子によって、形質が遺伝している。」という古典的考えを捨てる必要がありそうです。

古典的定説では、「遺伝子の突然変異によって進化している。」と考えています。だから、「進化には膨大な時間が掛かる。」と思っています。

でも、どうも(メチル化によって、)遺伝子の機能をONOFFする事によって、柔軟に、素早く、環境変化に適応しているみたいです。短期的には、必ずしも、遺伝子の変異によって、進化している訳ではなさそうです。もちろん、長期的には、遺伝子の変異と蓄積が重要だと思いますが。

だから、(本能に依存している筈の)昆虫たちは、我々が思っている以上に柔軟に素早く適応しているかもしれません。いや、我々脊椎動物よりも遥かに柔軟で高機能な遺伝システムを獲得して、それで環境変化に対応しているのかもしれません。彼らを下等生物と見なすのは間違い。ただ単に、比較する場所を間違えているだけかもしれません。そもそも、適応戦略が根本的に異なっているだけかもしれません。調べれば調べる程、人間の無知と無能を実感します。そこに薄暗い未知の領域を感じます。

間違った科学的迷信に振り回されたら失敗します。詳細は、もう少し、データの蓄積が必要です。

1.5 学習された行動様式

もう少し進化すると、本能だけでなく、学習も必要なシステムになっています。本能の代用物として、本能の周りに、学習結果が付け加わったモデルです。

学習された行動

学習された行動
本能の回りに学習結果が付け加わったモデルです。
このシステムの場合、プログラムを変更するには、体を使った体験学習が必要です。
即ち、学習結果は、本能の代用物です。

動物にとって学習とは、進歩することではなくて、一人前になることを意味しています。
本能だけでは、生きる為に必要なプログラムが不足しているので、それを体験学習によって補って、一人前になっています。即ち、学習結果は、生物学的には、本能の代用物です。

学習結果は、本能の代用物です。

コンピュータに例えると、ROMだけでなく、RAM(Random access memory)も搭載したシステムです。
コンピュータを起動する為には、相変わらず、最低限必要な基本的プログラムは、ROMとして組み込んでおく必要があります。しかし、それ以上のプログラムは、RAM上に読み込まれ、実行時に、随時、書き換えられています。この為、同じコンピュータでも、ワープロや表計算等、様々な用途に使うことができるようになっています。

この事情は、生物も全く同じです。生物もコンピュータも、基本的なプログラムは、相変わらず、ROM(本能)として、製造(胚発生)段階で、ハード的に組み込まれます。しかし、実際に日常生活で使う場合は、目的に応じて(即ち、環境が変化したら)、随時プログラムを書き換え、動作を変更しています。

学習のメリットは、個体レベルで、プログラムの変更が可能になったことです。

時間的環境変化も、地理的環境変化も、個々の個体にとっては、体験学習の差にしかなりません。
この為、種の立場からみれば、種を分割することなく、しかも、進化することもなく、ひとつの種を維持したまま、多様な環境に適応可能となりました。
しかも、その対応速度も、進化に比べて、各段に高速となりました。フレキシブルな対応が可能となりました。

環境変化と学習の関係

環境変化と学習の関係
環境は時間と共に変化します。(時間的変化)
棲む場所によっても変わります。(空間的変化)

学習が可能なシステムの場合、どちらの変化も、各個体にとっては体験の差としかならず、柔軟な適応が可能となりました。この結果、種自体の生息範囲も広くなりました。
ひとつの種を保ったまま、広い地域に生息可能となりました。

それとは対照的に、昆虫たちの適応戦略は、小型化、単機能化、種の細分化によるニッチ環境への適応です。哺乳類と昆虫では、遺伝子の仕組みが、かなり異なっているようです。昆虫たちは遺伝子の仕組みを高機能化することによって、哺乳類は個体の高機能化によって、環境変化へ適応しています。

昆虫たちは、フレキシブルな遺伝子の仕組みを確立して、進化によって、柔軟に環境変化へ適応しているように見えます。我々が、まだ、複雑過ぎて解析できない部分で、遺伝子の仕組みが、かなり異なっているように見えます。哺乳類のような個体の大型化高機能化による適応とは対照的です。

(つまり、昆虫は下等生物ではなくて、哺乳類に匹敵する高等生物です。それが証拠に、哺乳類よりも繁栄しています。ただ、生存戦略と強化している機能が異なっているので、哺乳類基準では下等に見えますが。)

この環境変化に対応する為のプログラムの変更が、種のレベルでの進化ではなくて、個体レベルでの体験学習によって可能になったことが、学習のメリットです。

プログラムの変更に、進化する必要が無くなったことは、画期的なことです。詳細...

(学習された行動では、)新しいプログラムを作り出すには、肉体を使った体験学習が必要

なお、この段階での学習行為としては、探求反射と模倣反射があります。

探求反射は、別名、試行錯誤と呼ばれているように、実際に体を動かして、その試行錯誤によって、新しいプログラムを身に付ける行為です。最も、基本的な学習行為です。

模倣反射は、『サルの物まね』と言われるように、高等動物に見られる学習行為です。相手の行動を視覚的に観察することによって、その行動を自分でも再現することが出来ます。我々サルは、当たり前に持っている能力なので、何の疑問も感じませんが、我に返って、真面目に同等の能力をもったロボットを設計しようとしら、途方に暮れてしまう不思議な能力です。

ここでは、模倣反射が重要な意味を持っています。しかし、それに触れると、大変なことになってしまうので、省略しました。本体の思考作業では、結構、頁を割いて、真面目に、考察しています。理解して頂けるかどうかは、自信ありませんが。
これの重要性に気が付くかどうかが、知的生命体の脳を、理解できるかどうかの分かれ道になります。模倣反射こそが、意識器官の正体だからです。

1.6 意識された行動様式

進化の第三段階が、意識された行動です。
脳が2組の独立した制御システム系から構成されています。

ここで、パラダイムシフトが起っています。第一システムの代用物として、第二システムが付け加わっています。脳が2組の独立した制御システム系から構成されています。第一システムが肉体の現実行動を制御しているのに対して、第二システムは、肉体の架空行動を制御しています。即ち、第二システムは第一システムの疑似組織です。

意識感覚器官は、第二システム用の入力装置(感覚器官)です。

我々人間は、未知の状況に直面した場合、いきなり行動しないで、一旦、立ち止まって考えます。頭の中に状況を思い浮かべ、あれやこれやと、試行錯誤を繰り返します。そして、問題が解決したら、その手順に従って、実際の肉体的行動を起こしています。

意識された行動

意識された行動
意識器官が加わったモデルです。
意識感覚器官は、脳内部に作り出された架空環境を知覚対象にしています。
この新しい感覚器官によって、そこに2番目のシステム、即ち、架空行動の為の制御システム系が構成されています。

知的生命体にとって、『考える』行為は、この第二システムを使った(架空環境内での)肉体の架空行動を意味しています。その目的は、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出す為です。
この架空行動で作成されたプログラムを使って、現実の肉体行動を制御しています。この一連の過程を、世間では『考えてから行動する。』と呼んでいます。

この意識器官を使った肉体の架空行動、即ち、シミュレーションを、世間では、『考える。』と呼んでいます。架空行動から現実行動に遷移する過程を、『考えてから、行動する。』と呼んでいます。

解り易い表現を使うなら、人間の脳は、シミュレーター(第二システム)を搭載した2重の制御システム系になっています。未知の状況に直面したとき、まず、第二システム(意識器官)を使ったシミュレーション(試行錯誤)によって、未知の状況に対応するプログラムを作り出します。そして完成したら、それを使って第一システムを駆動しています。即ち、架空行動でプログラムを作り出してから、実際の肉体的現実行動を起こしています。
この2重構造に、知的生命体の秘密と苦悩が隠されています。

これは、画期的なことです。プログラムの作成と変更が、本能のように進化する必要が無くなったからです。体験学習のように肉体を直接使って、身を危険に晒す必要も無くなったからです。脳内部の形式的な信号処理だけで、一瞬にして作り出せるようになったのですから、感動ものです。

そのエネルギーコストや、時間コスト、リスクの低減は、目を見張るものがあります。詳細...
ちなみに、その副作用も無視できない位に深刻です。人間の苦悩の原因は、ここに由来します。

(意識された行動では、)新しいプログラムを作り出す手段が、脳内部の信号処理(考える行為)だけで可能となった。

新しいプログラムを作り出す方法
行動様式処理階層新しいプログラムの獲得方法
本能的行動種のレベルで、進化する必要がある。
学習された行動個体肉体を使った体験学習が必要。
意識された行動脳内部の信号処理だけで、一瞬で、作成可能になった。

注)同じ目的が、生命現象の全く異なった階層で、処理されていることは、驚くべきことです。進化を固定的に捉えることの無意味さを感じます。

注)『意識』という言葉は、現状では、意味が曖昧です。『第二システム』自体を『意識器官』と呼び、第二システム用の感覚器官(入力装置)を『意識感覚器官』又は『意知覚』と呼べば、混乱しないかもしれません。制御システム自体と、その入力装置を、夫々、別の言葉で表現した方がいいかもしれません。現状は、同じ言葉が、2つの事象を指しています。混用されています。

1.7 意識器官の生物学的由来

このような特殊な意識器官は、元々は、模倣反射の必要性に基づいて発達した器官のようです。

模倣反射こそが、意識器官の正体です。

生物進化の上では、模倣反射の延長線上にある機能です。模倣反射が可能な動物は、その程度の差は別にして、多かれ少なかれ、意識器官を持っているものと思われます。

模倣反射と、言語学習、思考活動の工学的機構が、非常に良く似ています。
ただ単に、シミュレーター(第二システム)への情報の入力先が異なっているだけです。

模倣反射では、眼からの信号で、意識器官を駆動しています。まず、意識を集中して、対象をジッと見つめます。そして、眼からの視覚情報で、意識器官を駆動し、架空体験を生じさせ、その架空体験によって、複雑な模倣行動を学習しています。

言語学習では、耳からの信号(音声言語)で、駆動しています。同様に心を集中させ、耳からの情報で、自分を頭の中で動かし、その架空体験によって、新しい行動様式を身に付けています。
いずれも、意識器官(第二システム)を使った架空体験によって、学習結果を生み出しています。

ちなみに、文明化された現代では、音声言語だけでなく、文字言語からも可能です。視覚情報(文字)を、音声言語にすり替えて架空行動を生じさせています。
子供の頃、声を出して本を読んでいたことを思い出して下さい。子供は、まだ未発達の為、文字言語を、読み上げる事で、(物理的に)音声言語に変換して、それによって文字言語を理解しています。我々大人は、直接、文字言語を頭の中で音声言語に変換して理解しています。従って、それを外から観察すると、無言で文字言語を読んでいるように見えます。

思考活動では、駆動する信号を、自ら、積極的に作り出しています。それで、駆動しています。思考活動で作り出される信号は、言葉だけではありません。我々は、言葉を使わない思考も可能です。かなり集中力を要求されますが、言葉と結び付いていない全く新しい概念を作り出して、それを直接、頭の中で動かすことも可能です。数学的形式を使った思考や、マンガのようなイメージの紙芝居で思考することも可能です。

「人間は言葉を使って思考する動物である。」という固定概念に囚われると、思考の可能性を限定してしまいます。思考の限界を乗り越える為には、言葉を否定してみることも、ひとつの方法です。言葉に拘る限り、言葉が持っている先入観と過去への呪縛を乗り越えることは出来ません。言葉の本質は、過去の呪縛です。

模倣反射と、言語学習では、意識器官(第二システム)を駆動する信号が、脳外部から、即ち、外部感覚器官から与えられています。それに対して、思考活動では、その信号を脳自身が生成しています。本来の意味で、シミュレーションシステムになっています。

思考活動の場合、シミュレーションの為には、(自ら駆動する為には、)現実に関する膨大なデータが必要です。この為、巨大な脳が必要になります。一方、模倣反射の場合、駆動する情報が外部より与えられるので、その部分が不要になり、比較的低機能な脳でも実行可能となります。

意識器官が、模倣反射を基本にしていると考える理由は、ここにあります。模倣反射の想像を絶する高機能さは、『模倣反射は、意識器官を使ったシミュレーションだ。』と、見なさないと理解できません。

以上の結果を、下図のように、ひとつの図に纏めてみました。

脳と言葉と学習プロセス

脳と言葉と学習プロセス
プログラム作成の基本は、肉体を使った探求反射です。
サルの場合、視覚情報を使った模倣反射によっても作ることができます。

模倣反射は、生物学的には、意識器官を使った架空の探求反射を意味しています。
人間の場合、視覚情報の代わりに、音声、文字、脳からの信号でも、模倣反射が可能です。

思考活動は、自己の脳で作られた信号を使った模倣反射の一種です。

基本は、第一システムを使った探求反射、即ち、体験学習です。
肉体を使った探求反射によって、(肉体上の)学習結果を生み出しています。そして、そこから、(肉体上の)願望を充足しています。

これに対応するように、第二システムを使った学習行為が発生しています。このシステムでは、意識器官を駆動する信号が何処からやってくるかによって、大きく3種類に分けられます。

最初は、視覚情報によって駆動している場合です。これを、生物学の世界では、『模倣反射』と呼んでいます。いわゆる『サルの物まね』です。
視覚情報によって、意識器官上に、(架空の)行動を生み出し、この(架空の)行動によって、(架空の)体験学習を行っています。

ニ番目が、言葉によって、駆動している場合です。その言葉は、耳から入ってくる音声言語の場合もあれば、紙に書かれた文字言語の場合もあります。或いは、自己の脳自身が作り出した言葉の場合もあります。これを世間では、『言語学習』又は『コミュニケーション』と呼んでいます。
(視覚情報ではなくて)言語情報によって、同様の架空行動を生じさせ、(架空の)体験学習を行っています。

最後が、自己の脳自身が作り出した信号によって駆動している場合です。これを世間では、『考える』と呼んでいます。考える行為の場合、言葉を使わないで、直接、イメージを使って、駆動することも可能です。即ち、言葉や記号を使わない思考作業も可能です。

何れの場合も、意識器官を使った模倣反射の一種です。意識器官を使ったシミュレーションです。駆動する信号の入力先が異なっているだけです。それ故、模倣反射と言語学習と思考活動を区別する理由は何処にもありません。

このページで、絵を多用しているのも、思考の中心が言葉ではなくて、イメージである為です。ここで述べている思考過程は、言葉を使わないで思考して、その結果を言葉(?)で表現しています。。。ウっ?言葉が矛盾している?。。。。言葉は、思考活動の一部だけを担っている部分的手段に過ぎません。

ところが、現代の哲学者は、「言葉が全てだ。」と、思い込んでいます。みんな、(目を閉じて、)言葉ばかりを見つめています。言葉の首輪に繋がれています。言葉が作り出している先入観と常識の檻に呪縛されています。言葉への執着から離れることが大切です。それが、自らを解き放つ道です。

【模倣反射の起源】

意識が模倣反射の延長線上にある機能なら、模倣反射が可能な動物は、多かれ少なかれ、何らかの意識器官を持っている筈です。成体になっても『あそび』が見られる動物の場合、我々人間同様、シミュレーション能力(考える力)を持っているものと思われます。サル、象、イルカ、カラスなどには、『あそび』が見られます。『あそび』は、意識器官にとって重要な行為です。無駄な行為ではありません。

この模倣反射の大元の起源をどこまで辿れるかは、難しい問題です。魚の群れ行動を、果して模倣反射と呼べるかどうかは微妙ですが、そこに大元の起源を見出すことは可能です。群れ行動の場合、視覚情報で、他の個体の動きに同期しています。

だとしたら、脳の部位を問題にした場合に、意識器官の大元の原初的痕跡は、視覚野の近傍に、何らかの手掛かりがありそうです。魚の頃の機能が出発点になっているとしたら、脳のかなり奥深い機能である可能性があります。つい最近、発生した機能ではありません。そこには、生物進化、数億年の歴史が隠されています。

視覚野の信号を使って、報酬系、又は、罰系を自己刺激したのが、模倣反射や意識器官のそもそもの始まりでは、と思われます。

もちろん、高等生物の場合、中心的な意識活動の場所は、前頭葉だとは思います。

生理学的仕組み

生理学的には、自己刺激の一種ではないかと思われます。

意識器官を使った、報酬系、又は、罰系への自己刺激によって、学習を成立させている。」のでは、と思われます。その中心的部位は、恐らく、前頭葉です。前頭葉にも、報酬系、罰系に関連した部位が存在しています。

ラットの報酬系に電極を埋め込み、そのスイッチをラット自身が押せるようにすると、ラットは、だだひたすら押し続けるそうです。自分の報酬系に、自分で電気刺激を与えて、架空の報酬を求め続けるそうです。
この姿は、白日夢に耽り続ける人間の姿と、何処となく重なります。人間も意識器官を使った架空充当によって、現実を忘れて、架空の快楽に耽っています。詳細...

前頭葉は、シミュレーションの場として、架空外界を構成している。丁度、それは、眼が知覚対象にしている現実外界に対応している。それ(現実外界)と、等価な働きをしているものと思われます。

模倣反射と多神教

このような意識器官を使った倒錯と投影の中に、多神教(アニミズム)の起源を見出すことができます。

模倣反射では、視覚対象を、自分とすり替えて、自分が行動したつもりになって、意識器官を駆動しています。即ち、自分と視覚対象を、同一視して、投影、交錯させています。この為、自分に心があるように、「視覚対象にも、心があるだろう。」と思っています。「木や草にも、石ころにも、、、森羅万象、全てのものに、心がある。」と、素朴に信じています。多神教、即ち、アニミズムの起源は、模倣反射にあります。模倣反射の為に、視覚対象と自分を、重ね合わせて、置き換えてしまうところにあります。

一方、一神教の起源は、人間が群れを作る動物であることに由来しています。

群れの共通の欲望を、『絶対唯一神』と見なして、絶対化しています。「我が神の他に神はなし」と、自らの群れの欲望を絶対化、正当化し、他の群れの欲望を否定しています。そこから生まれるものは、(群れと群れとの)『争い』だけと気付かずに。

自ら、争いの原因と、それに伴う不幸と悲しみを作り出しています。そして、その責任を、「相手の群れのせい。」に責任転嫁して、さらに、『争い』を激化させています。(相手の群れも同じことをしますから、)誰にも止める事ができない『憎しみの拡大再生産』が起こっています。危険です。

争いを無くする方法は、「他の群れの欲望も認める事」ですが、そうすると、他の群れの神も認める事になるので、一神教の根本教義に反します。一神教自体の否定に繋がります。一神教が生み出している『争いの種』を解決しようとすると、一神教の否定になってしまいます。二つの神を認めることは、多神教です。解決できない自己矛盾に突き当たります。一神教は、いつも、ここで立ち竦んでいます。

結局、矛盾を解決できなくて、「他の群れの殲滅(宗教戦争)」に突き進んでいます。神の真理を振りかざして。殲滅されるのは、自分の方かもしれないのに。

一神教は、生まれた瞬間に、このような哀しい運命を背負っています。
結果は、『言葉』からでは無くて、(欲望の正当化という)『行い』から生まれているからです。

1.8 意識器官のメリット

この意識器官(第二システム)の生物学的メリットは、いくつも指摘できます。

  1. リスク管理
  2. エネルギー消費
  3. 処理スピード

一番重要な事は、リスク管理です。

試す行為には、常に、リスクが伴っています。未知の状況に挑戦する訳ですから、何が起るか判りません。最悪の場合、命を落とすかもしれません。

第一システムを使った体験学習では、直接、肉体を使いました。肉体を使って、直接、未知の状況に挑戦していました。この為、未知のリスクに、肉体を晒すことになりました。死と背中合わせの危険な行為です。もし、失敗したら。。。。
第二システムを使ったシミュレーションだと、そのような危険を回避できます。直接、肉体を危険に晒す必要がなくなるので、失敗しても、大きな痛手にはなりません。

次に大切なことが、エネルギー消費です。

肉体を直接使うことに比べたら、頭を使った架空行動の方がエネルギー消費が少なくて済みます。
旅行の計画を立てる時も、実際に体を動かさないで、パンフレットだけで、「あーでもない。こうでもない。」と思いをはせながら、色々試して、夢を膨らませています。
この優位性を最大限に生かして、人間は今このように繁栄(繁殖)しています。

3番目が、処理スピードです。つまり、制御速度です。

肉体を使うことに比べたら、遥かに早く、試行錯誤を繰り返すことができます。短時間に、多くの可能性を試すことができます。この為、より、複雑なプログラムを作ることが可能になっています。

人間の場合は、自分の体だけでなく、自分の属しているグループや組織も、シミュレーションの対象にすることが出来ます。頭の中で、自分の体を動かすのと同じ要領で、自動車や、国、会社などを動かしてみることも可能です。
このような自分の外側に広がっている自分の身体の延長部分を、昆虫からの類推として、『外骨格』と呼んでいます。我々は、自動車などの外骨格だけでなく、会社や国などの組織も、外骨格として動かしています。

言葉や、数学、物理学などのように、さらに抽象化が進んで、肉体との直接の結びつきが判り辛い事象も、シミュレートしています。言葉などの記号と、自分の肉体を、倒錯させて、肉体の代わりに、抽象的記号を動かしています。

第二システム(意識器官)のメリット
1.リスク管理肉体を危険に晒さらさなくても、試行錯誤が可能になった。
2.エネルギー消費肉体を動かすことに比べたら、エネルギー消費が少なくなった。
3.スピード直接、肉体を動かすことに比べたら、遥かに早く試行錯誤を繰り返せます。

1.9 知的生命体の宿命(意識器官のデメリット)

もちろん、デメリットもあります。

  1. 死の恐怖
  2. 『自己満足に浸りたい。』という欲望
  3. 主導権を巡る対立と葛藤


    死の恐怖

最大のデメリットは、死の恐怖に怯えていることです。

第二システムが作り出していた架空世界は、死と共に消滅します。意識知覚していた世界は、死と共に、永遠の無の世界に返っていきます。押し寄せる波が、引き際に、全てを持ち去るように、死は、意識知覚していた全てのものを、無の世界に、引き摺り込んでしまいます。

この自分の存在していた世界の消滅と、無への回帰に、人々は恐れおののいています。その恐怖に、苛まれています。

死は、知的生命体にとって、自分自身の消滅と同時に、自分の存在していた意識世界の消滅も意味しています。自分の存在している、この意識知覚していた世界も、消えて無くなるのです。自分だけでなく、自分の存在している、この世界も、消滅してしまうのです。夢で、うすうすは悟っていた、あの世界も消滅してしまうのです。

架空行動の為のシステムを持ってしまった知的生命体の宿命です。
この広い宇宙には、大勢の知的生命体がいると思うのですが、彼らは、果たして、死の恐怖を克服できるまでに、進化しているのでしょうか。知的生命体の宿命を、あるがままに、受け入れることが出来ているのでしょうか。
それとも、やっぱり、人間と同じように、サル山の喧騒に翻弄されているのでしょうか?

この地球上では、少なくとも、人間は、知的生命体としては、最初の試作品です。プロトタイプ1号です。
カエルの心臓と同じで、第一システム由来の情報と、第二システム由来の情報が、識別されることなく、雑然と混じり合って、心の中を流れています。心と体に由来する情報を、うまく識別できていません。あまり、出来はよくありません。それゆえ、死の恐怖に翻弄されています。第二システム由来の情報に振り回されています。残念ですが、克服できていません。



『自己満足に浸りたい。』という欲望

次に問題になるのが、第二システムが生み出している『自己満足に浸りたい。』という欲望です。

制御システムの快楽原理が、第二システム上でも成り立っています。白日夢に代表されるように、常に、脳内麻薬を必要としています。第二システム内で自己完結した満足体験を求めています。この欲望に振り回されています。

第二システムの『自己満足に浸りたい。』という欲望が、現実に即していない、様々なムダな行動を生じさせています。第二システム上の『満足体験こそが、人生の全てだ。命だ。(目的だ。)』と言ってしまえば、返す言葉もありませんが。

あまりにも、ムダな行動が多すぎます。自己満足に浸る為だったら、他の全てのことを犠牲にしています。

哲学的欲望、宗教的欲望、科学的欲望、善や、正義、正統性、正しさへの拘り。『意識知覚している事象は、実体である。』という唯物論への拘り。いわゆる、ありとあらゆる綺麗ごとへの拘り。

これらの拘りと、その拘りを生み出している欲望を正当化する為に、言葉が総動員されています。言葉の上に、さらに、言葉を塗り固めています。年増女の厚化粧のように、これでもか、これでもかと、コテコテに、塗り固めています。

いつも、勝ち誇ったように、頭の上で、勇ましく、言葉を振り回しています。そのような宗教家や哲学者、思想家の勇姿は、ドン・キホーテも真っ青です。

ムダな努力です。結果は、少しばかりの自己満足が得られるだけです。



主導権を巡る対立と葛藤

三番目の問題が、主導権を巡る対立と葛藤です。

一個の肉体の上に、二組の制御システムを搭載しているので、その制御権と支配権を巡って、対立と争いが起っています。一個の肉体の制御権と支配権を巡って、二つの独立した制御システムが争っています。そこに、対立と葛藤が生じています。多くの精神的な疾患が、この2つのシステムの対立と競合に起因しています。
人間という動物は、まだ、この二つシステムの調整が、うまく出来ていません。翻弄されています。

第二システム(意識器官)のデメリット
1.死の恐怖第二システムが作り出している架空世界は、死と共に消滅します。
この世界の消滅に、恐れおののいています。
架空行動の為の制御システム系を持ってしまったがゆえの、知的生命体の宿命です。
2.自己満足に浸りたい欲望あまりにも、欲望に振り回され過ぎています。
第二システムは、常に自己満足を追い求めています。この為、人間は、ムダな行動をいっぱいしています。
あたかも、自己満足に浸ることが、人生の究極の目的であるかのように錯覚しています。
その為だけのムダな行動が、随所で、目に付きます。
3.主導権を巡る対立と葛藤一個の肉体の上に、2組の制御システムが乗っかっています。
この為、一個の肉体の支配権をめぐって、主導権争いと、対立が発生しています。その葛藤が、様々な精神的疾患の原因になっています。
人間は、これに、翻弄されています。
知的生命体としての人間は、まだレベルが低いので、この第一システムと第二システムの調整が、あまり、うまく出来ていません。

知的生命体は、意識器官を持ったがゆえに、その宿命に翻弄されています。

生物学レベルでの基本仕様なので、個人の努力だけでは、なかなか、克服できません。
余分な混乱を避ける為に、現実をあるがままに、受け入れて下さい。
言葉を振り回しても、言葉で飾り立てても、現実が変わる訳ではありません。
少しばかりの、自己満足に浸れるだけです。

一時の現実逃避の後には、冷酷な現実が待ち構えています。

1.10 原始仏教

向き合っている現実を、全く異なった方向から眺めています。

意識が感覚器官であることに気がついた人物が、歴史上、フロイト以外に、もうひとり存在していました。

今から2500年前の人、ゴータマです。日本では、通称、釈迦とか仏陀と呼ばれています。仏教の開祖と思われている人です。原始仏教の中に、その面影を見ることが出来ます。

原始仏教の教典『スッタニパータ』の中に、次のような興味深い一文があります。

雪夜叉が言った。「何があるとき世界は生起するのか?何に対して親愛をなすのか?世間の人々は何ものに執着しており、世間の人々は何ものに害(そこな)われているのか?」

師(ゴータマ)は答えた。「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親愛をなし、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに害われている。」

(雪夜叉)「それによって世間が害われる執着とは何であるのか?お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてくだされ。どうしたら苦しみから解き放たれるのであろうか。」

(ゴータマ)「世間には五種の欲望の対象があり、意(意識の対象)が第六であると説き示されている。それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。」

出典「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 中村元訳 岩波書店

  1. 世間には、眼、耳、鼻、舌、体の五感に根ざした五種類の欲望の対象がある。
    (世間には五種の欲望の対象があり)
  2. これ以外に、六番目の意(意識知覚)に根ざした欲望の対象もある。
    (意(意識の対象)が第六である)
  3. これら六つの感覚器官が知覚世界を作り出している。
    (六つのものがあるとき世界が生起し)
  4. これら六つの知覚と、そこから生み出されている六種の欲望への愛着、執着が迷いや苦しみの原因になっている。
    (世界は六つのものに害われている。)
  5. それ故、これら六つの知覚への拘りから離れるなら、迷いや苦しみからも解放される。
    (それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。)

と、述べています。

即ち、「意識は五感同様の感覚器官である。これら六つの感覚器官からの知覚刺激が、欲望の原因になっている。そして、それが同時に迷いや苦しみの原因にもなっている。」と述べています。

パーリ語大蔵経の中部教典の中には、次のような一文もあります。

比丘よ、こちらの岸というのは、内的な六つの感覚器官(内の六処)をたとえてこういうのである。 比丘よ、向こう岸というのは、感覚器官の六つの外的な対象(外の六処)をたとえていうのである。 

出典「バラモン教典 原始仏典」 中央公論社

感覚器官を『こちらの岸』、その知覚対象を『向こう岸』に例えています。その感覚器官は六つあって、その知覚対象も同様に六つあると述べています。

又、次のような一文もあります。

アーナンダよ、次にあげる十八の界(構成要素)、すなわち、眼と色形と視覚、耳と音と聴覚、鼻と香りときゅう覚、舌と味と味覚、皮膚と触れられるべきものと触覚、心と概念と意識の諸界がある。 

出典「バラモン教典 原始仏典」 中央公論社

原始仏教では、知覚は、感覚器官と、その知覚対象と、そこから生じる知覚刺激の3つより構成されていると考えています。

知覚を構成する3つのもの

知覚を構成する3つのもの
知覚は3つの要素から構成されています。
1.感覚器官と
2.その知覚対象と
3.そこから生じている知覚刺激です。

人間は、『眼、耳、鼻、舌、体、意』の六種の感覚器官(六根)を持っています。その感覚器官には、『光、音、香、味、物、色』の6種の知覚対象が対応しています。そして、そこからは、『視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、意知覚』の6種の知覚刺激が生じています。合計18個の要素から、人間の知覚は構成されています。これを、十八の界(構成要素)と呼んでいます。
その主張を一覧表に纏めると、下図のようになります。

,知覚を構成する十八の界

知覚を構成する十八の界
中部経典の主張を一覧表に纏めてみました。
人間には、6種の感覚器官が存在しています。
各感覚器官は、夫々3つの要素から構成されています。
合計、6*3=18 の界より構成されています。

仏教では、意識を感覚器官のひとつと捉えています。
その知覚対象を『色』と呼んでいます。
そこから生じている刺激を、『意知覚』と呼んでいます。

意識も、眼や耳同様の感覚器官であって、そこから生じる知覚刺激を、『意知覚』と呼んでいます。つまり、意識している事象のことです。その知覚対象を『色』と呼んでいます。現代語に訳すると、『イメージ』のことです。意識は、脳内部のイメージ(色)を知覚対象にした感覚器官です。

人間には、六種の感覚器官(六根)に根ざした六種の欲望が存在している。
その六種の欲望へのむさぼりが、苦しみの原因となっている。
だから、その六種の欲望へのむさぼりから離れることが、苦しみから解き放たれる道である。

と、原始仏教では説いています。

それ故、『六根清浄(ろっこんしょうじょう)』と唱えます。
六つの根(感覚器官)に由来した、六種の欲望を清めることが大切だと説きます。
仏教では、感覚器官から生じている知覚刺激が、眠っていた欲望を揺り起こしてしまうので、感覚器官のことを『欲望の根』と表現しています。知覚刺激が、眠っていた筈の欲望を活性化させてしまうからです。欲望の根元、又は、原因という意味が込められています。

意識知覚している事象と、どう向き合うか。
原始仏教の中には、参考になる記述が、たくさん、あります。

六根清浄の石ぐるま

六根清浄の石ぐるま
高尾山薬王院六根清浄の石ぐるまです。
石ぐるまの六面には、眼耳鼻舌身意の六文字が刻まれています。
高尾山薬王院:東京都八王子市高尾町2177

我々知的生命体は、眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官(六根)を持っています。そして、そこから生じている知覚刺激によって、欲望が活性化され、そして『行い』を生じさせています。これが、同時に、迷いや苦しみの原因にもなっています。
それ故、これら六つの感覚器官(六根)から生じている六つの欲望を静めることが大切です。六根清浄です。

意識は、心の中を知覚対象とした感覚器官です。(意識で)実感できるが故に、全ては心の中の事象です。夢と同じように、自らが生じさせたものです。
愛も憎しみも、そして、死の恐怖も、全ては意識の知覚対象であるが故に、心の中の事象です。「一切は、空なり。」です。夢と同じように、実体のないものです。
そのような実体のないものに、我々人間は振り回されています。悲喜こもごもの『行い』を生じさせています。

残念ですが、我々知的生命体は、このような宿命の元に生まれています。

この現実は否定できません。
それ故、せめて、そのような愛や憎しみなどの実体の無いものへの拘りから離れる事が大切です。
いたずらに、これらの実体のないものに翻弄される前に。

我々人間は、知的生命体初号機として、色々と欠陥が多過ぎるような気がしないでもありません。
この広い宇宙には、我々と同じような知的生命体が存在しています。彼らも同様に、この宿命に翻弄されているのでしょうか。それとも、克服しているのでしょうか。他人事ながら、気になります。



空の哲学

ちなみに、大乗仏教では、これを、『空っぽの哲学』、略して、『空の哲学』と呼んでいます。人間の意識知覚している事象は、唯物論者が思い込んでいるような実体ではない。脳内部の仮想現実です。何も無いもの、即ち、実体の無いものです。だから、言葉で、表現する都合上、仕方なく、便宜的に『空っぽ』の哲学と呼んでいます。

なお、空(空っぽ)は、数学のゼロ(無)の概念と密接な関係にあります。古代インドのサンスクリット語では、両方とも、同じ言葉で、「シューニャ」と呼ばれていました。
仏教では、数学のゼロを、『「(入れ物の中に)何も存在していない状態」が、存在してる。』と、理解しています。現代の常識と異なって、存在の一種、つまり、「無が存在している。」と捉えています。
詳細は、空の哲学を参照下さい。

1.11 新しい物理学

【重要な注意事項】
『時間、空間、物質』が否定された状態を思考しようとすると、死の恐怖の虜になります。もし、それを感じたら、この章「新しい物理学」は、読み飛ばして下さい。現代の哲学のレベルでは、このストレスには耐えれません。(読み飛ばす)
このストレスに耐える為には、原始仏教、又は、空の哲学が必要です。
ここで、(場違いな)原始仏教や空の哲学を取り上げているのは、死の恐怖のストレスに耐える為です。

時間も、空間も、物質も、存在する実体ではありません。

言葉で表象される全ての事象は、脳内部の事象であって、実体ではありません。
現代物理学の基本概念である『時間、空間、物質』も、言葉で表象されている限り、物理的実在物ではありません。言葉と結びついたイメージである限り、最終的には、脳内部の事象です。
原始仏教や空の哲学も同様の主張をしています。

我々の存在しているこの宇宙は、そのような実在物によって、構成されている訳ではありません。
それは、生物の宿命である『生きる。』という欲望が、生み出したものです。
「宗教したい。」「科学したい。」「哲学したい。」「真理がほしい。」「絶対的価値観がほしい。」「不安」「さみしい」などの欲望が、脳内部に様々な事象、例えは『神』や、『科学的な真理や真実』『絶対的価値観』などの幻想を生み出しています。

『時間、空間、物質』も、そのような欲望と、その欲望への執着に支えられたもののひとつです。かなり根源的な欲望です。それは、動物進化5億年の歳月の中で、獲得、最適化されてきた情報の処理形式です。そこには、動物進化5億年の『生きる。』、『動く。』という欲望が集約されています。動物としての宿命が、色濃く反映されています。
人間の個人的レベルの欲望ではありません。もっと根の深い生物レベルの欲望です。それ故、克服することは困難です。進化の宿命から逃れることは容易ではありません。克服しようとすると、死の恐怖と向き合うことになります。ここで原始仏教に触れたのも、この死の恐怖を乗り越える為です。

我々は、『生きる。』為に、外部感覚器官から得られた情報を、このような形式に処理して理解しています。そこから派生した『意識知覚している世界』、即ち、『シミュレーションの場(仮想現実の世界)』も、このような構成形式になっています。

外部情報の処理形式

外部情報の処理形式
物語は、時間と空間の入れ物の中で演じられいます。
その中で演じている役者が、犬や人間などの物質です。
そして、この演劇を鑑賞している観客が、自己(座標原点)です。

動物は、それを、『自己、時間、空間、物質』という価値観を使って分析しています。
『自己、時間、空間、物質』は、この宇宙を構成する実在物ではなくて、我々動物の情報の処理形式です。そのような先入観で思い込んでいるような実在物など存在していません。
この認識の形式は、動物の『生きる。』という行為と密接に結びついています。

注)自己、時間、空間 は当然の常識なので、しばしば、思考過程から省略されています。

この情報の処理形式は、5億年の実績によって最適化されているので、日常生活では、何の疑問も不都合も生じません。目の前のコップを、何の疑いもなく、掴むことが出来ます。だから、唯物論者は意識知覚しているものは実在していると錯覚しています。

目の前のコップを、何の疑いも無く、掴むことができるのは、そこに、コップが実在しているからではありません。『実在している。』と、信じたい気持ちは解りますが、実際は、我々の脳が、5億年の実績に裏打ちされた最適な制御システムを構成しているからです。入力信号に対して、出力信号が最適に制御されているからです。だから、入力信号のままに行動しても、行動結果(出力信号)に不都合が生じることはありません。

日常生活の範囲内だったら、この形式を使っても、うまく、物理現象を記述できます。意識知覚している事象を、実体だと見なしても、不都合を感じることはありません。動物進化5億年の実績によって最適化されているからです。唯物論でも、問題ありません。

実際、日常生活の範囲内だったら、ニュートン力学を使って、直観的に、しかも、正確に、記述可能です。太陽系の範囲内の物理現象なら、全く、不都合を感じません。

ところが、現代物理学は、この日常生活から大きく懸け離れた物理現象を扱うようになってきました。原子よりも遥かに小さな素粒子の世界とか。太陽系よりも遥かに広大な銀河系や、その銀河系の集合体である宇宙全体とか。あるいは、ブラックホール近くの非常に強い重力場の世界とか。光の速度に近い、超高速の世界とか。

これらの新しい世界は、今までの動物進化5億年の歴史の中では、経験してこなかった世界です。
この為に、最適化されておらず、綻びが生じ始めてきました。日常の延長として、これらの非日常の極限の物理現象を理解しようとすると、様々な弊害に直面することになりました。

現代物理学は、「物質と波の二重性」とか、「時間と空間の相対性」とか、「不確定性原理」などの、まるで、天動説末期の「周転円」を想起させるような、極めてテクニカルな概念を使って、無理矢理、理解しています。

物質も、波も、時間も、空間も、日常生活から作り出された概念です。それを、日常とは遥かに隔たった極限の物理現象に適用することには、無理があります。
日常に拘る限り、多くの意味不明なテクニカルな概念を使って、無理やり理解する必要が生じてしまいます。

銀河系サイズの広大な宇宙を理解しようとすると、ダークマターの存在を仮定しないと、うまく理解できません。現代の物理学は、(太陽系近傍という)針の先ほどの微小空間の物理学です。それを、広大な宇宙全体や銀河系全体に適用しようとした為に生じた見かけ上の不具合です。日常の常識を、日常が通用しない極限の物理現象に適用してしまった為に生じた誤差です。

現代物理学が突き当たっている壁を乗り越える為には

これ以上、物理学を発展させる為には、日常への拘りを捨て去る必要があります。動物進化5憶年の性(さが)を乗り越える必要があります。『時間、空間、物質』という日常の認識の形式ではなくて、別の形式を使って、極限の物理現象を記述する必要があります。

幾何学体系も、根本的に改める必要があります。ユークリッド幾何学でもない、非ユークリッド幾何学でもない、位相幾何学でもない、現代の数学者の発想力の限界を超えた、『空間』という概念を使わない、全く新しい発想の幾何学体系を構築する必要があります。
「幾何学とは、空間の性質を研究する学問である。」という先入観を捨て、『空間』という概念を捨て、 現実と向き合う必要があります。そのような生物進化5億年の先入観に呪縛されないで、自由な新しい発想が必要です。

認識論も、哲学的空想の問題としてではなくて、具体的な情報学や生命現象の問題として理解する必要があります。なぜなら、「哲学する。」「認識する。」という行為自体は、人間という動物の行為の一部に過ぎないからです。生きる為の情報処理に過ぎないからです。こちらも、哲学的先入観に囚われていないで、現実に目を向ける必要があります。

計画全体の変更点

計画全体の階層の変更点
計画全体の変更点です。
左が現代物理学の理論階層です。右が新しい階層です。
現代物理学は、哲学(唯物論)と数学の上に構築されています。

この計画では、階層全体を根底から作り変えてしまう必要があります。
哲学は、唯物論から空の哲学に変更します。「一切は空なり」です。
数学は、思考形式学として再編成します。
空間を使わない新しい発想の幾何学体系も構築します。
物理学は、生物学と統合します。
そして、それを空間という概念を使わない新しい幾何学の上に展開します。
なお、最下層には、知的生命体の宿命が。。。
空間が否定された思考は、死の恐怖を伴うので、原始仏教の助けが必要です。

これら4つのもの、『哲学、幾何学、物理学、生物学』をセットにして、現代物理学が突き当たっている壁を乗り越えていく必要があります。

金剛般若経の言葉を借りるなら、

時間は時間に非ず。ゆえに、これを時間と名づく。
空間は空間に非ず。ゆえに、これを空間と名づく。
物質は物質に非ず。ゆえに、これを物質と名づく。
波は波に非ず。ゆえに、これを波と名づく。
神は神に非ず。ゆえに、これを神と名づく。
空は空に非ず。ゆえに、これを空と名づく。

です。

全ては、意識にとっての知覚対象です。
脳内部の事象です。
動物進化5億年の実績によって最適化された情報の処理形式です。
日常を延長して、極限の物理現象を理解するには、無理があります。

この内容が、現代科学の常識と大きく異なっているのは、この為です。新しい物理学体系を構築する為、現代哲学や科学の常識とは異なった多くの作業が必要でした。多くの(想定外の)変革が必要でした。余りにも、一度に多くの事が同時に起こってしまったので(整理に)混乱しています。

1.12 言葉と行い

物事は、『言葉』によって、明らかになっている訳ではありません。
ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。

言葉への執着を捨て去ることを希望します。
行いと結果の因果関係』を、冷徹に観察されることを希望します。

言葉に拘る限り、言葉が作り出している先入観の世界から逃れることはできません。
その言葉の外側に広がる、広大な別の世界を知ることなしに、一生を終えてしまいます。

現状は、残念ながら、『言葉は、欲望を正当化する為の手段』としてしか、使われていません。
もったいない話です。
せっかくの知的生命体が、頭の上で、勇ましく言葉を振り回して、自己満足に浸っているだけなのですから。知性を、だだひたすら、『言葉を振り回す。』ことばかりに使っています。言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。重ね重ね、もったいない話です。

下図は、人間という動物の生き様の因果関係です。

人間という動物の生き様の因果関係

人間という動物の生き様の因果関係
1. 六種の感覚器官(6根)からの信号によって、『欲望』が活性化されています。
2. その活性化された『欲望』から、『行い』が生じています。
3. そして、その『行い』によって、『結果』が生まれています。

それ故、もの事は、『行い』と、そこから生じる『結果』の因果関係によって判断されます。

ところが、人々は、
言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。
言葉ばかりに、心を奪われています。

なお、欲望と共鳴しなかった信号は、雑音として、素通りしています。

1.感覚器官からの『刺激』で、『欲望』が活性化され、
2.その活性化された『欲望』から、『行い』が生まれています。
3.そして、その『行い』から、『結果』が生じています。
なお、欲望と共鳴しなかった刺激(信号)は、雑音として無視され、素通りしてしまいます。

それ故、物事は、『行い』と、その『結果』から判断されます。
『結果』だけが、実際に残って、周りに様々な影響を与えるからです。

ところが、人間は、『言葉』ばかりに、心を奪われています。
『行い』の原因になった『欲望』を、言葉で正当化することばかりに、夢中になっています。その為に、『言葉』が総動員されています。

子供が、オモチャ箱をかき回すように、欲望を正当化できる便利な言葉を見つけようと、頭の中をかき回しています。必死になって、かき回しています。欲望を欲望と認めたくなくて、『神のように聖なるもの』と、自分自身に言い聞かせています。自分自身で、自分自身を騙しています。

悲しい現実です。

欲望は、汚いものでもなければ、綺麗なものでもありません。
卑しいものでもなければ、尊いものでもありません。
否定すべきものでもなければ、肯定すべきものでもありません。
ましてや、執着すべきものでもなければ、克服すべきものでもありません。

生き物が、生き物として、背負っている宿命です。
言葉で飾らないで、そのまま、受け止めることを希望します。

1.13 まとめ

誤解され易い内容なので、出来る限り、冷たい表現を使いました。

何かを主張するのでは無くて、色々な角度から、冷たい現実を羅列するように勤めました。何か新しい価値観や思想を期待していたなら、期待外れだったかもしれません。おそらく、期待とは正反対の方向、最も嫌な方向、本能的に避けたい方向だったかもしれません。全ての価値観(執着)を否定しているからです。

多分、様々な葛藤が生じていると思います。今、、、必死になって、「納得できる言葉を探し回っている。」と思います。言葉への執着を吹っ切れないで、執着したまま、言葉が言葉を、引きずり回して、空回りしている。その言葉の迷路から、抜け出せなくて、多くの迷いが、整理出来ないまま、蠢いていると思います。

しかし、そのような執着と迷いを無視して。。。冷たい現実に目を向けると。。。

意識は、脳内部の事象を知覚対象とした感覚器官です。

我々が意識知覚している事象は、言葉宗教も、哲学科学も、全て脳内部の事象です。実体の無いものです。(意識知覚している)一切は空っぽです。
言葉の中には、実体は入っていません。入っているのは欲望です。人間という動物の生き様です。

この特殊な感覚器官によって、そこに、架空行動の為の制御システム系が構成されています。この架空行動によって、未知の状況に対応する新しいプログラムを作り出しています。

我々は、未知の状況に直面したとき、第二システムを使ったシミュレーションによって、即ち、意識器官を使った肉体の架空行動(試行錯誤)によって、新しいプログラムを作り出しています。
そして、それを使って、第一システムを駆動し、実際の肉体的行動を生じさせています。

このような一連の動作を、世間では、『考えてから、行動する。』と呼んでいます。

新しい文明

この知的生命体に関する新しい知識は、現代の哲学や科学に根本的変革を迫ります。

哲学も、科学も、宗教も、根底から作り変えてしまう必要があります。これらの現代文明の構成要素は、意識の働きによって作り出されていますが、その意識感覚器官が知覚対象にしている全ての物は、脳内部の事象だからです。それは、心の中で蠢いている欲望が作り出したものです。
唯物論者が主張しているような実体ではありません。宗教家が考えているような神でもありません。
神は欲望の産物です。

根本的なところで、間違っています。

全ては、欲望が作り出した幻想です。
一切は空っぽ なり。』です。
全てを見直す必要があります。
人間という動物の性(さが)と、そこから生み出される宿命に心を傾ける必要があります。
死の恐怖を乗り越える為にも。

向き合っている現実を乗り越える為に、
現代の科学文明に代わる、次の新しい文明の構築が必要です。
知的生命体の宿命と向き合った、心の文明が必要です。
現代の科学文明は、哲学も科学も、あまりにも、素朴すぎます。
刹那過ぎます。

目の前の欲望に振り回され過ぎです。

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注意:厳密な正確さ、細かな問題は省略しています。理解し易さを優先しています。
参考:原始仏教、フロイト、今西錦司、チャールズ・サンダース・パース