2021/07/10 うつせみ

生命現象を構成している生命相互作用についての考察です。
結論:分かりません。

ただ、時間は、繰り返す時間と繰り返さな時間の二種類存在している事。
生命現象は繰り返さない時間と密接な関係を持っているらしい事。
最終的には、「時間とは何か?」が問題となりそうです。
データが不足しています。
まだ、早過ぎるみたいです。

1. はじめに

生命相互作用の物理的意味と性質については、今のところ、全く解りません。

ただひとつだけ解っていることは、我々は、そこに生命現象を見出し、それを、他の物理現象と区別していることだけです。

なぜ、生命現象を、他の物理現象と区別できるのか、その区別している根拠は何か。その根拠を、誰も説明できません。

しかし、同時に、生命現象の存在を、誰も否定できません。誰も、現象の存在自体は否定できないけど、同時に、誰も、その認識の根拠を説明できません。
見えているけど、なぜ、見えているか、誰にも、説明できません。

ここでは、生命現象という他とは区別された現象が存在しており、その区別された現象を説明する為に、物理学の通例に倣って、その現象を構成している相互作用を、生命相互作用と呼んでいるに過ぎません。例えば、重力相互作用とか、電磁相互作用のように。

現状は、ニワトリが先か、タマゴが先かの問題に似ています。
全ての現象は、相互作用によって構成されています。生命現象という他とは区別できる現象が、そこに存在しているなら、そこには、その現象を作り出している(他とは区別可能な)相互作用が存在している筈です。それを、生命相互作用と呼んでいるに過ぎません。

つまり、現象と、それを支えている筈の相互作用を同一視しています。

2. 四つの相互作用と、生命相互作用の関係

物理現象を支えている四つの相互作用と、生命相互作用の関係について考察します。

現代物理学は、四つの相互作用によって、物理現象が構成されていると考えています。重力相互作用と、電磁相互作用強い相互作用弱い相互作用の四つです。

問題は、生命相互作用が、この四つの相互作用の組み合わせで説明できるのか、それとも、これ以外の別の要素も持っているのかです。
つまり、5番目の新しい相互作用を仮定する必要があるのかです。表面的には、生命相互作用は、電磁相互作用と密接な関係にあります。

自分の今持っている考えでは、「新しい要素が含まれているのでは。」に傾いています。と、言うよりは、もっと、本質的な問題として、「今見えている四つの相互作用は、見かけの性質であって、その背景には、もっと、基本的な相互作用が存在しているのでは。」と、思っています。

「重力相互作用も、電磁相互作用も、強い相互作用、弱い相互作用も、もっと基本的な相互作用から派生している、表面的な見かけの性質ではないか。」と、思っています。「生命相互作用も、同じように、そこから派生した見かけの相互作用ではないか。」と、思っています。

もし、これらが、もっと基本的な相互作用から派生した見かけの相互作用であるなら、例えば、原子の周期律表に見られるように、もっと、もっと、多様な見かけの相互作用が存在している可能性があります。これらは、「組み合わせ問題として発生してる。」と、思われるからです。

3. 存在と非存在に関する簡単な思考実験

存在と非存在に関する思索を、哲学では、形而上学と呼んでいます。
ここでは、この形而上学の問題を別の視点から論じます。

Aという相互作用から構成された現象界を α。
Bという相互作用から構成された現象界を β と仮定します。

二つの現象界の存在と非存在

二つの現象界の存在と非存在
現象は、相互作用によって、始めて形成されます。

相互作用A から構成された現象界を、α
相互作用B から構成された現象界を、β と仮定します。

過去においても、未来においても、
互いの現象界が相互作用しなければ、相手の存在を知る術はありません。

即ち、現象界αから見たら、「現象界βは存在していない。」と断言しても問題ありません。
相互作用が生じなければ、現象が形成されず、従って、知る術は無いからです。

もし、相互作用、AとB が、過去においても、現在においても、未来においても、係り合いがなければ、現象界α は、現象界 β の存在を知る術はありません。
現象界α と β の間で、相互作用が存在しないので、現象が形成されない為です。現象が形成されなければ、知る術はありません。

当然、現象が形成されないので、排他律の性質も現れません。排他律の性質が現れないので、互いに、排他的に存在することもありません。互いの存在は、互いに影響しあうことはありません。

そのいい例が中性微子です。中性微子と呼ばれている素粒子は、太陽から大量に放出されています。ところが、この素粒子は、他の素粒子と殆ど相互作用をしません。この為に、その存在状態や、運動も、殆ど、邪魔されることがありません。非常に低い確率で、相互作用して、現象を形成してだけです。

結果、地球を、突き抜けているように見えます。まるで、豆腐に釘を差すように、そこに地球が存在しないかのように振る舞います。

中性微子が、地球をすり抜けるのは、地球を構成している大量の素粒子と、ほとんど、相互作用を起こさないからです。相互作用で現象が形成されないので、結果、その運動状態も、存在状態も乱されることがない為です。乱されないから、あたかも、そこに地球が存在しないかのように振る振る舞っているだけです。別に、地球をすり抜けている訳ではありません。(もちろん、人間から見れば、すり抜けているように見えますが。)

つまり、現象界同士が、全く相互作用をしないなら、現象界 α から見た場合、現象界 β は、存在していないと断言しても問題ありません。現象が形成されない為に、互いに影響し合うこともなく、それ故、存在を知る術は無いからです。

現象界 β は仮定の産物に過ぎず、何の影響も与えないからです。

もっと重要な問題があります。

もし、相互作用が生じていないなら、当然、排他律も生じませんから、互いの存在が排他されることもありません。つまり、多重に存在することが可能になります。

「多重に存在する。」って、何処に多重に存在しているのですかね。
言っている事が、意味不明です。

4. では、現象界は何処に存在しているのか?

では、現象界 α β は、何処に存在しているのだろうか。」という問題も意味を持ちません。

コップという入れ物の中に物が入っている。」、或いは、「空間という入れ物の中に、物質が存在している。」という発想自体は、我々人間という動物が持っている先入観、即ち、脳の情報処理形式だからです。それは、現象の認識された形式、即ち、動物がそのような形式を使って、外界の情報を処理しているに過ぎません。

現象の構成形式でありません。

つまり、現象界 α、β の入れ物(空間)は、実在する実体ではありません。これらの現象界は、空間という入れ物の中に、入っている訳ではありません。

冷たい言い方で、申訳ありませんが、我々は、ただ単に、相互作用によって生じた現象を観察しているに過ぎません。現実は、たった、それだけです。

我々は、ただ単に、相互作用によって生じた現象を観察しているに過ぎません。

それ以外は、全て、先入観です。

思考の枠組み

我々人間は、このような現実を、「空間という入れ物の中に、物が存在している。」という思考の枠組みを使って、理解しています。
その詳しい関係は下図のような構成になっています。我々の脳は、情報を『自己、時間、空間、物質』という枠組みを使って理解しています。

思考の枠組み

思考の枠組み
我々人間という動物は、『自己、時間、空間、物質』という思考の枠組みを使って物事を理解しています。
「空間という入れ物の中に物(物質)が存在している。それが、時間の経過と共に、入れ物(空間)の中を動き回っている。」と理解しています。

注)自己は、(幾何学上は、)座標原点を意味しています。当たり前ですが、認識行為は、自己を中心点にして行われます。

この思考の枠組みは、動物進化5億年の実績によって獲得されたものです。生まれながらに本能として獲得している能力です。個人レベルで、どうにかなる問題ではありません。

それ故、この認識の形式を、疑っていません。存在する実体だと思い込んでいます。我々の存在するこの宇宙は、『時間、空間、物質』という実在物で構成されていると思っています。

しかし、これは存在する実体ではありません。我々の存在しているこの宇宙は、そのような実在物で構成されている訳ではありません。これは、脳が持っている情報処理の形式です。我々の脳は、外界からの情報を、このような形式を使って理解しているに過ぎません。

だから、現象の入れ物(空間)という発想、つまり、現象界 α、β の入れ物(空間)の実在を論じる事は無意味です。
我々は、ただ単に、現象を観察しているに過ぎません。それ以外の余分な思いは、先入観に過ぎません。

この宇宙は、『時間、空間、物質』という実在物で構成されている訳ではありません。
これは、脳が持っている情報の処理形式です。(動物進化5億年の歴史で獲得された。)

時間空間物質も、存在する実体ではありません。

空間と言う実体は存在していません。即ち、現象界の入れ物は存在していません。もちろん、入れ物なしで、現象界が存在している訳でもありません。
我々は、ただ単に、現象を観察しているだけです。事実関係は、それだけです。それ以上の事は、何も分かりません。

いたずらに、先入観に振り回されない事を希望します。

5. 現実に目を向けると

現実に目を向けると、我々の存在しているこの宇宙では、四つの相互作用が、ひとつの現象界、即ち、この宇宙を構成しています。

重力相互作用によって作り出されている現象界も、電磁相互作用から構成された現象界も、互いに相手の現象界と係りを持っています。統合されて、ひとつの現象界、即ち、この宇宙を構成しています。

重力相互作用と電磁相互作用の関係

重力相互作用と電磁相互作用の関係
重力相互作用から構成された現象界を、重力現象界、
電磁相互作用から構成された現象界を、電磁現象界、
と呼ぶことにします。

重力現象界と電磁現象界は、互いに独立して存在しているのではなくて、互いに関連し合って存在しています。
従って、統一されたこの宇宙を構成しています。

通常の日常世界では、この二つは独立しているように見えますが、
太陽の中心のような強い重力場の世界では、互いに影響し合っています。

逆に人間の立場から、表現してみます。
(この宇宙に存在している)我々人間が、実験をしてみると、そこに、4つの基本的相互作用が見いだされました。物理現象は、この4つの相互作用から構成されていました。我々のこの宇宙は、この四つの相互作用で構成されていました。

我々の宇宙

我々の宇宙
我々の存在しているこの宇宙は、重力相互作用と、電磁相互作用強い相互作用弱い相互作用の四つの相互作用から構成されています。
それらが統合されて、ひとつの現象界、即ち、この宇宙を構成しています。

これは、これら四つの相互作用が、背後で結びついている。つまり、もっと基本的な相互作用から派生した見かけの相互作用であることを、意味しています。

もし、これら四つの現象界が互いに相互作用しなければ、これら四つは互いに独立となって、ひとつの統合された現象界、即ち、この宇宙を構成することは不可能だからです。ひとつの現象界を構成している事実は、これらが、互いに関連し合って事、その関連を生み出しているもっと基本的な相互作用が存在しているらしい事を意味しています。

もし、これらが見かけであるなら、もっと、もっと、たくさんの見かけの相互作用が存在している筈です。見かけの相互作用は、組み合わせの問題として、派生していると考えられるからです。

丁度、原子の周期律表が、原子や分子の化学的性質として現れるように、素粒子より、もっと下のレベルで、このような相互作用の組み合わせ問題が発生していると考えています。

生命現象と、それを支えている生命相互作用も、そのような数ある見かけの相互作用のひとつではないかと、考えています。

生命相互作用は、他の四つの相互作用同様、見かけの相互作用では?

相互作用の階層

相互作用の階層
生命相互作用を含めて、我々の観察している相互作用は『みかけ』ではないかと思われます。
根底には、もっと基本的な相互作用が存在している。そこから、派生していると思われます。
だから、これら見かけの四つの相互作用は、互いに関連しあって、ひとつの現象界、即ち、この宇宙を構成していると思われます。

これらが『みかけ』なら、このような『みかけの相互作用』は、『生命相互作用』以外に、まだまだ、存在している可能性があります。

自分は、この問題を解決できませんが、その為の準備は行っています。ここで述べている常識を逸脱した内容は、その準備作業から得られて知識です。「近い将来、何らかの光が見えてくるのでは」と、予測しています。

注)重力相互作用は、(我々の存在している)この宇宙が有限な為に生じている見かけの相互作用ではないかと疑っています。それ故、引力のみの単相なのではないかと。
この宇宙が有限な事は、物理量が不連続な事から推測されます。有限なら、その三体間の存在状態も有限となり、従って、物理量も不連続となってしまうからです。

有限な世界の中でのゲームは、ゼロサムゲームになります。何かを動かすと、必ず、全体を有限の中に閉じ込めて、ゼロサムにしようと、その反現象が生じてしまいます。
宇宙は、重力によって収縮しようとしているように見えると同時に、(赤方偏移などのように)膨張しているようにも見えます。有限な世界では、全体の辻褄を合わせる為に、現象とその反現象から構成されています。例えば、椅子取りゲームのように、誰かが座れば、誰かが溢れるます。

6. 三つの時間

この内容は、現代物理学の常識から大きく乖離しています。異常です。自分でも困惑しています。しかし、現実なので。。。。
我慢して、現実と向き合います。

生命現象は、『時間とは何か?』の問題と密接に関連しているようです。

現代の物理学者は、時間は一種類だと思っています。
しかし、現実には、三種類存在しています。

目の前の物理現象は、繰り返す時間繰り返さない時間の二つの時間から構成されています。
そして、心の中は、記憶の糸で構成されています。

月の満ち欠けは、約一カ月周期で繰り返します。季節は、一年周期で繰り返します。地球の自転は、一日周期で繰り返します。それ故、毎朝、太陽は東の空から昇り、西の空に沈みます。
一般に、天体の運動に関連した現象は、繰り返します。

この繰り返す現象を扱った物理学理論には、ニュートン力学やアインシュタインの相対論があります。

一方、火が燃える現象は繰り返しません。一度、燃えてしまった物は、二度と元に戻ることはありません。命も繰り返しません。死んだら、二度と蘇ることはありません。人生は、一回切りです。
一般に、火が燃える現象生命現象は繰り返しません。一回切りの現象です。

この繰り返さない現象を扱った物理学理論には、熱力学や量子力学があります。

人間の時間の記憶は、このような二つの物理時間が紡がれるようにして構成されています。
即ち、心の中は、記憶の糸から構成されています。

三つの時間

三つの時間
時間は、三種類あります。
物理世界は、繰り返す時間と、繰り返さない時間の二つで構成されています。
心の世界は、記憶の糸より構成されています。

我々生命の存在は、繰り返さない時間に強く依存しています。

繰り返さない時間の特徴は、未来は不確定な事です。
繰り返す時間は、繰り返しているので、過去も未来も確定していますが、繰り返さない時間は、過去については、結果の累積として確定していますが、未来は不確定です。確定していません。

この未来の不確定性 の中に、我々生命の存在基盤があるようです。

生命相互作用は、未来の不確定性、つまり、繰り返さない時間に対して作用しているようです。

生命相互作用は、繰り返さない時間に作用している。

意味不明ですね。自分にも理解できません。



ミクロな素粒子の世界と、繰り返さない時間の関係

ミクロな素粒子や原子、分子の世界に目を向けると、この繰り返す時間と繰り返さない時間の意味が明確になります。

「時間とは何か?」の問題は、存在状態の問題です。
存在状態の問題は、三体問題と捉えると、その意味が明確になります。

原子は、原子核と電子から構成されていますが、この存在状態は、下図のような『宇宙全体、原子核、電子』の三体問題になります。

三体問題

三体問題
存在状態は、宇宙全体と原子核と電子の三体問題として理解されます。
この三体間の相対的存在状態が変化しないか、変化するかで、見かけの問題が大きく変わります。

現代物理学では、この関係を、下図のように『空間(場)、原子核、電子』の三体問題と理解しています。空間の中に、原子核と電子が存在していて、電子は原子核の周りを回っていると理解しています。『宇宙全体』の事を、現代物理学では、『空間』、又は、(原子核や電子の近傍に宇宙全体が作り出している)』と理解しています。

もし、『宇宙全体』という概念に抵抗があるなら、『空間』、又は、『場』と置き換えて下さい。それでも、充分、意味が通じます。原子の近傍の『場』は、『宇宙全体』が作り出しています。

宇宙全体と空間は同じ意味

宇宙全体と空間は同じ意味
現代物理学では、空間(場)の中に、原子核と電子が存在して、電子は原子核の周りをを廻っていると理解しています。
即ち、『宇宙全体』の事を、現代物理学では、『空間(場)』と理解しています。

しかし、注意して頂きたいのは、『空間』は存在している実体ではありません。そのような実体は存在していません。
これは、脳内部の情報処理の形式です。そのような形式を使って、外界の情報を処理しているに過ぎません。詳細は、「知的生命体の心の構造」を参照下さい。

この三体間の関係は、次の二つの存在状態より構成されています。
三体間の相対的存在状態が変化しない定常状態と、
三体間の相対的存在状態が変化する非定常状態の二つです。

定常状態(安定した存在状態)

定常状態は、安定した存在状態です。
この宇宙が、安定して存在し続けているのも、このような定常状態が存在している為です。この宇宙は、大部分が、この定常状態、即ち、安定した存在状態で構成されています。

この定常状態は、我々には、『公転運動』、又は、『』に見えます。電子は原子核の周りを回っていると理解しています。地球は太陽の周りを公転しています。或いは、多くの物事が、規則正しく振動(波)しているように見えます。

なぜ、そう見えるのか?。その理由は分かりません。とりあえず、現実を現実として受け止める以外に方法がありません。これが理解できたら、宇宙の構造も理解できるのですが。しかし、(自分の生きている)この時代では、まだ、叶わぬ夢です。

地球と太陽と宇宙全体

地球と太陽と宇宙全体
地球と太陽と宇宙全体の三体問題です。
この三者間の相対的存在状態は変化しません。安定した定常状態です。従って、この関係は未来永劫続きます。

この関係を、人間は「空間(宇宙全体)の中に太陽と地球が存在している。そして、地球は太陽の周りを公転している。」と理解しています。
『繰り返す時間』の由来です。

この存在状態は、安定しています。未来永劫続きます。即ち、時間は繰り返します。安定した公転運動なので。
(厳密には、悠久の宇宙時間の中では、エネルギー放射などによって、少しづつ、三体間の存在状態は変化しています。でも、それは、人類の歴史の範囲内では、ほとんど、無視可能です。)

現代の物理学者が持っている時間の観念は、この安定な定常状態、即ち、『繰り返す時間』を根拠にしています。

非定常状態(存在状態の変化)

非定常状態は、三体間の相対的存在状態の変化を意味しています。
電子は、光を吸収して外側の軌道に遷移します。同様に、光を放出して、内側の軌道に遷移します。物理学者は、この存在状態の変化を、公転軌道の変化と理解しています。我々には、そう見えます。(理由はわからないけど。)

このような電子のレベルでの公転軌道の変化は、原子、分子のレベルでは、化学的変化として観測されます。様々な分子が作り出されています。生体は、様々な高分子化合物によって、構成されています。表面的には、我々生命体は、原子、分子の化学的変化によって、生体を作り維持しています。即ち、自己を保存しています。

この状態は、存在状態の変化なので、繰り返しません。一回切りの現象です。即ち、時間は繰り返しません。いつ存在状態が変化するか、誰にも分かりません。

このような存在状態の変化の原因を、『光』と呼んでいます。光の入出力によって、軌道が遷移しています。つまり、存在状態の変化を、軌道遷移と理解しています。そこに関与しているのは、『光エネルギー』と理解しています。

ちなみに、『エネルギー』と『存在状態の変化』は同義語です。同じ事象を反対側から表現した言葉です。エネルギーが関与したら、存在状態が変化します。逆に、存在状態が変化した結果を、エネルギーと見なしています。「ニワトリが先か、タマゴが先か。」と似ています。

このような存在状態の変化は、目の視覚細胞上でも起こっており、この現象を人間の言葉で『』と呼んでいます。

言葉の使い方が混乱していますね。でも、現代の知識のレベルでは仕方ありません。とりあえず、理不尽な現実を受け入れるしかありません。



生命の存在基盤と非定常状態

今までの発想に従って、生命現象を三体問題と、その存在状態の変更という視点で整理してみます。

生命現象は、生命と環境と宇宙全体との相対関係の上に成り立っています。
生物を包み込んでいる環境は、最終的には、宇宙全体との相対関係の上に成り立っています。そして、その環境は、生物の都合を無視して一方的に変化しています。

この為、生物と環境との相対関係が、生物に都合がいいある一定の状態に保たれる為には、即ち、自己を保存する為には、生物の側が変化して相対関係を取り戻す必要があります。或いは、生物が環境に働き掛けて環境の存在状態を変える必要があります。

生命と環境と宇宙全体

生命と環境と宇宙全体
生命は、自己と環境と宇宙全体との相対的存在状態を、自己に都合がいいように変えようとしています。これを、生物学では、『適応行為』と呼んでいます。

存在状態を変更する為には、エネルギーが必要です。それ故、生命が生命として存在する為には、存在状態を変える為の(利用可能な)エネルギーの流れが、そこに存在している必要があります。

いずれにしても、自己を保存する為には、存在状態の変更が必要です。その為に、エネルギーが必要です。生命の存在の為には、そこに利用可能なエネルギーの流れが存在している事が必須です。

エネルギーの流れさえ存在していれば、地球上の多くの場所で、生態系は存在可能なように見えます。

我々人間が属している地球表層の生態系は、太陽から宇宙の彼方に向かって流れている光エネルギーの上に成り立っています。この光を利用して植物は光合成を行い、その成果を利用して我々動物は生きています。これらの生物が蓄えた光エネルギーは、石炭や石油、メタンハイドレートなどになって地殻に蓄えられますが、最終的には、宇宙の彼方に向かって、流れ去ってしまいます。
現在、人間は、これらの化石燃料を取り出して、生命活動に利用しています。

深海の熱水噴出孔では、地底から噴き出している熱水と、そこに含まれる硫化水素を利用した非常に豊かな生態系が存在します。これらは、太陽からの光エネルギーではなくて、硫化水素のエネルギーに依存しています。

また、最近、地下奥深くまで、生物圏が広がっている事が明らかとなりました。これらの生態系では、別のエネルギーが利用されているものと思われます。

原子力発電では、ウランの核分裂によって発生する熱エネルギーを電気エネルギーに変えて、我々人間は、生命活動に利用しています。

エネルギーの流れさえあれば、存在状態の変更が可能です。生命は、それを利用して、自己保存を行っているように見えます。

我々地球上の生命は、炭素という半導体を主原料にして生命活動を行っています。一方、現代のコンピュータは、シリコンという半導体を主に使っています。これらのコンピュータを使って制御システムを作成すれば、自己保存系の真似事程度はできます。各種の存在状態の維持、並びに、変更が可能です。
果たして、シリコン半導体を使った制御システムを生命体と呼べるかどうかは疑問ですが、少なくとも、制御目標値に従った存在状態のコントロールは可能です。



物理学理論の分類

現代の物理学理論は、この「繰り返す時間、繰り返さない時間」に関して、大雑把に二つに分類されます。

天体の運動から導かれたニュートン力学やアインシュタインの相対論は、繰り返す時間に関する物理学理論です。
現代の物理学者が持っている時間の先入観は、ニュウートン力学的時間、即ち、繰り返す時間を基にしています。

一方、熱力学や量子力学は、存在状態の変化を扱っていますので、繰り返さない時間に関する物理学理論です。
現代の熱力学や量子力学が、直観的に、「騙されている。」と感じてしまうのは、繰り返さない物理現象を、強引に、繰り返す時間で記述している為と思われます。
『シュレーディンガーの猫』や『マクスウェルの悪魔』の疑問も、この辺りにあると思われます。繰り返す時間と繰り返さない時間の矛盾です。

時間の種類と物理学理論の関係
時間の種類物理学理論の種類
繰り返す時間ニュートン力学
アインシュタインの相対論
繰り返さない時間熱力学
量子力学
現代物理学の時間の観念は、ニュートン力学(繰り返す時間)を基にしています。



時間の問題 まとめ

現代の我々は、
定常な存在状態を、『繰り返す時間』と、
非定常な存在状態、即ち、『存在状態の変化』を、『繰り返さない時間』と認識しています。

人は、季節が毎年巡って来ることを知っています。
それと同時に、「死んだら、決して蘇らない。」ことも死っています。
『繰り返す時間』も『繰り返さない時間』も、実感としては理解しています。
科学的常識としては、理解していませんが。

生命現象は、『存在状態の変化』、即ち、『繰り返さない時間』と、大きく関わっています。

『繰り返さない時間』の未来は、不確定です。
それ故、存在状態を変化させる事が可能です。生命は、自己保存の為に、不確定な未来から、自己に都合がいい未来を選択して、自己を保存しているように見えます。
もちろん、その選択の幅は、極めて、細やかではありますが。
コンピュータなどの工学の分野で、制御が可能なのも同様です。

生命は、『繰り返さない時間』に、その存在基盤があります。

繰り返す時間と繰り返さない時間
時間の種類宇宙全体との相対関係備考
繰り返す時間宇宙全体との相対的存在状態が変化しない定常状態存在状態が安定しているので、この安定な存在状態は未来永劫続きます。この安定な存在状態は、理由は分かりませんが、我々には公転運動に見えています。丁度、天体の公転運動のように。
「繰り返す時間」の由来です。

この現象は、繰り返しているので、過去も未来も確定しています。

天体の運動のようなマクロな現象において顕著です。
ニュートン力学や相対論が対象にしている物理現象です。
繰り返さない時間宇宙全体との相対的存在状態が変化する非定常状態存在状態の変更なので、どう変わるか不定です。存在状態の変化は、我々には、公転軌道の変化に見えます。丁度、原子核の周りを回っている電子の軌道が変るように。
「繰り返さない時間」の由来です。

この現象の未来は、存在状態の変更なので、不確定になります。どのように存在状態が変化するか、予測不可能です。

素粒子や原子や分子などのミクロな世界で顕著に現れています。
熱力学や量子力学が対象にしている物理現象です。

まだ、思考過程も、データも充分に整備されていないので、言っている事が矛盾だらけです。
自分でも、困惑しています。ただ、矛盾のない完璧な主張よりも、現実をあるがままに受け入れる事を優先しています。残念ですが、現状は、まだ、手探りの段階です。飾り立てる段階ではありません。

詳細は、『川の流れに逆らって生きるサカナ』を参照下さい。

参考01)形而上学

形而上学の定義は、曖昧です。人によって異なっています。
だた、ひとつ言えることは、「訳が判らなくなって、混乱した思考」の事を、形而上学と呼んているみたいです。

もっとストレートに表現するなら、哲学者が訳も分からず「あ~う~。あ~う~。」言っている行為の事みたいです。(ハイデッガーが、そうでした。)

ここでは、ハイデッガーの『存在と無』に関する思索を、多分、形而上学だろうと見なして、それに沿って、話を進めています。

ただ、ハイデッガーの作業自体は、失敗していました。あまり、参考になりません。

そこで、現実に目を向け、全く異なった方向からこの問題を論じます。制御工学の発想を使って論じます。
この制御理論は、生命現象を記述する為に、新規に開発中のものです。今西錦司氏の『状況の主体化』の概念を使って、論理を組み立てています。



生きる事との接点

全ての哲学的問は、最終的には、人間という動物の生きる事と、どのように結びつているか、その接点を探し求めています。

そこで、『存在と無』が、自己の存在と、どうのように関わっているかを考察します。この問題を解決する事は、とても簡単です。難解な哲学的思索など不要です。
下の絵のように、ただ単に、目をつぶって、壁に向かって歩くだけです。それで全てが解決します。

さ~。みなさんも、実際にやってみましょう!。
頭で考えるのではなくて、体で実感しましょう。おまけとして、大好きなプチスリルも味わえます。

注)なぜ、目をつぶるのか?。

思索に耽る為ではありません。
怖い現実と向き合わない為です。度胸がなくても、見えなければ、怖いものなしです。ぶつかるまでは、思う存分、プチスリルを味わえます。
でも、ぶつかったら。。。。。先の事は考えない!。実践あるのみ。

自己と空間と壁(物)
自己と物と空間
全ての哲学的問いは、最終的には、『生きる。』こととの接点を探し求めています。

』は、『自己の存在を否定するもの。』です。
自己の存在と競合します。
反対に、『何も無い空間』は、『自己の存在を否定しないもの。』です。
だから、空間内は、自己と競合しないので、自由に動き回ることができます。

『壁』と『何も無い空間』は、『生きる。』こととの接点において、このような意味を持っています。
即ち、(生命にとって最も重要な)『自己の存在』が、否定されるか、否定されないかの違いです。

最初の数歩は、問題なく歩く事ができます。
自分の行動は疎外されません。何もない無の空間は、自己の存在と競合しないので、排他される事も無く、自由に存在状態を変更できます。つまり、動き回れます。

ところが、壁にぶつかると、状況は一変します。
自分の行動は疎外されます。自己の存在と競合してしまいます。存在状態を自由に変更できません。そこで、排他律の問題が発生してしまいます。
同じ場所に同時に二つのコップは置けません。無理して置こうとすると、今あるコップは、押し退けられます。自己と壁は、共存できなくて、どちらかが押し退けられます。大抵は、自分が弾かれます。

これが、『存在と無』の生きる事との接点です。

存在と無』の生きる事との接点

壁が存在していれば、自己の存在は否定されます。(自己と競合します。)
壁がければ、自己の存在は否定されません。(自己と競合しません。)

即ち、「自己が否定されるか?」、「されないか?」の違いです。
存在』とは、自己の存在と競合するものです。(存在同士は、互いに排他し合います。)
』とは、自己の存在と競合しないものです。(存在と無は、互いに排他しません。)

詳細は、「8.7 時空認識が可能な自己保存系のモデル」を参照下さい。
なお、『生きる事の接点』は、今西錦司の『状況の主体化』の概念を具体化したものです。彼の考え方に沿って、論理を展開しています。

注意)この思考モデルでは、時間と空間の概念は未分化です。

例えは、秒速1m、つまり、時速4kmで、10m先の壁に向かって歩くと仮定します。
実行すれば、当然、10m先で壁に衝突して痛い思いをします。この事は、同時に、自分にとっては、10秒後の痛い未来を意味しています。秒速1mで歩いているので。

時間の単位で未来を語っても、空間の単位で未来を語っても、結果は同じになります。10m先と10秒後は、生きる事との接点において、同じ意味になります。アインシュタインの相対論が主張する『時間と空間の相対性』と、何処となく同じ匂いがします。

なお、納得できなければ、実際に、自分の体で試して見て下さい。時間と空間の相対性を。空間が短くなれば、時間も短くなります。長くなれば、もう片方も長くなります。

参考02)空の哲学

形而上学は、『空の哲学』を使うと理解し易くなります。

空の哲学では、数学のゼロ(無)は、「何も存在しない状態」ではなくて、「『何も存在しない状態』が存在している。」、即ち、「『無』が存在している状態」と、理解しています。

「ゼロは、『無』が存在している状態。」です。

それ故、この存在状態を、記号『0(zero)』で表記しています。

注)空(empty)とゼロ(zero)は、古代インドで同じ時期に成立しました。共に、サンスクリット語で、『シューニャ』と、同じ言葉で呼ばれていました。双子の兄弟です。

我々人間という動物は、『自己、時間、空間、物質』という思考の枠組みを使って、物事を理解しています。
「『時間と空間の入れ物』の中で、物質(有)が動き回っている。」と理解しています。

即ち、『有』とは、下図のように、このような思考の枠組みの中で、『犬や人間』などの物質が存在している状態を意味しています。このような『犬や人間』などを、『有』、『存在』、或いは、『物』、『物質』などと呼んでいます。

思考の枠組み

思考の枠組み
我々人間という動物は、『自己、時間、空間、物質』という思考の枠組みを使って物事を理解しています。
「空間という入れ物の中に物(物質)が存在している。それが、時間の経過と共に、入れ物(空間)の中を動き回っている。」と理解しています。

この思考の枠組みには、下図のように『犬や人間』などの物質が存在していない状態も存在しています。

いわゆる、形而上学が言うところの『無』、『非存在』、或いは、数学が主張する『ゼロ』の存在状態です。
つまり、「ゼロは、『無』が存在している。」という意味です。このような存在状態に割り当てられた記号です。「何も存在していない状態」を表現した記号ではありません。あくまでも、ある存在状態を表現した記号です。

無(ゼロ)の存在状態

ゼロの存在状態
『0(zero)』、又は、『無』、『非存在』の存在状態です。
『空間』という入れ物の中に、物が存在していない状態です。つまり、『無の状態』です。
思考の枠組みの中では、このような『無の存在状態』も存在しています。

注)思考の枠組み自体を否定している訳ではありません。

この『有』の存在状態と、『無』の存在状態は、互いに対立関係にあります。
我々は、『有と無』、『存在と非存在』、『存在と無』、或いは、『0(zero)と1(one)』の両極端の関係を、下図のような価値観を使って理解しています。

価値観は、『価値』と、その『反価値』の両極端から構成されています。この両極端は、色鮮やかなコントラストを構成しています。脳内部の情報処理において、互いに、対立しています。

有 と 無 の両極端

有と無の両極端
無は有とセットになって、『有無』の価値観を構成しています。

原始仏教では、価値観の事を、『両極端』と呼んでいます。
価値観は、『価値』と、その『反価値』の両極端から構成されています。この両極端は、色鮮やかなコントラストを構成しています。

我々人間という動物は、『有』という価値と、その反価値である『無』の対比によって、『有無』の価値観を理解しています。

価値観の天秤

価値観の天秤
価値観は、価値と反価値の両極端から構成されます。
色鮮やかなコントラストを構成しています。
有と無は、一対で価値観を構成しています。

哲学者は、『有』を手掴み出来るので、「『無』も手掴み出来る筈だ。」と、果敢に挑戦しています。何とか、言葉で捕まえようと、四苦八苦しています。

形而上学の落とし穴です。自己矛盾に気が付いていません。
自らの常識(言葉)の範囲内に、なんとか、落とし込もうと四苦八苦しています。

このような思考の枠組みの中で、形而上学は、片方の『無』の方だけを取り出して、「『無』とは何か」を論じようとしています。

その結果、『無』に寄り添っている『有』の影に翻弄されています。
光と影のように、『有と無』は、一体になって、『有無』の価値観を構成しています。ある人は、『有』を認識できるので、『有』を手掴みして喜んでいます。
哲学者は、反対側の『無』に興味をそそられて、「『有』同様に『無』も手掴み出来る筈だ。」と、必死に、もがき苦しんでいます。
結局、手掴み出来なくて、形而上学の摩訶不思議に翻弄されています。ここに根本的な矛盾が存在していることに気が付いていません。「唯物論の先入観」と、「無の定義」の間に矛盾が生じている事に気が付いていません。

『無』という言葉の定義は、「何も無い。」です。一方、言葉一般への先入観は、「言葉には、実体が対応している筈だ。」です。だから、「無という言葉にも、無という実体が対応している筈だ。」と思っています。

「無という言葉の定義」と、「言葉一般に抱いている先入観」の間に、矛盾が生じています。
形而上学は、この矛盾に、右往左往して、もがき苦しんでいました。ハイデッガーが、そうでした。

形而上学の矛盾
項目説明
唯物論の先入観我々は、実体を認識の対象としている。『無』も(言葉で)認識できるから、実体だ。
『有』同様、『無』も、(言葉で)認識できているから、手掴み出来る筈だ。
無の定義何も存在するものがない状態。
だから、手掴みできるものはない。
矛盾手掴みできるものがないのに、先入観から(言葉で)手掴みしようと四苦八苦している。
ハイデッガーは、このような矛盾に苦しんでいました。
自らの先入観の範囲内に、何とか(言葉で)落とし込もうと四苦八苦していました。
読んで分かったのは、(先入観に翻弄されている)この苦悩だけでした。

詳細は、『空の哲学』を参照下さい。形而上学の別の断面が見えてきます。

注)「存在」という言葉の使い方が曖昧です。
上記の文章では、この言葉が、何通りもの意味で臨機応変に使い分けられています。現代の知識の範囲内では、この言葉を厳密に使い分けることは困難です。それを承知で、お読み下さい。