2022/06/13 うつせみ

我々の存在しているこの世界は、三つの時間から構成されています。
「繰り返す時間」と「繰り返さない時間」と「記憶の糸」の三つです。

我々生命の存在は、「繰り返さない時間」に依存しています。
これが、様々な苦悩や迷いの原因になっています。

突拍子もない話題です。現代の科学的常識と大きく異なっています。

しかし、我々生命の存在と密接に係わった重要な話なので、リスクを冒して、必要な情報だけ残します。「なぜ、生命は生きる苦しみが生じてしまうのか。」それと、この(我々が存在している)宇宙の構造との関係を探っています。生命が、この宇宙の構造に中に組み込まれている仕組みを探っています。

話はトリッキーです。だから、理解して頂くのではなくて、読み流して、何となく全体像を感じて頂くことを希望します。自分にとっても、この作業は、未知の部分が多過ぎて曖昧です。問題の本質を、単純に説明することが困難です。

8.3.0 川の流れに逆らって生きる魚

『時間』に関する常識の嘘と先入観を、直観的に表現します。

(興味が無ければ、読み飛ばす)
川の流れに逆らって生きる魚は、逆らうからこそ、魚として存在出来ます。(逆らわずに)流れに身を委ねたら、(水に浮かぶ木の葉のように)押し流されて、やがて海に辿り着いて死に絶えてしまいます。生命は運命に身を委ねたら死にます。(生命が生命として存在し続ける為には、)運命に逆らう必要があります。魚が魚として存在し続ける為には、川の流れに逆らう必要があります。

我々生命は、「水は高きから低きに流れる」という自然の摂理に逆らうからこそ、生命として存在する事が出来ます。<<< ここに、「生きる苦しみ」が隠されています。

川の流れに逆らって生きるサカナ
川の流れに逆らって生きるサカナ
魚は、流れに逆らうからこそ、魚として存在できます。
流れに身を委ねたら、(水に浮かぶ木の葉のように)海に押し流されて死にます。

しかし、だからといって、イタズラに逆らっている訳ではありません。
逆らい過ぎると、今度は、水のない山の上に出てしまい、こちらも、同様に死にます。
彼らは、川の流れに妥協して生きています。

生命現象は、対立と妥協という相反する二つの矛盾した行為の上に成り立っています。

しかし、だからと言って、イタズラに逆らっている訳ではありません。逆らい過ぎると、今度は、やがて、水の無い山頂に出て仕舞い、こちらも同様に死を招くからです。

彼らは、生きる為に、環境に妥協しています。
川の水は、雨が降れば増水し、干ばつになれば干上がります。常に変化しています。その変化に合わせて生きています。<<< ここに、進むか退くかの「迷い」が隠されています。

結果として、上流に棲む魚は上流に棲み続け、下流に棲む魚は下流に棲み続けます。その存在状態が一定に保たれ続けます。多少の変動はありますが。

我々生命は、自己の存在を確立する為に、環境と対立しなければならず、生きる為に、その環境に妥協しなければいけません。対立と妥協という相反する二つの矛盾した行為の上に成り立っています。

生命現象の矛盾
条件目的行動結果
自己の存在を確立する為の条件存在する為に環境と対立すること生きる苦しみ
自己が存在し続ける為の条件生きる為に環境に妥協すること迷い
生命が生命として存在し続ける為に、「苦しみ」や「迷い」が生じています。

自己の存在を確立する為に、「生きる苦しみ」が生じています。
自己が存在し続ける為に、進むか退くかの「迷い」が生じています。

神は嫌味ですね。あちこちに、大切なものを、わざと隠しています。

言葉で説明すれば、生命現象は矛盾しているように見えます。相反する二つの力のせめぎ合いの上に成り立っているように見えます。

矛盾しているように見えるのは、生命現象自体が矛盾している為ではありません。それを言葉で説明しようとしている言語体系自体が矛盾している為です。

「私は嘘を付きません。」という言葉が、既に嘘であることと同じです。言葉は、口から音を出している当人の都合と欲望を表現しているに過ぎません。物事の真理を表現している訳ではありません。都合と欲望は、立場が変われば変わります。人と人との欲望は、互いに対立し、矛盾し合っています。一個のパンを巡って、常に、争いが生じています。

この言葉の上では矛盾しているように見える生命現象は、『相互作用の思考形式』を使えば、上手く記述できます。言葉を使った思考作業を行わない事がポイントです。

生命現象は、生物と環境との間で生じている生命相互作用の上に成り立っています。

生命現象を含めた全ての物理現象は、相互作用から構成されています。この宇宙を構成している全ての現象界は相互作用から生じています。空間も物質も、相互作用の結果です。(相互作用によって)排他律が生じている部分を「物質」と呼び、その排他律が生じていない部分を「空間」と呼んでいます。
「空間」とは、存在の自由度の事です。排他律が生じていないので、存在状態を自由に変更可能です。この自由度は三つの次元を持っており、各々の次元は、(空間的)広がりを持っています。つまり、物質は三次元空間内に存在しています。そして、この空間内で存在位置を変更可能です。つまり、動き回ることが可能です。

ちなみに、生物と環境の間でも、排他律が生じています。環境と同化しないで、常に、排他的に存在し続けています。もし、排他律が消滅すれば、環境に同化されます。死んだら、土に帰ってしまいます。(生命現象も含めた)全ての物理現象の背景には、相互作用と、(それによって生み出されている)排他律が潜んでいます。

生命現象の構造

生命現象の構造
生命現象は、相互作用の思考形式を使うと、うまく表現できます。

生物と環境は、互いに影響し合っています。相互的な関係です。環境に一方的に支配されているだけの関係ではありません。生物は環境に働きかけ、環境を変えようとしています。

生物は、存在する為に、環境に働きかけ、
生きる為に、その環境を受け入れています。
この相矛盾した二つの『対立と妥協』という相互作用の結果、生物と環境との相対関係は、生物にとって都合のいいある一定の状態に保たれ続けます。

ところが、環境は生物の都合を構ってくれません。無視して、一方的に変化しています。
この為、環境との関係を一定の状態に保つ為には、生物自らが変化して、環境との相対関係を維持し続ける必要があります。このような(環境の変化に合わせて自らを変えていく)生物の姿を、生物学では『適応行為』と呼んでいます。

環境との相対関係を維持出来なかったら、生物は(環境に)破壊されます。(死にます。)
或いは、環境に同化されて、土に帰ります。(死にます。)
環境から離れ過ぎても、近づき過ぎても、どちらでも、自己は保存できません。(死にます。)
常に、一定の距離を保ち続けることが大切です。(付かず離れず)
生命と環境との相互関係の詳細は、制御工学の理論を参照下さい。

環境の身勝手と、生命の生きる努力

環境は、常に生物の都合を無視して、一方的に変化しています。
この為、我々生命には、生きる努力が必要です。
環境との相対関係を自らの都合のいい状態に保つ為に、自ら変化して、環境の変化に合わせる必要があります。常に、その努力が求められています。

環境と対立しながら、同時に、妥協していく事が大切です。我々生命は、いつも、矛盾した相反する二つの行為の狭間で生きています。いつも、進むか退くか、ジレンマに翻弄されています。

生物と環境の距離

生物と環境の距離
生物は、環境との相対関係が、生物にとって都合がいい一定の距離になるように、適応しています。

近すぎると環境と同化してしまいます。死んだら土に帰ります。
逆に、離れすぎると環境からの打撃が大きくなり、破壊されます。ケガで、死にます。
常に、適度な距離を保つ必要があります。付かず離れず。

一方、環境は生物の都合を無視して、勝手に変化しています。
この為、自己を保存する為には、生物の側が変化して、距離を一定に保つよう努力する必要があります。
このような生物の努力を、生物学では『適応行為』と呼んでいます。

近すぎると、環境に同化されます。死んだら、土に帰っていきます。自己と環境との境目が曖昧になります。

遠すぎると、環境の暴力に翻弄されます。寒すぎると凍死します。熱すぎると、熱射病になります。自己が破壊されます。

遠過ぎても、近過ぎても、自己は保存できません。常に、環境との距離を、自己にとって都合がいいある一定の距離に保ち続ける必要があります。
暑ければ日陰に移動し、寒ければ日溜まりに移動する必要があります。

常に、(環境の身勝手さと向き合いながら、)生きる努力が必要です。

時間は運命ではありません。
もし、何もしないと、草花が枯れて朽ち果てるように、我々の肉体も朽ち果ててしまいます。時間(エントロピー)の魔の手に飲み込まれます。

8.3.1 三つの時間

現代科学のドグマを無視して、身も蓋もない冷酷な話をします。
この話には「死の恐怖」が隠れています。敏感な方は、それに触れてしまうかもしれません。

時間は、常識に反して、三種類あります。

(興味が無ければ、読み飛ばす)
我々生命は、『生きる努力』が必要です。その『生きる努力』に伴って、迷いや苦しみが生じています。そのような『生きる努力』と、それに伴う迷いや苦悩は、時間が三種類存在している事と密接に関わっています。

現代の人々は、哲学者も物理学者も含めて、時間は一種類だと思い込んでいます。でも、現実には、時間は三種類存在しています。『繰り返す時間』と、『繰り返さない時間』、『記憶の糸』の三つです。

現代物理学の(『時間』に関する)迷信に惑わされる事なく、目の前の現実と向き合って頂くことを希望します。

三つの時間

3つの時間
時間は、三種類あります。
物理世界は、繰り返す時間と、繰り返さない時間の二つで構成されています。
心の世界は、(繰り返す時間と繰り返さない時間が織りなす)記憶の糸より構成されています。

繰り返す時間』は、天体の運動に顕著に現れています。
昼と夜は、24時間毎に繰り返します。地球が、一日に一回(宇宙全体に対して)自転しているからです。月の満ち欠けは、約一ヶ月周期で繰り返します。一ヶ月掛けて地球の周りを回っているからです。季節は、一年毎に繰り返します。今年も春が訪れたように、来年も春は訪れます。地球が、一年掛けて太陽の周りを回っているからです。

繰り返さない時間』は、火が燃える現象や、生命現象に顕著に現れています。
一度燃えてしまった物は、二度と燃える前の状態に戻る事はありません。生物は、一度死ぬと、二度と蘇る事はありません。一回切りの(やり直しが効かない)現象です。

記憶の糸』は、心の中の事象です。
『繰り返す時間』と『繰り返さない時間』が織りなす一本の糸になって、我々の心の中に残り続けています。この糸を手繰る事で、過去を思い出す事が可能です。

現代人が持っている時間の先入観は、『繰り返す時間』から作り出されています。だから、時間は運命論的、つまり、未来は確定していると思い込んでいます。

でも、時間には、『繰り返さない時間』も含まれています。この為、未来は不確定になっています。それ故、我々生命には、『生きる努力』が必要です。不確定な未来から、自分に都合がいい未来を選択しようと四苦八苦しています。でも、その力は、極めて細やかです。

それ故、この努力に伴って、様々な苦悩や迷いが生じています。細やかであるが故に、無力であるが故、戸惑いと迷いに翻弄されています。


三つの時間と歴史観

物理時間が二種類あることから、どこに、より重点を置くかによって、文明によって、歴史観が大きく異なっています。

三つの時間と歴史観

三つの時間と歴史観
インドでは、「時間は繰り返すもの」と認識しています。
一方、中国や欧米では、「流れるもの」と認識しています。

地球と太陽と宇宙全体。
この三体間の相対的存在状態は変化せず、(振動を繰り返しながら)一定に保たれ続けます。
これが、我々人間には「地球が太陽の周りを回っている。」ように見えています。理由は不明です。でも、実際、一年後には、また、元の状態に戻ります。春は、また巡ってきます。
繰り返す歴史観の根拠です。

なお、現代物理学では、「宇宙全体」という概念は、まだ、明確には自覚されていません。漠然と「空間」という概念で理解しています。
だから、「宇宙全体」を「空間」と置き換えて頂くと、現代の物理学者でも理解可能な概念になります。彼らは「空間の中に、太陽と地球が存在していて、地球は太陽の周りを回っている。」と理解しています。現代物理学の発想に従うなら、空間は、宇宙全体が、太陽と地球の近傍に作り出している「場」のことです。

インド文明は、伝統的に、「時間は繰り返すもの」と見なしています。輪廻転生に見られるように、命は生死を繰り返していると見なしています。
この副作用として、時間の順番を記述すること、即ち、歴史には無頓着です。インドの歴史では、時間の順番が記述されていないので、年代の特定に非常に苦労します。平気で、百年程度の誤差が常に存在しています。
悠久の時の繰り返しの中で、この一瞬に拘ることは無意味と思っているのでしょう。

でも、良いこともあります。命は輪廻転生しているので、つまり、生まれ代わるので、死の恐怖からは解放されています。
注)輪廻転生は、本来は、仏教とは無関係です。インドの土着信仰が混入したものです。

一方、中国文明や欧米文明は、川のように「時間は流れるもの」と見なしています。
この為、流れの順番を記述することには神経質です。何年何月何日に何か起こったか、歴史が比較的正確に記述されています。年代の特定が比較的容易です。

でも、悪いこともあります。流れ着く先が「天国か地獄か」で、常に、死の恐怖に怯えています。苛まれています。
注)再生はありません。



注)『時間、空間、物質』は存在する実体ではない。

(厳密な話をすれば、)時間も空間も物質も、存在する実体ではありません。(我々の存在している)この宇宙は、そのような実在物で構成されている訳ではありません。
今話題となっている時間も、実在物として存在している訳ではありません。

これらは、脳内部の情報処理の形式です。意識知覚している全ての事象は、自らの欲望が(脳内部に)生じさせたものです。

我々動物は、(生きる為に、脳内部に)このような仮想空間を作り出して、そこに、外部感覚器官からの信号をマッピングしているに過ぎません。そして、実際の行動は、ここ(仮想空間)にマッピングされた情報に基づいて起こしています。

外部感覚器官で知覚された信号は、電気的パルス信号となって(神経細胞上に乗って)脳内部に流れ込みます。そのパルス信号は、情報処理が施されて、仮想空間上にマッピングされます。そして、実際の行動は、この仮想空間にマッピングされた情報に基づいて行われます。

この仕組みは、動物進化五億年の実績によって最適されているので、日常生活の範囲内では不具合を感ずる事はありません。目で見たコップを、何の疑念を抱かずに、手掴みできます。それ故、唯物論者は、この仮想空間上の信号の塊を「存在する実体だ。」と錯覚しています。

なお、意識感覚器官が知覚対象としている事象は、この仮想空間と、そこにマッピングされた信号の塊です。実体ではありません。
宗教的に、或いは、哲学的に、或いは、心情的に、受け入れ難いとは思いますが、それが現実です。現実と向き合って頂くことを希望します。

現実世界から仮想世界への投影

現実世界から仮想世界への投影
動物は、外部感覚器官から得られた電気信号を、
1) 『自己、時間、空間、物質』という情報の処理形式(仮想空間)の上に、マッピングしています。
2) そして、このマッピングされた情報に基づいて行動を起こしています。<< ここ重要。
3) なお、現実世界の真の姿は不可知です。我々は、認識された範囲内でしか理解できません。

この仕組みは、動物進化五億年の実績によって、最適化されています。従って、我々は、見たままに行動しても、不都合を感じることはありません。実際、目の前のコップは、何の疑念も抱かずに手掴みできます。(システムが最適化されているからです。実在物だからではありません。そう信じたい気持ちは分かりますが。)
この情報処理の形式は、犬たちも持っています。動物進化を共有しているので。それ故、犬と人間の間では、共通のゲーム(鬼ごっこ)が成り立ちます。

(仮想空間へ)マッピング出来る信号は視覚情報だけではありません。目の不自由な方は、イルカやコウモリ同様、聴覚情報も、そこそこの精度でマッピング可能です。このマッピングされた聴覚情報に基づいて、我々と同じような正常な行動が可能です。(多少のハンディはありますが。)ちなみに、イルカやコウモリは、我々の視覚と同程度に、正確な行動が可能です。超音波を利用しているので、小さな物体の識別も可能です。真っ暗な洞窟で暮らす昆虫は、触覚からも、このような空間認識を作り出すことが可能みたいです。
我々普通の人間も、音のした方向に振り向く事はできます。能力は貧弱ですが、聴覚情報からも、空間認識は可能です。人間は、視覚情報に、強く執着しています。聴覚や嗅覚は、疎かにしています。かつて木の上で暮らしていたサルという動物の宿命です。

なお、現実世界は、(厳密には)不可知です。我々は、あくまでも、認識された範囲内でしか現実世界を知ることはできません。外部感覚器官から脳に向かって流れているものは、あくまでも、電気的パルス信号に過ぎないからです。外部感覚器官は知覚した情報を、神経組織上を流れる電気的パルス信号に変換して、脳に送っています。そのパルス信号を、脳内部で再構成して、仮想空間にマッピングして、信号の意味を理解しているに過ぎません。
つまり、外部感覚器官からの信号を、『自己、時間、空間、物質』という形式に正規化しています。そして、この正規化された情報から、行動を生じさせています

唯物論者は、意識感覚器官が知覚している脳内部の仮想空間を実体だと思い込んでいます。仮想空間の情報に基づいて行動しても、日常生活では不具合を感じないからです。目の前のコップを、何の疑念も抱かずに手掴みできるからです。それが、動物進化五億年の実績によって、最適化された結果に過ぎないことに気が付いていません。(自らの欲望の働きを、克服出来ていません。この欲望のもう少し先には、死の恐怖が横たわっています。)

現代物理学は、今、この壁に突き当たっています。
日常生活の範囲内、つまり、ニュートン力学が成り立つ範囲内なら、この形式で上手く理解できました。ところが、現代物理学は、日常から遥かに乖離した極限の物理現象を扱うようになってきました。ミクロな素粒子の世界とか、マクロな銀河系や宇宙全体などの世界は、今まで、人間という動物が生きてきた事のない世界です。
従って、脳内部の情報処理が最適化されていません。つまり、『時間、空間、物質』という思考の枠組みでは理解できなくなりました。この為、「時間と空間の相対性」とか、「空間は曲がっている」、「不確定性原理」、「波と物質の二重性」、「物理量の不連続性」といった極めてテクニカルな概念を導入して、無理やり辻褄を合わせているのが現状です。まるで、天動説末期の「周転円」を彷彿とさせます。

ここでは、この壁を乗り越える為の作業を行っています。従って、現代の科学的常識とは、大きく懸け離れた(意味不明の)話になっています。残念ですが、自分もこの問題は、まだ解けていません。試行錯誤の真っ最中です。

重要な注意事項
この問題を深く考え過ぎると、死の恐怖に触れるかもしれません。その時は、取り敢えず、目を逸らして別の楽しみを見つけて下さい。
その意味を知りたければ、原始仏教と空の哲学や、知的生命体の心の構造が参考になるかもしれません。最終的には、死の恐怖を乗り越える必要があります。

8.3.2 繰り返す時間

『繰り返す時間』は、天体の運動と関連した事象に、顕著に現れています。

一日は、24時間毎に繰り返します。毎日、東の空から太陽は昇り、西の空に沈みます。潮の満ち引きは、約12時間毎に繰り返しています。一日に二回、干潮と満潮が繰り返します。地球が24時間掛けて、自転している為です。
月の満ち欠けは、約一カ月毎に繰り返します。月が約1ヶ月掛けて、地球の周りを回っている為です。
季節は、一年毎に繰り返します。今年も春が訪れたように、来年も春は訪れます。地球が一年掛けて太陽の周りを回っているからです。

それ故、(繰り返しているが故に、)『繰り返す時間』は、未来も過去も確定しています。運命論的です。実際、天体の位置は、過去も未来も、一意に計算可能です。いつ、日食や月食が起こるかは、過去についても、未来についても、計算可能です。

我々人間の時間の先入観は、この『繰り返す時間』を念頭に置いています。時間は、運命的に決まっているものだと思っています。時間の運命論を信じています。

だから、希望を持って、辛い冬も耐える事が出来ます。春がやってくる事を確信しているからです。
もし、(破局的気候変動によって、)春がやってくるかどうか分からなければ、多くの人々は、絶望の淵に追いやられてしまいます。とても、耐える勇気など湧いてきません。



輪廻転生

なお、仏教の『輪廻転生』は、この繰り返す時間とは直接の関係はありません。

人は、よく、頬杖をついて「男は、もう懲りた。」と、ため息をつきます。でも、そのため息の底から寂しさが顔を覗かせ、その寂しさが、(繰り返し、繰り返し、懲りもせず、また、新しい)男を求めていきます。いつも「今度こそは。」と淡い希望を抱いて。
心に寂しさがある限り、何度でも、何度でも、繰り返し、繰り返し、同じ間違いを繰り返します。

「欲望を持ち続ける限り、その欲望によって、(繰り返し、繰り返し、)同じ間違いが繰り返される。だから、その欲望への拘りから離れることが大切だ。」という話が、いつの間にか、(インドの土着信仰と結びついて、)「命は、生と死を繰り返している。悪い行いをすると、虫けらに生まれ変わってしまう。」という仏教を象徴する生死観や倫理観に変わってしまったみたいです。
実際、原始仏教の経典にも、このような土着信仰を前提とした記述が散見されます。しかし、もちろん、人々の関心事として話題にしているだけで、仏教の根本理念として説いている訳ではありませんでした。

後期仏教の『輪廻転生』の教義自体は、生への執着に過ぎません。死からの現実逃避です。拘っているからこそ、「(その恐怖から)逃げたい。」という欲望に振り回されています。「命は永遠だ。輪廻し、転生を繰り返している。」と、永遠への淡い願望にしがみついています。。。。。。。。原始仏教には、そのような考え方はありませんでした。寧ろ、そのような「生と死への執着と拘り」から離れる事が大切と説いていました。


繰り返す時間の物理的意味

この話は、物理学の知識が若干必要です。興味が無ければ、読み飛ばして、次の「繰り返さない時間」にお進み下さい。

繰り返す時間は、物理学的には、(宇宙全体との)定常な存在状態を意味します。
定常な存在状態なので、この状態は安定しています。(安定しているが故に、この安定した存在状態は)未来永劫続きます。即ち、繰り返す時間(変化)は、未来永劫繰り返します。

例えば、「宇宙全体」と「太陽」と「地球」の三体間の相対的存在状態は安定しています。それ故、この安定した定常な存在状態は長く続きます。この三体間の安定した定常な存在状態を、我々人間は、(宇宙全体の中で、)地球が太陽の周りを回っていると理解しています。
この定常な公転運動(存在状態)は安定しているので、今年も春が訪れたように、来年も春は訪れます。長期間続きます。

三体問題。宇宙全体と太陽と地球

宇宙全体と太陽と地球
宇宙全体は、現代物理学流に解釈すると、物体の周りに形成されている場(空間)のことです。我々は、これを『空間』と認識しています。
厳密には、『空間』は物理的意味での実在物ではありません。意識の知覚対象なので、脳内部の事象です。脳内部の情報の処理形式に過ぎません。

宇宙全体、太陽、地球の三体間の相対的存在状態は安定しており、このままの定常な安定した状態は未来永劫続きます。(少なくとの人類の歴史が続く範囲内では、この状態は続きます。逆に、想定外の巨大な天体が地球に衝突した場合は、地球と太陽の相対関係も変わって、人類の歴史も終わります。)
この三体間の定常な存在状態を、我々人間は、地球が太陽の周りを廻っていると観察しています。
つまり、『繰り返している』と見えています。

なぜ、そう見えるのか。なぜ、定常な存在状態が、公転運動や振動現象などの『繰り返す変化』として観察されるのか、その理由は不明です。

参考)『繰り返さない時間』は、このような三体間の定常な存在状態が、別の定常な存在状態に遷移する事を意味しています。詳細は、繰り返さない時間を参照下さい。

天動説と地動説

ちなみに、「地球」と「宇宙全体」との間で生じている安定な存在状態は、「地球が(宇宙全体に対して、一日一回、)自転している。」と、我々には見えています。やはり、『繰り返している』と見えています。
この自転(宇宙全体と地球との相対運動)も、安定な存在状態なので、未来永劫続きます。

余談かもしれませんが、この相対運動を、(地球を基準にして、)「(地球の周りを、)宇宙全体が、一日掛けて回っている。」と理解しても、別に間違いではありません。天動説でも問題ありません。相対運動なので、どちらを基準にとって理解するかは自由です。(昔の人のように)地球を絶対的基準にすれば、宇宙全体が地球の周りを一日掛けて回っているように見えますし、(今の人のように)宇宙全体を絶対的基準にすれば、(宇宙全体に対して、つまり、空間に対して、)一日掛けて自転しているように見えます。基準の取り方によって、違ったように見えているだけです。

「物理学の真理を否定する暴論だ。」という健全な常識は、科学的迷信や先入観に過ぎません。全ての物理現象は、相対的であって絶対的ではありません。絶対的基準などありません。(現状の知識を勘案して、)最もマシな基準があるだけです。

相対現象の基準の取り方、見え方
仮説基準理解
天動説地球地球の周りを、一日に一回、宇宙全体が回っている。
地動説宇宙全体宇宙全体に対して、地球が一日一回自転している。
天動説も地動説も間違っている訳ではありません。
基準の取り方によって、見え方が異なっているだけです。
全ての物理現象は、相対的であって、絶対的ではありません。(「絶対的基準がほしい」という願望は理解できますが。)
天動説と地動説
図名
地球と宇宙全体との相対運動を理解する方法は、どちらを基準に取るかによって、二種類あります。

地動説では、宇宙全体を基準にして、『(宇宙全体の中で)地球が自転している。』と理解しています。
天動説では、地球を基準にして、『宇宙全体が地球の周りを回っている。』と理解します。
なお、『宇宙全体』という概念を、現代の物理学者は『空間』と理解しています。)

でも、どちらが正しいかは微妙な問題です。全ての物理現象は、相対的です。絶対的基準などありません。基準の取り方によって、様々な見方が出来ます。
現実は、(人間視点に正直になれば)『太陽は東の空から昇って、西の空に沈む。』だけです。(現実は)たった、それだけです。地球が自転しているという見解は、科学的先入観、科学的迷信にすぎません。(実際、宇宙飛行士以外、この自分の目で、地球が自転している現場を観察した人間はいません。多くの人々は、科学的迷信を、盲目的に信じているだけです。)

真理だと思い込んでいる全ては、科学的迷信かもしれません。

なお、なぜ、定常な存在状態が、公転運動や自転運動、振動現象に見えて仕舞うのか、(即ち、「繰り返している。」と見えて仕舞うのか、)その理由は(まだ)分かりません。振動現象も定常な存在状態のいち断面だと思うのですが、分かりません。ここに、宇宙の構造を解く手掛かりがありそうです。

以上が、繰り返す時間と定常な存在状態の関係です。

ここでは、(宇宙全体と太陽と地球の間で生じている)安定した定常な存在状態を、『繰り返す時間』と表現しています。我々には、そう見えてしまう為です。

注)宇宙全体との相対関係

物理現象は、相対的であって絶対的ではありません。だから、常に、相対関係が問題となります。
全ての物理現象は、(生命現象も含めて、)最終的には、宇宙全体との相対関係が問題になります。
つまり、「全ての物理量は、(最終的には、)宇宙全体との相対関係において定義される。」。宇宙全体だけが、宇宙の全ての場所で平等に成り立っている共通の物差しだからです。我々生命の存在も、最終的には、宇宙全体との相対関係として理解する必要があります。生命も、この宇宙を構成する現象の一部です。「リンゴが木から落ちる。」のと同じ必然的現象です。

なお、現代の物理学者は、『宇宙全体』の事を、『空間』又は『場』と呼んでいます。まだ、残念ながら、明確には『宇宙全体』という概念を自覚していません。

8.3.3 繰り返さない時間

『繰り返さない時間』は、生命現象や火が燃える現象に、顕著に現れています。

人は、一度死ぬと、二度と蘇る事はありません。人生は、一回切りの現象です。
一度燃えてしまった物は、二度と元に戻る事はありません。こちらも、同様に、一回切りの現象です。
歴史に、もしもはありません。やはり、同様に、やり直す事は出来ません。

方丈記の一節です。世の中は、流れる水のように、常に流転しています。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

水の流れは、時間が流れていくように、とうとうと流れていますが、しかし、その流れは、元の水が繰り返し繰り返し流れている訳ではありません。同じに見えても、その水は、いつも入れ替わっています。常に、別の水が流れています。

『繰り返さない時間』は、繰り返していないが故に、未来は不確定です。
明日の天気は、誰にも分かりません。最近は天気予報の精度が上がったので、そこそこ当たりますが、それでも、結構外れます。台風の予想進路は、ギャンブルよりは遥かにましですが、それでも、なかなかドンピシャとは当たりません。
一番肝心な問題、「自分はいつ死ぬか?」も分かりません。よどみに浮かぶ うたかた(泡)の運命が分からないように、自分の運命も分かりません。未来は、いつも不確定です。

繰り返さない時間の物理的意味

この話は、物理学の知識が若干必要です。興味が無ければ、読み飛ばして、次の「記憶の糸」にお進み下さい。

『繰り返さない時間』は、分子や原子などよりも、もっと、ミクロな素粒子の世界に目を向けると、その物理的意味が明らかになります。

原子は、「原子核」と「電子」の二つの素粒子より構成されています。電子は原子核の周りを回っています。電子は、飛び飛びの不連続な軌道を回っています。光エネルギーを吸収すれば外側の軌道に遷移します。光エネルギーを放出すれば内側の軌道に遷移します。

この現象を、『宇宙全体』と『原子核』と『電子』の三体問題と理解するなら、光エネルギーの入出力によって、この三体間の存在は変化します。もし、光エネルギーの入出力が無ければ、この存在状態は安定して、未来永劫続きます。丁度、(マクロな現象である)太陽と地球の関係のように、安定した状態が未来永劫続きます。

三体問題

3体問題
現象は、宇宙全体と、原子核と電子の三者間の相互作用で構成されます。

三体間の物理的存在状態は、二つから構成されます。

三体間の相対関係が変化しない定常状態と、
三体間の相対関係が変化する非定常状態です。

定常状態を、我々は繰り返す時間と認識しています。そして、電子が原子核の回りを回っていると理解しています。ちょうど、地球が太陽の周りを回るように。
非定常状態、即ち、存在状態の変化を、繰り返さない時間と認識しています。

なお、存在状態が変化する場合は、光の出入りが起ります。光を吸収すると、電子は外側の軌道に遷移します。また、内側の軌道に落ちると光を放出します。形式的には、『光』は存在状態を変化させる原因と見えます。

注)『光』は、物理的には、「存在状態を変更する原因」、或いは、「存在状態が変更した結果」という意味を持っています。原因と見るか、結果と見るかは、見る方向によって変わります。でも、根は同じものです。存在状態が変化する時に、関わっているものです。『エネルギー』という概念も、『光』と同じような意味を持ちます。存在状態が変化する時に、関わっているものです。これを、現代の物理学者は、『光』とか『エネルギー』と呼んでいます。「鶏が先か、卵が先か」の問題に過ぎないのですが。

注)なお、原子核自身は内部構造を持ちます。複数の陽子と中性子から構成されます。当然、この原子核にも、(内部構造を持っているので、)存在状態の変化が起こっています。原子核も分裂して、存在状態が変化します。この時に、(原爆のような核分裂では)莫大なエネルギーの放出が起ります。丁度、電子が内側の軌道に遷移する時に、光が放出されるように。より内側の存在状態の変更なので、電子の遷移とは比較にならない程の巨大なエネルギーの入出力が起ります。

このような内部構造は、陽子や中性子などの素粒子にも見られます。素粒子も崩壊、即ち、存在状態の変更によって、大量の「光」や「エネルギー」を放出します。つまり、周りの存在状態を変化さます。光やエネルギーは、「存在状態を変化させる原因」の事だからです。

繰り返さない時間は、(宇宙全体と原子核と電子の三体間の)相対的存在状態の変更を意味します。新しい存在状態への移行を意味します。
新しい存在状態への移行なので、一度、移行してしまったら、元に戻る事はありません。前と同じ状態になる為には、新しい現象が生じる必要があります。その新しい現象が、いつ起こるかは誰にも分かりません。

生命は『生』から『死』の存在状態に移行したら、もう、二度と元の『生』の存在状態に戻る事はありません。(新しい『生』が生まれるだけです。)即ち、繰り返さない時間(変化)は元に戻る事はありません。

元に戻す為には、宇宙全体の存在状態を元に戻す必要があるからです。宇宙全体の存在状態の変更が必要です。そんな事、不可能です。死者の存在状態だけでなく、今生きている生者の存在状態までもが、変更されてしまいます。

生命の存在基盤

ここに、生命の存在基盤があります。
我々生命は、常に、新しい存在状態を獲得しようと努力しています。(自分の存在を無視して、)一方的に変化している環境に対して、自己に都合が良い存在状態を維持しようと、(必死に)生きる努力を続けています。宇宙全体との相対的存在状態を、(近視眼的には、自分を取り巻いている近傍の環境との相対的存在状態を、自分に都合が良い方向に)変更しよう努力しようとしています。このような生物の姿を、生物学では『(環境変化への)適応行為』と呼んでいます。

生命と環境と宇宙全体

生命と環境と宇宙全体
生命は、自己と環境と宇宙全体との相対的存在状態を、自己に都合がいいように変えようとしています。これを、生物学では、『適応行為』と呼んでいます。

存在状態を変更する為には、エネルギーが必要です。それ故、生命が生命として存在する為には、存在状態を変える為の(利用可能な)エネルギーの流れが、そこに存在している必要があります。

しかし、現実は、環境の暴力に一方的に翻弄されているだけです。それに耐えて、必死に努力しています。
こうような生命の姿は、この宇宙の構造と密接に結びついています。生命は、(近傍の環境を通して、そして、最終的には、宇宙全体との相対的)存在状態の変更を目指しています。決して、(生命は)偶然の産物ではありません。

ここでは、このような(宇宙全体と原子核と電子の三体間の)存在状態の変化を、『繰り返さない時間』と表現しています。物理学的に厳密な話をする場合、原子よりも小さな素粒子の知識が必要になるので、詳細は省略します。

直観的には、『繰り返さない時間』は「(宇宙全体との)存在状態の変更」の意味なので、『生』と『死』の問題として理解して頂くと便利です。
『生の存在状態』から、『死の存在状態』に移行したら、元の『生の存在状態』に戻る事はありません。『生』から『新しい生の状態』への移行過程は、『適応行為』と呼ばれています。生命とは、存在状態を変えようとする力だからです。(ブロンズの像のような)物質の並びの問題ではありません。(内向きの力が働いた)動的な現象です。

『繰り返す時間』が、定常な存在状態を意味しているのに対して、『繰り返さない時間』は、そのような(定常な)存在状態の変化や変更を意味しています。新しい定常な存在状態への移行を意味しています。
このように、存在状態が変化する場合、エネルギーの入出力が起ります。逆に、存在状態を変更する為には、エネルギーが必要です。そこに利用可能なエネルギーがある場合は、広く生命は存在しているように見えます。実際、地球上の生命は、様々なエネルギーを利用しています。深海の熱水噴出孔では、(地下から湧き出している)硫化水素をエネルギー源とした生態系も存在しています。

注)「宇宙が有限である事」と、「物理量が不連続な事」との関係について

我々が観測する物理量は不連続になっています。飛び飛びの値となっています。
このような不連続性が現れるのは、我々の存在しているこの宇宙が有限な為と思われます。宇宙の有限性が、物理量の不連続性となって現れています。もし、宇宙が有限なら、その相対的存在状態も有限となるからです。無限なら、その相対関係も無限となるからです。

全ての物理現象は、最終的には、宇宙全体との相対関係として理解されます。
我々の生命の存在も、常に、宇宙全体との相対関係の上に成り立っています。だから、生命の問題も、追及していくと、この宇宙全体との問題に突き当たります。

注)太陽と地球の関係は、定常な存在状態ではない

(厳密な話をすると、)太陽と地球の関係は、定常な存在状態ではなくて、原子核と電子の関係のように、その存在状態が常に(確認できない程に、ほんの僅か)変化しています。

だだ、入出力するエネルギーの量が、相対的に小さいので、見かけ上は、ほとんど、変化していないように見えるているだけです。
地球に隕石が衝突しても、地球の質量に比べて、隕石の質量は無視できる程に小さいので、地球の軌道は、全く変化していないように見えています。でも、そんな小さな隕石でも、たくさん当て続ければ、少しづつは変化します。

これが、「ミクロな素粒子の世界では物理量が不連続なのに、マクロな人間サイズの物理現象では連続しているように見えてしまう」原因です。「相対的物理量の差」の問題です。光のエネルギーも、ミクロな素粒子の世界では、相対的に大きな変化を引き起こしますが、マクロな世界では、ほとんど影響が現れません。たくさん集まって、やっと、変化が確認できます。

8.3.4 記憶の糸

そして、記憶の中の時間は、この二つの時間が織りなす一本の糸になっています。

この『記憶の糸』は、瞬間瞬間の累積なので、未来はありませんが、過去は(『繰り返す時間』と『繰り返さない時間』から)紡がれた糸として存在しています。一本の『記憶の糸』になっています。この『記憶の糸』を手繰って、過去を思い出す事はできます。我々人間は、(意識器官を使った過去の再体験として、)過去を、もう一度、意識知覚する事ができます。(多少、改竄されていますが。)

8.3.5 物理世界の構造と、生きる努力

我々の存在しているこの物理世界は、『繰り返す時間』と『繰り返さない時間』の二つの時間から構成されています。『繰り返さない時間』が含まれているので、結果として、未来はいつも不確定です。我々を取り巻いている環境は、自分の都合を無視して、一方的に変化しています。決して、(自分の都合を)構ってくれません。

それ故、我々生命は、生きる努力が必要になっています。(構ってくれない環境相手に、)不確定な未来から、自分に都合がいい未来を選択しようと、いつも四苦八苦しています。その力は、極めて細やかです。細やかであるが故に、選択肢が限られて、いつも迷いと苦悩に苛まれています。いつも、自分の無力さを思い知らされています。

注)コンピュータ制御

我々が、コンピュータを使って制御可能なのも、この『繰り返さない時間』の存在と関連しています。

もし時間が『繰り返す時間』だけなら、未来は運命として確定しているので、制御は不可能です。制御しようがしまいが、結果は変わらない筈です。
制御によって、未来の存在状態が変更可能なのは、未来が不確定な為です。


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