2022/06/14 うつせみ

生物が進化しているのは事実です。
しかし、ネオ・ダーウィニズムは間違っています。

自然選択説は、人為選択の類推から作り出された事からも分かるように、自然の擬人化です。自然を擬人化して説明を試みています。
それ故、物理的作用の因果関係が成り立っていません。論理的に破綻しています。
これは、自然科学の理論ではありません。残念ですが、疑似科学です。

ここでは、自然選択説と突然変異説の騙しのテクニックを解説しています。

自然選択説は、自然の擬人化による説明です。
突然変異説は、天地創造神話の一種です。
凡そ、自然科学とは無縁な説明手法です。
自然科学と(余りにも)かけ離れているので、何処から話を始めたらいいのか、途方に暮れてしまいます。論理的批判が、全く意味を成しません。暖簾に腕押しです。

1. 始めに

話しを混乱させない為に、「生物が進化している事実」と、「その仕組みの説明」は分離して考察する方が賢明です。ここでは、事実は肯定しています。しかし、仕組みの説明は否定しています。自然選択説は疑似科学です。(突然変異説も。)

現代の進化論争の複雑怪奇さは、事実と仕組みの説明が混然一体となっている事です。この二つの問題を混同しているので、訳が分からなくなっています。
過去の(宗教上の)教義論争のなごりなのか、仕組みの説明(自然選択説)が、(進化の)事実を正当化しようと必死です。「教義(自然選択説)が否定されたら、神(進化)も否定される。」と、思い込んでいる節があります。教義(手段)が事実を正当化しています。教義が否定されたら、事実も否定されると恐れ慄いています。本末転倒しています。そのように見えます。

そこで、ここでは、次の三つの問題を厳密に区別して論じています。

  1. 生物は進化しているか?(事実関係)
  2. ネオ・ダーウィニズム(正統派進化論)は正しいか?(仕組みの説明の妥当性)
  3. 正統派進化論に代わる新しい進化論の枠組みは?(代案)



一番目の問題:生物は進化しているか?->肯定

生物は進化している。」です。

厳密には、「変遷している。」です。生物は、時の流れと共に、少しづつ姿形や生存形態が変化しています。

しかし、この事実関係に関する問題は、ここでは論じていません。化石などの資料で、既に証明されていると考えているからです。
進化の仕組みは説明できなくても、事実は事実として受け止めることが大切です。


生命現象の全体像と生物進化の位置づけ。

生物進化の現象を論ずる為には、まず、生命現象の全体像を把握する必要があります。そうすれば、見通しが良くなって、現代進化論のような疑似科学にも翻弄され辛くなります。ここが、現代生物学は見えていません。

生命現象は、自己保存系の環境変化への適応行為です。

この自己保存系は、地球の生態系においては階層構造を持ちます。
最も下位の自己保存系が細胞です。
細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。
個体の集合によって、種のレベルの自己保存系が構成されています。
最も上位の自己保存系が生態系です。

生物進化の現象は、このような自己保存系の階層構造の中で、種のレベルの自己保存系の振る舞いに関する現象です。あくまでも、生命現象の一部です。自己保存系の振る舞いの問題です。

ダーウィンが述べたのは、「種の起源」であって、「個体の起源」ではありません。また、今西錦司氏は、「そこで保存されている自己は種である。」と述べています。あくまでも、保存されている自己は種です。個体ではありません。

参考)地球上の生命現象における自己保存系の階層構造

自己保存系の階層構造
地球上の生態系においては、自己保存系は、階層構造を持ちます。他の天体については、データがないので分かりません。
最も下位の自己保存系は細胞です。
細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。
個体の集合によって、種のレベルの自己保存系が構成されています。
種(ゲンプール)の集合によって、この地球上の生態系が構成されています。

今西が述べているように、(このような生命現象を構成している自己保存系の階層構造の中で、)生物進化の現象は、種のレベルの自己保存系の環境変化への適応行為です。そこで保存されている自己は種です。
あくまでも、生命現象の一部です。ごく平凡な自己保存系の環境変化への適応行為の一種です。特殊な現象ではありません。

気候変動等の原因で生態系が崩壊すると、多くの種が絶滅します。絶滅によって生活の場に空席が出来ると、また、(生活の場と遺伝子との相互作用によって、)それを埋めるように適応放散が起こります。生物進化、即ち、種の変遷は、これの繰り返しです。なお、多重遺伝子族の仕組みが少しずつ変化しているので、適応放散のパタンも少しずつ変化しています。前回と大体似ていますが、少し異なっています。


現代生物学が、個体に異常に拘るのは、人間という動物が個体レベルの自己保存系だからです。それ以外の合理的理由はありません。

細胞と種の間には、詳細に観察すれば、(結び付きの強弱を別にすれば、)様々な階層の自己保存系が存在しています。群体、個体、白アリのコロニー、狼や人間の群れ etc。中間の自己保存系は、個体だけではありません。

生物学的には、個体に拘る理由は何処にも無いように見えます。現実は、遥かに、フレキシブルです。秋になれば木々が葉を落とすように、上位の自己保存系、即ち、種(ゲンプール)を維持できれば良いだけのように見えます。実際、人間の体の中でも、日々大量の細胞がアポトーシスしています。そこを支配しているのは、あの悪名高い「組織の原理」です。

歯車のひとつ(人間)が、自己の存在意義を必死に主張したい気持ちは理解できます。人間には、そのような欲望が存在することは理解しています。

でも、個体(人間)への拘りを克服されることを希望します。個体への拘りは、自己の欲望への拘りです。冷酷に現実を観察されることを希望します。

このような生命現象の全体像の中で、今問題となっている生物進化の現象を理解する必要があります。
生命現象は、自己保存系の環境変化への適応行為です。生命現象の一部である生物進化の現象も、この一部です。つまり、環境変化への適応行為の一種に過ぎません。そこで保存されている自己は、今西も述べているように種です。ダーウィンが述べたのは「種の起源」です。個体の起源を論じた学問ではありません。あくまでも、思考対象は種の変遷です。

現代の生物学者が個体に異常に拘るのは、自分自身が個体レベルの自己保存系だからです。「自分の存在には、意味と価値がある筈だ、」と、必死に自分の存在意義に拘っている為です。現実は、(ただの単なる)歯車のひとつに過ぎないのですが。

なお、単細胞生物については、情報不足から、よく分かりません。単細胞生物は仕組みが単純な為、逆に、生命としての自由度が高く、遺伝子の水平伝播が広い範囲で起こっています。厳密に、種(ゲンプール)の範囲を定義出来るのか、甚だ疑問です。

多細胞生物の場合、(個体を構成する)細胞間の相互の依存と制約が厳しく、遺伝子の通用する範囲も狭くなっています。我々高等生物は、「生命としての自由と可能性」を捨て、その代償として、ある特定の状況に特化しています。この特化を進化だと錯覚しています。
特化したシステムの部品は、他に流用が利き辛い傾向があります。だから、遺伝子を組み替えても、(遺伝子自体が他の遺伝子と相互に関連し合っているので、)期待通りに機能しない可能性があります。何処かに副作用が出る可能性があります。「良いとこ取り」の願望は破綻します。ただでは、ものは手に入りません。常にトレードオフです。そもそも、資源自体が常に有限なので。
遺伝子を組み替えてスーパーマンを作っても、食料問題やエネルギー問題で躓きます。「腹が減っては戦ができぬ」です。常に飢餓状態に置かれている生物にとって大切なことは燃費、つまりエネルギー効率です。余分な機能は、この燃費を悪化させます。飢餓を生き残ることができません。このジレンマに直面しているのが薬剤耐性を持った細菌です。抗生物質環境下では有利ですが、これが無い環境下では、これが仇となります。
だから、逆に、(多細胞生物の場合は)ゲンプールの範囲、つまり、種を定義するのは比較的容易です。

学問の世界はドグマで硬直化していますが、現実の世界は遥かにフレキシブルです。



二番目の問題:正統派進化論は正しいか?->否定

ネオ・ダーウィニズム(正統派進化論)は間違っている。」です。

これが、この章のメインテーマです。
これは自然科学の理論ではありません。疑似科学です。人間を納得させることには成功していますが、自然科学の説明には失敗しています。
ここでは、その騙しのテクニックについて、考察しています。

生物進化の現象は、物理現象です。従って、物理的作用の因果関係に基づいて、仕組みを説明する必要があります。

ところが、この説は、物理的作用の因果関係に基づいて説明されていません。『いい。わるい。』の価値観を使って説明しています。「生存に都合がいい変異が自然選択された。」と。

「都合がいい」は、物理的作用ではありません。現象を観察した結果、心の中に生じる「いい、わるい」の価値判断です。心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。「いい、わるい」の価値判断が原因となって物理現象が起こる事はありません。因果関係が成り立っていません。因果関係が成り立っていないので、この説が主張するような仕組みで物理現象が起こる事は不可能です。この説は、主張そのものが、矛盾しています。論理的に破綻しています。

「いや、自然も何からの判断と、それに基ずく選択を行っている筈だ。」と考えるなら、これは、自然と人間の同一視、即ち、自然の擬人化です。人為選択の類推から、「自然も同じ事をしている筈だ。」という素朴な同一視と混同です。

それに、時間の順番も逆です。
「いい、わるい」の価値判断は、進化現象を観察した結果起こります。進化現象の後です。進化現象が始まる前に起こっている事象ではありません。時間が後の現象は、時間が前の現象の原因になることは出来ません。つまり、「都合がいい個体」が、原因になって、自然選択が起こることはありません。原因と結果の因果関係は、時間の順番に従って起こります。主張そのものが、時間の順番に関しても、破綻しています。
(でも、多分、理解して頂けないですね。正統派進化論は、「生存に都合がいい変異が(原因になって)自然選択された。」と主張している筈なのですが。)
自然選択説は、自然科学の説明には失敗していますが、人間と言う動物を納得させることには完璧に成功しています。

因果関係の順番:生物進化の現象 -> 人間が観察 -> 「いい、わるい」の価値判断

もし、(現実に目を向けた)論理的思考が可能なら、話は以上です。ここで終わりです。これ以上、読んで頂く必要はありません。ここから先は、騙しのテクニックの解説です。

二通りの説明方法

人間は、物事を説明する時に、本質的に全く異なった二つの方法を、(自覚する事もなく)臨機応変に使い分けています。ひとつは、「いい、わるい」の価値観を使った説明です。もうひとつは、物理的作用の因果関係に基づいた説明です。

  1. 「いい、わるい」の価値観を使った説明
  2. 物理的作用の因果関係に基づく説明

例えば、植物の光合成に関して、下の絵のような二通りの説明が可能です。どちらの方法でも、人間は(それなりに)納得します。

二通りの説明方法
(なぜ、光合成は起こる?)

光合成の説明
光合成という物理現象の原因の説明について、
1. 明るいから。(「明るい、暗い」の価値観を使った説明)
2. 光が当たるから。(「光が当たる」という物理的作用に基づく説明)
この二通りの説明が可能です。

どちらの説明でも、人々は、それなりに納得します。実際、暗い洞窟の中では植物は育ちません。この経験則は、(絶対に)間違っていません。経験則は、経験の結果を集計したものです。

「都合のいい個体が自然選択された。」とする自然選択説は、「いい、わるい」の価値観を使った説明です。確かに、生物を観察すれば、どれも生存に都合がいいように見えます。この観察結果は間違っていません。
でも、その観察結果を説明するのに、「いい」理由を探して説明するのは結果論です。「このような『いい理由』があったから、『このようないい結果』になったのだ。」は、結果論です。観察結果に合わせた説明です。
自然選択説は、常に、(観察結果に合わせて)「いい」理由を探して、後付けで説明しています。物理的作用の因果関係に基づく説明ではありません。

ちなみに、集団遺伝学は、「いい、わるい」ではなくて、確率が「高い、低い」の価値観を使って説明しています。

見落としてはならない重要な点は、「確率」は結果を集計して始めて求まるものです。事前に確定している数学的真理ではありません。しつこいようですが、確率は結果を集計するまで分かりません。経験則の一種です。集団遺伝学は、結果(確率)を使った説明、即ち、結果論に陥っています。

信じられないのは、最初に生存確率を仮定して、確率論を使ってシミュレートして、その結果を論じていることです。確かに結果は確率分布に従って多少振れますが、しかし、現象の大勢は、最初に仮定した生存確率のままです。生存確率の低い個体が、常に大勢を占めることはありません。つまり、現象の大勢は(最初に仮定した)確率の高い方に向かって推移します。それが、確率(結果)の意味です。確率は結果の集計なので。
結果を最初に仮定して結果を論じて、一体何を論じたいのでしょうか?。それは、トートロジーです。

逆に、最初に生存確率を仮定しないと、つまり、確率の定まっていない事象に確率論は適用できませんから、集団遺伝学の論法も成り立ちません。堂々巡りです。

「いい、わるい」の価値判断は、観察の結果、心の中に生じるものです。確率も結果を集計して始めて求まるものです。両方とも結果です。
その結果に合わせて、後付けで説明するのは結果論です。自然選択説も集団遺伝学も結果論に陥っています。

結果論なので、説明が、何時も正しいのは当たり前です。結果に合わせて、後付けで説明しているのだから。正統派進化論は、このドグマに囚われています。

自然選択説は、「いい、わるい」の価値観を使った説明です。従って、人々は、それなりに納得しています。
でも、物理的作用の因果関係については述べられていません。自然科学の説明には失敗しています。

生物進化の現象は物理現象です。だから、例えば、「光が当たる」のように、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。

現代の正統派進化論のように、「いい、わるい」の価値観を使って説明すべきではありません。説明方法が、根本的に間違っています。これは疑似科学です。自然科学の理論ではありません。「いい、わるい」の価値判断結果に合わせて、都合のいい理由を探して説明しているだけの結果論です。
つまり、結果に合わせて、(その結果に合うように、それらしき物理的理由を探して、)説明しています。探してきた理由が「物理的」なので、自然科学だと錯覚しています。

どのような人間にも、取り柄のひとつぐらいはあります。その数少ない取り柄を探して、褒めることは可能です。(褒めることに、必ず成功します。)どうせ、進化は一度キリの現象で、再現不可能なので、言いたい放題です。
言っている当人が正しさを証明できないように、批判している相手も間違いを証明できません。物理現象が話題になっている訳ではないからです。「いい」という価値判断の基準を巡って、(不毛の)水掛け論に陥っています。価値判断の基準は、人夫々、立場によって(まるで妖怪のように)変幻自在に変化します。妖怪に、底なし沼に引き摺り込まれています。

ここでは、「なぜ、全員騙されてしまったのか?」、その騙しのテクニックを解説しています。多分、唖然とされると思います。

それとも、反対に、自らの信念が否定されるので、猛烈な不快感と反発を感じるかもしれませんね。「理屈としては分かるが、信念的に納得できない。」と。このように感じる人のほうが多いような印象です。

それ程に、この「いい、わるい」の価値観を使った論法は強力です。人間は、自らの持っている価値観に、絶対的信念を持っています。だから、心を強く呪縛しています。これを否定されたら、不安感と不快感、そして、(自己を防衛する為に)反発が生じます。

「いい、わるい」で痛い思いをしたことが無いと、この壁を乗り越えることは困難です。痛い思いをして、始めて、「いい、わるい」が、所詮は「自分の身勝手」に過ぎないことに気付かされます。

「いい、わるい」は、所詮は、自分にとって「いいか、わるいか」に過ぎません。あくまでも、自己都合です。自己都合だからこそ、「普遍的真理がある筈だ。」、「絶対的根拠がある筈だ。」と、必死に自己の欲望を正当化することに夢中になっています。このことには、(残念ですが)痛い思いをするまで気付きません。人間の欲望の強さを(甘く)見くびってはいけません。
この説は、(人間の欲望を強く刺激して)人間を納得させることには成功していますが、自然科学の説明には失敗しています。


進化論だけの問題ではない。

残念ながら、この価値観を使った騙しのテクニックは、宗教や哲学、科学などの権威筋の論法でも広く使われています。マルクスや法華経も、この手法を使った騙しだったので熱狂的支持を得ました。孔子も「徳」という価値観を説いたので、二千年以上に渡って熱烈な支持を得ました。結果として、東洋の発展を阻害しました。現代でも中華文明は儒教の呪縛から逃れられていません。
つくづく、人間は業の深い動物ですね。自らの欲望にしか目を向けていません。現実を見ていません。

悲しいことに、現代の哲学者たちも、相変わらず、新しい(絶対的)価値観を探し求めて、右往左往しています。自ら進んで、騙しの道を歩んでいます。だから、当然の結果として、正統派進化論の嘘も見抜けていません。本来、この嘘を見抜くのが哲学者の仕事だった筈なのに、ミイラ取りがミイラになっています。

絶対的価値観に基づいた行動は破綻します。「現実に基づかいない」という、だた、その一点の為に。絶対的価値観は現実ではありません。仮想現実です。仮想現実に基づく行動は、目を閉じて歩くようなものです。目を閉じたら何事もうまく行きません。深刻な事態に陥ります。つまり、躓きます。マルクスが失敗したのも、これが原因です。現実で無いもの、つまり、仮想現実に基づいて行動したからです。

全員が価値観の奴隷から抜け出せていません。価値観の檻の中で右往左往しています。全員が、この騙しのテクニックの虜になっています。(天動説以来の)学問の世界を揺るがす壮大なスキャンダルです。

なお、突然変異説については、「突然変異説のトリック」を参照下さい。こちらも同様に因果関係の考察に問題があります。自然科学とは、およそ無縁な考え方です。論法的には「創造神話」の一種です。巧妙な騙しです。こちらも、実態を知れば、唖然とすると思います。

正統派進化論は、自然選択説と突然変異説という二つの騙しのテクニックが巧妙に組み合わさっているので、人々を納得させることに完璧に成功しています。騙しだと気付かれていません。真理だと思われています。
ただし、自然科学の説明としては失敗しています。これは、自然科学の理論ではありません。
人間を納得させることには成功しましたが、自然科学の説明には失敗しました。


三番目の問題:新しい進化論の枠組みは?->提案

全く新しい発想の進化論を構築しました。

自分の最終目的は、生命現象に関する物理学理論を作ることです。その作業の一部として、とりあえず、データが収集できる範囲内で、生物進化の理論を纏めてみました。
脳の進化を理解する必要があったので。

具体的には、今西錦司氏の『棲み分け理論』と木村資生氏の『中立説』を、物理学の『場の理論』と、工学の『制御工学の理論』を使って統一しました。大進化の定性的説明までを試みています。

でも、この章では、論じていません。規模が大きくなり過ぎるので、また、話が混乱するので別の章に纏めました。

発想が、現代生物学と大きく異なっているので、かなり違和感があると思います。
生物学ではなくて、物理学を念頭に置いています。物理学の発想を使っているので、物理学者の方が、馴染み易いかもしれません。

話の中心は、「生命現象とは何か?」です。「生命現象を、物理学理論一般がそうであるように、時間と空間の関数として記述するにはどうしたらいいか?」を考察しています。
その生命現象の一部として、生物進化を論じています。雰囲気だけでも感じて頂ければ幸いです。

概要は、下記の通りです。

  1. 生命現象は、自己保存系の環境変化への適応行為である。
  2. 生物進化の現象は、生命現象の一部である。
  3. 生物進化は、(種のレベルの)自己保存系の環境変化への適応行為である。生命現象の一部として。
  4. 生物が存在している環境は、物理環境と生物環境から構成された抽象的二次元空間である。今西は、これを『生活の場』と呼んでいました。物理学的には『生命場』のことです。
  5. 生命現象は、自己保存系の環境変化への振る舞いの問題なので、記述形式上は、制御工学の理論を使って記述可能。

まとめると、
生物進化の現象は、(生命現象の一部として、)(種のレベルの)自己保存系の環境変化への適応行為です。『生命場』の変動(環境変化)に対する自己保存系の振舞いの問題です。記述形式上は、制御工学の問題です。

参考)生命場(生活の場)の構造

生命が存在している場の物理的構造
生命が存在している『場』は、物理環境と生物環境という二個の独立変数から構成された抽象的二次元空間を構成しています。
この二次元空間を今西は、『生活の場』と呼んでいます。そして、「『種』は、この生活の場内で、互いに重複することなく、棲み分けている。」と、『棲み分け理論』を主張しています。この『場』の変動に対する自己保存系の振舞いが、進化現象だと考えていました。

注)数学的に重要な事は、「現象が起こっている場が、何個の独立変数から構成されているか」です。生命現象の場合、物理環境と生物環境という二個の独立変数から構成された抽象的二次元空間を構成しています。
この空間では、二点間の距離を、まだ、うまく定義できません。(距離が厳密に定義できない)抽象的な空間です。つまり、位相空間ではありません。それ故、抽象的二次元空間と呼んでいます。
形式的には、生命現象は、この生命場の変動に対する自己保存系の振る舞いに関する現象です。それを時間と空間の関数として記述することに苦労してます。

注)『棲み分け』は、物理学的には排他律の問題と同一です。物理現象の性質は、排他律によって作り出されています。生物進化の現象も、この排他律によって作り出されていました。適応放散が、その好例です。

生物進化の現象は、あくまでも、生命現象の一部です。(生命現象として)平凡な自己保存系の環境変化への適応行為の一種に過ぎません。

この現象が他の生命現象と異なっている特殊な点は、次の三点のみです。(1)保存されている自己は、(ダーウィン、今西錦司も主張しているように、)『種(ゲンプール)』である。(2)非常に時間尺度の長い現象である。(3)DNAという制御素子を使った(自己を保存する為の)制御システムである。この三点のみです。

  1. 保存されている自己は種である。
  2. 非常に時間尺度の長い現象である。(時間尺度は、10~100万年。)
  3. DNAという制御素子を使った制御システム(自己保存系)です。

この三つの事象は、表面的観察からは、確認し辛い事象です。直接、見えている訳ではないからです。注意深く、原因と結果の因果関係を観察する事によって、始めて見えてくる事象です。物理的作用の因果関係の奥に、見え隠れしている存在です。

自己保存系

生命現象は、自己保存系の振る舞いに関する現象です。
生物進化の現象で保存されている自己は、ダーウィンや今西錦司が述べているように、『(ゲンプール)』です。ダーウィンは、『種の起源』を論じました。今西は、『種の棲み分け』を論じました。いずれも、思考対象は『種』です。

参考)地球上の生命現象における自己保存系の階層構造

自己保存系の階層構造
地球上の生態系においては、自己保存系は、階層構造を持ちます。他の天体については、データがないので分かりません。
最も下位の自己保存系は細胞です。
細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。
個体の集合によって、種のレベルの自己保存系が構成されています。
種(ゲンプール)の集合によって、この地球上の生態系が構成されています。

今西が述べているように、生物進化の現象は、このような生命現象を構成している自己保存系の階層構造の中で、種のレベルの自己保存系の環境変化への適応行為です。
そこで保存されている自己は種です。
あくまでも、生命現象の一部です。ごく平凡な自己保存系の環境変化への適応行為の一種です。特殊な現象ではありません。

我々人間は個体レベルの自己保存系なので、ついつい個体の命に執着しがちですが、そこで変遷し、絶滅しているのは種です。個体は、非常に短いサイクルで誕生と死を繰り返しています。個体の命は(悠久の進化の流れの中では)保存されていません。

時間尺度

進化は、通常、10~100万年単位の時間尺度で起こっています。
その最小メモリは、どんなに控え目に見ても、1000年です。1000年間、定点観測を続ければ、進化の痕跡を観測可能かもしれません。一方、人間の一生は、高々、50~100年程度です。ダーウィンからでも、まだ200年しか経っていません。進化の痕跡を直接観察するには、短過ぎます。

  • 進化の時間尺度:10~100万年
  • 人生の時間尺度:50~100年

もし、このような事実を無視して、目の前の現象を観察したら、生物の身の上に起こる変異は、何の因果関係も無しに生じている『突然変異』に見えてしまいます。観察時間が短過ぎて、因果関係を確認できないからです。

制御素子

具体的に自己を保存する物理的メカニズムは、DNAという制御素子を使った制御システム系です。

ちなみに、脳は神経細胞という制御素子を使った制御システム系です。なお、制御原理はDNAも脳も同じです。目的制御の概念が使われています。
ロボットなどのコンピュータは、トランジスタやICを使った制御システム系です。どちらも、(生物もロボットも)炭素やシリコンなどの半導体物質を主原料としています。実験室レベルでは、炭素を主原料としたトランジスタも作成されています。決して偶然ではありません。

見えている事実を絶対視するのではなくて、その表面的事実の奥に潜んでいる物理的作用の因果関係に注目する事が大切です。



生と死(life or death)

なお、生物が変異する原因は、論理的に次の二つの可能性が考えられます。

  1. 適応の為の変異 -> 生
  2. システムの故障 -> 死

生物進化は、非常に時間尺度の長い現象です。それ故、人間の一生程度の短い観察時間では、この二つは区別が付きません。共に、(原因と結果の因果関係を直接観察できないので、原因もなしに生じた)突然変異と見えます。
でも、だからと言って、『突然変異』の一言で片付けていい問題ではありません。結果が正反対になるからです。白と黒を同一視した暴論です。

適応の為の変異は、生存に繋がりますが、システムの故障による奇形は死に繋がります。生物にとって最も重要な『生と死』の問題で結果が正反対となります。
どうでもいい些細な問題ではありません。「生と死」は、(生物にとって)絶対に外してはならない一番重要な問題です。突然変異説は、その一番重要な問題を外しています。一番重要な問題を外したら、何も明らかとなりません。疑似科学と言われる所以です。

突然変異説は、『生と死』を同一視した暴論です。確かに、眼の前の現象を観察するなら、この二つは区別が付きません。でも、進化現象は、非常に時間尺の長い現象です。人間の一生よりも遥かに長い現象です。だから、原因と結果の因果関係を、直接観察することは不可能です。人生は、短過ぎます。

突然変異説は、表面的見かけを絶対視した愚かな行為です。
「強い放射線を当て、突然変異(故障)を起こさせ、進化が起こる筈だ。」と実験している姿は、もはや、ブラックジョークです。「自転車を壊せば、飛行機になる筈。」そんな訳ありません。スクラップになるだけです。適応と奇形を混同した暴論です。

以上のように、生命現象の解析が目的なので、(現代進化論とは)かなり異なった発想の枠組みを使っています。物理学と制御工学の知識を使って解析しています。
詳細は、「生物進化の概要」を参照下さい。生命現象を記述するのに必要な制御工学の理論も整備を急いています。現代の工学者が使っている制御理論は、生命現象を記述する目的には使えなかったので。




二通りの説明方法

余りにも問題が多過ぎるので、何処から話し始めたらいいのか、途方に暮れてしまいますが、
自然選択説の異常性を理解して頂くには、次のような切り口から入るのが、問題の本質が見えて最も簡単です。

我々人間は、本質的全く異なった二通りの説明方法を、臨機応変に使い分けています。そのひとつは、「いい、わるい」の価値観を使った説明方法です。もうひとつは、原因と結果の因果関係に基づいて説明する方法です。

まず、人間という動物の現実に目を向けます。<< ここが重要。人間は人間ではありません。動物です。
この動物は、不思議な習性を持っています。
何にでも、理屈を付けたがります。
なぜ、理屈を付けるのか?。(この動物は、)その動機も自覚しないままに、脊髄反射的に、この作業に夢中になっています。

この「何にでも理屈を付けたがる。」という人間の習性を注意深く観察すると、そこで本質的に全く異なった二つの手法を、臨機応変に使い分けている事に気が付きます。

その一つは、「いい、わるい」の価値観を使った説明です。
もう一つは、物理的作用の因果関係に基づいた説明です。

例えば、植物の光合成を例にとれば、次の二通りの説明が可能です。
明るいから、光合成が起こる。
光が当たるから光合成が起こる。

【二通りの説明方法】

  1. 「明るい、暗い」の価値観を使った説明。(形容詞を使って説明)
  2. 「光が当たる」という物理的作用を使った説明。(動詞を使って説明)

注)言語文法上、二つの説明は使用している言葉の品詞が違っています。前者は形容詞を、後者は動詞を使っています。この違いは、(問題の本質を知るうえで、)実は非常に重要です。

なぜ、光合成は起こる?
(なぜ、植物は育つのか?)

光合成の説明
光合成という物理現象の原因の説明について、
(又は、植物は、なぜ育つのか?)
1. 明るいから。
2. 光が当たるから。
この二通りの説明が可能です。

どちらの説明でも、人々は、それなりに納得します。実際、暗い洞窟の中では植物は育ちません。この経験則は、(絶対に)間違っていません。

困ったことに、現代の哲学者は、人間という動物のこの習性に全く気が付いていません。寧ろ、現実は逆です。この性癖に振り回されて、絶対的価値観を追い求めています。なぜ、この性癖に振り回されるのか、その自覚もないままに、(真理を探究するのだと、)この性癖に踊らされています。ミイラ取りがミイラになっています。

ちなみに、自然選択説は、(生存に都合が)「いい、わるい」の価値観を使った説明です。
集団遺伝学は、(生存確率が)「高い、低い」の価値観を使った説明です。

なぜ、生物は進化した?

自然選択説の説明方法
自然選択説は、「都合の『いい個体』が自然選択されて、結果、生物は進化した。」と主張しています。『いい、わるい』の価値観を使って説明しています。

ちなみに、自然選択は人為選択の類推から作られました。「人間がやっている選択行為を、自然もやっているだろう」と。これは、自然と人間の同一視、即ち、自然の擬人化による説明です。「人間の行為」と「自然の仕組み」を混同しています。同一視しています。(もう、メチャクチャ。)
説明に使っている論理
説or現象論理備考
経験則価値観「明るい、暗い」
明るい所では植物は育つ。暗い所では育たない
自然選択説価値観生存に都合が「いい、わるい」
集団遺伝学価値観生存確率が「高い、低い」
物理現象物理的作用の因果関係物理的作用が原因となって物理的結果が生じる。
光合成物理的作用の因果関係光が当たると光合成が起こる
経験則は、実際に体験した結果の集計です。その時の「感覚器官の状態」と、「体験の結果」の因果関係を、経験的に纏めています。「明るければ、植物は育つ」と。

集団遺伝学が使っている「確率」と同じ性質のものです。確率は結果の集計を全体の試行回数で割ったものです。実際の結果の集計という点において、確率は経験則の一種と言えます。

生命現象は、自己保存系の環境変化への適応行為です。
今西錦司氏は、「進化で保存されている自己は、種である。」と述べています。即ち、生物進化の現象は、(生命現象の一部として)「種のレベルでの自己保存系の環境変化への適応行為である。」と考えていました。

ちなみに、自己保存系は、地球の生態系では下図のような階層構造を持っています。この階層構造の中で、生物進化の現象は、「種」のレベルの自己保存系の環境変化への適応行為を意味しています。

参考)地球上の生命現象における自己保存系の階層構造

自己保存系の階層構造
地球上の生態系においては、自己保存系は、階層構造を持ちます。他の天体については、データがないので分かりません。
最も下位の自己保存系は細胞です。
細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。
個体の集合によって、種のレベルの自己保存系が構成されています。
種(ゲンプール)の集合によって、この地球上の生態系が構成されています。

今西が述べているように、生物進化の現象は、このような生命現象を構成している自己保存系の階層構造の中で、種のレベルでの自己保存系の環境変化への適応行為です。
そこで保存されている自己は種です。
あくまでも、生命現象の一部です。自己保存系の環境変化への適応行為の一種です。原理原則は同じです。

なお、単細胞生物については、情報不足の為、詳細は分かりません。共有可能なゲンプールの範囲が、かなり広そうです。仕組みが単純故に、部品の共有範囲も広くなっています。遺伝子の水平伝播が広範囲で起こっています。

ちなみに、多細胞生物は、ある特定の状況に特化しています。特化しているので、見方を変えれば、高機能化しているように見えます。これを、進歩、高等生物と錯覚しています。
しかし、部品の共有範囲は(特化しているが故に)狭くなっています。実態は、生命が本来持っている自由と可能性を犠牲にして、ある特定の限定された状況に適応しているだけかもしれません。

単細胞生物たちの自由な姿を見ていると、自信が無くなってきます。彼らは、その可能性を最大限に発揮して、(自分の想像力の限界を超えた)ありとあらゆる極限環境に適応してます。「生命は、エネルギーの流れさえあれば、何処にでも発生する。」ように思えてしまいます。エネルギーの流れを見つけたら、そのエネルギーの性質に係わらず、生命活動を見つけることができます。自分よりも生命の方が、エネルギーの流れを見つけることに長けています。(その利用技術も含めて)


現代生物学が、個体に異常に拘るのは、人間という動物が個体レベルの自己保存系だからです。それ以外の合理的理由はありません。

細胞と種の間には、詳細に観察すれば、(結び付きの強弱を別にすれば、)様々な階層の自己保存系が存在しています。群体、個体、白アリのコロニー、狼や人間の群れ etc。(自己保存系は、個体だけではありません。)

生物学的には、個体に拘る理由は何処にも無いように見えます。現実は、遥かに、フレキシブルです。上位の自己保存系、即ち、種(ゲンプール)を維持できれば良いだけのように見えます。

ま~~、歯車のひとつ(人間)が、自己の存在意義を必死に主張したい気持ちは理解できますが。

個体(人間)への拘りを克服されることを希望します。冷酷に現実を観察されることを希望します。

生活の場(生命場)

生物が存在している『場』は、物理環境と生物環境という二つの独立変数から構成されています。即ち、抽象的二次元空間を形成します。この二次元空間を、今西は『生活の場』と呼んでいました。

生命現象は、この抽象的二次元空間の変動、即ち、環境変化への適応行為です。生物進化も、『(種のレベルの)自己保存系』の環境変化への適応行為です。

参考)生命場(生活の場)の構造

生命が存在している場の物理的構造
生命が存在している『場』は、物理環境と生物環境という二個の独立変数から構成された抽象的二次元空間を構成しています。
この二次元空間を今西は、『生活の場』と呼んでいます。そして、「『種』は、この生活の場内で、互いに重複することなく、棲み分けている。」と、『棲み分け理論』を主張しています。この『場』の変動に対する自己保存系の振舞いが、進化現象だと考えていました。

この主張は、物理学的には、非常に理解し易い考え方です。『棲み分け』は、物理学的には、排他律の問題に過ぎないからです。もし、ここで排他律が成り立っているなら、この排他律によって、様々な現象が形成されます。例えば、原子核の周りを回っている電子が、排他律によって作り出している化学的性質を、一覧表に纏めたものが、あの有名は「原子の周期律表」です。排他律は、現象の性質を作り出しています。逆に、現象の性質は、最終的には、排他律に起因します。

生物学的には、今西の主張は非常に奇異に映るみたいですが、数学や物理学の発想に慣れている自分には、ごく常識的な主張でした。寧ろ、正統派進化論の方が、奇異に映りました。物理学的発想とは、全く異質だったからです。

新しい進化論では、生命現象や生物進化の現象を、生命場内の排他律の問題として論じています。適応放散は、「生命場内で生じている排他律」と「多重遺伝子族」の相互作用によって生じているようです。だから、適応放散のパタンは似てくるみたいです。

現代生物学には、必要とするデータが、まだ、ほとんど蓄積されていません。それ故、ここまで進むと、ほとんどデータなしの作業になってしまいます。まるで、針の穴から広大な星空を覗いているような錯覚に陥ります。

注)「生命場」について。

「電磁場」や「重力場」の類推から、生命現象が起っている場を、「生命場」と呼んでいます。(物理学の流儀に従って。)ちなみに、今西は、「生活の場」と呼んでいました。彼も『場』と理解していました。どちらでも、意味は同じです。

数学的に大切な事は、この『場』が、(物理環境と生物環境という)二個の独立変数から構成された抽象的二次元空間になっていることです。呼び方は、本質的問題ではありません。生物学者は「生活の場」と呼んだ方が実感がわき易いと思います。物理学者は「生命場」と呼んだ方が、そのまま、場の理論の発想が使えるので便利です。

(生物学者も含めた)人間が生命現象を理解する場合、(本能的に)このような思考の枠組みを使っています。明確には自覚していませんが。
でも、先入観とドグマに支配された現代生物学では、なぜが、「生活の場」は、(感情的に?)拒否されています。自分たちが持っているドグマの範囲外にある為と思われます。

生物は、温度や水などの物理環境だけでなく、食物連鎖に代表されるように、他の生物の存在からも、強い影響を受けています。生物学者なら常識ですね。それを、数学的発想を使って、「生命場」or「生活の場」と、(抽象的二次元空間を構成していることを)明確化しました。(常識だと思い込んでスルーしている)潜在意識の明確化です。


価値観や価値判断の正体

(話が横道に逸れてしまいました。元に戻します。)
自然選択説が拘っている「いい、わるい」の価値判断は、(目の前の現象を観察した結果、)人間の心の中に生じている事象です。人間の心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。「いい」という価値判断が原因となって、「生物進化」という物理現象が起る事はありません。因果関係が成り立っていません。

「生存に都合がいい」という価値判断は、物理現象の原因になることはできません。
それは、現象を観察した結果、心の中に生じるものだからです。
現象の結果は、その現象の原因になることはできません。
因果関係が成り立っていません。

これは、自然の擬人化による説明です。自然と人間の同一視、混同です。「人間が行っている『価値判断』と『選択』という行為を、自然も行っているだろう」と、(自然を擬人化して)素朴に信じています。

もっとハッキリ言えば、これは結果論です。
観察結果に合わせて、尤もらしい理屈を後付けしているだけです。それは、生物学者の行動パタン(説明過程)を観察するば理解できます。
ニホンザルを観察するように、生物学者自身を一個の動物だと見なして、冷酷に観察されることを希望します。この動物は、結構おもしろい習性を多く持っています。「自分は神だ。」と思い込んでいるのは、当人だけです。

物理現象の原因になる事が出来るのは、物理的作用のみです。例えば、「光が当たる。」といったような。

人間は念力などの超能力を持っている訳ではありませんから、「思う」という行為だけで、目の前の物理現象に影響を与える事はできません。たとえ、「いい」と価値判断しても、その「思い」が、目の前の物理現象に影響を与えることはありません。影響を与えないので、生物進化の現象が起る事もありません。
もし、「思う」だけで影響を与えることができるなら、延々と積み上げてきた物理学の実験データを、全て、再検証する必要に迫られます。念力で、測定器の針だけを歪めてしまう事が可能となるからです。現代物理学が根底から揺らいでしまいます。

これは、物理的作用の因果関係に基づいた科学的説明ではありません。(自然科学の理論として、)説明方法が根本的に間違っています。

「いい、わるい」の価値観を使った説明は、自然科学の説明ではない。
自然科学なら、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。

自然科学の理論なら、例えば「光が当たる。」と言った物理的作用を使って説明すべきです。「明るい、暗い」や「いい、わるい」の価値観を使って、説明すべきではありません。



価値観を使った説明

確かに、明るい場所では光合成が起っています。この経験則に間違いはありません。でも、経験則は経験の集積なので、結果論です。何度も何度も経験を繰り返して、やっと得られる結論です。物理現象の仕組みを説明する手法ではありません。

それは、確率と同じ性質のものです。確率も、実験を何度も何度も繰り返して、その結果を集計して始めて求まります。あくまで、結果の集計、即ち、結果論です。経験則の一種です。事前に決定されている数学的真理ではありません。

自然選択説は、「生存に都合がいい個体が自然選択されて、結果、生物は進化した。」と主張しています。「いい個体が選択された。」と、「いい、わるい」の価値観を使って説明しています。「明るいから、光合成が起った。」という説明手法と同じです。「明るい、暗い」や「いい、わるい」の価値観を使って説明しています。その価値判断は、経験から生まれた経験則です。経験が少ない子供の場合、的確な価値判断を行う事が意外と困難です。大人と同じ価値判断ができるとは限りません。(経験がないので。)

集団遺伝学は、「生存に都合がいい、わるい。」を、「生存確率が高い、低い。」に言い換えて説明しています。「高い、低い」の価値観を使って説明しています。
しかし、確率自体は結果論です。結果の集計です。現象の物理的仕組みを説明する手法ではありません。仕組みは分からないが、結果を集計したら、確率分布として説明できた。」「何度、実験しても、同じような確率分布になった。」と、主張しているに過ぎません。

でも、そもそも、生命現象は非常に複雑な現象系です。実験を行って、その結果を集計し、確率を求める事など不可能です。前提条件が、無限パタンあって、とても(全ての前提条件を)実験し切れないからです。
前提条件が異なれば、結果も異なります。どのような環境に置かれるかによって、生存確率も大きく変わります。その肝心の前提条件が、無限パタンあるのです。

それに、もっと本質的な問題があります。環境の変化は誰にも予測できません。いつ天体が衝突して、環境が激変するか、誰にもわかりません。いつ大規模な火山噴火が起こるか、誰にもわかりません。現代科学は、残念ながら、気候変動のメカニズムを解析できていません。余りにも、多くの変数が関与しているからです。CO2 などのひとつの変数だけ取り出して語れる程、単純な現象ではありません。
それ故、生物進化は、人間の歴史と同じで、一回切りの現象です。歴史に『もしも』が無いように、進化にも『もしも』はありません。やり直しが利きません。つまり、確率の求めようがありません。

結局、(一回切りの現象なので、)「生き残ったものが、生存に都合がよかった。生存確率が高かった。」という結果論に陥ってしまいます。
実際、大規模な天体衝突や火山噴火などの過去の現象は、その痕跡が地質の中に残りますから、丁寧に調べれば、凡そは推測できます。これが原因で、大量絶滅が起き、その後、失われた生態系の隙間を埋めるように適応放散が起ったのだろうとは推測できます。

我々には、未来は分かりませんが、過去は(痕跡が残っているので)凡そは分かります。だから、結果論として説明することは可能です。でも、未来は説明する事ができません。そもそも、未来の環境がどうなるか、予測できないからです。};

現代の正統派進化論は、集団遺伝学も含めて、根本的に間違っています。これは「いい、わるい」、或いは、(生存確率が)「高い、低い」の価値観を使った結果論です。

「(1)進化の結果を観察すると、(生き残った個体は)どれも生存に都合がいいように見える」ので、「(2)きっと、都合がいい個体が選択された結果だろう」と、結果論で推論しているに過ぎません。

集団遺伝学は、(前もって、生存確率を仮定し、)(確率論を使ったシミュレーションを行った結果、)「(2)生存確率の高い個体が、(1)生き残る確率が高かった。」と、意味不明の推論をしています。

トートロジー

進化論は、「(1)価値判断を行う為」と、「(2)その価値判断結果を説明する為」に、同じ価値観を二度繰り返し使っています。同義語の反復です。トートロジーの罠に陥っています。

【自然選択説】
(1)生き残ったものを観察すると、どれも生存に都合がいいように見える。(結果)
進化の結果を観察し、「いい、わるい」の価値判断を行っています。
(2)それは、きっと、都合のいいものが選択されたからだろう。(推論)
同じ「いい、わるい」の価値観を使って、今度は、観察結果の説明を行っています。


【集団遺伝学】
(2) 生存確率を仮定し、(仮定)
(') 確率論を使ってシミュレート。(推論)
(1) 結果、生存確率の高い個体の割合が増えた。(結果)

集団遺伝学のように、「生存確率を仮定したら、生存確率の高い個体が多く生き残った。」と言われても、返す言葉もありません。論理の出発点で確率を仮定した時点で、もう既に、シミュレーションの趨勢は決まっています。確率現象は、(最初に仮定した)確率の高い方向に向かいます。

確率とは、そういう意味です。結果の集計です。数学的真理ではありません。(結果の集計に過ぎないので、)最初に結果を仮定したら、その推論の結果、即ち、集団遺伝学の結果は、「最初に仮定した生存確率」の通りになります。当たり前です。最初に、「結果はこうなる。」と生存確率を仮定しているので。
「最初に結果を仮定して、推論し、その結果を説明する。」ことに、いったい、どれだけの意味があるのでしょうか?。

逆に、前もって確率の決まっていない事象に、確率論は適用できません。つまり、最初に生存確率を仮定しないと、(この仮定が無いと、)確率論を使った集団遺伝学の論法は成り立ちません。

もし、(仮定する事なく)(実験する事もなく)前もって生存確率を決定できるなら、その決定する仕組みこそが、進化の仕組みです。
わざわざ、(集団遺伝学のように、)確率論を持ち出して論ずる必要などありません。集団遺伝学は不要です。なぜなら、生存確率そのものが、進化の趨勢を決めているからです。確率現象は、確率の高い方向に向かいます。もう既に、この時点(生存確率を算出した時点)で、現象の進むべき方向は決まっています。進化の説明は完了しています。
でも、現実は、生存確率を前もって決定できる便利な手法など存在していません。

集団遺伝学は、意味不明のトートロジーに陥っています。或いは、循環論法に陥っているのかもしれません。「結果はこうなる。」と、最初に生存確率(結果)を仮定して、(確率論を使って推論し、)その結果を論じています。推論結果を推論の前に仮定して、推論を行っても、その推論結果は、最初の仮定のままです。
逆に、前もって生存確率を仮定しないと、確率論は適用できません。つまり、集団遺伝学の論法は成り立ちません。
もう、チャランポラン、意味不明です。
このようなチャランポランな論理が成り立つ背景には、「確率は、数学的真理」という先入観があるように思えます。そう考えないと、この意味不明な行為は理解できません。
集団遺伝学は論理的に破綻しているので、批判する側が論理的に批判していたら、途中で躓いてしまいます。論理的批判に失敗してしまいます。これを、「論理的批判に失敗した。だから、集団遺伝学は正しい。」と見なしているように見えます。

  1. 確率は、結果を集計することで、初めて求まります。結果の集計です。結果論です。
  2. 集団遺伝学は、結果(生存確率)を仮定して、結果(生存確率)を論じています。循環論法に陥っています。
  3. 前もって生存確率を仮定しないと、確率論(集団遺伝学)は適用できません。
    確率の決まっていない事象に、確率論は適用できません。
  4. もし、(実験することなく)前もって生存確率を決めれることが可能なら、その決める手法こそが、進化の仕組みです。この時点で、生物進化の仕組みは既に分かっていることになります。わざわざ、集団遺伝学を持ち出す必要はありません。
  5. 集団遺伝学は、人々を騙す為の壮大な舞台装置に見えます。
    「確率は、前もって決まっている数学的真理である。」という錯覚を利用しています。



自然選択説は、(1)観察結果を説明する為に、(2)その観察結果を生み出したのと同じ価値観を繰り返し使って説明しています。「白く見えるのは、白いからだ」と。「いいと見えるのは、いいものが選択された結果だ。」。論理を逆転させて、「いいものが選択されたから、いいと見えるのだ。」と、説明しています。同じ価値観の繰り返しです。トートロジーです。

価値観を使ったトートロジーの仕組み

価値観を使ったトートロジー
価値観を使った説明は、トートロジーになっています。
同じ価値観が、2度、繰り返されています。
1回目:現象を観察して、『いい。わるい。』の価値判断を行う為に。
2回目:その判断結果を説明する為に。『いいものが選択されたから。』と。

論理を逆転させて、いいもの』が選択されたから、『いい』と見えるのだ。

集団遺伝学は、結果を仮定して、結果を論じています。生存確率を仮定して、確率論を使って、その結果の生存確率を論じています。やはり、トートロジーです。

集団遺伝学のトートロジー(循環論法)の仕組み

集団遺伝学のトートロジーの仕組み
集団遺伝学は、論理の出発点で「生存確率」を仮定して、確率論を適用して、その確率結果を論じています。
生存確率の高い個体が、生き残り易く見えるのは当たり前です。それが、確率の意味だからです。確率は、結果の集計です。結果を先に仮定してしまったら、その推論結果も、最初に仮定した確率のままです。
集団遺伝学は、結果を仮定して結果を論じています。
(注意)逆に、論理の出発点で生存確率を仮定しないと、確率論は適用できません。集団遺伝学そのものが成り立ちません。循環論法に陥っています。

自然選択説も集団遺伝学も、トートロジーに陥っているので、それを批判する側も混乱します。同義語の反復気味になってしまいます。ほんと、不毛な努力です。

自然科学の理論は、物理的作用の因果関係に基づいて記述すべき。」。たった、この一行だけで済む話なのに。



正統派進化論の説明手順

人々は、次の手順で、生物進化の説明を行っています。

1. 進化の結果を観察すると、どれも都合のいい姿をしている。(事実)
2. そこで、進化の過程や生存形態を観察して、都合のいい理由を探す。(理由探し)
3. その見つかった都合いい理由を使って、進化の結果を説明する。(結果論)

最初の観察結果の事実は間違っていません。その結果に合わせて、都合がいい理由を探して、それを使って説明しています。「(このような)いい理由が選択されたから、いいと見えるのだ。」と。結果論です。

実際の説明過程では、「理由探し」は科学的に行われます。都合がいい物理的理由が探されています。それ故、この行為は、科学的で合理的に見えます。でも、「都合がいい理由探し」を行っている時点で、もう既に、蜘蛛の巣に捉えられています。トートロジーの罠に嵌っています。

結果論は、絶対に間違っていません。結果に合わせて説明するので。これで間違えたら、よっぽど、不細工です。人々は、結果が間違っていないので、「これ程、確かな説明はない。」と、いつも納得しています。揺るぎない確信を実感しています。

でも、生物進化は、一回切りの現象です。歴史に「もしも」がないように、進化にも「もしも」はありません。やり直しが効きません。だから、その説明が正しいかどうか確かめる術はありません。

それに、説明が一回切りの結果論なので、汎用性がありません。この為、毎回、毎回、新しい現実に直面する度に、この作業を繰り返す必要があります。

都合のいい理由は絶対見つかりますから、毎回、毎回、この結果論を使った説明は(必ず)成功します。どのような現象にも、ひとつぐらいは取柄があります。事の大小に関係無く、些細な良い点でもいいから、見つける努力をすれば、必ず、見つかります。
だから、毎回、必ず、説明には成功します。それ故、益々、揺るぎない確信に変わります。「進化論は正しい。」と。この蜘蛛の巣に捉えられたら、逃げる事ができません。麻薬患者のような悪循環に陥ります。
生命現象は、自己保存系の環境変化への適応行為なので、「環境にうまく適応している」ように見えるのは当たり前です。

現代の進化論は、毎回、毎回、永遠に、この(「都合いい」探しの)作業を繰り返しています。

重要な事は、物理現象は、物理的作用の因果関係の上に成り立っている事です。だから、それに基づいて説明する必要があります。例えば、(最初の絵に示したように、)「光合成は、光が当たると起こる。」と。「光が当たる」という物理的作用を使って説明する必要があります。



注)白い馬が白く見えるのは、白いからだ。

「白い馬が白く見えるのは、白いからだ。」という価値観を使ったトートロジーを克服する事は、非常に困難です。
その根底に、「我々は実体を認識している。」という唯物論の先入観が潜んでいるからです。「白く見えるのは、白い(実体を持っている)からだ。」「その白い実体を認識しているから、白く見えるのだ。」と。

進化の結果を観察すると『いい』と見える。それは、きっと、そこに『いい』という実体が潜んでいるからだろう。

我々は実体を認識している。それ故、我々の「いい」という認識には根拠がある筈だ。その『いい』という根拠(実体)が選択されるのだから、これ程、確かな話はない。」と、思っています。

かくして、人々は、進化の過程や生存形態を調べ、(観察結果に合う)都合のいい理由を探し回っています。

この唯物論の先入観は、非常に強力です。揺るぎない確信を与えてくれます。

この価値観を使ったトートロジーは、宗教、哲学、思想、科学などの現代文明のありとあらゆる場面で広く使われています。我々の文明は、これの上に成り立っていると言っても過言ではありません。特に、権威筋の説明には、これが多用される傾向にあります。例えば、マルクスの資本論や正統派進化論のように。孔子が説いた徳のように。
誰も、このトリックに気が付いていません。いや、逆です。みな(この罠に)心酔しています。残念です。

このような嘘を見抜くポイントは簡単です。ただ一点、「物理的作用の因果関係に基づいて説明しているか?」に注目する事です。
価値観を使って説明してはダメです。言葉の罠に入ってはダメです。最初の絵のように、どちらの方法を使って説明しているのか。「それは物理的作用か、価値観を使った説明か」、その点に注目する必要があります。



「いいとこ取り」の罠

物事には、表と裏があります。常に、メリットとデメリットが交差しています。

「都合いい」と見えても、見方を変えれば問題点も見つかります。
進化論は、メリットには目を向けますが、その背後で起こっているデメリットには、全く無関心です。

例えば、キリンの首が長くなる進化において、
メリットは、多くの方が指摘しているように、「高い木の葉っぱを食べることが出来る為」です。

では、首が長くなった事で生じるデメリットは、何でしょうか。
これには、無関心です。

予測される副作用は、

  1. 長い首を支える為に、骨格に負担が掛かる。この為、骨格や筋肉の改善が必要です。
  2. 高い位置にある頭にまで血液を押し上げる為に、血圧を高くする必要がある。この為、循環器系の改善が必要です。しかし、安易に血圧を上げると、他の臓器は高血圧の問題に直面します。
  3. 逆に、水を飲む為に頭を下げると、血圧が異常に高くなって充血してしまいます。姿勢によって、血圧の変動幅が大きくなるので、その対策が必要です。
  4. 首が長くなると、呼吸の時、空気の入れ替えに問題が生じて、酸素不足に陥る可能性がある。長いシュノーケルを咥えて海に潜るようなものです。長いと、呼吸をしても、シュノーケル内部の空気が上下に動くだけで、入れ替わりません。新鮮な空気は、肺に届きません。
    一方、キリンは体が大きいので、大量の酸素を消費します。このジレンマを、どう解決しているのでしょうか。
    中生代の恐竜も謎です。巨大な体、長い首。長いシュノーケルでは空気が入れ替わりません。巨大な体だと大量の酸素が必要です。辻褄が合っていません。肺活量が物凄かったのでしょうか?。
  5. 。。。。。。(調べれば、まだまだ、副作用はあると思います。)

首が長くなる為には、それによって生じる複数の副作用も改善する必要があります。ある特定の機能を発達させると、想定外の副作用も発生します。

突然変異を確率事象だと見なすと、複数の事象が同時に起こる確率は、個々の確率の積になります。サイコロの1の目が出る確率は、(一個だけの場合だと)1/6 です。でも、10個のサイコロを振って、同時に1になる確率は、1/6 * 1/6 * .... (10回掛ける) = 1/60,466,176 ≒(約6千万分の一)です。幾何級数的に確率は低くなります。こんな低い確率、まず起こりません。一億年の間、毎年サイコロを振る続けても、一回起こるかどうかの確率です。ちなみに地球の歴史は46憶年です。

ほんとうに、このような複数の確率事象(?)が、都合のいい方向に向かって同時に起こる事は可能でしょうか。
集団遺伝学は、彼らの主張する仕組みでは進化が起こらないことを証明しています。皮肉にも、「進化の証明」ではなくて、「進化が起こらないことの証明」になっています。

全体のバランスを無視した(ある特定部位の)変異は、奇形です。(全体のバランスを無視した)奇形は一般に生存に不利ですから、死に繋がります。生存には繋がりません。馬の首だけを、キリンのように長くしたら、満足に歩くことさえ出来なくなります。
それ故、生存の為の適応や進化などの変化は、全体のバランスを保ちながら起こる必要があります。

自然選択説は、メリットにばかり心を奪われて、メリットの裏側に潜んでいるデメリットには全く無関心です。
「いいとこ取り」だけして、都合のいい理屈を考えて、「進化は起こる」と素朴に信じています。「いいとこ取り」の罠に陥っています。

計画がいつも失敗するのは、このような認識の偏り、つまり、「いいとこ」しか見ないことが原因です。希望的観測を信じて「 Bad news 」 を無視したことが原因です。
原則は、「 Bad News First 」です。「悪いニュースを、最優先で処理しろ」です。現代の進化論は、「 Bad news 」を無視しています。現実を無視した空想の中で、自己満足に浸っています。

大切なことは、くれぐれも、「いいとこ取り」の罠に陥らないことです。



価値観を使った論法

自然選択説は、「都合がいい個体が自然選択されて、生物は進化した。」と主張します。

しかし、『都合がいい』という表現は、物理的作用を表現した言葉ではありません。これは、我々人間が持っている『いい。わるい。』の価値判断です。脳が行っている情報処理の結果を表現した言葉です。

現象を観察した結果、脳は何らかの判断を下しますが、そのような判断結果を表現した言葉です。あくまでも、それは心の中に生じている事象です。物理的作用を表現した言葉ではありません。従って、物理現象の原因になることは出来ません。(<-- ここ重要)

心の中の事象、即ち、価値判断は、物理現象の原因には成れない。

『生存に都合がいい。』という価値判断が原因となって、物理現象(生物進化)が起る事はない。

花を見れば、心の中に、『きれい、汚い』の価値判断結果が生じます。しかし、「きれいな花」という価値判断結果は心の中の事象なので、これが、何らかの物理現象の原因になる事はありません。

価値判断の因果関係
価値判断の因果関係
現象(花)を観察した結果、心の中に、『きれい。汚い。』の価値判断結果が生じます。
価値判断結果は、心の中の事象です。

心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。<-- ここ重要。

同様に、生物進化の現象を観察すると、都合が『いい、わるい』の価値判断結果が生じます。

しかし、この価値判断結果を使った説明、「生存に都合がいい変異が自然選択された。」は、因果関係が成り立っていません。価値判断結果は、心の中の事象であって、物理的作用ではないからです。物理的作用でないもの、つまり、心の中の事象は、物理現象の原因になることは出来ません。

繰り返しになりますが、「生存に都合がいい」という価値判断結果は、生物進化という物理現象の原因になることはできません。
因果関係が成り立っていません。根本的に間違っています。

価値観を使ったトートロジー

自然選択説は、『いい、わるい』の価値観を使ったトートロジーに陥っています。

我々人間は、『いい、わるい』の価値観を持っています。
その価値観を使って生物進化の現象を観察すれば、「生物は生存に都合がいい」と判断されます。これは事実です。この事実自体を否定するつもりはありません。(この経験則を否定するつもりはありません。)

でも、その価値判断結果を説明する為に、同じ価値観を使って、「都合のいいものが選択されたから」と説明するのは、同じ価値観の繰り返しです。トートロジーです。

観察結果を得る為(1回目)と、その観察結果を説明する為(2回目)に、同じ価値観が二度繰り返されています。

都合のいいものが選択されたから、都合がいい。」と。

価値観を使ったトートロジーの仕組み

価値観を使ったトートロジー
価値観を使った説明は、トートロジーになっています。
同じ価値観が、2度、繰り返されています。
1回目:現象を観察して、『いい。わるい。』の価値判断を行う為に。
2回目:その判断結果を説明する為に。『いいものが選択されたから。』と。

「都合がいい」は、観察結果です。
「都合のいいものが選択されたから」は、その観察結果の説明です。
どちらも、『いい、わるい』の価値観を使っています。
同義語の反復、即ち、トートロジーの一種を構成しています。

この論法は、「白い馬は、なぜ白いのか?」と聞かれて、「白いから。」と答えるようなものです。(皆さまにも、心当たりがあるかと思います。)
このトートロジーの詳しい仕組みは、「1.4 価値観を使ったトートロジーのカラクリ」を参照下さい。

自然の擬人化

人間の行動は、価値判断の上に成り立っています。
きれいな花を見れば、ついつい手を差し伸べたくなります。
汚いものからは、ついつい目を逸らします。

だから、下図のような花泥棒の因果関係は成り立ちます。
きれいな花を見たら、
悪いと分かっていても、
ついつい摘み取って、部屋に飾りたくなります。

人間のさが

人間のさが
ちなみに、この因果関係は成り立っています。
綺麗な花には、ついつい手が出てしまいます。
悪いとは判っていても。

人間の行動は、価値判断が原因となって起こります。<-- ここ重要。

しかし、「自然も、人間同様、価値判断が原因で起こる。」と考えるのは、人間と自然の素朴な同一視、即ち、自然の擬人化です。人間の行動原理と自然の仕組みを混同しています。同一視しています。

価値判断と因果関係
現象原因現象結果因果関係
きれいな花「きれい」という価値判断人間の行動花泥棒
自然選択説「都合がいい」という価値判断自然選択生物進化×
物理現象物理的作用物理現象物理的結果
光合成光が当たる光合成でんぷん
生物進化環境変化適応 or 絶滅進化(変遷)
自然選択説は因果関係が成り立っていません。
一方、きれいな花は成り立っています。

同じ、価値観を使った説明でも、
人間の行動については、因果関係が成り立ちますが、
自然の仕組みについては、成り立ちません。

参考に、光合成等の物理現象の因果関係も追加しました。物理現象は、物理的作用が原因となって、物理的結果が生じています。なお、生物進化は物理現象です。

自然選択説は、

  1. 自然も、人間と同じように、『いい、わるい』の価値判断機能を持っている。
  2. その判断機能を使って選択を行っている。
  3. その結果、進化が起こった。

と考えています。

本来、『価値判断』も、『選択(Selection)』、『淘汰(Selection)』も、人間の行為を表現した言葉です。『選択』や『淘汰』の主体は人間です。自然ではありません。そして、その選択や淘汰の基準は、人間の価値判断です。自然は、そのような価値判断機能は持っていません。

自然選択説は、人間の行動原理と、自然の仕組みを混同しています。「自然も、人間の行動原理と同様な仕組みで起こっている。」、「人間と同様な『いい。わるい。』価値判断機能を持っている。」と考えています。人間と自然を、同一視しています。即ち、自然を擬人化して説明しています。

自然選択説は、自然についての説明方法と、人間の行動原理が一致しているので、人間には非常に理解し易い説明になっています。実際、多くの人々が、この説明を信じています。自分の経験と一致しているからです。即ち、経験則として理解できるからです。

それは、人為選択の類推から、自然選択説が誕生した経緯からも理解できると思います。

自然と人間の違い
事象現象の仕組み通称
人間の行動原理価値判断が原因となって起こる。経験則
自然の仕組み物理的作用の因果関係に基づいて起こる。
原因:物理的作用
現象:生物進化の現象
結果:生物進化の結果
自然科学

確かに、自然選択説は、人々を納得させる事には成功しています。これは疑いのない事実です。しかし、自然科学の説明には失敗しています。因果関係が成り立っていません。『いい、わるい』の価値判断は、物理現象の原因になる事はできません。物理的仕組みを説明していません。

人々は、いったい何を求めているのでしょうか?。「説明できた。」という自己満足?、それとも、目の前の冷酷な現実?。(自信が無くなってきました。)



唯物論が生み出す絶対的確信

このような素朴な同一視の根底には、『唯物論の先入観』が潜んでいます。

  1. (唯物論の先入観)
    「我々は実体を認識している。」と思っています。
    認識しているものは実体だ。
    .
  2. (価値観の先入観)
    『いい』と認識できるのは、そこに『いい』という実体が潜んでいるからだ。
    その『いい』とう実体を、我々は認識している。
    『いい、わるい』の価値観には、絶対的根拠がある筈だ。
    (唯物論の先入観「我々は実体を認識している。」を根拠にしています。)
    .
  3. (トートロジー)
    『いい』という実体が存在しているから、『いい』と観察されるのだ。
    『いい』と見えるのは、そこに『いい』という実体が存在しているからだ。 << ここが肝
    .
  4. (自然の擬人化)
    その『いい』という実体が自然選択されるのだから、これ程、確かな話はない。
    その『いい』という実体が原因になって、自然選択は起こっている。
    自然選択と人為選択を混同しています。

.

  1. (揺るぎない確信)
    だから、『いい』という実体を選択している自然選択説は正しい。
    これ程、確かな説明はない。
    唯物論を根拠とした絶対的確信が生まれています。

このように推論しています。
ミスリードを誘う為に、わざと、言葉を曖昧に使っています。

根の深い問題です。二つの先入観と、二つの錯覚を巧妙に組み合わせて、揺るぎない確信を生み出しています。
騙しの手口が一個だけだったら見破れますが、同時に四つも組み合わされると、訳が分からなくなります。罠のカルテットです。
超一流の哲学者や学者が、150年以上の歳月を掛けて、考え抜いた『騙しの手法』なので、一筋縄にはいきません。凡人が見抜くのは困難です。騙している当人も含めて、全員が騙された手口です。

だから、「自然選択説は絶対的に正しい。」。疑うことの出来ない絶対的真理だと思っています。揺るぎない絶対的確信と信念を生み出しています。

この先入観を克服することは極めて困難です。根底に、唯物論の先入観が潜んでいるからです。「『いい』と認識できる背景には、『いい』という実体が潜んでいる筈だ。」という確信は、滅多なことでは揺らぎません。一度、(この先入観に)捉えられると逃げることができません。これは、絶対的信念です。
この『いい、わるい』の行動原理に疑念が生じると、根底にある「唯物論の先入観」にも疑念が生じて、耐え難い不安に襲われます。(だから、脊髄反射的に逃げ回っています。)

注)唯物論、価値観の先入観

現代においては、まだ、唯物論や価値観は、絶対的真理かもしれませんね。

「我々の認識しているものは実体だ。」とか、「いい悪いの価値観には、絶対的な根拠がある筈だ。」と、確固たる信念を持たれているかもしれません。その場合は、ここでの批判は全く無力になります。

そのような信念を持たれている場合は、これらが真理では無くて、先入観だと説明するのに、膨大な時間が掛かります。それでも、その信念を突き崩すことは困難かもしれません。この信念は、人間の根幹に係わる問題です。それ程生易しい問題ではありません。心の奥底には、気付かれないかもしれませんが『死の恐怖』が潜んでいます。

理性の力だけで乗り越えれるほど、生易しいものではありません。多くの経験を積み重ねて、多くの痛い思いして、始めて、現実と向き合えるようになります。現実と向き合った時に始めて、それが先入観だったと気付きます。それまでは、みな、この心地よい先入観の中で惰眠を貪っています。
(痛い思いをしなければ、わざわざ、このトゲトゲしい現実と向き合う必要はありません。フロイトの夢理論を参照下さい。)



『いい。わるい。』の価値判断は、物理現象の原因には成れない。

だから、それ(心の中の事象)は、物理現象の原因になることはできません。

「物理的作用でないもの、即ち、心の中に生じている『いい。わるい。』の価値判断が、物理現象(生物進化)の原因になった。」と主張する自然選択説は、論理的に破綻しています。物理的作用でないものは、物理現象(生物進化)の原因になることはできません。因果関係が成り立っていません。

因果関係が成り立っていないので、そのような仕組みで、物理現象(生物進化)が起こることも不可能です。
また、それを確かめようもありません。物理的作用の因果関係に基づいて述べられていないので。実験によって、或いは、観察によって、そのような因果関係が存在している事も、逆に、存在していない事も、両方とも、証明できません。

ネオ・ダーウィニズムは、物理的作用の因果関係に基づいて主張されていないので、正しいことも、間違っていることも、両方とも証明することはできません。
これは自然科学の理論ではない。」としか言えません。
その正体は、疑似科学です。

原因と結果の関係
現象因果
関係
原因結果備考
物理現象物理的作用物理的結果物理的作用が原因になって、
物理的結果が生じます。

鐘は叩かなければ鳴りません。
心の中で、思っただけでは鳴りません。
自然選択説×いい悪い
価値判断
自然選択 いい悪いの価値判断が原因となって
自然選択が起こり、
結果、生物は進化したと主張します。

しかし、物理的作用でないものは、
物理現象の原因になることはできません。
人間の行動価値判断行動きれいな花には手を差し伸べ、
醜い花からは、目を逸らします。
人間の行動は、価値判断の上に成り立っています。
自然選択説と、その発想が同じです。
この説は、人間と自然の混同、
即ち、自然の擬人化による説明です。

自然選択説は因果関係が成り立っていません。
ちなみに、集団遺伝学では、『いい。わるい』を、『確率が高い、低い』に言い換えています。
注意して頂きたいのは、『確率』は物理的作用ではありません。結果を集計した数値です。あくまでも、現象を観察した結果、求まるものです。『いい。わるい』の価値判断と同じ性質のものです。物理的作用の因果関係を説明したものではありません。
だから、これは、物理現象の原因になることは出来ません。集団遺伝学は、仮定と結果を逆転させた一種のトートロジーです。
詳細は、集団遺伝学の騙しのテクニックを参照下さい。



進化論の説明は、結果論に陥っています。

正統派進化論の「説明する」という行為を観察すると、以下の点に気が付きます。

  1. まず、観察結果に目を向けます。
  2. 次に、現象の過程を観察して、説明に都合のいい理由を探します。
  3. そして、見つかったら、それを使って、観察結果に合うように説明を組み立てています。

要は、「結果に合わせて、後付け理屈を考える。」です。

どのような現象でも、探せば、「都合のいい理由」は、必ず見つかります。だから、この後付け理屈は、必ず、成功します。当たり前ですね。結果に合わせて、説明しているので。絶対に間違う事はありません。

それ故、人々は必ず説明に成功するので、「進化論は正しい」という揺るぎない確信に浸っています。

でも、結果論は、その場限りのものです。毎回、毎回、これを繰り返す必要があります。進化の結果は毎回異なっているからです。
毎回、毎回、後付け理屈に成功するので、毎回、毎回、確信と自己満足に浸っています。肝心の生物進化の仕組みが理解できないまま、永遠に、これを繰り返しています。



説明方法が根本的に間違っています。

現代の正統派進化論は、疑似科学です。
人間が納得することと、自然科学の説明の区別がついていません。

現代の正統派進化論は、人間を納得させることには成功しています。
この事実は認めます。

確かに、『いい。わるい。』の価値観を使った説明は、理解し易く、多くの人々を納得させます。実際にも、哲学や思想、道徳、宗教は、この価値観を使った説明です。これら価値観を使った権威筋の説明は、非常に強い説得力を発揮します。それが証拠に、多くの人々から強い支持を得ています。

しかし、自然科学の説明には失敗しています。物理的作用の因果関係に基づいて説明されていないからです。

人間を納得させることと、自然科学の説明を混同しています。

人間を納得させることに成功した。』ので、『自然科学の説明にも成功した。』と錯覚しています。

説明方法が、根本的に、間違っています。人間は『いい。わるい。』の価値判断に従って行動しているから、自然も同様に『いい。わるい。』の価値判断に従って行動しているだろうと思い込んでいます。人間と自然を混同して、自然の擬人化によって、自然の仕組みを説明しています。

生物進化の現象は、物理現象なので、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。現代の哲学と科学は、あまりにも、素朴過ぎます。このようなトリックに気が付かなかったのは、哲学者の怠慢です。このトリックは、生物学以前の問題です。原因と結果の因果関係を冷徹に観察すれば、気が付いた問題です。哲学的迷信を無視して、目の前の現実に興味を持って頂ければいいだけでした。

以下では、これが自然科学の理論では無いことを説明します。自然選択説で使われている騙しのテクニックを解説します。

なお、もうひとつの重要な概念である突然変異説に関しては、『突然変異説のトリック』を参照して下さい。こちらも、また、別の騙しのテクニックが使われています。現代の進化論は、騙しのテクニックの博覧会状態です。

注)ネオ・ダーウィニズムに代わる新しい進化論については、こちらをご参照下さい。
今西錦司氏(以下敬称略)の「棲み分け理論」と、木村資生氏の「中立説」を、物理学の場の理論や制御工学の理論を使って統一しています。物理学理論と同様に、生命現象を時間と空間の関数として記述しようとしています。
なお、発想が違い過ぎているので、最初は、かなり違和感を感じるかもしれません。

1.1 二通りの説明方法

今まで、誰も気付かなかった冷酷な現実を指摘します。

人間は、本質的に全く異なった二通りの説明方法を、臨機応変に使い分けています。

罠に落ちない為に、現実に目を向けて下さい。
人間という動物の習性を、注意深く観察してみて下さい。
人間という動物の行動を冷徹に観察します。耳を塞いで。
言葉が脳を流れると、その言葉の先入観に支配されてしまうので、まず、耳を塞ぎます。
そして、眼を見開きます。
じっくり、行動を観察します。
行動パタンが充分に脳に焼き付いたら、耳を開きます。
その行動パタンに、どのような言葉を被せているかを観察する為に。

  1. まず、耳を塞ぎます。
  2. 目を見開いて、行動パタンを脳に焼き付けます。
  3. 焼き付いたら、耳を開きます。
  4. その行動を、どのような言葉で正当化しているかを観察します。

言葉によって、思考しないでください。
目を見開いて、現実を観察してください。
原因と結果の因果関係を観察してください。



人間という動物の習性

この動物は、何にでも理屈を付けたがる不思議な習性を持っています。

この動物の、この習性を注意深く観察していると、そこに、本質的に全く異なった2通りの説明方法が、臨機応変に、使い分けられていることに気が付きます。

そのひとつは、価値観を使った説明です。
もうひとつは、物理的作用の因果関係に基づく説明です。

  1. 価値観を使った説明
  2. 物理的作用の因果関係に基づく説明

例えは、植物の光合成を例にとれば、次の2通りの説明方法が可能です。
世俗的には、「なぜ、植物は育つのか?」と、言い換えた方が理解し易いかもしれませんね。

なぜ、光合成は起こる?
(なぜ、植物は育つのか?)

光合成の説明
光合成という物理現象の原因の説明について、
(植物は、なぜ育つ?)
1. 明るいから。
2. 光が当たるから。
この二通りの説明が可能です。

どちらの説明でも、それなりに納得させることが出来ます。実際、暗い洞窟の中では植物は育ちません。この経験則は、絶対に間違っていません。
  1. 明るいから、光合成が起こる。
    『明るい、暗い』の価値観を使って説明。
  2. 光が当たるから、光合成が起こる。
    『光が当たる』という物理的作用を使って説明。

そのひとつは、『明るいから、光合成が起こる。』と、『明るい。暗い。』の価値観を使って説明する方法です。どちらかと言えば、人間の体験、即ち、経験則に基づいた説明です。

確かに、明るい場所では、光合成が起っており、暗い場所では起こっていません。暗い場所では枯れます。育ちません。この経験則に間違いはありません。この経験則を否定するつもりはありません。

経験則は、現象を観察した結果、(経験の結果、)脳内部に生じる判断結果です。

感覚器官からの信号 -> 脳内部での価値判断 -> 判断結果の経験的累積 -> 経験則

の順番で起こっている現象です。

この説明方法は、世の哲学や思想、道徳、宗教上の教義、童話などに、広く使われています。これらの多くが、この価値観を使った説明です。

例えは、『赤ずきん』という童話を思い出して下さい。この童話は、『良い子の赤ずきん』と『悪い狼』の2者より構成されています。『いい。わるい。』の価値観の上に物語が組み立てられています。『悪い狼』は、罰を受けます。『良い子の赤ずきん』は、ハッピーエンドです。

『自然選択説』と、その論理構造が全く同じです。自然選択説も『いい。わるい。』の価値観の上に物語を組み立てています。『生存に都合がいい個体』は、生き残って進化に貢献します。『悪い個体』は、自然淘汰されます。

童話「赤ずきん」の構成

赤ずきんの構成
物語は、『良い子の赤ずきん』と『悪い狼』の2者より構成されています。
『いい。わるい。』の価値観の上に組み立てられています。

最後に、『わるい』狼は罰を受けます。
『良い子』の赤ずきんは、ハッピーエンドです。

生存に都合の『わるい』個体(悪い狼)は自然選択で篩に掛けられて死にます。都合の『いい』個体(良い子の赤ずきん)は生き残って、ハッピーエンドです。
物語の論理構造が全く同じです。両方とも、『いい。わるい。』の価値観を使っています。

注)これでピンと来た方は、もう、これ以上読む必要はありません。そういう事です。恐ろしいですね。人間の習性を利用して罠を仕掛けています。そして、肝心の人間の方は、自らの習性を理解できなくて、ホイホイ引っかかっています。繰り返し、繰り返し、何度でも。

もうひとつは、『光が当たるから、光合成が起こる。』と、『光が当たる。』という物理的作用の因果関係に基づいて説明する方法です。自然科学の分野で、よく使われています。

光合成は、『光が当たる。』という物理的作用が原因となって起こる現象です。

これら2通りの説明方法は、どちらでも、それなりに、人々を納得させることができます。
実際に、学問の世界も含めて、世間では、この2通りの説明方法が、臨機応変に、広く混在して使われています。
でも、受け容れやすいのは、生活実感に根差した価値観を使った説明の方です。

自然科学の説明は、一部の例外を除いて、そのほとんどが、この物理的作用の因果関係に基づた説明です。それゆえ、実際に実験によって確認することができます。仕組みの説明が、実験によって再現可能です。『いい。わるい。』の価値判断のように、各個人の主観的判断に依存しないので、誰がやっても、同じ結果を得ることができます。宗教論争や進化論争のように、総論賛成各論反対の不毛な論争に陥ることはありません。

光合成の原因と結果、その説明方法
説明方法原因結果備考
物理現象『光が当たる』
という物理的作用
光合成光合成は、『光が当たる』
という物理的作用によって起こります。
(動詞を使った説明。)
価値観を
使った説明
『明るい暗い』
の価値判断
光合成?「明るい場所では光合成が起ている。」
という経験則自体は、間違っていません。
しかし、因果関係の説明にはなっていません。
(形容詞を使った説明。)

この2通りの説明方法は、言語文法上、明確に異なっています。

『いい。わるい。』や、『明るい。暗い。』などの価値観は、人間の判断なので、形容詞です。形容詞を使った説明です。我々人間は、脳内部の情報処理の結果(価値判断結果)を表現するのに、形容詞を使っています。いや、それを表現する言語群を、言語文法上『形容詞』と呼んでいます。

現実(言葉)が先にあって、その現実の分類(文法や品詞)は、学問的後付け理屈です。形容詞は、感覚器官からの信号を、脳内部で情報処理して、その結果が得られます。その結果を表象した言語群に付けられた分類名です。

『光が当たる。』は、物理的作用なので、つまり、物の動きなので、動詞です。動詞を使った説明です。我々人間は、動きを表現する場合は、言語文法上『動詞』を使っています。いや、このような働きを持った言語群を、動詞と呼んでいます。

見落とされがちな重要な事実ですが、文法上、品詞が異なっています。

この品詞の違いに、この2通りの説明方法の謎を解く手掛かり が隠されています。人間という動物の進化過程と密接に関わっています。

自然選択説の問題点

自然選択説は、この説明方法に問題があります。

この説は、『都合のいい変異が、自然選択された。』と主張します。
いい。悪い。』の価値観を使って説明しています。「明るいから、光合成が起こる。」と同じ説明手法です。物理的作用の因果関係に基ずいた説明ではありません。

根本的に、説明方法が間違っています。
自然科学とは、およそ無縁な説明方法です。
自然科学を装った偽物です。即ち、疑似科学です。

自然科学なら、物理現象なので、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。「光が当たるから、光合成が起こる。」と、説明すべきです。

形容詞は、使うべきではありません。動詞を使うべきです。

二通りの説明方法
説明方法品詞説明例備考
1価値観
を使った説明。
形容詞明るいから
光合成が起こる。
『明るい』は文法上、形容詞です。
『明るい。暗い』の価値観を使って説明です。
人間の行動原理に基づいた説明です。
2物理的作用
を使った説明。
動詞光が当たるから
光合成が起こる。
『光が当たる』は、文法上、動詞です。
物理的作用の因果関係に基づいた説明です。
物理現象の仕組みを説明しています。

参考)疑似科学を見抜く方法

疑似科学は、人間の習性を利用しているので、その騙しの手口に気が付くのは容易ではありません。

自らの動物としての習性に気が付く作業は、自らの心の中を覗き込む作業になるので、かなりの訓練が必要になります。今、この瞬間に、自分の心を支配している欲望は何か、その欲望と向き合う必要がありが、それは人間が最も忌み嫌う作業です。その欲望が、人間という動物の根幹に係わっている本能的なものだと、そもそも、それが欲望だと気付く事自体が困難です。
だから、哲学者たちは、往々にして、これを「疑う事のできない真理」と錯覚しています。これを絶対的根拠として、論理を展開してしまっています。

しかし、このような根本的問題を無視して、表面的に「疑似科学を見抜く」という目的だけに特化するなら、その手法は、意外と簡単です。次の事を心掛けるだけです。

  1. その言葉は、物理的作用を表現した言葉か?
  2. 物理的作用の因果関係が成り立っているか?
  3. 動詞を使った表現か?
  4. 形容詞や副詞を使った説明だと要注意です。
  5. 神などの「絶対的真理」や「絶対的価値観」、「絶対に疑う事のできない事実」を持ち出している場合も、胡散臭い話です。例えば、宗教の教義やマルクスの資本論のように。正統派進化論の『正統性』の主張も、そのひとつです。そこで理性的思考を、断ち切ろうと画策しています。

以上の事を、チェックリストとして使うなら、「疑似科学かどうか」を見抜くのは比較的容易です。

ただし、この手法では、騙しの手口までは分かりません。騙しの手口を解析する為には、「欲望のコントロール」という極めて戦略的な情報処理の手法を使う必要があります。実は、ここでは、この欺瞞情報を見抜く手法を使っています。

1.2 自然選択説は因果関係が成り立っていません。

自然選択説は、物理的作用の因果関係が成り立っていません。
論理的に破綻しています。

この説は、「生存に都合のいい変異が自然選択されて、生物は進化した。」と、『いい。わるい。』の価値観を使って説明しています。
この主張を、原因と結果に分解すると、下記のようになります。

自然選択説が主張する因果関係
原因生存に都合がいい変異『いい。わるい。』の価値判断
現象自然選択
結果生物が進化した物理的結果、つまり、物理現象

注)『自然選択』と呼ばれている物理現象が起こっているかは疑問です。一方、生物進化は実際に起こっている物理的結果です。

生存に都合がいい変異が原因となって、自然選択が起こり、その結果、生物は進化した。」と、主張しています。
この説明に、多くの方々は納得すると思います。原因と結果の因果関係も、一見、成り立っているように見えます。

しかし、ここで問題になるのは、『生存に都合がいい変異』という表現です。これは、物理現象を表現した言葉ではありません。『いい。わるい。』の価値判断を表現した言葉です。

いい。わるい。』の価値判断は、現象を観察した結果、人間の心の中に生じている事象です。人間が目の前の現象を観察して、下す判断です。脳の情報処理の結果、脳内部に生じている信号です。あくまでも、それは、観察行為の結果、心の中に生じている事後の事象です。生物進化が起こる前に生じている事前の事象ではありません。

価値判断の因果関係
価値判断の因果関係
『生物進化の結果』を観察した結果、心の中に、『いい。わるい。』の価値判断結果が生じます。
価値判断結果は、心の中の事象です。
心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。

もっと本質的な問題として、価値判断結果は、生物進化の後に発生している事象です。
未来の事象は、過去の現象の原因となることはできません。時間の順番も矛盾しています。

だから、当然、それは、物理現象の原因になることはできません。心の中に生じている事象は、物理現象の原因になることはできないからです。それは、物理現象に、影響を与えることはできません。

「都合のいいもの(原因)が自然選択されて、生物は進化(結果)した。」という自然選択説の主張は、「物理的作用でないものが、物理現象の原因になった。」となってしまい、因果関係が成り立ちません。物理現象でないもの、即ち、心の中の事象は、物理現象の原因になることが出来ないからです。

もっと、本質的な問題として、『生存に都合がいい。』という価値判断は、生物進化の現象を観察した結果です。即ち、事後の事象です。生物進化が起こった結果を観察して、『生き残った生物は、都合がいい。』と判断しているに過ぎません。進化現象が起こる前に、発生している事象ではありません。だから、時間の順番から判断しても、原因になることはできません。現象の原因が、現象の結果よりも、後になることはありえないからです。

論理的に破綻しています。
これは、『いい。わるい。』の価値観を使ったトリックです。このようなトリックが成り立つ背景には、唯物論の先入観が潜んでいます。

いい。わるい。』の価値判断結果は、物理現象ではありません。心の中に生じている事象です。
だから、これは物理現象の原因になることはできません。
自然選択説は、因果関係が成り立っていません。

しかし、これだけでは、実感として、しっくりこないと思います。キツネに化かされたようなモヤモヤが残るかと。。。
確かに、理屈はそうかもしれないけど、でも、納得はできないと思います。価値観に対する揺ぎ無い絶対的確信の前では、この程度の説明では、無力です。

そこで、これからの話では、価値観を使った説明の正体を明らかにしていきます。この話は、現代の科学文明の根幹に係わる非常に根の深い問題です。

一流の哲学者や思想家の嘘が暴かれてしまいます。

1.3 自然選択説は、自然の擬人化です。

自然選択説は、自然の擬人化による説明です。

人間は、『いい。わるい。』の価値判断に基づいて行動しています。だから、確かに、価値判断は、人間の行動の原因になることはできます。
物理現象の原因になることはできませんが、人間の行動の原因になることはできます。

この為、価値観を使った説明は、強力な説得力を発揮します。簡単に、人々を納得させます。人間の行動原理と、説明原理が一致しているからです。

しかし、自然も同様だろうと考えるのは、人間と自然の素朴な混同です。
「我々人間の行動は、『いい。わるい。』の価値判断が原因となって起こっているのだから、自然も、同様に、『いい。わるい。』の価値判断が原因となって起こっているだろう。」と類推するのは、人間と自然の同一視です。自然も人間同様の価値判断機能と選択機能を有していると見なしています。

先入観1:自然も、人間の価値判断に類似した機能を持っている。
先入観2:しかも、その判断基準は、人間と自然とで一致している。

その機能によって、自然選択が行われている。だから、我々の観察結果と、自然選択の結果は一致する。
我々の観察結果と自然選択の結果が一致するのは、自然も、我々同様の選択機能(価値判断機能)を持っており、しかも、その選択基準が一致しているからである。

人間と同様の選択機能を持っていても、その選択基準が一致していないと、別のものが選択されてしまいますから、結果は一致しません。
腹が減るのは万人に共通ですが、でも、実際に「何を食べたいか」は、人それぞれです。同じものを選ぶとは限りません。進化論争が、いつも、総論賛成各論反対のジレンマに陥るのは、これが原因です。総論として、「腹が減る」事実(選択機能)は全ての人々が認めますが、各論として、「何を食べたいか(選択基準)」は意見が分かれてしまいます。宗教上の教義論争と同じで、価値観を使った論争の宿命です。

これは、人間と自然の素朴な同一視です。
人為選択の類推から自然選択説が作り出されたことからも分かるように、人間の行動原理を使って、自然の仕組みを説明しています。人間の行動原理と同じ仕組みを、自然も持っていると見なしています。

このような人間と自然の同一視は、自然の擬人化です。自然を擬人化することによって、説明を試みています。

生命現象は、生物と自然との相互作用の上に成り立っていますが、ラマルキズムは生物の側を、自然選択説は自然の側を擬人化して説明しています。共に、擬人化によって、説明を試みている点では同じです。

新旧の擬人化による説明

確かに、人間の行動原理と、説明原理を一致させれば、強い説得力を発揮します。擬人化によって説明すれば、人間の行動原理と一致しますから、理解し易くなります。抵抗なく、受け入れることができます。
しかし、『人間という動物が納得すること』と、『物理現象を説明すること』とは別問題です。

物理現象は、物理的作用の因果関係の上に成り立っています。植物の光合成は、『光が当たる。』という物理的作用が原因になって起こっている現象です。生物進化の現象も、同様に、物理的作用の因果関係の上に成り立っている現象です。

いい。わるい。』の人間の価値判断の上に成り立った現象ではありません。人間と自然の同一視、即ち、自然の擬人化による説明は不適切です。

各現象における因果関係
現象名原因現象原因の種類品詞
人間いい。悪い。人間の行動価値判断形容詞
自然選択説いい。悪い。自然選択価値判断形容詞
光合成光があたる。光合成物理的作用動詞

人間の行動は、『いい。わるい。』の価値判断が原因となって起こります。
自然選択説は、『いい。わるい。』が原因となって、自然選択が起こると主張します。
光合成は、『光が当たる。』という物理的作用が原因となって起こります。
注目すべきは、人間の行動パタンと、自然選択説の説明パタンが同じことです。

「人間の価値判断行為に類似した機能を、自然も持っている筈だ。それが証拠に、人間の価値判断結果と、自然選択の結果は一致している。」という考え方は、人間と自然の素朴な同一視、即ち、『自然の擬人化』です。
同一視しているからこそ、成り立つ論法です。
これは、人為選択の類推から、自然選択が作られたことからも理解できます。

1.4 価値観を使ったトートロジーのカラクリ

自然選択説は、価値観を使ったトートロジーになっています。
同じ価値観が、2度、繰り返されています。

  • 1回目は、観察結果を得る為に。 (「都合がいい。」という価値判断結果を得る為に。)
  • 2回目は、その観察結果を説明する為に。(「都合がいいものが選択されたから。」と説明する為に。)

我々人間は、『いい。わるい。』の価値観を持っています。
その価値観を使って現象を観察すれば、全ての生き残っている生物は『生存に都合がいい。』と見えます。

そして、その観察結果を説明するのに、同じ価値観を使って、『都合のいいものが自然選択されたから。』と説明しています。

同じ価値観が、観察結果と、その観察結果の説明に、繰り返し使われています。トートロジーになっています。

価値観を使ったトートロジーの仕組み

価値観を使ったトートロジー
価値観を使った説明は、トートロジーになっています。
同じ価値観が、2度、繰り返されています。
1回目:現象を観察して、『いい。わるい。』の価値判断を行う為に。
2回目:その判断結果を説明する為に。『いいものが選択されたから。』と。

このカラクリの背景には、唯物論の先入観が潜んでいます。
1. 都合がよく見えるのは、そこに『都合がいい。』という実体が潜んでいるから。(唯物論の先入観)
2. その実体を観察しているから、『都合がいい』と見えるのだ。(先入観の再確認)
3. 生物進化では、その『都合がいい』という実体が選択されているのだ。(自分を納得させる理由付け)
と、思っています。

確かに、『いい。わるい。』の価値観を使って進化現象を観察すれば、「全ての生物は、実に巧みに環境に適応している。」ように見えます。「生存に都合がいい形態をしている。」ように見えます。これは、間違いのない事実です。この経験則に、間違いはありません。この経験則を、否定するつもりはありません。

しかし、その『都合がいい。』という観察結果を説明するのに、「都合のいいものが自然選択された結果だ。」と説明するのは、同じ価値観の繰り返しです。
同じ価値観が、観察結果と、その観察結果の説明に、繰り返し使われています。

「白い馬は、なぜ白く見える?」と聞かれて、「白いから」と答えるようなものです。
我々は、実体を認識の対象にしていると思っています。だから、白い馬が白く見えるのは、そこに白い実体が存在している為と思っています。即ち、白い実体を認識しているので、白く見えると思っています。
余分な言葉を省力して、解り易く表現すれば、『白く見えるのは、白いから。』です。
都合がよく見えるのは、都合のいいものが選択されたからです。

白い馬

白い馬
白い馬を見て
「なぜ、白い?」と聞かれて、
「白いから」と答える。
「白い馬は、白い本質を持っているから、白く見える。」と思っています。

「どの生物も生存に都合がいいように見えるのは、そこに『いい』という本質が存在しているから。その本質が選択されるのだから、これ程、確かな話はない。」と思っています。

進化論では、「なぜ、生物はどれも生存に都合がいい姿をしている?」と聞かれて、「都合のいいものが自然選択されたから。」と答えています。

都合がいいように見えるのは、そこに『都合がいい』という実体(本質)が宿っている為と思っています。「その実体(本質)を認識しているので、『都合がいい』と見える。」と思っています。
生物進化は、その『都合がいい』という実体(本質)が、自然選択された結果である。より『都合がいい』実体(本質)が選別されて残った結果、生物は、より『都合がいい』姿になった。即ち、進化したと思っています。

余分な言葉を省力して、解り易く表現すれば、

都合がいいように見えるのは、都合がいい本質が宿っているからです。その『都合がいい』という本質が、自然選択されたので、より都合が良くなった。つまり、生物は進化した。これ程、確かな話はありません。

そこには、『我々は、実体(本質)を認識の対象にしている。』という唯物論の先入観が潜んでいます。

『その実体の実在性の証明は、認識できていることにある。つまり、実体が存在しているから、認識できるのである。認識できている事実が、存在の証拠である。実際に見えているのだから、これ程、確かなことはありません。(限りなく循環論法です。) 』と思っています。

なぜ、こんな単純なトリックに、200年もの間、一流の哲学者や科学者が、騙されていたのか不思議です。
「一人ぐらいは。。。」と思うのですが、全滅です。深い闇を感じます。

現代文明は、その多くが『いい。わるい。』の価値観の上に組み立てられています。
宗教も、道徳も、哲学も、思想書も、その多くは、価値観を使った説明です。この為、自然選択説同様に、トートロジーになっている可能性が大です。

例えば、一世を風靡したマルクスの資本論は、『労働』に絶対的価値を見出し、労働者には価値があり、労働をしない資本家は、労働者を搾取している絶対悪であると断定しています。
労働者と資本家の欲望の対立を、『善と悪との闘い。』即ち、善と悪との階級闘争と見なして、暴力を正当化しています。

これ以外にも、「ミイラ取りが、ミイラになっている。」ような事例が。。。。
一抹の不安を覚えます。



大脳ロボトミー患者を使た実験

ここでの話は、実は、大脳ロボトミー患者を使った実験を背景にしています。
自然選択説の説明は、この患者を使った実験結果と瓜二つでした。

非常に、示唆に富んだ内容だったので、強く記憶に残っていました。でも、進化論批判に取り組む遥か前だったので、メモも取っておらず、出典は思い出せません。

かつて、(1940年代頃から、)てんかんの治療として、脳梁を切断する手術が行われていました。もちろん、現代では行われていません。脳梁は、右脳と左脳を繋ぐ連絡路なので、ここを切断すると、右脳と左脳の連携が出来なくなります。
このような大脳ロボトミー手術を受けた患者を使った実験でした。

前提の知識

この話を理解する為には、次の五つの前提となる知識を理解する必要があります。

  1. 大脳は、右半球と左半球に分かれている。
  2. 右と左は、脳梁で繋がれ、情報の交換と共有が行われている。
  3. 大脳の左右は反転している。例えば、体の左側の視覚情報は、右半球に投影される。
  4. 言語野は左半球にある。(左右の機能は、微妙に、異なっている。)
  5. かつて、てんかんの治療として、脳梁の切断手術が行われていた。

実験内容

このような脳梁を切断された患者を使った実験でした。

大脳ロボトミー患者の左側に、おもしろい絵を置いて見せます。
この絵の情報は、大脳右半球に投影されます。
その結果、クスクス笑います。
そこで、「なぜ笑うの?」と、言葉を使って質問します。
言語野は左半球にあるので、左脳が答えを返してきます。「おもしろいから」と。
ところが、脳梁が切断されているので、右脳が見ているおもしろい絵のことを、左半球の脳は理解していません。
ただ、自分の体がクスクス笑っている事実は、(自分の体を見て、その)観察結果から理解しています。この観察結果から、言語脳である左半球は、それらしい理由を付けて、「おもしろいから」と、(質問の答えを言葉で)返していました。

「おもしろいから」は結果であって、原因ではありません。絵をみて、「おもしろい」と感じているに過ぎません。一連の経緯で悪質なのは、言語を司る左脳自身は、その「おもしろい絵」を見ていないことです。見ていないのに、「おもしろいから」と(もっともらしい)嘘を付いていることです。

この実験結果に興味をそそられたのは、次の二点でした。

  1. 左脳は、知らないのに、知ったがぶりをして、それらしく答えを返していた事。
  2. 正直に、「知りません。」とは答えなかった事。

この「観察結果を、後付け理屈で説明している姿」は、非常に強く印象に残りました。思い当たる節が、結構あったからです。世の中は、これで満ち溢れていました。

現代の正統派進化論と向き合った時も、直ぐに、デジャブを感じました。自然選択説の説明が、まさしく、これだったからです。

彼らは、「生き残った個体は、どれも都合がいいように見える。」という観察結果から、その観察結果を、「都合のいい個体が自然選択されたから。」、つまり、「いいものが選ばれたから、いいと見えるのだ。」と、説明していました。

そして、(ここから先は、大脳ロボトミーの実験と違って、さらに一歩踏み込んでいたのですが、)彼らは、現象の過去の経緯を丹念に調べ、物理的、科学的「都合がいい」理由を探しました。どのような人間にも取り柄のひとつぐらいはあるように、丹念に調べ上げれば「都合がいい」科学的理由は、(事の大小を無視すれば)必ず見つかりました。
当たり前ですね。「いい、わるい」は、所詮は、主観的問題なので。同じ問題でも、見る方向を変えれば、「いい」と見えます。悪い部分は見えなくなります。

その見つかった「科学的に都合がいい理由」を使って、後付け理屈の説明を行っていました。この行為は、科学的に合理的に行われたので、これを、多くの人々は、「科学的」と錯覚してしまいました。ネオ・ダーウィニズムを自然科学と思い込んでしまいました。

「結果を、後付け理屈で説明している現実」には、最後まで、気が付いていませんでした。誰も、この行為の愚かさに気が付かなったのです。

タダの単なる結果論に過ぎなかったのですが、結果論は、結果に合わせて説明を組み立てるので、絶対に、結果は間違っていません。人々は、説明結果が、観察結果と合致しているので、自然選択説は、科学的に正しいと思い込んでいます。絶対的確信を生み出しています。

大脳ロボトミー患者のデータが無ければ、その(騙しの)仕組みが分からず、見逃してしまうところでした。
正統派進化論の本質を突いた実に興味深い実験データでした。

一度、突破口が見つかれば、後は腕力勝負です。ここで述べている内容は、そのような腕力勝負の結果です。(哲学者とは異質な)論理的思考力を使って、(腕力で)問題を整理しています。

注)よく似た話

人は、悲しい時、よく泣きます。
そこで、「なぜ、泣いているの?」と質問されます。
すると、多くの場合、「悲しいから」と答えます。

辛い出来事に直面して、「悲しいと感じた」から泣いているのであって、「悲しい」と感じたのは辛い出来事に直面した結果です。「何に直面して悲しいと感じたか」の原因の説明にはなっていません。失恋なのか?、死別なのか?。。。。その悲しいと感じた辛い出来事を説明すべきです。その辛い出来事が悲しみの原因です。泣いている原因です。

人が泣くのは「悲しいから」ではなくて、実は、悲しみから目を逸らす為です。泣く行為に心が支配されたら、辛い現実と向き合わなくても済むからです。
その本質は、ストレスの発散行為です。それが証拠に、泣けば、ストレスが発散されて、少しだけ楽になります。子供は泣けば、直ぐにケロッとしています。泣いても、(大人と違って)根に持っていません。今までの(泣いた原因の)経緯を全て忘れています。

残念ですが、世の中、このトリックで溢れています。

1.5 トリックの背景

このようなトリックが成り立つ背景には、『唯物論』の先入観があります。

現代科学の根底にある哲学は、唯物論です。
この唯物論では、「ものの性質や本質は、その物の中に宿っている。」「その本質を、我々は、認識の対象としている。」と考えています。
つまり、「我々は、実体を認識の対象にしている。」と、素朴に信じています。

例えば、白い馬を例にとれば、「白い馬が白く見えるのは、その馬が、『白い』という本質(実体)を持っている為である。その『白い』という本質(実体)を、我々は、観察(認識)の対象にしているので、白く見えるのだ。」と考えています。
即ち、「白いから、白く見えるのだ。」「白い(実体を持っている)から、白く見えるのだ。」と思っています。
限りなく、循環論法です。

唯物論の先入観を使った循環論法
唯物論の先入観白い馬には、『白い』という本質が宿っている。
観察結果の説明その『白い』という本質を観察しているから、白い馬は、『白い』と見えるのだ。
と、素朴に信じています。

もちろん、実際は、白く見えるのは、全ての波長の光を、乱反射してしまう為ですが。そのような色認識に関する物理的知識がなければ、この論法で、充分納得する(騙す)ことが可能です。

自然選択説も、この唯物論の暗黙の先入観 を巧みに利用しています。

「生物がどれもうまく環境に適応している。」ように見えるのは、「そこに、『いい』という本質(実体)が宿っているからだ。」と思っています。

即ち、

  1. 生き残った生物が、どれも『いい』ように見えるのは、そこに、『いい』という本質(実体)が宿っているからだろう。
  2. それを、我々は観察の対象にしているから、『いい』と見えるのだ。
  3. 即ち、「いいから、いいと見えるのだ。」。
  4. その『いいという本質』が自然選択されたから、生物は、進化、発展した。これ程、確かな話はない。

限りない循環論法です。

と考えています。

その根底にあるのは、唯物論の先入観です。

唯物論の先入観

(1) 価値判断

我々が持っている『いい。わるい。』の価値観を使って生命現象を観察すれば、「全ての生物は、生存に都合がいい。」ように見えます。

これは、事実です。
この事実を否定するつもりはありません。

(2) 唯物論の先入観

「『都合がいい。』という本質を持っているから、『都合がいい。』と見えるのだ。」と思っています。

現代科学の土台になっている哲学は、唯物論です。
この哲学では、「ものの性質は、その物の中に宿っている。人間は、その宿っている本質や実体を認識の対象のしている。」と考えています。
即ち、「我々が認識しているのは、実体である。」と見なしています。

この先入観がある為に、『都合がいい。』と見えるのは、「そこに、『いい』という本質や実体が宿っている為だろう。」と判断しています。
つまり、「『都合がいい。』という本質を持っているから、『都合がいい。』と見えるのだ。」と思っています。
思考過程、(1)と(2)は、循環論法です。

(3) 自然選択説

自然選択説では、「生物が持っている『都合がいい。』という本質が、自然選択されている。」と考えています。そこには、『いい』という本質が宿っていると考えています。

『いい』という本質が自然選択される訳ですから、これ程、確かなことはないと思っています。自然選択説には、疑うことのできない、明確な根拠があると思っています。

この推論を、誰も疑っていません。

(4) 生物進化

「『都合がいい。』という本質が自然選択された結果、生物は進化した。」と考えています。
即ち、「『都合がいい。』ものが自然選択され、残ったから、『都合がいい。』ように見える。」と考えています。価値判断結果と、唯物論の先入観を同一視しています。

(5) 価値判断結果と、自然選択の一致

価値判断結果と、自然選択説による推論結果は一致します。

自分がこの眼で観察しても、『都合がいい。』ように見えます。
「この原因は、『都合がいいという本質』が自然選択され、残った為。」と、考えています。
観察結果と自然選択の結果が一致するので、自然選択説は正しいと信じられています。

このような一致が生じてしまう原因は、最初の仮定に問題がある為です。
即ち、論理の出発点になっている唯物論の先入観、「人間は、物事の本質や実体を認識の対象にしている。」の為です。この先入観の為に、それ以後の推論結果と、価値判断結果が一致します。

生物学者は、「生物進化は、『都合がいい。』ものが自然選択された結果である。それが証拠に、我々の観察結果と、自然選択の結果は一致している。」と考えています。

1.『都合がいい。』ように見えることを根拠にして、
2.「『いい』という本質が宿っている。」と仮定し、
3.「その本質が自然選択された。」と推論した訳ですから、

自然選択説の結果と価値判断結果が一致するのは当たり前です。循環論法です。

循環論法
唯物論の先入観生物には、『いい』という本質が宿っている。
観察結果の説明その『いい』という本質を認識の対象にしているから、『いい』と見える。
自然選択説の推論先入観を真理だと見なして、結果論で説明しています。
全ての生物が、環境にうまく適応しているように見えるのは、その『より、いい』という本質が、自然選択された結果だろう。

『都合がいい。』ように見えるのは、そこに『都合がいい。』という本質が宿っている為である。
その本質が自然選択されたから、生物は進化した。
つまり、進化の結果と、我々の観察結果が一致するのは、自然選択説が正しい証拠である。

限りない循環論法です。

1.6 価値観を使った論争の宿命

『いい。悪い』の価値観を使った論争は、『総論賛成、各論反対』のジレンマに陥ってしまいます。

進化論争がいつも不毛の水掛け論に終わってしまう原因は、それが価値観を使った説明だからです。宗教上の神学論争と根は同じです。

神学論争では、『神は実在している。』『神は真理である。』『神は正しい。』という総論に関しては、全ての教団が同意します。しかし、具体的に『神の姿は?』『真理とは何か?』『何が正しいのか?』となった場合、不毛な宗教論争へと発展してしまいます。神の姿は、教団によって、夫々異なっているからです。各教団の都合と欲望は、夫々異なっているからです。それ故、具体的な『正しさ』も、教団毎に異なってしまうからです。

互いに、相手を『邪教だ。』と、罵り合います。熱くなり過ぎると、「我が神以外に神はなし。」とばかりに、真理と正義を賭けて、宗教戦争を繰り広げることになってしまいます。相手に邪教のレッテルを貼って、その邪教を駆逐し、殲滅しようとします。それが、ただの単なる『欲望の正当化』に過ぎないことに、気付かないままに。

教団という組織は、神とは何の関係もありません。関係あるのは、『組織は欲望の産物である。』という事実のみです。マフィアと同じです。時として、マフィアよりも悪質です。

物事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。言葉によって判断するのではなくて、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。

『組織を作る。』という欲望が、組織に付随した様々な利益と不幸を生み出しています。そして、その組織が生み出す利益を巡って、対立と争いが生まれています。宗教戦争は、マフィアの抗争よりも、遥かに大規模です。正義を信じている分、厄介です。悪魔や敵には無慈悲です。残虐です。神の名のもとに、徹底的な浄化(破壊と殺戮)が行われます。教団が欲望の産物であるが故の哀しい一面です。

自然選択説でも、『都合のいいものが選択された。』という総論では、全ての人々の意見は一致します。しかし、では具体的に『何が都合がいいのか?』という各論になると、収集のつかない不毛の論争に発展してしまいます。
一般論だと、全ての人々の賛同を得ることが出来るのに、現実に目を向けた途端に破綻してしまいます。

価値判断は、見る人、見る立場、見る方向によって、全て、異なってしまうからです。
それは、立ち位置と方向によって決まるものです。都合がいい事象も、見る立場や見る方向を変えると、都合が悪くなってしまいます。
まるで魔物のように、変幻自在に姿を変えてしまいます。

ところが、人々は、『価値観には絶対的な真理や根拠が宿っている筈だ。』という先入観(総論)を持っています。唯物論の先入観から、『認識しているものには、本質が宿っている。』と考えているからです。

この先入観(総論)と、『見る立場、見る方向によって変わってしまう。』という現実(各論)とのギャップの前で、人々は、いつも右往左往しています。

なんとか、『先入観』に合致する『現実』を見つけようと、論争を繰り広げていますが、いつも、魔物相手に『総論賛成、各論反対』のジレンマに陥っています。

宗教論争が、いつも不毛に終わるように、進化論争がいつも不毛に終わってしまうのは、同じ原因からです。価値観を使った説明だからです。

価値観に抱いている先入観と、価値観の置かれている現実とのギャップの為です。

これらは、欲望の正当化と密接に結びついているので、厄介です。

価値観に抱く先入観と現実のギャップ
総論価値観への先入観価値観には絶対的な真理や根拠が宿っている筈だ。
各論価値観の現実見る人、見る立場、見る方向によって変わってしまう。
まるで魔物のように、変幻自在に姿を変えてしまう。

1.7 集団遺伝学の騙しのテクニック

ちなみに、集団遺伝学では、『いい。わるい』の価値観を、『確率が高い、低い』に言い換えています。言葉を変えているだけで、内容は変わっていません。

従って、騙しのテクニックも、自然選択説と基本的には同じです。唯一の相違点は、確率論を使っているので、一見、科学的に見えることだけです。確率論を使って、目くらましと印象操作を行っているので、多くの科学者が騙されています。



確率は、結果を集計して、始めて求まるものです。
現象の仕組みを説明する手法ではありません。「仕組みは分からないが、結果を集計したら、常に、一定の確率分布になる」と主張しているに過ぎません。本質的に結果論です。『いい。わるい』の価値判断と同じです。『いい。わるい』も確率も、共に結果を見ての判断や評価です。

だから、これは現象の原因になることはできません。結果は、その結果を生じさせた現象の原因にはなれません。「生物進化の現象の結果を観察したら、目の前で生き残っている個体は、どれも生存に都合はいい姿をしている。」と判断されるのと同じように、「生き残った個体は、生存確率が高かったのだろう。」と推測しているに過ぎません。このような判断や推測は、現象の原因になることができません。生存確率は結果であって、原因ではないからです。

もし、前もって生存確率を決定できるなら、もう既に、その時点で進化の仕組みは解かっていることになります。前もって生存確率を決定する仕組みそのものが、進化の仕組みだからです。

逆に、確率の決まっていない事象に確率論は適用できません。
確率論を適用できなければ、集団遺伝学の論法も成り立ちません。

「生存確率を前もって仮定すれば、確率論を使って生物進化を論ずることができる。」
つまり、
「進化の仕組みが判っているなら、生存確率を前もって決定できるから、確率論を使って進化を論ずる事ができる。」という集団遺伝学の主張は、(意味不明の)トートロジーです。

生存確率は前もって決まっている訳ではない。生存確率を仮定したらの話だ。仮定すれば、確率論が適用できる。だから、集団遺伝学の論法も成り立つ。意味のある結論が得られる筈だ。」と反論されるかもしれません。

でも、そう言われても困ってしまいます。生存確率を仮定した時点で、もう既に、話の大勢は決まっているからです。結果は、(仮定した)確率分布に従うだけです。確率現象は、大勢としては、確率の高い方向に向かいます。確率の低い方向に向かうことはありません。確率とは、結果の集計に過ぎないからです。

先に結果を仮定したら、集団遺伝学の推論結果は、出発点で仮定した結果のままです。一体、集団遺伝学は何を論じたいのでしょうか?。意味不明です。



このような意味不明の論法が成り立つ背景には、『確率』という言葉に対する間違った先入観があります。
「確率は、前もって決まっている数学的真理だ。」とか、「確率論は科学的方法だから、これを使えば、科学的証明が可能になる。」とか。そのような先入観を持っていると仮定しないと、集団遺伝学の不可解な言動は理解できません。

しかし、『確率』の正体は、現象の結果を集計したものに過ぎません。現象の原因ではありません。あくまでも、現象の結果です。だから、現象の仕組みを説明する手法には成り得ません。あくまでも、結果を、確率分布として論じる事ができるだけです。

確率論を前提とした集団遺伝学は、進化の仕組みを説明する手法ではありません。

また、(ここが重要なのですが)、進化の結果を、確率分布として論ずる事もできません。
生物進化は、非常に多くの要因から構成された複雑な現象です。前提条件が異なれば、生存確率も異なってきます。その全ての前提条件について、実験することは不可能です。

そもそも、現象が再現する事はありません。生物進化の現象は、歴史に「もしも」が無いのと同様に、一回切りの現象です。再現しない現象は、確率データの収集も出来ません。従って、過去のデータを使って、未来の確率分布を予測する事も不可能です。

生存確率は、あくまでも仮定の産物です。そのような根拠のない空想を、論理の出発点に持ってきている集団遺伝学は、自然選択説同様、何も有効な結論を導く事はできません。仮定の上に成り立った、ただの空論です。

集団遺伝学の唯一の成果は、確率論では、進化を説明できない事が分かった事です。

確率論では、複数の事象が同時に起こる確率は、個々の事象の確率の掛け算になります。

例えは、サイコロを振って1が出る確率は1/6です。これなら起りそうな予感がします。ところが、二個のサイコロの目が同時に1になる確率は、(1/6)*(1/6) = 1/32 です。10個だと、約6億分の1です。「誰も起こる気がする。」とは思いません。

生命現象は、非常にたくさんの要因から構成された複雑な現象系です。その全ての要因を我々はまだ把握していません。調べれば調べる程、新しい発見をします。我々が如何に無知か思い知らされいます。何も知らなければ、自分の知っている事だけを見て、「自分は全てを知っている全知全能の神だ。」と妄想に浸れます。

そのような複雑な現象系において、(複数の)都合がいい事象が同時に起こる確率は限りなくゼロに近づきます。
例えば、キリンの首が長くなった現象も、事はそれ程単純ではありません。首が長くなった事で、様々な副作用が生じます。長い首を支える為に、骨格の改善が必要です。高い頭にまで血液を送る為に、循環器系の改善も必要です。血圧を上げれば、高血圧の副作用が発生します。何処かを弄ると、何処かに副作用が波及します。その副作用が、さらに別の副作用を誘発します。現象は、鎖のように連鎖しています。
このような複数の事象が、バランスを保って同時に起こる確率は、限りなく低くなります。

それ以前の問題として、全ての要因を把握できないので、確率計算自体が不可能です。現実が理解できなければ、何も計算できません。

つまり、集団遺伝学は、(皮肉にも)「確率論では進化が起こらない事」を証明しています。

でも、現実には、進化は起こっています。
現実と理論(集団遺伝学)が一致していません。一致しない場合は、「理論は正しい。現実が間違っている」訳ではありません。理論が間違っています。つまり、集団遺伝学が間違っています。進化は、確率現象ではない事を物語っています。

ここが集団遺伝学の騙しのポイントです。集団遺伝学は、極端な単純化、即ち、複雑な現象系である現実を無視して、ある特定のひとつに絞って、それだけに焦点を当て、あたかも、現象が起こるかのような印象操作を行っています。つまり、サイコロ一個だけの話に単純化して、印象操作を行っています。

現代の気候変動騒動と似ています。気候も、進化同様、複雑な現象系です。CO2、ひとつだけを取り出して語れる程、単純ではありません。
多くの要因が複雑に絡み合って、まだ、気象学者でさえ、その全貌を掴み切れていません。現状は、気候変動に影響を与える要因とその可能性をリストアップしている段階です。各要因間の関連については、ほとんど、手付かずです。

極端な単純化による印象操作は、集団遺伝学も気候変動騒動も同じです。よく似ています。



注)先入観と現実の差

ルーレットは、みんな確率事象だという先入観を持っています。でも、現実には、台毎やディーラー毎に微妙な偏りがあります。ここを突いて、カジノで大儲けをした人がいます。

金融取引に、裁定取引というものがあります。数字を交換した瞬間に利益が確定しまう金融取引の一種です。リスクなしの取引です。デリバティブの世界では、市場原理に反した制度的矛盾(政府等による規制)は、全て、裁定取引のターゲットに出来るという原則があります。「先入観(常識)と現実(市場原理)の間に差が生じていると、その差を突いて、利益を確定できる方法がある。」という意味です。

先入観と現実とは、同一ではありません。常に差に生じています。先入観は常に秩序を求めますが、現実は、いつも、ボーダレスです。
一般に、先入観の方が、現実よりも遅れています。一定のタイムラグで、現実を追いかけています。このタイムラグに気が付いて、利用できるかどうかが大切です。

集団遺伝学でも、「生存確率は、前もって決まっている真理だ。」という先入観を持っています。ここを突いて、名声を手にした人々がいます。

1.8 まとめ

生物進化の現象は物理現象です。だから、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。

『いい。わるい。』の価値観を使った自然選択説の説明は、『自然』の擬人化です。

我々人間は、2種類の説明方法を、臨機応変に使い分けています。

そのひとつは、「いい。わるい。」の価値観を使った説明です。
もうひとつは、「物理的作用の因果関係」に基づいた説明です。
文法上は、形容詞を使った説明と、動詞を使った説明の違いです。

自然選択説の説明は、「いい。わるい。」の価値観を使った説明です。
「物理的作用の因果関係」に基づいた説明ではありません。

これは、自然科学の理論ではありません。
宗教や童話と同じ論法を使った、疑似科学です。

このような疑似科学の為に、優秀な人材が無駄遣いされてきたことに、そして、今現在も無駄遣いされていることに、心が痛む思いです。
現実は、優秀な人々が頭の体操に夢中になっているだけです。尤もらしい理屈を思いつく為に。。。。
動物としての性(さが)に振り回されていないで、冷酷に、現実に目を向けることを希望します。人生を無駄にしない為にも。

人間が納得することと、自然科学の説明とは、別問題です。

なお、現在、ネオ・ダーウィニズムに代わる新しい生物進化の理論を準備中です。今西錦司氏の『棲み分け理論』と、木村資生氏の『中立説』を、物理学の『場の理論』と、『制御工学』の知識を使って統一しました。生命現象に関する理論を作って、その一部として、生物進化を論じています。

必要とするデータが不足しているので、苦労しています。こんな疑似科学の為に、時間が無駄遣いされている現実を残念に思います。「もう少し、冷酷になって頂ければ、もう少し、データが揃っていたのに。自分は、もう少し楽できたのに。」と。

総評(愚痴)

現代の正統派進化論は、騙しのテクニックの博覧会です。様々な騙しのテクニックが駆使されています。

その意味では、正統派進化論は、反面教師として、科学史の貴重な遺産です。

参考 1)突然変異説

突然変異説も、同様に、自然科学とは無縁な考え方です。

この説は、創造神話と同じように、因果関係を断ち切るテクニックです。
話しの始まりに、『突然』という言葉を持ってくることによって、突然、変異が起こった時点よりも前の因果関係を無視しています。即ち、突然変異は、因果関係も無しに、突然、起こった現象だと思っています。ここで、因果関係の鎖を切断しています。詳細は、こちらを参照下さい。

参考 2)二通りの説明方法の生物進化の由来。

【価値観を使った説明の由来】

価値観を使った説明は、その原型を、動物の発生に求めることができます。感覚器官からの信号を判断することと密接に結びついているからです。少なくとも、5億年前からの機能です。もちろん、それを言葉で表現できるようになったのは、知的生命体からですが。機能自体は、かなり古いものです。

動物は、外部感覚器官からの信号を、脳などの神経組織で処理しています。この時、信号は、右か左のどちらかに分別されています。『暑い。寒い。』とか、『明るい、暗い』のように、ある一定の判断基準に基づいて、両端に分別されています。
この機能を、一般に、価値判断、又は、価値観と呼んでいます。進化過程で、動物が獲得した機能です。この機能で使われている言葉を、言語文法上は形容詞と呼んでいます。形容詞は、外部感覚器官からの信号を分別する様子を表現した言葉です。

従って、形容詞や価値観は、一般に、『いい。わるい。』や、『高い。低い。』などのように、両極端から構成されています。情報の処理方法が、価値判断や、分別に依存しているからです。両極端のどちらかに分別することが、生きる為の情報処理だからです。

仏教では、価値観のことを、『両極端』と表現しています。価値判断を、両極端のどちらかに分別する行為、即ち、『分別智』と呼んでいます。「分別智に振り回されてはいけない。」と説いています。油断すると、進化論のように、分別智のドグマに陥ってしまうからです。

マルクスのように、労働に絶対的価値観を説いた思想は、純粋培養された学者には受けは良かったけど、結果は、歴史が証明しているように悲惨でした。ただ単に、階級闘争の名の下で大量虐殺が行われ、無慈悲な独裁政権が生み出されただけでした。哀しいことに、『階級闘争』が暴力の正当化に使われていました。残念ですが、マルクスは人類の歴史が続く限り、永遠の反面教師(毛沢東の言葉)です。この過ちを繰り返すべきではありません。純粋培養された人間には、『絶対的価値観』は、麻薬です。

【因果関係を使った説明の由来】

一方、因果関係を使って説明する方法は、その原型を知的生命体の発生に求めることができます。精々、数百万年前か、数千万年前からです。かなり、新しい機能です。

知的生命体は、意識器官を使ったシミュレーション(考える行為)の為に、現象の因果関係を理解する必要がありますが、その為の機能です。意識器官が発達した人間やサル、象、クジラ等に見られる機能です。もちろん、言葉で表現できるのは、人間だけですが。詳細は、知的生命体の心の構造を参照して下さい。

参考 3)進化論と宗教対立

進化論が宗教上の教義と激しく対立するのは、共に、『いい。わるい。』の価値観を使って、自らの正統性を主張し合っているからかもしれません。

丁度、宗教どうしが、近親憎悪で、激しく対立しているように。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じアブラハムの宗教です。同じ兄弟どうしで、生家(エルサレム)を巡って、生家争いをしています。「ここは僕の生まれた家だ。」と。同じ似た者同士であるがゆえに、逆に、否定と競合が激しくなって、憎しみが倍増しているのかもしれません。「可愛さ余って、憎さ百倍」の世界です。近親憎悪の世界です。

現代は、科学教の時代です。人々の信じている価値観が、『神』から『科学』に移り変わっている時代です。現代の人たちは、『科学』という神(価値観)を信じています。

もの事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。

言葉の違いに惑わされないで、『行い』の同一性に注目して下さい。『行い』によって生じている『結果』、即ち、原因と結果の因果関係を、冷徹に観察して下さい。言葉は、残念なことに、欲望を正当化する為の手段としてしか使われていません。
夫々の教団は、教団という名の組織の欲望を言葉で正当化することに一生懸命で、とても、現実に目を向け、原因と結果の因果関係を観察する余裕がありません。その余裕があれば、キリストやムハンマドになれるのに残念です。

宗教も科学も、『価値観を信じている。』という『行い』は同じです。
信じている神(価値観)が異なっているだけです。『科学』という神(価値観)を信じているか、アブラハムの神々(価値観)を信じているかの違いだけです。神という言葉で代表される価値観を信じている『行い』は同じです。
無神論者は、『価値観を信じる行為』自体を否定している人々では無くて、既存の『神』と呼ばれている価値観を否定している人々です。彼らは、『科学』と呼ばれている新興宗教の新しい神(価値観)を信じています。

案外、科学教(新興宗教)とアブラハムの神々(既存宗教)との間で、人間の心の支配を巡って、宗教対立が生じているのかもしれません。進化論は、たまたま、既存宗教と同じように、『いい。わるい。』の価値観を使って正統性を主張した為に、目の敵にされたのかもしれません。

ネオ・ダーウィニズムは、別名『正統派進化論』と、『正統派』という宗教用語を使って修辞されています。この言葉を使い方を見ていると、心の奥底では、これは科学教のひとつ、即ち、宗教だという自覚があるみたいです。

それが証拠に、仏教は、『いい。わるい。』を主張しないので、進化論も否定しません。仏教も、輪廻転生 という、進化論とは別の生命観を持っていますが、生物進化の現実は受け入れています。アブラハムの宗教のように、激しく対立し、批判することはありません。心理的抵抗は、ほとんどありません。

なお、輪廻転生は、仏教の変遷過程で、インドの土着信仰が紛れ込んでしまったものです。仏教とは、関係ありません。
仏教自体は、生死観を持っていません。ただ、「人間、欲望を持ち続ける限り、その欲望によって、同じ過ちを繰り返す。だから、同じ過ちを繰り返さない為にも、欲望を鎮めることが大切だ。」と、教えています。

この話と、輪廻転生が、混線してしまったようです。「命への執着が、生死を繰り返す。」と。最初期の原始仏教には無かったのに、ある日、突然、『輪廻転生』が現れました。

参考 4)童話と進化論

グリム童話の『赤ずきん』を思い出して下さい。この物語は、『よい子の赤ずきん』と、『わるいオオカミ』とから構成されています。『いい。わるい。』の価値観の上に、物語が組み立てられています。

自然選択説も、『いい。わるい。』の価値観の上に、物語が組み立てられています。その論理構造が全く同じです。『言葉』は違っていますが、『行い』は同じです。

ここに、自然選択説が強い支持を得た理由が隠されています。その本質は、進化童話だからです。『赤ずきん』と同じ論理構造だからです。
童話なので、子供の頃から慣れ親しんでおり、思考習慣と相性がよく、理解し易い為です。この思考習慣と相性がよく、直観的に理解し易いことが、絶大な支持に繋がっています。

参考 5)空の哲学

これらの思考作業の土台には、『原始仏教』や『空の哲学』を使っています。

現代科学の土台となっている唯物論は使っていません。余りにも素朴過ぎて、使い物になりませんでした。読まれていて、意味不明の違和感を感じられるのは、背景になっている哲学そのものが、現代科学とは異なっているからです。
土台そのものが違っているので、その上に展開される発想と論理は、現代のそれとは、かなり異なったものになっています。

原始仏教や空の哲学は、下記のように説明しています。

1)意識は感覚器官の一種である。
2)その知覚対象は、脳内部の事象である。
3)これらの知覚対象は、脳内部で蠢いている欲望によって作り出されている。

4)それ故、意識知覚しているものは、実体の無いものである。
5)そのような実体の無いものへの拘りや執着から離れることが大切である。

空の哲学の詳細は、『空の哲学』を参照下さい。
意識が感覚器官である説明は、『知的生命体の心の構造』を参照して下さい。
意識知覚している世界の正体が知りたい場合、『意識体験している3つの世界(夢現幻)』を参照して下さい。
心理学や生理学に興味がある場合、『フロイトの夢理論』も参考になるかもしれません。願望充足の過程について説明しています。

参考 6)言葉の違い

正統派進化論の批判作業で、厄介な所は、言葉での表現が変遷している事です。下記のように、様々な言葉を使って説明されています。

  1. なぜ、進化した --> (いいものが)選択されたから。
  2. なぜ、進化した --> 選択圧が働いたから。
  3. なぜ、進化した --> 淘汰圧が働いたから。
  4. なぜ、進化した --> (わるいものが)淘汰されたから。
  5. なぜ、進化した --> 生存確率に差が生じているから。
    等々、、、、

臨機応変に、これらの言葉が使い分けられています。ある言葉に絞って批判作業を行うと、別の言葉を使って反論されてしまいます。まるで、いたちごっこです。
そこで、(言葉尻を捉えた不毛な論争に巻き込まれない為に、)この問題を整理します。「(言葉は違っているが、)意味は違っているのか?」を整理します。

まず、「選択」と「淘汰」の辞書的意味を確認します。

淘汰:水で洗って、より分けること。
選択:多くのものの中から、よいもの、目的にかなうものなどを選ぶこと。

これら二つの表現に共通している事は、「選ぶ」です。そして、「選ぶ」行為の主体は人間です。この動詞は人間の行為を表現した言葉です。その選ぶ基準は、(行為の主体が人間なので)当然、人間の価値判断です。
進化論が出来る前の言葉の意味です。そもそも、英語では、淘汰も選択も、「 selection 」の一言で片付けているみたいですから、このような事を論じても意味が無いのかもしれません。

共通点

  1. 「選ぶ」
  2. 「選ぶ」行為の主体は人間。(自然ではありません。)
  3. 「選ぶ」行為の判断基準は、(人間の)価値観や価値判断
    自分(人間)にとって都合がいいかどうかが判断基準です。

相違点は、「何を選ぶか?」です。その「選ぶ」対象が異なっています。一般に、「選択」は、(いいものを)選びます。「淘汰」は、(わるいものを)選びます。

相違点

  1. 「選ぶ」対象が異なっている。
  2. 選択:(いいものを)選ぶ
  3. 淘汰:(わるいものを)選ぶ

選択

「選択」は、「いいもの」を選びます。
「(いいものを)選択する。」とは使っても、「(わるいものを)選択する。」とは、一般に使いません。

言葉は、最小コストで運用される傾向にありますから、暗黙の前提は省略されます。「選択」と言ったら、その選択対象は「いいもの」は当たり前なので、この「いいもの」は省略されて、ただ単に、「選択する。」と表現します。わざわざ、暗黙の前提を明示して「いいものを選択する。」とは一般に表現しません。表現が冗長になって、回りくどく感じるからです。言葉の流れが悪くなります。

選択の対象を明示して「最悪の選択」と表現した場合、反語的強い否定の意味になります。「本来はいいものが選ばれる筈が、よりによって、一番悪いものを選択してしまった。」という強い戒めの意味合いになります。
本来は暗黙の前提として省略されている語彙が、わざわざ明示されている場合、その明示されている部分、つまり、「最悪の」に強い意味が込められます。

淘汰

「淘汰」は、「わるいもの」を選びます。
「(わるいものを)淘汰する。」とは使っても、「(いいものを)淘汰する。」とは使いません。

進化論では、「淘汰圧によって、(わるいものが)排除され、結果、いいものが残る。」という意味合いで使っています。「わるいものが選ばれて、それが排除されている。」と考えています。(淘汰という言葉の暗黙の前提は、そういう意味です。)

ところで、一体誰が、「わるいものを排除している。」のでしょうか。その行為の主体は誰でしょうか。もちろん、進化論では、「(自然が)わるいものを排除(淘汰)する。」、或いは、「(自然が)いいものを選択する。」と思っています。英語では、「 natural selection 」と表現しています。選ぶ主体は、人間ではなくて、自然だと思っています。この錯覚が、(進化論では)笑うに笑えない悲惨な結果を招いています。本来、選択も淘汰も、選ぶ動作の主体は人間です。この事実を見落としています。

「淘汰」と「淘汰圧」の違い

今まで、「淘汰」という言葉を批判してきました。ところが、「我々が使っている言葉は「淘汰圧」であって、「淘汰」ではない。意味が全然違っている。」と反論されるかもしれませんね。
では、「淘汰」と「淘汰圧」は、意味が違っているのでしょうか?下記の用例を参照してください。

  1. なぜ進化した --> 淘汰圧が働いたから。
  2. なぜ進化した --> ○○圧が働いたから。
  3. なぜ進化した --> 淘汰〇が働いたから。

「淘汰」と「圧」を夫々伏字にして表現してみました。
結果は、一目瞭然ですね。「淘汰」を伏字にした(2)の例では、全く、意味が通じなくなってしまいました。一方、「圧」を伏字にした(3)の文章は、それなりに意味が通じます。
ちなみに、英語では、淘汰圧を「 Selection pressure 」と表現しています。同様に、「 Selection 」を伏字にしたら、意味が通じなくなります。

「淘汰圧」のうち、「淘汰」がメインの意味で、「圧」は、あたかも、自然科学(物理的作用)であるかのような印象を与えています。つまり、印象操作として使われています。「淘汰」、「淘汰圧」どちらを使っても意味は同じです。印象が違うのみです。進化論の論争では、このような印象操作に良く出会います。

生存確率

「生存確率」も、結局、「確率の高いもの」が、選ばれて残ります。
集団遺伝学は、「いい、わるい」を「(確率が)高い、低い」に言い換えているに過ぎません。本質的に、今までの話と何も変わりません。
やっと、英語で表現した場合に、違う言葉が出てきました。でも、言葉の結果だけに注目するなら、やっぱり、「 Selection 」の運命から逃れていません。結果は、「生存確率の高いもの」が残ります。「いい、わるい」を確率分布の問題に摩り替えているので、あたかも、科学的に見えますが。

もっと大切な事があります。「確率」は、現象の結果を集計して始めて求まるものです。数学的真理ではありません。あくまでも、結果の集計です。

本質的に結果論です。「いい、わるい」の価値判断が、(現象の)結果を観察して始めて脳内部に生じる事と同じです。どちらも、現象の結果の後に生じている事象です。現象の前に生じている事象ではありません。
従って、「確率」も「価値判断」も、共に現象の原因になる事はできません。時間の順番が逆です。後に生じている現象は、前に生じている現象の原因に成る事はできません。

因果関係:原因 -> 進化現象 -> 進化の結果 -> 結果を集計 -> 生存確率確定

集団遺伝学の「生存確率の差が進化の原因だ。」という主張は、論理的に破綻しています。確率は、現象の結果を集計して始めて求まるものです。従って、そのような「確率」は、現象の原因にはなることはできません。これは現象の観察と集計結果です。現象が起こった後に生じている事象です。

集団遺伝学は、(結果に合わせて理由を説明する)結果論に陥っています。

実際には、上記のような単純な話ではありません。生命現象は、前提となる環境の状態によって、結果が大きく変わってしまうからです。しかも、その環境は、非常に多くの要因から構成されており、前提を固定して実験する事は不可能です。

もっと本質的な問題として、種を構成する個体は多様性を持っています。少しづつ性能の異なった個体より構成されています。この多様性が失われると、環境変化に弱くなって、種は絶滅し易くなります。

もし本当に自然選択が存在していると仮定したら、それは、この多様性に作用してしまいます。一方、環境は季節の変化のように揺れ動いています。今年は干ばつでも、来年は多雨になるかもしれません。冷害か猛暑か分かりません。これらが、交互に不規則に繰り返しています。その度に自然選択が作用すると、その結果、急速に多様性は失われていきます。自然選択は、種の絶滅に向かって作用してしまいます。
「多様性(個体変異)」と「自然選択」は矛盾しています。どっちが間違っているのでしょうか?

自然の擬人化

現代の正統派進化論は、このような人間の行為を表現する言葉を使って、自然の仕組みを説明しています。これは、自然の擬人化です。「人間の選択行為と同じ事を、自然も行っているだろう」と類推しています。人間と自然を同一視しています。それは、『自然選択』が『人為選択』の類推から作り出された事からも理解出来ると思います。

このような擬人化による説明は、疑似科学です。疑似科学であるが故に、言葉尻や言葉の違いが、(差別化の為に)重要な意味を持ってしまっています。

自然科学理論を目指すなら、物理的作用の因果関係に基づいて、自然の仕組みを説明すべきです。「その言葉は、物理的作用は表現した言葉か、人間の行為を表現した言葉か」を慎重に検討すべきです。擬人化の罠に陥らない為にも。



進化論の説明は、結果論に陥っています。

正統派進化論の「説明する」という行為を観察すると、以下の点に気が付きます。

  1. まず、観察結果に目を向けます。
  2. 次に、現象の過程を観察して、説明に都合のいい理由を探します。
  3. そして、見つかったら、それを使って、観察結果に合うように説明を組み立てています。

要は、「結果に合わせて、後付け理屈を考える。」です。

どのような現象でも、探せば、「都合のいい理由」は、必ず見つかります。だから、この後付け理屈は、必ず、成功します。当たり前ですね。結果に合わせて、説明しているので。絶対に間違う事はありません。

それ故、人々は必ず説明に成功するので、「進化論は正しい」という揺るぎない確信に浸っています。

でも、結果論は、その場限りのものです。毎回、毎回、これを繰り返す必要があります。進化の結果は毎回異なっているからです。
毎回、毎回、後付け理屈に成功するので、毎回、毎回、確信と自己満足に浸っています。肝心の生物進化の仕組みが理解できないまま、永遠に、これを繰り返しています。



まとめ

意味の無い言葉遊びになってしまいましたね。気を取り直します。

生命現象を含めた物理現象は、物理作用の因果関係の上に成り立っています。物理現象の原因になる事が出来るのは、物理的作用のみです。だから、言葉で説明する場合、「光が当たる。」といった物理的作用を表現した言葉を使う必要があります。
「いいわるい」の価値判断と、それに伴う「選択」や「淘汰」は、物理現象の因果関係を説明できません。それは、自然の擬人化による説明です。

現代の正統派進化論は、余りにも幼過ぎて、この程度の説明量で、ご理解頂く事は困難かもしれませんが、ぜひ、科学的迷信に惑わされる事無く、現実に目を向けて頂く事を希望します。