2020/07/29 うつせみ

生物が進化しているのは事実です。
しかし、ネオ・ダーウィニズムは、間違っています。

彼らの主張は、因果関係が成り立っていません。従って、そのような物理現象(生物進化)が起こることは不可能です。

これは自然科学の理論ではありません。疑似科学です。
ここでは、自然選択説の騙しのテクニックを解説しています。

1. 始めに

現代の正統派進化論(ネオ・ダーウィニズム)は、説明方法に問題があります。

生物進化の現象は、物理現象です。だから、物理的作用の因果関係に基づいて、その仕組みを説明する必要があります。

ところが、自然選択説は、「都合のいい変異が自然選択されて、生物は進化した。」と主張しています。『いい。わるい。』の価値観を使って説明しています。物理的作用に基づいた説明ではありません。

『都合がいい』という表現は、物理的作用を表現した言葉ではありません。これは、我々人間が持っている『いい。わるい。』の価値判断です。脳が行っている情報処理の結果を表現した言葉です。

現象を観察した結果、脳は何らかの判断を下しますが、そのような判断を表現した言葉です。あくまでも、心の中に生じている事象です。物理的作用を表現した言葉ではありません。従って、物理現象の原因になることは出来ません。

心の中の事象は、物理現象の原因にはなれない。

価値判断の因果関係
価値判断の因果関係
現象(花)を観察した結果、心の中に、『きれい。汚い。』の価値判断結果が生じます。
価値判断結果は、心の中の事象です。
心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。

生物進化を観察すると、都合が『いい、わるい』の価値判断結果が生じます。

しかし、この価値判断結果を使った説明、「生存に都合がいい変異が自然選択された。」は、因果関係が成り立っていません。価値判断結果は、心の中の事象であって、物理的作用ではないからです。物理的作用でないものは、つまり、心の中の事象は、物理現象の原因になることは出来ません。
人間のさが

人間のさが
ちなみに、この因果関係は成り立っています。
綺麗な花には、ついつい手が出てしまいます。
悪いとは判っていても。

人間の行動は、価値判断が原因となって起こります。

しかし、「自然も、人間同様、価値判断が原因で起こる。」と考えるのは、人間と自然の素朴な同一視、即ち、自然の擬人化です。人間の行動原理と自然の仕組みを混同しています。同一視しています。

このような素朴な同一視の根底には、『唯物論の先入観』が潜んでいます。

1) 我々は実体を認識の対象にしている。
2) だから、『いい』と判断できる背景には、何か、絶対的根拠、実体がある筈だ。『いい』と認識できるのだから、そこには『いい』という実体が潜んでいる筈だ。
3) その『いい』という実体が自然選択されるのだから、これ程、確かな話はない。進化は起こる筈だ。

と素朴に思っています。

この先入観を克服することは極めて困難です。これは、揺るぎない絶対的信念だからです。

この絵は、当たり前ですね。人間の行動は、脳がコントロールしているのだから。『きれい。汚い。』は、脳が行っている情報処理の結果を表現した言葉です。一般、この情報処理を、『価値判断』、その判断基準を『価値観』と呼んでいます。言語文法上は、『形容詞』を使って表現しています。
因果関係上は、この価値判断の結果、それに引き続いて『行動』が発生しています。

『いい。わるい。』の価値判断は、物理現象の原因には成れない。

だから、それ(心の中の事象)は、物理現象の原因になることはできません。

「物理的作用でないもの、即ち、心の中に生じている『いい。わるい。』の価値判断が、物理現象(生物進化)の原因になった。」と主張する自然選択説は、論理的に破綻しています。物理的作用でないものは、物理現象(生物進化)の原因になることはできません。因果関係が成り立っていません。

因果関係が成り立っていないので、そのような仕組みで、物理現象(生物進化)が起こることも不可能です。

ネオ・ダーウィニズムは、物理的作用の因果関係に基づいて主張されていないので、正しいことも、間違っていることも、両方とも証明することはできません。
これは自然科学の理論ではない。」としか言えません。
その正体は、疑似科学です。

原因と結果の関係

現象原因結果備考
物理現象物理的作用物理的結果物理的作用が原因になって、
物理的結果が生じます。
自然選択説いい悪いの価値判断自然選択いい悪いの価値判断が原因となって
自然選択が起こり、
結果、生物は進化したと主張します。
人間の行動価値判断行動きれいな花には手を差し伸べ、
醜い花からは、目を逸らします。
人間の行動は、価値判断の上に成り立っています。
自然選択説と、その発想が同じです。
この説は、人間と自然の混同、即ち、自然の擬人化による説明です。

ちなみに、集団遺伝学では、『いい。わるい』を、『確率が高い、低い』に言い換えています。詳細は、集団遺伝学の騙しのテクニックを参照下さい。

説明方法が根本的に間違っています。

現代の正統派進化論は、疑似科学です。
人間が納得することと、自然科学の説明の区別がついていません。

現代の正統派進化論は、人間を納得させることには成功しています。この事実は認めます。

確かに、『いい。わるい。』の価値観を使った説明は、理解し易く、多くの人々を納得させます。実際にも、哲学や思想、道徳、宗教は、この価値観を使った説明です。これら価値観を使った権威筋の説明は、非常に強い説得力を発揮します。それが証拠に、多くの人々から強い支持を得ています。

しかし、自然科学の説明には失敗しています。物理的作用の因果関係に基づいて説明されていないからです。

人間を納得させることと、自然科学の説明を混同しています。
人間を納得させることに成功した。』ので、『自然科学の説明にも成功した。』と錯覚しています。

説明方法が、根本的に、間違っています。人間は『いい。わるい。』の価値判断に従って行動しているから、自然も同様に『いい。わるい。』の価値判断に従って行動しているだろうと思い込んでいます。人間と自然を混同して、自然の擬人化によって、自然の仕組みを説明しています。

生物進化の現象は、物理現象なので、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。あまりにも、素朴過ぎます。

自然選択説の説明は、自然の擬人化による説明です。

以下では、これが自然科学の理論では無いことを説明します。自然選択説で使われている騙しのテクニックを解説します。

なお、もうひとつの重要な概念である突然変異説に関しては、『突然変異説のトリック』を参照して下さい。こちらも、また、別の騙しのテクニックが使われています。

注)ネオ・ダーウィニズムに代わる新しい進化論については、こちらをご参照下さい。なお、発想が違い過ぎているので、最初は、違和感を感じるかもしれません。

注)生物が進化しているのは事実です?

これは、このページの最初の言葉です。
これを、ワザワザ最初に述べなければいけない程、現代の進化論争は混迷を極めています。

哀しいことに、ネオ・ダーウィニズム自体も疑似科学なら、それを否定する主張も、宗教的誇大妄想です。誇大妄想と疑似科学の対立で訳が分からなくなっています。誰も、現実に目を向けようとしていません。自己の信念にしがみついているだけです。

この無益な宗教論争に巻き込まれる危険性を回避する為に、敢えて、この言葉を最初に持ってきました。いや、持って来ざるえませんでした。宗教的とんでも説だと、早合点されない為です。

残念ながら、今のこの瞬間には、即ち、今のこの時代には、まだ、この言葉が必要です。いい悪いは別にして、哀しいことです。

1.1 二通りの説明方法

今まで、誰も気付かなかった冷酷な現実を指摘します。

人間は、本質的に全く異なった二通りの説明方法を、臨機応変に使い分けています。

罠に落ちない為に、現実に目を向けて下さい。
人間という動物の習性を、注意深く観察してみて下さい。
人間という動物の行動を冷徹に観察します。耳を塞いで。
言葉が脳を流れると、その言葉の先入観に支配されてしまうので、まず、耳を塞ぎます。
そして、眼を見開きます。
じっくり、行動を観察します。
行動パタンが充分に脳に焼き付いたら、耳を開きます。
その行動パタンに、どのような言葉を被せているかを観察する為に。

  1. まず、耳を塞ぎます。
  2. 目を見開いて、行動パタンを脳に焼き付けます。
  3. 焼き付いたら、耳を開きます。
  4. その行動を、どのような言葉で正当化しているかを観察します。

言葉によって、思考しないでください。
目を見開いて、現実を観察してください。
原因と結果の因果関係を観察してください。

人間という動物の習性

この動物は、何にでも理屈を付けたがる不思議な習性を持っています。
この動物の、この習性を注意深く観察していると、そこに、本質的に全く異なった2通りの説明方法が、臨機応変に、使い分けられていることに気が付きます。

そのひとつは、価値観を使った説明です。
もうひとつは、物理的作用の因果関係に基づく説明です。

  1. 価値観を使った説明
  2. 物理的作用の因果関係に基づく説明

例えは、植物の光合成を例にとれば、次の2通りの説明方法が可能です。

そのひとつは、『明るいから、光合成が起こる。』と、『明るい。暗い。』の価値観を使って説明する方法です。どちらかと言えば、人間の体験、即ち、経験則に基づいた説明です。
確かに、明るい場所では、光合成が起っており、暗い場所では起こっていません。この経験則に間違いはありません。

この説明方法は、世の哲学や思想、道徳、宗教上の教義、童話などに、広く使われています。これらの多くが、この価値観を使った説明です。

例えは、『赤ずきん』という童話を思い出して下さい。この童話は、『良い子の赤ずきん』と『悪い狼』の2者より構成されています。『いい。わるい。』の価値観の上に物語が組み立てられています。『自然選択説』と、その論理構造が全く同じです。自然選択説も『いい。わるい。』の価値観の上に物語を組み立てています。

赤ずきんの構成

赤ずきんの構成
物語は、『良い子の赤ずきん』と『悪い狼』の2者より構成されています。
『いい。わるい。』の価値観の上に組み立てられています。

もうひとつは、『光が当たるから、光合成が起こる。』と、『光が当たる。』という物理的作用の因果関係に基づいて説明する方法です。自然科学の分野で、よく使われています。

  1. 明るいから、光合成が起こる。
  2. 光が当たるから、光合成が起こる。
なぜ、光合成は起こる?

光合成の説明
光合成という物理現象の原因の説明について、
1. 明るいから。
2. 光が当たるから。
この二通りの説明が可能です。

光合成は、『光が当たる。』という物理的作用が原因となって起こる現象です。

これら2通りの説明方法は、どちらでも、それなりに、人々を納得させることができます。
実際に、学問の世界も含めて、世間では、この2通りの説明方法が、臨機応変に、広く混在して使われています。でも、受け容れやすいのは、生活実感に根差した価値観を使った説明の方です。

自然科学の説明は、一部の例外を除いて、そのほとんどが、この物理的作用の因果関係に基づた説明です。それゆえ、実際に実験によって確認することができます。仕組みの説明が、実験によって再現可能です。『いい。わるい。』の価値判断のように、各個人の主観的判断に依存しないので、誰がやっても、同じ結果を得ることができます。宗教論争や進化論争のように、総論賛成各論反対の不毛な論争に陥ることはありません。

光合成の原因と結果、その説明方法

説明方法原因結果備考
物理現象『光が当たる』
という物理的作用
光合成光合成は、『光が当たる』
という物理的作用によって起こります。
価値観を
使った説明
『明るい暗い』
の価値判断
光合成?「明るい場所では光合成が起ている。」
という経験則自体は、間違っていません。
しかし、因果関係の説明にはなっていません。

この2通りの説明方法は、言語文法上、明確に異なっています。

『いい。わるい。』や、『明るい。暗い。』などの価値観は、人間の判断なので、形容詞です。形容詞を使った説明です。
『光が当たる。』は、物理的作用なので、つまり、物の動きなので、動詞です。動詞を使った説明です。
文法上、品詞が異なっています。
この品詞の違いに、この2通りの説明方法の謎を解く手がかりが隠されています。人間という動物の進化過程と密接に関わっています。

自然選択説の問題点

自然選択説は、この説明方法に問題があります。

この説は、『都合のいい変異が、自然選択された。』と主張します。
いい。悪い。』の価値観を使って説明しています。「明るいから、光合成が起こる。」と同じ説明手法です。物理的作用の因果関係に基ずいた説明ではありません。

根本的に、説明方法が間違っています。
自然科学とは、およそ無縁な説明方法です。
自然科学を装った偽物です。

自然科学なら、物理現象なので、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。「光が当たるから、光合成が起こる。」と、説明すべきです。

形容詞は、使うべきではありません。動詞を使うべきです。

2通りの説明方法

説明方法品詞説明例備考
1価値観
を使った説明。
形容詞明るいから
光合成が起こる。
『明るい』は文法上、形容詞です。
『明るい。暗い』の価値観を使って説明です。
人間の行動原理に基づいた説明です。
2物理的作用
を使った説明。
動詞光が当たるから
光合成が起こる。
『光が当たる』は、文法上、動詞です。
物理的作用の因果関係に基づいた説明です。
物理現象の仕組みを説明しています。

この2通りの説明方法の由来は、生物進化の歴史に求めることができます。

1.2 自然選択説は因果関係が成り立っていません。

自然選択説は、物理的作用の因果関係が成り立っていません。
論理的に破綻しています。

この説は、「生存に都合のいい変異が自然選択されて、生物は進化した。」と、『いい。わるい。』の価値観を使って説明しています。
この主張を、原因と結果に分解すると、下記のようになります。

原因生存に都合がいい変異『いい。わるい。』の価値判断
現象自然選択
結果生物が進化した物理的結果、つまり、物理現象

注)『自然選択』と呼ばれている物理現象が起こっているかは疑問です。一方、生物進化は実際に起こっている物理的結果です。

生存に都合がいい変異が原因となって、自然選択が起こり、その結果、生物は進化した。」と、主張しています。
この説明に、多くの方々は納得すると思います。原因と結果の因果関係も、一見、成り立っているように見えます。

しかし、ここで問題になるのは、『生存に都合がいい変異』という表現です。これは、物理現象を表現した言葉ではありません。『いい。わるい。』の価値判断を表現した言葉です。

いい。わるい。』の価値判断は、現象を観察した結果、人間の心の中に生じている事象です。人間が目の前の現象を観察して、下す判断です。脳の情報処理の結果、脳内部に生じている信号です。あくまでも、それは、観察行為の結果、心の中に生じている事後の事象です。生物進化が起こる前に生じている事前の事象ではありません。

価値判断の因果関係
価値判断の因果関係
『生物進化の結果』を観察した結果、心の中に、『いい。わるい。』の価値判断結果が生じます。
価値判断結果は、心の中の事象です。
心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。

もっと本質的な問題として、価値判断結果は、生物進化の後に発生している事象です。
未来の事象は、過去の現象の原因となることはできません。時間の順番も矛盾しています。

だから、当然、それは、物理現象の原因になることはできません。心の中に生じている事象は、物理現象の原因になることはできないからです。それは、物理現象に、影響を与えることはできません。

「都合のいいもの(原因)が自然選択されて、生物は進化(結果)した。」という自然選択説の主張は、「物理的作用でないものが、物理現象の原因になった。」となってしまい、因果関係が成り立ちません。物理現象でないもの、即ち、心の中の事象は、物理現象の原因になることが出来ないからです。

もっと、本質的な問題として、『生存に都合がいい。』という価値判断は、生物進化の現象を観察した結果です。即ち、事後の事象です。生物進化が起こった結果を観察して、『生き残った生物は、都合がいい。』と判断しているに過ぎません。進化現象が起こる前に、発生している事象ではありません。だから、時間の順番から判断しても、原因になることはできません。現象の原因が、現象の結果よりも、後になることはありえないからです。

論理的に破綻しています。
これは、『いい。わるい。』の価値観を使ったトリックです。このようなトリックが成り立つ背景には、唯物論の先入観が潜んでいます。

いい。わるい。』の価値判断結果は、物理現象ではありません。心の中に生じている事象です。
だから、これは物理現象の原因になることはできません。
自然選択説は、因果関係が成り立っていません。

しかし、これだけでは、実感として、しっくりこないと思います。理屈はそうかもしれないけど、納得はできないと思います。価値観に対する揺ぎ無い絶対的確信の前では、この程度の説明では、無力です。

そこで、これからの話では、価値観を使った説明の正体を明らかにしていきます。この話は、現代の科学文明の根幹に係わる非常に根の深い問題です。

一流の哲学者や思想家の嘘が暴かれてしまいます。

1.3 自然選択説は、自然の擬人化です。

自然選択説の説明は、自然の擬人化による説明です。

人間は、『いい。わるい。』の価値判断に基づいて行動しています。だから、確かに、価値判断は、人間の行動の原因になることはできます。
物理現象の原因になることはできませんが、人間の行動の原因になることはできます。

この為、価値観を使った説明は、強力な説得力を発揮します。簡単に、人々を納得させます。人間の行動原理と、説明原理が一致しているからです。

しかし、自然も同様だろうと考えるのは、人間と自然の素朴な混同です。
「我々人間の行動は、『いい。わるい。』の価値判断が原因となって起こっているのだから、自然も、同様に、『いい。わるい。』の価値判断が原因となって起こっているだろう。」と類推するのは、人間と自然の同一視です。自然も人間同様の価値判断機能と選択機能を有していると見なしています。

先入観1:自然も、人間の価値判断に類似した機能を持っている。
先入観2:しかも、その判断基準は、人間と自然とで一致している。

その機能によって、自然選択が行われている。だから、我々の観察結果と、自然選択の結果は一致する。
我々の観察結果と自然選択の結果が一致するのは、自然も、我々同様の選択機能(価値判断機能)を持っており、しかも、その選択基準が一致しているからである。

人間と同様の選択機能を持っていても、その選択基準が一致していないと、別のものが選択されてしまいますから、結果は一致しません。

これは、人間と自然の素朴な同一視です。
人為選択の類推から自然選択説が作り出されたことからも分かるように、人間の行動原理を使って、自然の仕組みを説明しています。人間の行動原理と同じ仕組みを、自然も持っていると見なしています。

このような人間と自然の同一視は、自然の擬人化です。自然を擬人化することによって、説明を試みています。

生命現象は、生物と自然との相互作用の上に成り立っていますが、ラマルキズムは生物の側を、自然選択説は自然の側を擬人化して説明しています。共に、擬人化によって、説明を試みている点では同じです。

新旧の擬人化による説明

確かに、人間の行動原理と、説明原理を一致させれば、強い説得力を発揮します。擬人化によって説明すれば、人間の行動原理と一致しますから、理解し易くなります。抵抗なく、受け入れることができます。
しかし、『人間という動物が納得すること』と、『物理現象を説明すること』とは別問題です。

物理現象は、物理的作用の因果関係の上に成り立っています。植物の光合成は、『光が当たる。』という物理的作用が原因になって起こっている現象です。生物進化の現象も、同様に、物理的作用の因果関係の上に成り立っている現象です。

いい。わるい。』の人間の価値判断の上に成り立った現象ではありません。人間と自然の同一視、即ち、自然の擬人化による説明は不適切です。

各現象における因果関係

現象名原因現象原因の種類品詞
人間いい。悪い。人間の行動価値判断形容詞
自然選択説いい。悪い。自然選択価値判断形容詞
光合成光があたる。光合成物理的作用動詞

人間の行動は、『いい。わるい。』の価値判断が原因となって起こります。
自然選択説は、『いい。わるい。』が原因となって、自然選択が起こると主張します。
光合成は、『光が当たる。』という物理的作用が原因となって起こります。
注目すべきは、人間の行動パタンと、自然選択説の説明パタンが同じことです。

「人間の価値判断行為に類似した機能を、自然も持っている筈だ。それが証拠に、人間の価値判断結果と、自然選択の結果は一致している。」という考え方は、人間と自然の素朴な同一視、即ち、『自然の擬人化』です。
同一視しているからこそ、成り立つ論法です。
これは、人為選択の類推から、自然選択が作られたことからも理解できます。

1.4 価値観を使ったトートロジーのカラクリ

自然選択説は、価値観を使ったトートロジーになっています。
同じ価値観が、2度、繰り返されています。

  • 1回目は、観察結果を得る為に。 (「都合がいい。」という価値判断結果を得る為に。)
  • 2回目は、その観察結果を説明する為に。(「都合がいいものが選択されたから。」と説明する為に。)

我々人間は、『いい。わるい。』の価値観を持っています。
その価値観を使って現象を観察すれば、全ての生き残っている生物は『生存に都合がいい。』と見えます。

そして、その観察結果を説明するのに、同じ価値観を使って、『都合のいいものが自然選択されたから。』と説明しています。

同じ価値観が、観察結果と、その観察結果の説明に、繰り返し使われています。トートロジーになっています。

価値観を使ったトートロジーの仕組み

価値観を使ったトートロジー
価値観を使った説明は、トートロジーになっています。
同じ価値観が、2度、繰り返されています。
1回目:現象を観察して、『いい。わるい。』の価値判断を行う為に。
2回目:その判断結果を説明する為に。『いいものが選択されたから。』と。

このカラクリの背景には、唯物論の先入観が潜んでいます。
1. 都合がよく見えるのは、そこに『都合がいい。』という実体が潜んでいるから。(唯物論の先入観)
2. その実体を観察しているから、『都合がいい』と見えるのだ。(先入観の再確認)
3. 生物進化では、その『都合がいい』という実体が選択されているのだ。(確信?)
と、思っています。

確かに、『いい。わるい。』の価値観を使って進化現象を観察すれば、「全ての生物は、実に巧みに環境に適応している。」ように見えます。「生存に都合がいい形態をしている。」ように見えます。これは、間違いのない事実です。この経験則に、間違いはありません。この経験則を、否定するつもりはありません。

しかし、その『都合がいい。』という観察結果を説明するのに、「都合のいいものが自然選択された結果だ。」と説明するのは、同じ価値観の繰り返しです。
同じ価値観が、観察結果と、その観察結果の説明に、繰り返し使われています。

「白い馬は、なぜ白く見える?」と聞かれて、「白いから」と答えるようなものです。
我々は、実体を認識の対象にしていると思っています。だから、白い馬が白く見えるのは、そこに白い実体が存在している為と思っています。即ち、白い実体を認識しているので、白く見えると思っています。
余分な言葉を省力して、解り易く表現すれば、『白く見えるのは、白いから。』です。
都合がよく見えるのは、都合のいいものが選択されたからです。

白い馬

白い馬
白い馬を見て
「なぜ、白い?」と聞かれて、
「白いから」と答える。
「白い馬は、白い本質を持っているから、白く見える。」と思っています。

「どの生物も生存に都合がいいように見えるのは、いいものが選択されたからだ。」と思っています。

進化論では、「なぜ、生物はどれも生存に都合がいい姿をしている?」と聞かれて、「都合のいいものが自然選択されたから。」と答えています。

都合がいいように見えるのは、そこに『都合がいい』という実体(本質)が宿っている為と思っています。「その実体(本質)を認識しているので、『都合がいい』と見える。」と思っています。
生物進化は、その『都合がいい』という実体(本質)が、自然選択された結果である。より『都合がいい』実体(本質)が選別されて残った結果、生物は、より『都合がいい』姿になった。即ち、進化したと思っています。

余分な言葉を省力して、解り易く表現すれば、

都合がいいように見えるのは、都合がいい本質が宿っているからです。その『都合がいい』という本質が、自然選択されたので、より都合が良くなった。つまり、生物は進化した。

そこには、『我々は、実体(本質)を認識の対象にしている。』という唯物論の先入観が潜んでいます。

『その実体の実在性の証明は、認識できていることにある。つまり、実体が存在しているから、認識できるのである。認識できている事実が、存在の証拠である。実際に見えているのだから、これ程、確かなことはありません。(限りなく循環論法です。) 』と思っています。

なぜ、こんな単純なトリックに、200年もの間、一流の哲学者や科学者が、騙されていたのか不思議です。
「一人ぐらいは。。。」と思うのですが、全滅です。深い闇を感じます。

現代文明は、その多くが『いい。わるい。』の価値観の上に組み立てられています。
宗教も、道徳も、哲学も、思想書も、その多くは、価値観を使った説明です。この為、自然選択説同様に、トートロジーになっている可能性が大です。

例えば、一世を風靡したマルクスの資本論は、『労働』に絶対的価値を見出し、労働者には価値があり、労働をしない資本家は、労働者を搾取している絶対悪であると断定しています。
労働者と資本家の欲望の対立を、『善と悪との闘い。』即ち、善と悪との階級闘争と見なして、暴力を正当化しています。

これ以外にも、「ミイラ取りが、ミイラになっている。」ような事例が。。。。
一抹の不安を覚えます。

大脳ロボトミー患者を使た実験

ここでの話は、実は、大脳ロボトミー患者を使った実験を背景にしています。

かつて、テンカンの治療として、脳梁を切断する手術が行われていました。もちろん、現代では行われていません。
脳梁は、右脳と左脳を繋ぐ連絡路なので、ここを切断すると、右脳と左脳の連携が出来なくなります。

このような患者の視野左側に面白い絵を見せます。この情報は、右脳に投影されて、当然、クスクス笑います。大脳の左右は反転しています。
{そこで、「なぜ、笑うのか?」と質問します。すると、患者は、「面白いから。」と答えます。
言語脳は左脳なので、言語で質問されると、左脳が答えを返します。ところが、左脳には、視野左側は見えていないので、面白い絵の事は把握していません。
もちろん、笑っている事実自体は、体の状態を観察して把握しているので、この事実自体は、否定していません。

言語脳は、「分からない。」とは正直に言わないで、もっともらしい後付け理屈の答えを返していたのです。
自然選択説とソックリですね。

1.5 トリックの背景

このようなトリックが成り立つ背景には、『唯物論』の先入観があります。

現代科学の根底にある哲学は、唯物論です。
この唯物論では、「ものの性質や本質は、その物の中に宿っている。」「その本質を、我々は、認識の対象としている。」と考えています。
つまり、「我々は、実体を認識の対象にしている。」と、素朴に信じています。

例えば、白い馬を例にとれば、「白い馬が白く見えるのは、その馬が、『白い』という本質(実体)を持っている為である。その『白い』という本質(実体)を、我々は、観察(認識)の対象にしているので、白く見えるのだ。」と考えています。
即ち、「白いから、白く見えるのだ。」「白い(実体を持っている)から、白く見えるのだ。」と思っています。
限りなく、循環論法です。

唯物論の先入観白い馬には、『白い』という本質が宿っている。
観察結果の説明その『白い』という本質を観察するから、白い馬は、『白い』と見える。

もちろん、実際は、白く見えるのは、全ての波長の光を、乱反射してしまう為ですが。そのような色認識に関する物理的知識がなければ、この論法で、充分納得する(騙す)ことが可能です。

自然選択説も、この唯物論の暗黙の先入観 を巧みに利用しています。

「生物がどれもうまく環境に適応している。」ように見えるのは、「そこに、『いい』という本質(実体)が宿っているからだ。」と思っています。

即ち、

「生き残った生物が、どれも『いい』ように見えるのは、そこに、『いい』という本質(実体)が宿っているからだろう。それを、我々は観察の対象にしているから、『いい』と見えるのだ。」と、思っています。

即ち、「いいから、いいと見えるのだ。」。その『いいという本質』が自然選択されたから、生物は、進化、発展した。
限りない循環論法です。

と考えています。

その根底にあるのは、唯物論の先入観です。

唯物論の先入観

(1) 価値判断

我々が持っている『いい。わるい。』の価値観を使って生命現象を観察すれば、「全ての生物は、生存に都合がいい。」ように見えます。

これは、事実です。
この事実を否定するつもりはありません。

(2) 唯物論の先入観

「『都合がいい。』という本質を持っているから、『都合がいい。』と見えるのだ。」と思っています。

現代科学の土台になっている哲学は、唯物論です。
この哲学では、「ものの性質は、その物の中に宿っている。人間は、その宿っている本質や実体を認識の対象のしている。」と考えています。
即ち、「我々が認識しているのは、実体である。」と見なしています。

この先入観がある為に、『都合がいい。』と見えるのは、「そこに、『いい』という本質や実体が宿っている為だろう。」と判断しています。
つまり、「『都合がいい。』という本質を持っているから、『都合がいい。』と見えるのだ。」と思っています。
思考過程、(1)と(2)は、循環論法です。

(3) 自然選択説

自然選択説では、「生物が持っている『都合がいい。』という本質が、自然選択されている。」と考えています。そこには、『いい』という本質が宿っていると考えています。

『いい』という本質が自然選択される訳ですから、これ程、確かなことはないと思っています。自然選択説には、疑うことのできない、明確な根拠があると思っています。

この推論を、誰も疑っていません。

(4) 生物進化

「『都合がいい。』という本質が自然選択された結果、生物は進化した。」と考えています。
即ち、「『都合がいい。』ものが自然選択され、残ったから、『都合がいい。』ように見える。」と考えています。価値判断結果と、唯物論の先入観を同一視しています。

(5) 価値判断結果と、自然選択の一致

価値判断結果と、自然選択説による推論結果は一致します。

自分がこの眼で観察しても、『都合がいい。』ように見えます。
「この原因は、『都合がいいという本質』が自然選択され、残った為。」と、考えています。
観察結果と自然選択の結果が一致するので、自然選択説は正しいと信じられています。

このような一致が生じてしまう原因は、最初の仮定に問題がある為です。
即ち、論理の出発点になっている唯物論の先入観、「人間は、物事の本質や実体を認識の対象にしている。」の為です。この先入観の為に、それ以後の推論結果と、価値判断結果が一致します。

生物学者は、「生物進化は、『都合がいい。』ものが自然選択された結果である。それが証拠に、我々の観察結果と、自然選択の結果は一致している。」と考えています。

1.『都合がいい。』ように見えることを根拠にして、
2.「『いい』という本質が宿っている。」と仮定し、
3.「その本質が自然選択された。」と推論した訳ですから、

自然選択説の結果と価値判断結果が一致するのは当たり前です。循環論法です。

唯物論の先入観生物には、『いい』という本質が宿っている。
観察結果の説明その『いい』という本質を認識の対象にしているから、『いい』と見える。
自然選択説の推論先入観を真理だと見なして、結果論で説明しています。
全ての生物が、環境にうまく適応しているように見えるのは、その『より、いい』という本質が、自然選択された結果だろう。

『都合がいい。』ように見えるのは、そこに『都合がいい。』という本質が宿っている為である。
その本質が自然選択されたから、生物は進化した。
つまり、進化の結果と、我々の観察結果が一致するのは、自然選択説が正しい証拠である。

限りない循環論法です。

1.6 価値観を使った論争の宿命

『いい。悪い』の価値観を使った論争は、『総論賛成、各論反対』のジレンマに陥ってしまいます。

進化論争がいつも不毛の水掛け論に終わってしまう原因は、それが価値観を使った説明だからです。宗教上の神学論争と根は同じです。

神学論争では、『神は実在している。』『神は真理である。』『神は正しい。』という総論に関しては、全ての教団が同意しますが、では、具体的に『神の姿は?』『真理とは何か?』『何が正しいのか?』となった場合、不毛な宗教論争へと発展してしまいます。神の姿は、教団によって、夫々異なっているからです。各教団の都合と欲望は、夫々異なっているからです。

互いに、相手を『邪教だ。』と、罵り合います。熱くなり過ぎると、「我が神以外に神はなし。」とばかりに、真理と正義を賭けて、宗教戦争を繰り広げることになってしまいます。相手に邪教のレッテルを貼って、その邪教を駆逐し、殲滅しようとします。それが、ただの単なる『欲望の正当化』に過ぎないことに、気付かないままに。

教団という組織は、神とは何の関係もありません。関係あるのは、『組織は欲望の産物である。』という事実のみです。マフィアと同じです。時として、マフィアよりも悪質です。

物事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。言葉によって判断するのではなくて、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。
『組織を作る。』という欲望が、組織に付随した様々な利益と不幸を生み出しています。そして、その組織が生み出す利益を巡って、対立と争いが生まれています。宗教戦争は、マフィアの抗争よりも、遥かに大規模です。正義を信じている分、厄介です。悪魔や敵には無慈悲です。残虐です。神の名のもとに、徹底的な浄化(破壊と殺戮)が行われます。教団が欲望の産物である哀しい一面です。

自然選択説でも、『都合のいいものが選択された。』という総論では、全ての人々の意見は一致します。しかし、では具体的に『何が都合がいいのか?』という各論になると、収集のつかない不毛の論争に発展してしまいます。
一般論だと、全ての人々の賛同を得ることが出来るのに、現実に目を向けた途端に破綻してしまいます。

価値判断は、見る人、見る立場、見る方向によって、全て、異なってしまうからです。
それは、立ち位置と方向によって決まるものです。都合がいい事象も、見る立場や見る方向を変えると、都合が悪くなってしまいます。
まるで魔物のように、変幻自在に姿を変えてしまいます。

ところが、人々は、『価値観には絶対的な真理や根拠が宿っている筈だ。』という先入観(総論)を持っています。唯物論の先入観から、『認識しているものには、本質が宿っている。』と考えているからです。

この先入観(総論)と、『見る立場、見る方向によって変わってしまう。』という現実(各論)とのギャップの前で、人々は、いつも右往左往しています。

何とか、『先入観』に合致する『現実』を見つけようと、論争を繰り広げていますが、いつも、魔物相手に『総論賛成、各論反対』のジレンマに陥っています。

宗教論争が、いつも不毛に終わるように、進化論争がいつも不毛に終わってしまうのは、同じ原因からです。価値観を使った説明だからです。
価値観に抱いている先入観と、価値観の置かれている現実とのギャップの為です。

総論価値観への先入観価値観には絶対的な真理や根拠が宿っている筈だ。
各論価値観の現実見る人、見る立場、見る方向によって変わってしまう。
まるで魔物のように、変幻自在に姿を変えてしまう。

1.7 まとめ

生物進化の現象は物理現象です。だから、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。それ以外の手法を使った説明は、何らかの騙しです。

我々人間は、2種類の説明方法を、臨機応変に使い分けています。

そのひとつは、「いい。わるい。」の価値観を使った説明です。
もうひとつは、「物理的作用の因果関係」に基づいた説明です。
文法上は、形容詞を使った説明と、動詞を使った説明の違いです。

自然選択説の説明は、「いい。わるい。」の価値観を使った説明です。
「物理的作用の因果関係」に基づいた説明ではありません。

これは、自然科学の理論ではありません。
宗教や童話と同じ論法を使った、疑似科学です。

このような疑似科学の為に、優秀な人材が無駄遣いされてきたことに、そして、今現在も無駄遣いされていることに、心が痛む思いです。
現実は、優秀な人々が頭の体操に夢中になっているだけです。尤もらしい理屈を思いつく為に。。。。
動物としての性(さが)に振り回されていないで、冷酷に、現実に目を向けることを希望します。人生を無駄にしない為にも。

人間が納得することと、自然科学の説明とは、別問題です。

なお、現在、ネオ・ダーウィニズムに代わる新しい生物進化の理論を準備中です。今西錦司氏の『棲み分け理論』と、木村資生氏の『中立説』を、物理学の『場の理論』と、『制御工学』の知識を使って統一しました。生命現象に関する理論を作って、その一部として、生物進化を論じています。

必要とするデータが不足しているので、苦労しています。こんな疑似科学の為に、時間が無駄遣いされている現実を残念に思います。「もう少し、冷酷になって頂ければ、もう少し、データが揃っていたのに。自分は、もう少し楽できたのに。」と。

総評(愚痴)

現代の正統派進化論は、騙しのテクニックの博覧会です。様々な騙しのテクニックが駆使されています。

その意味では、正統派進化論は、反面教師として、科学史の貴重な遺産です。

現実に目を向けた人間は騙せません。
言葉によって思考している人間は騙せます。言葉ばかり見つめて、現実を見てないという一点において。。。

原因と結果の因果関係を観察されることを希望します。言葉を振り回す前に。。。

参考 1)突然変異説

突然変異説も、同様に、自然科学とは無縁な考え方です。

この説は、創造神話と同じように、因果関係を断ち切るテクニックです。
話しの始まりに、『突然』という言葉を持ってくることによって、突然、変異が起こった時点よりも前の因果関係を無視しています。即ち、突然変異は、因果関係も無しに、突然、起こった現象だと思っています。ここで、因果関係の鎖を切断しています。詳細は、こちらを参照下さい。

参考 2)二通りの説明方法の生物進化の由来。

【価値観を使った説明の由来】

価値観を使った説明は、その原型を、動物の発生に求めることができます。感覚器官からの信号を判断することと密接に結びついているからです。少なくとも、5億年前からの機能です。もちろん、それを言葉で表現できるようになったのは、知的生命体からですが。機能自体は、かなり古いものです。

動物は、外部感覚器官からの信号を、脳などの神経組織で処理しています。この時、信号は、右か左のどちらかに分別されています。『暑い。寒い。』とか、『明るい、暗い』のように、ある一定の判断基準に基づいて、両端に分別されています。
この機能を、一般に、価値判断、又は、価値観と呼んでいます。進化過程で、動物が獲得した機能です。この機能で使われている言葉を、言語文法上は形容詞と呼んでいます。形容詞は、外部感覚器官からの信号を分別する様子を表現した言葉です。

従って、形容詞や価値観は、一般に、『いい。わるい。』や、『高い。低い。』などのように、両極端から構成されています。情報の処理方法が、価値判断や、分別に依存しているからです。両極端のどちらかに分別することが、生きる為の情報処理だからです。

仏教では、価値観のことを、『両極端』と表現しています。価値判断を、両極端のどちらかに分別する行為、即ち、『分別智』と呼んでいます。「分別智に振り回されてはいけない。」と説いています。油断すると、進化論のように、分別智のドグマに陥ってしまうからです。

マルクスのように、労働に絶対的価値観を説いた思想は、純粋培養された学者には受けは良かったけど、結果は、歴史が証明しているように悲惨でした。ただ単に、階級闘争の名の下で大量虐殺が行われ、無慈悲な独裁政権が生み出されただけでした。哀しいことに、『階級闘争』が暴力の正当化に使われていました。残念ですが、マルクスは人類の歴史が続く限り、永遠の反面教師(毛沢東の言葉)です。この過ちを繰り返すべきではありません。純粋培養された人間には、『絶対的価値観』は、麻薬です。

【因果関係を使った説明の由来】

一方、因果関係を使って説明する方法は、その原型を知的生命体の発生に求めることができます。精々、数百万年前か、数千万年前からです。かなり、新しい機能です。

知的生命体は、意識器官を使ったシミュレーション(考える行為)の為に、現象の因果関係を理解する必要がありますが、その為の機能です。意識器官が発達した人間やサル、象、クジラ等に見られる機能です。もちろん、言葉で表現できるのは、人間だけですが。詳細は、知的生命体の心の構造を参照して下さい。

参考 3)進化論と宗教対立

進化論が宗教上の教義と激しく対立するのは、共に、『いい。わるい。』の価値観を使って、自らの正統性を主張し合っているからかもしれません。

丁度、宗教どうしが、近親憎悪で、激しく対立しているように。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じアブラハムの宗教です。同じ兄弟どうしで、生家(エルサレム)を巡って、生家争いをしています。「ここは僕の生まれた家だ。」と。同じ似た者同士であるがゆえに、逆に、否定と競合が激しくなって、憎しみが倍増しているのかもしれません。「可愛さ余って、憎さ百倍」の世界です。近親憎悪の世界です。

現代は、科学教の時代です。人々の信じている価値観が、『神』から『科学』に移り変わっている時代です。現代の人たちは、『科学』という神(価値観)を信じています。

もの事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。

言葉の違いに惑わされないで、『行い』の同一性に注目して下さい。『行い』によって生じている『結果』、即ち、原因と結果の因果関係を、冷徹に観察して下さい。言葉は、残念なことに、欲望を正当化する為の手段としてしか使われていません。

宗教も科学も、『価値観を信じている。』という『行い』は同じです。
信じている神(価値観)が異なっているだけです。『科学』という神(価値観)を信じているか、アブラハムの神々(価値観)を信じているかの違いだけです。神という言葉で代表される価値観を信じている『行い』は同じです。
無神論者は、『価値観を信じる行為』自体を否定している人々では無くて、既存の『神』と呼ばれている価値観を否定している人々です。彼らは、『科学』と呼ばれている新興宗教の新しい価値観を信じています。

案外、科学教(新興宗教)とアブラハムの神々(既存宗教)との間で、人間の心の支配を巡って、宗教対立が生じているのかもしれません。進化論は、たまたま、既存宗教と同じように、『いい。わるい。』の価値観を使って正統性を主張した為に、目の敵にされたのかもしれません。

ネオ・ダーウィニズムは、別名『正統派進化論』と、『正統派』という宗教用語を使って修辞されています。この言葉を使い方を見ていると、心の奥底では、これは科学教のひとつ、即ち、宗教だという自覚があるみたいです。

それが証拠に、仏教は、『いい。わるい。』を主張しないので、進化論も否定しません。仏教も、輪廻転生 という、進化論とは別の生命観を持っていますが、生物進化の現実は受け入れています。アブラハムの宗教のように、激しく対立し、批判することはありません。心理的抵抗は、ほとんどありません。

なお、輪廻転生は、仏教の変遷過程で、インドの土着信仰が紛れ込んでしまったものです。仏教とは、関係ありません。
仏教自体は、生死観を持っていません。ただ、「人間、欲望を持ち続ける限り、その欲望によって、同じ過ちを繰り返す。だから、同じ過ちを繰り返さない為にも、欲望を鎮めることが大切だ。」と、教えています。

この話と、輪廻転生が、混線してしまったようです。「命への執着が、生死を繰り返す。」と。最初期の原始仏教には無かったのに、ある日、突然、『輪廻転生』が現れました。

参考 4)童話と進化論

グリム童話の『赤ずきん』を思い出して下さい。この物語は、『よい子の赤ずきん』と、『わるいオオカミ』とから構成されています。『いい。わるい。』の価値観の上に、物語が組み立てられています。

自然選択説も、『いい。わるい。』の価値観の上に、物語が組み立てられています。その論理構造が全く同じです。『言葉』は違っていますが、『行い』は同じです。

ここに、自然選択説が強い支持を得た理由が隠されています。その本質は、進化童話だからです。『赤ずきん』と同じ論理構造だからです。
童話なので、子供の頃から慣れ親しんでおり、思考習慣と相性がよく、理解し易い為です。この思考習慣と相性がよく、直観的に理解し易いことが、絶大な支持に繋がっています。

参考 5)集団遺伝学の騙しのテクニック

ちなみに、集団遺伝学では、『いい。わるい』の価値観を、『確率が高い、低い』に言い換えています。言葉を変えているだけで、内容は変わっていません。

確率は、結果を集計して始めて求まるものです。『いい。わるい』の価値判断と同じです。起こった結果を見て、判断していることです。だから、本質的に結果論です。結果が起こる前に判っている性質のものではありません。当然、現象の原因になることもできません。

もし、前もって生存確率を決定できるなら、もう既に、その時点で進化の仕組みは解かっていることになります。前もって生存確率を決定する仕組みそのものが、進化の仕組みだからです。

逆に、確率の決まっていない事象に確率論は適用できません。

集団遺伝学は、既に進化の仕組みが判っていることを前提としています。「進化の仕組みが判っているなら、生存確率を前もって決定できるので、確率論を使って集団遺伝学的手法で進化を論ずる事ができる???」。意味不明なトートロジーに陥っています。

もう一度繰り返しますが、確率は価値判断と同じ『起こった結果の集計』です。つまり、事後判断です。当然、事後の事象なので、生存確率は、物理現象の原因になることもできません。原因になれないので物理的仕組みを説明する手法にもなりません。

芋や粘土で自作したサイコロは、形が歪な為、結果が1/6になるとは限りません。「サイコロの確率は前もって決まっている。1/6になる。」という先入観は捨てるべきです。全ては、実際にやってみないと確率は判りません。前回のテスト結果があって、始めて次回の結果を予測できます。

なお、高精度な工作機械を使ってサイコロを作っても、結果は同じです。工作機械の精度の範囲内で、バラつきが発生します。自作のサイコロと本質的に何も変わりません。そのバラつきと精度を、無視できるかどうかだけの問題です。高精度な工作機械を使った場合、感覚的にバラつきを無視できます。しかし、芋のサイコロの場合は気分的に無視できません。ただ、それだけのことです。感覚と気分の問題です。

『確率は、実際にテストして、結果を集計してみないと分からない。』現実は何も変わりません。

君の考えは間違っている?

「いや、君の考えは間違っている。当然、生存確率は前もって決まっている訳ではない。仮定の話だ。」

「『分かっている』と仮定したら確率論が適用可能になり、その結果、集団遺伝学の論理も成り立つ。進化も説明できる。仮定することで、進化の仕組みをうまく説明できるのだから、集団遺伝学は間違ってはいない。仮定の正しさは、結果が証明している。」と、反論されるかもしれませんね。

でも、冷静に考えてください。

先ほども述べたように、確率は結果を集計して求まるものです。その結果を集計して求まるものを、論理の出発点で仮定して、確率論を適用して、いったい何が求まるのでしょうか。先に結果を決めてしまっています。

生存確率を仮定 -> 確率論 -> 結果(生存確率?)

途中で、どのような論理を展開しようが、結果は、最初に仮定した確率のままです。なぜなら、最初に生存確率と呼ばれている結果を仮定しているからです。

生存確率を仮定 ≒ 結果(生存確率?)

最初に、『確率が高い』と仮定した事象が、確率論適用後、『確率が低くなる。』場合があれば、教えてほしいものです。もちろん、確率は確率であって、決定事項ではないので、個々の事象を見れば、確率が高いからと言って、そのような結果が必ず生ずるとは限りません。

確率論では、原因と結果の因果関係は未知です。現象の仕組み自体は解かりません。結果を集計して、確率分布を論じているだけです。

たくさんテストをして結果を集計すれば、個々の事象は、夫々の確率に収束します。結果は、(現象の仕組みが分からないから、)一意に断定することは出来ないが、確率分布としてなら、予測可能です。それが、確率の意味です。

集団遺伝学は、一体何を言いたいのか、意味不明です。「結果を仮定すれば、(確率論を使って)結果を説明できる。」と言われても、反論のしようがありません。「最初に結果がどうなるかを決めている(生存確率を仮定している)のだから、論理の結果がそうなるのは当たり前じゃん。」で終わりです。
生存確率が高いと仮定した個体が、生き残る確率が高くなるのは、当たり前です。その結果をもって、「進化が証明出来た。」と正当性を主張されても返す言葉もありません。

ただ単に、「生存確率の高いものが、生き残った。」いや、「生き残ったものが、生存確率が高かったのだ。」と、進化の結果を、言葉を変えて繰り返しているだけのような気がします。『生存確率』も、『生き残ったもの』も、生物進化の結果を、人間が観察した結果に過ぎないからです。

『生き残った個体』は進化の結果を観察して、始めて分かる事です。どの個体が生き残っているかは、目の前を観察すればわかります。『生存確率』も、目の前の結果を集計して、始めて分かる事です。確率は結果の集計に過ぎないからです。

ともに、進化の結果を観察して、判断している事です。巧妙なトートロジーにも、なっていません。言葉を変えて、観察結果を繰り返しているだけです。

集団遺伝学は、進化が起こらないことを証明している。

複数の事象が同時に起こる確率は、掛け算で決まります。

だから、複数の事象が同時に起こる確率は、限りなくゼロに近くなります。彼らの主張する仕組みでは、進化が起こらないことを、自ら証明しています。つまり、集団遺伝学は、間違っていることを、自ら認めています。

集団遺伝学者が、生物や確率に、どこまで精通しているのか、甚だ疑問です。

生物はトータルなバランスの上に成り立ったシステムです。
置かれている現実に最適化されています。そのような最適化を無視して、特定の機能だけが変異すると、全体のバランスを乱してしまいます。これを、生物学では奇形と呼んでいます。このような奇形は、システムエラーなので、生存に不利です。直ぐに死んでしまいます。

生物が進化する為には、複数の機能がバランスを保ちながら同時に変化していく必要があります。ある特定の機能が変化したら、その副作用も甚大だからです。その副作用を最小に抑えながら、メリットを最大限に追求していく必要があります。

例えは、キリンの首が長るなる問題についても、様々な副作用に悩まされます。首が長くなると、それを支える骨格や筋肉も、それに合わせて丈夫になる必要があります。首だけが長くなって、それを支えられなかったら、肩こりや骨折で死にます。満足に走ることもできません。あの高い頭に血液を押し上げる為には、血圧を高めなければいけません。でも、不用意に高くすると高血圧の問題に悩まされます。何らかの改善が必要です。逆の状況も、問題を引き起こします。水を飲む為に、頭を下げると、今度は、頭に血液が逆流して、充満してしまいます。人間でも、逆さで宙吊りになると、長くは持ちません。呼吸についても、喉が長るなると、空気の入れ替えに支障をきたします。酸素交換の効率が落ちます。一種の低酸素適応が必要です。

首が長くなる問題ひとつをとっても、様々な副作用が発生するので、全体のバランスを保ちながら慎重な最適化が必要です。副作用を改善したら、その改善が、別の新たな副作用の原因になるかもしれません。下手をしたら、副作用の雪だるま式連鎖になりかねません。

問題は、これだけではありません。これ以外にも、首が長くなる事とは全く関係ない病原菌やウィルスなどの病気への対応も必要です。植物毒などへの対応も必要かもしれません。生物が生き残っていく為には、様々なリスクへの対応が必要です。キリンは首が長くなることだけに専念できる訳ではありません。その他もろもろを考慮したら、キリがありません。生物学者が考えている程、生物は単純ではありません。

最も根本的な問題は、エネルギー問題、即ち、食料の問題です。生物は食料があればあるだけ増えてしまうので、結果、いつも飽和状態です。常に、慢性的飢餓状態に置かれています。
食糧が不足すれば、栄養状態が落ちて、病気への抵抗力も落ち、走ることも満足に出来ません。たとえ、スーパーマンでも腹が減ったら力を出せません。
様々なリスクを回避する為には、エネルギーが必要ですが、その肝心のエネルギーは有限な為、リスク回避に充分には使えません。

だから、常に、燃費が求めらています。限られたエネルギーを効率的に使う事を求めらています。生き残る個体は、カタログデータが素晴らしいスーパーカーではなくて、燃費が良くて故障が少ない大衆車になりかねません。エネルギー問題とリスクのバランスが常に問われています。

生物の置かれている現実は、このような為、進化する為には、常に、複数の機能がバランスを保ちながら変異していく必要があります。キリンの進化も、見かけは首が長くなったことだけですが、実際の変革は、体全体に及んでいます。生物学者が知らないだけです。知らなければ、全知全能の生物学者には問題は存在しないかもしれませんが、でも、調べれば調べる程、疑問に突き当たります。

つまり、進化の為には、複数の機能が、協調を保ちながら同時に変異する必要があります。そのバランスを無視した変異は奇形、即ち、システムエラーなので死にます。リスクは全方位からやってきます。

突然変異は確率事象だと思っています。

ところが、彼らの主張に従うなら、突然変異はランダムです。確率の問題だと捉えています。

確率論に従うなら、複数の事情が同時に起こる確率は、掛け算によって決まります。従って、その起こる確率は幾何級数的に小さくなってしまいます。

例えば、サイコロを振って、1が出る確率は 1/6 です。一個のサイコロだけに注目すれば、起こるような気がします。実際、集団遺伝学でも、特定の機能にだけ注目して、他は無視して、あたかも、進化が起こるかのような錯覚に陥っています。

でも、10個のサイコロを振って、同時に1が出る確率は、 1/(6*6*6*6*6*6*6*6*6*6)=1/60,466,176 。約6千万分一です。掛け算です。小学生が分数計算でよく犯す間違い、1/(6+6+6+6+6+6+6+6+6+6)=1/60 。足し算ではありません。
宝くじよりも確率が低く、まず、起こりません。毎年1回サイコロを振り続けても、6千万年に一回しか起こりません。
複数の事象が同時に起こる確率は掛け算になるので、事象の数が増えれば増える程、幾何級数的に、その確率が低くなってしまいます。

生物に突然変異が起こる確率は、もっと、もっと低いと思われます。小さな集団では、個体数が少ないので、集団全体での確率は、さらに低くなります。そのような低い確率の事象が同時に協調して起こることは、まず、不可能です。実質、ゼロです。地球の40億年の歴史は、確率に依存するには、あまりにも、短過ぎます。

つまり、集団遺伝学の発想では、進化が起こらないことを、自ら証明しています。根本的に、発想が間違っています。

極端な単純化で、あたかも進化が起こるかのような錯覚に浸っているだけのような気がします。いつも、サイコロは一個です。ある注目している特定の機能にだけ限定して、あとは無視して、物語を組み立てています。生物の置かれている現実を無視し過ぎです。

参考)生物が変異する原因。

余分な話をします。

生物が変異する原因は2つあります。自己保存の為の適応と、システムエラーによる奇形です。

この2つは、人間の人生程度の短い観察時間の範囲内では、判別が困難です。
生物進化は、人間の一生に比べたら、遥かに時間尺度の長い現象です。数万年から数百万年かけて起こる現象です。この為、原因と結果の因果関係を観察できず、共に、原因が存在しない現象、つまり、突然変異に見えてしまいます。

しかし、だからと言って、混同して良い訳ではありません。結果が正反対となってしまうからです。
適応の為の変異は生存に繋がりますが、システムエラーによる変異は、奇形なので死に繋がります。生物にとって、最も重要な生と死の問題で、結果が正反対になってしまいます。(表面上の見かけは、同じに見えますが。)

現代進化論は、この一番重要な生と死の問題を混同しています。『突然変異』のひと言で片付けています。「現象の時間尺度が長過ぎるので原因を確認できない事実」と、「原因が存在しない突然変異だ。突然変異なので確率事象だ。という先入観」を混同しています。。。。。確かに、自らの観察結果に忠実なのは分かりますが、しかし、返す言葉がありません。

参考)生物進化とは?

1. 生物進化は、自己保存系の環境変化への適応行為です。
2. 数万年から数百万年かけて起こる非常に時間尺度の長い現象です。

そこで保存されている自己は、ダーウィンや今西錦司が主張しているように、『種』です。進化とは、種の起源や変遷に関する現象です。そこで生まれ、変化し、絶滅しているのは『種』の命です。

個体の命は、短い時間で、生死を繰り返しています。悠久の時の流れの中では保存されていません。
冷たいようですが、個体が細胞の新陳代謝によって維持されているように、種は個体の新陳代謝によって維持されています。個体は、種を自己保存する為のいち手段に過ぎません。細胞が個体を自己保存する為の手段であるように。もっと辛い表現をするなら、多くの細胞が、個体を維持する為にアポトーシスしているように。

一寸の虫にも五分の魂。我々人間は、個体レベルの自己保存系です。だから、「我々人間(個体)にも存在意義はある筈だ。。。。。」と思い込みたい気持ちは分かりますが、しかし、現実は冷徹に見つめるべきです。

もし、自分が細胞の立場なら、個体は冷酷な全体主義者に映るでしょう。多くの細胞が、個体を維持する為に、アポトーシスしています。種も、個体から見たら、そう見えます。種は冷酷な全体主義者です。昆虫から哺乳類まで含めて、死亡率が最も高いのは幼体の頃です。まだ、充分に能力が発達していない頃です。この為、生物はたくさんの卵や子供を産みます。幼体の頃は能力が低いので、自然選択も糞もありません。卵には、そもそも生存能力はありません。運を天にまかせて、どれかは生き残ることを期待するだけです。
自然選択が正しいなら、死亡率が高い幼体の頃が、一番、選択圧が高い筈ですから、進化は幼体に激しく起こって、成体はゆっくりしている筈です。ところが、自然選択論者は、成体のカタログデータを念頭に置いて、進化を論じています。この矛盾に気が付いていません。
そこにあるのは、組織の原理です。上位の自己保存系が下位の自己保存系に優先します。下位は上位の為に、自己犠牲(アポトーシス)を厭いません。主義主張や道徳の問題ではなくて、冷酷な自然の掟の問題です。

種(ゲンプール)さえ生き残れば、個体は、いくらでも再生産が可能です。環境さえ良くなれば、爆発的増産も可能です。でも、逆は、不可能です。
個体数が減り過ぎると、多様性が失われので、種は存続できません。僅かな環境変化で、絶滅してしまいます。ゲンプールが多様性を失うと、僅かな環境変化で種はダメになります。
(種が多くの個体から構成されているのは、そして、各個体が個体変異で微妙にバラついているのは、ただ単に、リスク分散の為です。自然選択の為ではありません。)

参考)自己保存系の階層構造

生命現象における自己保存系は、地球の場合、階層構造を持っています。

最も基本的な自己保存系が細胞です。その細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。そして、その個体の集合によって、種のレベルの自己保存系が構成されています。
そして、最上位には、この種の集合によって、地球上の生態系が構成されています。

自己保存系の階層構造

図名
地球の生態系の場合、自己保存系は階層構造を持っています。
最も下位の自己保存系が細胞です。
細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。
その個体の集合によって、種のレベルの自己保存系が構成されています。
種の集合によって、この地球上の生態系が構成されています。

生物進化の現象は、このような階層構造の中で、種のレベルの自己保存系の様々な環境変化への適応行為(自己保存)です。

なお、単細胞生物の場合、データ不足から、よく分かりません。

生物進化の現象は、このような階層構造の中で、種のレベルの自己保存系の環境変化への適応行為です。今西錦司も述べているように、『そこで保存されている自己は種です。』。

しかし、我々人間は、個体レベルの自己保存系です。だから、個体に強い思い入れがあります。現代の進化論が個体に拘っている所以です。

現代の生物学は、種のレベルの自己保存系が存在していることに、まだ、気がついていません。目に見える個体が中心です。

まとめ

集団遺伝学は、発想が根本的に間違っています。

読んだ瞬間に、その胡散臭さに気が付いてしまいます。関わるだけ時間のムダと感じてしまいます。
生物のことも、確率のことも、知らなさ過ぎです。批判作業も、気が重たくなってしまいます。彼らは、トートロジーで訳が分からなくなった状態を、『理解出来た。』と錯覚しています。

その本質は、『いい。わるい』の価値観を、『確率が高い、低い』に言い換えているだけです。価値判断も、確率も、共に起こった結果を観察したものです。結果を見なければ、分からない事です。事後の判断結果です。中身は同じです。

「確率」という言葉には、アカデミックな香りが漂っています。「確率論」という学問的儀式が、有難味を醸し出しています。人々は、それに騙されています。「鰯の頭も信心から」です。

言葉によって思考してはいけません。「いい。わるい。」の価値観によって、物事を見てはいけません。言葉と価値観が作りだしている先入観の虜になってしまいます。

物事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。原因と結果の因果関係を観察することが大切です。