2020/05/17 うつせみ

もし、議論する相手が誰も居なかったらどうしたらいいのでしょうか?
単独で、計画を実行する必要に迫られたら、、、

ここでは、そのような絶望的状況の中で、使用している情報処理の手法について述べます。

2.7 はじめに

もし、当にしていた手段が使えなかったら、
一分以内に、三つの代案を作成し、実行に移せ。

この計画で使用している情報処理の手法を述べます。
将来、役に立つ事があると思います。少なくとも、広い世界が存在していることを知る手掛かりにはなると思います。

ここでは、三種類の情報の処理手法を使っています。「欲望のコントロール」と、「概念構築(イメージ処理)」、「記号処理(数値解析)」の三つです。

情報処理の3階層

情報処理の3階層
情報の処理は3階層に分類されます。
1.記号処理は、言葉や数字などの記号を使って行われます。
2.概念処理は、頭の中に、新しいイメージを構築する作業です。
3.欲望のコントロールは、極めて、戦略的な情報処理です。
 まず、情報を、そのまま、心の中に流し込みます。
 そして、じっと、観察します。心の中のどの欲望と共鳴を起こすかを。
 共鳴を起こした欲望こそが、その情報の正体です。

その為には、心の中の欲望の荒波を鎮める必要があります。心の中を覗いたら、「欲望の荒波しか見えなかった。」では困ります。

なお、これ以外にも、様々な手法を使っています。

「為せば成る」の無策で事に当たっている訳ではありません。思い付く限りの様々な手法を駆使しています。そして、その手段を、出来るだけ明確に自覚するようにしています。手段には、必ず副作用が伴っているので。いつも、それに翻弄されて辛い思いをしています。

でも、中には、訳も分からず、本能に身を委ねざるえない時もあります。大きな壁を乗り越える時は、通常の手法が通用しないので。
今、自分が感じている獲物の臭いが、自らの欲望が生じさせた幻想なのか、それとも、実際に感覚器官が捉えている臭いなのか、区物が付かない位の微かな臭いを、ただひたすら、孤独感と不安感に耐えながら追い掛けていきます。(良い子のみんなは、真似をしてはいけない手法です。)



欲望のコントロール

欲望のコントロール」は、極めて戦略的手法です。

外部感覚器官からの信号を、無批判に、そのまま心の中に流し込みます。そして、ジッ~~と観察します。心の中のどの『欲望』と共鳴を起こすかを。
共鳴を起こした『欲望』こそが、その情報の正体です。
フェイク情報は、ある種の欲望を強く擽ります。
逆に、擽らなかったら、無視され、直ぐに消滅します。偽物が生き残るには、それなりの訳があります。

なお、『欲望』と共鳴しなかった信号は、雑音として、そのまま、素通りして、流れ去ってしまいます。共鳴を起こした信号のみが、『欲望』を活性化させ、具体的な『行動』を生み出します。そして、その『行動』は、何らかの『結果』を生みます。
物事を判断するうえで重要な事は、『行動』によって生じている『結果』です。これが、周囲に、どのような影響を与えているかです。

情報は、最終的には、人間という動物の「生きる」ことと係わっています。
共鳴した欲望こそが、その情報の正体です。
つまり、生きる意味です。
因果関係:情報 -> 欲望と共鳴 -> 行動 -> 結果 -> 影響

情報は、心の中の欲望を活性化させます。
活性化された欲望は、行動を生じさせます。
行動は、何らかの結果を生みます。
それ故、物事は、行動と、その結果の因果関係によって判断されます。
結果が、様々な影響を与えるからです。
一方、言葉は、欲望を正当化することに、一所懸命です。
物事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。


なお、欲望と共鳴しなかった信号は、(生きる意味と結び付かなかったので、)そのまま雑音として素通りします。行動を生じさせません。



概念構築

概念構築(イメージ処理)」は、一見、バラバラな情報から、統一されたイメージ(概念)を作り出す行為です。

多少、情報自体の信頼度は低くてもいいので、出来るだけ広範囲から情報を収集します。そして、(ここが最も重要なのですが、)それらの収集した情報を、一旦、きれいさっぱり忘れます。忘れる期間は、約三か月です。この間に、無意識下で、全く異質は情報同士が結び付いて全く新しい概念が形成されます。

この手法のメリットは、次の二つです。

  1. 現象の全体像が、(薄ぼんやりと)把握できる。
  2. (科学的先入観や常識に囚われない)全く新しい概念を作り出す事が可能になります。

その為にも、一旦、きれいさっぱり忘れる事が大切です。



記号処理

記号処理(数値解析)」は、言葉や数字などの記号を使った情報処理です。コンピュータ処理も、ここに属します。

言葉や記号、数値を使った情報処理です。
世間一般の常識では、情報処理と言ったら、これを意味します。
ここでは、更に一方進めて、数学を思考形式学に編成し直しています。思考形式学として思考部品を規格化し、全ての分野で同じ思考部品を使えるように整備を急いています。

現代は情報化時代だと大騒ぎしていますが、実は、このレベルの情報処理が機械化されているに過ぎません。上位の欲望のコントロール概念構築は、機械化の目途が全く立っていません。その手掛かりさえ、見つかっていません。

実際の情報処理は、(人々が思っている以上に、)もっともっと広大です。その広大な世界を知って頂く為にも、これを纏めました。



もし、単独で実行せざる得なかったら。

もし、周りに相談相手や話し相手が、誰も居なかったらどうするか。
単独で、実行せざる得なかったら、どうしたらいいでしょうか?

議論を互いに戦わせて、刺激し合うことができません。
議論を通して、自らの思考の誤りも検出できません。
新しいアイデアも、刺激がないので、なかなか生まれ辛くなります。

多くの不都合な弊害に直面します。今までの世間一般の常識的手法が使えません。
もっと、深刻な問題として、孤独感の闇に苛まれてしまいます。作業の性質上、死の恐怖に常に苛まれています。

しかし、だからといって、自らの置かれた不幸を嘆いても、どうにもなりません。誰も助けてくれません。『できません。』の言い訳は通用しません。

絶望の中で、どうやって生き残っていくか。
克服なって、大層なことを言える余力は残っていません。一歩でも、いや、半歩でもいいから、前に向かって進むことに精一杯です。
このような状況に対応する為に、急遽、代替えの情報処理手段を準備する必要がありました。単独で実行する場合の様々な弊害を回避する必要がありました。

そこで、ここでは、これらの不利な状況に対応する為に、新しい手法を導入して使っています。それについて述べます。

問題を解決する為に使用している手法は、間違いを検出する為にも必要です。できるだけ、明示的に自覚するように心掛けています。と言うのも、手段は副作用を生みます。手段そのものが、間違いの原因になることもあります。



一分以内に、三つの代案を見つけて、実行に移せ。

あてにしていた手段が使えなかった場合、自分の不幸を嘆いてみても、しかたありません。急遽、代案を見つけて、目的を達成しなければいけません。

その目安は、「一分以内に、三つの代案を見つけろ。そして、実行しろ。」です。

一分以内は極端ですが、常に代案を(できるだけ早急に)探さざるえませんでした。常に、時間との競争でした。余裕はありませんでした。まるで、ラフティングで、激流を下るようなものでした。目まぐるしく変わる状況の中で、いつも、運動神経が試される連続でした。(要は、サバイバルゲームです。)

そのような状況でいつも心掛けていたのは

手段に拘るのではなくて、目的に拘れ。

「その目的を達成する為には、どの手段が最も合理的か?」。自分の置かれている現実から、それを見つけることでした。

『(1)敵を知り、(2)己を知り、(3)敵と己の距離を知れば、。。。』孫氏の拡張版です。この教えに忠実なら、代案は見つかります。
代案が見つからないのは、(既存の)手段に拘っているからです。手段が目的と化しているからです。



敵を知る

まず、目的に目を向けます。

目的を明確にさせます。
その目的は、実行可能な具体的なものである必要があります。
「真理を探究する。」とか「理想を追求する。」などの仮想の目的はダメです。ゴールが見えていないからです。これらは、馬の目の前にぶら下げられた人参です。人々は、人参目掛けて暴走しています。

目的を明確にする為に、目的を紙の上に、1行で書けるようになるまで、何度も何度もトライします。

2行ではダメです。あくまでも、1行です。分かったつもりにならないで、実際に紙に書いてみることです。
目的を1行で紙に書こうとした瞬間に、「自分が、如何にいい加減か。」を、思い知らされます。「分かったつもり」でいたけど、「何も分かっていなかった」のです。如何に、いい加減だったかを思い知らされます。
ちなみに、「孫氏の兵法」では「国が生き残ること」という具体的な目的が設定されていました。「その為に何をしなければならないか」が、多岐にわたって論じられていました。当時は、戦国時代だったので、「国が生き残ること」が非常に困難だったからです。

目的が曖昧だと、それ以後の作業は崩壊します。


己を知る

目的が1行で書けるようになったら、
自分の置かれている現実から、目的に至る手段を考えます。

まず、自分の置かれている現実に目を向けます。

何が利用可能で、何が利用不可能か。そもそも、実行に必要な手段が整っているのか。自分の手持ちの駒を、様々な方向から検証します。利用可能な手持ちの駒を確認します。

もし、実行に必要な道具が、まだ未整備なら、その為の新しい道具を構築する作業が必要です。道具の手作りを覚悟する必要があります。手作りとなると、それなりのコストと時間が掛かります。それの手当ても考慮する必要があります。

次に、自分の置かれている立場から、目的に至る手段を組み立てます。

目的はひとつですが、残念ながら、現実は複数です。千差万別です。自分の置かれている現実は、刻々と変化します。従って、現実から目的に至る手段も刻々と変化します。複数存在します。現実を無視して、手段に拘っていたら、全てを見失います。失敗します。

物事を実行する場合の優先順位は、目的、現実、手段です。
でも、現実には、人々は、手段に拘って、それを最優先と思い込んでいます。手段に拘り過ぎです。


距離を知る

そして、最後に、現実から目的までの距離を評価します。

距離は、自分の体に掛かる負荷を評価する助けとなります。どれだけの負荷に耐えなければいけないか、その心の準備に役立ちます。

一日で実行可能な場合もあれば、数年掛かることもあります。運が悪ければ、自分の持ち時間を超えてしまう場合もあります。

距離は、時として、手段選択の足枷になります。持ち時間を超えてしまっている場合、計画の根本的練り直しが必要です。何を優先し、何を犠牲にするか、苦渋の決断を迫られます。

なお、距離と時間は同じものです。

遠い距離は、同時に、遠い未来を意味しています。東京から大阪に新幹線で旅行する場合、距離は約500km、所要時間は2時間半程度です。つまり、500km彼方の大阪は、同時に、2時間半後の自分の未来を意味しています。2時間半後には、500km彼方の大阪に、自分は存在しています。
自分の未来は、距離の単位で語っても、或いは、時間の単位で語っても、意味は同じになります。つまり、500km先と、2時間半先は、同じ意味です。

飛び道具が発達した現代の戦争でも、この距離と時間の問題は重要になります。無視できない重要な要因です。
孫氏の兵法が作られた頃は、双方とも、歩兵しかいなかったので、この距離と時間は、ほとんど問題となりませんでした。だから、触れられていません。騎馬兵を使った電撃戦が可能になったのは、その200~300年後です。もし、もう少し後に生まれていたら、騎馬兵を使った兵力の高速移動と一点集中の有効性には、当然、気が付いた思います。情報の伝達速度も画期的に改善されます。

以上の作業工程が、うまく組み立てる事が出来ない場合、最初、即ち、「敵を知る」に戻ります。多分、何回やっても、うまく行かないと思います。でも、それが当たり前です。人間に先天的才能なんてありません。(努力しないと)無能のままです。だから、めげないで繰り返します。練習して、場数踏めば、少しはマシになります。


手順の作成と実行

目的」と「現実」と「距離」が明確になると、目的に至る為の手順の作成が可能になります。その手順を使って、実行も可能になります。

全ての評価基準は、「目的達成に有効かどうか。」で判断、評価します。まかり間違っても、価値観や道徳、教義などの常識で判断してはいけません。



孫氏の兵法

下記は、孫氏の兵法の発想です。
彼は、「国が生き残る事」を目標に設定していました。そして、国が置かれてる状況によって、どのような手段を実行すればいいか、(様々な状況における)その最適な手段を説いていました。

国が置かれている状況は多重に渡ります。しかも、それは刻々と変化します。従って、説いている内容も多重に渡ります。

この為、「国が生き残る」という目標が理解できていないと、(孫氏の兵法は、)ただの単なる場当たり的ノウハウ集に見えてしまいます。「この場合は、こうしろ。」「あの場合は、ああしろ。」と、延々と説いているに過ぎないからです。実際、そう錯覚している評論も結構見ました。

また、性悪説に支配されている人々は、孫氏が説く「詭道(騙しの方法)」に接し、「遂に孫氏の兵法の真髄を見つけた。」と、有頂天になっていました。詭道(騙し)は、いち手段に過ぎません。戦場では詭道は有効です。死んだら後がないからです。でも、平時では副作用が大き過ぎます。互いに、生き残って、先が続くからです。

相手も生き残る平時において、相手を騙す事は、決して、適切な行動ではありません。以後、相手から真面な扱いを受けなくなるからです。相手に不信感を与えてしまうからです。後々、味方として、協力し合うこともできません。ゲーム理論では、こちらから先に騙してはいけません。騙されたら、騙し返すことが有効です。
詭道は、所詮、後がない戦場での一発芸に過ぎません。

孫氏の兵法の発想

孫氏の兵法の発想
まず、孫氏は『国が生き残ること。』という目的を設定しています。
そして、その為にどうすべきか、それを、自らの置かれている現実を観察しながら説いています。

戦争は、国が生き残る為のいち手段に過ぎません。
必ずしも、ベストな手段ではありません。戦争は、勝っても負けても、人員と物資と金を消耗します。国力が著しく毀損されます。そのような時に、別の隣国から攻められたら終わりです。
国力を消耗しないで、『国が生き残ること。』という目的を達成する為には、「戦わずして勝つ。」ことが最もよい方法です。

目的はひとつですが、現実は刻々と変化します。この為、現実から目的に至る手段も刻々と変化します。『殴り合いの戦争』という手段にだけ固守しないことが大切です。

なお、余談ですが、孫氏の時代は、まだ、騎馬兵は実用化されていませんでした。この為、ドイツ軍が第二次世界大戦で実践した電撃戦の考え方は抜けています。

騎馬兵が実用化されたのは、2,300年後です。従って、当時は、敵と己の距離、即ち、移動速度の問題は考慮されていません。全て歩兵で、敵も味方も移動速度は一定だったからです。もし、騎馬で兵力を高速移動可能なら、当然、ドイツ軍と同じように、この要素の重要性に気が付いていたでしょう。敵の脆弱な部分に、兵力の集中運用が可能になりますから。敵は態勢を立て直す前に、各個撃破されてしまいます。

現代では、ミサイルなどの飛び道具や車両が発達しているので、敵と己の距離は無視できない重要な意味を持っています。距離は、即ち、時間です。速度は、距離と時間の両方に影響を与えるからです。
この敵との距離が、現代の戦争では、無視できない程、複雑化しています。


孔子やマルクス

下記は、孔子やマルクスなどの有名な思想家の発想です。
なぜ、彼らは失敗したか、その原因が一目瞭然です。

原因は単純です。第一の原因は、理想という曖昧な架空目標を設定してしまったからです。何処に向かって進めばいいか分からず、結局、手探りになってしまいます。進捗の評価もできません。

第二の原因は、現実に目を向けなかったからです。現実の代用物、即ち、主義思想や価値観を現実だと錯覚して、現実に基づかない行動を取ってしまったからです。マルクスは、現実を資本家と労働者の欲望の対立と見なして、「労働」を絶対的価値と規定して、労働者側の欲望を正当化しました。孔子は、「徳」を説いて、「徳のある指導者が国を支配すれば良くなる。」と、支配者側の欲望を正当化しました。

どのように素晴らしい宗教的真理でも、どのように真実の価値観でも、どのように主義主張や思想が素晴らしくても、それとは無関係に、現実に基づかない行動は破綻します。唯一、成功する可能性があるのは、現実に目を向けた時のみです。これが原因で、マルクスと孔子は失敗しました。

孔子やマルクスの発想

孔子やマルクスの発想
参考までに、孔子やマルクスの発想も上げておきます。
この図を見れば、なぜ、孔子やマルクスが失敗したのか、一目瞭然ですね。

第一の原因は、目標の設定が甘くて曖昧なことです。
彼らは、理想という抽象的な事柄を目標に設定しています。例えるなら、馬が目の前に人参をぶら下げて、暴走しているようなものです。
理想なんて、辿り着いてみないと分かりません。「辿り着いたら、そこは地獄たった。」なんてオチにも成りかねません。
実際、共産主義は、綺麗事の理想とは裏腹に、欲望丸出しの独裁と粛清の嵐でした。
孔子の徳も、権力者の欲望を正当化しているだけでした。結果は『理想』では無くて、『欲望』が生み出してしまいました。

第二の原因は、現実に目を向けていないことです。
彼らは、絶対的価値観や徳に基づいて、現実を規定しています。仮想現実を現実だと錯覚して、仮想現実から理想に至る道を説いています。
仮想現実は、刻々と変化することが無く、理解し易いので、「複雑怪奇な現実を、ついに理解できた。」という錯覚に陥ります。有頂天になります。
しかし、現実を無視したら、うまくいく筈ないですよね。

注)孔子やマルクスは、眠たい本です。欲望の正当化に夢中で、緊張感に欠けています。でも、欲望を正当化したい人々にとっては、その手法を説いているので、心惹かれるとは思います。

2.7. 情報処理の3階層

情報の分析は、次の3階層から構成されています。

  • 欲望のコントロール
  • 概念構築(イメージ処理)
  • 記号処理(数値解析)
情報処理の3階層

情報処理の3階層
情報の処理は3階層に分類されます。
1.記号処理は、言葉や数字などの記号を使って行われます。
2.概念処理は、頭の中に、新しいイメージを構築する作業です。
3.欲望のコントロールは、極めて、戦略的な情報処理です。
 まず、情報を、そのまま、心の中に流し込みます。
 そして、じっと、観察します。心の中のどの欲望と共鳴を起こすかを。
 共鳴を起こした欲望こそが、その情報の正体です。

その為には、心の中の欲望の荒波を鎮める必要があります。心の中を覗いたら、「欲望の荒波しか見えなかった。」では困ります。

2.7.1 記号処理(数値解析)

最下層の簡単な処理から順番に述べていきます。

情報を、言葉や数値などの記号に置換して、処理する手法です。

哲学者は、言葉(符号)を使って、哲学的思索に耽っています。情報を、言葉で表現して、その言葉を弄繰り回すことによって、様々な処理を行っています。
哲学者は、言葉を使って思索することが、思考作業の全てだと思い込んでいます。それ故、言葉が作り出している先入観の壁を乗り越えられないでいます。その前で、いつも、右往左往しています。言葉しか知らない。現実を知らない。ハイデッカーが、そうでした。

デジタルコンピュータは、情報を、数値に置換して処理しています。数値に置換された情報を、計算したり、集計したり、比較したりして情報を処理しています。

現代において、情報処理と言ったら、ほとんど、このレベルの情報処理を意味しています。
このレベルでは、何か新しいものが生み出されることはありません。既に、あるものを、分類や加工しているだけだからです。

現代は、情報化社会だと、騒がれていますが、実は、コンピュータが処理可能な情報は、最下層の『記号処理、数値解析』のみです。それよりも上位に位置する『イメージ処理』や、『欲望のコントロール』は、まだ、機械化のメドさえ立っていません。

これが、現代の情報化社会の正体です。

2.7.2 概念構築(イメージ処理)

断片的な情報から、ひとつの概念を構築する作業です。

解り易く言えば、ジグソーパズルです。
一見、無関係なバラバラの情報を、寄せ集めて、ひとつの統合された概念を構築する作業です。

もの事は、見る方向、見る立場によって、全く、異なったものに見えます。

例えば、象は、近くて見るのと、遠くでみるのでは、全く、異なった姿に見えます。近寄って、長い鼻の先を見るのと、尻尾の先を見るのでは、当然、形が違っています。同じ象でも、見る方向、見る場所、見る距離によって違って見えます。

同じ、象を見ているにも関わらず、そこから得られる情報はバラバラです。形式的な関連性や、統一性を見出すことは困難です。鼻の先と尻尾の先を見て、そこに統一性や関連性を見出すことは不可能です。
この種の情報は、たくさん集めて、統計等の記号処理を行っても、何も有効な結果を得ることはできません。

象について知りたければ、寧ろ、バラバラな、互いに見かけが異なった、多方面から情報を集めて、ジグソーパズルを組み立てるように、象のイメージを頭の中に組み立てる作業が必要です。

集める情報は、科学的データに限定されません。全く馬鹿げた素人の感覚も重要です。専門バカに陥らない為に。
そして、ある程度イメージが固まったら、今後の作業が行い易いように、そのイメージに、『象』という新しいラベル(言葉)を付けます。

言葉を割り当てなかったら、連想が働き辛いので、頭の中に、そのイメージを固定し、維持するのに、高い集中力を必要とします。結構、しんどい作業になります。他人との会話にも、支障が出ます。

しかし、同時に、言葉を割り当てたら、弊害も生じます。人間は、言葉ばかりを見つめ始めて、現実を見なくなります。言葉の先入観に囚われてしまします。

そこで、しんどいですが、言葉を割り当てる作業は、出来るだけ、後の方がいい結果が生まれます。
言葉によって生み出される先入観の弊害を、避ける為にも。

実際の作業手順

実際の作業手順は、下記の通りです。
作業のポイントは、『忘れる』事です。忘れる事で始めて、知識の消化吸収が始まります。常識とは、真逆です。

1) 科学的常識に囚われないて、できるだけ多方面の情報を集めます。

専門バカに陥らない為に、馬鹿げた信頼度の低い情報も丹念に集めます。出来るだけ、広範囲から集めます。一見、無関係な情報も、先入観を捨て集めます。

信頼度の低い情報も、丹念に拾い集めます。もちろん、信じる必要はありませんが、異なった方向からの多様な情報は、全体像を、薄ぼんやりと把握するのに役立ちます。また、全く異質は情報同士を比較することで、(信頼性が高い筈の情報の)間違いや適用限界も検出可能です。信頼性の高い情報は、往々にして、限定された状況下での信頼性です。真理ではありません。そこから外れると、途端に揺らぎます。

全体像が掴めたら、「不足している情報は何か?」「情報収集のポイントを何処に集中すればいいか?」の判断にも役立ちます。最初から、信頼度の高い情報などありません。

常識の壁を乗り越えたかったら、集める情報も、常識に囚われてはいけません。
全く当たり前のことですが、壁を乗り越えれないのは、学問的常識の範囲内にしか、目を向けていないからです。ヒントは、科学的常識の範囲外にあります。

自分の能力は、他人と比べて、劣っています。その劣っている自分が、他人と異なった成果を出す為には、他人と異なった視点、他人と異なった手法を使うことです。

そのような自分が、他人と同じ事をしていたら、自分の無能さを思い知らされるだけです。

2) 神経を集中して、頭の中に叩き込みます。

それらのバラバラな情報を頭の中に叩き込み、ひとつの概念(イメージ)を組み立てる努力をします。

ちょうど、ジグソーパズルを組み立てるように、一生懸命、試行錯誤を繰り返します。
しかし、多分、失敗すると思います。

失敗したら。。。。。

3) 一旦、今までの作業を、全て忘れます。

全てを、忘れることです。 <-- ここが一番重要なポイント

忘れて、別の作業に熱中します。

例えば、生物学の問題を処理していた場合は、全く、関係のない物理学の問題に集中します。綺麗さっぱり忘れて、思い出さない為に、別の作業に熱中します。

「折角、覚えたことを、忘れてはいけない。」という欲望に振り回されて、不安になると思いますが、そのような不安を無視して、全てを、綺麗さっぱり、忘れてしまうことです。その為にも、別のことに熱中すべきです。忘れる努力をするのでは無くて、別の事に興味を移して夢中になることです。別の事に夢中になって、興味が失われると、自然に忘れます。

忘れる事が、この『概念構築(イメージ処理)』の最も重要なポイントです。全て綺麗さっぱりと忘れる事が出来ないと、この情報処理は失敗します。

忘れる事が出来ないと、情報は、いつまでも、入力した時のままの形で残り続けます。消化吸収されません。忘れた時に、始めて、消化吸収が始まります。そして、(無関係と思い込んでいた)全く異質な情報と融合を始めます。(異質なもの同士の)思いもよらなかった関連性を発見します。

その忘れている期間は、経験的に、約3カ月です。

4) 3カ月経って、心に衝動が起こったら、もう一度、心を振り絞ります。

心を、もう一度集中させ、イメージを組み立てる作業を行います。

もう一度、同じ本を読んで、心の奥底から、絞り出すようにして、叩き込んだ情報を取り出します。

もちろん、取り出された情報は、叩き込んだ時とは、微妙に、異なっています。重要だと思い込んでいた情報が、実は、重要ではなくて、抜け落ちていることもあります。
全く、無関係だと思っていた別の情報と、結びついて、新しい姿になって、取り出されることもあります。全て、忘れて、別の作業に熱中した、その別の情報が結びついてきます。

忘れている3カ月の間に、意識の拘束から解放されて、情報の消化、吸収が始まり、互いに、想像もしなかったような場所で結び付いて、新しい概念が生み出されるようです。

我々の脳は、このようなタイプの情報処理も可能なようです。皮肉なことに、この作業は、忘れている時に行われます。新しい概念(イメージ)は、忘れている時期に形成されています。その情報の消化吸収と、結合に、経験的に、約3カ月掛かります。

意識知覚していると、即ち、忘れまいと努力していると、そこで情報が固定されて、消化吸収できない見たいです。常識の呪縛から、逃れられないようです。

なお、この工程に失敗したら、前の工程に戻って、また、全てを忘れます。
これを、諦めずに、執拗に繰り返します。

5) 一連の作業中には、絶対に、言葉は使わない。

不安感から、ついつい言葉を付けたがりますが、言葉を割り当てた瞬間に、言葉の先入観に囚われてしまします。

そこで、情報が、固定されてしまいます。

しんどいですが、言葉を使わないで、心を集中して、頭の中に、そのイメージを保持して、直接、それを動かします。

言葉を使わないと、この作業は、高い集中を要求されて、結構、しんどいですが、我慢して行います。何回も、何回も、トライしていると、そのうち、出来るようになります。

言葉に、しがみ付きたい。』という欲望を克服します。

6) 最後に、その概念を固定する為に、言葉を割り当てます。

言葉が割り当てられると、頭の中にイメージを思い浮かべ、維持、固定するのが比較的簡単になります。他人と会話することも、可能となります。

しかし、同時に、言葉の先入観の虜になってしまいます。自由を失います。

言葉を割り当てた瞬間に、メリットと、デメリットが交差します。

イメージ処理のポイント

この情報処理では、「できるだけ異なった、多方面からの情報を集めること」と、「忘れること」、「言葉を使わない」が、ポイントです。忘れている時に、その期間に、始めて、新しい概念が形成されます。

  1. 出来るだけ多方面の情報を集める。
  2. 忘れること。(経験的には、3カ月です。)
  3. 言葉を使わない。

どの方法も、常識とは真逆なので、抵抗はあると思います。
このレベルの情報処理は、残念ながら、人間の心の中でしか出来ません。

2.7.3 欲望のコントロール

極めて戦略的な情報処理です。
この方法は、欺瞞情報の検出に威力を発揮します。

そもそも、情報を処理する必要があるのは、人間という動物が生きる為です。

全ての哲学的問いは、最終的には、外部から流入した信号と、自己の生きることとの接点を求めています。「それは、生きることと、どのように係わっているのだろうか?」「生きる上で、どのように役立つのだろうか。」「それは、食べれるの?」「美味しいの?」etc。。。。様々な方向から、問いが発せられます。自分の生きる事との関わりにおいて。
その接点が見つかった時に、始めて、「理解出来た。」と実感しています。

全ての哲学的問いは、最終的には、自己の生きることとの接点を探し求めています。

始めて出会った事象に関しては、まず、事象の仕組みを理解しようとします。理解できたら、次に、その事象が、自己の生存と、どのように係わっているか、その接点を明らかにしようとします。

自己の存在と関わりのない信号は、次回からは、雑音として無視されます。心に留まることなく、そのまま、流れ去ってしまいます。
自己の存在と関わりのある信号のみが、心に留まって、情報に変身します。信号が、情報に変身する瞬間です。つまり、『情報』とは、自己の存在と結びついた信号のことです。

人間の心の奥底には、様々な欲望が蠢いています。人間の行動は、その蠢いている欲望によって、ドライブされています。

例えば、人間の心の奥底には、食欲がありますが、この欲望は、肉体的空腹感と、外部からの信号(食べ物の匂いや、映像)が出会って、始めて活性化されます。活性化された食欲は、肉体の具体的行動を生じさせ、捕食行動へと駆り立てます。キツネなら、ウサギを追いかけます。人間なら、レストランへ入っていきます。
肉体的空腹感がなければ、ウサギを見ても、追いかけません。肉体的要求と、外部からの信号が出会ったときにのみ、捕食行動が発生します。

このレベルでの情報処理では、これを利用します。
外部から流入した信号が、心の奥底で蠢いているどの欲望と、共鳴を起こすか、それをじっくり観察します。

共鳴を起こした欲望こそが、その情報の真の正体です。

感覚器官から流入した信号は、欲望と共鳴を起こさない場合は、雑音として、そのまま素通りします。何の結果も生じません。
欲望と共鳴を起こすと、欲望が活性化されて、肉体的行動を生じさせます。行動は、様々な結果を生みます。結果は、様々な波及効果を生みます。
その結果と波及効果こそが、我々が最も知りたいことだからです。

情報の意味と価値

情報の意味と価値
感覚器官から流入した信号は、心の中の欲望と共鳴します。
共鳴しなかった信号は、雑音として無視されます。

信号は、欲望と共鳴して、始めて、情報に変身します。
共鳴した欲望は、肉体上の行動を生じさせます。
肉体上の行動は、結果を生みます。
物事は、この行動結果によって判断されます。

音楽を楽しむ

こう説明すると、難しく聞こえるので、音楽鑑賞を例にとってみます。

みなさんも、音楽を聞くことは好きだと思います。難しい、音楽理論など無視して、楽しんでおられると思います。

世の中には、色々なジャンルの音楽があります。ジャズや、クラシック、ラテンにシャンソン。ポップスにロック。ジャンルに関係なく、感性が合えば、楽しんでいると思います。

それを注意深く観察していると、ジャンル毎に、それを楽しんでいる感性の場所が、其々違っていることに気が付きます。その時の気分によって、聞く音楽が異なっています。

例えは、自分の場合、アフリカの民族音楽は、頭ではなくて、左腕の血管が楽しんでいます。あの強力なリズムを聞くと、血管がピクピクします。

インドの民族音楽は、頭の上、10cm辺りで、シャンシャンと音が鳴り響いています。楽しむ感性の位置が、頭がい骨の外側にあります。其々の音楽には、それを楽しむ感性の場所が異なっています。その日の気分に合わせて、様々な音楽を楽しんでいます。

興味深いのは、ジャズとバッハです。この2つは、同じ感性を使って楽しんでいます。両方の音楽とも、メロディーによって構成されていなくて、音の塊によって構成されています。音の塊が、気分の高揚と連想によって、次の音の塊を連れてやってきています。

丁度、夢の構成形式と同じです。夢も、前後の脈絡がなく、連想によって、次のイメージの塊を連れてやってきます。夢の構成形式と、ジャズ、バッハが同じなのは、興味深いことです。多分、左脳の音楽(メロディー)ではなくて、右脳の音楽(イメージの連想)になっているのですね。

実際の具体的な処理手順は、下記のようになります。

1) 外部からの信号を、そのまま、心に流し込みます。

絶対に批判をしてはいけません。

評価もしてはいけません。
ありとあらゆる心の動きを止めます。
出来るだけ変更を加えないで、そのまま流し込むのがポイントです。

まかり間違っても、批判的摂取など、行ってはいけません。
せっかくの情報が変質してしまいます。最悪の場合は、都合の悪い情報が流れ込まなくなります。偏向してしまいます。

批判的摂取は、アライグマの習性と同じで、所詮は、自己満足に浸る為の儀式に過ぎません。

2) 心の中を、注意深く観察します。

流し込んだら、注意深く、心の中を観察します。その信号が、どの欲望と共鳴を起こすかを。

性欲を擽るのか、虚栄心を擽るのか、宗教的欲望や、哲学的欲望、あるいは、自己を正当化できる言葉を探し求めているのか、それらを注意深く観察します。

共鳴を起こした欲望こそが、その情報の真の正体です。

3) 欲望が行動を生み出す現場を観察する。

できたら、その共鳴を起こした欲望が、行動を生みだす現場を観察できればベストです。さらに、その行動が結果を生み出す現場を観察できれば、申し分ありません。
欲望と行動と結果、この三つの因果関係を観察する事が大切です。

感覚器官からの信号によって、欲望が活性化され、その活性かされた欲望は、何らかの行動を生じさせます。
そして、その行動は、何らかの結果を生み出します。我々にとって大切なのは、その結果です。これだけが、我々に影響を与えるからです。
だから、物事は、行いと、その結果によって判断されます。

ところが、人間は、その行いの基となった欲望を、言葉で正当化する事ばかりに夢中になっています。この為に、言葉が総動員されています。宗教や、イデオロギーが総動員されています。
行いの結果に目を向けることもせずに、ただ、ひたすら、欲望を言葉で正当化することばかりに夢中になっています。それを、何とか相手に押し付けようと、頭を巡らしています。

正当化できる言葉が見つかったら、もう、それで安心しています。全ての作業は、そこで終わっています。行いと結果なんて、無関心です。忘れ去られています。

人間という動物の生き様の因果関係

生き様の因果関係
1. 感覚器官(六根)からの刺激によって、『欲望』が活性化されます。
2. 『欲望』から、『行い』が生じています。
3. そして、その『行い』から、『結果』が生まれています。

それ故、物事は、『行い』と、そこから生じる『結果』の因果関係によって判断されます。

ところが、
人々は、言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。
言葉ばかりに、心を奪われています。



この手法の最大の問題点

人間は、自分の心と向き合うことが苦手です。

我々人間は、心の奥底で蠢いている欲望と、向き合うことが苦手です。この為、心の中を、観察できません。

欲望が視界に入った瞬間に、脊髄反射的に、それから目を逸らし、言葉を使って正当化し、飾り立て、その飾り立てられた言葉ばかりを、見つめ始めます。

欲望の正当化作業は、しつこく繰り返されて、終わることがありません。
この為、肝心の作業が出来なくて、訳が判らなくなってしまいます。

まず、「正当化したい。」「飾り立てたい。」という欲望を抑えて、心の底で蠢いている欲望と、そのまま、向き合えるように、訓練する必要があります。
欲望をコントロールする必要があります。

特に、性欲などのように、反社会的で、恥ずかし欲望とは、なかなか向き合えません。
生命としての宿命や、動物の性(さが)に根差した根源的欲望は、それが欲望だと自覚出来ない場合もあります。その場合は、自分の行動を観察して、そこから、欲望に辿りつく作業が必要になるかもしれません。自分の手足の動きを観察して、そこから、推測します。行動の原因や、出発点になっているものが、欲望なので。

欲望とそのまま向き合えるようになって、始めて、外からの信号が、欲望と共鳴を起こす瞬間を、観察可能になります。

その活性化された欲望が、行動の原因となって、結果を生み出す現場を観察できます。その結果こそが、その情報の真の意味です。

大切なこと

1. 心の奥底で蠢いている欲望と、そのまま、向き合います。
2. 情報は、批判をしないで、そのまま流し込みます。
3. 心の中を観察します。どの欲望と共鳴を起こすかを。
4. 共鳴を起こした欲望こそが、その情報の正体です。

注)この情報処理の手法は、『ネオ・ダーウィニズム批判』で使っています。
現代の正統派進化論(ネオ・ダーウィニズム)は疑似科学です。自然科学の理論ではありません。しかし、多くの科学者や哲学者は、それを信じて疑っていません。
なぜ、こんな偽物を信じてしまったのか、その分析に、この手法を使っています。その騙しのテクニックを解説しています。
参考に見て頂いたら幸いです。身も蓋もない話です。正統派進化論で使われている騙しのテクニックを知ったら唖然とされると思います。哲学者や思想家、宗教家なども、広く使っているからです。それに気付くからです。

2.7.4 分別智と共通智

情報分析には、分別智と共通智があります。

『分別智』は、仏教用語です。
与えられた情報から、違いを見つけて、それを、両極端に分別する能力です。
通常、「鋭敏な知性」といったら、この分別智を指します。如何にセンシティブに情報を分類できるかが、知性の証明と思われています。

これと反対の能力に、『共通智』があります。
二つの全く異質な事象から、共通する性質を見つけ出し、この異質な二つを統合して理解する能力です。だから、仏教では、『統合智』と呼んでいる場合もあります。

詳細は、空の哲学の「共通智と分別智」を参照下さい。