4.3 模倣反射
模倣反射は、別名「まねる。」とか、「アイデンティフィケーション」と呼ばれています。
この反射は、比較的新しい学習行為で、「子は親の鏡」とか、「猿の物まね」という諺からも理解されるように、我々人間や、猿において非常に重要な役割を演じています。
その重要性を、現代の研究者の方々は、過小評価し過ぎているように思えます。
この模倣反射を、動物一般に適用して論ずる場合には、ひとつの前提条件が必要です。
それは、模倣すべき先輩の存在、即ち、世代の断絶がないことです。具体的には、親子関係がはっきり確立されているか、或は、様々な世代の入り交じった群れの存在が必要です。
今西錦司氏は、この様な動物一般における模倣反射によって受け継がれている群れの行動様式を、カルチュアと呼んでいます。
カルチュアの定義 |
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模倣反射によって受け継がれている行動様式。
(行動のプログラム) |
この模倣反射と、その反射に基ずく文化の多様性は、我々人間以外の動物では、日本ザルの群れにおいて、よく研究されております。
日本ザルは、模倣反射に対する依存度が比較的高い動物であるために、群れによって、その社会構造や、行動様式が、微妙に異なっています。その違いは、食習慣において、もっとも明確です。このことを、河合雅雄氏は、『日本ザルの生態』の中で、次のように述べています。
日本ザルは雑食性だから、いわばなんでも食べるといってよい。しかし、群れによって摂取する食物がちがっている。
たとえば鳥の卵。たいていの群れは好んで食べるが、高崎山や小豆島の群れは全然食べない。臥牛山の群れはウバユリの根を掘って食べる。ほかの群れにはこんな習性をみない。 |
また、この食習慣のカルチュラルプレッシャーがいかに強いかを、同氏は次のように述べています。話は、屋久島産のサルの群れを捕獲して、別の場所に放ったときのことです。
この群れがはじめて大平山へ放たれた時のことである。大平山山塊には戦前まで自然群がいたのだから、サルの食物にはことかかないはずだ。ところが、放飼群は屋久島産のサルだから、ほとんど知らない植物ばかりだ。かれらは苔や二、三の植物をわずかに食べただけで、全群が飢餓におちいった。群れは分裂し、主群は餌場に戻ったからよかったものの、反乱群は山奥に逃げ、そのうち数頭は、飢えと寒さと病気で死亡した。解剖してみると、胃はほとんどからであった。食物になる植物はいっぱいあるのに、餓死にいたるまで新しい食物をこばんだのだ。恐るべきカルチュアの呪縛である。
ところが、新しい食物の獲得にこれほどの抵抗を示すかれらが、いったん捕獲されて一頭になると、あたえられた食物はたいていたべる。しかもその転換ぶりたるや、まことに鮮やかである。
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この模倣反射における文化の伝播の最も象徴的な例は、よく引き合いに出されることですが、幸島のサルのイモ洗い行動です。ある一頭のサルによって獲得されたイモ洗い行動が、群れ全体に広がっていく様子を、同氏は次のように述べています。
最初111メス(イモ)がイモ洗いを覚えたときは(1952年生まれ、1953年に獲得)、砂まみれになったサツマイモを洗って食べることはたいへん好都合だった。・・・・・・・イモ洗い行動は、仲間関係や親子兄弟姉妹を通じて伝播していった。・・・・・オトナへの伝播は子供から親へと伝わっていった。1958年までのイモ洗いの伝播はこのような経路をたどっており、個別的伝播期と呼ぶことができよう。ところが55年生まれのササやノギ以下のサルは、生まれたときから、砂まみれのイモよりも、母親や兄姉がイモ洗いをして食べた海水中の残し(ざんし)に親しんできた。だから、かれらはまずはじめに塩づけイモの味を覚え、それからイモ洗いという技術を学習したにちがいない。またササから下の世代のサルは、洗うのは一般にへただし、味つけ行動しかしないもののほうが多い。かれらはイモ洗いを母親から学んだのだ。 |
このイモ洗い行動において興味深いことは、模倣反射の性格が浮き彫りにされていることです。
模倣反射は、本来、先輩の行動をまねることによって新しい行動のためのプログラムを身につける行為ですから、この学習によって身につけることができるのは、行動のためのプログラム、すなわち行動形式だけであって、その行動の目的は学習できません。
したがって、本来、イモについた砂を洗い落とす行為であったものが、イモに塩味をつける行為に変わってしまったとしても別に不思議ではありません。いや、このような例は、我々人間においても日常よく見られることです。本来、ある目的をもって始められた行事が、代を経るにしたがって習慣化してしまい、その本来の目的が忘れ去られてしまい、習慣だけが残ってしまうか、あるいはその習慣が別の目的をもってしまうことがよくあります。
たとえば、正月の行事などはそのよい例です。我々は、それが習慣だから行ないますが、しかし本当の意味はよく知りません。正月の行事は、本来、神聖な意味をもっている筈なのですが、それゆえ元旦にはお宮参りをする筈なのですが、そのお宮参りさえ、今日において正月の重要なレジャーのひとつになっています。
イモ洗い行動が味付け行動に変化したように、晴れ着を着て、人ごみの中へ行き、おみくじを引かなければ、正月を迎えたたような気分になりません。
日本人が、正月のお宮参りや、花見で、ワザワザ、好んで、人混みの中に行くのは、日本人としてのアイデンティティや、共同体意識を確認する為ではないかと疑っています。人混みに揉まれて疲れ果ててしまいますが、変な達成感が残ります。逆に、人がいないと、物足りなさを感じます。
一種の宗教的苦行ですかね。苦行なら、苦労するほど、有難みが湧きます。
次に、この模倣反射がいかに効率のいい学習行為であるかを、我々人間を例にして示します。
テニスのレッスンプロ W.T.ガルウェイは、その著書『インナーゲーム』の中で次のように述べています。全くのビギナーに、テニスを教えたときの話です。
その日の午後、私はポールという全くのビギナーを受け持った。ラケットに触れたこともない青年だ。私はドロシーのレッスンで得た教訓を試す気になった。出来るだけ”教えないで”教えてみようと思った。
私は、まず「よく見ているように」と言っておいて、いきなり彼の目の前で十球だけストロークをしてみせたのである。「私がどんなふうにラケットを振るか、考えてはいけない。単に、どんなふうにしてやるか、イメージだけを捕らえてほしい」―――それが私の注文だ。彼の内面の世界では、何回か私の動きの”視覚的”イメージがVTRされたに違いない。そして、私と彼とが入れ替わり、彼自身が同じ動作をやっている”錯覚”が沸き起こればしめたものだと思った。
次にやったことは、彼の手を取って完ぺきに正しいグリップでラケットを握らせることだった。そして、「さあ、やってごらん。」
その時、ポールは
「あなたが一番最初にやることは、いつも足を動かすことですね。フットワークが大切なのですね。」と言った。私はそれには答えなかった。
ポールはどんなふうに、生まれて初めてストロークをやっただろうか。完全なバックスイング。水平に振られたラケットの軌跡。肩の位置に収まったフォロー・スルー。すばらしい出来ではないか。ただし―――。たった一つ、彼には欠けるものがあった。フットワークである。両足はピタリとコートに吸いついて、みじんも動いていなかった。私はそれを指摘した。「あ、そうだ。」ポールは自分でも驚いたようだ。
「変ですねェ。一番最初に気がついて、一番大事だと知ったはずのフットワークを、全然忘れていたなんて、直前まで気にしたいたのに。変ですねェ。」
変ですねェ―――で済むのは生徒の方。こっちはそれでは済まない。大変な発見だ。すべてのストロークの要素は、レッスンという”言葉”ではなくて、視覚的イメージだけで吸収された。たった一つ”言葉”となって現われた要素は、吸収されなかった。 百聞は一見にしかず―――という。その通りだ。言葉よりイメージの方が、はるかに有効であり、”熱心過ぎる”ことは確かにマイナスだという結論に達する。 |
彼はこの著書で、言葉によるレッスンよりも、視覚的イメージによるレッスンの方が、はるかに有効である、いや、言葉によるレッスンは、かえって有害だと述べています。
この「人間の体は、視覚的イメージによって吸収された行動のためのプログラムを、そのまま再現できる。」という彼の主張は、おそらく現代の研究者にとって受け入れられ難いものであると思います。
なぜなら、現代の研究者にとって、模倣反射とは単に相手の行動をまねてみる、すなわち相手と似た行動をとってみるという意味ではあっても、そのまま再現するという意味ではないからです。
彼の主張は、それよりも、もっと極端です。まるで鏡に写すように、VTRで再現するように、テニスのストロークという複雑な運動が、そのまま再現できると主張しているのですから。
いったい、どうやって、視覚情報だけから、肉体を動かすプログラムを作り出しているのでしょうか。
我々人間は、ごく普通に、模倣反射が可能ですから、当たり前のこととして、疑問に感じませんが、工学的には、そのプログラムの作成手順と、組込み手順が、不思議です。
本当に、このような魔法が、可能なのでしょうか。
この魔法のような行為の工学的な仕組みについては、まだこの段階では説明できませんので、後回しにします。最後のセクション(第六章 論法上の欠陥)で述べます。
その仕組みが明かとなったとき、この魔法の謎も、きっと理解していただけると思います。
できれば、すべてを読み終わったとき、もう一度、このW.T.ガルウェイの文章を読みなやしていただけることを希望します。それほどに、彼の言葉は重要です。