2022/06/13 うつせみ

我々には、もうひとつの可能性があります。
価値観から、心を解放する道です。
「行いと結果の因果関係」を観察して、自らを律する道です。

8.7.0 もうひとつの道

我々人間の未来には、『ありとあらゆる価値観から、心を解放する。』道もあります。

この21世紀初頭という時代は、人々の心を支配している価値観が、『神』から『科学』に移り変わっている時代です。即ち、『科学教』の時代です。

人々は、『神』ではなくて、『科学』という価値観を信じ始めています。『神』という言葉と、その価値観を否定しています。自らの行動も、宗教的価値観によって律するのではなくて、科学的価値観で律しようとしています。

『神』という宗教を否定して、『科学』という宗教を肯定しているので、自らは無神論者と思っています。神という言葉を否定しているので、『神を否定している者』、即ち、『無神』論者と見なしています。そのような差別化によって、自らの優位性を正当化しています。
かつて、新興教団が、既存の旧体制派教団を否定してきた道と同じです。大乗仏教が上座部仏教を否定したように、ピューリタンがクリスチャンを否定したように、同じ道を辿っています。実際、『無神』論者たちは、宗教を信じている人々を、因習に囚われた遅れた人々と見なす傾向にあります。

しかし、『行い』と『結果』の因果関係に目を向けるなら、相変わらず、価値観を信じている『行い』自体は変っていません。価値観に従って行動している現実は変わっていません。『価値観』が、神から科学に代わっただけです。「科学の果ての宗教」(内村剛介)です。相変わらず、人々は、信じている価値観に従って行動しています。
浜辺のヤドカリが、次から次へと殻を取り換えるように、「今度こそは!」と、淡い期待に胸膨らませて、新しい価値観に着替えています。

彼らは、価値観の檻の中に、自らの心を自ら進んで閉じ込めています。動物園の動物たちのように、檻の中の方が安心できるとでも感じているのでしょうか。まるで、『価値観の奴隷』のようです。行動範囲が、価値観によって制限されています。拘束されています。

神を肯定することによっても、否定することによっても、平安は得られません。教団の利益に貢献するだけです。科学を肯定することによっても、否定することによっても、平安は得られません。(相手の存在を否定する為の)武器の開発が促進されるだけです。科学を実感できるのは、残念ですが、戦争の為の手段、即ち、武器です。石器時代から、この傾向は変わっていません。

もの事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。『言葉』を否定することによっても明らかとはなりません。『形』によっても明らかになる訳でもありません。『形』(偶像崇拝)を否定することによっても明かとはなりません。何かの『価値観』を肯定することによっても、否定することによっても、何かが得られる訳ではありません。

宗教も、教団と教義から離れて、現実に目を向ける事ができるなら素晴らしいのですが、でも、残念ながら、実際は、教団が生み出す利益と、その利益を正当化する為の教義経典に汲々としているのが現実です。教団という組織自体は、欲望の産物に過ぎないからです。その欲望に振り回されています。(厳しい表現を使うなら、神の名を語って、自らの欲望を正当化しています。)

因果関係にだけ注目すると、価値観は、現実の代用物の働きをしています。
人々は、眼からの信号で行動する代わりに、価値観に従って行動しています。現実に目を向けないで、価値観を見つめて行動しています。現実は刻々と変化しますが、価値観は何時まで経っても変わりません。価値観に従った行動は、次第に現実と乖離していきます。

どんなに素晴らしい価値観でも、現実に基づかない行動は、不幸な結果を招きます。暴走します。物事は、ただ単に、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎないからです。『結果』を生み出しているのは、『行い』だからです。言葉が結果を生み出している訳ではないからです。

我々人間の未来には、「ありとあらゆる価値観から、心を解放する。」道もあります。価値観に囚われない道です。価値観の奴隷からの解放の道です。自由な心を取り戻す道です。「行いと結果の因果関係」を観察して、自らの『行い』を律する道です。

最終的には、仏教への拘りからも離れることが大切です。
娑婆への拘りは捨てても、仏教への拘りは捨てれなくて、翻弄されている人々もいます。新たな拘りに憑りつかれています。

我々には新しい可能性もあります。
「行いと結果の因果関係」を観察して、自らの『行い』を律する道です。
価値観から、心を解放する道です。

8.8.0 まとめ

自分の書いた文章を改めて読み返すと、対象が哲学者や仏教学者、或いは、知識人ですね。

これは、イカン。もっと、日常生活に即した書き方をしないと。」と、反省しきりです。
でも、最初期の原始仏教のように日常生活に即した書き方だと、逆に、仏教学者や哲学者には、空が理解出来なくなってしまいます。『空』を『空性』と誤解してしまいます。初回の方針としては、痛し痒しです。

次回は、もっと、日常生活に即した平易な表現にしたいと思います。仏教も哲学も科学も使わないで書く工夫が必要だと感じています。(原始仏教のように)

大切な事は、ただ単に、「拘りから離れる事」そして、「原因と結果の因果関係を観察する事」。この二つの『行い』を実践するだけなので。『空』は、その為の理屈に過ぎません。
現実だけが、教師であり反面教師です。

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