8.空の哲学 (Empty philosophy)
原始仏教と空
原始仏教と空
2022/06/13 うつせみ
空の哲学(Empty philosophy)は言葉によって明らかになる訳ではありません。
科学的知識によっても明らかとなりません。
当然、仏教によっても明らかになりません。
これらのものを否定することによっても明らかになりません。
そのような否定と肯定の心から離れて、
原因と結果の因果関係を観察することが大切です。
言葉や知識への拘りから離れることが大切です。
当然、仏教への拘りから離れることも大切です。
「行い」が大切です。
空の哲学は、仏教の思想です。ここでは、仏教に関する若干の常識的な知識を期待しています。ただし、専門知識は不要です。いや、邪魔です。
原始仏教の考え方に沿って話を進めています。出来る限り、仏教用語は使わないようにしています。抹香臭さを消しています。誤解される内容なので、出来るだけ冷たい表現を使っています。
現代では、まだ未知の新しい知識、即ち、「意識とは何か?」を使って説明しています。意識を持ってしまった知的性生命体の宿命を述べています。(この広い宇宙の何処かに存在している筈の)他の知的生命体と共有可能な知識です。
原始仏教の新鮮さを感じて頂ければ幸いです。
もの事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎません。
それ故、『行い』と、『結果』の因果関係を観察する事が大切です。
言葉は、『行い』の原因になっている『欲望』を正当化することに一所懸命です。
それ故、人々は、言葉と、その(言葉の)裏側に潜んでいる『欲望』に拘っています。「言葉には真理が宿っている筈だ。その言葉で飾られた自分(の欲望)は正しい。」と。
原始仏教は、そのような言葉と、その裏側に潜んでいる欲望への拘りから離れる事が大切だと説きます。マルクスのような絶対的価値観や、孔子のような徳を説いている訳ではありません。人々を魅了して止まない体系的知識を説いている訳でもありません。仏教学者が憧れている「空の真理」、つまり、「空性」を説いている訳でもありません。もちろん、「悟り」を説いている訳でもありません。
多分、探し求めているもの、或いは、期待しているものとは、別の方向だと思います。
(目の前の現実を構成している)原因と結果の因果関係を指摘しているのみです。『欲望』から『行い』が生まれています。全ての『行い』の裏側には『欲望』が潜んでいます。人々は、その欲望を言葉で正当化することに夢中です。そして、これが問題をややこしくしています。
それ故、「自らの欲望への拘りや執着から離れることが大切」と説いています。
自らの心と向き合うことを希望します。全ては、自らの欲望が生み出したものです。 知覚しているものは、「生きるという欲望」の結果です。人々が思い込んでいるような「存在する実体」ではありません。
一切は空なり( Everything is empty. It was the result of my own desires. )です。
人間という動物の生き様の因果関係 |
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1. 六つの感覚器官、即ち、眼耳鼻舌身意の六根からの刺激によって、『欲望』が活性化されています。 2. その活性化された『欲望』から、『行い』が生じています。 3. そして、その『行い』から、(悲喜こもごもの)『結果』が生まれています。 それ故、もの事は、『行い』と、そこから生じる『結果』によって判断されます。 ところが、人々は、 言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。 言葉ばかりに、心を奪われています。これが、問題をややこしくしています。 それ故、言葉への拘りから離れることが大切です。 知覚しているものへの執着から離れることが大切です。 なお、欲望と共鳴しなかった知覚刺激は、雑音として、そのまま素通りします。『行い』が生じません。 |
欲望の中には、食欲や性欲などのように、自覚できる欲望もあります。しかし、「色形などの認識」のように、それが欲望の働きだとは気付かない欲望もあります。
人間の脳が行っている(認識行為などの)情報処理は、全て「生きるという欲望」との接点に基づいて行われています。「それは自らの生きる事と、どう関わっているのだろうか?」と。その関りとの接点を探し求めています。
この行為を、今西錦司(敬称略)は「状況の主体化」と呼んでいます。状況を主体化した結果の数値を、フロイトは「テンション」と呼んでいます。
そこ(認識された結果)には「生きる意味と臭い」が、こびり付いています。知覚しているものへの拘りや執着も、ここから、即ち、この(こびり付いている)臭いと欲望から生まれています。「知覚しているものは実体だ。」という先入観も、ここから生まれています。自覚できない欲望に振り回されています。
もし、「知覚しているものが実体でない」なら、即ち、「真実でない」なら、耐え難い不安で奈落の底に突き落とされます。自らの欲望と信念が、冷酷に根底から打ち砕かれます。人々は、哲学者を筆頭に、この「死の恐怖」、つまり、「絶対無の恐怖」に耐えれません。
それ故、知覚しているものに、必死に、しがみついています。「それは、存在する実体だ」と。「これは、疑っても疑いきれない真実だ。」と思い込もうと必死です。デカルトのように。
でも、皮肉なことに、意識知覚できているが故に、実体ではありません。
それは、「生きるという欲望」の働きの結果です。
一切は空なり。( Everything is empty. It was the result of my own desires. )
空の哲学( Empty philosophy )
空の哲学は、「一切は空なり (Everything is empty. It was the result of my own desires.)」、即ち、「意識知覚している全ての事象は、自らの欲望が生じさせた(実体のない)ものだ。」と説きます。
空の哲学を、言葉で正確に説明する為には、現代では、まだ未知の新しい知識と向き合う必要があります。
「意識とは何か?」です。
(生物学的には)意識は、心の中を知覚対象とした感覚器官の一種です。
「意識する」とは、「意識感覚器官で知覚する」ことを意味しています。その知覚対象は、心の中の事象です。この意識が知覚している刺激からも、「行い」が生じています。視覚から「行い」が生じているように。 << ここ重要
これを仏教では「意知覚(意識知覚)」と呼んでいます。
それらは、(意識知覚として)実感できるが故に、全ては心の中の事象です。実体ではありません。夢と同じように、自らの欲望が生じさせたものです。
愛も憎しみも、そして、死の恐怖も、全ては意識の知覚対象であるが故に、心の中の事象です。「一切は空なり」、夢と同じように実体のないものです。(それを生み出す元になった)自らの欲望以外には根拠のないものです。人々が思い込んでいるような「存在する実体」ではありません。蝉の抜け殻のように、言葉の殻は纏っていても、中身は空っぽです。
人々は、それが自らの欲望によって生み出されたものであるが故に、余計に、その欲望に執着しています。拘っています。「存在する実体だ!」と。
意識知覚への執着は、実は、それを生み出した欲望への執着です。
我々知的生命体は、意識を持ってしまったが故に、様々な副作用に翻弄されています。愛や憎しみ、迷いや苦悩、嫉妬や猜疑心、恨みなどの被害妄想の心、そして死の恐怖、、、、、etc。
原始仏教は、「この知的生命体の宿命と、どう向き合えばいいか」を説いています。「我々知的生命体は、どのような命のルールを背負って生まれてきたか」、「その命のルールが生み出す様々な副作用と、どう向き合えばいいか」をテーマにしています。
原始仏教と空の哲学は、説いている内容が同じです。でも、原始仏教の方が、深みがあります。空の哲学は、純粋培養された者たちの空理空論が目立ちます。地に足がついていません。学者受けは良いのですが、、、、、
注)意識器官の生物学的意味と工学的仕組みは、後ほど「脳の進化」で詳しく述べます。
意識器官は、工学的には架空行動の為の制御システム系、即ち、シミュレーション・システムです。
意識を使った考える行為は、基本的には、肉体の架空行動を意味しています。この架空の体験学習によって、即ち、シミュレーションによって、(未知の状況に対応する為の)新しいプログラムを身に付けています。
つまり、我々知的生命体が意識知覚している世界は、脳内部に作り出された信号空間、即ち、架空環境です。この「(架空の)シミュレーションの場」で、様々な架空行動、即ち、思考活動を繰り返しています。
ここでは、「考える行為」の生物学的意味と工学的仕組みを述べています。(意識を持ってしまった)我々知性生命体の出生の秘密を知ることになると思います。人間が生み出したもの、宗教や科学、芸術が、どこから生まれてきたか、そして、その限界が、どこにあるかを知る事になると思います。結構、冷酷な内容です。
(金剛般若経)
これを、金剛般若経 は、次のように説いています。
「イルカはイルカに非ず。故に、これをイルカと名づく。」( A is not A. So,named it A.)
「意識知覚しているイルカというイメージは、実体だと思い込んでいるイルカに非ず。故に、これを言葉でイルカと名づく。」
Dolphin( that is consciously perceived ) is not dolphin( that is thought to be an entity ). So, named it dolphin ( in words ) .
「意識知覚しているイメージは、人々は思い込んでいるような「存在する実体」ではない。だから、これには(言葉で)名前が付いている。」と説いています。
同じ言葉で指し示している三つの事象、即ち、意識知覚している「イメージ(1)」も、実体だという「思い込み(2)」も、「言葉(3)」も、意識知覚できるが故に、全ては心の中の事象です。それ故、この三つは、(意識知覚された世界の中で)結び付くことができます。「イルカはイルカに非ず。故に、これをイルカと名ずく(A is not A. So, named it A.)」と。
金剛般若経は、「空(シューニャ)」という言葉を使わないで、「空っぽ(empty)」を説いています。「意識知覚しているものは、(人々が思い込んでいるような)存在する実体ではない。(実体のないものだ。空っぽだ。)だから、これには言葉で名前が付いている。」と。
意識知覚している三つのもの |
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意識知覚している三つのもの、即ち、意識知覚している色形などの『イメージ(1)』も、「存在する実体だ」と思い込んでいる『思い込み(2)』も、口から出ている『言葉(3)』も、共に意識の知覚対象です。同じ意識知覚された世界(現象界)に属しています。 それ故、この三つは(意識知覚された世界の中で)結び付くことが出来ます。「イルカはイルカに非ず。故に、これをイルカと名ずく(A is not A. So, named it A.)」と。 同じ現象界に属しているが故に、相手の存在を知ることが可能になっています。相手の存在を知る事ができるので、この三つは結び付くことが可能になっています。 もし、存在する現象界が異なっていたら、相手の存在を知ることもできませんから、(相手と)結び付くこともできません。 無意識の領域の事象が、(意識知覚できないが故に)言葉と結び付かないように。 なお、無意識の事象も、「行い」を生じさせています。それは、表面に表れている「行い」を観察することで、間接的に推測可能です。 もし、異なる現象界に存在するもの同士が結び付くことが可能なら、それは、もっと大きな現象界の一部を意味しています。『イメージの現象界』も、『思い込みの現象界』も、『言葉の現象界』も、もっと大きな『意識知覚された現象界』の一部を構成しています。その大きな現象界の中で、結び付きが発生しています。 数学用語を使うなら、『イメージ』も『思い込み』も『言葉』も、『意識知覚された世界』という全体集合の中の部分集合です。一部です。 なお、『意識知覚された世界』は、脳内部の事象です。実体ではありません。 これら三つの事象を生み出す元になった欲望は、夫々異なっています。 金剛般若経は、言葉と、その言葉が指示している現象界との対応関係を、正確に理解していました。数学や物理学と同じで、極めて論理的でした。 |
意識知覚しているものは、自らの欲望が生じさせた実体のないものです。(心の中の事象)一切は空っぽです、 (Everything is empty. It was the result of my own desires.)。「イメージ」も、「思い込み」も、「言葉」も、全ては、(意識知覚できるが故に、)自らの欲望によって生み出された(実体のない)ものです。それらは、自らの欲望が言葉の衣を纏った姿です。
( 言葉が指示しているもの )
金剛般若経:イルカ1はイルカ2に非ず。故に、これをイルカ3と名づく。
同じ「イルカ」という言葉が使われていますが、その指し示している対象は異なっています。
イルカ1:意識知覚しているイメージ。
イルカ2:「実体だ」という先入観や思い込み。
イルカ3:言葉そのもの。つまり、「イルカ」という名札。
即ち、「意識知覚しているイルカというイメージは、「実体だ」と思い込んでいるイルカに非ず。故に、これを言葉でイルカと名づく。」と。
(A1 is not A2. So, named it A3.)
言葉と、その言葉が指し示している対象との対応関係を、金剛般若経は正確に理解していました。
言葉は、対象を指示している。
(言葉が指示している)対象には、(山や川のように)手で触れることができる物体があります。それ以外に、(愛や憎しみのように)心の中の事象も言葉で指し示すことが可能です。当然、言葉自身も、そして、先入観や思い込みも、心の中で蠢いている欲望も、(心の中の事象なので)言葉が指し示す対象に含まれます。
ちなみに、対象を指示している「言葉」のことを、コンピュータプログラムの世界では「ポインタ変数(pointer variable)」と呼んでいます。「ポインタ変数」は、指し示す対象(メモリー領域)を、プログラム実行時に、動的に変更可能です。つまり、同じ「ポインタ変数」であっても、プログラムの実行状況によっては、指示している対象が異なっています。
最初はAというメモリー領域を指示していたのに、プログラムの実行が進むと、別のBというメモリー領域を指示していることもあります。常に動的に、揺れ動いています。
もっとクレージーな場合は、指示している対象が無い場合もあります。言葉は存在しても、その言葉が実体を指示していない状態です。例えば、「神」という言葉です。「神」という言葉は存在してますが、「神」という実体は存在していません。(但し、「存在して欲しい」という欲望は存在しています。)つまり、言葉が実体を指示していません。この状態を、コンピュータプログラムの世界では、「ヌル(null)」と呼んでいます。「神」という言葉は、「ヌル(null)」の状態です。つまり、定義未定の状態です。言葉は存在しているが、その言葉が指し示す対象を持っていない状態です。
敢えて強弁すると、「(神のような)絶対的存在が欲しい」という欲望を指示しています。その欲望が幻想を生み出し、「神は実在する」という錯覚を生み出しています。実際に見たことも触れたこともないのに、欲望と現実の区別が付かなくなって、信念にすがり付いています。
驚くべきことに、金剛般若経の作者は、既に、二千年前に「ポインタ変数」の概念を理解していました。同じ「イルカ」という言葉を使っても、文脈によって、その指し示している対象が異なっていました。「イルカはイルカに非ず。故に、これをイルカと名づく。」と。恐るべし!
悲しいことに現代哲学は、これが理解出来ていません。「言葉イコール実体だ」と思い込んでいます。言葉と、その言葉が指示している筈の対象を、同一視しています。区別出来ていません。「イルカはイルカに非ず。故に、イルカなり( A is not A. Therefore, It is A.)」と誤解しています。論理的に破綻した宗教的ドグマだと思い込んでいました。「宗教的ドグマだから、論理的に破綻していても当たり前。」と、自分を慰めていました。
哲学者の誤解: A is not A. Therefore, It is A. (論理的に破綻した宗教的ドグマと錯覚。)
金剛般若経 : A1 is not A2. So,named it A3. (論理は破綻していません。A1,A2,A3 は異なった存在だからです。同じ「A」という言葉を使っても、指し示している対象は異なっています。)
哲学者の先入観:言葉は、実体と一体である。
コンピュータプログラムの世界では、これを「静的変数(static variable)」と呼んでいます。「静的変数」の場合、実行前に、変数と対象(メモリー領域)との関係を決めます。そして、実行中は、この関係が変わる事はありません。常に同じメモリー領域を指し続けます。固定されています。この為、「変数イコール実体」と同一視しても、実用上は何の問題も生じません。
ちょうど、これは哲学者の先入観と一致しています。哲学者は「言葉」を「静的変数」と捉えていました。言葉と対象の関係を(変わる事のない)普遍的関係と考えていました。
一方、金剛般若経は「動的変数(dynamic variable)」、即ち、「ポインタ変数(pointer variable)」と捉えていました。状況によって、(指し示している内容は)異なっていると見なしていました。「イルカ1はイルカ2に非ず。故に、これをイルカ3と名づく。」と。
両者は、言葉を次にように理解しています。
哲学者 :静的変数(static variable)
金剛般若経:動的変数(dynamic variable)
いや、そもそも、それ以前の問題として、哲学者には、このような「言葉と対象を、別ものとして区別する発想」自体がありませんでした。
ここから、思考作業を始めている哲学者は皆無でした。「同じ言葉でも、時と場合によっては、指し示している対象が微妙に異なっている。」などとは、夢にも思っていませんでした。それを認めたら、言葉を使った思索行為である哲学の前提が崩れるからです。その肝心の言葉が、実は妖怪のように変幻自在に姿を変える存在だったら、、、、捉えどころが無くなって、言葉を使った真理の探究ができなくなります。
それ故、哲学者は、「言葉と対象は一心同体だ。絶対的根拠がある筈だ。言葉は、肉という実体を纏っている。「神」という言葉は、神という肉を纏っている。「無」という言葉には、無の真理が隠されている筈だ」と、必死に思い込んでいました。
この先入観に支配されて、ハイデッガーは形而上学の思考作業を行っていました。形而上学の背景には、「言葉は、肉という実体を纏っている」という(素朴な)言霊信仰や化肉信仰が隠れていました。その先入観を、絶対的真理と信じて。
いや、そもそも、この先入観の存在自体に気が付いていませんでした。脊髄反射的に、しがみついていました。
でも、実際は、それらは、人間の欲望が生じさせた幻想に過ぎません。それが自らの欲望が作り出した幻想であるが故に、余計、哲学者は、その幻想に拘っていました。執着していました。「言葉には真理が宿っている筈だ。根拠がない筈はない。言葉が存在している事実は、それを物語っている。根拠があるから、言葉が存在しているのだ。だから、この言葉を使って思索すれば、やがて(隠れている)真理が明らかになる筈だ。」と。哲学者は、そのような欲望に翻弄されていました。
化肉信仰 or 受肉信仰:言葉は、肉という実体を纏っている。
「言葉は、肉という実体を纏っている。」?。日本人には理解できない発想ですね。だから、日本語には、これを表現する適切な言葉がありません。無理に「化肉 or 受肉」と意味不明な訳語を使っています。
言葉を使って欲望を正当化する為のレトリックです。欧米の哲学者が持っている先入観です。しかし、彼らはこの先入観に気が付いていませんでした。(まさか、そんな先入観の上に立っているとも知らずに、)無邪気に、無批判に、ここから、思考作業をスタートさせていました。実存主義のように。
彼らは化肉信仰に囚われていました。言霊信仰の一種です。ヨーロッパ地域の土着信仰みたいです。それが、キリスト教の根本教義として混入したみたいです。ちょうど、仏教において、インドの土着信仰である「輪廻転生」が、仏教を代表する根本理念になってしまったように。
最初期の原始仏教には、「輪廻転生」に関する記述が見当たりません。それに、これは自己の命への拘りや執着です。拘っているからこそ、「命は輪廻転生して、永遠に繰り返す」という気休めに縋り付いています。しかし、原始仏教は、そのような拘りや執着から離れる事が大切と説いています。原始仏教の教えに反しています。
命は輪廻するものでもなければ、転生するものでもありません。輪廻しないものでも無ければ、転生しないものでもありません。それへの執着は、自らの欲望が生み出した幻想です。
注)プロファイリング
金剛般若経の作者は、仏教界随一の理論家です。
「言葉と対象との対応関係」を理解している数少ない人物の一人でした。論理的に非常に正確に述べられていました。現代に生きていたら、きっと優秀な物理学者になっていたことでしょう。
でも、幼くして口減らしの為に寺に預けられたのでしょう。社会経験が全くありません。(原始仏教のような)心の機微に関する記述が全く見当たりません。
本当は、人々を迷いや苦悩から解放することが大切なのに、、、。「空」を言葉で正確に表現するに留まっていました。純粋培養された者の悲しさです。
「生きていない」から、「生きる理不尽」を知りませんでした。
(般若心経)
般若心経 は、次のように説いています。
「色即是空、空即是色」(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
(Image ( that consciousness perceives ) is empty. Empty is image.)
意識知覚しているイメージは、実体のないものだ。空っぽだ。空っぽのもの、それが意識が知覚しているイメージだ。
悶々とした日々を送っていたとき、ふと、
「あっ。そうか!。。。全ては「空っぽ」だったのだ。 最初から何も無かったのだ! 今まで、(空を理解しようと、)散々、拘ってきた自分がバカみたい。」
と気付き、消えてしまう前に、急いで、一気に文章に纏めました。そんな情景が瞼に浮かびます。だから、この経典は短くて直観的な文章になっています。
仏教では、意識感覚器官の知覚対象を「色」と表現しています。現代語に訳すると、「イメージ」が感覚的に一番ピッタリします。
この意識感覚器官が知覚している色形などのイメージ、即ち、「色」は実体ではない。中身は何も入っていない。空っぽだ。(色即是空)。、、、、空っぽのもの、それが意識が知覚しているイメージ(色)だ。(空即是色)。
即ち、「色即是空、空即是色 ( Image is empty. Empty is image. )」と、説いています。
意識が知覚しているイメージは、自らの欲望が、脳内部に生じさせた実体のないものです。存在する実体ではありません。中身は何も入っていません。空っぽです。それを生み出す元になった自らの欲望以外は、何も入っていません。、、、自らの欲望だけが入っています。
それ故、「空っぽ」に気付くことが大切です。まかり間違っても、理解するものではありません。
「空」という言葉への拘りから離れることを希望します。全ては、自らの欲望が生じさせたものです。実体のないものです。一切は空っぽです。( Everything is empty. It was the result of my own desires. )
大乗仏教は、「空(シューニャ)」というキャッチコピーを見つけて、大成功を収めました。食いつきが格段に改善されました。金剛般若経のような(何を言っているのか分からない)歯切れの悪さは無くなりました。
でも、残念ですが、副作用も生みました。言霊信仰に呪縛されてしまったのです。「空(シューニャ)には深淵なる真理が隠されているはずだ。」という「思い込み」を生み出してしまいました。
「空っぽ」に気付くことが大切なのに。「空」への拘りから離れることが大切なのに、、、その「空」に拘ってしまいました。キャッチコピーに呪縛されてしまいました。挙句の果てに、「空性」という便利な言葉を見つけて、「遂に、空の真理を言葉で捉えることに成功した。」と錯覚してしまいました。
ちなみに、他の宗教では、「神」というキャッチコピーを前面に押し出して、大いに発展しました。発展したのが、教団の欲望であって、人々の心でなかったことが唯一の些細な問題でしたが。それ故、このキャッチコピーも、多くの悲しい副作用を生みました。仏教同様に。
教団という組織を作る行い自体は、欲望の産物です。物事は、欲望から行いが生じ、その行いから結果が生まれています。(彼らが主張する)言葉によって、明らかになっている訳ではありません。それ故、どの宗教組織も様々な不幸を生み出しています。「宗教」ではなくて「組織」が結果を生み出したからです。組織の欲望が、神の名を騙って暴れ回ってしまいました。
注)プロファイリング
般若心経の作者は、芸術家肌の直観的感性を持った人間です。
現代に例えるなら、ミュージシャンです。直観的感性で、「空っぽ(empty)」、即ち、「意識知覚しているものは、存在する実体ではないこと」に気が付いています。だから、この経典は、直感的で短い文章になっています。
内容は感覚的で平易です。金剛般若経のような哲学的難解さはありません。それ故、素人受けも良く、多くの人々から好まれています。
でも、金剛般若経のような論理的思考は苦手だったみたいです。劣等感が滲み出ていました。落ちこぼれの言い訳と悲哀が目立ちます。きっと、金剛般若経を読んでも、チンプンカンプンだったのでしょう。
金剛般若経は論理的思考力によって、般若心経は直観的感性によって、「意識知覚しているものは、実体ではないこと」、即ち、「空っぽ(empty)」に気が付いていました。極めて対照的です。
(知覚と欲望と行いと結果)
人々は、このような実体のないものから、「行い」を生じさせています。この意識知覚からも「行い」が生じています。「行い」は、様々な辛い「結果」を生みます。( << ここ重要。)
人々は、それが自らの欲望によって生み出されたものであるが故に、余計、その欲望に拘っています。( 意識知覚しているものは)「存在する実体だ」と執着しています。そして、その執着から、様々な苦悩や迷いを生じさせています。
人々が執着しているものは、(実は)「言葉」や「知覚しているもの」ではありません。それらを生み出した(背後に隠れている)「自らの欲望」です。その正体が、自らの欲望であるが故に、余計に強く(その自らの欲望に)執着しています。拘っています。「知覚しているものは、存在する実体だ」と。
愛も憎しみも死の恐怖も、そして、苦しみも迷いも、(意識知覚できるが故に)「存在している実体だ」と思っています。
それ故、苦悩や迷いから解放されたいなら、自らの生み出したものへの執着や拘りから離れることが大切です。全ては、実体のないものです。一切は空っぽです。( Everything is empty. It was the result of my own desires. )
唯一入っているものは、(それを生み出す元になった)自らの欲望だけです。故に、これを言葉で表現する都合上、人々が期待するものなど何も入っていないので、仕方なく便宜的に「空っぽの哲学( Empty philosophy )」と呼んでいます。略して、「空の哲学(Philosophy Coo)」のことです。
空は空に非ず。故に、これを空と名づく。( Empty is not empty. So,named it empty.)
「空」という言葉への拘りから離れる事を希望します。
( 仏教学者が拘っている)「空性(emptiness)」と呼ばれる深遠なる真理など入っていません。入っているものは、自らの欲望だけです。全ては、自らの「生きるという欲望」が生み出したものです。これに、気付けるかどうかだけが問われています。
般若心経は、これに気付きました。この一瞬の感動を、急いで言葉で「色即是空、空即是色 ( Image is empty. Empty is image. )」と記しました。消えてしまう前に。
「人々の行いが、どこから生じているか」を観察することが大切です。その「行い」は、様々な辛い「結果」を生み出しているからです。( << ここ重要。)
残念ですが、(「行い」の原因になっている人間という動物の)欲望は、人種、民族、宗教の垣根を超えて共通です。異なっているのは、それを正当化する為の言葉の帽子だけです。言葉が違うから違うと、錯覚しているだけです。(「行い」と「結果」は、同じです。)
人々は、年増女の厚化粧のように、これでもか、これでもかと(欲望の周りに)言葉を塗り固めています。論破される恐怖に追い立てられて、飽くなきまでに、これを繰り返しています。挙句の果てに、(言葉だけが空回りした)意味不明の難解な教義を作り出しています。難解さを、つまり、難解で訳が分からなくなった状態を真理に到達したと錯覚して有難がっています。
でも、肝心の「行い」の大切さは忘れています。
(目の前の)現実は、超優秀な教師です。(欲望まみれの)自分自身は、超優秀な反面教師です。誰でも平等に持っています。正反二人の超有能な専属教師を。すぐそばに。
自らの心と向き合うことを希望します。
たとえ、欲望の荒波しか見えなくても、、、、その荒波を観察してください。あるがままに受け止めることを希望します。言葉を振り回さないで。
焦って、振り回しても、余分に苦しむだけです。現実は何も変わりません。少しばかりの自己満足が得られるだけです。一瞬の自己満足の後には、冷酷な現実が(手ぐすね引いて)待ち構えています。
「結果」は「行い」から生まれています。「言葉」からは生まれていません。
言葉から生まれているのは、少しばかりの自己満足だけです。
(未来の為に)
未来の為に、出来るだけ正確に原始仏教と空の哲学の情報を残します。この残す作業を優先します。(残り時間が少ないので。)
現代においては、まだ未知の新しい知識を使っているので、受け入れて頂けるかどうかは自信がありません。
それに、人々が一番隠しておきたい「欲望の存在」を露わにしているので、煙たいと思います。フロイトも、これで煙たがられました。
注)原始仏教と空の哲学の微妙な差異
原始仏教は、六つの感覚器官、即ち、「眼耳鼻舌身意」の六根を平等に扱う傾向にありました。しかし、空の哲学では、(六つの内で特に)意識感覚器官にスポットを当てて論ずる傾向にありました。
それ故、ここでも、金剛般若経や般若心経を、これに沿って説明しています。残念ですが、空の哲学は、ここ(意識感覚器官)にポイントを絞ると、非常に上手く説明できます。六根を使うと、チグハグになります。
この原始仏教と空の哲学の微妙なスタンスの違いに最初は戸惑いました。
両者とも、説いている内容は同じです。でも、個人的には、原始仏教の方が好感が持てます。生活実感が滲み出ているからです。空の哲学は、純粋培養された者たちの空理空論が目立ちます。(学者受けは、いいのですが、)いまいち、「行い」が疎かにされる傾向にあります。
でも、大切なのは「行い」です。「行い」が「結果」を生み出しているからです。(人々が拘っている)言葉によって、明らかになっている訳ではないからです。
人々は、いつも自分を納得させてくれる言葉を探し求めています。そして、やっと見つけた瞬間に、ほんと、その瞬間に、まさしく、その瞬間に、「理解できた。」と安心して、目の前の現実から目を逸らしています。興味を失っています。もう既に、心は移っています。
仏教学者は、「空性(emptiness)」という便利な言葉を見つけて、「遂に、空が理解できた。」、「空の真理を表現する言葉を見つけた。空の真理は、空性という名詞で表現可能だ。」、「空の真理は存在している。だから、その真理を空性(emptiness)という名詞で名付けることができるのだ。」と、錯覚しています。
(言葉が見つかったので一件落着と、)目の前の現実への興味を失っています。(言葉の世界の中で、やっと見つけた)「空性」という言葉を飾り立てることばかりに夢中になっています。挙句の果てに、(言葉だけが空回りした意味不明の)難解な教義を作り出しています。
本当は、「行い」に目を向けるべきなのに、、、言葉への拘りから離れることが大切なのに、、、
その言葉に呪縛されています。言葉を振り回すことに一所懸命です。振り回したつもりが、逆に振り回されています。本末転倒です。
彼らにとって、「理解する」とは「言葉を見つけること」みたいです。子供たちが、おもちゃ箱をかき回すように、(心の中から、自分が納得できる)言葉を探し回っています。
ここでは、(意識を持ってしまった)知的生命体の宿命(Rules of intelligent life that are born with.)を述べています。未知の知識です。
原始仏教や空の哲学を、言葉で正確に説明する為には、知的生命体の脳の構造の特殊性、特に、(我々の心を支配している全知全能の)「意識とは何か?」を理解する必要があります。
(生物学的には)意識は、感覚器官の一種です。
「意識する。」とは、「意識感覚器官で知覚する。」ことを意味しています。その知覚対象は、脳内部の事象です。これを、仏教では『意知覚(意識知覚)』と呼んでいます。
眼から生じている知覚刺激を、世間では、『視覚』と呼んでいます。それと同じように、意識感覚器官から生じている知覚刺激を、(仏教では)『意知覚(意識知覚)』と呼んでいます。
そして、意識知覚された刺激からも、『行い』が生じています。視覚同様に。<< ここ重要。
ここでは、この意識感覚器官から生じている知覚刺激を、仏教の『意知覚』ではなくて、直観的理解が容易な『意識知覚』を使っています。意味は同じです。
なお、意識器官の生物学的詳細については、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。
言葉の使い方(「視覚」からの類推): 意覚 = 意知覚 = 意識知覚
注)まだ常識ではないので、(意味が伝わり易い)「意識知覚」という冗長な表現を使っています。仏教が使っている「意知覚」は、マニアックで、いまいち意味が伝わり辛い傾向にあります。本来、最も適切な言葉は、視覚からの類推で「意覚」です。でも、(現状では)意味が全く伝わらず、言葉として使えません。
意識感覚器官
ジークムント・フロイトは、その著書『夢判断』の中で、意識について、次のように述べています。
では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。
それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。
この組織はそのメカニックな諸性質に於て知覚諸組織Wに似ていると考えられ、それゆえ性質によって興奮させられるが、変化の痕跡を保持することができない。
つまり記憶力を持たない。知覚組織の感覚器官をもって外界に向けられている心的装置は、それ自身が意識の感覚器官にとっては外界であり、この関係にこそ意識の目的論的な存在理由がある。
出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社
意味不明な文章ですね。
「意識は、自己の脳を知覚対象とした感覚器官だ。」と述べています。意識を物理的存在、即ち、感覚器官の一種と捉えています。今までの哲学は、観念的存在と捉えていたので、その意外性が、とても新鮮でした。
直ぐに、その意味が理解できました。「自分が見てきたきものは、意識が知覚してきたものだ。」と。そもそも、フロイトにアンテナを伸ばしたのは、それが原因でした。「自分が見ているものは何だろうか?」という疑問が発端でした。夢の時、瞼は閉じています。視覚でないことだけは確かでした。では、、、?
興味深い事に、仏教でも同じことを述べています。次のような一文があります。
世尊(仏陀)は、「比丘(教団の修行僧)たちよ、色形はときとして二種(の認識)によって認識される。すなわち、眼(視覚)とそれによって引き起こされる意(意知覚)とによってである。」と言われたのである。
論理のことば (中公文庫 ) モークシャーカラグプタ (著), 梶山 雄一 (訳注)
「色形などのイメージは、二種類の知覚によって認識されている。眼(視覚)と、それによって引き起こされる意識(意識知覚)とによってである。」と述べています。やはり、意識を感覚器官と捉えています。
仏教にアンテナを伸ばしたのは別の理由からでした。でも、読み進めていくうちに、「(アレっ、)同じ事を述べている。」と、気付きました。それが探し求めていた「別の理由」の別の方向から見た別の姿でした。
イルカ |
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「色形などのイメージは、二種類の知覚によって認識される。眼(視覚)と、それによって引き起こされる意識(意識知覚)とによってである。」 (海を泳いでいる)イルカを見たら、イルカを思い浮かべる事ができます。この脳内部のイメージを、意識感覚器官は知覚対象としています。 人々は、意識知覚しているもの、即ち、脳内部の事象を、存在する実体だと思い込んでいます。「実体だ!」と思い込んでいるが故に、それに拘っています。執着しています。 そして、その知覚刺激に(言葉で)『イルカ(Dolphin)』という名前を付けています。 「言葉への拘り」と、「知覚しているものへの拘り」、そして、「実体だという思い込み」を区別できていません。混然一体となっています。 金剛般若経の言葉を使えば、 意識知覚しているイルカというイメージは、実体だと思い込んでいるイルカに非ず。故に、これを言葉でイルカと名ずく。( A is not A. So, named it A. ) 注)これだけでは、意味不明だと思います。まだ矛盾を含んでいます。 でも、心配いりません。この先、もっと冷酷な現実を述べます。それを知った時、我々知的生命体の出生の秘密を知る事になると思います。 |
また、原始仏教の教典『スッタニパータ』の中に、次のような興味深い一文があります。
雪夜叉が言った。「何があるとき世界は生起するのか?何に対して親愛をなすのか?世間の人々は何ものに執着しており、世間の人々は何ものに害(そこな)われているのか?」
師(ゴータマ)は答えた。「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親愛をなし、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに害われている。」
(雪夜叉)「それによって世間が害われる執着とは何であるのか?お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてくだされ。どうしたら苦しみから解き放たれるのであろうか。」
(ゴータマ)「世間には五種の欲望の対象があり、意(意識の対象)が第六であると説き示されている。それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。」
出典「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 P41 中村元訳 岩波書店
と、述べています。
「知覚」と「欲望」と「行い」と「結果」の関係を説いていました。この内容を図解したものが、一番最初に示した「人間という動物の生き様の因果関係 」の絵です。
もう一度、掲載します。
人間という動物の生き様の因果関係 |
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1. 六つの感覚器官、即ち、眼耳鼻舌身意の六根からの刺激によって、『欲望』が活性化されています。 2. その活性化された『欲望』から、『行い』が生じています。 3. そして、その『行い』から、(悲喜こもごもの)『結果』が生まれています。 それ故、もの事は、『行い』と、そこから生じる『結果』によって判断されます。 ところが、人々は、 言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。 言葉ばかりに、心を奪われています。これが、問題をややこしくしています。 それ故、言葉への拘りから離れることが大切です。 知覚しているものへの執着から離れることが大切です。 なお、欲望と共鳴しなかった知覚刺激は、雑音として、そのまま素通りします。『行い』が生じません。 |
人間(という動物)は、眼耳鼻舌身の五感の他に、意識感覚器官という第六番目の感覚器官を持っています。この六つの感覚器官、即ち、「眼耳鼻舌身意」の六根が知覚世界を作り出しています。そして、その知覚刺激が欲望を活性化させ、その活性化した欲望から行いが生まれています。そして、その(貧欲などの)行いから迷いや苦しみが生まれていると説いています。
それ故、「六根清浄( Calm down the six desires arising from the six senses )」と唱えます。「六つの感覚器官(六根)から生じている六つの欲望を鎮めることが大切だ。」と説いています。
欲望の働きを鎮めたら、行いも生じないからです。行いが生じなければ、(苦悩や迷いなどの辛い)結果も生まれません。くさい臭いは、元から断つ必要があります。
注)六根
心の中で眠っている欲望は、感覚器官からの知覚刺激で揺り起こされます。そして、目覚めた欲望は、何らかの「行い」を生じさせます。
この意味で、仏教では(欲望を揺り起こしてしまう)感覚器官を、(欲望の)「根」と表現しています。つまり、「行い」の「原因」のことです。
ちなみに、人間は、「眼耳鼻舌身意」の六種類の感覚器官を持っています。六根から構成されています。
因果関係: 知覚刺激 ->(眠っている欲望を揺り起こす) -> 行い -> 結果
意識に関する(現状の)理解度
意識が感覚器官であることに気付いた人物は、歴史上、二人のみでした。ひとりは、オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイト です。もうひとりは、原始仏教の ゴータマ・シッダールタ (釈迦)です。
残念ですが、現代仏教では、半信半疑です。いまいち、実感が湧いていません。
(千年前のインドの)モークシャーカラグプタは、次のように述べています。
意知覚というものは、教典の中に出てくるのであるが、しかし、その存在を確定する証拠はなんらないというのが実状である。世尊(仏陀)は、「比丘(教団の修行僧)たちよ、色形はときとして二種(の認識)によって認識される。すなわち、眼(視覚)とそれによって引き起こされる意(意知覚)とによってである。」と言われたのである。
通常の経験に適合しないものを述べてみて、いったいなんの役にたつのか、と言うかもしれないが、この場合の目的は、もし意知覚が上述のように定義しうるものならば、なんの誤りもないし、したがって、それによって教典のことばにまちがいのないことも教えられる、ということなのである。
論理のことば (中公文庫 ) モークシャーカラグプタ (著), 梶山 雄一 (訳注)
意味不明の文章ですね。
「古い経典には、確かに、そう書いてある。でも、眼や耳のように手で触ることはできない。目にも見えない。」。「目に見えないもの、手で触ることのできないもの、即ち、通常の経験に適合しないものを仮定して何の意味があるのか。」と言うかもしれないが。これ以後の文は、あ~う~あ~う~、まともな論理になっていません。(半分、やけくそで)自分の信念を押し付けています。
彼は、「縁(因果関係)」に目を向けないで、「知覚しているもの」、即ち、「通常の経験」に拘っています。目に見えるもの、手で触れるものに拘っています。
(視覚同様に、)意識知覚からも「行い」が生じていますが、それに気が付いていません。その縁に気が付いていませんでした。
縁(因果関係): 意識知覚 -> 欲望を刺激 -> 行い -> 結果
目の前の現実は、原因と結果の因果関係、即ち、「縁」から構成されています。その生きる意味に気が付けば、彼の説明は、もっと本質を突いた単純なものになっていたでしょう。被害妄想からも行いが生じています。意識しているものからも、行いが生じています。視覚同様に。これを指摘すれば済むだけの話でした。教団や経典の形式主義に翻弄され過ぎです。純粋培養された者の悲しさです。
残念ですが、反面教師でした。
ちなみに、現代哲学や科学は、もっと悲惨です。全ては闇の中です。「我思う、ゆえに我あり」と考えています。意識を観念的存在と捉えています。物理的存在、即ち、感覚器官とは捉えていません。原因と結果の因果関係を観察していません。意識知覚からも、(視覚や聴覚同様に、)『行い』が生じていますが、この因果関係に気が付いていません。全く(言葉以外は)興味なしです。
彼らは、「自らが知覚している事象」と「言葉」に囚われています。カントやデカルトのように、唯物論の先入観に囚われています。
(観念的世界の中で)「知覚しているものは実在物だ。それが証拠に、実感できる!。これ程、確かなことはない。存在しているから、知覚できるのだ。存在していないなら、知覚もできない筈だ!。これは、疑っても疑いきれない(最も確かな)真実だ。この最も確かな真実を土台にして、哲学的思索を行うべきだ。」と。
でも、皮肉なことに、実感できるが故に、実体ではありません。
意識知覚として実感しているものは、心の中の事象です。全ては、自らの「生きる」という欲望が生じさせた(実体のない)ものです。一切は空っぽです。(Everything is empty. It was the result of my own desires.)蝉の抜け殻と同じように、言葉の殻は持っていても、中身は空っぽです。人々が期待している実体など入っていません。
しかし、、、、、それでも、やっぱり、「実感しているものは、存在している実体だ。」と、信じたいですよね。その確信が何処から生じているかは側に置いて。理屈を超越した信念です。
(意識器官の生理学的仕組み)
生理学的には、「自己刺激」の一種と思われます。
脳内部の報酬系や罰系を、意識器官を使って自己刺激し、(架空の)学習効果を生み出しているものと思われます。ちょうど、白日夢のように。
白日夢では、意識器官を使って(報酬系に)架空充当を繰り返しています。そして、自ら作り出した(心地よい)空想の中に閉じ籠っています。この姿は、報酬系に電極を埋め込まれたラットの姿を彷彿とさせます。実験では、ラットは、電極のスイッチを、(自分で)ただひらすら押し続け、自らの報酬系に(自ら)電気刺激を与え続けます。(架空の報酬を与え続けます。)多い時には、一時間に8000回以上になるみたいです。もう、ほとんど連打ですね。
ラットは、(自らの)報酬系を自己刺激し、(自らの作り出した架空の)快感の世界に没頭しています。この姿に、意識器官の本質が垣間見えます。我々人間も、意識器官を使って(自己の報酬系を)自己刺激し、自己満足の世界に耽っているからです。
注)報酬系、罰系
動物の脳には、報酬系や罰系と呼ばれる部位が、何カ所か存在しています。
報酬系に電極を差し込み電気刺激すると、実際の報酬を与えたのと等価な効果を脳に生じさせます。罰系は、その反対の効果を生みます。
意識器官の主要部位と思われる前頭葉にも、このような報酬系や罰系が存在します。この前頭葉の報酬系や罰系は、「(意識器官を使った)架空の体験学習、つまり、考える行為」と密接な関係にあるものと思われます。
詳細は、次の「脳の進化」で詳しく述べます。
これから暫く、およそ仏教とは関係のない話題が続きます。意味不明だと感じたら読み飛ばして、仏教の話題「六根清浄」にお進みください。
なお、原始仏教は、「知的生命体の宿命と、どう向き合えばいいか」を説いています。それを理解するのに役立つ大切な知識です。「我々知的生命体は、どのような宿命(Rules of intelligent life that are born with.)を背負って生まれてきたか」を述べます。人間という動物が生み出したもの、即ち、宗教、哲学、科学、文化、芸術などが何処から生み出されているか、そして、その限界が何処にあるかを述べます。結構、冷酷な話です。(知的生命体である)自らの出生の秘密を知る事になると思います。
このようなフロイトや原始仏教の(意味不明な)主張を理解する為には、知的生命体の脳の構造の特殊性を理解する必要があります。(まだ未知の新しい)生物学の知識に目を向ける必要があります。
意識を持ってしまった知的生命体の脳は、二組の独立した制御システムから構成されています。想定外の構造をしていました。
第一システムは、本来の脳です。全ての動物に共通です。この肉体の生存と行動を支えています。
第二システムは、知的生命体に固有の機能です。意識器官です。「肉体の架空行動」、即ち、「考える行為」を制御してます。原始仏教は、「この第二システム、即ち、意識が生み出す様々な副作用と、どう向き合えばいいか」を説いています。(知的生命体は、意識を持ったが故に、その意識に翻弄されています。)
なお、第二システム、即ち、意識器官は、第一システムの疑似組織です。その働きも疑似的です。従って、第二システムを理解する為には、その前に、第一システムを理解する必要があります。脳と行動様式の進化を、原点から辿る必要があります。
以下の図は、動物の脳の進化過程です。
動物の行動は、「本能的行動」、「学習された行動」、「意識された行動」へと進化してきました。この行動様式の進化に伴って、脳の構造も大きく変化しました。
参考)脳の進化と、行動様式の関係 |
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未知の知識です。 脳は、この肉体の生存と行動を支える為の制御システム系です。それ以外の意味はありません。 本能的行動、学習された行動、意識された行動へと進化してきました。 この三つの段階で、夫々異なった特徴的構造を持っています。 意識を持った知的生命体の脳は、二組の独立した制御システムから構成されています。 第一システムは、肉体の現実行動を制御しています。五感と脳と環境から構成されています。 全ての動物に共通のシステムです。本来の脳です。世間では、これを「無意識」と呼んでいます。 第二システムは、肉体の架空行動、即ち、考える行為を制御しています。感覚器官は、意識感覚器官から構成されています。 知的生命体に固有の機能です。世間では、「意識」と呼んでいます。 『考える』行為は、この第二システム、即ち、意識器官を使った、肉体の架空行動を意味しています。 知的生命体の脳は、意識器官(第二システム)というシミュレーターを搭載した二重構造になっています。 意識感覚器官は、この意識器官(シミュレーター)の入力装置です。その知覚対象は、脳内部に作り出された信号空間、即ち、架空環境です。 ここに、知的生命体の苦悩と迷いが隠されています。 第一の問題は、二つのシステム間の競合です。 第一システムと第二システムが、一個の肉体の支配権を巡って、常に葛藤を繰り返しています。第一システム由来の欲望と、第二システム由来の欲望が、往々にして対立し、(心は)デッドロックに陥っています。様々な神経症の原因になっています。(中途半端な知的生命体である)人間は、まだ上手く、これをコントロールできていません。 第二の問題は、死の恐怖です。 第二システムが存在している「意識された世界」は、肉体の死と共に「永遠の無」に帰してしまいます。これに恐怖しています。肉体だけでなく、永遠不滅だと信じていた(自分の属している)この「意識知覚している世界」も消滅してしまうのです。(我は死すとも、この世は永遠だと信じていた)その世界が、潮が引くように、全てを永遠の無へと持ち去ってしまうのです。これに、人々は薄々気が付いています。それ故、この絶対無の恐怖に怯えています。死の恐怖に苛まれています。 人々は、あの世を信じて、辛うじて心の平静を保っています。「この世が無くなっても、あの世があるさ」と。 知的生命体は、意識を持ったが故に、様々な副作用に翻弄されています。「この意識が生み出している(苦悩や迷い、死の恐怖などの)副作用と、どう向き合えばいいか」を原始仏教は説いています。 (重要な注意事項) 現代の正統派進化論(ネオ・ダーウィニズム)は間違っています。自然科学の理論ではありません。疑似科学です。 だから、この発想が現代進化論に反していても、あまり気にしないで下さい。学問的迷信に惑わされることなく、冷酷に(目の前の)物理的作用の因果関係を観察して頂けると助かります。全ては、欲望のコントロールの問題です。(悲しいことに、現代の正統派進化論は、この欲望に翻弄されています。克服出来ていません。) 生物進化の現象は、(種のレベルの)自己保存系の環境変化への適応行為です。 (現代の正統派進化論は、自然の擬人化です。) 現代の正統派進化論は、物理的作用の因果関係が成り立っていません。だから、自然科学の理論ではありません。 彼らは「生存に都合がいい個体が自然選択された結果、生物は進化した。」と主張しています。 しかし、「生存に都合がいい」は、物理的作用ではありません。これは、心の中に生じている「いい、わるい」の価値判断です。心の中の事象は、物理現象の原因になることはできません。「生存に都合がいい」という心の中の価値判断が原因となって、「自然選択」という物理現象が起こり、その結果、生物が進化することはありません。因果関係が成り立っていません。だから、彼らの主張する仕組みによって、物理現象、即ち、生物進化が起こることは不可能です。基本的な部分で、情報分析を誤っています。 それに、これは「人間」と「自然」の素朴な同一視、即ち、「自然の擬人化」です。「人間は人為選択を行っているから、自然も自然選択を行っているだろう。」と、(人間と自然を同一視して)自然を擬人化して説明しています。素朴過ぎます。余りにも、幼過ぎます。返す言葉もありません。 ちなみに、集団遺伝学は、もっと悲惨です。論理の前提条件に致命的な錯誤が含まれています。余りにも、非論理的な仮説なので、何処からどう批判したらいいか途方に暮れてしまいます。 論理の出発点で、推論の結果、即ち、生存確率を仮定したらダメです。最初に生存確率を仮定して、(集団遺伝学のように)確率論を使って推論しても、結果は最初の仮定のままです。生存確率の低い個体が、常に、優位になることはありません。生存確率の高い個体が、優位になります。だって、確率が高いのだから。確率とは、そういう意味です。確率は、結果を集計して始めて求まるものです。その本質は、結果です。数学的真理ではありません。その結果を、論理の出発点で仮定したら、推論の結果は、、、、以下、堂々巡り。 逆に、最初に確率を仮定しないと、確率の定まっていない事象に確率論は適用できませんから、(確率論を使った)集団遺伝学の論法自体も成り立たちません。、、、、? 結果を仮定して、その推論の結果を論じています。結果ありきの結果論に陥っています。この無意味な論理構造に、誰も気が付いていないことが深刻です。 (「いい、わるい」の価値観を使った論法は、強力な説得力を発揮する) 現代の正統派進化論は、「都合のいい個体が自然選択された」と、「いい、わるい」の価値観を使って説明しています。だから、人間を納得させることには完璧に成功しています。白黒がハッキリして、理解し易く、強い説得力を発揮するからです。「いい、わるい」には普遍的真理が宿っている筈と思い込んいます。だから、この「いい、わるい」を使った説明は、誰も、その普遍的正しさを疑うことができません。「『いい』には、絶対的根拠がある筈。」と強く確信しています。 実際、多くの有名どころの思想や哲学、宗教上の教義は、マルクス筆頭に「いい、わるい」の絶対的価値観を使って説明しています。だから、理解し易く、強い説得力を発揮しています。多くの人々から絶大な支持を得ています。この手法を使った説明は、(思想も宗教上の教義も、「いい」、つまり、普遍的正しさを主張しているので)権威筋として、大成功を収めています。 (法華経も、「いい、わるい」の価値観を使って説明している) 法華経も、「いい、わるい」の価値観を使って説明しているので、大成功を収めました。 善悪のコントラストがハッキリして歯切れがよく、強い説得力を発揮しています。仏教経典特有の「いいのか、わるいのか」ハッキリしない(禅問答のような)フニャフニャ感がありません。明確に、「いい」を示しています。だから、「我が意を得たり」と、多くの人々を納得させました。法華経は、(嘘も方便のように)欲望を正当化する手法が極めて巧妙です。 しかし、その反動で、鼻薬が効き過ぎて、仏教界では珍しく、日蓮や親鸞のように戦闘的性格を持った教団を生みよい傾向があります。 マルクスの資本論同様、「いい、わるい」の価値観に呪縛された思想の宿命です。マルクスも、強力な共産主義独裁政権を生み出してしまいました。マフィアの内部抗争と同じで、血で血を洗う粛清の嵐でした。「いい、わるい」の欲望の絶対性を主張した成れの果てです。自分の「いい」という欲望に反した者は、絶対悪、つまり、殲滅の対象だったのです。体制に巣くうバイ菌(階級の敵、内部の敵)だったのです。殲滅すべき粛清の対象だったのです。悲しき歴史のひとコマです。 (哲学者が大好きな)絶対的価値観を使って説明すべきではありません。不幸な副作用が生じてしまいます。所詮は、欲望の正当化に過ぎないからです。 「いい」は「自分にとって、いい」であって、「相手にとって、いい」ではありません。「いい、わるい」は、見る立場、見る方向によって、まるで妖怪のように、変幻自在に姿を変えます。根底にあるものは、自己の欲望の正当化に過ぎないからです。あくまでも、「自分にとって、いい」に過ぎません。 もの事は、「行い」と「結果」の因果関係に基づいて判断することが大切です。モーセの十戒のように、簡単な言葉で「行い」を説くことが大切です。生じる結果を熟慮して。 (プロファイリング) 法華経の作者は、新興宗教の超有能なリクルータ―です。 多くの大衆操作の手法が駆使されていました。特に危険なのが「嘘も方便」です。これは、「目的が手段を正当化する」という非常に危険な考え方です。「人々を救済する為なら、嘘も許される」、この鼻薬に翻弄されて、多くの教祖様がカルト教団を立ち上げてしまいました。「私は無欲です。」と、臨機応変に方便を使い分けています。教祖様の欲望を正当化する、実に便利な言葉だったのです。 冷酷なようだけど、結果は、「嘘を付く」という「行い」から生まれています。 欲望の正当化からは生まれていません。逆に辛い結果が生んでいます。 (生物進化の現象) なお、生物進化の現象は、生命現象の一部です。ごく平凡な「自己保存系の環境変化への適応行為」の一種に過ぎません。特殊な現象ではありません。 ただし、生物進化で保存されている自己は「種」です。「個体」ではありません。(種のレベルの)自己保存系の環境変化への適応行為の一種です。ここが、現代の生物学者には理解出来ていません。 生物学者自身は個体としての存在です。だから、彼らは、この自分自身の姿に拘り、生物進化を個体の挙動(自然選択)によって生じる現象だと思い込んでいます。自分が個体である事実に、呪縛されています。「自分の存在には意味がある筈だ。」と。この欲望を克服できていません。でも、現実は、個人の欲望を超えて、遥かに冷酷です。広大です。 |
この知的生命体に関する知識は、現代の哲学者や科学者とって、まだ未知です。背景にある知識や発想が大きく異なっています。だから、受け入れて頂く為には、(背景説明から始まるので、)まだ、まだ、多くの時間が掛かると思われます。学問的先入観を一旦側に置いて、原因と結果の因果関係に注目して頂くと助かります。(残念ですが、自分には時間的余裕がありません。ドグマに付き合って抗うだけの。)
出来るだけ言葉は使わないで、原因と結果の因果関係を羅列するように努めています。それで、必要な情報が伝わるように工夫しています。言葉は、常識的なことを説明するには便利ですが、未知の知識を説明する目的には全く使えません。かえって、言葉が作り出す先入観が邪魔をします。思考作業を、言葉の檻の中に閉じ込めてしまいます。
ここでは、表現する言葉が、まだ存在していない未知の世界を話題にしています。つまり、言葉の外側の世界を(言葉を使って)論じています。(現実世界を構成している)原因と結果の因果関係を手掛かりにして。
人々は、知っていることは、全て知っています。
知らないことは、「知らないこと」自体を知りません。
(言葉の檻の外側に広がっている筈の)広大な現実世界を知りません。
言葉に頼って思考している人々は、(まるで哲学者のように、)言葉の檻の中で右往左往しています。言葉が作り出す先入観の虜になって苦悩しています。檻の外側に広がっている筈の広大な現実世界を知りません。
彼らは、檻の中を自由に徘徊できることを、「自由だ」と錯覚しています。檻を抜け出す自由を知りません。
目の前の現実と向き合い、そこ(現実世界)を構成している原因と結果の因果関係を観察することを希望します。現実こそ、最高の教師です。自分自身こそ、最高の反面教師です。(ちなみに、神は嫌味です。俺様に苦い水ばかりを飲ませます、、、、)
言葉の使い方:第一システム = 本来の脳 ≒ 無意識
言葉の使い方:第ニシステム = 意識器官 ≒ 意識
注)記号「≒」は、「だいたい同じ」、つまり、「当たらずといえども遠からず」の意味です。
第一システムを「無意識」と呼んでも、(正確ではありませんが、)それ程、的は外していません。
そもそも、「意識」「無意識」という言葉自体が、現代科学では、まだ正確に定義された言葉ではないからです。何となく漠然と使っている言葉です。
A「無意識とは何か?」
B「意識できない心の領域のことです。」
A「では、その意識とは何か?」
B「 ? 」
循環論法に陥っています。
「意識とは何か」が分からないままに、「無意識」を(意識の対立概念として)定義しようとしています。
なお、記号「=」は、完全に同じという意味です。
ひとつの事象に、二つの言葉を割り当てています。「科学用語」と「世間一般の慣用句」を、文脈によって、(理解し易いように)適時使い分けています。だから、言い換えても同じ意味になります。微妙な印象は異なりますが。
このように、ひとつの事象に二つの言葉を割り当てる行為は、哲学者にとっては信じがたいかもしれません。彼らにとっては、「言葉ありき」であって、「現実ありき」では無いからです。そもそも、現実と言葉を区別できていない可能性があるからです。言葉を現実だと錯覚している可能性があります。ハイデッガーのように。
現象としての脳と、物体としての脳
脳を理解する場合に、もうひとつだけ注意点があります。
唯物論の先入観を克服することです。
現代科学の根幹に関わる問題です。現代科学は、唯物倫の上に組み立てられています。基礎になっている哲学体系は唯物論です。それを否定しています。
ここでは、哲学体系に(唯物論ではなくて、合理的な)原始仏教を使っています。根本的発想が異なっています。
「物の性質は、他の物と関連し合って、始めて発現する。」ことです。
(これを仏教では「縁」と呼んでいます。)
全ての哲学的問いは、最終的には、「人間が生きる事との接点」を探し求めています。「目の前の現象は、自分の生きる事と、どう関わっているのだろうか?」と。(哲学者は自覚していませんが。)
この関わりの中で、ものの性質を理解しています。いや、しようとしています。
脳は、環境と相互作用をして、始めて脳として機能します。だから、脳について考察する場合は、頭蓋骨の中の豆腐(物体としての脳)だけでなく、脳が関与した現象系全体の因果関係(現象としての脳)も考察の対象にする必要があります。
現象と物体を区別する必要があります。
(唯物論は、そこまで考えが及んでいません。この二つを混同して、同一視しています。)
唯物論は「物」に注目します。「物の性質は、その物自身の中に宿っている。だから、その物に注目して、その物をメスで細かく切り刻んで分析すれば、やがて、脳の秘密に辿り着ける筈。」と考えています。
自らが知覚している物に拘っています。
しかし、この先入観を克服する必要があります。
「物の性質」は、あくまでも、他の物と関わって、始めて発現しているからです。関わりが無ければ現象も形成されませんから、「物の性質」も確認のしようがありません。
そのような他との関わりを無視した絶対的「物の性質」や「物の存在」など有りません。それは唯物論者の欲望が生み出した空想です。執着です。自己満足の世界です。自らの欲望と向き合うことを希望します。「物」への執着が何処から生まれているか、その背後に隠れている「欲望」を観察することが大切です。
哲学的先入観を無視すれば、現実は、たったそれだけです。ものの性質は、他のものと関わって、始めて発現していることです。関わりが無ければ、現象も形成されませんから、ものの性質も確認のしようがありません。それ以外は全て欲望の働きの結果です。味気なくて、不満だとは思いますが、、、、。
(自分が探し求めている)「本質の存在」を否定しているので、気に食わないと思います。
現象としての脳と、物体としての脳 |
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脳は、環境との相互作用の上に成り立っています。 物体としての脳は、頭蓋骨の中の豆腐を意味します。 現象としての脳は、脳と環境の間で起っている相互作用を意味します。 環境も含めた、現象系全体の因果関係を考察の対象にする必要があります。 この相互作用は、右図のように、脳と環境の間でフィードバックしています。 この作用のフィードバック過程が、自己保存系(制御システム)を構成しています。 なお、五感と運動器官は、脳自身からは、外界の一部と見なされます。 脳は五感を通してしか環境の存在を知ることが出来ず、運動器官を通してしか環境に働き掛けることが出来ません。 脳が環境とやり取りしているものは、神経組織上を流れている電気的パルス信号のみです。それ以外の物理的作用は関与していません。感覚器官から電気信号を受け取り、処理し、運動器官に向かって送り出しているだけです。 注)ここで使っている思考形式は、「相互作用の思考形式」です。集合や写像同様に、数学を構成する基本的で重要な概念です。数学者が幾何学と思い込んでいるものを、抽象化した概念です。でも、まだ、(数学者自身は)この重要性に気が付いていません。いや、それ以前の問題として、そもそも、このような思考形式が存在していること自体に、気が付いていません。(集合や写像同様に、人間の思考活動を構成している基本的で重要な思考形式です。) 現代数学は、「数、群、集合、写像」の四つの基本的思考形式によって構成されています。数学を発展させる為には、これに「相互作用」の思考形式を加えて五つにする必要があります。数学は、算術では無くて、(本来は)人間が持っている思考パタンを記号化した学問、即ち、思考形式学です。 |
現象としての脳は、脳と環境との相互作用の上に成り立っています。脳の性質は、この相互作用を通して発現しています。
それ故、脳について知りたければ、脳が属している現象系全体を考察の対象とする必要があります。唯物論者のように、物体としての脳だけを対象にしても何も明らかになりません。
脳を理解するには
次の三点を理解する必要があります。
相互作用を構成している両端の仕組みと、その両端の間で生じている相互関係です。
これを「孫氏の兵法」流に表現するなら、
「敵を知り、己を知り、敵と己の距離を知れば、百戦あやうからず。」です。
「環境を知り、脳を知り、環境と脳の相互作用を知る」です。三つの構成要素の中身を知る必要があります。
(相互作用の思考形式を使って図解)
目の前の現象は、次のような枠組みの中で起こっています。
孫氏の兵法の世界
敵を知り、己を知り、敵と己の距離を知る。
敵と己と距離の三つを知る必要があります。
脳が関与した現象の構造
環境を知り、脳を知り、環境と脳の相互作用を知る。
生命現象(自己保存系)の構造
生命現象は、生命と環境との間に生じている生命相互作用の上に成り立っています。
注)孫氏の頃は、歩兵が中心でした。騎馬兵による電撃戦が実用化されたのは、2~300年後でした。この為、移動速度や距離は余り問題となりませんでした。相手も同じ条件だったからです。従って、「敵を知り、己を知れば、百戦あやうからず。」だけで充分でした。
しかし、現代戦では(銃や航空機、ミサイルなどの)飛び道具が発達しています。この為、「敵と己の距離」は非常に重要な要素になっています。飛び道具によって、戦局が大きく変わるからです。
なお、ここでは、計画の立案と実行に、「孫氏の兵法」の考え方を使っています。問題を戦略的に処理しています。
参考)「孫氏の兵法」とは何か?
「孫氏の兵法」は、非常に単純な思想です。「国が生き残る」という「具体的で実行可能な目的」を設定して、その為に何をすべきかを説いていました。
このような現実に直面した場合は、「乱世で国が生き残る」為に、このような行動をとれ。別の状況では、ああしろと。全ての評価基準を、設定した目的を中心にして組み立てていました。「その行動は、「国が生き残る」目的の為に、プラスかマイナスか?」と。
リベラルたちが大好きな絶対的価値観(?)に基づいて判断している訳ではありませんでした。判断基準は、あくまでも、「乱世で国が生き残る」という目的でした。「価値観」ではなくて「目的」でした。つまり、価値観を否定していました。これが、孫氏の兵法の革新性でした。(現代の思想家たちが克服できていない。)
例:
殴り合いの戦争は、国が生き残るベストな方法ではない。
戦争は、勝っても負けても、国力を大きく損耗してしまう為です。人的資源も、食料などの物的資源も、資金も、大量に消費します。古代国家唯一のGDPの源、農業も、動員した農民兵が失われたら生産に支障をきたします。国力が疲弊します。そこを、別の国から攻められたら、、、。
より良き方法は「戦わずして勝つ」、つまり、戦わないで生き残ることです。国力を温存できるからです。目的は、殴り合いに勝つことではありません。「乱世を生き残ること」です。戦争は、その為の一手段に過ぎません。
(ただし、無視できない冷酷な、、、、、。言葉が通じなければ、力を行使する必要があります。躊躇ってはいけません。一瞬の躊躇いが、取り返しのつかない結果を招きます。)
彼が説いていたのは、乱世における国家運営方法でした。タイトルを「(孫氏が語る)乱世の国家運営方法(副題:戦争に勝つことも大切)」とすれば、誤解されなかったと思います。メインは「乱世における国家運営方法」でした。後半が「(実際の)殴り合いの戦争に勝つ方法」でした。つまり、戦場の話です。「兵は詭道なり」と説いていました。
でも、これが理解できないと、(軽薄な)場当たり的ノウハウ集に見えてしまうみたいです。「このときは、こうしろ。あのときは、ああしろ。」と、延々と述べているだけだからです。マルクスや孔子のように、体系的知識や絶対的価値観、理想を説いている訳ではないからです。
なお、ナポレオンのような当事者なら、直ぐに、その重要性を理解できたみたいです。日頃悩んでいた問題が、戦略的に体系的に説かれていたからです。いきなり、(前振りなしに)核心に触れていました。
逆に、これが孫氏の兵法が理解されない原因でもありました。多くの人々にとって、「乱世の国の運営」など考えたことも無かったからです。その一番重要な部分が、「当たり前の常識」として省略されていました。当事者のみが理解できる書き方になっていました。
当時は、記録媒体は木簡でした。紙は実用化されていませんでした。だから、長い文章を書くのは困難でした。要点だけを出来るけ簡潔に短く書く必要がありました。「当たり前の常識」を、わざわざ書く余裕は無かったのです。
重要な注意事項:「国は詭道なり」ではありません。「兵は詭道なり」です。
あくまでも、詭道、即ち、騙しや奇策は、戦場の一発芸です。死んだら元も子もないので。超限戦を平時に使うと、(国が)信用を失って孤立します。「国が生き残る」という目的に反します。平時は、Win-Win を心掛けるべきです。先が長いので。
性悪説の人々にとって策略は魅力的ですが、所詮は一発芸です。、、くれぐれも、ご注意を!。
注)以下の話では、「国が生き残る」を「生物が生き残る」に読み替えて頂くと、理解が容易になります。話のポイントは、「自己保存」、即ち、「生き残る」に集約されています。生物の置かれている現実は、そのまま、孫氏の説いている世界だからです。
本能的行動(第一システム 前半)
やっと、本題に入ります。
第一システムは、二つに分けて説明する必要があります。「本能的行動」と「学習された行動」の二つです。最初は、最も基本的な「本能的行動」の話題です。
第一システムは、本来の脳です。
全ての動物に共通の制御システムです。この肉体の生存と行動を支えています。制御対象は、この肉体です。この肉体を自己保存しています。この自己が保存される過程を、世間では『生きる』と呼んでいます。つまり、生きる為の手段です。感覚器官は、眼耳鼻舌身の五感から構成されます。心理学では、これを漠然と『無意識』と呼んでいます。
クラゲやミミズのように、脳らしい脳を持っていない原始的な動物の場合も、この原理原則は同じです。神経組織は、彼らの生存と行動を支えています。
第一システム(無意識) |
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全ての動物が持っている共通の基本構造です。(程度の差は別にして。) 脳が属している制御システム系は、脳、感覚器官、運動器官、環境の4つの要素から構成されます。感覚器官は、眼耳鼻舌身の五感から構成されています。(動物によって、感覚器官の構成は異なっています。) この4つの要素は、作用が循環しています。この作用の循環が、自己保存系(フィードバック制御システム)を構成しています。その制御目的は、この肉体の生存と行動を支える事です。 大部分の動物は、未知の状況に直面した場合、この第一システムを使った探求反射、即ち、直接肉体を使った試行錯誤で、その状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。 注)自己保存系の工学的構造については、「制御工学の理論」を参照下さい。生命現象を記述する為に、整備を急いでいます。現代の制御工学の理論は、生命現象を記述する目的には全く使えませんでした。発想が悪過ぎ。 |
ごく常識的な話です。しかし、知的生命体の脳は、この延長線上にあります。第二システムは第一システムの疑似組織です。その働きも疑似的です。だから、(退屈でも)この基本構造を理解することは大切です。
(本能)
このシステムを駆動するプログラムは、(原始的な動物では、)遺伝的に生まれながらに組み込まれています。これを世間では「本能」と呼んでいます。
原始的な動物の脳は、本能のみから構成されます。本能に従って、生きています。
(環境)
なお、(脳にとって)環境とは、外部感覚器官と運動器官を含めた存在です。肉体の外に広がっている世界だけが環境ではありません。脳は、感覚器官から信号を受け取り、運動器官に向かって信号を送り出しているだけの存在でしかないからです。脳は、肉体の外側に広がっている筈の世界の真の姿を知りません。あくまでも、信号を受け取り、処理し、送り出しているだけの存在です。
(脳にとっての)環境 = 「 運動器官 → 外部世界 → 外部感覚器官 」
注)我々が、外側世界と思い込んでいるものは、感覚器官からの信号で作り出された脳内部の信号空間、即ち、架空世界です。
「一切は空なり」。意識知覚している全ては、自らの欲望が生み出したものです。蝉の抜け殻と同じで、言葉の殻は持っていても中身は空っぽです。
学習された行動(第一システム 後半)
学習結果は、生物学的には、本能の代用物です。
もう少し進化した動物では、本能の一部が、生まれた後の体験学習に置き換わりました。それ故、学習結果は本能の回りを取り囲むように存在しています。
学習された行動 |
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学習結果は本能の代用物です。本能を補完しています。 本能の一部を、生まれた後に、学習によって獲得しています。 それ故、本能の周りを取り囲むように存在しています。 |
動物にとって、「学習」とは「一人前になる。」ことを意味しています。「進歩する」の意味ではありません。一人前になる為に、生きる術を獲得していく過程を意味しています。つまり、(個体レベルの自己保存系の)環境変化への適応行為の一種です。
あくまでも、本能の代用物です。学習は、それを獲得していく過程です。学習に依存する動物は、不完全な状態、即ち、生きる為に必要なプログラムの一部が未完成のまま生まれています。それを、置かれている環境に合わせて、体験学習で調整をしながら、獲得しています。この為、広い範囲の環境変化に適応可能になっています。本能のように、硬直化していません。置かれれている環境に、学習で柔軟に対応しています。持って生まれたハードウェアの制限はありますが。
なお、現実世界では、「学習 イコール 進歩」という先入観が定着しています。、、、確かに、一人前に一歩近づいたので、進歩ではあるのですが。その意味では、(全体を問題とした)生物学と(個人を対象にした)人生の意味の違いです。視点の違いによる意味の違いです。
生物学的には、多くの動物は、一人前になる前に、一人前になれなくて死亡しています。翌年の春まで生き延びる個体は、僅かです。もっと冷酷な話をすると、餌の量は限られています。餌の分しか生き残れません。様々なリスクを見込んで、余分に生産しているだけです。
でも、個人の立場では、学習によって(他人よりも少しでも)進歩しないと生き残れません。(有限な餌を巡る)競争社会だからです。
ちなみに、(今まで利用していなかった)新しい餌を見つけた個体は、生き残る確率が高くなります。いわゆる、ニッチ商法の事です。(有限な餌を巡る)「競争に生き残る」ではなくて、(他が、まだ利用していない)「新しい餌を見つけて生き残る」です。
生物の進化、特に適応放散は、この「新しい餌を見つけて生き残る」が原動力になっています。恐竜が絶滅した後、イルカは海に、コウモリは空に、我々サルは、樹上生活に進出しました。樹上は、サンサンと太陽が降り注いで、生産活動が盛んな場所でした。宝の山を見つけました。(まだ誰も利用していない)豊かな樹上で、果実や昆虫などの小動物を食べて暮らしました。
でも、(無限にある筈の)「葉っぱ」は食糧に出来ませんでした。消化が悪く、カロリーが低かったからです。細い枝を渡り歩く為に、消化器官にコストを掛けて体を重く出来ませんでした。これを食料にできたのは、イモ虫のように、体全体が消化器官に特化した特殊な生物だけでした。脊椎動物の場合、コアラやナマケモノのように、木の上で動かないでエネルギー消費を最小限に抑えた種だけでした。
(微量栄養素飢餓)
ビーガンは、このようなサルの宿命を無視した愚かな行為です。
偏食によって、微量栄養素飢餓に陥り、攻撃的になっています。「リベラルな私だけが、なぜ(微量栄養素飢餓で)苦しまなければいけないのだ。不公平だ。無知な大衆が許せない。」と。
人間誰でも、飢餓になると、イライラして攻撃的になります。
我々サルは、雑食の動物です。この現実と向き合う必要があります。個人の意志の力だけで、どうにかなる問題ではありません。体の仕組み自体が、そう出来ています。数千万年の生物進化の歴史が隠れています。(持って生まれた)命のルールです。命のルールに逆らったら不幸になります。それに沿った生き方が大切です。つまり、ビーガンを止め、命のルールに従って雑食に戻ることです。(雑食で)微量栄養素も、満遍なく摂取することです。
(学習のメリット)
本能的プログラムの欠点は、変更に時間が掛かることでした。(環境が変化して)変更する必要が生じた場合に、進化する必要があったからです。遺伝的に決定された内容を変更する為には、進化する以外に方法がありませんでした。つまり、世代交代が必要でした。
しかし、学習が可能なシステムの場合、個々の個体の体験学習で変更可能となりました。この為、時間的環境変化も、空間的環境変化も、各個体にとっては体験の差としかならず、進化する事無く、柔軟に迅速に適応可能となりました。この為、(夫々の個体が、別々に、)広い地域に生息可能となりました。その結果、種自体の生息域が広がりました。種を維持すために必要な個体数を、(大型の動物であっても)確保し易くなりました。(種は、遺伝的多様性を保つ為に、ある程度の個体数が必要です。それを切ると、多様性を失って、小さな環境変化でも、対応できなくて、絶滅してしまいます。)
学習のメリットは、プログラムの変更に、進化する必要が無くなったことです。即ち、(本能のように)世代交代が必要無くなったことです。(個体レベルで)短時間に迅速に環境変化に適応可能になりました。
これは、画期的なことです。プログラム変更の処理階層が、種(進化)から個体(体験)に遷移したからです。
環境変化と学習の関係 |
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環境は時間と共に変化します。 (時間的変化) 棲む場所によっても変わります。(空間的変化) しかも、これらの変化は、生物の都合を無視して、一方的に変化しています。 この為、生物は、「生きる」為に自ら変化して、一方的に変化している環境に合わせる必要があります。これを、生物学では「適応行為」と呼んでいます。 この適応行為が、「種のレベルの自己保存系」で起こっているのが、生物進化の現象です。 学習が可能なシステムの場合、(時間的、空間的)どちらの変化も、各個体にとっては体験の差としかならず、柔軟な適応が可能となりました。どちらの環境変化も、(個体レベルで)行動パタンを変化させて対応しました。この結果、種自体の生息範囲も広くなりました。 ひとつの種を保ったまま、広い地域に生息可能となりました。(例:人間) これに対して、(本能の依存度が高い)昆虫たちは、種を細分化して、個体サイズも小型化して、機能も単純化して、ある特定の限定された微小環境に適応する戦略を取りました。結果として、(昆虫界全体では)生息範囲は広範囲に及びました。(細分化した為に)種の数も膨大になりました。個体サイズも小型化したので、微小環境でも、種を維持するのに必要な個体数を確保することが可能となりました。 哺乳類と昆虫とでは、適応戦略が根本的に異なっています。当然、背景にある遺伝子の仕組みも、かなり異なっていると思われます。昆虫たちは、遺伝子の構造を高機能化することで、柔軟に環境に適応しています。一方、哺乳類は、個体を高機能化することで、適応しています。どちらが優れているかの問題では無くて、戦略の違いです。実際、昆虫たちは、大繁栄しています。種を細分化することで、様々なリスクを乗り越えています。 |
生物進化は、(種のレベルの)自己保存系の環境変化への適応行為です。そこで保存されている自己は「種」です。つまり、(種のレベルでの)適応行為の一種です。
学習では、生きる為のプログラム変更の処理階層が、「種」から「個体」へ遷移しました。
背景になっている生物進化の理論は、現代の正統派進化論(ネオ・ダーウィニズム)ではなくて、全く新しい別の進化理論を使っています。今西錦司氏の「棲み分け理論」と木村資生氏の「中立説」を、物理学の「場の理論」と、工学の「制御理論」を使って統一しています。
参考)自己保存系の階層構造 |
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地球上の生態系においては、自己保存系は、階層構造を持ちます。 最も下位の自己保存系が細胞です。 細胞の集合によって、個体レベルの自己保存系が構成されています。 個体の集合によって、種のレベルの自己保存系が構成されています。 生物進化の現象は、(種のレベルの)自己保存系の様々な環境変化への適応行為です。 なお、単細胞生物に関しては、情報が不足している為、解りません。曖昧です。多細胞生物に比べて、遥かに多様な世界だとは思うのですが。 |
重要)学習では、プログラム変更の処理階層が、「種」から「個体」に遷移しました。即ち、「種の進化」ではなくて、「個体の体験学習」によって可能となりました。(処理階層が遷移したので)画期的な出来事でした。
神経細胞の学習機能について
なお、神経細胞が持つ学習機能は、全ての生物細胞が持っている環境への適応機能が原型となっている。つまり、適応機能が原型となって、学習機能が生まれたと考えています。従って、本能から構成された原始的脳にも、多かれ少なから、学習能力はあると思われます。(それを学習と呼ぶべきか、それとも適応と呼ぶべきか、言語定義上の(形式的)問題は残りますが。)
厳密な思考を行った場合、適応と学習の間に明確な境界線を引くことは困難です。言葉の世界の中では明瞭に異なっていますが、現実世界は(残念ですが)曖昧です。常に、中途半端な状態が存在しています。それは全ての生物細胞が持っている適応機能なのか、それとも、神経細胞が持っている学習機能なのか、判断に苦しむ場合が多々あります。
言葉だけに頼った思考作業は、大切なものを見失います。目の前の現実に、目を向ける事が大切です。学問的迷信に惑わされることなく。
意識された行動
やっと、本題です。
第二システム(意識器官)は、肉体の架空行動、即ち、「考える行為」を制御しています。
第ニシステムは、第一システムの疑似組織です。その働きも疑似的です。肉体の現実行動ではなくて、(肉体の)架空行動、即ち、考える行為を制御しています。
知的生命体に固有の機能です。感覚器官は、意識感覚器官から構成されます。この第二システムを、世間では、漠然と『意識』と呼んでいます。ここでは、より正確に『意識器官』と呼んでいます。
この第二システム(意識器官)の働きが、ここでのテーマです。このシステムは、迷いや苦悩などの様々な副作用を生み出しています。原始仏教は「その副作用と、どう向き合えばいいか」を説いています。
原始仏教を理解する為には、知的生命体の宿命(Rules of intelligent life that are born with.)と向き合う必要があります。
意識感覚器官は、この第二システム、即ち、意識器官の入力装置です。
その知覚対象は、脳内部の信号空間、即ち、架空環境です。
この意識感覚器官から生じている知覚刺激を、仏教では「意知覚」と呼んでいます。
意識が加わった脳システム( 知的生命体の脳 ) |
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知的生命体特有の構造です。 二組の独立した制御システム系より構成されます。 第一システムは、肉体の現実行動を制御。全ての動物に共通。 第二システムは、肉体の架空行動(考える行為)を制御。知的生命体に固有。 意識は、自己の心的システム(脳)を知覚対象とした感覚器官の一種です。 その知覚結果は処理されて、また、自己の心的システムに還流します。この循環が、架空行動の為の制御システム系(フィードバック制御システム)を構成します。 早い話が、意識器官はシミュレーションシステムです。意識器官を使った「考える行為」は、基本的には、肉体の架空の探求反射(架空の試行錯誤、即ち、架空体験)を意味しています。この考える行為によって、即ち、架空体験によって、我々人間は未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。 それは、第一システムを使った(現実の肉体を使った)探求反射(試行錯誤)に対応しています。 知的生命体の脳は、シミュレーターを搭載した二重構造になっています。 注)この絵は、ただ単に、原因と結果の因果間関係を矢印を使って図解しているに過ぎません。難解な学問的真理を述べている訳ではありません。「意識感覚器官」以外は、全て常識的で平凡な既知の知識です。 |
言葉の使い方:探求反射 = 試行錯誤
言葉の使い方:意識器官 = 第二システム = シミュレーションシステム
言葉の使い方:意識感覚器官 = 第二システムの入力装置
言葉の使い方:考える行為 = 意識器官を使った架空の探求反射 = 架空体験
「探求反射」は生物学用語です。「試行錯誤」は世間一般で使われている慣用表現です。意味は同じです。
「意識器官」は、言葉の先入観を回避する為に「第二システム」と呼んでいます。その工学的正体は、「シミュレーションシステム」です。
「考える行為」は、「意識器官」を使った架空行動、即ち、架空の体験学習を意味しています。
(各段階の脳における)新しいプログラムの獲得方法
未知の状況に直面した場合、
本能的行動 では、「生物進化」によって新しいプログラムを獲得していました。
学習された行動では、「各個体の体験学習」で獲得していました。
意識された行動では、意識器官を使った「考える行為」で獲得しています。
(未知の状況に直面した場合の)新しいプログラムの獲得方法 | |||
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脳の進化段階 | 処理階層 | 獲得方法 | 備考 |
本能的行動 | 種 | 生物進化 | 本能を変更する為には、進化、即ち、世代交代が必要。 |
学習された行動 | 個体 | 体験学習 | 体を使った体験学習で獲得。 学習結果は、本能の代用物。 |
意識された行動 | 脳 | 考える行為 | 意識器官を使ったシミュレーション(考える行為)で作成 考える行為は、(架空の)体験学習を意味しています。 |
生物学的には、体験学習は、直接肉体を使った探求反射を意味します。 思考活動も探求反射の一種です。ただし、架空の、、、。 体験学習と思考活動は、原理原則が同じです。新しいプログラムを、どちらも探求反射によって作り出しています。 |
我々人間は、上記の三つの方法を使って、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを獲得しています。
「学習」は、「本能」の代用物です。
「考える行為」は、「体験学習」の代用物です。
(意外かもしれませんが)人間も、他の動物同様、本能の支配を強く受けています。「学習する」という行為自体は、本能だからです。(ややこしい表現ですが、)我々は、「学習本能」に従って、学習しています。「学習行為」自体は本能に従った行為ですが、その結果は「学習結果」です。ややこしいですね。
だから、学習に依存しても、結果がバラバラに成らず、イヌはイヌに、ネコはネコに、人間は人間になります。何を学習すべきかは、本能によって決まっているからです。その本能の範囲内で、体験学習しています。
「考える行為」は、生物学的は、意識器官を使った「架空の探求反射」、即ち、「架空の体験学習」を意味しています。それは、現実の肉体を使った探求反射や体験学習に対応しています。
(環境に適応する為のプログラム変更の)原理原則は同じですが、具体的手段は、(脳進化の各段階で)微妙に異なっています。旧機能を微妙に引き継ぎながら、改良して新しい機能を獲得しています。
突然変異で、無から新しい機能が、突然発生している訳ではありません。
生物は無から有を生じさせる程、革新的ではありません。生きる為に、極めて保守的です。今日を生き残れなかったら、明日はないからです。石橋を叩いて渡っています。新しい機能の「原理原則」は、どこかで過去を引き摺っています。どこかで過去の延長線上にあります。
夢
意識が感覚器官であることは、夢を思い出して頂ければ、直観的に理解できます。
人は、毎晩夢を見ます。その夢見ているイメージは、眼からの信号ではありません。瞼は閉じているので。
自らが脳内部に生じさせたものです。脳内部で、自ら作り出したイメージを使って、架空行動、即ち、夢物語を生じさせています。それを、意識感覚器官は体験しています。
夢 物語 |
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夢の時、瞼は閉じています。だから、それは眼からの情報ではありません。 自分自身が、脳内部に作り出したものです。 夢物語は、自らが作り出した架空世界です。 それを意識感覚器官は夢体験しています。 このような意識が体験している架空世界には、「ゆめ、うつつ、まぼろし」の三つがあります。 宗教体験の背景には、まぼろし体験が潜んでいることが多々あります。例えば、神との遭遇や後光のように。 |
ここに、意識器官の働きが象徴的に現れています。夢は、確かに、意識知覚できますが、皮肉にも、意識知覚できるが故に、実体ではありません。自らが生じさせた(脳内部の)実体の無いものです。
これを、仏教では「一切は空なり。」と説きます。自らが知覚しているものは、自らの欲望が生じさせたものです。実体のないものです。
夢見ているものは、実体ではありません。自らの欲望が生み出した架空世界です。
フロイトは、「夢は願望充足行為である。」と述べています。心の中に溜まったストレスを、外部運動器官にでは無くて、意識器官に向かって放出し、そこで架空体験(夢)を生じさせ、その架空体験によって、ストレスの発散、即ち、願望充足を行っています。ストレスを発散したら、スカッとします。欲望が満たさ満足感に浸れます。
(三つの願望充足行為。「快楽原則、現実原則、夢過程」)
我々人間は、三種類の方法を使って、心に溜まったストレスを発散しています。快楽原則と現実原則、夢過程の三つです。それによって、心の健康を保っています。
三種類の願望充足と ストレスの放出先 |
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心の原則は、溜まったストレスを外に放り投げて、自らは無興奮で快適な状態になる事です。 我々人間は、三つの方法を使って、このストレスの発散を行っています。快楽原則と現実原則と夢過程の三つです。 快楽原則は、ストレスの原因と発散行為の間に因果関係はありません。 例えば、一週間の仕事のストレスを週末の趣味、スポーツ、ショッピングで発散する行為です。机を蹴飛ばして八つ当たりするのも同様です。ストレスを発散したら、スカッとします。 子供が直ぐ泣くのも同様です。彼らは泣き終わったらケロッとしています。「泣いたカラスがもう笑うた」、涙が乾く前に、もう、ケラケラ笑っています。ストレスの発散完了です。大人が泣くのも悲しいからではありません。悲しみを、涙と一緒に流し去ってしまう為です。泣けば(ストレスが発散され)少しだけ気が楽になります。逆に堪えたら、悲しみに苛まれます。いつまでも、いつまでも、いつまでも、、、引き摺ってしまいます。(ストレスが残り続けてしまいます。) 現実原則は、ストレスの原因と発散行為の間に、強い因果関係が存在する場合です。 例えば、空腹を癒す為に、食べ物を探す行為です。空腹に耐え兼ねて水を飲んでも、水腹は、喉元を通り過ぎる一瞬だけで、空腹を癒してくれません。直ぐに、現実に引き戻されます。実際に、食べ物を見つけて食べなければ、空腹のストレスは癒されません。 空腹などのようにストレスの発生が継続している場合、現実に目を向け、「くさい臭いは元から絶つ」必要があります。現実に即した行動が必要です。仕事のストレスも重度になると、酒や趣味だけでは発散できません。転職等の具体的行動が必要になります。現実と向き合う必要が生じます。 学習の成立 このような現実原則に基ずくストレスの放出路を固定していく行為を、世間では「学習」と呼んでいます。次回も同じストレスが生じた場合、前回に固定された放出路に向かって放出されます。つまり、学習の結果、同じ行動が繰り返されます。腹が減れば、「食べ物を探す行動」が直ぐに生じます。前回見つけた場所を探し始めます。 夢過程では、心に溜まったストレスを意識器官に向かって放出して、架空体験を生じさせ、その架空体験によって、ストレスの解消を行っています。この願望充足行為の結果、その副作用として、夢が生じています。 性欲などのように、外に向かって発散出来ない(困った)欲望の場合、意識器官に向かって放出し、そこで架空の満足体験に浸る傾向があります。白日夢も同様です。どちらかと言えば、(現実と関係ないという点で)快楽原則に似ています。 夢が覚醒時の行動に影響を与えない原因も、ここにあります。夢によって、(行動の原因となるべき筈の)ストレスが解消されるからです。ストレスが無くなれば、行動は生じません。つまり、ストレスを運動器官に向かって放出するからこそ、結果として、肉体上の行動が発生しています。その肝心のストレスが(夢で)解消されれば、肉体上の行動も生じません。 この意味で、フロイトの「夢は願望充足行為である。」即ち、「夢は(意識器官を使った)ストレスの発散行為である。」という主張は的を得ています。 ただし、「夢は願望充足行為である。」という表現は、誤解を受けやすいので適切ではありません。言葉に頼って思考している人々に、耐え難い不快感を与えます。「願望」という生々しい言葉が、自らの隠しておきたい欲望を露わにしてしまう為です。「夢は、意識器官を使ったストレスの発散行為である。」が、適切な表現です。(意味は同じですが。) 詳細は、フロイトの夢理論を参照下さい。 |
考える行為
「考える行為」は、「体験学習」の代用物です。
我々知的生命体の『考える』という行為は、この第二システム、つまり、意識器官を使った肉体の架空行動を意味しています。
この架空の体験学習によって、実際の肉体を使った体験学習と等価な学習結果を作り出しています。
我々知的生命体は、未知の状況に直面した場合、意識器官を使った架空の探求反射によって、(即ち、「考える行為」によって、)それに対応する為の新しいプログラムを作り出しています。頭の中で、「あ~う~あ~う~」と、色々試しています。そして、それが完成したら、それを使って、現実の肉体を駆動しています。この架空行動から現実行動に遷移する過程を、世間では、『考えてから行動する』と呼んでいます。
つまり、考える行為は、(生物学的には、)体験学習の代用物です。夢と同じように架空行動を生じさせています。この架空の体験学習によって、新しいプログラムを身に付けています。
第二システム(意識)は、第一システム(無意識)の疑似組織です。その働きも疑似的です。肉体の現実行動ではなくて、(肉体の)架空行動を制御しています。
人間が未知の状況に直面した場合 |
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人間の場合、いきなり行動しないで、一旦、立ち止まって考えます。 この考える行為は、生物学的には、肉体の架空行動、即ち、架空の探求反射(架空の試行錯誤)を意味しています。頭の中に状況を思い浮かべ、その中で、あれやこれやと、シミュレーションを繰り返しています。 視覚情報が邪魔するので、人は、しばしば、目を瞑って思いに耽っています。 注)実際の思考活動では、アバターは人間の形をしているとは限りません。遥かに柔軟です。国家や企業などの組織(外骨格)も、架空行動させることが可能です。数学や物理学では、数式や変数をアバターとして動かしています。 |
早い話が、意識(第二システム)は、シミュレーション・システムです。架空行動を制御しています。
我々知的生命体の脳は、シミュレーターを搭載した二重構造になっています。そのシミュレーションの場は、脳内部に作り出された信号空間、即ち、架空環境です。(この第二システムを使った)シミュレーションによって、未知の状況に対応する為の新しいプログラムを作り出しています。これを、世間では、「考える行為」とか、(頭を使った)「試行錯誤」と呼んでいます。
生物学的には、「架空の探求反射」を意味しています。
一方、第一システムしか持たない(ほとんどの)動物は、直接、肉体を使った試行錯誤によって、プログラムを作り出しています。
つまり、新しいプログラムを作り出すのに、頭を使うか、体を使うかの違いです。第二システムを使うか、第一システムを使うかの違いです。我々知的生命体は、第二システムを使っても、新しいプログラムを作り出すことが可能です。もちろん、他の動物同様、第一システムを使っても可能です。
そして、見落としてはならない重要な点は、「(未知の状況に対応する為の)新しいプログラムを作り出す原理原則は同じ。」という事です。試行錯誤、即ち、探求反射によって作り出しています。
知的生命体は、第二システム、即ち、意識器官を使った架空の試行錯誤によって。他の動物たちは、第一システムを使った肉体の試行錯誤によって作り出しています。頭の中で、「あれやこれや」と考える行為は、(架空の)試行錯誤を意味しています。頭の中で、色々(架空行動を)試しています。
注)実際の思考活動は、もう少し高度です。
思考活動は、基本的には、意識器官を使った肉体の架空行動を意味しています。しかし、実際の機能は、もう少し高度です。
外骨格、つまり、自分の属する国や会社などの組織も動かすことができます。数学などでは、自分のアバター、つまり、抽象的な変数や数式なども動かすことができます。
素朴な疑問
以上の内容を一覧表に纏めてみました。
ポイントは、未知の状況に直面した場合に、その状況に対応する為の新しいプログラムを作り出す方法についてです。(チャールズ・サンダース・パースの視点です。)
多くの動物は、肉体(第一システム)を使った(現実の)試行錯誤によって作り出しています。知的生命体は、意識器官(第二システム)を使った(架空の)試行錯誤で作り出しています。この行為を、世間では「考える」と呼んでいます。
(未知の状況に対応する為の)新しいプログラムの作成方法 | ||
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動物の種類 | 方法 | 使用する器官 |
多くの動物 | 肉体を直接使った試行錯誤で作成。 即ち、「体験学習」で作成。 | 第一システムを使用 脳本来の機能を使って作成。 |
知的生命体 | 頭を使った架空の試行錯誤で作成。 即ち、「考える行為」で作成。 | 第二システムを使用 意識器官( simulation system )を使用 |
どちらも、新しいプログラムを作り出す原理原則は同じです。「探求反射」、即ち、「試行錯誤」で作り出しています。 注)素朴な疑問 我々知的生命体は、二つの独立した制御システム系が、ひとつの肉体を支配しています。矛盾しています。果たして、うまくいっているのだろうか? 心配いりません(キリッ)。 当然、うまくいってません。 二つの制御システムが、一個の肉体の制御権と支配権を巡って、常に、葛藤を繰り返しています。 2心房1心室のカエルの心臓のように、二つの信号が混ざり合って、いつも混沌としています。生物進化上は、人間の心は、まだ、2心房2心室にまで進化していないみたいです。二つの信号が完全に分離されていません。(カエルの心臓のように、動脈と静脈が)混沌と混じり合っています。第一システム由来の信号と、第二システム由来の信号が、一個の肉体の上で競合し合っています。我々は、まだ、まだ、発展途上の知的生命体みたいです。 この中途半端さが、様々な神経症や、その他の心的トラブルの原因になっています。その支配権を巡って、様々な対立と葛藤が生まれています。我々人間という動物は、この二つのシステムの対立と競合に苛まれています。そして、これが原始仏教のテーマになっています。 |
この原理原則が同じだったことに、『考える行為』の本質が隠されています。思考活動は、摩訶不思議な機能ではなくて、極めて原始的な脳の機能、即ち、探求反射(試行錯誤)の一種に過ぎませんでした。ただし、架空の。。。
知的生命体は、意識器官を使った「架空の探求反射」、即ち、「考える行為」によって、新しいプログラムを作り出しています。そして、同時に、これが様々な副作用も生み出しています。ここが、原始仏教のテーマです。
「原理原則が同じ」ことに気が付いた時は、「えっ?」と拍子抜けして、一瞬、言葉を失ってしまいました。喜びも感動も湧きませんでした。(どうしていいか分からない)戸惑いだけでした。
哲学上の世紀の大発見、即ち、「思考」の本質に迫る物凄く重要な発見の筈なのですが、余りにも、原始的な機能だったからです。摩訶不思議な機能を期待していたのに、真実は、(予想に反して)余りにも、平凡過ぎました。(「考える行為」は、原始的な)探求反射の一種に過ぎなかったのです、(ただし架空の、、、)。拍子抜けです。
やっぱり、第二システムは、第一システムの疑似組織だったのです。肉体の現実行動ではなくて、肉体の架空行動を制御していたのです。
意識器官の存在場所
意識器官は、大脳の部位を問題にするなら、前頭葉と密接な関係があると思われます。
前頭葉にも、報酬系や罰系が存在しています。これらの系は、学習の強化と非常に密接に結び付いています。
それに、中心溝を境に、前後が鏡に写したように対応しています。丁度、中心溝を境に、第一システムの反射機構として、第二システムが存在しているように見えます。
第二システムは、第一システムの疑似組織です。その機能も疑似的です。この為、第一システムを鏡に写すように、第二システムが進化してきたと思われます。直観的には、(物理的作用の方向を問題とした場合、)鏡像関係にあります。大脳の左右が反転しているように。
ただし、最も原初的痕跡は、視覚野の近傍にあると思われます。元々、視覚情報を利用した学習システムだからです。模倣反射の延長線上にある機能だからです。
意識器官の働きは、生物学的には、模倣反射の一種です。従って、模倣反射が可能な動物は、(程度を別にすれば)何らかの意識器官を持っていると思われます。
元々は視覚情報由来の学習機能です。眼からの信号で意識器官上に架空行動を生じさせ、その架空行動で「架空の体験学習(模倣学習)」をしていました。いわゆる「真似る行動」です。
でも知的生命体の場合、自らの作り出した信号でも模倣反射が可能になりました。思考活動の始まりです。
「模倣反射の始まりは、魚の群れ行動が出発点だったのでは」と考えています。視覚情報を利用した同期システムだからです。模倣反射の一歩手前です。
思考活動では、自ら作り出した信号で意識器官を駆動し、架空行動を生じさせています。この行為の為には、現実世界に関する膨大なデータや知識が必要です。つまり、巨大な脳が必要です。
一方、模倣反射の場合、これが不要なので、そこそこのスペックの脳でも実行可能です。意識器官を駆動する信号は、外部から視覚情報として与えられるからです。自ら作り出す必要がないからです。
多くの動物が、(程度の差を別にすれば)広く意識器官を持っていると思われます。しかし、それは模倣反射の為です。思考活動が可能な動物は、人間やサルの一部、イルカ、象などに限られています。(まだ、充分なデータがありません。)
なお、思考活動が可能なら、夢も見ている可能性があります。思考活動も夢も、自ら作り出した信号で意識器官を駆動しているからです。思考活動の一種だからです。
「果たして、犬は夢を見ているか?」。
元々、オオカミは群れを作る動物です。模倣反射能力が高い動物です。摸倣反射によって、群れ内部での自分の立場や行動パタンを学習しています。しかし、人間同様、群れの掟と、個体の欲望は、必ずしも一致するとは限りません。寧ろ、一致しません。ストレスに晒されます。だから、(ストレス解消の為に)夢を見てる可能性は充分にあります。
意識器官が存在している大脳の部位 | ||
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システム名 | 部位 | 備考 |
第二システム (意識器官) | 前頭葉 | 意識器官の主要な機能は、前頭葉に位置しているみたいです。 しかし、意識器官の最も原初的痕跡は、視覚野の近傍にあります。 元々(視覚情報を使った)模倣反射の為に、発達してきた器官だからです。 |
第一システム (無意識) | それ以外 | 前頭葉以外の場所。動物本来の脳の部位です。 |
データが不足しているので詳細は曖昧です。まだ、漠然としたもやが掛かっています。 この知識を叩き台にして、より的を絞った脳科学の研究が進むことを期待しています。 |
意識器官の生物学的由来
意識器官は、元々、「模倣反射」の為に、発達してきた器官です。(真似る為の機能)
それ故、人間だけに固有の機能ではありません。程度の差を別にすれば、多くの動物たちが持っている一般的機能です。
(模倣反射)
このような意識器官は、(生物進化上は、)模倣反射の為に発達してきた器官です。だから、結構、歴史の古い機能です。程度の差を別にすれば、多くの動物たちが持っている機能です。決して、人間にだけ固有の機能ではありません。サルや象、イルカなども、(彼らの行動パタンを観察すると、)そこそこ高度な意識器官を持っているものと思われます。模倣反射の枠を超えて、ある程度の思考活動も可能みたいです。
第二システム(意識器官)を使った模倣反射は、第一システムを使った肉体の探求反射と対応関係にあります。
模倣反射は、(意識器官を使った)架空の探求反射を意味しています。視覚情報を使って、意識器官上に架空行動を生じさせています。この架空行動によって、新しいプログラムを獲得しています。即ち、サルは見ただけで、行動を模倣することができます。
彼らは、視覚情報を使って意識器官を駆動し、この架空体験によって体験学習をしています。「百聞は一見に如かず」という諺もあるように、非常に高機能な学習行為です。言葉で幾ら説明しても、なかなか理解できませんが、見れば一発で理解できます。我々ほ乳類は、この模倣反射を使って、非常に効率よく学習しています。特に、子供は、親を真似ることで、生きる術を学んでいます。何でも見て、実際に自分でもやってみようとします。これを邪魔すると、気が済まなくて、癇癪を起します。彼らは、「見て、実際に自分でもやってみる。」という学習本能を持っています。それに促されています。
紛らわしい表現ですが、学習行為自体は本能です。本能に促されて学習しています。でも、その「学習本能」の結果は「学習結果」です。紛らわしいですね。言葉の限界を感じます。
この模倣反射は、人間に標準で備わっている能力なので、その重要性に全く気が付いていません。物を手で掴むように、特別に意識することもなく、難なく使いこなす事が出来ます。見ただけで、簡単に学習でき、自分の体を使って再現できます。だから、当たり前の事として、気にも留めていません。
でも、スポーツ選手は、経験的に気が付いています。イメージトレーニングを最大限に活用しています。イメージすれば、その通りに体を動かすことができます。自分では気付かない微妙なコツやタイミングも学習可能です。
この模倣反射の重要性に、哲学者も科学者も、全く気が付いていません。その巨大で複雑なシステムの存在に全く気が付いていません。
なんで見ただけで、真似ることができるのか?
どうして、見ただけで肉体を駆動できるのか?
どうやって、見ただけで新しいプログラムを作り出すことができるのか?
(想像力の限界を遥かに超えて)理解できないことばかりです。実際に、自分でプログラムを組もうとすると、その作業規模の膨大さに途方に暮れてしまいます。そもそも、それ以前の問題として、(どう組めばいいのか)目途さえつきません。
(言語学習)
このような模倣反射は、視覚情報だけでなく、聴覚情報、即ち、言葉によっても可能です。機能はかなり限定されますが、我々は、言葉を聞いただけでも行動を身に付けることができます。ただし、限定的ですが。
(文字学習)
この言葉は、文字記号で表現することも可能です。(視覚情報である)文字記号を、音声情報に変換して、様々な言語学習を行っています。子供の頃、声を出して本を読んでいたことを思い出して下さい。(文字の)視覚情報を、(言葉の)音声情報に変換して、その音声情報で意識器官を駆動しています。
(思考活動)
我々人間では、この模倣反射が、更に高度になっています。自ら作り出した信号によって、意識器官を駆動して、架空行動を生じさせることも可能です。いわゆる思考活動です。つまり、シミュレーション・システムの獲得です。
思考活動は、模倣反射の一種です。視覚情報の代わりに、自ら作り出した信号によって、意識器官を駆動しています。
その典型が夢です。夜見る夢では、自ら作り出した信号で、意識器官上に夢物語を作り出しています。瞼は閉じているので、夢の映像は眼からの信号ではありません。自らが生み出している架空行動です。
なお、思考活動は、言葉だけではありません。元々、視覚情報を使った模倣反射が始まりですから、(言葉を使わないで、)映像的イメージを直接使った思考活動も可能です。
哲学者のように「言葉が全て」という先入観に凝り固まっていると、多くのものを見失います。自らの可能性を、言葉の檻に閉じ込めてしまいます。言葉の檻の中で右往左往してしまいます。
ここでは、より情報量が多い『絵』を多用しています。言葉は一次元の情報です。一本の糸です。絵は二次元です。空間的広がりを持っています。情報量が圧倒的に違います。「百聞は一見に如かず」です。
しかし、意識知覚し易いのは『言葉』の方です。それ故、哲学者は言葉に頼った思考作業を行いがちです。
悲しいことに、哲学者は、言葉によってしか、架空行動、即ち、思考活動を生じさせることが出来ません。(言葉で表現できない)視覚イメージや、未知の新しい概念を、そのまま直接、頭の中で動かすことができません。言葉によって敷かれた道に沿ってしか、歩き回ることができません。言葉が作り出す先入観の虜になっています。言葉の檻に閉じ込められています。その典型が形而上学です。形而上学は、言葉の檻が作り出している自己矛盾に囚われています。その中で、もがいています。余りにも不憫です。
原因は単純です。現実に目を向けていないからです。言葉のフィルターを通してしか、現実を見ていないからです。現実を知らないから、原因と結果の因果関係も頭に焼き付いていません。因果関係が焼き付いていないので、その因果関係をシミュレートもできません。
それ以外の世界があることを知りません。
人々は、知っていることは、全て知っています。
知らないことは、「知らないこと」自体を知りません。
(言葉の檻の外側に広がっている筈の)広大な現実世界を知りません。
現実世界は、遥かに広大です。
脳と言葉と学習プロセス |
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プログラム作成の基本は、肉体を使った探求反射です。(第一システム使用) サルの場合、視覚情報を使った模倣反射によっても作ることができます。(第二システム使用) 模倣反射は、生物学的には、意識器官を使った架空の探求反射を意味しています。それを駆動する信号は、視覚情報として、外部から与えられています。 人間の場合、視覚情報の代わりに、音声、文字、脳からの信号でも、模倣反射が可能です。 思考活動は、自己の脳で作られた信号を使った模倣反射の一種です。 スポーツ選手は、意識器官を使ったイメージトレーニングを多用しています。 哲学者のように、「言葉が全て」と、言葉が作り出している世界に閉じ籠った発想はしない方が賢明かも。 現実は、遥かに広大です。 注)学習の基本は、肉体を使った体験学習です。知的生命体は、これ以外に意識器官(第二システム)を使った架空の体験学習も可能です。世間では、これを「考える」と呼んでいます。 |
ちなみに、野生のチンパンジーも、幾つかの鳴き声を組み合わせて、言葉(文章)による伝達を行っているみたいです。実験室では、(コンピュータ画面を使って)記号で文を作り、人間と意思疎通が可能です。声帯が(生物進化上)発達していないので、人間のような声を出すことはできませんが、脳内部の意識器官は、(記号を使った思考が可能な程度に、)それなりに発達しているみたいです。
なお、聞く能力は、問題ないみたいです。子供の頃から、人間と一緒に教育していると、人間の言葉が理解できるみたいです。一方、同じ兄弟でも、子供の頃に訓練していないと理解できません。
思考活動(知的生命体)を、人間だけの専売特許だと思わない方が賢明かもしれません。
もちろん、「俺様は万物の霊長だ。」と、差別化したい気持ちは理解できます。人間には、そんな欲望があることは承知しています。でも、その欲望の働きを一旦抑えて、目の前の現実と向き合うことを希望します。
意識器官が生み出す副作用(知的生命体の宿命)
この特殊な構造は、様々な副作用を生み出しています。迷いや苦悩、死の恐怖などの人間であるが故の様々な問題の原因となっています。知的生命体は、意識器官(第二システム)を持ったが故に、様々な宿命(Rules of intelligent life that are born with.)を背負い込んでいます。その副作用に翻弄されています。
ここでの話題は、この知的生命体の脳が生み出している様々な副作用についてです。原始仏教が説いている内容です。
原始仏教は、「この知的生命体の宿命と、どう向き合うか」を説いています。
克服ではありません。現実を、あるがままに受け止めることを希望します。克服は自己満足に過ぎません。
場違い
仏教とは、およそ関係ない話になってしまいましたね。
でも、原始仏教や空の哲学は、この「意識とは何か」の知識を背景としています。言葉を使って正確に説明する為に、場違いとは思いましたが、敢えて述べています。我々知的生命体の宿命、特に、迷いや苦悩の根を理解するには必須です。
以上の内容は、現代において、まだ未知の知識です。全体像を大雑把に把握して頂く為に、広範囲の話題に触れました。
でも、難解な知識は、どうでもいい事です。
要は、
「自らの知覚しているものは、自らの欲望が生み出したものです」。
人々が思い込んでいるような「存在する実体」ではありません。
「一切は空っぽ」です。
この事に気付けるかどうかだけです。ゴータマは、これに気付きました。
全体の広がりを感じて頂ければ幸いです。全ては、原因と結果の因果関係の上に成り立った存在に過ぎません。
意識感覚器官は、脳内部の事象を知覚対象とした感覚器官です。そして、その知覚しているものは、自らの欲望が生じさせたものです。夢と同じように、実体のないものです。蝉の抜け殻のように、言葉の殻は持っていても中身は空っぽです。即ち、(意識知覚しているもの)「一切は空っぽなり(Everything is empty. It was the result of my own desires.)」です。「空」という言葉への拘りから離れることを希望します。
(意識器官を持ってしまった)人間は、そのような実体のないものに翻弄されています。そこから、様々な苦悩や迷い、死の恐怖を生み出しています。
では、どうすればいいのか、、、、、、、?
注意)言葉や知識によって、「空」に辿り着ける訳ではありません。
でも、手段として活用すれば、結構、役立ちます。
全ては、『自らの欲望と向き合えるかどうか』にかかっています。
向き合えなかったら、(欲望の迷路の中で)ミイラ取りがミイラになります。仏教学者のように、(意味不明な)難解な教義を振り回して、(欲望の)底なし沼で溺れることになります。全ては、自らの欲望が生み出したものだからです。
やっと、仏教の話題です。
原始仏教と空の哲学は、この「意識は感覚器官である。」という知識を前提としています。
我々人間は、「眼耳鼻舌身」の五つの外部感覚器官以外に、六番目の感覚器官、即ち、『意識感覚器官(意知覚)』を持っています。これら人間の知覚を構成している六つの感覚器官を纏めて、(仏教では)『六根(眼耳鼻舌身意)』と呼んでいます。この六根が、人間の知覚世界を作り出しています。
これら六つの感覚器官から生じる知覚刺激は、心の中で眠っている欲望を揺り起こしてしまいます。目覚めさ欲望は、「行い」を生みます。「行い」は様々な辛い「結果」を生みます。つまり、感覚器官は、「欲望」や「行い」の根(原因)になっています。
それ故、余分な欲望を揺り起こさない為に、「六根清浄( Calm down the six desires arising from the six senses )」と唱えます。「六つの感覚器官から生じている六つの欲望を鎮めることが大切」と説きます。
ちなみに、欲望を揺り起こさなかった知覚刺激は、雑音として、そのまま心の中を素通りしていきます。「行い」も生じません。「結果」も生みません。
下の写真は、高尾山薬王院の登山道に設置されている「六根清浄の石ぐるま」です。
六根清浄の石ぐるま |
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高尾山薬王院の六根清浄の石ぐるまです。 石ぐるまの六面には、眼耳鼻舌身意の六文字が刻まれています。 高尾山薬王院:東京都八王子市高尾町2177 我々知的生命体は、眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官を持っています。この六つの感覚器官を、仏教では『六根』と呼んでいます。この六根が我々の知覚世界を作り出しています。 この六根から生じている知覚刺激によって、心の中で眠っている欲望が揺り起こされます。そして、(その目覚めた欲望から)『行い』が生じています。これが、同時に、迷いや苦しみの原因にもなっています。『行い』は、様々な辛い『結果』を生み出してしまうからです。 それ故、これら六つの感覚器官(六根)から生じている六つの欲望を鎮めることが大切です。六根清浄です。( Calm down the six desires arising from the six senses ) 意識は、心の中を知覚対象とした感覚器官です。(意識知覚として)実感できるが故に、全ては心の中の事象です。実体ではありません。夢と同じように、自らが生じさせたものです。 愛も憎しみも、そして、死の恐怖も、全ては意識の知覚対象であるが故に、心の中の事象です。「一切は空なり( Everything is empty. It was the result of my own desires. )」、夢と同じように、実体のないものです。蝉の抜け殻のように、言葉の殻は持っていても、中身は空っぽです。 問題は、そのような実体のないものに、我々人間は振り回されていることです。そこから様々な『行い』を生じさせています。そして、悲しいことに、『行い』は、悲喜こもごもの『結果』を生み出しています。<<ここ重要。(行いから、結果が生まれています。) 残念ですが、我々知的生命体は、このような宿命(Rules of intelligent life that are born with.)の元に生まれています。意識を持ったが故に、それに翻弄されています。 この現実は否定できません。 それ故、せめて、そのような愛や憎しみなどの実体の無いものへの拘りから離れる事が大切です。 いたずらに、これらの実体のないものに翻弄される前に。 我々人間は、知的生命体プロトタイプ初号機として、色々と欠陥が多過ぎるような気がします。まだまだ、改善の余地があります。 この広い宇宙には、我々と同じような知的生命体が存在しています。彼らも同様に、この宿命に翻弄されているのでしょうか。それとも、克服しているのでしょうか。他人事ながら、気になります。 高尾山薬王院は、古来の山岳信仰と仏教の融合物に見えます。素朴な烏天狗の世界が、透明な仏教の世界に昇華しています。 うっ、、おかしい。け(気)を感じる。「もののけ」に見つめられているような気がする。ヒョイと視線を上げると、カラスと目が合ってしまった。カラスは、慌てて視線を逸らした。顔を背けて、知らんぷりをしている。 多分、昔の修験者たちも、カラスの視線とバトルをしていたのでしょう。彼らは、結構、弱気です。 森には、もう一人の「け(気)を持ったもの(けもの)」が存在しています。烏天狗の世界です。彼らも、そこそこ高度な意識器官を持っているようです。こちらの心を読んできます。心理戦のバトルに引き込まれてしまいます。彼らは、自らの悪意に、後ろめたさも感じているようです。見つめられていることが分かりながらも、目を合わせようとしません。顔を背けています。でも、体は固まっています。人間よりも、ある意味、モラリストですね。 |
人間の心は欲望で満たされています。だから、心の中を覗き込んでも、欲望の荒波しか見えません。
でも、運悪く、その荒波が静まった時、その底からは、受け入れ難いものが見えてきます。
辛い、辛い、六根清浄の世界です。
現実を、あるがままに受け入れて頂くことを希望します。焦って言葉を振り回しても、余分に苦しむだけです。
「知覚と行いと結果」の因果関係
我々人間にとって「意識する。」とは、「意識感覚器官で知覚する。」ことを意味しています。その意識知覚しているものは、脳内部の事象です。
それは、夢を思い出して頂ければ、実感が湧くと思います。夢の時、瞼は閉じている訳ですから、(その意識知覚している夢のイメージは)眼からの信号ではありません。自らが脳内部に生じさせたものです。
そして、最も大切な事は、その意識知覚された信号から、様々な『行い』が生じていることです。ちょうど、視覚や聴覚から、様々な『行い』を生じているように、意識知覚からも『行い』が生じています。<< (ここ重要!。みんな、ここを見落しています。)
みんな、言葉ばかりを見つめています。現実を見ていません。『行い』を見ていません。
『意識知覚』は、心の中で眠っている様々な『欲望』を活性化させます。逆恨みなどのように、全く根拠のないところからも、『恨み』などを生じさせています。そして、その(活性化された)欲望は様々な『行い』を生じさせます。その『行い』は『結果』を生みます。
恨みは様々な行いを生みます。その行いは、様々な辛い結果を生み出しています。この原因と結果の因果関係を観察する事が大切です。
因果関係: 知覚 -> (欲望の活性化) -> 行い -> 結果
知覚は『行い』を生じさせます。
意識知覚も『行い』を生じさせています。
言葉によって理解するのではなくて、原因と結果の因果関係に目を向ける事が大切です。
なお、欲望を活性化させなかった知覚刺激は、雑音として、そのまま、心の中を素通りしていきます。何も『行い』を生じさせません。
(このような『行い』の原因となっている)知覚は、三つの要素から構成されていると、原始仏教は考えていました。感覚器官と、その知覚対象と、そこから生じる知覚刺激の三つです。
知覚を構成する三つのもの |
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知覚は三つの要素から構成されています。 1.感覚器官(Sensor) 2.その知覚対象(Object) 3.そこから生じている知覚刺激(Sense or Signal)です。 例えば、海を泳いでいるイルカを見たら、頭の中には「イルカ」というイメージが生じます。 原始仏教は、認識論を、現代哲学のような(言葉に拘った)空想の問題としてではなくて、具体的な情報学や現象論と捉えています。ただ単に、原因と結果の因果関係を指摘しているのみです。合理的です。 因果関係:知覚対象-> 感覚器官-> 知覚刺激-> (欲望の活性化)-> 行い-> 結果 |
十八の界
我々人間は、このような感覚器官を六つ持っています。意識は感覚器官の一種です。
六つの感覚器官『六根(眼耳鼻舌身意)』と、その六つの知覚対象と、そこから生じている六つの知覚刺激の合計十八個の構成要素によって、人間の知覚は構成されています。これを原始仏教では次のように述べています。
アーナンダよ、次にあげる十八の界(構成要素)、すなわち、眼と色形と視覚、耳と音と聴覚、鼻と香りときゅう覚、舌と味と味覚、皮膚と触れられるべきものと触覚、心と概念と意識の諸界がある。
出典「バラモン教典 原始仏典」P488 中央公論社
知覚世界は十八の要素によって構成されている。
「眼と光と視覚、耳と音と聴覚、鼻と香りときゅう覚、舌と味と味覚、皮膚と物と触覚、意識と色形(Image)と意識知覚 」の十八個によってである。
この主張を一覧表にまとめると下記のようになります。
物理的に言葉の使い方が不適切だったので、多少、修正しています。眼が知覚している物理信号は、光です。色形ではありません。
意識感覚器官については、その知覚対象を、仏教では、『色』と呼んでいます。現代語に訳すなら、「イメージ」が最もピッタリします。意識は、脳内部の色形などのイメージ(信号の塊)を知覚対象とした感覚器官の一種です。この感覚器官から生じている『意識知覚』が、様々な『行い』の原因になっています。ちょうど、視覚や聴覚が、行いの原因になっているように。意識知覚も、『行い』を生み出しています。
人間の知覚を構成する十八の界(構成要素) 人間の知覚世界を作り出している十八の構成要素 | |||
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No | 知覚対象 (Object) | 感覚器官 (Sensor) | 知覚刺激 (Sense) |
1 | 光 | 眼 | 視覚 |
2 | 音 | 耳 | 聴覚 |
3 | 香 | 鼻 | 嗅覚 |
4 | 味 | 舌 | 味覚 |
5 | 物(体) | 肌(身) | 触覚(体感) |
6 | 色(Image) | 意識 | 意識知覚(意知覚) |
中部経典の主張を一覧表に纏めてみました。 物理的に言葉の使い方が不適切だったので多少修正しています。 我々人間の知覚は、六つの感覚器官(六根)と、その知覚対象である六つの事象と、そこから生じている六つの知覚刺激の合計十八の要素から構成されていると述べています。 意識も、このような感覚器官のひとつだと理解しています。 触覚は、厳密には、二つに分類されます。 肌が物に触れた時に生じる触覚と、 体から生み出される体感です。(病気の痛みや空腹などの) 前者は、知覚対象が外部にありますが、後者は内部にあります。 これに関しては、仏教でも混乱が見られます。(外部を知覚対象とした)五感は、「眼耳鼻舌身」ではなくて、正確には「眼耳鼻舌肌」と表記すべきです。実際、この経典でも、「皮膚と触れられるべきものと触覚」と理解しています。肉体から生み出される(痛みなどの)体感とは表現していません。 どうでもいい些細な問題ですが、でも、自分の性格としては、論理的矛盾は、やはり気になります。(言葉と現実が、正確に対応していません。) |
(今問題になっている)意識感覚器官の知覚対象は、脳内部の事象です。心の中の事象です。だから、それらは全て自らが生じさせたものです。夢と同じように、実体の無いものです。
我々知的生命体は、そのような意識知覚された信号から、様々な『行い』を生じさせています。実体のないものから、『行い』を生み出しています。
因果関係:六つの知覚対象->六つの感覚器官->六つの知覚刺激->六つの欲望->行い->結果
『行い』と『結果』は一つです。体が一個なので。
言葉で表現されている全てのものも、同様に、自らが生じさせたものです。それらは、意識の知覚対象であるが故に、実体ではありません。実体のないものです。愛も憎しみも、生も死も、言葉で表現できるが故に、即ち、(意識知覚によって)実感できるが故に実体ではありません。自らが生じさせた脳内部の事象です。
金剛般若経流に表現するなら、
「実感できるが故に、実体に非ず。だから、これには(実体でないから)言葉で名前が付いている。」
イルカはイルカに非ず。故に、これをイルカと名ずく。
皮肉なことに、実感できるが故に、実体ではありません。それらは、全て、感覚器官から生じている知覚刺激に過ぎません。それらの信号が、脳に流れ込んでいるに過ぎません。そして、大切なことは、その知覚刺激から「行い」が生まれていることです。「行い」は、様々な辛い「結果」を生みます。
全ては、夢と同じものです。蝉の抜け殻と同じように、言葉の殻は持っていても、中身は空っぽです。実体のないものです。「一切は空なり」です。
最初期の原始仏教には次のような一文があります。
自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。
出典「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 P236 中村元訳 岩波書店
人々は、自らの知覚しているものを、実体だと思っています。そして、(実体だと思っているが故に、)それに拘っています。「自らの知覚しているものは、存在する実体だ。」という見解に固執しています。
「(自我が知覚している)世界は、実体のないものだ。空っぽだ。」と気付く事が大切です。そうすれば、(自我が生み出している)全てへの拘りを乗り越えることができます。死の恐怖や苦悩からも解放されます。
原始仏教の頃から、「空っぽ(Empty)」の概念自体はありました。でも、『シューニャ(空)』という言葉は成立していませんでした。
この『シューニャ(空)』をキャッチコピーにして、売り出したのが大乗仏教の始まりだったのでしょうか。上座部仏教が表面的形式論に陥ってしまったので、そのアンチテーゼとして。丁度、クリスチャンのアンチテーゼとして、ピューリタンが生じたように。
空っぽ
空の哲学は、「意識知覚している全ての事象は、自らの欲望が生じさせた(実体のない)ものである。」、即ち、「一切は空なり。 (Everything is empty. It was the result of my own desires.)」と説きます。蝉の抜け殻のように、言葉の殻は持っていても、中身は空っぽです。
そのような実体のないものへの執着や拘りが、迷いや苦しみの原因になっている。だから、それから離れることが大切だと説きます。
仏教学者は『空』という言葉に執着し、「空には、『空性』と呼ばれる深淵なる真理が潜んでいる筈だ。」と拘っています。空を、言葉で表現可能な知識、即ち、『空性』と理解しようと四苦八苦しています。何とかして、(言葉で組み立てられた)自らの知識体系の中に、『空』を(言葉で)組み込もうと悪戦苦闘しています。ダッチロールの果てに、難解な教義を作り出しています。
彼らは、『空』を言葉で理解しようと一所懸命です。そして、『空性』という便利な言葉を見つけて、なんだか『空』が分かったような気分に浸っています。人々は、言葉を見つけて安心しています。「自らの知識体系の中に、(空の真理を)言葉で組み込むことに成功した。」と満足しています。
この欲望が、『空性』という言葉への拘りを生み出しています。その正体は、自らの欲望への拘りです。
安心する為だけに、或いは、満足する為だけに、彼らは、膨大な不毛の努力を繰り返しています。
現実は、ただ単に、
言葉が生み出す欲望に執着し、拘っているので、見当外れの(無駄な)努力を繰り返しています。それらが、全て自らの欲望から生じたものであるが故に、余計、その欲望に執着し拘っています。
言葉への執着は、それを生み出した欲望への執着です。それ故、人々は、その言葉の絶対性や根拠に拘っています。
人々は、「全ての事象は、言葉で表現できる筈。」と拘っています。
(言語文法上は、)空(empty)を「空性(emptiness)」と名詞化して表現することによって、「真理だ。存在する実体だ。実体だから、その存在を(空性という)名詞を使って名付けることができる筈だ。」と、一所懸命です。
つまり、
「『空の真理』は『空性』という名詞で名付けることができる筈。ついに、(言葉で組み立てられた)自らの知識体系の中に、『空の真理』を(空性という名詞で)組み込むことに成功した。『空の真理』を言葉で表現することに成功した。」と。
『空』には何もありません。
何もないから、仕方なく、言葉で表現する都合上、(「何もない。」という意味を込めて)『空っぽの哲学』、略して、『空の哲学(Empty philosophy)』と便宜的に呼んでいるに過ぎません。『空性』という深淵なる真理を説いている訳ではありません。それ故、、、、、
空という言葉への拘りから離れる事が大切です。
仏教への拘りから離れる事も大切です。
「空を否定しろ。」という意味ではありません。念の為。
そのような「否定と肯定の心の働き」から離れる事が大切です。否定と肯定は、共に拘りに過ぎないからです。拘っているからこそ、「否定したい。」とか、「肯定したい。」という(両極端の)欲望に振り回されます。この欲望の働きから離れることが大切です。
それ故、そのような拘りから離れたら、「否定と肯定の心の働き」からも解放されます。
『空』という言葉への拘りからも離れることができます。『空』という言葉への拘りを生み出している欲望からも解放されます。
第三の道(拘りから離れる道)
「否定の道」でもなく「肯定の道」でもなく、そうような否定と肯定への拘りから離れる「第三の道」もあります。
「否定と肯定以外、道はない。」、「白でなければ黒だ。黒でなければ白だ。いや、その真ん中を取って、灰色もある。物事は、『白、灰色、黒』に分別される筈だ。」と拘っている人々の場合、このような(両極端への拘りから離れるという)第三の道は、にわかには、受け入れ難いかもしれません。心の葛藤に苛まれると思います。
「否定の道」と「肯定の道」以外に、或いは、「否定でもない道」、「肯定でもない道」、即ち、「真ん中の道」以外に、そのような両極端への「拘りから離れる道」が存在している事は想定外です。
人々は、「メーターの針は、否定と肯定の両端の間の何処かを指している筈だ。左でもない、右でもない、真ん中を指していることもある筈だ。」と拘っています。真ん中の存在を見つけて、仏教中道論を説いている人々もいます。
しかし、第三の道は、その信念の範囲外です。針の指している範囲外にあります。自らが持っている価値観の信念から大きく外れています。
いや、その信念自体を否定しているように見えます。「価値観の無意味さを指摘し、その価値観への拘りから離れることが大切」と主張しているからです。
我々人間には、価値観に従って生きる道以外に、そのような価値観への拘りから離れ、原因と結果の因果関係を観察し、その因果関係に基づて、自らの「行い」を律する道もあります。
価値観のメーター |
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価値観は、「肯定と否定の両極端」より構成されています。「針は、この両極端の間の何処かを指している筈」と思い込んでいます。人々は、このメーター(価値観)に従って生きています。「これ以外に道はない。」と固く信じて。 針が指す事の出来ない対象が存在するなどとは、夢にも思っていません。 でも、もうひとつ道があります。そのような価値観への拘りから離れて、原因と結果の因果関係を観察する道です。その観察結果で、自らの行いを律する道です。 物事は、「肯定の道」、或いは、「否定の道」から構成されていると思い込んでいます。いや、その真ん中を取って、「肯定でもない道」、「否定でもない道」、即ち、「中道」もあると思い込んでいます。物事は、「肯定、否定、中道」から構成されていると思っています。 そのような「肯定、否定、中道」以外に、「拘りから離れる道」もあります。 仏教は中道ではありません。中道への拘りから離れることを希望します。 |
価値観は、「肯定と否定の両極端」、即ち、「いい、わるいの両極端」、「価値と反価値の両極端」、「愛と憎しみの両極端」、「神と悪魔の両極端」、「善と悪の両極端」、「光と影の両極端」、「生と死の両極端」から構成されています。
人々は、この価値観と、その価値判断に従って、(物事を両極端のどちらかに分別しながら)暮らしています。この枠組みの中で物事を判断し、行動しています。「これ以外に道はない。」と固く信じて。
この価値判断を、如何に的確に出来るかが、知性の象徴だと思っています。「言葉と、価値観への拘りから離れる道」など、想像だにしていません。知性の象徴を捨てることなど、狂気の沙汰だと思っています。「(陸も見えない)広い海原のど真ん中で、浮き輪から手を放すなど信じ難い暴挙だ。」と、思い込んでいます。
それ故、これを克服する事は、意外と困難です。痛い思いをしないと、自らの意思の力だけでは、まず、不可能です。
一歩下がって、観察される事を希望します。否定と肯定の両極端の道以外に、そのような両極端への拘りから離れる第三の道もあります。(とりあえず、「いい、わるい」を抜きにして、)(即ち、信念を側に置いて、)原因と結果の因果関係に目を向けてみる道です。そこから、自らの行いを律する道です。
もの事は、言葉によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎません。
Things are not revealed by words. It is merely that actions produce results.
原因と結果の因果関係を観察して、自らの行いを律することを希望します。「いい、わるい」の価値判断に翻弄されないことを希望します。
参考に、人々が拘って止まない価値観(両極端)の形式的側面を下記に記します。
価値観は、「価値と反価値の両極端」、「いい、わるいの両極端」、「愛と憎しみの両極端」、「神と悪魔の両極端」、「善と悪の両極端」、「光と闇の両極端」、「光と影の両極端」、「生と死の両極端」などの両極端から構成されています。
参考)価値観(両極端)の天秤 |
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天秤の右側は、人々が追い求めている「美味しいもの」です。左側は、忌み嫌っている「忌まわしいもの」です。 価値判断が比較の問題に過ぎない限り、価値観は、価値と反価値の両極端から構成されます。 価値が大きくなれば、バランスを取る為に、(その反対側にある)反価値も大きくなります。 天秤の両端のように、常に、バランスしています。『比較』行為の宿命です。 でも、人々は、綺麗に見える側(Right)にばかり、しがみついています。執着しています。拘っています。 反対側(Left)は忌み嫌っています。こびり付いた魚の臭いを洗い落とそうと、もがくように、反対側(Left)の重い影を振り払おうと、いつも苛立っています。 生の反対側にある死の影に、いつも怯えています。 可愛さ余って憎さ百倍。 愛が大きい分、一度、歯車が狂ってしまったら、憎しみも大きくなってしまいます。 心の中に空いた大きな穴が崩れ落ちないように、憎しみのつっかえ棒で必死に支えています。 空いた穴が大きければ大きいほど、大きなつっかえ棒が必要です。 人々は、愛を失った惨めさを、憎しみで(必死に)支えています。(体が)崩れ落ちないように。 注)価値観のことを、仏教では何と表現 仏教では、価値観のことを『両極端』、価値判断のことを『分別智』と表現しています。 「価値判断する」とは、「物事を両極端のどちらかに分別する心の働き」を意味しています。 |
注)仏教は中道ではありません。
そのような「右、中、左」という価値観への拘りから離れる事が大切です。「右の道や左の道、或いは、右でもない道、左でもない道(即ち、真ん中の道)」への拘りから離れる事が大切です。
中道への拘りは、結局、両極端への拘りに過ぎません。右左に拘っているからこそ、その真ん中への拘りも生じてしまいます。巧妙な言い逃れです。
拘りから離れる道 |
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仏教は中道ではありません。 そのような「右の道、中の道、左の道」への拘りから離れることが大切です。 人間の価値判断は、「右の道、中の道、左の道」のどこかを指しています。その檻の中で、思いを巡らしています。そして、その檻の中で動き回れることを、「自由だ」と錯覚しています。 でも、我々には、もうひとつの選択肢があります。そのような価値判断への拘りから離れる道です。その檻を抜け出す自由です。 |
ちなみに、「右の道や左の道、或いは、右でもない道、左でもない道」という論理パタンは、原始仏教では、よく使われている表現です。「いい、わるい」の価値観(両極端)への拘りを表現する場合に、よく使われます。
注)微妙な仏教用語には、英語を併記しています。
他のページは、機械翻訳に掛けても、そこそこの結果が得られます。でも、仏教に関するページだけは、とんでもない誤訳が出力されます。英語の世界には、それに相当する概念と、それを表現する言葉がない為と思われます。日本語でも、仏教用語は、結構使い方が特殊です。
そこで、そのような言葉には、英語を併記しています。特に問題となるのが、「空」や「色」、「六根」です。
「空」は「sky」と、「色」は「color」と、「六根」は「six roots」と出力されます。
空: empty 「空っぽ」という物理的用語を使用。抽象的概念ではありません。
色: image 意識感覚器官の知覚対象を「色」と呼んでいます。
六根: six sensers 眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官を意味します。
「一切は空なり」や「色即是空」、「六根清浄」、「宿命」などの複数の単語から構成された用語は更に悲惨です。単語を置き換えただけで意味が通じません。そこで、意味を日本語で表現して、その意味を英語に翻訳しています。できるだけ物理的な用語、つまり、「行い」を表現した言葉を使っています。心理的な用語は使わないようにしています。
宿命: Rules of life that are born with.
六根清浄: Calm down the six desires arising from the six senses.
一切は空なり: Everything is empty. It was the result of my own desires.
色即是空。空即是色: Image is empty. Empty is image.
一切は空っぽなり。存在する実体ではありません。縁によって生じているものでもありません。全ては、自らの欲望が生じさせたものです。
この内容は、現代の科学教の根本教義に反するかもしれません。しかし、冷酷な現実です。それに宗教と関りがあるので、誤解覚悟で情報だけ残します。
意識が知覚している架空世界(仮想現実)には、古来の言葉を使えば、『ゆめ(夢)、うつつ(現)、まぼろし(幻)』の三つがあります。この三つは、作り出される原因が、夫々、異なっています。
意識体験している三つの世界 |
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意識体験している世界は、 ゆめ(夢)、 うつつ(現)、まぼろし(幻)の三つより構成されます。 うつつ世界は、さらに、現実世界と常識世界に分けられます。 |
「まぼろし体験」は、普段、体験することのない世界です。
世間では、死後幻覚とか、臨死体験、お迎え現象、UFOの拉致体験、金縛りなどと呼ばれています。いかがわしい心霊体験の一種と思われています。
睡眠不足や生死の境を彷徨った時のように、心に大きなストレスが掛かった時に、体験し易いみたいです。
宗教体験の背景にも、往々にして、この「まぼろし体験」が潜んでいます。
「神や仏との遭遇体験」や「後光体験」なども、この現象の一種です。(今までに経験したことのない)満ち足りた安らかで感動的な体験なので、神や仏に遭遇したと錯覚します。
ゴータマが悟りを開いたのも、「苦行が原因で生じる「まぼろし体験」が切っ掛けだったのでは?。」と、推測しています。まぼろし体験なら、「意識が知覚しているものは、全て自らの欲望が生じさせたものであること。」、即ち、「空っぽ」に簡単に気付くからです。
ちなみに、意識が感覚器官である事に気が付いたもう一人の人物、フロイトは、「コカインによる薬物幻覚が切っ掛けだった。」のではないかと推測しています。通常の体験だけでは、ゴータマやフロイトの結論には辿り着く事は不可能だからです。実際、誰も、(この二人以外、)辿り着いていません。
二人は、心の中を覗き込む技術に長けていたので、(まぼろし体験を手掛かりに)これに気が付いたのでしょう。
意識が感覚器官であることに気が付いた人物は、人類の歴史の中で、ゴータマとフロイトの二人だけでした。
うつつ(現)
うつつ(現)世界は、通常の覚醒時の体験です。人々が現実だと思い込んでいる世界です。
常識世界と現実世界という全く異質な二つの世界の融合物になっています。
この世界は、外部感覚器官からの信号で作り出されています。外部感覚器官が知覚している現実世界と、意識が知覚している架空世界は、ほぼ、対応関係にあります。それ故、目で見たコップを、手で掴む事ができます。素朴な唯物論を信じても、(日常生活の範囲内なら)不都合を感じる事はありません。
ただ、現代物理学のように、日常と遥かに隔たった極限の物理現象を扱うようになってくると、様々な不具合に直面しています。現代物理学は、原子や分子よりも遥かに小さな素粒子の世界とか、太陽系よりも遥かに広大な銀河系や、その銀河の集合体である宇宙全体を扱うようになってきました。
しかし、これらの日常生活と遥かに隔たった極限の物理世界では、日常の常識が通用せず現代物理学は、混乱しています。物理学者は苦労しています。
このうつつ世界は、動物進化五億年の実績によって最適化されています。だから、日常生活の範囲内なら問題ありません。しかし、それを超えた世界は(生きた事がないので)最適化されておらず、(現代物理学のように)様々な不具合に直面しています。
うつつ世界では、意識知覚しているイメージは、外部感覚器官からの信号と、そこから連想される過去の記憶痕跡の融合物になっています。
それ故、どちらの情報に心を奪われるかによって、二つの世界に分類されます。外部感覚器官からの情報に注意を傾ければ、見ている世界は現実世界になります。過去の記憶痕跡に振り回されたら、見ている世界は過去の常識世界になります。
現実と常識を区別することは、極めて困難です。しかし、肉体の行動には大きな違いを生じさせます。行動の結果が異なります。現実的行動は成功する可能性が高くなりますが、常識的行動は、(現実に基づいていないので、)失敗する可能性が高くなります。「成功、失敗」という厳しい現実において、大きな違いを生じさせてしまいます。
うつつ(現)体験の中身 |
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うつつ(現)体験の時、意識知覚している情報は、外部感覚器官からの信号と、(そこから連想される)過去の記憶痕跡との融合物となっています。この過去の記憶痕跡によって、外部感覚器官からの信号の意味を理解しています。 過去の記憶痕跡や言葉ばかりに心を奪われていると、その意識知覚している世界は常識世界となります。 外部感覚器官からの信号に心を傾けると、現実世界となります。その区別は難しいけど。 常識世界からは常識的行動が生まれます。 現実世界からは現実的行動が生まれます。 そして、そこから、悲喜こもごもの結果が生み出されています。 現実的行動は成功する可能性が高くなりますが、常識的行動は失敗する可能性が高くなります。運不運に左右されます。 錯覚してはいけない事は、結果は行動から生まれている事です。言葉からは生まれていません。 現実的行動の結果も、常識的行動の結果も、そして、思想信条に基づく空想的行動の結果も、共に、同じ肉体の世界に生み出されています。 結果が生み出されている世界は、全て、同じです。この肉体が存在している世界です。意識と言葉が作り出している架空世界の中ではありません。 そして、ここに想定外の不幸が隠されています。現実だと思っていたものが、実は空想に過ぎなかったので、しばしば、トンチンカンな結果になっています。 残念ですが、うつつ世界は、人々が思っている程、確固とした確かな世界ではありません。 常識世界と現実世界が、区別されることなく混沌と混じり合っています。何が常識で、何が現実で、何が思い込みか、判別できなくて、いつも苦労しています。人々は、思い込みや常識を現実だと錯覚しています。そして、そこから「行い」を生じさせています。 注意深く、『行い』と『結果』の因果関係を観察する事が大切です。(欲望の働きを無視して。) 見つめているものは、多くの場合、現実ではありません。それとは別のものです。言葉や常識、思い込み、過去の記憶です。 |
ゆめ(夢)
ゆめ(夢)世界は、夜、寝ている時に体験します。
この世界は、(心の中で蠢いている)欲望やストレスによって作り出されています。これらの彷徨っている欲望が、(出口を求めて)意識器官に向かって雪崩れ込む事によって起っています。この時に体験している架空世界は、外界とは切り離された世界です。いわゆる、夢の世界です。現実離れした奇想天外なフワフワとした世界です。
夢の目的は、フロイトが主張しているように、願望充足行為です。様々な社会的制約から、(肉体的行動で解消出来ない)困った欲望を、意識器官に向かって放出する事によって、そこで、架空行動を生じさせ、その架空体験によって架空の願望充足に耽っています。性欲などが、その代表です。
この結果、(この架空の願望充足行為の結果、)副作用として夢が形成されています。
夢が覚醒時の行動に影響を与えない原因も、ここにあります。夢は願望充足行為なので、行動の原因となる欲望が、夢によって解消されるからです。(願望が満たされて)行動の原因が消滅したら、覚醒時に行動が生じることはありません。肉体的行動は、ストレスが運動器官に向かって放出されることによって起こります。それ故、心にストレスが無ければ、行動は起こりません。
なお、この夢と同じことを、覚醒時に行っている行為を、世間では、『白日夢(Daydream)』と呼んでいます。白日夢も、(ゆめ同様)意識器官を使った架空の願望充足行為です。
ゆめ体験の詳細は、「フロイトの夢理論」を参照下さい。
ゆめ(夢)体験の中身 |
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夢見ている時、意識の知覚対象(夢)は、うつつ体験のように外部感覚器官から流入した信号で作り出された世界ではありません。瞼は閉じている訳なので。 心の片隅で満たされないまま蠢いている欲望(性欲等)と、過去の記憶痕跡との融合物になっています。それらが、連想によって連なり、奇想天外な夢物語を生み出しています。 即ち、夢は、フロイトが主張するように、意識器官を使った欲望の発散行為、即ち、願望の充足行為です。 ここに、夢がうつつ(現)世界に影響を与えない原因が隠されています。夢によって、願望が充足されるからです。願望が充足されたら、(『行い』の原因が消滅するので、)(肉体的)『行い』は起こりません。 意識器官を持った知的生命体の場合、快楽原則、現実原則、夢過程の三つの方法を使って願望を充足しています。 |
夢と願望充足
フロイトは、「夢は願望充足行為である。」と述べています。
我々人間は、心の中のストレスや願望を、三つの方法を使って充足しています。快楽原則、現実原則、夢過程の三つです。
三種類の願望充足 |
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心の原則は、溜まったストレスやテンションを外に放り投げて、自らは無興奮な快適な状態になる事です。 我々人間は、三つの方法を使って、このストレスの発散を行っています。快楽原則、現実原則、夢過程の三つです。 |
快楽原則
最も基本的な発散方法は、ストレスを外部に向かって放出することです。放出先は問いません。
仕事のストレスを、週末の趣味やスポーツ、ショッピングで発散する行為です。子供がよく泣くのもストレスの発散行為です。気にいらない事があると、すぐ泣きますが、泣き終わったら、ケロッとしています。ストレスが発散できたので。
机を蹴飛ばして、当たり散らすのも、ストレスの発散行為です。皿を壁に投げて、粉々に割るのも同様です。スカッとします。
この行為の場合、「ストレスの原因」と「発散行為」の間に因果関係は存在しません。要は、発散して、スカッとすればいいだけです。
現実原則
ストレスが重度になると、ただ単に発散しただけでは不快感から解放されません。現実と向き合い、ストレスの発生源を止める必要が生じます。
例えば、空腹の場合、イライラきて当たり散らしても、空腹は癒されません。水を飲んでも、喉元を通り過ぎる一瞬だけです。直ぐ現実に引き戻されます。
このような場合、現実と向き合い、食べ物を探して食べる必要があります。動物は、簡単に食べ物が見つかる訳ではないので、いつも苦労しています。たまたま、うまく見つけられたら、それを覚えておいて、次回からは、それを繰り返します。
人間の場合も、食う為に、苦労して仕事を覚えています。失業のトラウマに追い立てられ、まだ、腹が減っていないにも関わらす、セッセセッセと仕事に勤しんでいます。(中途半端に賢いと、辛いですね。)
ここに始めて、「ストレス(欲望)」と「行動」の間に、因果関係が生まれます。即ち、学習の成立です。
夢過程
夢過程では、ストレスを意識器官に向かって放出し、架空行動を生じさせ、その架空行動によって、ストレスを発散しています。その副作用として夢が生じています。
我々人間は、社会的制約や道徳によって、全てのストレスを外部に放出できる訳ではありません。特に、性欲に関連したものは、そのまま、行動に移すことができません。多くの場合、犯罪行為になってしまうからです。
このような困った欲望は、意識器官に向かって放出し、架空行動を生じさせ、その架空行動で解消しています。
覚醒時の白日夢も同じです。意識器官を使った空想によって、ストレスを解消しています。ただ、その副作用として、重度になると、意識器官が白日夢に占拠されて、現実と向き合う事ができなくなっています。現実逃避が起こっています。
なお、夢が覚醒時の生活に影響を与えない原因も、ここにあります。行動の原因だったストレスが、夢によって解消されるからです。ストレスが無くなれば、発散する必要も無いので、行動も生まれません。
この意味で、「夢は願望充足行為である。」というフロイトの主張は、的を得ています。夢は、(意識器官を使った)ストレスの発散行為です。その副作用として、夢が生じています。
注)行動を生じさせる原因
現代において、行動を生じさせる原因は、様々な言葉で表現されています。「欲望」「ストレス」「テンション」「願望」etc
脳内部の何らかの興奮状態が、外部運動器官に放出される事によって、肉体的行動が生じています。この神経組織上の興奮を、どのような言葉で表現するか悩ましいところですが、ここでは言葉は余り気にしていません。下記のような因果関係にだけ注目して思考作業を行っています。
因果関係:神経組織上の興奮 -> 外部に放出 -> 行動
夢は、この神経組織上の興奮が、運動器官ではなくて、意識器官に向かって放出される現象だと考えいます。
自らの作り出した興奮状態で意識器官を駆動している夢は、思考活動とよく似ています。思考活動も、自らの作り出した信号で、意識器官を駆動して、肉体の架空行動(考える行為)を生じさせています。意識器官を受け身的に駆動するか、能動的に駆動するかの違いです。(能動の原因は、目の前の現実です。)
まぼろし(幻)
まぼろし(幻)体験のメカニズムは、よく分かりません。「あってはならないこと」が、原因になっているらしい時もあります。健康な人は、ほとんど体験しません。
まぼろし体験は、世間では、死後幻覚とか、臨死体験、お迎え現象、幽体離脱、もののけ、金縛りなどと呼ばれています。夢と同じで、ありとあらゆる体験があります。それ故、その体験内容によって、様々な呼ばれ方をしています。
現代においては、まだ、現象の存在自体が認められていません。半信半疑の状態です。当然、心理学も確立されていません。
(世間で心理学と称しているものは、大部分が『うつつ体験』に関する心理学です。『ゆめ体験』に関する心理学は、唯一、フロイトがあるのみです。『まぼろし体験』に関する心理学は、その痕跡さえありません。それ以前の問題として、現象の存在自体が認められていません。)
三種類の心理学 | |
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現象 | 心理学の現状 |
うつつ体験 | 現代の人々が心理学と思い込んでいるもの。 現代の心理学の殆どは、うつつ体験に関する心理学です。 |
ゆめ体験 | フロイトの夢理論のみ。 それ以外に見当たりません。 なお、現象の存在自体は、全員が認めています。 |
まぼろし体験 | 確立されていません。 それ以前の問題として、現象の存在自体が認められていません。半信半疑です。 |
心の状態が、そのまま映像化されます。
心が平安なら、『始めて味わう深い満ち足りた感動的な世界』を体験します。お花畑や天国を体験します。(今までに味わったことのない)感動的な深い満ち足りた満足体験です。だから、「神と遭遇した。」と、錯覚する人もいます。
恐怖心や猜疑心、憎しみなどの負の感情に支配されていると、もののけや悪霊に憑りつかれます。邪悪なものに追いかけられます。襲われます。怖い幻覚を体験します。
このタイプの人々は、自らが生じさせた邪悪な悪霊に、敵意を向けています。そして、「自らの偉大な意志の力で、邪悪なものを打倒した。」と、勝利宣言に浸っています。その敵意自体が悪霊の正体とも知らずに。
自らが体験しているものは、自らの心が生じさせたものです。自らの心が敵意や憎しみに満たされていると、その感情が幻覚化されて、邪悪な悪霊の姿となります。
まぼろし体験で意識知覚しているもの |
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まぼろし体験の時、意識の知覚対象(まぼろし)は、未知の原因と心の状態の融合物になっています。 心が平安なら、お花畑のような満ち足りた世界になります。始めて味わう深い満ち足りた満足体験です。それ故、「神と遭遇した」と錯覚するかもしれません。 恐怖心や、猜疑心、恨みなどの負の感情に支配されていると、恐ろしい悪霊の世界となります。悪霊に取り憑かれた幻覚を体験します。或いは、「キメラ」や「もののけ」などの邪悪なものに憑りつかれる幻覚かもしれません。 全ては、自らの心が生じさせたものです。 |
非常にリアルな体感を伴っているので、しばしば、「死後の世界に迷い込んだ。」とか、「神と遭遇した。」「UFOに拉致された。」「もののけに憑りつかれた。」「怖い悪霊に追いかけられた。」「体から、もう一人の自分が抜け出した。」などの、うつつ体験と区別が付かないリアルな世界を体験します。記憶にも、うつつ体験と同程度に、シッカリ残ります。
なお、「もののけ」は悪霊の事ではありません。生き物の気配、即ち、「ものの気」の事です。ふと、背後に「ものの気配」を感じることがあると思いますが、そのような生き物の気配が、頭の上を飛び回り、(ギューンとアイスピックで突き刺すように)憑りついてくる現象です。その「もののけ」は、しばしば、(始めて体験する未知の世界への)恐怖心が具現化されるので、恐ろしいキメラ(合成動物)の姿をしています。頭がサルで胴体が蛇のような姿かもしれません。キメラの姿は、人夫々です。
慣れて、恐怖心が消えると、無味無臭のホワイトノイズの塊になります。しかし、残念ですが、「ものの気」自体は消えません。相変わらず、ホワイトノイズの塊が飛び回って憑りついてきます。
残念ですが、「もののけ」の姿と、「ものの気」の原因とは無関係なようです。
体験している幻覚自体と、その幻覚を作り出している原因は、関係ないみたいです。幻覚自体は自らの心の状態が作り出したものです。でも、その幻覚の原因や切っ掛けは、別の所にあるみたいです。
視野いっぱいに経典(漢字)が広がり、その背景から光の泉が湧き上がってくるかもしれません。或いは、ブッダが現れて、頭の後ろから後光が射しているかもしれません。
キリスト教の方は、キリストが現れて、その後ろから後光が射しているかもしれません。仏教と同じように、そのような絵や像も多いので、結構、多くの方がまぼろしを体験しているみたいです。宗教が異なっても、体験内容は同じなのですね。
それ以外の方は、自分が信じている宗教の象徴が目の前いっぱいに広がり、それが光の泉に包まれているかもしれません。
案外、宗教的インスピレーションを、ここから得ていたのかもしれません。(神や仏と錯覚して。始めて味わう深い満ち足りた感動的な世界なので。)
しかし、全ては、自らが生じさせたものです。
うつつ世界や、ゆめ世界と同じものです。全ては、仮想現実です。
このような「まぼろし体験」は、死の間際とか、遭難して生死の境を彷徨った時、寝不足の時などのように、心に大きな負担が掛かった時に体験し易いみたいです。
このような死の間際に体験する死後幻覚を、「お迎え現象」と呼んでいる人もいます。
或いは、断層の側などのように強い電磁場が発生している場所でも、体験し易いみたいです。富士山などのように、世の宗教的霊場は、このような傾向を持っているのかもしれません。(体調によっては、電磁場の変動で)霊や「ものの気」を感じ易くなるのかもしれません。
もちろん、大多数の健康な人々には、関係のない話です。この程度で、脳が誤動作する事はありません。脳を支配している欲望の方が、遥かに巨大で強力だからです。
問題は、その強大な力が弱まった時です。余りにも辛いと、だんだん、生への執着心を失ってきます。「このまま、、、、、、、楽になれるかも」と、感じてしまいます。その時に。。。
三蔵法師もインドへの旅で、辛いヒマラヤ越えを体験しています。寒さで寝れない日々が続いたと思われます。それに、高地なので酸欠にもなります。辛い長旅で、意識が朦朧とすることもあったと思います。まぼろし体験の条件が揃っています。
「悪霊が現れたが、経を唱えたら退散した。」の話は、次に述べる『対処療法』の話を彷彿とさせます。辛い長旅から、意識が朦朧として、まぼろしを体験したのでしょう。そのまぼろしは、自らの信ずる言葉を唱えることで沈静化します。対処療法としては。
本心では、結構、葛藤があったのかも。悪霊を見ているので。その悪霊は、彼自身の心が生み出したものです。綺麗な心だけでは無かったようです。物語では、法力の偉大さを演出していますが、心の底が透けて見えるようです。
もちろん、物語自体はフィクションです。しかし、全く、根拠のない話では無かったかもしれません。彼の体験談が元になっていたのかも。そう考えると、納得がいきます。各宿場での顔役(ボス)とのトラブルが、妖怪とのトラブルとして、面白おかしくデフォルメされています。荒唐無稽な妖怪の話を、各宿場の顔役とのトラブルと理解すると納得がいきます。宿場によっては、良い人や強欲な人など様々な顔役が居たのですね。当時の旅の苦労が偲ばれます。
対処療法
なお、対処療法は、(平凡ですが、)自らが信じている宗教の『祈りの言葉』を唱える事です。信じる宗教を持たない場合は、(「浮き上がればいいな」と)『望む』ことです。
まかり間違っても、絶対に、(「浮き上がれ」と)命令してはいけません。あくまでも、『望む』ことです。『祈る』ことです。
命令すると、金縛りの幻覚に具現化されます。命令の本当の姿は、「命令している者」の「命令されている者」への『不信感』でしかないからです。その『不信感』と、その不信感が生み出している『対立関係』、つまり、「幻覚を作り出している自分」と「幻覚を見ている自分」の間で対立が生じ、それがデッドロック、つまり、金縛りの幻覚に具現化されます。
或いは、悪霊が憑りついて、覆いかぶさってくる感覚かもしれません。(全ては心の問題なので、個人差、民族差が大きいと思います。)
未知の世界への恐怖がありますから、半分、仕方がない面もあります。でも、その恐怖と向き合う事を希望します。全ては、自らの生み出したものです。
決して、神や悪霊のせいではありません。「僕は悪くない。悪霊のせいだ。」と、責任転嫁して現実逃避すると、余分に症状を悪化させます。(自分の作り出したものに、)余分に苦しむ事になります。
普段は感じる事のない別の知覚によって、仮想現実が作り出されているだけです。
注)まぼろし体験の時、意識は覚醒しているので、このアドバイスを思い出す事は充分可能です。全ては自らの作り出したものである事を、実感できると思います。
現実世界への影響
なお、まぼろし体験は、(ゆめ体験と異なって)願望充足行為でないので、覚醒時の行動に強い影響を与える事があります。記憶にも、うつつ体験と同程度に、シッカリ残っています。胸騒ぎに促されて、現実世界を彷徨い、やがて原因に辿り着く事があります。辿り着けば、直観的に直ぐ分かります。「あっ!、これだ。」と。しかし、残念ながら、多くの場合、辛い現実です。現実は、自分の都合を構ってくれません。いつも、無視しています。遠慮なく突き付けてきます。(う~~~。)
まぼろし体験の詳細は、「意識体験している三つの世界」を参照下さい。