2020/11/17 うつせみ

空の哲学(Empty philosophy)は言葉によって明らかになる訳ではありません。
科学的知識によっても明らかとなりません。
当然、仏教によっても明らかにはなりません。
これらのものを否定することによっても明らかにはなりません。

否定と肯定の心から離れて、
原因と結果の因果関係を観察することが大切です。

8._ はじめに

空の哲学(Empty philosophy)と聞いたら、何か深淵なる真理が潜んでいると思われるかもしれません。しかし、実は、何も無いのです。何も無いので、仕方なく、言葉で表現する都合上、『空っぽの哲学』、略して、『空の哲学』と便宜的に呼んでいるに過ぎません。

確かに、『空』という言葉の殻は持っています。でも、言葉があるから、その殻の中に何かが入っているとは限りません。何も入っていません。空っぽです。
だから、言葉で表現すれば、非常に短くて

一切は空なり。(Everything is empty.)
或いは、
色即是空(しきそくぜくう)』(Image is empty.)

これだけです。

仏教学者が拘っている『空性(The truth of emptiness)』など存在していません。
それは、言葉と、その言葉が生み出している先入観への拘りです。「『空(mptiness)』という言葉が存在しているから、その言葉に対応した『空性(The truth of emptiness)』とでも呼べる真理が潜んでいる筈だ。」「言葉には実体が対応している筈だ。」という先入観への拘りです。

(emptiness)は、言葉や知識によって明らかになる訳ではありません。それらを否定する事によっても、明らかとはなりません。もちろん、何も無いよりは遥かにマシですが。

そのような『否定と肯定の心』から離れることが大切です。全ての拘りから離れることが大切です。
そして、原因と結果の因果関係を観察することが大切です。

ここでは、原始仏教と空の哲学(Empty philosophy)について述べます。

8._1 意識感覚器官

科学的知識によって、空は理解できます。しかし、それで、空に至るとは限りません。当然、科学的知識を否定しても至ることはできません。知識は、手段として役立ちますが、拘りの対象ではありません。
そのような科学的知識への拘りから離れることが大切です。

原始仏教や空の哲学は、『意識は、感覚器官の一種である。』という知識を前提にしています。

我々人間は、六種の感覚器官を持っています。『眼、耳、鼻、舌、体』の五感以外に、意識によって作り出された第六番目の感覚器官、即ち、意識感覚器官を持っています。この『眼、耳、鼻、舌、体、意』の六種を『六根(six roots)』と呼んでいます。

我々人間にとって、『意識する。』とは、意識感覚器官で知覚することを意味しています。

意識感覚器官の生物学的意味と工学的構造については、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。

スッタニパータ

原始仏教の教典『スッタニパータ』の中に、次のような興味深い一文があります。

雪夜叉が言った。「何があるとき世界は生起するのか?何に対して親愛をなすのか?世間の人々は何ものに執着しており、世間の人々は何ものに害(そこな)われているのか?」

師(ゴータマ)は答えた。「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親愛をなし、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに害われている。」

「それによって世間が害われる執着とは何であるのか?お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてくだされ。どうしたら苦しみから解き放たれるのであろうか。」

「世間には五種の欲望の対象があり、意(意識の対象)が第六であると説き示されている。それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから説き放たれる。」

出典「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 中村元訳 岩波書店

「世間には、眼、耳、鼻、舌、体の五感に根ざした五種類の欲望の対象がある。これ以外に、六番目の意(意識知覚)に根ざした欲望の対象もある。これら六つのものが知覚世界を作り出している。これら六つの知覚への愛着、執着が苦しみの原因になっている。」と、述べています。

即ち、「意識は五感同様の感覚器官である。これら六つの感覚器官からの知覚刺激(六根)が、欲望の原因になっている。そして、それへの執着が苦しみの原因になっている。」と述べています。

それ故、『六根清浄(ろっこんしょうじょう)』と唱えます。
六つの根(感覚器官)から生じている六つの欲望を静めることが大切だと説きます。

バラモン教典

パーリ語大蔵経の中部教典の中には、次のような一文もあります。

アーナンダよ、次にあげる十八の界(構成要素)、すなわち、眼と色形と視覚、耳と音と聴覚、鼻と香りときゅう覚、舌と味と味覚、皮膚と触れられるべきものと触覚、心と概念と意識の諸界がある。 

出典「バラモン教典 原始仏典」 中央公論社

原始仏教では、知覚は、感覚器官(Sensor)と、その知覚対象(Object)と、そこから生じる知覚刺激(Sense or Signal)の三つより構成されていると考えています。

知覚を構成する三つのもの

知覚を構成する三つのもの
知覚は三つの要素から構成されています。
1.感覚器官と
2.その知覚対象と
3.そこから生じている知覚刺激です。

人間は、『眼、耳、鼻、舌、体、意(Eyes,ears,nose,tongue,body,consciousness)』の六種の感覚器官(六根)を持っています。その感覚器官には、『光、音、香、味、物、色(Light,sound,aroma,taste,matter,image)』の六種の知覚対象が対応しています。そして、そこからは、『視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、意知覚(Eyes sense, ears sense,nose sense,tongue sense,touch sense,consciousness sense)』の六種の知覚刺激が生じています。合計18個の要素から、人間の知覚は構成されています。これを、十八の界(構成要素)と呼んでいます。
その主張を一覧表に纏めると、下図のようになります。

人間の知覚を構成する十八の構成要素

知覚を構成する十八の界
中部経典の主張を一覧表に纏めてみました。
人間には、六種の感覚器官が存在しています。
各感覚器官は、夫々三つの要素から構成されています。
合計、6*3=18 の界(要素)より構成されています。

仏教では、意識を感覚器官のひとつと捉えています。
その知覚対象を『色』と呼んでいます。
そこから生じている刺激を、『意知覚』と呼んでいます。

意識も、眼や耳同様の感覚器官であって、そこから生じる知覚刺激を、『意知覚』と呼んでいます。つまり、意識している事象のことです。その知覚対象を『色』と呼んでいます。現代語に訳すると、『イメージ』が最も近い概念です。即ち、イメージは、脳内部の事象ですが、意識は、脳内部のイメージを知覚対象とした感覚器官です。

それは、夢を思い出して頂ければ理解できると思います。夢の時、意識知覚しているイメージは、外部感覚器官からの信号で作り出された世界ではありません。瞼は閉じている訳ですから、眼からの信号は届いていません。自分自身が生じさせた世界です。心の中の事情で作り出された世界です。

意識知覚している事象は、『愛も憎しみも』『生も死も』『時間も空間も物質も』、夢と同じように、全ては、意識の知覚対象であるが故に、脳内部の事象、即ち、イメージです。それらは、心の奥底で蠢いている欲望が生み出したものです。夢と同じように、自らが生じさせたものです。夢と同じように、実体のないものです。

そのような実体のないものへの執着が、苦しみや迷いの原因になっています。そのような苦しみや迷いから解放されたいなら、意識が執着している物への拘りから離れることが大切だと説きます。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。

残念ですが、人々が執着して止まない言葉は、欲望を正当化する手段としてか使われていません。

注)意識という言葉の曖昧さ

意識感覚器官から生じている知覚刺激を、『意覚』と呼ばないで、『意知覚』と呼んでいるのは、まだ、意識感覚器官が一般常識ではない為です。どうしても、正確なコミュニケーションの為に、一般常識でない事項は、表現が冗長になってしまいます。『意識感覚器官』自体が冗長な表現です。例えば、『目』や『耳』などのように、この感覚器官を一語で的確に表現する単語が、まだありません。意識感覚器官の事を『意』、そこから生じている知覚刺激を『意覚』と表現しても、ほとんど、意味が通じないと思います。

もっと根本的問題として、『意識器官』と『意識感覚器官』の違いを的確に表現する単語がありません。意識器官はシミュレーションシステム本体を指し、意識感覚器官は、このシステムへの入力装置を指しています。でも、このような厳密な表現を使っても、「何のこっちゃ?」という印象しか残らないと思います。益々、混乱すると思います。

意識器官』と『意識感覚器官』、『その知覚対象』、『そこから生じている知覚刺激』、『その知覚刺激への先入観、思い込み』、『意識という言葉自体』、この六つを正確に識別し表現する事は、現代の言葉と知識の範囲では、まだ、困難です。世間では『意識』というひとつの言葉が流用されています。現実の『意識』という言葉は、これら六つを含んだ広い意味を持っています。曖昧です。

ここでは、コミュニケーションの効率上、新しい言葉を作らないで、既存の言葉を使った冗長な表現を使っています。仏教も含めて、前提条件無しで読めるようにする為です。それは原始仏教の精神でもあります。難解な仏教用語は極力使わないようにしています。仏教用語に毒されていない原始仏教の表現を使うようにしています。日々の生活実感で理解出来る言葉を使うように努力しています。(幸い、漢字は非常に造語能力の高い文字体系です。漢字を組み合わせた新しい造語が、ほとんど、ノーコストで伝わります。英語のように、本一冊書く必要がありません。)

もし、数学や物理学の発想に抵抗がないなら、『意識器官』と『意識感覚器官』、『その知覚対象』、『そこから生じている知覚刺激』、『その知覚刺激への先入観、思い込み』、『意識という言葉自体』は、夫々、『意識1』、『意識2』、『意識3』、『意識4』、『意識5』、『意識6』と、添え字を使って、読み替えて頂いても結構です。無駄な造語による混乱を避けることができます。『意識』がもっている六つの顔を、厳密に識別することが可能になります。頭の体操にもなります。

意識という言葉に関連した様々な用例と意味

日常用語正確な表現
意識する意識感覚器官で知覚する。
知覚している事象は、脳内部のイメージです。
意識しちゃダメ意識知覚している事象に拘てはいけない。惑わされてはいけない。
それは、現実ではありません。
意識してやった意識知覚している事象に基づいて行動した。
思い込みで行動した。
心の中に猜疑心や恨みなどの負の感情があれば、悪意に満ちた行動になります。
意識している世界仮想現実(virtual reality)
欲望によって生み出された脳内部の事象です。時間も空間も物質も自己も、宗教も哲学も科学も、現代の科学文明自体が、全て脳内部の事象です。意識にとっての知覚対象の世界です。

人間が意識体験している世界は、『ゆめ(夢)、うつつ(現)、まぼろし(幻)』の三つがあります。夫々、生み出されている原因が異なっています。
意識器官肉体の架空行動を制御する器官。
その目的は、未知の状況に直面した時、それに対応する新しいプログラムを作り出す事。即ち、意識器官はシミュレーターです。

我々人間は、未知の状況に直面した時に、意識器官を使った架空の試行錯誤(考える行為=シミュレーション)で、その状況に対応する新しいプログラムを作り出しています。

一方、他の動物たちは、直接肉体を使った試行錯誤で、新しいプログラムを作り出しています。肉体を使うか、意識器官を使うか、他の動物たちと人間では、その対処方法が異なっています。

意識器官を使った『考える行為』は、生物学的には、架空の探求反射(架空の試行錯誤)を意味しています。それは、肉体を直接使った現実の探求反射に対応しています。

生物進化上は、模倣反射の延長線上にある機能です。それ故、模倣反射(ものまね)が可能な動物は、サルも象もイルカもカラスも、発達した意識器官を持っている可能性があります。
人間だけの機能ではありません。
意識感覚器官意識器官(シミュレーター)の入力装置

意識知覚している世界は、意識器官にとって、シミュレーションの場(仮想環境)です。意識感覚器官は、このシミュレーションの場を知覚対象としています。
考える意識器官を使って、肉体の架空行動(考える行為)を制御する。
意識器官を使った架空の探求反射(架空の試行錯誤)によって、新しいプログラムを作り出す行為。
考えてから
行動する
未知の状況に直面した時、
まず、意識器官を使ってプログラムを作成し、その完成されたプログラムを使って肉体を駆動する。

意識器官の厳密な意味は、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。金剛般若教を理解する時に必要になります。

最初期の原始仏教を支えた人々のプロフィール

最初期の原始仏教を支えた人々は、豊富な社会経験を持っていました。

日々の生活の中で、思い悩む事があって仏門を叩いた人々なので、酸いも甘いも味わい尽くしていました。だから、心の機微の表現が実に巧みです。とても、新鮮です。現代仏教のような教義中心の抹香臭さは全くありません。日々の暮らしで出会った出来事を例え話にして説かれているので、情景が瞼の裏に浮びます。

例えば、人々が物事に執着している様を、干ばつで干上がった川底の最後に残された小さな水たまりで、蠢いている魚たちの姿に例えています。「干からびかけた水たまりで、もがいている魚のようだ。」と表現しています。彼らは最後に残された小さな水溜まりに、必死に、しがみ付いて生きています。

8._2 般若心経

般若心経には、次のような有名な言葉があります。

色即是空(しきそくぜくう)

仏教では、意識感覚器官の知覚対象を、『』と、呼んでいます。現代語に訳すと、『イメージ』が最も近い概念です。
人間が意識知覚しているイメージ(色)は、実体ではない。実体のない空っぽのものだ。(Image is empty.)
欲望によって作り出された脳内部の架空の事象です。今流行りの言葉を使うなら、それは仮想現実です。

空即是色(くうそくぜしき)

「何も無い空っぽのもの、それが、意識が知覚しているイメージ(色)だ。」と、述べています。

人々は、唯物論を信じています。だから、意識知覚している事象は実体だと思っています。それ故、その事象に執着しています。実体だと思い込んでいるものに拘っています。

意識知覚しているイメージ(色)は、欲望が作り出している心の中の架空の事象であって、実体ではありません。
実体のない空っぽのものです。(色即是空)

と、説いています。

般若心経の作者のプロフィール

般若心経の作者は、芸術家肌のヒラメキ屋さんタイプです。
どちらかと言えば、落ちこぼれ気味です。優等生という印象は受けません。

「和尚さんは、朝から晩まで、『空~、空~』言ってるけど、腹なんか減ってないわい!。あっ、それは『グ~、グ~』か。」って日々を送っていましたが、ある時、ふと。。。

「あっ。そうか!。。。全ては空っぽだったのだ。最初から何も無かったのだ!」と、気が付き、、、その一瞬のヒラメキを一気に文章にしました。消えてしまう前に。そんな情景が瞼に浮びます。

この為、非常に短くて直観的な文章になっています。『色即是空。空即是色。』と、直観的に思考を反転させて、繰り返しています。主語と目的語が反転しています。このような用法は、言葉の文法に精通した優等生ではなくて、物事を感性で捉えている芸術家肌の特徴です。

般若心経が、現代において愛用されている第一の理由は、もちろん、短い為ですが、第二の理由は、感性で直観的に理解でき、親しみ易い為です。(なにせ、作者は、芸術家肌のオチコボレですから。)

注意)色即是空は、賢者タイムのことではありません。「フ~。色事は所詮虚しいな、色即是空。虚しいものが色事なのか、空即是色。」(Love is empty. Empty is love.)ではありません。まさかとは思いますが、念の為。

8._3 金剛般若教

金剛般若経には、次のような一文があります。

世界は世界に非ず。ゆえに、これを世界と名づく。

(1):「あなたが意識知覚している『世界』という事象」は、
(2):「あなたが思い込んでいるような実体としての『世界』ではない。」
(3):だから、「その事象には、『世界』という言葉が対応しているのだ。」

と説いています。

言語体系の不完全さと自己矛盾から、同じ『世界』という言葉が使われていますが、この3つの言葉が指示している内容は、夫々異なったいます。

世界(1)は世界(2)に非ず。ゆえに、これを世界(3)と名づく。

世界(1)は、意識知覚している事象を指示しています。
世界(2)は、その事象に対する人間の先入観、思い込みを指示しています。人間は、意識知覚している事象を、実体だと錯覚しています。少なくとも、唯物論者は、そのように、思い込んでいます。
世界(3)は、音や文字として表現されている言葉そのもの(名札)を指示しています。

あなたが意識知覚している世界(1)という事象は、あなたが思い込んでいるような実体としての世界(2)ではありません。だから、その事象には、世界(3)という名札(名前)が付いています。

意識知覚を構成している三つのもの

世界構成物備考
世界(1)知覚知覚している事象
世界(2)先入観知覚している事象への先入観(実体だという思い込み)
世界(3)言葉口から出ている音(言葉)。知覚の対象に付けられた名札。
意識知覚している事象の構造

意識知覚している事象の構造
意識知覚している事象は、3つの融合物です。
 1.知覚してる事象
 2.それに対する先入観(実体だという思い込み)
 3.言葉
この3つの要素とも、言葉で表象したら、同じ『世界』という言葉になります。
金剛般若経では、言葉は同じでも、これら3つの事象を厳密に区別します。
「世界(1)は世界(2)に非ず。ゆえに、これを世界(3)と名づく。」と。

(3):(世界という)『言葉』も、意識にとっての知覚対象です。
(1):(世界という)『意識知覚している事象』も、意識にとっての知覚対象です。
(2):(世界は実体だという)『先入観(思い込み)』も、意識にとっての知覚対象です。

これら三つのもの、即ち、『世界(1)、世界(2)、世界(3)』は、指示している事象は異なっていますが、共に、意識にとっての知覚対象です。それ故、この三つは、意識された世界の中で結び付くことが出来ます。
そして、その意識が知覚しいるものは、脳内部の事象です。自らの欲望が生じさせた実体のないものです。

ちなみに、現代哲学では、この三つの事象は識別されておらず、ぐちゃぐちゃにして、ひとつのものだと混同しています。「言葉が同じだから、中身も同じだろう。」と思っています。即ち、「AはAに非ず。故に、Aなり。」と見なしています。理屈を超越した宗教的ドグマだと思っています。言葉と、その言葉が指示しているものの区別が曖昧です。

現代の人々は、哲学者も含めて、「言葉には実体が対応している。」、つまり、言葉と実体は、一対一の対応関係にあると思っています。言葉、イコール、実体。 A という言葉は、A という実体と同じもの。即ち、同一のものだ。それ故、言葉と、その言葉が指示しているものを、区別する必要はない。同一視してもいいと思っています。

一方、金剛般若教では、この区別が厳密です。言葉と、それが指示してる事象を厳密に区別します。「知覚しているA1は、思い込んでいるA2に非ず。だから、この事象にはA3という言葉が付着している。」と理解しています。簡潔に表現すると、「A1はA2に非ず。故に、A3と名づく。」です。

現代哲学 :AはAに非ず。故に、Aなり。
金剛般若教:A1はA2に非ず。故に、A3と名づく。

言葉で表示すれば同じ A ですが、指示している内容は、1,2,3 と夫々異なっています。

もし、存在する現象界が異なっていたら、この三つは結びつくことが出来ません。異なった現象界に存在する夫々の事象は、互いに独立となって、現象界の壁を越えて、互いに結びつくことはできないからです。

もし、現象界の壁を越えて結びつくことができるなら、それは、統合されたひとつの現象界に過ぎません。『外界を意識知覚した現象界』と、『先入観の現象界』と、『言葉の現象界』の3つの現象界が互いに関連し合って、ひとつの統合された現象界、即ち、『意識された世界(仮想現実)』を作り出しています。互いに関連し合うという性質(結びつき)によって、ひとつの統合された現象界が作り出されています。
数学で言えば、夫々は部分集合です。全体集合の一部です。

言葉で表現できるということは、意識にとっての知覚対象、つまり、脳内部の事象であることを意味しています。そして、それは、先入観と、それへの執着の支配下にあります。

空は空に非ず。ゆえに、これを空と名づく。

意識知覚している事象は、全て脳内部の事象です。
全ては、色即是空、空っぽです。

金剛般若教を、知識として正確に理解する為には、その前提になっている人間の心の構造に関する知識が必要です。知的生命体の心の構造意識体験している3つの世界フロイトの夢理論を参照頂くと参考になると思います。

金剛般若経の作者のプロフィール

金剛般若経の作者は、仏教界随一の理論家です。

非常に、論理的に正確に表現されています。不完全な言語体系を使って、よく、ここまで正確に表現できたものだと、感心してしまいます。

彼の生きていた時代には、まだ、数学や物理学の思考法は確立されていませんでした。唯一、使えた道具は言語だけでした。しかし、言語は本質的に非論理的です。曖昧です。正確な思考には向きません。実際、言葉のプロである筈の哲学者も、言葉を思考の為の道具として使いこなしていません。そんな哲学書、今までに、ほとんど読んだことがありません。カントも、ハイデッガーも、西田幾多郎も、みんな言葉にもて遊ばれていました。
そんな不完全な道具を使って、よく、ここまで正確に表現したとは!。

金剛般若経は、まるで、数学や物理学の本を読んでいるみたいです。現代に生きていたら、きっと、優秀な物理学者になっていたでしょう。

ただし、口減らしの為に、幼くして寺に預けられたのでしょう。社会経験がほとんどありません。欲望まみれの心の機微が一切表現されていません。最初期の原始仏教のような面白味はありません。物理学や数学の本のように、全く味気ない文章です。

般若心経のように、直観的で親しみやすい経典でもなければ、法華経のように、心を揺さぶる経典でもありません。仏教オタクでないと読む気がしない味気ない経典です。

注)金剛般若経が成立した時代には、まだ、『空』という言葉が成立していなかったみたいです。そのような最初期に説かれた空の哲学です。だから、空を使わないで空を説くために四苦八苦しています。空という便利な言葉に誤魔化されていないので、参考にもなります。逆に、後世の仏教は、空という便利な言葉に安心して、サボっています。現実と向き合う努力を怠っています。

参考)法華経の作者のプロフィール

ちなみに、法華経の作者は、新興宗教の超優秀なリクルーターです。

大衆操作の手法が駆使されている為に、つまり、巧みな例え話が駆使されている為に、まるで、蜘蛛の巣が虫を捉えて弄ぶように、人々の心を捉えて弄んでいます。多くの人々の心を揺さぶっています。
しかし、『嘘も方便』という言葉は、「目的が手段を正当化する。」という極めて危険な思想です。この為に、法華経は、鼻薬が効き過ぎて、戦闘的性格の教団を生みやすい傾向にあります。仏教界では、珍しいことです。

大衆操作の手法が駆使されているので、大衆受けはいいのですが、一歩間違うと、(既に勘違いしている教団もあるみたいですが。)、あまり、いい結果は生みません。出来るだけ、速やかに、離れることを希望します。副作用が大き過ぎます。

その結果だけを観察していると、仏教版資本論みたいな経典です。いや、逆ですね。年代的には、法華経の方が古いので、マルクスの資本論よりも先輩ですね。欲望の正当化の手法がよく似ています。両方とも、『いい。わるい。』の絶対的価値観を使って説かれています。

マルクスは、労働者と資本家の欲望の対立を、労働者の側に立って正当化しました。両者の欲望の対立を『階級闘争』と称して、資本家を打倒する正当性を主張しました。その結果は当然の結末となりました。独善的独裁政権が誕生してしまいました。あいつはブルジョアだと濡れ衣を着せ、共産党内部で『階級闘争』が行われ、粛清の嵐が吹き荒れてしまいました。
綺麗な言葉で飾られた『理想』ではなくて、『欲望の正当化』という行いが結果を生み出したからです。残念ですが、粛清を経験していない共産党政権はひとつも存在しません。血で血を洗う路線闘争で、自らの正当性を主張して、粛清(物理的に抹殺)しまくった政権ばかりです。

法華経も、このような傾向を持っています。戦闘的性格を持った教団を生み易い傾向にあります。

法華経で使われている三つの大衆操作の手法

法華経を、ぱっと読んだだけでも、次の三つの大衆操作の手法に気が付きます。

  1. いい悪いの価値観を使っているので、歯切れがよく、理解し易い。
  2. 同じ話しが、2度繰り返されている。一度目は物語として、二度目は詩の形で。
  3. 「目的が手段を正当化する。」という危険な考え方が使われている。

1. いい悪いの価値観を使っているので、歯切れがよく、理解し易い。

法華経は、仏教経典では珍しく、『いい。悪い。』価値観を使って経典を組み立てています。

多くの仏教経典に見られるような「いい、悪い」が曖昧なフニャフニャ感がありません。仏教経典を読んだら、いつも、「言っていることは分かるけど、それで、何がしたいの?。何が言いたいの?。白黒をハッキリさせろよ。」という消化不良の苛立ちが残ります。いつも、禅問答です。

でも、法華経は、それを感じさせません。寧ろ、「我が意を得たり。」と実感します。「法華経を信ずることは、いい事。」「法華経に反することは、悪い事」と、白黒をハッキリさせているからです。人々は、自己の欲望を正当化できるものを常に求めています。法華経は、始めて、『いい。わるい。』の道を示してくれました。願いを叶えてくれました。白黒がハッキリしているので、歯切れがよく、理解し易いのです。

でも、原始仏教では、「いい。悪い」の拘りから離れなさい。「最終的には、仏教への拘りからも離れることが大切です。」と説きます。仏教への拘りは、教団と言う組織が生み出している利益への執着に過ぎないからです。そのような執着からは、多くの副作用が発生してしまうからです。

仏教の根本理念に反しています。

2. 同じ話しが、二度繰り返されている。

法華経は、同じ物語を二度繰り返しています。一度目は物語として、二度目は詩の形で。

この為、復習効果を発揮して、頭に残り易い傾向にあります。
とくに、二度目は詩の形になっているので、論理的思考によってではなくて、感性で理解できるようになっています。相手を、現実や理屈の世界から遮断して、思考停止させて、法華経の世界に引きずり込んでいます。
有難味が醸し出されています。訳文でこれだけですから、彼が語った元の言語では、もっと、感動的だったと思います。

こんな手法、始めての体験です。

3. 目的が手段を正当化する。

『嘘も方便』という考え方は、非常に危険な思想です。

「目的が手段を正当化する。」という考え方です。
「人々を救済する目的なら、即ち、尊い教えの布教の為なら、嘘という手段も許される。」という考え方は、想像を絶する副作用を生み出します。非常に危険です。カルトを生み易い下地を持っています。

人間という動物は、そこまで、出来は良くはありません。
現実は冷酷です。(法華経を経典とする)多くの教祖たち(動物)は、『人々の救済』と『自己の欲望』をダブらせて、『人々の救済』を錦の御旗に立て、『自己の欲望』を実現させようとしています。自らの欲望を正当化するには、実に便利な言葉です。この便利な言葉を使って、多くの善良な人々を、自らの欲望の渦に巻き込んでいます。独占欲、支配欲のオナニーの道連れにしています。

性欲に翻弄された教祖様もいました。「魚心あれば水心」で、必ずしも女性が被害者と断言出来ない所が辛い現実ですが。両者とも、性欲と権力欲に翻弄されていました。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。

『行い』そのもが結果を生み出しています。それ故、どのような『行い』をするかが重要です。

「教団(組織)を作る。」という行い自体は、欲望の産物です。組織は、様々な利益を生み出します。お金だけでなく、支配欲、場合によっては性欲も満足されてくれます。宗教教団とて例外ではありません。教祖様たちは、それに翻弄され、しがみ付いていました。

欲望は、いつも、綺麗な言葉で飾られています。『人々の救済』といリベラル好みの綺麗な言葉は、魅惑的過ぎるので間違いを誘発します。みんな、耳障りのいい綺麗な言葉に、よろめいています。

教団(の利益)は、経典によって、理論武装されています。年増女の厚化粧のように、「これでもか、これでもか」と、飽くなき信念によって、言葉が塗り固められています。

『嘘を付く』という『行い』自体が、悲惨な結果を招きます。
言葉による欲望の正当化に翻弄されないことを希望します。

法華経は禁じ手を使い過ぎです。確かに、リクルートの効率が良くなるのは認めますが、その副作用が大き過ぎます。ウソも方便は、欲深い教祖様を生み出します。

8._4 行いと結果の因果関係

人間も含めた動物は、感覚器官からの信号で行動を起こしています。
その因果関係を辿ると、様々な事が見えてきます。

まず、感覚器官からの信号で、欲望が活性化されます。例えば、獲物の映像は、肉食動物の食欲を刺激します。
欲望を刺激しなかった信号は、雑音として無視され、流れ去ってしまいます。

刺激された欲望は、行動を生み出します。食欲は、獲物を捕まえる行動を生じさせます。草食動物なら、草を食べようとします。

行動は、何らかの結果を生みます。捕食行動の結果、肉食動物は食欲を満足させます。餌となった草食動物は、そこで一生を終えます。欲望の達成には、往々にして、副作用が伴います。

人間の場合も、原則は同じですが、ただ、二点だけ他の動物たちと異なっています。

【人間と他の動物たちの相違点】

第一の相違点は、感覚器官が六つあることです。
第二の相違点は、言葉を持っていることです。

第一の相違点は、感覚器官が六つあることです。

第六番目の感覚器官、即ち、意識感覚器官からの知覚刺激によって、他の動物には見られない行動が生み出されています。

現実ではないもの、即ち、意識知覚に基づいた行動が、人間を特徴づけています。人間は、しばしば、意識が作り出した空想相手に行動を起こしています。

そして、残念ですが、その副作用として、これが、しばしば知的生命体の苦悩や迷いの原因になっています。人々は、心の中に生じさせたもの、即ち、愛や憎しみ、猜疑心、恨み、劣等感、悲しみ、死の恐怖などを、存在する実体だと錯覚して、身を焦がしています。「自分は悪くない。あいつが悪い。」で、自分の惨めさの原因を他人のせいにしています。そして、相手に刃を向けています。

他人のせいにしても問題は解決しません。先送りされるだけです。先送りが、ドンドン積み重なって、やがて、ストレスと苛立ちが我慢の限界を超えます。そして、その結果は、。。。。ドカーン!

本来は、外部感覚器官からの信号に基づいて行動を起こすべきです。現実に基づいた行動を起こすべきです。意識知覚された仮想現実(空想)に基づいた行動は、しばしば、不幸な結果を招きます。現実に基づかない行動は破綻します。

哲学者や思想家が大好きな絶対的価値観も現実ではありません。脳内部の仮想現実です。目の前の現実を無視して、絶対的価値観(仮想現実)に基づいて行動を起こすと、高い確率で破綻します。結果は、運次第です。いつも、崇高な理想が破綻する原因は、これです。

車を運転する時は、しっかり前を見ることが大切です。
崇高な経典を読みながら、わき見運転していると、事故ります。いくら「この道は真っ直ぐだ。」と、崇高な経典で説かれていても、現実の道は曲がりくねっています。昨日の道は右に曲がっていましたが、今日の道は左に曲がっています。明日の道は、どうなっているか分かりません。日々刻々と、道は変化します。

崇高な理想は、いつも、『人間は欲望を持った存在だ。』という暗い現実を無視しています。そして、結果は、いつも、『理想』によってではなくて、その暗い現実、つまり『欲望』によって生み出されています。結果は、いつも、欲望と欲望の対立と衝突によって生み出されています。何度失敗しても、懲りません。言葉によって、惨めな結果を飾ることばかりに、夢中になっています。他人のせいにして、言い訳ばかりに終始しています。そして、それに一通り飽きたら、また、同じ事を繰り返します。また、同じ間違いを繰り返します。

これを仏教では、『輪廻転生』と呼んでいます。
「欲望を持ち続ける限り、その欲望によって、同じ間違いを繰り返す。だから、間違いを繰り返したくなければ、行いの原因となった欲望を静めることだ。」と説いています。

ところが、ある時、突然、ほんとうに突然に、インドの土着信仰と結びついて、これが輪廻転生の生死観に変りました。それ以後は、仏教を代表する理念になりました。(輪廻転生のドグマが成立する瞬間を目撃したくて、読み漁ったのですが、ダメでした。確認できない程、短時間に、突然、完成された姿で現れました。)

輪廻転生の生死観自体は、元々の原始仏教には無い考え方です。『当たらずとも遠からず。』ではあるのですが、微妙に、誤解を招きます。輪廻転生自体は、命に対する執着でしかないからです。「命は永遠だ。」と思い込みたいだけだからです。

命は輪廻する物でもなければ、転生する物でもありません。輪廻しない物でもなければ、転生しない物でもありません。永遠の物でもなければ、永遠でない物でもありません。両極端への拘りを捨てることです。命への拘りを捨てることが大切です。

意識知覚している事象と、どう向き合うか、参考になる記述が原始仏教にはたくさんあります。

第二の相違点は、言葉を持っていることです。

言葉は、困ったことに、行動の原因となった欲望を正当化する為に、総動員されています。この為に、膨大な労力が投入されています。大量のエネルギーが浪費されています。しかも、問題の本質を見え辛くして、複雑怪奇にしています。言葉が、欲望を自己増殖させています。

いい事なんて一つもありません。
もし、言葉を無効に出来るなら、もう少し、行いの原因となった欲望と向き合う事が簡単になります。人と人との欲望の対立を解決することが容易になります。言葉は、水と油にように、物事を決定的に解決困難な問題に変身させています。

もし、言葉に投入されているエネルギーを、他の方向に向ける事が出来るなら、もう少し、マシになるのですが。。。。返す返すも、残念です。

言葉は、建前上は、コミュニケーションや思考の為の手段と思われています。
でも、コミュニケーションを、注意深く観察すると、往々にして、自分の都合を相手に押し付ける為に使っています。
思考は、自分を納得させる為に、、、いや、違いますね、、、自己満足に浸る為に使っています。

以上の過程を図に纏めると、下図のようになります。

人間という動物の生き様の因果関係

人間という動物の生き様の因果関係
1. 六種の感覚器官(6根)からの信号によって、『欲望』が活性化されています。
2. その活性化された『欲望』から、『行い』が生じています。
3. そして、その『行い』によって、『結果』が生まれています。

それ故、もの事は、『行い』と、そこから生じる『結果』の因果関係によって判断されます。

ところが、人々は、
言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。
言葉ばかりに、心を奪われています。

なお、欲望と共鳴しなかった信号は、雑音として、無視されます。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。
『言葉』は、『行い』の原因となっている『欲望』を正当化する為に、総動員されています。

8._5 もうひとつの道

我々人間の未来には、『言葉と価値観の檻』から解放して、自由な心を取り戻す道もあります。

この21世紀初頭という時代は、人々の心を支配している価値観が、『神』から『科学』に移り変わっている時代です。即ち、『科学教』の時代です。

人々は、『神』ではなくて、『科学』という価値観を信じ始めています。『神』という言葉と価値観を否定しています。自らの行動も、宗教的価値観によって律するのではなくて、科学的価値観で律しようとしています。

『神』という宗教を否定して、『科学』という宗教を肯定しているので、自らは無神論者と思っています。神という言葉を否定しているので、『神を否定している者』、即ち、『無神』論者と見なしています。そのような差別化によって、自らの優位性を正当化しています。かつて、新興教団が、既存の旧体制派教団を否定してきた道と同じです。

しかし、『行い』と『結果』の因果関係に目を向けると、相変わらず、価値観を信じている『行い』自体は変っていません。言葉と価値観が、神から科学に代わっただけです。「科学の果ての宗教」(内村剛介)です。相変わらず、人々は、信じている価値観に従って行動しています。浜辺のヤドカリが、次から次へと殻を取り換えるように、「今度こそは!」と期待に胸膨らませて、新しい価値観に着替えています。

彼らは、価値観の檻の中に、自らの心を自ら進んで閉じ込めています。動物園の動物たちのように、檻の中の方が安心できるとでも感じているのでしょうか。まるで、『価値観の奴隷』のようです。

神を肯定することによっても、神を否定することによっても、平安は得られません。教団の利益に貢献するだけです。科学を肯定することによっても、否定することによっても、平安は得られません。科学的武器の開発が促進されるだけです。

もの事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。『言葉』を否定することによっても明らかとはなりません。『形』によって明らかになる訳でもありません。『形』(偶像崇拝)を否定することによっても明かとはなりません。
何かの『価値観』を肯定することによっても、否定することによっても、何かが得られる訳ではありません。

現実は、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行いと結果の因果関係』を観察することが大切です。

我々人間の未来には、『ありとあらゆる価値観から、心を解放する。』道もあります。価値観に囚われない道です。価値観の奴隷からの解放の道です。自由な心を取り戻す道です。

『行いと結果の因果関係』に基づいて、自らの『行い』を律する道です。

最終的には、仏教への拘りからも離れることが大切です。
娑婆(愛憎に満ち溢れた平凡な日常生活)への拘りは捨てれても、仏教への拘りは捨てれなくて、翻弄されている人々もいます。

注)原始仏教では、価値観のことを、『両極端』と表現しています。「いい。わるい。」の価値観のように、対立する両端から構成されているからです。その対立が、白と黒のコントラストのように、極端で鮮やかだからです。
「価値観への拘りから離れなさい。」は、「両極端への拘りから離れなさい。」と、表現されています。

参考1)フロイトの夢判断

意識が感覚器官であることに気が付いた人物が、もうひとり存在していました。
『ジークムント・フロイト 』です。19~20世紀初頭のドイツの精神科医です。

彼は、その著書『夢判断』で、意識のついて、次のように述べています。

では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。

それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。

この組織はそのメカニックな諸性質に於て知覚諸組織Wに似ていると考えられ、それゆえ性質によって興奮させられるが、変化の痕跡を保持することができない。

つまり記憶力を持たない。知覚組織の感覚器官をもって外界に向けられている心的装置は、それ自身が意識の感覚器官にとっては外界であり、この関係にこそ意識の目的論的な存在理由がある。

出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社

つまり、「意識は、自己の心的システムを知覚対象とした感覚器官である。眼が外界を知覚対象とした感覚器官であるように、意識は、自己の脳(心的システム)を知覚対象としている。」と述べています。

世の多くの哲学者や思想家が、意識を『観念的存在』として捉えていたのに対して、フロイトは、物理的存在、即ち、『感覚器官』と捉えていました。

ゴータマ・シッダッタとフロイトが、2500年の時を隔てて、同じ結論に辿り着いていたのには、驚かされました。

注)ゴータマもフロイトも、まぼろし体験の経験者だろうと推測しています。ゴータマは、苦行による幻体験によって、フロイトは、コカインの薬物幻覚によって、この知識を得たものと思われます。確かに、二人とも、心の中を覗く技術に優れていましたが、それだけでは、この結論には至りません。夢は全ての人々が毎日見ていますが、夢体験から、この結論に辿り着いた人はいません。
夢はコントロールできませんが、まぼろしはコントロールできるからです。コントロールによって、始めて、「全ては自分自身が作り出したものだ。」と実感します。