2021/01/02 うつせみ

空の哲学(Empty philosophy)は言葉によって明らかになる訳ではありません。
科学的知識によっても明らかとなりません。
当然、仏教によっても明らかにはなりません。
これらのものを否定することによっても明らかにはなりません。

否定と肯定の心から離れて、
原因と結果の因果関係を観察することが大切です。

8._ はじめに

空の哲学は、仏教の思想です。ここでは、ある程度の仏教の基礎知識を持っている方を対象にしています。原始仏教の考え方に沿って話を組み立てています。
出来る限り、抹香臭さを消しています。原始仏教の新鮮さを感じて頂ければ幸いです。

空の哲学(Empty philosophy)と聞いたら、何か深淵なる真理が潜んでいると思われるかもしれません。しかし、実は、何も無いのです。何も無いので、仕方なく、言葉で表現する都合上、『空っぽの哲学』、略して、『空の哲学』と便宜的に呼んでいるに過ぎません。

それは、数学の『0(zero)』の概念に似ています。
確かに、『空(empty)』も『0(zero)』も、言葉の入れ物は持っています。でも、言葉があるから、その入れ物の中に何かが入っているとは限りません。何も入っていません。空っぽです。両方とも、「何もない状態」を表記した記号です。

ゼロは、厳密には、空(から)の皿(入れ物)が存在している状態を表現しています。つまり、「入れ物の中に、物が存在していない状態」が存在していることを表現しています。皿(入れ物)の存在自体を否定している訳ではありません。
反対に、1(いち)は、皿(入れ物)にリンゴが一個乗っている状態です。「入れ物の中に、物が存在している状態」が存在していることを表現しています。何かが皿の上にある存在状態を表現しています。

ゼロは、『存在しない状態(空の皿)』が存在していることを、明示的に表示した記号です。
この存在状態を表現した記号です。

空(から)の皿

空(から)の皿
ゼロは、『空の皿』が存在していることを意味しています。『空の皿』自体の存在を否定している訳ではありません。
1(いち)は、皿にリンゴが一個乗っている状態を表現しています。

それ故、ゼロの概念を持ったインド数字では、空の皿を表現するスペース、即ち、ゼロの表示スペースが確保されています。
空の皿自体も、存在のいち形態なので。

例えば、数字の 101(百一 = one hundred and one)は、『リンゴが一個の皿』、『空の皿』、『リンゴが一個の皿』と羅列します。『空の皿』の存在を明示的に表記します。「存在するものだけ表記する。存在しないものは表記しない。」という世間一般の表示ルールとは、少し異なっています。

日本語(百一)も英語(one hundred and one)も、存在しない十の位は表記されていませんが、ゼロの概念を持っているインド数字では、101 と、存在しない筈の十の位も、『0(zero)』という記号で表記されています。『存在しない状態』が存在している事、つまり、『空の皿』が存在している事を、明示的に自覚している為です。その(空の)存在を記号で表現しました。

例外はソロバンです。全ての桁を前もって準備している物理的構造故に、ゼロになっている桁が、インド数字同様に明確に確認できます。
ソロバンの場合、算術テクニックとして、全ての桁の存在を仮定(前もって準備)しているだけであって、ゼロの存在を自覚している訳では無いので、微妙に意味は異なっています。でも、結果的には同じです。そこからゼロの存在に気が付いた人が居たかもしれません。

数 101 の表現

数 101 の表現
数字の 101(百一、one hundred and one)は、『リンゴが一個の皿』、『空の皿』、『リンゴが一個の皿』と羅列します。

『空の皿』も明示的に表記します。
日本語、英語の数の表記法

日本語、英語の数の表記法
日本語、英語での数の表記法です。(百一、one hundred and one)
存在しない十の位は、表記されません。通常、存在しないもは、世間一般の常識として、表記されません。
その代わり、位を指定する記号(百、hundred)が追加されています。このままでは、曖昧さが発生してしまうので。

ちなみに、インド数字の場合は、ゼロも表記されるので、位を指定する記号(百、hundred)は不要です。
ただ単に、101と、数を羅列するだけです。右から何番目かの情報で、位の情報を代用しています。
例えは、右から3番目は、3桁目、つまり、百の位(百、hundred)を表現しています。

我々はインド数字の表記法に慣れてしまっているので、この事を自覚することはありません。子供が無自覚に言葉を習得するように、インド数字の表記法を習得しています。この為、言葉(百、hundred)では無くて、表示位置が、位(桁)情報を代用している事に不思議さを感じていません。『位』と『桁』の用語が、同じ意味で使われている事に不思議さを感じていません。

ただ、原則的な話をすれば、情報を正しく伝える為には、その為の記号(言葉)が必要です。記号(言葉)の情報量が、必要な情報量(現実)を満たしている必要があります。満たしていないと、曖昧さが発生します。インド数字は、表示位置で、その不足している情報を補っています。

もし、新たな情報の為に、新たな記号(言葉)を追加していない場合は、意味不明の曖昧さが生じているか、又は、往々にして暗黙の前提条件として省略されているか、そのどちらかです。その暗黙の前提条件が、思考作業では、諸悪の根源になっています。問題の本質がそこにあるにも関わらず、人々は、それを、ほとんど自覚していない為です。

自らの思考の影に隠れている暗黙の前提条件に気付く作業は、しばしば、病的です。自分の心を白い紙の上に取り出して、カミソリの刃で、これでも、これでもかと、細かく切り刻む作業になるからです。何かの気が無ければ、やってられない作業です。



(empty)も同様です。

言葉の入れ物自体を否定してる訳ではありません。入れ物が空っぽの状態、即ち、言葉の入れ物の中に『人々が期待しているような実体』は入っていない事を表現しています。愛も憎しみも、死の恐怖も、言葉で表記されているからと言って、存在している実体とは限りません。実体は入っていません。それは、自らの欲望が生み出したものです。心の中の事象です。

人々は、愛や憎しみ、死の恐怖などの言葉の殻があるから、その殻の中には実体が入っていると思っていますが、しかし、中身は、空っぽです。
人々が期待しているような実体は、(言葉の殻の中には)入っていません。全ては、空っぽです。現代の人々は、言葉によって作り出されている仮想現実に拘り過ぎです。

これを仏教では、「一切は空なり。」と表現します。

言葉も含めて、意識知覚している全ての事象は、実体ではありません。実体の無いもの、即ち、空っぽです。拘りの対象ではありません。


思考の枠組み

皿は入れ物を表しています。空間という思考の枠組みの中で、その空間という入れ物の中に、物が有るか無いかを論じています。入れ物の中に、物がない状態が、『空(empty)』や『0(zero)』です。

なお、空間という入れ物は、常識として当たり前の暗黙の前提条件なので、通常は思考過程から省略されています。明示的に自覚されることはありません。現代の哲学者も自覚していません。その暗黙の前提のもと、その暗黙の枠組みの中で、右往左往しています。

でも、それを明示的に自覚したのが、インド哲学です。
その副作用として、現代哲学のように暗黙の前提条件を省略しないので、言葉での表現が直観に反して煩雑になります。否定語や肯定語が繰り返されるややこしい表現になります。
(否定語や肯定語が繰り返される表現が、原始仏教の特徴です。暗黙の前提条件を明確に自覚し、論理的に表現している為です。)

例えば、暗黙の前提条件を無視している現代哲学では、「ゼロは何も存在していない状態」と直観的に理解し易く表現しますが、暗黙の前提条件を明示すると、「ゼロは、『何も存在しない状態』が存在している。」、或いは、「『空の入れ物』が存在している。」等と、否定語と肯定語が繰り返されて、ややこしくなります。

暗黙の前提条件を、
省略すると:ゼロは何も存在しない状態
明示すると:ゼロは『何も存在しない状態』が存在している。(空間という思考の枠組みの中で)

暗黙の前提条件を明示する肯定語(存在している)が付加されます。

仏教の説法が、しばしば、意味不明な禅問答になってしまう原因も、このような暗黙の前提条件を自覚している場合が多い為です。人々の興味ある部分では無くて、暗黙の前提条件を話題にしてしまう為です。人々は「右か左か」の答えを期待しているのに、「下」、「足元を見ろ。」と返されます。期待に反した予想外の答えが返ってきて、一瞬、キョトンとします。自らの思考の枠組みから外れた禅問答が返されて、一瞬、頭の中が真っ白になります。


我々人間という動物は、このような思考の枠組みの中で物事を理解しています。つまり、「空間という入れ物の中に物が存在している。或いは、存在していない。」という思考の枠組みの中で、物事を認識しています。残念ですが、この枠組み自体を否定することは出来ません。人間も、この空間という入れ物の中に存在しているからです。

自らの存在している世界を否定したら、自らの存在も否定されます。つまり、この空間(思考の枠組み)を否定した思考は、自らの存在している世界の否定、ひいては、自らの否定に繋がります。死の淵を覗き込むことになります。死の恐怖の虜になります。
くれぐれも、無謀な挑戦はしないように。


ダブルトラップ

以上の話は、あくまでも、このような思考の枠組みの範囲内で、有や無を論じているに過ぎません。思考の枠組みそのものを問題にしている訳ではありません。誤解なきように。

『有と無』、或いは、『存在と非存在』の形而上学的思考は、常に、このようなダブルトラップになっています。「入れ物(空間という思考の枠組み)の中に物が存在する、しない」と、「入れ物(空間)自体は、何処に存在するのか?」という二つの問題が重なっています。これが、二重の罠を構成しています。この為、しばしば、形而上学は混乱しています。形而上学の思考作業は、このふたつの罠の間で、右往左往しています。
哲学者の形而上学の思考が混乱している原因は単純です。言葉ばかりを見つめているからです。『生きる』という現実を見つめていないからです。ハイデッガーがそうでした。彼は、(『有と無』という)言葉にしか興味がありませんでした。全ての間違いは、「言葉には真理が隠されている筈だ。」という言霊信仰から始まっていました。『言葉』に塗り固められているものは、人間という動物の『生きる』という欲望に過ぎないのですけど。

以下では、この思考の枠組みそのものを問題とします。少しだけ、常識を逸脱します。冷静に現実と向き合って頂くことを希望します。(死の恐怖の虜にならない為に。)

我々人間という動物は、下図のような思考の枠組みを持っています。『自己、時間、空間、物質』という枠組みを使って身の回りの物理現象を理解しています。
この認識の形式は、動物進化5億年の実績に裏打ちされていますから、日常生活の範囲内なら、ほとんど、不具合を感じることはありません。目の前のコップは、何の疑念も抱かずに、手で掴むことができます。

日常生活の範囲内に限定すれば、「我々は実体を認識している。」という素朴な唯物論を信じても、問題になることはありません。動物進化5億年の実績で、最適化されているからです。

思考の枠組み

思考の枠組み
我々人間という動物は、『自己、時間、空間、物質』という思考の枠組みを使って物事を理解しています。「空間という入れ物の中に物(物質)が存在している。それが、時間の経過と共に、入れ物(空間)の中を動き回っている。」と理解しています。

なお、『自己』は、(幾何学上は、)座標原点を意味しています。もちろん、哲学的には、『自分自身』のことです。全ての思考は、自分基準の自己中心点(座標原点)を基準に行われています。

この情報の処理形式は、動物進化5億年の実績で最適化されています。それ故、日常生活では不具合を感じることはありません。
犬も人間も、生物進化を共有している同じ動物として、同じ枠組みを持っています。それ故、人間と犬の間では共通のゲーム(鬼ごっご)が成り立ちます。

現在、人間の日常と遥かに隔たった物理現象を記述する為に、このような日常の思考の枠組みを否定した物理学理論を準備中です。現代の物理学体系を、根底から覆して、作り替えてしまう作業を行っています。このような思考の枠組み自体を見直し、この形式を使わないで物理現象を記述しようとしています。

『時間、空間、物質』は、存在する実体ではありません。我々の存在しているこの宇宙は、そのような実在物で構成されている訳ではありません。空間という入れ物は実在していません。全ては、空の哲学が主張するように、存在する実体ではありません。愛や憎しみ同様、「一切は空なり。」です。

人間が認識している『自己、時間、空間、物質』という世界は、実体ではありません。
我々が意識知覚している世界は、実体ではありません。
一切は空なり。全ては、空っぽです。

それは、脳内部の情報の処理形式、つまり、認識や思考の枠組みです。日常の常識、もっとハッキリ言えば、仮想現実です。夢と同じように、実体世界ではありません。

この枠組みは、動物進化5億年の実績から作り出されました。従って、その最適性も、その実績に裏打ちされています。だから、日常生活の範囲内なら、不具合を感ずることはありません。目の前のコップを何の疑念も持たず、掴む事ができます。
コップを手で掴むことができるのは、唯物論者が主張するような実在の証明では無くて、最適化の証明です。動物進化5億年の実績に基づいて、そこで最適制御が行われているに過ぎません。(実体だと信じたい気持ちは、理解できますが。)

でも、現代物理学が突き当たっているような極限の物理現象を理解しようとしたら、どうなるでしょうか?。
原子や分子よりも遥かに微小な素粒子の世界とか、太陽系よりも遥かに広大な銀河系とか、その銀河の集合体で構成されている宇宙全体とか。或いは、光の速度に近い超高速度の物体の運動とか。
そのような極限の世界って、我々動物が生きた事のない世界です。最適化の範囲から、はみ出しています。生物進化で獲得した思考の枠組み(脳内部の情報の処理形式)が使えなくなります。あちらこちらに、綻びが見え始めています。

もし、現代物理学が突き当たっている壁を乗り越えたいなら、人間という『生き物の宿命』を乗り越える必要があります。持って生まれた思考の枠組みを乗り越えないと、広大な宇宙全体や、微小な素粒子の世界を統一して理解できません。『時間、空間』という生物進化で獲得した思考の枠組みに拘っている限り、日常しか記述できません。日常への拘りを捨て、それを使わないで物理現象を記述する必要があります。人間という動物の『生きる』という宿命と向き合う必要があります。

でも、このような試みは、空間の存在を否定するので、死の恐怖に曝されて、たいへんです。心が凍り付いて動かなくなります。この死の恐怖と向き合う為に、急いで、この章を準備しています。
(このチキンレース。自分にとっては、結構、切実です。死の恐怖と背中合わせなので。どっちが早いか競争です。)

出来るだけ、合理的な説明に努めていますが、最終的に大切な事は、『行い』と『結果』の因果関係を観察する事です。自分のこの体を使って、実際に生きてみることです。現実だけが、教師であり反面教師です。

欲望の荒波の中に、この身を置いてみないと、心の機微は理解できません。言葉に込められている様々な矛盾した思いや欲望も理解できません。言葉や欲望は、残念ながら、常に、矛盾しています。決して、合理的でもなければ、整合性が取れている訳でもありません。(そう思い込みたい気持ちは分かります。それが、せめてもの心の支えなので。言葉にしがみ付く為の。。。)

自分のこの身が多少汚れても、純粋培養だけは避けることです。純粋培養された人間は、言葉を振り回して、空理空論に耽ってしまいます。言葉で作り出された架空世界を現実だと錯覚して、意味のない虚しい努力を繰り返してしまいます。籠の中のハツカネズミが、ただひたすら、回し車を回し続けるように。或いは、仏教が教義経典の罠に陥ったように。
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空の成り立ち

実は、『空(empty)』と『0(zero)』は、歴史的には、双子の兄弟らしいのです。古代インドの同じ時期に成立しました。サンスクリット語では、両方とも、同じ言葉で、「シューニャ」と呼ばれていました。仏教関係の方が「シューニャ」を検索したら『空(empty)』がヒットし、数学関係の方が検索したら『0(zero)』がヒットします。

『0(zero)』の哲学的背景が、『空(empty)』なのでしょう。と言うよりは、元々は、分けて考える必要がない同一のもの。見る方向が異なっているだけかもしれません。

このような事情で、『空(empty)』を言葉で表現すれば、非常に短くて

一切は空なり。(Everything is empty.)
或いは、
色即是空(しきそくぜくう)』(Image is empty.)

これだけです。
全ては、空っぽです。
意識知覚している全ての事象は、実体の無いものです。
ゼロと同じように、人々が期待しているものは、中に何も入っていません。

仏教学者が拘っている『空性(The truth of emptiness)』など存在していません。
それは、言葉と、その言葉が生み出している先入観への拘りです。「『空(empty)』という言葉が存在しているから、その言葉に対応した『空性(The truth of emptiness)』とでも呼べる真理が潜んでいる筈だ。」「言葉には実体が対応している筈だ。」という先入観への拘りです。

それは、『0(zero)』に中身を期待するようなものです。

(empty)は、言葉や知識によって明らかになる訳ではありません。それらを否定する事によっても、明らかとはなりません。もちろん、何も無いよりは遥かにマシですが。

そのような『否定と肯定の心』から離れることが大切です。全ての(存在への)拘りから離れることが大切です。
そして、原因と結果の因果関係を観察することが大切です。

金剛般若経の言葉を借りるなら、

空は空に非ず。ゆえに、これを空と名づく。
(Empty is not empty. so,Named it empty.)

です。

空は、空と呼ばれている真理を表現しているのではありません。だから、この事象には、空という名前(言葉)が付いています。実体のないものだから、(心の中の事象だから、)名前が付いています。

物事は、『言葉』によって明らかになる訳ではありません。ただ単に、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。その観察から、「何を学ぶか」が大切です。

ここでは、原始仏教と空の哲学(Empty philosophy)について述べます。

注)ゼロは偶数か奇数か

「ゼロは偶数か奇数か」を考えている時に、空とゼロの同一性に気が付きました。

哲学的には、「ゼロは偶数でも奇数でもない。」が正しいみたいです。
偶数や奇数は、存在しているものに適用可能な定義です。あくまでも、存在が前提となります。
ところが、ゼロは、「何もない状態」を表現した記号です。存在していないから、定義も適用不可能です。定義の範囲外です。
「ゼロは、偶数と定義されるのか、奇数と定義されるのか」と問われれば、「そのような日常の常識は通用しないので、どちらでもない。」と答えるしか方法がありません。つまり、『問い』自体が不適切だということです。

日常の常識を、その常識が通用しない極限の世界に適用して、何の意味があるのか?」です。

注)「いや、ある!。」
「納得できるかどうかの瀬戸際だ。」、「全ては、自らの持っている価値観や世界観の中で、理解する必要がある。自らの知識の枠組みに組み込む必要がある。」と反論されるかもしれませんね。でも、この反論の中に、全ての答えが隠されています。「納得すること。」、或いは、「自己満足に浸ること。」が目的なら、当人にとっては、それが全てなのでしょう。
人間という動物の哀しい性(さが)です。それで現実が変る訳ではありません。少しばかりの自己満足が得られるだけです。

仏教的には、『偶数か奇数か』の両極端への拘りから離れた世界が、ゼロの世界です。両極端への分別智(価値判断)から離れた世界です。『偶数か奇数か』の日常の分別智(価値判断)が通用しない特異点です。
これ以外にも、存在を前提とした多くの定義が、適用不可能な特異点になります。例えば、割り算の分母がゼロの場合です。「 1÷0 又は(1/0)」は、結果が不定となります。このような特異点では、日常の常識から作られた数学的定義や定理が、適用不可能になります。存在しないもので割っても、割る行為自体が不可能です。そこに、日常の思考の限界点が存在しています。

古代のインド人も、このゼロの特異点には、悩まされたことと思います。哲学的に明確にさせなければ、体系化と単純化は不可能です。生きる事との接点が見えてこないと、道具の有効範囲と限界が見えてきません。
目先のテクニックだけだと、進めば進むほど、煩雑化してしまいます。そして、最後には、多くの学問や宗教上の教義がそうであるように、(煩雑化の果てに)訳が分からなくなってしまいます。仏教における空の扱いなどは、まさに、この好例です。煩雑化の果てに、訳が分から無くなっています。言葉で説明しようと焦っているから、自己矛盾に陥っています。
哲学なき科学や宗教の成れの果てです。自分の立ち位置を見失ってしまいます。自分が使っている道具の有効範囲を、見失ってしまいます。自分だけの閉じた世界の中で、万能だと錯覚してしまいます。複雑怪奇で訳が分からなくなった状態を、真理に到達したと錯覚してしまいます。カントや西田幾太郎のように。

『空(empty)』と『0(zero)』の哲学的背景は同じです。このような哲学を、現代の人々は、『形而上学』と呼んでいます。形而上学は、存在と非存在の狭間、或いは、有と無の狭間に関する哲学的考察作業です。論じている当人が、何を論じているかを理解していない思考作業です。ただ、そこに日常の常識から隔離された曖昧さが存在していることだけは、動物的本能で感じ取っています。

それ故、『空(empty)』は、『無(nothing)』に見えるかもしれません。存在と非存在の両極端、或いは、有と無の両極端、或いは、偶数と奇数の両極端への分別智の問題と映るかもしれません。これら両極端への分別の問題と映るかもしれません。存在と無の違いは何処にあるのか。その分別や識別のポイントは何処にあるのか。空の対立概念は何だろうか、と。このような思考の枠組みの中で、回答を探しているかもしれません。

なお、存在と非存在の形而上学の問題は、哲学者とは、全く異なった視点から、その解決のヒントを得ることができます。生命現象を記述する為に必要となる制御工学の理論を構築していますが、自己保存系(ロボット)の時空認識に関する考察作業から得ることができます。

そのポイントは、「全ての哲学的問いは、最終的には、自己の生きる事との接点を探し求めている。」です。
だから、全ては、生きてみないと分かりません。生物(自己保存系)と時空認識の関係は、『生きる(自己保存)』に隠されています。

無くした指輪は、明るい街灯の下で探しても見つかりません。実際になくした暗い夜道で探す必要があります。明るい場所(言葉の世界)で哲学的空想に耽るのではなくて、実際に『生きる』という現実と向き合うことが大切です。
現実は暗くて曖昧で、モヤモヤしています。白黒がハッキリしていません。言葉で自己満足に浸ることができません。いつも、勝手に、自分の都合を無視している歯がゆい存在です。言葉で定義した瞬間に、現実では無くなってしまう厄介な存在です。その瞬間に、言葉によって作り出された先入観に変身してしまいます。
でも、それが現実です。その歯がゆい現実に目を向けることが大切です。心地よい言葉の世界から離れることが大切です。

8._1 意識感覚器官

科学的知識によって、空は理解できます。しかし、それで、空に至るとは限りません。当然、科学的知識を否定しても至ることはできません。知識は、手段として役立ちますが、拘りの対象ではありません。仏教も同様です。手段としては洗練されていますが、拘りの対象ではありません。

そのような科学的知識や仏教への拘りから離れることが大切です。それらは、無数にある手段のひとつに過ぎません。知識や仏教は、他に比べれば、遥かに洗練されていますが。しかし、ミイラ取りがミイラになったら笑い話にもなりません。知識や仏教への拘りは、自らがミイラになってしまう愚かな行為です。

原始仏教や空の哲学は、『意識は、感覚器官の一種である。』という知識を前提にしています。

我々人間は、六種の感覚器官を持っています。『眼、耳、鼻、舌、体』の五感以外に、意識によって作り出された第六番目の感覚器官、即ち、意識感覚器官を持っています。この『眼、耳、鼻、舌、体、意』の六種を『六根(six roots)』と呼んでいます。そして、この六つが、人間の知覚世界を作り出しています。

我々人間にとって、『意識する。』とは、意識感覚器官で知覚することを意味しています。

我々人間は、現実でないもの、即ち、意識感覚器官から生じている意識知覚によって、行動を生じさせています。例えば、愛や憎しみ、死の恐怖のように。そして、これが迷いや苦悩の原因になっています。

出来の悪い知的生命体の宿命です。我々人間は、現実と意識知覚された妄想を、識別できていません。生物学的に、まだ、不完全です。脳システムが、中途半端な進化段階にあります。

原始仏教は、そのような現実と、どう向き合うかを説いています。
難解な教義を説いている訳ではありません。

意識感覚器官の生物学的意味と工学的構造については、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。

スッタニパータ

原始仏教の教典『スッタニパータ』の中に、次のような興味深い一文があります。

雪夜叉が言った。「何があるとき世界は生起するのか?何に対して親愛をなすのか?世間の人々は何ものに執着しており、世間の人々は何ものに害(そこな)われているのか?」

師(ゴータマ)は答えた。「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親愛をなし、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに害われている。」

「それによって世間が害われる執着とは何であるのか?お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてくだされ。どうしたら苦しみから解き放たれるのであろうか。」

「世間には五種の欲望の対象があり、意(意識の対象)が第六であると説き示されている。それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから説き放たれる。」

出典「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 中村元訳 岩波書店

「世間には、眼、耳、鼻、舌、体の五感に根ざした五種類の欲望の対象がある。これ以外に、六番目の意(意識知覚)に根ざした欲望の対象もある。これら六つの感覚器官が知覚世界を作り出している。これら六つの知覚への愛着、執着が苦しみの原因になっている。」と、述べています。

即ち、「意識は五感同様の感覚器官である。これら六つの感覚器官からの知覚刺激(六根)が、欲望の原因になっている。そして、それへの執着が苦しみの原因になっている。」と述べています。

それ故、『六根清浄(ろっこんしょうじょう)(Six Roots Cleansing)と唱えます。
六つの根(感覚器官)から生じている六つの欲望を静めることが大切だと説きます。

六根清浄の石ぐるま

六根清浄の石ぐるま
高尾山薬王院の六根清浄の石ぐるまです。
石ぐるまの六面には、眼耳鼻舌身意の六文字が刻まれています。
高尾山薬王院:東京都八王子市高尾町2177

我々知的生命体は、眼耳鼻舌身意の六種の感覚器官(六根)から生じている知覚刺激によって、『行い』を生じさせています。そして、これが、同時に、迷いや苦しみの原因にもなっています。
それ故、これら六種の感覚器官(六根)から生じている六種の欲望を静めることが大切です。六根清浄です。

意識は、心の中を知覚対象とした感覚器官です。意識知覚している全ての事象は、心の中の事象です。夢と同じように、自らが生じさせたものです。
愛も憎しみも嫉妬も、そして、死の恐怖も、全ては意識の知覚対象であるが故に、心の中の事象です。「一切は、空なり。」です。夢と同じように、実体のないものです。

そのような愛や憎しみ、嫉妬、恐怖などの実体の無いものへの拘りから離れる事を希望します。

注)意識が感覚器官であることに気付いた人物が、もうひとり存在していました。ジークムント・フロイト です。


バラモン教典

パーリ語大蔵経の中部教典の中には、次のような一文もあります。

アーナンダよ、次にあげる十八の界(構成要素)、すなわち、眼と色形と視覚、耳と音と聴覚、鼻と香りときゅう覚、舌と味と味覚、皮膚と触れられるべきものと触覚、心と概念と意識の諸界がある。 

出典「バラモン教典 原始仏典」 中央公論社

原始仏教では、知覚は、感覚器官(Sensor)と、その知覚対象(Object)と、そこから生じる知覚刺激(Sense or Signal)の三つより構成されていると考えています。

知覚を構成する三つのもの

知覚を構成する三つのもの
知覚は三つの要素から構成されています。
1.感覚器官(Sensor)
2.その知覚対象(Object)
3.そこから生じている知覚刺激(Sense or Signal)です。

ちなみに、仏典では、感覚器官のことを『こちらの岸』、その知覚対象を『向こう岸』と表現しています。

人間は、『眼、耳、鼻、舌、体、意(Eyes,ears,nose,tongue,body,consciousness)』の六種の感覚器官(六根)を持っています。その感覚器官には、『光、音、香、味、物、色(Light,sound,aroma,taste,matter,image)』の六種の知覚対象が対応しています。そして、そこからは、『視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、意知覚(Eyes sense, ears sense,nose sense,tongue sense,touch sense,consciousness sense)』の六種の知覚刺激が生じています。合計18個の要素から、人間の知覚は構成されています。これを、十八の界(構成要素)と呼んでいます。
その主張を一覧表に纏めると、下図のようになります。

人間の知覚を構成する十八の構成要素

知覚を構成する十八の界
中部経典の主張を一覧表に纏めてみました。
人間には、六種の感覚器官が存在しています。
各感覚器官は、夫々三つの要素から構成されています。
合計、6*3=18 の界(要素)より構成されています。

仏教では、意識を感覚器官のひとつと捉えています。
その知覚対象を『色』と呼んでいます。
そこから生じている刺激を、『意知覚』と呼んでいます。

光:空間を飛び回っている光エネルギー(Photon)の事です。
音:空気中を伝わる振動エネルギーです。
香:空気中を漂っている化学物質です。
味:水の中を漂っている化学物質です。
物:この肉体と競合する存在です。物と肉体は、互いに排他し合います。
色:脳内部のイメージです。

意識も、眼や耳同様の感覚器官であって、そこから生じる知覚刺激を、『意知覚』と呼んでいます。つまり、意識している事象のことです。その知覚対象を『色』と呼んでいます。現代語に訳すると、『イメージ』が最も近い概念です。即ち、イメージは、脳内部の事象ですが、意識は、脳内部のイメージを知覚対象とした感覚器官です。

それは、夢を思い出して頂ければ理解できると思います。夢の時、意識知覚しているイメージは、外部感覚器官からの信号で作り出された世界ではありません。瞼は閉じている訳ですから、眼からの信号は届いていません。自分自身が生じさせた世界です。心の中の事情で作り出された世界です。

意識知覚している事象は、『愛も憎しみも』、『生も死も』、『時間も空間も物質も』、『宗教も哲学も科学も』、『現代の科学文明』自体が、全て、夢と同じように、意識の知覚対象であるが故に、脳内部の事象、即ち、イメージです。それらは、心の奥底で蠢いている欲望が生み出したものです。夢と同じように、自らが生じさせたものです。夢と同じように、実体のないものです。

意識知覚している一切は、空です。

そのような実体のないものへの執着が、苦しみや迷いの原因になっています。そのような苦しみや迷いから解放されたいなら、意識が執着している物への拘りから離れることが大切だと説きます。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。

残念ですが、人々が執着して止まない言葉は、欲望を正当化する為の手段としてしか使われていません。



意識という言葉の曖昧さ

現代において、意識という言葉は曖昧です。多くの意味を含んでいます。

意識感覚器官から生じている知覚刺激を、『意覚』と呼ばないで、『意知覚』と呼んでいるのは、まだ、意識感覚器官が一般常識ではない為です。どうしても、正確なコミュニケーションの為に、一般常識でない事項は、表現が冗長になってしまいます。
そもそも、『意識感覚器官』自体が冗長な表現です。例えば、『目』や『耳』などのように、この感覚器官を一語で的確に表現する単語が、まだありません。

もっと根本的問題として、『意識器官』と『意識感覚器官』の違いを的確に表現する単語がありません。意識器官はシミュレーションシステム本体を指し、意識感覚器官は、このシステムの入力装置を指しています。でも、このような厳密な表現を使っても、「何のこっちゃ?」という印象しか残らないと思います。益々、混乱すると思います。

意識器官』と『意識感覚器官』、『その知覚対象』、『そこから生じている知覚刺激』、『その知覚刺激への先入観、思い込み』、『意識という言葉自体』、この六つを正確に識別し表現する事は、現代の言葉と知識の範囲では、まだ、困難です。世間では『意識』というひとつの言葉が流用されています。現実の『意識』という言葉は、これら六つを含んだ広い意味を持っています。曖昧です。現代では、まだ、意識に関して、必要な知識とデータが蓄積されていません。空が誤解されている原因も、ここにあります。

意識という言葉が持っている六つの顔

1. 意識器官
2. 意識感覚器官
3. その知覚対象
4. そこから生じている知覚刺激
5. その知覚刺激への先入観、思い込み
6. 意識という言葉自体

ここでは、コミュニケーションの効率上、新しい言葉を作らないで、既存の言葉を使った冗長な表現を使っています。仏教も含めて、前提条件無しで読めるようにする為です。それは原始仏教の精神でもあります。難解な(曖昧な)仏教用語は極力使わないようにしています。仏教用語に毒されていない原始仏教の表現を使うようにしています。日々の生活実感で理解出来る言葉を選んで、意識のこれら六つの顔を表現するように努力しています。
(幸い、漢字は非常に造語能力の高い文字体系です。漢字を組み合わせた新しい造語は、ほとんど、ノーコストで伝わります。英語のように、本一冊書く必要がありません。)

意識という言葉に関連した様々な用例と意味

日常用語正確な意味と表現
意識する意識感覚器官で知覚する。
意識知覚している事象は、脳内部のイメージです。
意識しちゃダメ意識知覚している事象に拘てはいけない。惑わされてはいけない。
それは、現実ではありません。
愛も憎しみも、死の恐怖も、現実ではありません。夢と同じように、自らが生じさせたものです。

そのような意識知覚に心を奪われていると、目の前の現実が疎かになります。
現実から目を逸らすことになります。現実と妄想の狭間で、葛藤が生じてしまいます。
意識してやった意識知覚している事象に基づいて行動した。
思い込みで行動した。
心の中に猜疑心や恨みなどの負の感情があれば、悪意に満ちた行動になります。
邪念「意識しちゃダメ」と同じです。
現実以外のものに、惑わされてはいけない。
意識している世界仮想現実(virtual reality)

欲望によって生み出された脳内部の事象です。愛も憎しみも、生も死も、時間も空間も物質も自己も、宗教も哲学も科学も、現代の科学文明自体が、全て脳内部の事象です。意識にとっての知覚対象の世界です。(それ故、「一切は空なり。」です。)

人間が意識体験している世界は、『ゆめ(夢)、うつつ(現)、まぼろし(幻)』の三つがあります。生み出されている原因が、夫々異なっています。

まぼろし体験は、死後幻覚とか、臨死体験、もののけ、お迎え現象などと呼ばれています。キリストや仏像の後光も、まぼろし体験が背景にあります。
夢と同じように、ありとあらゆる体験があります。それ故、その体験内容によって、様々な呼ばれ方をしています。

なお、現代においては、現象の存在自体が認められていません。民間信仰や宗教的幻想と思われています。
意識器官肉体の架空行動(考える行為)を制御する器官。
その目的は、未知の状況に直面した時、それに対応する新しいプログラムを作り出す事です。即ち、意識器官はシミュレーターです。

我々人間は、未知の状況に直面した時に、意識器官を使った架空の試行錯誤(考える行為=シミュレーション)で、その状況に対応する新しいプログラムを作り出しています。

一方、他の動物たちは、直接肉体を使った試行錯誤で、新しいプログラムを作り出しています。
肉体を使うか、意識器官を使うか、他の動物たちと人間では、その対処方法が異なっています。同じ目的が、異なった器官、異なった手段で実行されています。この違いが、我々知的生命体を特徴付けています。


意識器官を使った『考える行為』は、生物学的には、架空の探求反射(架空の試行錯誤)を意味しています。それは、肉体を直接使った現実の探求反射に対応しています。
即ち、頭を使った考える行為は、体を使った体験学習の代用物です。

生物進化上は、模倣反射の延長線上にある機能です。それ故、模倣反射(ものまね)が可能な動物は、サルも象もイルカもカラスも、発達した意識器官を持っている可能性があります。イヌやネコなども、程度の差はありますが、それなりの意識器官を持っているものと思われます。

人間だけの機能ではありません。
意識感覚器官意識器官(シミュレーター)の入力装置

意識知覚している世界は、意識器官にとって、シミュレーションの場(仮想環境)です。意識感覚器官は、このシミュレーションの場を知覚対象としています。
考える意識器官を使って、肉体の架空行動(考える行為)を制御する。

生物学的には、意識器官を使った架空の探求反射(架空の試行錯誤)によって、新しいプログラムを作り出す行為です。(パースの主張)

なお、新しいプログラムを作り出す原理原則は、我々知的生命体も、他の動物たちも、同じです。試行錯誤、即ち、探求反射によって作り出しています。

ただし、使う器官は異なっています。動物たちは(直接)肉体を使って現実の試行錯誤を繰り返しますが、我々人間は、意識器官を使って、架空の試行錯誤を繰り返しています。この架空の試行錯誤行為を、世間では、通称、『考える行為』と呼んでいます。

考える行為』は、以上のように、生物学的には明確な意味を持っています。即ち、肉体を直接使った試行錯誤の代用行為です。我々知的生命体は、それを脳内部の信号処理だけで行っています。肉体を使うこと無く。。。それは、コンピュータを使ったシミュレーションと、理屈は同じです。
考えてから
行動する
未知の状況に直面した時、
まず、意識器官を使ってプログラムを作成し、その完成されたプログラムを使って実際の肉体を駆動する。

具体的には、意識器官は、脳内部の学習と密接に関連した部位、即ち、報酬系や罰系に、エネルギーを架空充当している。つまり、この部位を自己刺激する事によって、学習結果を成立させていると思われます。

それは、元々は、模倣反射(ものまね)による学習行為です。それ故、意識の原初的痕跡は、脳内部の視覚野の近傍にあるものと予測されます。視覚野の情報に基づいて、報酬系や罰系を自己刺激したのが始まりと思われます。つまり、見て、そして、真似る行為(模倣反射)の始まりです。
(もちろん、現在の主要な部位は、大脳前頭葉です。)

なお、詳細なメカニズムは、まだ不明です。現代の脳科学には、まだ、必要なデータが蓄積されていません。

(その原因は単純です。現代の脳科学者は、脳の制御原理を理解していません。それ故、探索方針が曖昧になって、つまり、闇夜の手探り状態になって、作業効率が悪くなっています。)
(スイッチを入れたら、テレビが写って驚いています。そして、「遂に、テレビの本質に辿り着いた。このスイッチこそがテレビの本質だ。」と主張しています。しかし、全ては、因果関係の連鎖を構成しているいち部品に過ぎません。その因果関係の連鎖全体を理解することが大切です。)

注)意識は、哲学者が考えているような観念的存在ではありません。物理的存在です。感覚器官の一種です。ただ、脳内部の情報処理システムなので、眼や耳鼻のように、手で掴んで、その存在を実感することはできませんが。

原因と結果の因果関係を観察することによって、始めて、その存在を確認できます。我々人間は、眼からの情報で行動を起こしていると同時に、意識知覚された情報からも行動を起こしています。
動物は、一般に、感覚器官からの信号、或いは、その信号で揺り動かされた欲望によって行動を起こしています。意識も、そのような行動の原因となっている感覚器官の一種です。



知的生命体の宿命

知的生命体は、意識器官(シミュレーター)を持ったが故に、これに翻弄されています。意識知覚された情報から、迷いや苦悩を生み出しています。
この知的生命体の宿命と、どう向き合うか、参考になる記述が、原始仏教にはたくさんあります。

ところで、他の天体の知的生命体、つまり、宇宙人たちは、この問題を、どのように克服しているのでしょうか?。死の恐怖と、どのように向き合っているでしょうか。人間と同じように、欲望まみれで、野蛮なままなのでしょうか?。それとも?。
他人事ながら、気になります。

意識器官の厳密な意味は、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。金剛般若教を理解する時にも必要になります。

意識知覚している世界の外側

空や仏教を、言葉や知識で理解しようと、四苦八苦されているかもしれませんね。堂々巡りで空回りしているかもしれませんね。籠に閉じ込められたハツカネズミが、だだひたすら、回し車を回し続けるように。

回し車

言葉や知識は、勝手に思い込んでいる心の檻です。
我々現代人は、幸い、肉体の外側に檻はありませんが、しかし、心の中には、言葉や価値観、知識と呼ばれる檻を持っています。人々の『行い』は、それに制限されています。そこに閉じ込められています。そして、その檻の中で動き回れることが、自由だと錯覚しています。

その檻の外側には、広大な未知のフロンティアが広がっています。足元に小石がゴロゴロと転がっている未開の荒野です。

現実に目を向けることを希望します。原因と結果の因果関係を観察することが大切です。

意識知覚している世界の外側

意識の外側
意識知覚している世界の外側には、広大な未知の世界が広がっている筈です。
しかし、我々には、それを知る術はありません。意識知覚された範囲内の世界しか知りません。
そして、それが世界の全てだと思い込んでいます。

最初期の原始仏教を支えた人々のプロファイル

最初期の原始仏教を支えた人々は、豊富な社会経験を持っていました。

日々の生活の中で、思い悩む事があって仏門を叩いた人々なので、酸いも甘いも味わい尽くしていました。だから、心の機微の表現が実に巧みです。とても、新鮮です。現代仏教のような教義中心の抹香臭さは全くありません。日々の暮らしで出会った出来事を例え話にして説かれているので、情景が瞼の裏に浮びます。

例えば、人々が物事に執着している様を、干ばつで干上がった川底の最後に残された小さな水たまりで、蠢いている魚たちの姿に例えています。「干からびかけた水たまりで、もがいている魚のようだ。」と表現しています。彼らは最後に残された小さな水溜まりに、必死に、しがみ付いて生きています。

8._2 般若心経

般若心経には、次のような有名な言葉があります。

色即是空(しきそくぜくう)
(Image is empty.)

仏教では、意識感覚器官の知覚対象を、『』と、呼んでいます。現代語に訳すと、『イメージ』が最も近い概念です。

人間が意識知覚しているイメージ(色)は、実体ではない。実体のない空っぽのものだ。(Image is empty.)
欲望によって作り出された脳内部の架空の事象です。今流行りの言葉を使うなら、それは仮想現実です。つまり、イメージ(色)は、仮想現実の構成要素です。実体の無いものです。

空即是色(くうそくぜしき)
(Empty is image.)

「何も無い空っぽのもの、それが、意識が知覚しているイメージ(色)だ。」(Empty is image.)と、述べています。

人々は、唯物論を信じています。だから、意識知覚している事象は実体だと思っています。イメージ(色)は、実体だと思っています。それ故、その事象に執着しています。実体だと思い込んでいるものに拘っています。

意識知覚しているイメージ(色)は、欲望が作り出している心の中の架空事象であって、実体ではありません。
実体のない空っぽのものです。(色即是空)

と、説いています。

般若心経の作者のプロファイル

般若心経の作者は、芸術家肌のヒラメキ屋さんタイプです。
どちらかと言えば、落ちこぼれ気味です。優等生という印象は受けません。
(落ちこぼれの悲哀が伝わってくる経典です。)

「和尚さんは、朝から晩まで、『空~、空~』言ってるけど、腹なんか減ってないわい!。あっ、それは『グ~、グ~』か。」って日々を送っていましたが、ある時、ふと。。。

あっ。そうか!。。。全ては空っぽだったのだ。最初から何も無かったのだ!。今まで、(空を理解しようと、)散々、拘ってきた自分がバカみたい。

と、気付き、、、その一瞬のヒラメキと感動を一気に文章にしました。消えてしまう前に、急いで。そんな情景が瞼に浮びます。

この為、非常に短くて直観的な文章になっています。『色即是空。空即是色。』と、直観的に思考を反転させて、繰り返しています。空は、本来、空っぽの状態を表現する形容詞の筈が、状態そのものを存在と捉え、名詞として使っています。このような用法は、言葉の文法に精通した優等生ではなくて、物事を感性で捉えている芸術家肌の特徴です。

般若心経が、現代において愛用されている第一の理由は、もちろん、短い為ですが、第二の理由は、感性で直観的に読めて、親しみ易い為です。(なにせ、作者は、芸術家肌のオチコボレですから。思考パタンが、我々凡人と近いのです。)

注意)色即是空は、賢者タイムのことではありません。

フ~。色事は所詮虚しいな、色即是空。虚しいものが色事なのか、空即是色。(Love is empty. Empty is love.)」ではありません。まさかとは思いますが、念の為。
(Love は、煩悩の象徴みたいなものですから、「当たらずとも遠からず」ではあるのですが。)

笑い話)「色即是空。空即是色。」の英訳は、(Image is empty. Empty is image.)が、感性的には一番ピッタリします。でも、文法的には、正しくないような。。。

そこで、「Empty is」で、ネットを検索してみました。すると、なんと、フランク・シナトラの歌詞がトップにヒットしました。

思わず、目が点、笑い転げてしまいました。辞書や用例集が出てくると期待していたのに、いきなりミュージシャンの歌詞が出てきたのです。せめて、学術的綺麗事で飾り立ててほしかったのに、あまりにも、生々し過ぎます。
やっぱり、般若心経の作者は、芸術家肌のオチコボレだったのです。言葉を文法ではなくて、感性で使っていたのです。『空(empty)』は、空っぽの状態を表現する形容詞の筈が、その状態そのものを、(直観的に)存在と捉え、名詞として使っていたのです。

8._3 金剛般若教

金剛般若教を、知識として正確に理解する為には、その前提になっている知的生命体の心の構造に関する知識が必要です。知的生命体の心の構造意識体験している3つの世界フロイトの夢理論を参照頂くと参考になると思います。心の深淵を覗けるかもしれません。
もし、使用している思考形式が気になる場合は、数学という学問についてを参照下さい。出来る限り、思考形式を標準化しています。思考作業を合理化、規格化しています。


金剛般若経には、次のような一文があります。

世界は世界に非ず。ゆえに、これを世界と名づく。
(The world is not the world. so,Named it world.)

(1):「あなたが意識知覚している『世界』という事象」は、
(2):「あなたが思い込んでいるような実体としての『世界』ではない。」
(3):だから、「その事象には、『世界』という言葉が対応しているのだ。」

と説いています。

言語体系の不完全さと自己矛盾から、同じ『世界』という言葉が使われていますが、この3つの言葉が指示している内容は、夫々異なったいます。

世界(1)は世界(2)に非ず。ゆえに、これを世界(3)と名づく。
(The world(1) is not the world(2). so,Named it world(3).)

世界(1)は、意識知覚している事象を指示しています。
世界(2)は、その事象に対する人間の先入観、思い込みを指示しています。人間は、意識知覚している事象を、実体だと錯覚しています。少なくとも、唯物論者は、そのように、思い込んでいます。
世界(3)は、音や文字として表現されている言葉そのもの(名札)を指示しています。

あなたが意識知覚している世界(1)という事象は、あなたが思い込んでいるような実体としての世界(2)ではありません。だから、その事象には、世界(3)という名札(名前)が付いています。

意識知覚を構成している三つのもの

世界構成物備考
世界(1)知覚知覚している事象
世界(2)先入観知覚している事象への先入観。(実体だという思い込み)
世界(3)言葉口から出ている音(言葉)。知覚の対象に付けられた名札。
意識知覚している事象の構造

意識知覚している事象の構造
意識知覚している事象は、三つの融合物です。
 1.感覚器官で知覚してる事象(Image)
 2.それに対する先入観。又は、実体だという思い込み;(Belief)
 3.言葉(Words)
この三つの要素とも、言葉で表象したら、同じ『世界』という言葉になります。
金剛般若経では、言葉は同じでも、これら三つの事象を厳密に区別します。
「世界(1)は世界(2)に非ず。ゆえに、これを世界(3)と名づく。」と。

世界(3):(世界という)『言葉』も、意識にとっての知覚対象です。
世界(1):(世界という)『意識知覚している事象』も、意識にとっての知覚対象です。
世界(2):(世界は実体だという)『先入観(思い込み)』も、意識にとっての知覚対象です。

これら三つのもの、即ち、『世界(1)、世界(2)、世界(3)』は、指示している事象は異なっていますが、共に、意識にとっての知覚対象です。それ故、この三つは、意識された世界の中で結び付くことが出来ます。
そして、その意識が知覚しいるものは、全て、脳内部の事象です。自らの欲望が生じさせた実体のないものです。

ちなみに、現代哲学では、この三つの事象は識別されておらず、ぐちゃぐちゃにして、ひとつのものだと混同しています。「言葉が同じだから、中身も同じだろう。」と思っています。即ち、「AはAに非ず。故に、Aなり。」と見なしています。理屈を超越した宗教的ドグマだと思っています。
自分に理解できないものを、宗教的な不合理、即ち、ドグマだと見なして、(自分を)慰めています。でも、現実は、言葉と、その言葉が指示しているものの区別が曖昧なだけです。言葉を思考の為の道具として使いこなせていないだけです。

我々現代人は、哲学者も含めて、「言葉には実体が対応している。」、つまり、言葉と実体は、一対一の対応関係にあると思っています。言葉、イコール、実体。 A という言葉は、A という実体と同じもの。即ち、同一のものだ。それ故、言葉と、その言葉が指示しているものを、区別する必要はない。同一視しても問題ないと思っています。
(これを、イザヤ・ベンダサンは、『化肉』と呼んでいました。化肉は、言霊信仰の一種です。当人は、それを真理だと思い込んでいましたが。)

哲学者の先入観:( 言葉 = 実体 ) 故に ( 言葉 + 実体= 一体のもの= 化肉= 言葉 )
言葉と、言葉が指示している実体を分けて考える必要はない。

注)記述が非論理的なのは、哲学者の思考が短絡的で非論理的な為です。
というよりは、言葉と実体を別物と考え、その対応関係を考察していない。単純に、「言葉が全て」と思い込んでいる。つまり、対応している筈の『実体』のことが、眼中にないような気がします。
「言葉=実体」、言葉と実体は対応関係にあると思っているのではなくて、「言葉[実体]」、実体は言葉の一部として取り込まれている。「言葉によって覆い隠されている実体の姿を明らかにすること」。つまり、「『無』という言葉に覆い隠されている『無の真実』を明らかにすることが形而上学だ。」と、ハイデガーは考えていました。
言葉は神が作ったものではなくて、欲望まみれの人間の生き様が反映されているだけなのに、この素朴さが不思議でした。それとも、「言葉は神が作ったものだ。神が隠した言葉の真実を明らかにする事が、哲学者の使命だ。」とでも思っていたのでしょうか。言葉が持っている曖昧さを、「神が真実を隠したせいだ。」とでも思っていたのでしょうか。言葉の曖昧さは、それを使っている人間の欲望の曖昧さに過ぎないのですけど。

一方、金剛般若教では、この区別が厳密です。言葉と、それが指示してる事象を厳密に区別します。「知覚しているA1は、思い込んでいるA2に非ず。だから、この事象にはA3という言葉が付着している。」と理解しています。簡潔に表現すると、「A1はA2に非ず。故に、A3と名づく。」です。

現代哲学 :AはAに非ず。故に、Aなり。
金剛般若教:A1はA2に非ず。故に、A3と名づく。

言葉で表示すれば同じ A ですが、指示している内容は、1,2,3 と夫々異なっています。
意識が知覚している三つの顔を、厳密に識別しています。

もし、存在する現象界が異なっていたら、この三つは結びつくことが出来ません。異なった現象界に存在する夫々の事象は、互いに独立となって、現象界の壁を越えて、互いに結びつくことはできないからです。

もし、現象界の壁を越えて結びつくことができるなら、それは、統合されたひとつの現象界に過ぎません。『外界を意識知覚した現象界』と、『先入観の現象界』と、『言葉の現象界』の三つの現象界が互いに関連し合って、ひとつの統合された現象界、即ち、『意識された世界(仮想現実)』を作り出しています。互いに関連し合うという性質(結びつき)によって、ひとつの統合された現象界が作り出されています。
数学で言えば、夫々は部分集合です。全体集合の一部です。

意識された世界
(金剛般若経の世界)

意識された世界
意識された世界は、知覚された現象界、先入観の現象界、言葉の現象界の三つが、互いに関連し合って構成されています。
この三つの現象界が統合されて、ひとつの意識された世界が作り出されています。

言葉で表現できるという事は、(即ち、言葉と結びつくことができるという事は、)それが意識にとっての知覚対象、つまり、脳内部の事象であることを意味しています。そして、それは、先入観と、それへの執着の支配下にあります。

空は空に非ず。ゆえに、これを空と名づく。
(Empty is not empty. so,Named it empty.)

意識知覚している事象は、全て脳内部の事象です。
全ては、色即是空、空っぽです。
『空』という言葉自体も、実体のないものです。

「空は空性に非ず。ゆえに、これを空と名づく。」と表現した方が、分かりよいかもしれませんね。仏教学者が拘っている空性は、「空には、空性と呼ばれる真理が存在する筈だ。」「言葉が存在しているから、その言葉に対応する実体も存在している筈だ。」という思い込みです。

金剛般若経の作者のプロファイル

金剛般若経の作者は、仏教界随一の理論家です。

非常に、論理的に正確に表現されています。不完全な言語体系を使って、よく、ここまで正確に表現できたものだと、感心してしまいます。

彼の生きていた時代には、まだ、数学や物理学の思考法は確立されていませんでした。唯一、使えた道具は言葉だけでした。しかし、言葉は本質的に非論理的です。日々の暮らしの中で作られたものなので、人間の生き様が強く反映されています。日々の欲望がこびり付いています。そして、その欲望は複雑怪奇です。それ故、捉えどころが無くて曖昧です。正確な思考には向きません。

実際、言葉のプロである筈の哲学者も、言葉を思考の為の道具として使いこなしていません。そんな哲学書、今までに、ほとんど読んだことがありません。カントも、ハイデッガーも、西田幾多郎も、みんな言葉にもて遊ばれていました。言葉を道具として使いこなせていませんでした。
そんな不完全な道具を使って、よく、ここまで正確に表現したとは!。

金剛般若経は、まるで、数学や物理学の本を読んでいるみたいです。現代に生きていたら、きっと、優秀な物理学者になっていたでしょう。
(ここでも、物理学の本を読む要領で読んでいます。物理記号を、実際の物理現象に変換しながら読んでいます。言葉は記号、つまり、名札に過ぎません。現実ではありません。)

ただし、口減らしの為に、幼くして寺に預けられたのでしょう。社会経験がほとんどありません。欲望まみれの心の機微が一切表現されていません。最初期の原始仏教のような面白味はありません。物理学や数学の本のように、全く味気ない文章です。

般若心経のように、直観的で親しみやすい経典でもなければ、法華経のように、心を揺さぶる経典でもありません。仏教オタクでないと読む気がしない味気ない経典です。



注)金剛般若経が成立した時代には、まだ、『空』という言葉が成立していなかったみたいです。そのような最初期に説かれた空の哲学です。だから、『空』という言葉を使わないで空を説くために四苦八苦しています。逆に、空という便利な言葉に誤魔化されていないので、参考にもなります。

後世の仏教は、空という便利な言葉を見つけて安心しています。現実と向き合う努力を怠っています。空理空論の空想で、空を分かり辛くしています。その根底にあるのは、「唯物論と唯識論」への拘りと執着です。この両極端の枠組みの中に、思考を閉じ込めています。この言葉と知識の枠組みの範囲内で、空を理解しようとしています。『行い』として、『空』を捉えようとしていません。『行い』と『結果』の因果関係を観察しようとしていません。残念です。



注)『空(empty)』は、数学の『0(zero)』の概念に似ています。両者とも、「何もない」状態、即ち、「空(から)」の状態を表現した記号です。籠の中に、リンゴが一個も入っていない状態、即ち、「空の籠」を表現しています。存在しているものに言葉を割り当てるのではなくて、存在しない状態に言葉や記号を割り当てています。

歴史的にも密接な関係を持っている可能性があります。両者とも、古代インドで同じような時期に成立しました。

各教典の成立年代は、金剛般若経が紀元前後、般若心経が、300~400年頃と推測されているみたいです。金剛般若経には、空の概念は確立していましたが、『空』の言葉が使われていません。ところが、般若心経の頃には、仏教の常識として、『空』という言葉と概念が、既に確立していました。

ちなみに、数学のゼロが確立されたのは、5世紀頃と思われています。ちょうど、各種般若経典の成立時期と、ゼロの成立時期が重なっています。(インドのことなので、誤差は100年200年程度は充分にあります。

しかも、当時、空とゼロは、同じ言葉で、「シューニャ」と呼ばれていたみたいです。

逆に、金剛般若経が成立した頃には、まだ、数学の「ゼロ(シューニャ)」が成立していなかった可能性もあります。だから、金剛般若経に「空(シューニャ)」が使われていなかったのかもしれません。
でも、金剛般若経の作者自身は、言葉は確立していなくても、『ゼロ』、つまり、『空』の概念自体は理解していた?。だとしたら、金剛般若経が、数学や物理学と同じ発想パタンになっていた理由が頷けます。彼には、数学的素養もあった?。
数学の「ゼロ(シューニャ)」が確立された時期は、一、二世紀の頃かもしれません。明文化されて、歴史的資料として、確認できるようになったのは、5世紀(般若心経)頃ですが。少なくとも、金剛般若経よりは後、般若心経よりは前と思われます。(仏教用語として)常識化する為には、少なくとも、50~100年程度は必要と思われますので、数学の『ゼロ(シューニャ)』が成立したのは、般若心経よりも100年以上前と思われます。

ゼロと空(empty)は、成立過程が同じ双子かもしれません。ひとりは、西の数学の世界に行ってゼロになり、もう一人は、東の仏教の世界に行って空となった。そして、いま、(西回りと東回りで巡り巡って)地の果て極東で再会を果たした。着ている服は、かなり異なって別人に見えるけど、顔と心には、まだ、その面影が残っていた。そうだと、夢があっていいですね。



参考)法華経の作者のプロファイル

ちなみに、法華経の作者は、新興宗教の超優秀なリクルーターです。

大衆操作の手法が駆使されている為に、つまり、巧みな例え話が駆使されている為に、まるで、蜘蛛の巣が虫を捉えて弄ぶように、人々の心を捉えて弄んでいます。多くの人々の心を揺さぶっています。
しかも、『嘘も方便』という言葉は、「目的が手段を正当化する。」という極めて危険な思想です。この為に、法華経は、鼻薬が効き過ぎて、戦闘的性格の教団を生みやすい傾向にあります。仏教界では、珍しいことです。

大衆操作の手法が駆使されているので、大衆受けはいいのですが、一歩間違うと、(既に勘違いしている教団もあるみたいですが。)、あまり、いい結果は生みません。出来るだけ、速やかに、離れることを希望します。副作用が大き過ぎます。

その結果だけを観察していると、仏教版資本論みたいな経典です。いや、逆ですね。年代的には、法華経の方が古いので、マルクスの資本論よりも先輩ですね。欲望の正当化の手法がよく似ています。両方とも、『いい。わるい。』の絶対的価値観を使って説かれています。

マルクスは、労働者と資本家の欲望の対立を、労働者の側に立って正当化しました。労働に、絶対的価値があると見なしていました。両者の欲望の対立を『階級闘争』と称して、資本家を暴力で打倒する正当性を主張しました。その結果は当然の結末となりました。独善的独裁政権が誕生してしまいました。「あいつはブルジョアだ。階級の敵だ。」と濡れ衣を着せ、共産党内部や民衆の間で『階級闘争』が行われ、粛清の嵐が吹き荒れてしまいました。
綺麗な言葉で飾られた『理想』ではなくて、『欲望の正当化』という行いが結果を生み出したからです。残念ですが、粛清を経験していない共産党政権はひとつも存在しません。血で血を洗う路線闘争で、自らの正当性を主張して、粛清(物理的に抹殺)しまくった政権ばかりです。

法華経も、このような傾向を持っています。戦闘的性格を持った教団を生み易い傾向にあります。結果は、言葉からではなくて、行いから生まれます。言葉は、欲望を正当化する手段としてしか使われていません。

法華経で使われている三つの大衆操作の手法

法華経を、ぱっと読んだだけでも、次の三つの大衆操作の手法に気が付きます。

  1. いい悪いの価値観を使っているので、歯切れがよく、理解し易い。
  2. 同じ話しが、2度繰り返されている。一度目は物語として、二度目は詩の形で。
  3. 「目的が手段を正当化する。」という危険な考え方が使われている。

1. いい悪いの価値観を使っているので、歯切れがよく、理解し易い。

法華経は、仏教経典では珍しく、『いい。悪い。』価値観を使って経典を組み立てています。

多くの仏教経典に見られるような「いい、悪い」が曖昧なフニャフニャ感がありません。仏教経典を読んだら、いつも、「言っていることは分かるけど、それで、何がしたいの?。何が言いたいの?。白黒をハッキリさせろよ。」という消化不良の苛立ちが残ります。いつも、禅問答です。

でも、法華経は、それを感じさせません。寧ろ、「我が意を得たり。」と実感します。「法華経を信ずることは、いい事。」「法華経に反することは、悪い事」と、白黒をハッキリさせているからです。人々は、自己の欲望を正当化できるものを常に求めています。法華経は、始めて、『いい。わるい。』の道を示してくれました。願いを叶えてくれました。白黒がハッキリしているので、歯切れがよく、理解し易いのです。

でも、原始仏教では、「いい。悪い」の拘りから離れなさい。「最終的には、仏教への拘りからも離れることが大切です。」と説きます。仏教への拘りは、教団と言う組織が生み出している利益への執着に過ぎないからです。そのような執着からは、多くの副作用が発生してしまうからです。

仏教の根本理念に反しています。

2. 同じ話しが、二度繰り返されている。

法華経は、同じ物語を二度繰り返しています。一度目は物語として、二度目は詩の形で。

この為、復習効果を発揮して、頭に残り易い傾向にあります。
とくに、二度目は詩の形になっているので、論理的思考によってではなくて、感性で理解できるようになっています。相手を、現実や理屈の世界から遮断して、思考停止させて、法華経の世界に引きずり込んでいます。
有難味が醸し出されています。訳文でこれだけですから、彼が語った元の言語では、言葉の微妙な感性と印象が加わって、もっと、もっと、感動的だったと思います。彼には、アジテーターとしての才能もあります。

こんな手法、始めての体験です。

3. 目的が手段を正当化する。

『嘘も方便』という考え方は、非常に危険な思想です。

「目的が手段を正当化する。」という考え方です。
「人々を救済する目的なら、即ち、尊い教えの布教の為なら、嘘という手段も許される。」という考え方は、想像を絶する副作用を生み出します。非常に危険です。カルトを生み易い下地を持っています。

人間という動物は、そこまで、出来は良くはありません。
現実は冷酷です。(法華経を経典とする)多くの教祖たち(動物)は、『人々の救済』と『自己の欲望』をダブらせて、『人々の救済』を錦の御旗に立て、『自己の欲望』を実現させようとしています。自らの欲望を正当化するには、実に便利な言葉です。この便利な言葉を使って、多くの善良な人々を、自らの欲望の渦に巻き込んでいます。独占欲、支配欲のオナニーの道連れにしています。

性欲に翻弄された教祖様もいました。「魚心あれば水心」で、必ずしも女性が被害者と断言出来ない所が辛い現実ですが。両者とも、性欲と権力欲に翻弄されていました。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。

『行い』そのもが結果を生み出しています。それ故、どのような『行い』をするかが重要です。

「教団(組織)を作る。」という行い自体は、欲望の産物です。組織は、様々な利益を生み出します。お金だけでなく、支配欲、場合によっては性欲も満足させてくれます。宗教教団とて例外ではありません。教祖様たちは、それに翻弄され、しがみ付いていました。

欲望は、いつも、綺麗な言葉で飾られています。『人々の救済』といリベラル好みの綺麗な言葉は、魅惑的過ぎるので間違いを誘発します。みんな、耳障りのいい綺麗な言葉に、よろめいています。

教団(の利益)は、経典によって、理論武装されています。年増女の厚化粧のように、「これでもか、これでもか」と、飽くなき信念によって、言葉が塗り固められています。

『嘘を付く』という『行い』自体が、悲惨な結果を招きます。
言葉による欲望の正当化に翻弄されないことを希望します。

法華経は禁じ手を使い過ぎです。確かに、リクルートの効率が良くなるのは認めますが、その副作用が大き過ぎます。ウソも方便は、欲深い教祖様を生み出します。いずれにしても、法華経は、反面教師として、教えらることの多い経典です。(「ミイラ取りがミイラにならなければ」の話ですが。)

8._4 行いと結果の因果関係

人間も含めた動物は、感覚器官からの信号で行動を起こしています。
その因果関係を辿ると、様々な事が見えてきます。

知覚

まず、感覚器官からの信号で、欲望が活性化されます。例えば、獲物の映像は、肉食動物の食欲を刺激します。

一方、欲望を刺激しなかった信号は、雑音として無視され、流れ去ってしまいます。
例えば、満腹の時などです。満腹の時には、食欲は刺激されません。欲望が刺激される為には、待機状態になっている必要があります。

或いは、自己の生存と密接に結びついていない場合です。
例えば、昆虫たちは、ある特定の状況に特化して生きています。この為、大部分の信号は、自己の生きる事と結びついていません。そのような餌と関係ない信号は無視されます。自らの生きる事と密接に結びついた信号にのみに、鋭敏に反応しています。
今西錦司は、このような事情を、『状況の主体化』と呼んでいます。状況の主体化は、環境からの信号を、自己の生きる事と直接結び付いた情報に変換する行為です。生きる事と結びつかなかった信号は、(情報に成れずに、即ち、主体化されないで、)雑音として流れ去ってしまいます。

行動

刺激された欲望は、行動を生み出します。食欲は、獲物を捕まえる行動を生じさせます。草食動物なら、草を食べようとします。

結果

行動は、何らかの結果を生みます。捕食行動の結果、肉食動物は食欲を満足させます。餌となった草食動物は、そこで一生を終えます。欲望の達成には、往々にして、副作用が伴います。

知的生命体

人間の場合も、原則は同じですが、ただ、二点だけ他の動物たちと異なっています。
人間は、第六番目の感覚器官、即ち、『意識』を持っています。意識感覚器官で知覚された情報に基づいて行動を生じさせています。
二番目の問題は、『言葉』を持っていることです。言葉が、欲望を先鋭化させ、増幅しています。それ故、水と油のように、問題の解決を困難にしています。

【人間と他の動物たちの相違点】

第一の相違点は、意識感覚器官を持っていることです。
第二の相違点は、言葉を持っていることです。



第一の相違点は、意識感覚器官を持っていることです。

第六番目の感覚器官、即ち、意識感覚器官からの知覚刺激によって、他の動物には見られない行動が生み出されています。

現実ではないもの、即ち、意識知覚に基づいた行動が、人間を特徴づけています。人間は、しばしば、意識が作り出した空想相手に行動を起こしています。

そして、残念ですが、その副作用として、これが、しばしば知的生命体の苦悩や迷いの原因になっています。人々は、心の中に生じさせたもの、即ち、愛や憎しみ、猜疑心、恨み、劣等感、悲しみ、死の恐怖などを、存在する実体だと錯覚して、身を焦がしています。「自分は悪くない。あいつが悪い。」で、自分の惨めさの原因を他人のせいにしています。そして、本来は関係のない相手に刃を向けています。

他人のせいにしても問題は解決しません。先送りされるだけです。先送りが、ドンドン積み重なって、やがて、ストレスと苛立ちが我慢の限界を超えます。そして、その結果は、。。。。ドカーン!

本来は、外部感覚器官からの信号に基づいて行動を起こすべきです。現実に基づいた行動を起こすべきです。意識知覚された仮想現実(空想)に基づいた行動は、しばしば、不幸な結果を招きます。現実に基づかない行動は破綻します。

哲学者や思想家が大好きな絶対的価値観も現実ではありません。脳内部の仮想現実です。目の前の現実を無視して、絶対的価値観(仮想現実)に基づいて行動を起こすと、高い確率で破綻します。結果は、運次第です。いつも、崇高な理想が破綻する原因は、これです。

車を運転する時は、しっかり前を見ることが大切です。
崇高な経典を読みながら、わき見運転していると、事故ります。いくら「この道は真っ直ぐだ。」と、崇高な経典で説かれていても、現実の道は曲がりくねっています。昨日の道は右に曲がっていましたが、今日の道は左に曲がっています。明日の道は、どうなるか分かりません。日々刻々と変化します。

崇高な理想は、いつも、『人間は欲望を持った存在だ。』という暗い現実を無視しています。そして、結果は、いつも、『理想』によってではなくて、その『無視された暗い現実』、つまり『欲望』によって生み出されています。結果は、いつも、欲望と欲望の対立と衝突によって生み出されています。何度失敗しても、懲りません。言葉によって、惨めな結果を飾ることばかりに、夢中になっています。他人のせいにして、言い訳ばかりに終始しています。「自分は悪くない。」と思っているので、反省することはありません。改善されることもありません。
そして、それに一通り飽きたら、また、同じ事を繰り返します。また、同じ間違いを繰り返します。

これを仏教では、通称、『輪廻転生』と呼んでいます。
「欲望を持ち続ける限り、その欲望によって、同じ間違いを繰り返す。だから、間違いを繰り返したくなければ、行いの原因となった欲望を静めることだ。」と説いています。

ところが、ある時、突然、ほんとうに突然、インドの土着信仰と結びついて、これが輪廻転生の生死観に変りました。そして、それ以後は、仏教を代表する理念になりました。
輪廻転生のドグマが成立する瞬間を目撃したくて、読み漁ったのですが、ダメでした。確認できない程、短時間に、完成された姿で、突然、目の前に現れました。(普通は、紆余曲折の過程を観察できる筈なのですが。)

ヤドカリ

輪廻転生の生死観自体は、元々の原始仏教には無い考え方です。『当たらずとも遠からず。』ではあるのですが、微妙に、誤解を招きます。輪廻転生自体は、命に対する執着でしかないからです。「命は永遠だ。」と思い込みたいだけだからです。浜辺のヤドカリが次から次へと殻を取り換えるように、命も、次から次へと、肉体の殻を取り換えていると思っています。そこに、安住できる気休めを見つけています。



命は輪廻する物でもなければ、転生する物でもありません。輪廻しない物でもなければ、転生しない物でもありません。永遠の物でもなければ、永遠でない物でもありません。両極端への拘りを捨てることです。命への拘りを捨てることが大切です。

意識知覚している事象と、どう向き合うか、参考になる記述が原始仏教にはたくさんあります。


第二の相違点は、言葉を持っていることです。

言葉は、困ったことに、行動の原因となった欲望を正当化する為に、総動員されています。この為に、膨大な労力が投入されています。大量のエネルギーが浪費されています。しかも、問題の本質を見え辛くして、複雑怪奇にしています。言葉が、欲望を自己増殖させ、先鋭化さています。確固たる不動のものにしています。

いい事なんて一つもありません。
もし、言葉を無効に出来るなら、もう少し、行いの原因となった欲望と向き合う事が簡単になります。人と人との欲望の対立を解決することが容易になります。言葉は、水と油にように、物事を決定的に解決困難な問題に変身させています。

もし、言葉に投入されているエネルギーを、他の方向に向ける事が出来るなら、もう少し、マシになるのですが。。。。返す返すも、残念です。

言葉は、建前上は、コミュニケーションや思考の為の手段と思われています。
でも、コミュニケーションを、注意深く観察すると、往々にして、自分の都合を相手に押し付ける為に使っています。
思考は、自分を納得させる為に、、、いや、違いますね、、、自己満足に浸る為に使っています。

人間は、便利な言葉を見つけた瞬間に、、、、ほんと、その瞬間に、「一件落着」と安心して、現実への興味を失います。現実から目を逸らして、言葉ばかりを見つめ始めます。

空の説明も、結局は、頭の飾りになった時点で、つまり、自己満足が得られた時点で、任務完了のような気がします。そこから先がないような気がします。理解は、あくまでも手段であって、目的ではありません。言葉で理解する事が、目的化しなければいいのですが。健闘を祈る。


行いと結果の因果関係の図解

以上の過程を図に纏めると、下図のようになります。

人間という動物の生き様の因果関係

人間という動物の生き様の因果関係
1. 六種の感覚器官(6根)からの信号によって、『欲望』が活性化されています。
2. その活性化された『欲望』から、『行い』が生じています。
3. そして、その『行い』によって、『結果』が生まれています。

それ故、もの事は、『行い』と、そこから生じる『結果』の因果関係によって判断されます。

ところが、人々は、
言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。
言葉ばかりに、心を奪われています。

なお、欲望と共鳴しなかった信号は、雑音として、無視されます。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。
『言葉』は、『行い』の原因となっている『欲望』を正当化する為に、総動員されています。

8._5 もうひとつの道

我々人間の未来には、『ありとあらゆる価値観から、心を解放する。』道もあります。

この21世紀初頭という時代は、人々の心を支配している価値観が、『神』から『科学』に移り変わっている時代です。即ち、『科学教』の時代です。

人々は、『神』ではなくて、『科学』という価値観を信じ始めています。『神』という言葉と価値観を否定しています。自らの行動も、宗教的価値観によって律するのではなくて、科学的価値観で律しようとしています。

『神』という宗教を否定して、『科学』という宗教を肯定しているので、自らは無神論者と思っています。神という言葉を否定しているので、『神を否定している者』、即ち、『無神』論者と見なしています。そのような差別化によって、自らの優位性を正当化しています。かつて、新興教団が、既存の旧体制派教団を否定してきた道と同じです。

しかし、『行い』と『結果』の因果関係に目を向けると、相変わらず、価値観を信じている『行い』自体は変っていません。言葉と価値観が、神から科学に代わっただけです。「科学の果ての宗教」(内村剛介)です。相変わらず、人々は、信じている価値観に従って行動しています。浜辺のヤドカリが、次から次へと殻を取り換えるように、「今度こそは!」と期待に胸膨らませて、新しい価値観に着替えています。

彼らは、価値観の檻の中に、自らの心を自ら進んで閉じ込めています。動物園の動物たちのように、檻の中の方が安心できるとでも感じているのでしょうか。まるで、『価値観の奴隷』のようです。

神を肯定することによっても、神を否定することによっても、平安は得られません。教団の利益に貢献するだけです。科学を肯定することによっても、否定することによっても、平安は得られません。科学的武器の開発が促進されるだけです。

もの事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。『言葉』を否定することによっても明らかとはなりません。『形』によっても明らかになる訳でもありません。『形』(偶像崇拝)を否定することによっても明かとはなりません。
何かの『価値観』を肯定することによっても、否定することによっても、何かが得られる訳ではありません。

現実は、『行い』によって『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行いと結果の因果関係』を観察することが大切です。

我々人間の未来には、『ありとあらゆる価値観から、心を解放する。』道もあります。価値観に囚われない道です。価値観の奴隷からの解放の道です。自由な心を取り戻す道です。

『行いと結果の因果関係』に基づいて、自らの『行い』を律する道です。

最終的には、仏教への拘りからも離れることが大切です。
娑婆への拘りは捨てれても、仏教への拘りは捨てれなくて、翻弄されている人々もいます。

注)原始仏教では、価値観のことを、『両極端』と表現しています。「いい。わるい。」の価値観のように、対立する両端から構成されているからです。その対立が、白と黒のコントラストのように、極端で鮮やかだからです。
「価値観への拘りから離れなさい。」は、「両極端への拘りから離れなさい。」と、表現されています。

参考1)フロイトの夢判断

意識が感覚器官であることに気が付いた人物が、もうひとり存在していました。
『ジークムント・フロイト 』です。19~20世紀初頭のドイツの精神科医です。

彼は、その著書『夢判断』で、意識のついて、次のように述べています。

では、我々の叙述の中で、かつては全能であり、他の全てのものを覆いかくしていた意識に対して、どんな役割が残されているのか。

それはすなわち、心的性質を知覚するためのいち感覚器官以外のものではない。我々が図式によって示そうとした試みの根本思想に従えば、我々は意識知覚を、省略記号Bw(意識)で現される特殊な一組織の独自な業績としてのみ、捉えることができる。

この組織はそのメカニックな諸性質に於て知覚諸組織Wに似ていると考えられ、それゆえ性質によって興奮させられるが、変化の痕跡を保持することができない。

つまり記憶力を持たない。知覚組織の感覚器官をもって外界に向けられている心的装置は、それ自身が意識の感覚器官にとっては外界であり、この関係にこそ意識の目的論的な存在理由がある。

出典「夢判断(上、下)」 S.フロイド著 高橋義孝、菊盛英夫訳 日本教文社

つまり、「意識は、自己の心的システムを知覚対象とした感覚器官である。眼が外界を知覚対象とした感覚器官であるように、意識は、自己の脳(心的システム)を知覚対象としている。」と述べています。

世の多くの哲学者や思想家が、意識を『観念的存在』として捉えていたのに対して、フロイトは、物理的存在、即ち、『感覚器官』と捉えていました。

ゴータマ・シッダッタとフロイトが、2500年の時を隔てて、同じ結論に辿り着いていたのには、驚かされました。

注)ゴータマもフロイトも、まぼろし体験の経験者だろうと推測しています。
ゴータマは、苦行による幻体験によって、フロイトは、コカインの薬物幻覚によって、この知識を得たものと思われます。確かに、二人とも、心の中を覗く技術に優れていましたが、それだけでは、この結論には至りません。夢は全ての人々が毎日見ていますが、夢体験から、この結論に辿り着いた人はいないからです。

ゆめ(夢)体験はコントロールできませんが、まぼろし(幻)体験はコントロールできます。「コントロール出来る」ことに気が付いた時に、始めて、実感します。「全ては自分自身が作り出したものだ。」と。

注)夢の正体

フロイトは、『夢は願望充足行為だ。』と考えていました。多くの人々は、気に入らない、つまり、受け入れたくないと思いますが、でも、自分は事実だと思っています。
『願望充足』という言葉が誤解を与えています。『ストレスの発散行為』と置き換えれば、もう少し理解を得られるのではと思います。

願望充足の最も原初的な行為は、八つ当たりや趣味、ショッピング、スポーツによる溜まったストレスの発散です。この行為の場合、ストレスの原因と、発散先には何の因果関係もありません。ともかく、ストレスを発散すれば、願望は充足され、スカッとします。皿やビンを、壁に力一杯投げつけて壊せば、スカッとします。一時の快感に過ぎませんが、それでも、一瞬だけ、満足体験が得られます。

夢もこのようなストレスの発散行為です。性欲などのように、社会的制約によって運動器官に向かって発散できない困った欲望を、意識器官に向かって発散して、そこで、『架空の願望充足(夢)』に耽っています。肉体の具体的行動によって充足できない欲望は、意識器官に向かって放出され、そこで、『架空の願望充足(夢)』が起こっています。

夢が、覚醒時の行動に影響を与えないのも、このストレスの発散と密接な関係があります。ストレスが発散されると、心の中の(行動の)原因が消滅してしまう為です。ストレスの発散によって原因が消滅するので、行動も生まれません。つまり、夢は、ストレスが発散されるので、欲求不満が解消されて、覚醒時の生活に影響を与えません。

ただし、背後では、ストレスの発散という重大な影響を与えています。心の健康を保っています。
でも、この影響は目には見えません。見えない為に見過ごされている点で、(存在していない点で、)数学のゼロと、どことなく似ています。人々は、存在しない物(無)には、あまり興味はありません。存在している物(有)にのみ、興味を持ちます。

参考2)現代仏教における意知覚の扱いについて

現代仏教においては、「意識は感覚器官である。」という理解が、薄いように感じられます。

経典で説かれているから知識としては理解しているが、しかし、実感としては、いまいち、ピンときていないみたいです。仏教の伝統として、受け継いでいるだけのような印象を受けます。場合によっては、理不尽な宗教的ドグマだと見なしています。

空理空論の空想で、難解な仏教用語が、一人歩きをしています。何とか、言葉と知識で理解しようと四苦八苦しています。理解しようとするから、益々、空理空論が空理空論を生み出して、混迷の度合いを深めています。この姿は、現代哲学と、何処となく、似ています。現代哲学も、空理空論の積み重ねで、混迷を極めています。

このような事情は、インド仏教最後期を代表する学者、モークシャーカラグプタの著書『タルカバーシャー』の言葉が、全てを物語っています。

意知覚というものは、教典の中に出てくるのであるが、しかし、その存在を確定する証拠はなんらないというのが実状である。世尊(仏陀)は、「比丘(教団の修行僧)たちよ、色形はときとして二種(の認識)によって認識される。すなわち、眼(視覚)とそれによって引き起こされる意(意知覚)とによってである。」と言われたのである。

通常の経験に適合しないものを述べてみて、いったいなんの役にたつのか、と言うかもしれないが、この場合の目的は、もし意知覚が上述のように定義しうるものならば、なんの誤りもないし、したがって、それによって教典のことばにまちがいのないことも教えられる、ということなのである。

論理のことば (中公文庫)
モークシャーカラグプタ (著), 梶山 雄一 (翻訳)

彼の言葉は、1000年前にもかかわらず、現代仏教の実情を、実に的確に表現しています。これ以上、付け足す言葉はありません。

「通常の経験に適合しないもの」と、彼は述べていますが、彼は、その肝心の通常の経験をしていません。

確かに、意識感覚器官は、脳内部にあるので、眼や耳鼻などのように、手で直接触って確認することはできません。その意味では、通常の経験には適合していません。唯物論の先入観には適合していません。

しかし、原因と結果の因果関係に興味を持っていたなら、その存在に気が付いたと思います。意知覚によって、行動が生じていることに気が付いたと思います。

意識感覚器官から生じている知覚刺激を、仏教では、『意知覚』と呼んでいます。

我々人間は、眼で見た景色、耳で聞いた音で、行動を起こしています。それと同じように、意識感覚器官から生じている『意知覚』によっても、行動を起こしています。
動物は、一般に、感覚器官からの知覚刺激で、行動を起こします。意識感覚器官も、そのような感覚器官のひとつです。
それ故、意知覚から、どのような行動が生じているかを、観察する事が大切なです。
それが、原始仏教の心だった筈です。現実だけが、最良の教師であり、反面教師です。

現実に目を向け、原因と結果の因果関係を観察していれば、気が付いた筈です。意識感覚器官からの刺激(意知覚)で、『行い』が生じていた事に。
彼は、皮肉にも、通常の経験には興味が無かったみたいです。

彼は、確かに、経典には興味がありました。その知識も豊富だったみたいです。でも、それだけです。『行い』にはあまり興味が無かったみたいです。現実世界への興味を感じられません。薄っぺらです。

現代仏教の姿と、何処となく重なります。

参考3)共通智と分別智

仏教用語には、『分別智』という言葉があります。

良く似た二つの事象を比較して、その相違点を抽出する能力です。
一般に、人間の知能と言えば、この『分別智』を指しています。如何に良く似た二つの事象の違いをセンシティブに指摘できるかが、才能だと思われています。

分別智は、別名、価値判断能力の事です。情報を、「いい、悪い」等のように両極端に分別するの能力です。仏教では、価値判断や価値観の事を、『両極端』と表現しています。「いい、悪い」等の価値観のように、両極端のコントラストが鮮やかな為です。

分別智、価値判断は、情報を「いい、悪い」等の両極端に分別する能力の事です。

分別智の反対語

『分別智』の反対語は、『無分別智』と、仏教では主張しています。

しかし、これは安易過ぎます。ただ単に、否定語を付加しただけの表現に過ぎないからです。これでは、「どう行動すれば良いのか。」、その具体的『行い』が見えてきません。

『分別智』の反対語は、『共通智』です。でも、残念ながら、『共通智』の概念は誰も主張していません。

『共通智』は、ふたつの全く異質な事象の根底に横たわる共通の性質を見つける能力です。人は、とかく、相違点には神経質になりますが、共通点には、無頓着です。

でも、『共通智』こそが、物事を体系化する基盤です。
共通点が見つかるからこそ、この共通点を手掛かりにして、ふたつの事象の統合が可能となります。全体を、統一して理解する事が可能となります。この能力は、『統合智』と呼んでもいいかと思います。
統合智』なら、仏教で主張している『無分別智』と近くなると思います。

『統合智』の基本は、共通点を見つける能力です。即ち、『共通智』です。