2022/06/13 うつせみ

感覚器官で知覚された刺激は、欲望を活性化します。
活性化された欲望は、行いを生じさせます。
そして、その行いは、結果を生みます。

その原因と結果の因果関係を整理します。
意識感覚器官を持った知的生命体の特殊な事情を考察します。
「意識知覚された刺激は、何を生み出しているか」に目を向けます。

8.6.0 行いと結果の因果関係

人間も含めた動物は、感覚器官からの信号で行動を起こしています。
その因果関係を辿ると、様々な事が見えてきます。

知覚と、欲望の活性化

まず、感覚器官からの信号で、欲望が活性化されます。例えば、獲物の映像は、肉食動物の食欲を刺激します。

一方、欲望を刺激しなかった信号は、雑音として無視され、流れ去ってしまいます。
例えば、満腹の時などです。満腹の時には、食欲は刺激されません。欲望が刺激される為には、(その欲望が)待機状態になっている必要があります。

或いは、自己の生存と密接に結びついていない場合です。
例えば、昆虫たちは、ある特定の状況に特化して生きています。この為、大部分の信号は、自己の生きる事と結びついていません。そのような餌と関係ない信号は無視されます。自らの生きる事と密接に結びついた信号にのみに、鋭敏に反応しています。

今西錦司は、このような事情を、『状況の主体化』と呼んでいます。状況の主体化は、環境からの信号を、自己の生きる事と直接結び付いた情報に変換する行為です。生きる事と結びつかなかった信号は、(情報に成れずに、即ち、主体化されないで、)雑音として流れ去ってしまいます。

行動

刺激された欲望は、行動を生み出します。食欲は、獲物を捕まえる行動を生じさせます。草食動物なら、草を食べようとします。

結果

行動は、何らかの結果を生みます。捕食行動の結果、肉食動物は食欲を満足させます。餌となった草食動物は、そこで一生を終えます。欲望の達成には、往々にして、副作用、即ち、他者の犠牲が伴います。

知的生命体の場合

人間の場合も、原則は同じですが、ただ、二点だけ他の動物たちと異なっています。
第一の問題は、人間の場合、第六番目の感覚器官、即ち、『意識』を持っていることです。意識感覚器官で知覚された情報によっても、行動を生じさせています。
二番目の問題は、『言葉』を持っていることです。言葉が、欲望を先鋭化させ、増幅しています。それ故、水と油のように、問題の解決を困難にしています。

【人間と他の動物たちの相違点】

第一の相違点は、意識感覚器官を持っていることです。
第二の相違点は、言葉を持っていることです。

8.6.1 第一の相違点

第一の相違点は、意識感覚器官を持っていることです。

第六番目の感覚器官、即ち、意識感覚器官からの知覚刺激によって、他の動物には見られない行動が生み出されています。

現実ではないもの、即ち、意識知覚に基づいた行動が、人間を特徴づけています。人間は、しばしば、意識が作り出した空想相手に行動を起こしています。

そして、残念ですが、その副作用として、これが、しばしば知的生命体の苦悩や迷いの原因になっています。人々は、心の中に生じさせたもの、即ち、愛や憎しみ、猜疑心、恨み、劣等感、悲しみ、死の恐怖などを、存在する実体だと錯覚して、身を焦がしています。「自分は悪くない。あいつが悪い。」で、自分の惨めさの原因を他人のせいにしています。そして、本来は関係のない相手に刃を向けています。

他人のせいにしても問題は解決しません。先送りされるだけです。先送りが、ドンドン積み重なって、やがて、ストレスと苛立ちが我慢の限界を超えます。そして、その結果は、。。。。ドカーン!

本来は、外部感覚器官からの信号に基づいて行動を起こすべきです。現実に基づいた行動を起こすべきです。意識知覚された仮想現実(空想)に基づいた行動は、しばしば、不幸な結果を招きます。現実に基づかない行動は破綻します。

哲学者や思想家が大好きな絶対的価値観も現実ではありません。脳内部の仮想現実です。目の前の現実を無視して、絶対的価値観(仮想現実)に基づいて行動を起こすと、高い確率で破綻します。結果は、運次第です。いつも、崇高な理想が破綻する原因は、これです。

車を運転する時は、しっかり前を見ることが大切です。
崇高な経典を読みながら、わき見運転していると、事故ります。いくら「この道は真っ直ぐだ。」と、崇高な経典で説かれていても、現実の道は曲がりくねっています。昨日の道は右に曲がっていましたが、今日の道は左に曲がっているかもしれません。明日の道は、どうなるか見当もつきません。日々刻々と変化します。

崇高な理想は、いつも、『人間は欲望を持った存在だ。』という暗い現実を無視しています。そして、結果は、いつも、『理想』によってではなくて、その『無視された暗い現実』、つまり『欲望』によって生み出されています。結果は、いつも、欲望と欲望の対立と衝突によって生み出されています。何度失敗しても、懲りません。言葉によって、惨めな結果を飾ることばかりに、夢中になっています。他人のせいにして、言い訳ばかりに終始しています。「自分は悪くない。」と思っているので、反省することはありません。改善されることもありません。

そして、それに一通り飽きたら、また、同じ事を繰り返します。また、同じ間違いを繰り返します。

これを仏教では、通称、『輪廻転生』と呼んでいます。
「欲望を持ち続ける限り、その欲望によって、同じ間違いを繰り返す。だから、間違いを繰り返したくなければ、行いの原因となった欲望を静めることだ。」と説いています。
六根清浄」と説いています。

注)輪廻転生の由来

輪廻転生は、仏教の歴史の中で突然現れました。
元々の原始仏教にはない考え方です。ただ、話の端々に、そのような土着信仰があったらしい事は推測できます。それを前提とした記述が時々見受けられたからです。

ところが、ある時、突然、ほんとうに突然、この土着信仰と結びついて、輪廻転生の生死観に変りました。そして、それ以後は、仏教を代表する根本理念になりました。前面に押し出されてきました。
輪廻転生のドグマが成立する瞬間を目撃したくて、読み漁ったのですが、ダメでした。確認できない程、短時間に、完成された姿で、突然、目の前に現れました。(普通は、紆余曲折の過程を観察できる筈なのですが。)

ヤドカリ

輪廻転生の生死観自体は、元々の原始仏教には無い考え方です。『当たらずとも遠からず。』ではあるのですが、微妙に、誤解を招きます。輪廻転生自体は、命に対する執着でしかないからです。「命は永遠だ。」と思い込みたいだけだからです。

浜辺のヤドカリが次から次へと殻を取り換えるように、命も、次から次へと、(肉体の)殻を取り換えていると思っています。そこに安住できる気休めを見つけています。



命は輪廻する物でもなければ、転生する物でもありません。輪廻しない物でもなければ、転生しない物でもありません。永遠の物でもなければ、永遠でない物でもありません。(否定と肯定の)両極端への拘りから離れることです。命への拘りから離れることが大切です。

意識知覚している事象と、どう向き合うか、参考になる記述が原始仏教にはたくさんあります。

注)時の間

インドの歴史が年代を特定し辛く、平気で100~200年程度の誤差が生じてしまうのは、土着信仰として、輪廻転生が横たわっているのが原因かもしれません。輪廻転生なら「命は巡る」であって、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」ではありません。時間は流れません。悠久の時(瞬間、瞬間)が、繰り返すだけです。時間が流れる歴史観は育ちません。「流れるからこそ、その流れ(の過程)を記録しよう。」という発想も生まれません。

ちなみに、時間は、二つの要素から構成されます。『瞬間』と、その瞬間から次の瞬間までの間隔、即ち、『時の間』から構成されています。インドは、この『時の間』に無頓着みたいです。『瞬間』(今のここ)には、結構、注意を払っているのですが。

8.6.2 第二の相違点

第二の相違点は、言葉を持ってしまったことです。

言葉は、困ったことに、行動の原因となった欲望を正当化する為に、総動員されています。
この為に、膨大な労力が投入されています。大量の時間とエネルギーが浪費されています。しかも、問題の本質を見え辛くして、複雑怪奇にしています。言葉が、欲望を自己増殖させ、先鋭化さています。(変な形で)確固たる確信を生み出し、不動のものにしています。

いい事なんて一つもありません。
もし、言葉を無効に出来るなら、もう少し、行いの原因となった欲望と向き合う事が簡単になります。人と人との欲望の対立を解決することが容易になります。言葉は、水と油にように、欲望の対立を決定的に解決困難な問題に変身させています。

もし、言葉に投入されているエネルギーを、他の方向に向ける事が出来るなら、もう少し、マシになるのですが。争いを解決することが楽になるのですが。宗教と教義が、解決不可能な程に、欲望の対立、つまり、争いを先鋭化させています。「正義と悪」の名を語って。。。。返す返すも、残念です。

言葉は、建前上は、コミュニケーションや思考の為の手段と思われています。
でも、コミュニケーションを、注意深く観察すると、往々にして、自分の都合を相手に押し付ける為に使っています。
思考は、自分を納得させる為に、、、いや、違いますね、、、自己満足に浸る為に使っています。

人間は、便利な言葉を見つけた瞬間に、、、、ほんと、その瞬間に、「一件落着」と安心して、現実への興味を失います。現実から目を逸らして、言葉ばかりを見つめ始めます。

空の説明も、結局は、頭の飾りになった時点で、つまり、自己満足が得られた時点で、任務完了のような気がします。そこから先がないような気がします。理解は、あくまでも手段であって、目的ではありません。言葉で理解する事が、目的化しなければいいのですが。便利な言葉を見つけて、「一件落着」と安心しなければいいのですが。(健闘を祈る。)

言葉への拘りから離れることを希望します。「行いと結果の因果関係」に目を向けることを希望します。

8.6.3 行いと結果の因果関係を図解

以上の過程を図に纏めると、下図のようになります。

人間という動物の生き様の因果関係

人間という動物の生き様の因果関係
1. 六種の感覚器官(6根)からの信号によって、『欲望』が活性化されています。
2. その活性化された『欲望』から、『行い』が生じています。
3. そして、その『行い』から、『結果』が生まれています。

それ故、もの事は、『行い』と、そこから生じる『結果』との因果関係によって判断されます。

ところが、人々は、
言葉を振り回して、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。
言葉ばかりに、心を奪われています。

なお、欲望と共鳴しなかった信号は、雑音として、無視されます。素通りしています。欲望と共鳴した信号だけが、留まり続けて、欲望を活性化させます。

戦略的情報分析では、一旦、情報を無批判に心の中に流し込んでみます。そして、注意深く、心の中を観察します。どのような欲望と共鳴を起こすかを。共鳴を起こした欲望こそが、その情報の正体です。
全ての情報の意味と価値は、最終的には、人間という動物の生きる事とのみ関わっているからです。その活性化された欲望が『行い』を生じさせているからです。(人々は、この欲望を「絶対だ」と正当化したくて必死ですが。)

欲望と共鳴しなかった信号は、雑音として素通りします。無視されます。
欲望と共鳴した信号のみが残り続け、『行い』の原因となります。
つまり、共鳴を起こした欲望こそが、その情報の正体です。『行い』を生み出している原因です。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。
その『行い』の原因になっている『欲望』の存在に目を向ける事が大切です。そして、その『欲望』は、感覚器官からの刺激で活性化されています。

残念ですが、『言葉』は『行い』の原因となっている『欲望』を正当化する為に、総動員されています。ただ、それだけの働きしかしていません。

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