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4.4 あそび


   遊びは自発的行動です。

   子供たちに向かって、「なぜ遊ぶのか。」と問いかけてみても、おそらく納得のいく答えは返ってこないと思います。
   彼らはこう言うに決っています。「遊びたいから。」とか「おもしろいから。」と。自らの衝動を語るのみです。これでは大人の答えにはなりません。確かに彼ら自身にとっては、たいした理由など無いのは事実ですが。

   しかし、この当人たちにとってはたいした理由もない遊びも、生物学的には非常に重要な意味をもっていると考えられます。なぜなら、彼らは他から強制されて遊んでいるのではなくて、自ら進んで自発的に遊んでいるからです。
   それは思春期に達した子供たちが、異性を意識しだすように、本能だと考えられるからです。だから、この遊びは次のように定義すればいいと思います。

  遊びの定義:学習本能に基づく自己学習行為(自己訓練)

   この遊びが本能であると考えられる理由は二つあります。
   第一の理由は、自らの衝動に従っていることです。
   我々動物の行動は、当人がその行動の目的や結果を自覚していようが、いまいが、そのような当人の都合とは無関係に、生きることと結びついています。
   当人がそれを自覚していないということは、それが意識された行動ではなくて、無意識の行動であることを意味しており、それゆえ生物学的には、より基本的であると考えられます。彼らは、自らの心の奥底から湧き上ってくる衝動に駆られて、『遊びたい。』から、遊んでいます。
   だから、遊びも、言葉どおりのムダな行為、すなわち『あそび』ではなくて、生きることと直接結びついた重要な意味をもっていると考えられます。もっとも、子供の遊びと大人のレジャーを混同すべきではないと思いますが。

   第二の理由は、遊びが見られるのは、イヌやネコ、サル、人間などの学習に対する依存度の大きなほ乳類においてであって、は虫類や鳥類にはあまり見られないからです。しかも、このような遊びの傾向は、神経組織が未完成な子供の頃に強く、それは人間を除く他の動物たちにおいては、大人になれば消滅するか、きわめて弱くなるからです。

   この遊びには、他の学習にはない非常に重要な役割があります。この能力を育てることが、遊びのもっとも重要な役割であると言っても過言ではありません。
   それは、自発性、あるいは主体性を育てることです。人間が一人前になるためには、自発性を持たなければなりません。自分で自分の意志を持ち、自分の力で道を決め、自分の力で生きていかなければなりません。

   このような自発性は、遊び以外によっては育たないと考えられます。なぜなら、教育システムというものは、本質的に、大人が子供に与えるものであって、それゆえ、優れた教育システムであればあるほど、大人の作った枠組みの中に子供たちを閉じこめてしまいがちです。
   現代の教育は、子供たちを受け身にしており、大人たちの考えた自発性を育てる教育というものは、しょせん子供たちにとっては、温室の中のゲームに過ぎません。

   このような中にあって、遊びだけが、大人たちの作った枠組みから離れ、誰からも邪魔されることなく、純粋に子供たちの心の奥底から沸き上がってくる衝動に従っています。

   この遊びを子供たちから取り上げたら、どのような結果が生じるのか、その最もいい例を現代の日本の子供たちに見ることが出来ます。
彼らは幼児の頃より塾に通い、小学生の頃より受験勉強をし、遊ぶ暇がありません。親たちは、大人のレジャーと子供の遊びを混同して、遊びをムダな行為だと考えています。
   だから、日本の学生は学業優秀ですが、しかし、それ以上がありません。言われたことはするが、それ以上のことはしません。彼らがずるがしこくてサボッていのだったら、まだ救いようがあるのですが、ただ単に何もなくて平和なだけなのです。心に衝動を持たないので、いやもっと本質的な問題として人格が形成されていないので、自分で何かをやってみようという気が起こらないのです。
   「今まで、さんざん遊んできたから、大学に入ったら勉強でもするか。」と思うのが正常な姿ですが、日本の大学生は「あー、やっと受験勉強から解放された。よし、遊ぶぞ。」と思っています。よし、遊ぶぞと思う学生は、まだましかも知れません。試験という枠組みから解かれたら、言い知れぬ不安感を覚える学生もいます。
   その遊びも創造的なものならいいのですが、その本質は幼児への退行現象、子供の頃遊ぶことが出来なかったので、大学に入って子供の頃の遊びをしています。子供の頃、買えなかった玩具を、「大人買い」して、喜んでいます。    そこには、ユーモアと創造性がありません。これでは救われません。

   本来、教育や学習は先行投資を意味しています。投資と言うものは、すべき時にしなければなりませんが、しかし、したからといって、すぐに効果のあらわれるものでもありません。
   子供たちの学習も、すべき時期にはすべき学習をしなければなりませんが、その学習がすぐに効果をあらわすものでもありません。
   とくに、人格の形成に関するものは、この傾向を強く持っています。
   かけ算を教え、その後すぐにテストをし、出来れば次のステップに進み、出来なければもう一度同じ事を繰り返すという条件反射学習は、その投資効果を誰でも簡単に評価できるために、教育では、これに夢中になっていますが、しかし、人間の神経組織は、短期の記憶に関与したメカニズムと、長期の記憶に関したメカニズムの両方を持っており、このような条件反射によって得られた短期の記憶が、そのまま長期の記憶に移行することはないのです。だから、これをいくら積み重ねても、人格の形成には至りません。パブロフの犬は、学習の一局面でしかありません。

   昔のように、子供たちが遊んでばかりいた時代だったら、その合間にする勉強は、すばらしい教育効果をあげることが出来たと思います。
   しかし、現代のように勉強ばかりしているところに、更に勉強させたら、教育効果どころか、人格の形成そのものを阻害してしまいます。彼らは、自主性や主体性を学習する機会を失ってしまいます。

   やはり、遊ばせるべき時には、遊ばさなければなりません。



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