2022/06/13 うつせみ

原始仏教は知的生命体の宿命と、どう向き合うか。
その行いを説いています。
深淵なる教義を説いている訳ではありません。

意識は感覚器官です。
この意識知覚された信号からも(視覚聴覚同様に)様々な行いが生じています。そして、それが迷いや苦しみの原因になっています。それ故、そこから解放されたいなら、その意識知覚への拘りから離れる事が大切だと説いています。

仏教経典を教材にして、空を説明します。多分、想定していた話題だと思います。でも、内容は想定外です。

8.2.0 原始仏教と意識感覚器官

原始仏教や空の哲学は、『意識は、感覚器官の一種である。』という知識を前提にしています。

我々知的生命体は、六種の感覚器官を持っています。『眼、耳、鼻、舌、身』の五感以外に、意識によって作り出された第六番目の感覚器官、即ち、『意識感覚器官』を持っています。この『眼、耳、鼻、舌、身、意』の六種の感覚器官を(仏教では)『六根(the six senses)』と呼んでいます。そして、この六つが、人間の知覚世界を作り出しています。

我々人間にとって、『意識する。』とは、意識感覚器官で知覚することを意味しています。

我々人間は、現実でないもの、即ち、意識感覚器官から生じている意識知覚によって、行いを生じさせています。例えば、愛や憎しみ、死の恐怖のように。そして、これが迷いや苦悩の原因になっています。

大切な事は、(視覚や聴覚などの)知覚刺激は、最終的には、何らかの『行い』と『結果』を生み出している事です。『行い』は『結果』を生みます。
意識知覚も同様です。意識知覚も様々な『欲望』を活性化させています。その活性化された『欲望』は『行い』を生じさせています。そして、その『行い』は『結果』を生みだしています。
我々知的生命体は、その意識知覚と、そこから生じる『行い』と『結果』に翻弄されています。

因果関係: 知覚 -> (欲望の活性化) -> 行い -> 結果

意識知覚も『行い』を生じさせています。

出来の悪い知的生命体の宿命です。我々人間は、現実と意識知覚された妄想を、識別できていません。その意識知覚された妄想を、実体だと錯覚しています。意識知覚している愛や憎しみ、死の恐怖を、「存在する実体だ」と錯覚しています。

生物学的に、まだ、まだ、不完全です。脳システムが、中途半端な進化段階にあります。
原始仏教は、このような(中途半端な存在である人間の)現実と、どう向き合えばいいかを説いています。

難解な教義を説いている訳ではありません。知的生命体の宿命と、そこから離れる『行い』を説いているに過ぎません。

意識感覚器官の生物学的意味と工学的構造については、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。

8.2.1 スッタニパータ

原始仏教の教典『スッタニパータ』の中に、次のような興味深い一文があります。

雪夜叉が言った。「何があるとき世界は生起するのか?何に対して親愛をなすのか?世間の人々は何ものに執着しており、世間の人々は何ものに害(そこな)われているのか?」

師(ゴータマ)は答えた。「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親愛をなし、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに害われている。」

(雪夜叉)「それによって世間が害われる執着とは何であるのか?お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてくだされ。どうしたら苦しみから解き放たれるのであろうか。」

(ゴータマ)「世間には五種の欲望の対象があり、意(意識の対象)が第六であると説き示されている。それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。」

出典「ブッタの言葉(スッタニパータ)」 P41 中村元訳 岩波書店

  1. 世間には、眼、耳、鼻、舌、身の五感に根ざした五種類の欲望の対象がある。
    (世間には五種の欲望の対象があり)
  2. これ以外に、六番目の意(意識知覚)に根ざした欲望の対象もある。
    (意(意識の対象)が第六である)
  3. これら六つの感覚器官が知覚世界を作り出している。
    (六つのものがあるとき世界が生起し)
  4. これら六つの知覚と、そこから生み出されている六種の欲望への愛着、執着が迷いや苦しみの原因になっている。
    (世界は六つのものに害われている。)
  5. それ故、これら六つの知覚への拘りから離れるなら、迷いや苦しみからも解放される。
    (それに対する貧欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。)

と、述べています。

即ち、「意識は五感同様の感覚器官である。これら六つの感覚器官からの知覚刺激(六根)が、欲望の原因になっている。そして、それへの執着が苦しみの原因になっている。」と述べています。

それ故、『六根清浄(ろっこんしょうじょう)( Calm down the six desires arising from the six senses )と唱えます。
六つの根(eyes, ears, nose, tongue, body, and self)から生じている六つの欲望を静めることが大切だと説きます。

六根清浄の石ぐるま

六根清浄の石ぐるま
高尾山薬王院六根清浄の石ぐるまです。
石ぐるまの六面には、眼耳鼻舌身意の六文字が刻まれています。
高尾山薬王院:東京都八王子市高尾町2177

我々知的生命体は、眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官(六根)を持っています。そして、そこから生じている知覚刺激によって、欲望が活性化され、そして、(その活性化された欲望によって)『行い』を生じさせています。これが、同時に、迷いや苦しみの原因にもなっています。
それ故、これら六つの感覚器官(六根)から生じている六つの欲望を静めることが大切です。六根清浄です。

意識は、心の中を知覚対象とした感覚器官です。(意識知覚として)実感できるが故に、全ては心の中の事象です。夢と同じように、自らが生じさせたものです。
愛も憎しみも、そして、死の恐怖も、全ては意識の知覚対象であるが故に、心の中の事象です。「一切は、空なり。」です。夢と同じように、実体のないものです。
そのような実体のないものに、我々人間は振り回されています。(そして、そこから)様々な『行い』を生じさせています。そして、悲しいことに、『行い』は(悲喜こもごもの)『結果』を生み出しています。

残念ですが、我々知的生命体は、このような宿命の元に生まれています。

この現実は否定できません。
それ故、せめて、そのような愛や憎しみなどの実体の無いものへの拘りから離れる事が大切です。
いたずらに、これらの実体のないものに翻弄される前に。

我々人間は、知的生命体プロトタイプ初号機として、色々と欠陥が多過ぎるような気がします。まだまだ、改善の余地があります。
この広い宇宙には、我々と同じような知的生命体が存在しています。彼らも同様に、この宿命に翻弄されているのでしょうか。それとも、克服しているのでしょうか。他人事ながら、気になります。

注)意識が感覚器官であることに気付いた人物が、もうひとり存在していました。ジークムント・フロイト です。

8.2.2 パーリ語大蔵経

パーリ語大蔵経の中部教典の中には、次のような一文があります。

比丘よ、こちらの岸というのは、内的な六つの感覚器官(内の六処)をたとえてこういうのである。 比丘よ、向こう岸というのは、感覚器官の六つの外的な対象(外の六処)をたとえていうのである。 

出典「バラモン教典 原始仏典」P458 中央公論社

感覚器官を『こちらの岸』、その知覚対象を『向こう岸』に例えています。その感覚器官は六つあって、その知覚対象も同様に六つあると述べています。

知覚を構成する十八の界

又、次のような一文もあります。知覚を構成する十八の界(構成要素)についてです。

アーナンダよ、次にあげる十八の界(構成要素)、すなわち、眼と色形と視覚、耳と音と聴覚、鼻と香りときゅう覚、舌と味と味覚、皮膚と触れられるべきものと触覚、心と概念と意識の諸界がある。 

出典「バラモン教典 原始仏典」P488 中央公論社

原始仏教では、知覚は、感覚器官(Sensor)と、その知覚対象(Object)と、そこから生じる知覚刺激(Sense)の三つより構成されていると考えています。

知覚を構成する三つのもの

知覚を構成する三つのもの
知覚は三つの要素から構成されています。
1.感覚器官(Sensor)
2.その知覚対象(Object)
3.そこから生じている知覚刺激(Sense)です。

例えば、海を泳いでいるイルカを見たら、頭の中には「イルカ」というイメージが生じます。

人間は、『眼、耳、鼻、舌、身、意』の六種の感覚器官(六根)を持っています。その感覚器官には、『光、音、香、味、物、色』の六種の知覚対象が対応しています。そして、そこからは、『視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、意知覚』の六種の知覚刺激が生じています。合計18個の要素から、人間の知覚は構成されています。これを、十八の界(構成要素)と呼んでいます。
その主張を一覧表に纏めると、下図のようになります。

人間の知覚を構成する十八の構成要素
No知覚対象
(Object)
感覚器官
(Sensor)
知覚刺激
(Sense)
1視覚
2聴覚
3嗅覚
4味覚
5物(体)肌(身)触覚(体感)
6色(Image)意識意識知覚(意知覚)
中部経典の主張を一覧表に纏めてみました。
人間には、六種の感覚器官が存在しています。
各感覚器官は、夫々三つの要素から構成されています。
合計、6*3=18の界(要素)より構成されています。

仏教では、意識を感覚器官のひとつと捉えています。
その知覚対象を『色』と呼んでいます。
そこから生じている刺激を、『意知覚』と呼んでいます。

光:空間を飛び回っている光エネルギー(Photon)の事です。
音:空気中を伝わる振動エネルギーです。
香:空気中を漂っている化学物質です。
味:水の中を漂っている化学物質です。
物:この肉体と競合する存在です。物と肉体は、互いに排他し合います。この排他し合う時に生じる感覚が触覚です。
色:脳内部のイメージです。意識感覚器官の知覚対象です。

注)触覚に関しては、厳密には、二つの感覚が混在しています。
物に触ったときに生じる触覚と、
体の内部から生じている体感覚です。例えば、腹痛や息苦しさなど。
物は外部の存在ですが、体は内部の存在です。
物、肌、触覚
体、身、体感
と、分離して表現した方が適切かもしれなせん。

意識も、眼や耳同様の感覚器官であって、そこから生じる知覚刺激を、『意知覚(意識知覚)』と呼んでいます。つまり、意識している事象のことです。その知覚対象を『色』と呼んでいます。現代語に訳すると、『イメージ』が最も近い概念です。即ち、イメージは、脳内部の事象ですが、意識は、脳内部のイメージを知覚対象とした感覚器官です。

それは、夢を思い出して頂ければ理解できると思います。夢の時、意識知覚しているイメージは、外部感覚器官からの信号で作り出された世界ではありません。瞼は閉じている訳ですから、眼からの信号は届いていません。自分自身が生じさせた世界です。心の中の事情で作り出された世界です。

意識知覚している事象は、『愛も憎しみも』、『生も死も』、『宗教も哲学も科学も』、『時間も空間も物質も』、『現代の科学文明』自体が、全て、夢と同じように、意識の知覚対象であるが故に、脳内部の事象、即ち、イメージです。それらは、心の奥底で蠢いている欲望が生み出したものです。夢と同じように、自らが生じさせたものです。夢と同じように、実体のないものです。

(意識知覚している)一切は、空っぽ なり。

そのような実体のないものへの執着が、苦しみや迷いの原因になっています。そのような苦しみや迷いから解放されたいなら、意識が執着している物への拘りから離れることが大切だと説きます。

物事は、『言葉』によって明らかになっている訳ではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。それ故、『行い』と『結果』の因果関係を観察することが大切です。

残念ですが、人々が執着して止まない言葉は、欲望を正当化する為の手段としてしか使われていません。

注)排他律と触覚

排他律は、物と物が反発し合う性質(ルール)の事です。二つのコップを、ひとつの場所(空間)に、同時に置くことができない性質の事です。机の上に置かれたコップと同じ場所に、もうひとつ新しいコップを無理して置こうとすると、今あるコップは、弾かれて排他されます。同じ場所に、二つのコップを同時に置くことはできません。
存在に関する基本的なルール(排他律)です。

物は排他し合うからこそ、(独立した)物として、存在し続けることができます。もし、排他し合わなければ、他の物に同化されて、(独立した)物として存在できなくなります。物が物として独立して存在し続けているのは、同化しないで(他の物を)排他し続けているからです。

我々の肉体も物の一種なので、排他律の支配下にあります。目の前のコップを手で掴むと、手はコップの表面で押し戻されて、コップの中に入っていくことができません。コップ同士が弾き合うように、手とコップも弾き合います。手は押し戻されます。

この押し戻さる時に生じる感覚を、触覚と呼んでいます。根底には排他律、即ち、存在に関する基本的なルール(性質)が潜んでいます。

8.2.3 知的生命体の宿命

知的生命体は、意識器官(シミュレーター)を持ったが故に、これに翻弄されています。意識知覚された情報から、迷いや苦悩を生み出しています。
この知的生命体の宿命と、どう向き合うか、参考になる記述が、原始仏教にはたくさんあります。

ところで、他の天体の知的生命体、つまり、宇宙人たちは、この問題を、どのように克服しているのでしょうか?。死の恐怖と、どのように向き合っているでしょうか。人間と同じように、欲望まみれで、野蛮なままなのでしょうか?。それとも?。
他人事ながら、気になります。

意識器官の厳密な意味は、『知的生命体の心の構造』を参照下さい。金剛般若教を理解する時にも必要になります。

8.2.4 意識知覚している世界の外側

空や仏教を、言葉や知識で理解しようと、四苦八苦されているかもしれませんね。堂々巡りで空回りしているかもしれませんね。籠に閉じ込められたハツカネズミが、だだひたすら、回し車を回し続けるように。

回し車

言葉や知識は、心を閉じ込める檻です。勝手に思い込んでいる先入観です。

我々現代人は、幸い、(肉体は)檻に閉じ込められていません。自由に動き回る事ができます。しかし、心の中には、『言葉』や『知識』、そして、それらから構成された『価値観』と呼ばれる檻を持っています。人々は、閉じ込める檻も無いのに、宗教的価値観や科学的価値観、そして、その他諸々の実体のないものに拘って、行動しようとしています。『行い』は、それ(心の中の檻)に制約されています。そこに閉じ込められています。

そして、その檻の中で動き回れることが、自由だと錯覚しています。

回し車を、ただひたすら回し続けるハツカネズミは、自らの意思で(自らの)自由を謳歌しています。自ら積極的に自由意志で、回し車を回しています。当人たちは、それを疑っていません。固く(自らの意思を)信じています。
このような姿を、ネットスラングでは、『リア充』と呼ぶそうです。(やる事があって)リアル(現実)の生活が充実しているからだそうです。

でも、その檻の外側には、広大な未知のフロンティアが広がっています。意識知覚している世界の外側には、別の世界が広がっています。足元に小石がゴロゴロと転がっている未開の荒野です。

現実に目を向けることを希望します。原因と結果の因果関係を観察することが大切です。「言葉」や「意識知覚しているもの」への拘りから離れる事が大切です。

意識知覚している世界の外側

意識の外側
意識知覚している世界の外側には、広大な未知の世界が広がっている筈です。
しかし、我々には、それを知る術はありません。意識知覚された範囲内の世界しか知りません。
そして、それが世界の全てだと思い込んでいます。

言葉の世界に拘るのではなくて、原因と結果の因果関係を観察される事を希望します。

原始仏教の中には、次のような一文がありました。「言葉によって表現されているもの」についてです。

ことばで表現されたものを(真実と)考えているだけの人々は、ことばで表現された(世界の)なかに安住し(執着し)ている。彼らはことばで表現されたもの(の実体)を知らないから、死神にとりつかれてしまうのである。

「バラモン教典 原始仏典」P442 中央公論社

「『死』という言葉を真実だと思い込んでいる人々は、言葉が作り出している世界に執着している。その世界に囚われ、その世界に振り回されている。彼らは、言葉の正体を知らないから、(真実と思い込んでいる)死(という言葉)の恐怖に怯えてしまうのである。」と、述べています。       

8.2.5 最初期の原始仏教を支えた人々のプロファイル

最初期の原始仏教を支えた人々は、豊富な社会経験を持っていました。

日々の生活の中で、思い悩む事があって仏門を叩いた人々なので、酸いも甘いも味わい尽くしていました。だから、心の機微の表現が実に巧みです。とても、新鮮です。現代仏教のような教義中心の抹香臭さは全くありません。日々の暮らしで出会った出来事を例え話にして説かれているので、情景が瞼の裏に浮びます。

人々が物事に執着している様を、「干からびかけた水たまりで、もがいている魚のようだ。」と表現しています。干ばつで干上がった川底の最後に残された小さな水たまりで、蠢いている魚たちの姿に例えています。彼らは最後に残された小さな水溜まりに、必死に、しがみ付いて生きています。

注)後期仏教では、(幼くして寺に預けられ)純粋培養された人々が増えました。
要は、「食い扶持減らし」です。生きていく事が一番大切なので、「食い扶持減らし(姥捨て)」を批判するつもりはありませんが。
しかし、それにつれて、(大切な事を忘れて)形式主義に陥りました。難解になりました。現実を反面教師にするのではなくて、(そもそも、純粋培養されたので、現実を知らなかったのです。)経典を教師にしてしまいました。残念です。

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