2019/04/08 うつせみ

突然変異説も、やはり同様に、自然科学とは、およそ、無縁の考え方です。因果関係の考察に、致命的な問題を抱えています。

この仮説は、因果関係の鎖を断ち切って、話を単純化するテクニックです。この騙しのテクニックを、世間では、総称して、『創造神話』と呼んでいます。

5. 始めに

突然変異説は、因果関係の鎖を断ち切るテクニックです。

物理現象は、原因と結果の因果関係より構成されています。そして、この現象の結果は、次の現象の原因となります。原因と結果の因果関係は、鎖のように、過去から未来に向かって永遠に繋がっています。
突然変異仮説は、この因果関係の鎖を断ち切って、話を単純化するテクニックです。このテクニックを、世間では、総称して、『創造神話』と呼んでいます。

まず、大本の始まりを仮定して、そこから、話を始めます。このようにすると、起承転結がハッキリして、治まりの良い話になります。『大本の始まり』以前の事象は、無視します。ここで、因果関係の鎖を断ち切ります。

例えば、「世界は、最初、神によって作られた。」と言った話です。

このような仮定を採用すると、神によって作られる以前の状態は、問題にする必要が無くなります。『神の創造』以後の話に集中できます。当然、神が創造する以前の状態と、以後の世界は、関係無くなりますから、『神の創造』前後の因果関係を問題にする必要も無くなります。ここで、因果関係の鎖を断ち切ることが可能となります。
このような物語構成にすると、大元の始まりが明確になって、非常に収まりの良い話となります。起承転結がハッキリして、理解し易くなります。

創造神話

この騙しのテクニックで構成された物語を、世間では、総称して、『創造神話』と呼んでいます。その内容は別にして、ほとんどの民族、宗教が持っています。
突然変異仮説でも、この創造神話の騙しのテクニックを使って、うまく、因果関係の鎖を断ち切っています。

原因と結果の関係

現象原因結果因果関係の鎖
物理現象原因から結果が生じる。その結果は次の現象の原因となる。
原因と結果の鎖は、永遠に繋がっている。
創造神話神によって世界は作られた。神が作る前の状態は問う必要なし。
因果関係の鎖は、神で切れている。

5.1 ニワトリが先か、タマゴが先か

突然変異説で使われているテクニックは、「ニワトリが先か、タマゴが先か。」を例にとれば、その意味が解り易くなります。創造神話の使われ方が理解できます。

ニワトリはタマゴから生まれます。そして、そのタマゴは、ニワトリが生みます。そして、さらに、そのニワトリは、やはり同様に、タマゴから生まれます。そして、そして、さらに、さらに。。。。。

因果関係の鎖

このタマゴとニワトリの因果関係の鎖は、過去から未来に向かって、永遠に繋がっています。だから、最初は、タマゴから始まったのか、ニワトリから始まったのか分かりません。

それ故、古来から、多くの人々を悩ませてきました。『大本の始まり』が存在していないからです。そもそもの始まりは、タマゴだったのか、ニワトリだったのか、どちらだったのか分かりません。『大本の始まり』が分からない非常に治まりの悪い物語になっています。起承転結がハッキリしていないので、中途半端で、気分的にシックリきません。何かスッキリしないむず痒さを感じます。

この難問は、次のような仮説を採用すると、簡単に解決できます。『最初のタマゴは、丸い石から、突然生じた。』と。

生命誕生神話:最初のタマゴは、丸い石から、突然(偶然)生じた。

突然変異説

この話のポイントは、論理の出発点に、『突然』とか、『偶然』という言葉を使うことです。「最初のタマゴは、丸い石から、突然、発生した。」と、説明することです。

突然や偶然には、因果関係が存在しません。予測出来ない事が、いきなり突然に、起こった時に、『突然』という言葉を使います。たまたま偶然、原因も無しに生じた時に、『偶然』という言葉を使います。何れの場合も、因果関係を確認できない事象が起こった時に使います。つまり、人智を超えている為に、事前に、予期できなかった場合に使います。

因果関係が理解出来て、予測可能なら、それは、『必然』です。起こるべくして起こった現象には、『突然』も『偶然』も使いません。因果関係が理解出来ているなら、結果も予測可能だからです。『いきなり、突然』でも『たまたま、偶然』でもないからです。人智の及ぶ範囲の現象だからです。

問題は、この時、人々は、この『突然』の現実を、どう解釈しているかです。因果関係が理解できない現実を、どう思っているかです。『突然』や、『偶然』という言葉に、何を期待しているかです。

予期しなかった事が、突然、起こった。自分には、原因が分からない。因果関係が理解できないので、自分は無知でバカだ。」とは、思っていません。まかり間違っても、自分の非は認めません。
「因果関係が存在しないから、因果関係を確認できないのだ。」と。つまり、「それは、因果関係も無しに、突然、発生した現象だ。だから、原因が分からなかったのだ。予期出来なかったのだ。 」と、思っています。
発想を逆転させて、巧妙に、自分の無知を正当化しています。

この為、論理の出発点に、この言葉を使えば、もう、それ以上、因果関係を辿る必要が無くなります。「突然の現象にも、偶然の現象にも、因果関係は存在しない。」と、思っているからです。つまり、「因果関係もなしに生じた、突然の現象だ。」と思っていますから、これ以上、過去を追求する必要が無くなります。ここで、因果関係の鎖を断ち切ることが可能になります。

実際、突然変異説でも、突然変異が起こった時点よりも前の現象は、問題としていません。なぜ、突然変異が起こったのか、その突然変異の原因は何だったかを問題としていません。いや、する必要もありません。突然変異なのですから。

もっと、ハッキリ言えば、論理の出発点に、『突然』を持ってくると、最初のタマゴは、ニワトリから生まれる必要が無くなります。もはや、ニワトリの存在は必要なくなります。ニワトリがいなくても、突然や、偶然なら、丸い石からタマゴが生じることが可能となります。誰も、その可能性を否定できません。ここで、あの忌まわしいニワトリとタマゴの因果関係の鎖を断ち切ることが可能になります。

ポイントは、その可能性の高さではなくて、その可能性を否定できないことです。起こる可能性は低くても、可能性自体は否定できません。因果関係が存在しない偶然の出来事ですから、何が起こるか分かりません。誰も、「絶対に、起こらない。」とは、断言できません。非常に低い確率ではあっても、可能性は残ってしまいます。

これが、『突然』のマジックです。

5.2 それは、偶然さ。

人は、よく、自分の理解できない事柄に直面したとき、「それは、偶然さ。」と言います。必然的因果関係を否定したいときに使います。「そこには、必然的な因果関係など存在しない。偶然さ。」という強い思いが込められています。

必然的因果関係が存在していたら、また、同じ事が起こるかもしれません。同じ事が起こるなら、対策が必要です。その面倒くささから逃げる為にも、「それは、偶然さ。」と言い訳しています。いや、強く思い込んでいます。偶然なら、二度とは起こらないので、対策の必要もないからです。「それは偶然だから、対策の立てようがない。」というのが本音です。予期できないことは、対策の立てようがありません。

言葉の辞書的意味と、実際に、その言葉に込めている思いとは、微妙に異なっています。誰も、「自分は無知で、バカだ。」とは認めたくありません。だから、「因果関係を理解できない。」とは、正直に告白しません。

寧ろ、居直って、「因果関係が存在していないから、因果関係を確認できないのだ。」、つまり、「そこには、必然的因果関係など有りはしない。偶然さ。」と、話をすり替えています。
「僕は、無知でも、バカでもない!」という強い思いが滲み出ています。

その心の変遷は、次のような過程を辿ります。

向き合っている現実と、心の変遷
事実生物には、突然、変異が生じている。
ところが、突然、生じた変異の原因が分からない。
因果関係を理解できない。
現実(因果関係を理解できない自分は、無知で、バカだ。)
思い(無知で、バカな自分を認めたくない。)
言い訳原因が存在していないから、因果関係を確認できないのだ。
居直りそこには、因果関係など存在していない。
結論それは、偶然さ。
必然的因果関係など、ありはしないさ。
それは、原因もなしに、突然、生じた現象だ。
真実観察時間が短すぎる為に、因果関係を確認できない ?

人間の人生は、高々、50年です。

一方、生物進化の現象は、10万年、100万年掛けて起こる現象です。
観察時間が短過ぎると、原因と結果の因果関係を観察できません。
ともすると、原因も無しに、突然、生じてしまった現象、即ち、突然変異に見えてしまいます。

目を細めて、茶色い字だけを読んで下さい。具体的には、最初の『事実』の行と、下から2番目の『結論』の行だけを読んで下さい。それが、生物学者の思いの全てです。

生物には、突然変異が生じている。
それは、偶然さ。

5.3 言葉は、本来、曖昧なものです。

言葉は、様々な理由や原因で、作り出されています。

『山』や『川』のように、目の前の実体に対応した言葉だけではありません。『愛』や『憎しみ』のように、人間の生き様や、心の状態を表現した言葉もたくさんあります。言葉は、人間の人生、生き様を表現しているので、実に多様性に富んでいます。

そのような言葉の中で、未知の状況に直面した時に使う言葉や、因果関係を理解できない時に使う言葉、能力や知識の限界に突き合った時に使う言葉もあります。その事情は、様々です。

言葉の由来
実体に対応して発生した言葉山、川
心の状態を表現した言葉愛、憎しみ
因果関係が理解できない時に使う言葉偶然、突然
未知の状況に直面した時に使う言葉神の奇跡
超能力
知識や能力の限界に突き当たった時に使う言葉無限
疑えない事実
感覚器官が知覚している信号
感覚器官からの信号を形容した言葉を、言語文法では、『形容詞』と呼んでいます。
『形容詞』
眩しい、痛い
物事の動きや、物理的作用を表現した言葉『動詞』
動く
光があたる
etc

注)ちなみに、哲学者は、「言葉には真理が宿っているはずだ。」という先入観を持っています。

『山』という言葉には、『山』という実体が、対応しています。『川』という言葉には、『川』という実体が対応しています。だから、人々は、『愛』という言葉には、『愛』という実体が対応している。『憎しみ』や、『偶然』、『突然』にも、何らかの実体が対応している筈だと思っています。
全ての言葉には、言葉が存在しているから、その言葉に対応した実体や真理が宿っている筈だと考えています。「言葉には、何らかの根拠がある筈だ。」と、素朴に信じています。

「愛という言葉には、愛という実体が対応している筈だ。それが証拠に、手で掴めるように、実感できる。!」と、固く信じたい気持ちは理解できます。もちろん、理解できるだけですけど。。。。自分にも、そんな時期がありました。愛を手掴みできると実感できる時期がありました。本当に、手で掴めると実感できました。でも、脆くも崩れ去って仕舞いました。自分の惨めさを誤魔化す為に、相手を憎んで仕舞いました。その時、始めて、全ては心の中に生じた幻想だと思い知らされて仕舞いました。失って始めて知る『なんとか』です。遅いけど!!!。

哲学者は、そのような言葉に宿っている筈の真理を探究することが、自らの使命と考えている節があります。ハイデッカーは、『存在』と『無』という言葉に隠されている真理を探究することが、形而上学だと錯覚していました。『無』という言葉が存在しているから、『無』という真理も存在している筈だ。『無』とは何か?。その『無』の真理を明らかにすることが、形而上学を理解することだと考えていました。
『存在と無』の生物学的意味を知りたい場合は、「時空認識が可能な自己保存系のモデル」を参照して下さい。

本来、言葉は、日々の暮らしの中で作り出されているので、本質的に曖昧です。そこには、人間と言う動物の生き様が反映されているだけです。哲学者が期待しているような真理は宿していません。

事実関係と対応関係にある言葉は比較的意味がハッキリしていますが、心の状態や、自分の限界に突き当たった状態を表現した言葉は、本質的に曖昧です。何となく分かったつもりでいますが、突き詰ると、訳が分からなくなってしまいます。

人間は、子供から大人への成長過程で、習慣として、言葉を使う能力を獲得しています。だから、簡単な意味は、日常体験から、習慣として、何となく実感できますが、厳密な意味となると、分からなくなってしまいます。自分の心の奥底に潜んでいる欲望に目を向けることが無いからです。習慣として漠然と実感しているからです。
言葉に、どのような自分の事情や都合、欲望が投影されているかなんて、考えたこともありません。それよりも、寧ろ、脊髄反射的に、そこから目を背けて、その欲望を盲目的に追求しています。だから、言葉に投影されている自己の欲望は、分かっているようで、突き詰めると、訳が判らなくなってしまいます。従って、言葉の意味も、訳が判らなくなっています。

人間は、悲しいことに、言葉を使って、欲望を正当化することばかりに夢中になっています。その背後に潜んでいる筈の欲望から目を背け、脊髄反射的に、正当化ばかりに、邁進しています。その投影されている欲望こそが、その言葉の真の意味の筈なのですが。

言葉言葉は、人間という動物の生き様を表現しています。
多くの場合、人間の欲望が投影されています。
その投影されている欲望こそが、その言葉の真の意味です。
でも、人間は自己の欲望を正確に自覚することがないので、言葉はいつも曖昧です。

5.4 偶然なら、全ての可能性が許される。

偶然には、因果関係が存在しないので、(気持ちのうえでは)、何が起こるか分かりません。どのような可能性も否定できません。『偶然』なら、何でも、起こる可能性があります。可能性だけなら、全ての可能性が許されます。

『丸い石がタマゴになる。』ような突拍子もない突然の出来事でも、偶然なら、可能かもしれません。その可能性を、完全には否定できません。非常に、低い確率かもしれませんが、ひょっとしたら、起こるかもしれません。偶然は、人智を超えた現象です。しかも、因果関係が存在しません。因果関係もなしに、突然、起こる現象です。『絶対に、起こらない。』と、自信を持って、断言することは、誰にもできません。

重要なことは、可能性を否定できないことです。

偶然とか、突然という言葉には、隠された本音の部分に、辞書的意味を超えて、我々人間の心を支配する摩訶不思議な未知の力があります。そこで、因果関係の鎖を断ち切ってくれます。我々を、因果関係の鎖から解放してくれます。

論理の出発点に、『突然』や『偶然』の言葉を持ってくると、全ての可能性が許されます。しかも、そこで、それ以上、因果関係を、過去に向かって辿る必要が無くなります。そこで、因果関係の鎖を断ち切ることが可能となります。

「ニワトリが先か、タマゴが先か。」の問題でも、「最初のタマゴは、丸い石から、突然、生じた。」と、仮定すれば、もう、それ以上、『突然』が起こる前の因果関係を辿る必要はなくなります。「そんなバカな!」と心の片隅では思っても、もう片隅では、「ひょうとしたら。」という可能性が頭をよぎります。「偶然や突然なら、ひょっとしたら、可能かもしれない。」と、思ってしまいます。

5.5 化学進化説

もう、既に、気付かれたと思いますが、ここで取り上げた『ニワトリが先か、タマゴが先か。』の話は、『化学進化説』のパロディーです。パロディーなので、解り易く、大袈裟に、大胆に表現しています。だから、『丸い石が、突然、タマゴになった。』なんて、バカな話、誰も信じなかったと思います。逆に、信じられても、困ります。

でも、実際の『化学進化説』は、もっと、巧妙です。本当に、信じてしまいそうになります。

この話に、『無限 』と『小さな 』という2つの言葉を追加して、より真実らしく見せかけています。さらに、おまけとして、『自然選択』を使って、現象に方向性も与えています。これだと、多少は、信じて頂けるかもしれません。

ニワトリが先かタマゴが先かの 化学進化説
丸い石に、小さな 突然変異が起こった。
その小さな 突然変異が、気が遠くなるほど、無限に繰り返された。
自然選択によって、都合のいい変異が無限に蓄積され、
やがて、丸い石は本物のタマゴになった。

無限』という言葉も、人智を超えた時に使います。我々は、有限な状態は想像できますが、無限な状態は想像できません。だから、「無限に、繰り返されたら、人智を超えた途轍もないことが起こるかもしれない。」と、思ってしまいます。

小さな 』という言葉も巧妙です。大きな偶然は、滅多に起こりませんが、小さな偶然なら、幾らでも起こるかのような錯覚を与えます。即ち、現象が起こる可能性の高さを、強く印象付けます。

小さな偶然が、無限に繰り返された。』と、両方、組み合わせれば、もう完璧です。『丸い石がタマゴになる。』ような、突拍子もない突然の出来事も、起こるかもしれないと思わせてしまいます。小さな偶然は、幾らでも起こります。その幾らでも起こる小さな偶然が、無限に繰り返されれば、想像を絶する途轍もない結果が生じるかもしれません。その可能性を、誰も否定できません。無限な状態を、誰も想像できないからです。無限が持つ無限大の可能性を、誰も否定できないからです。

無限は、無限大の可能性を秘めている。

この話は、『突然 』と、『無限 』と、『小さな 』という3つの曖昧な言葉を使った印象操作です。
突然も無限も、人智を超えた言葉ですから、そこで、思考が停止します。誰も、突然や偶然が無限に繰り返された状態など、想像できません。「途轍もないことが起こるかもしれない。」と、思ってしまいます。「そんな、バカな。」と半信半疑ながらも、可能性は否定できません。「無限に繰り返したら、ひょっとしたら。」と、思ってしまいます。無限には、人智を超えた無限の可能性が宿っているからです。『自然選択』は、現象に方向性を与えてくれます。実に、巧妙なカラクリです。

このような言葉尻を捉えた話は、言葉遊びと感じるかもしれません。
しかし、逆に自分の立場からも、「現代進化論自体が言葉遊びだ。」と、強く感じています。曖昧な言葉を使った印象操作です。その唯一の根拠は、言葉の曖昧さです。曖昧な言葉の隙を突いて、人々を納得させています。

この作業では、その曖昧な言葉を批判しているので、批判作業自体が曖昧になって、言葉遊びになってしまっています。深く追求すれば、する程、言葉の泥沼に足を取られて、身動きが取れなくなってしまいます。まるで、『影踏み』遊びです。踏んづけたと思った瞬間に、するりと逃げられてしまっています。捕らえどころがありません。実に、実りの無い無駄な虚しい作業です。自分の時間がムダに浪費されていることに、苦痛を感じています。

生物進化の現象は物理現象です。自然科学なら、物理的作用の因果関係に基づいて記述すべきです。何が、物理的作用で、何が言葉を使った印象操作かを、ハッキリと見極めるべきです。最低限、物理的作用を表現した言葉以外は使うべきではありません。
現状は、まるで、中世の暗黒時代、そのままです。あまりにも、言葉と因習に囚われ過ぎています。言葉の曖昧さを利用した印象操作に熱中し過ぎです。自然科学の説明よりも、人を説得することに、つまり、論争に勝つことに、力点を置き過ぎです。

現代進化論は、人々を納得させるのには、完璧に成功していますが、自然科学の説明には、程遠いものです。自然科学の説明と、人を納得させることの区別がついていません。(愚痴です。)

5.6 創造神話

このような突然変異説で使っているテクニックは、一般社会でも、広く見られます。
その代表が、『創造神話』です。どのような民族、宗教も、その内容は別にして、創造神話を持っています。その代表的な表現は、下記のようなものです。

創造神話世界は、最初、神によって作られた。

日本の国作り神話では、「イザナギとイザナミの二人の神によって作られた。」ことになっています。ユダヤ教などのアブラハムの宗教では、神が、一週間掛けて作ったことになっています。ほとんどの民族、宗教が、何らかの創造神話を持っています。

この論法では、論理の出発点に、人智を超えた『神』を置くことによって、それ以上、因果関係を辿る必要が無くなっています。即ち、「神が作る前は、どうだったのか?」とか、「その神は、誰によって作られたのか?」を、問う必要が無くなっています。神は、全知全能であり、万能だからです。神に不可能はありません。そこで、因果関係の鎖が断ち切られています。

大本の始まりが、明示さえているので、即ち、「最初は、神によって作られた。」で始まるので、話の治まりもよく、理解し易い物語に仕上がっています。『ニワトリが先か、タマゴが先か。』のような歯切れの悪さと、虫唾が走るようなスッキリしない不快感は無くなっています。

5.7 ビックバン仮説

このような創造神話は、物理学の世界でも、まことしやかに語られています。「我々の存在しているこの宇宙は、ビックバン(大爆発)から始まった。」と、現代の物理学者は主張しています。神の代わりに、ビックバンを、世界創造の始めに持ってきています。

ビックバン仮説宇宙は、最初、ビックバンから始まった。

ここでも、神同様に、因果関係の鎖が断ち切られています。物語の始まりが、明示されています。物語が始まる前、つまり、「ビックバンの起こる前の状態はどうだったのか。」を、考え無くても良くなっています。

限りなく、怪しい仮説です。宇宙が膨張しているように見えるのは、ただ単に、宇宙全体が生じさせているマクロ効果かもしれないのに。
宇宙は、重力による引力によって、縮小しているように見えます。一方、別の現象を観察すると、遠くからの光は赤方偏移して、膨張しているように見えます。もし、この宇宙が有限なら、膨張は、重力によって縮小している宇宙の反作用かもしれません。一枚のコインの裏表が違って見えているだけかもしれません。というか、重力自体が、この宇宙が有限な為に生じている見かけの力かもしれません。有限な為に、その有限の中に閉じ込める為に、重力によって縮小しているように見えるだけかもしれません。

5.8 デカルトの懐疑論

デカルトは、『疑っても疑い切れないものを、最も確実なもの。』と見なして、その確実な事実を前提にして、論理を展開しようとしました。物語の始まりに、『疑っても疑い切れないもの』を持ってきました。

しかし、この考え方が間違っていることは、簡単に理解できると思います。1万年前の過去に、自分を戻してみて下さい。1万年まえの原始人になったつもりで、もの事を観察してみて下さい。

『太陽が東の空から昇って、西の空に沈む。』事実は、疑っても、疑い切れない事実です。古代人は、現代人が持っているような天体の運動に関する知識は持っていないからです。まさか、「地球は球体だ。」とか、「それが、一日に一回、自転している。」などとは、夢にも思いません。

つまり、「疑っても疑い切れない事実に直面した。」ということは、「自らの知識の限界に、突き当たった。」ことを意味しているに過ぎません。客観的に評価できる知識を持っていない状態です。古代人が東から昇る太陽を絶対に疑うことができないのも、彼が、天体の運動に関する知識を持っていないからです。知識がないので、疑うこともできません。だから、それは、最も、曖昧で、不確かなことです。デカルトの思い込みとは、正反対の状況です。
現代人なら、それが表面的な見かけの問題に過ぎないことを理解しています。

彼は、こともあろうに、最も不確かなものを、最も確かなものと、錯覚して、それを出発点にして、論理を展開しようとしました。

彼が拘っていた『疑っている自分』は、『疑い切れない真理』ではなくて、今、流行りの言葉を使うなら、『仮想現実の中のシミュレーション』に過ぎません。架空世界の中で、『疑う』という架空行動(シミュレーション)を繰り返しているに過ぎません。

知的生命体の脳の構造の特殊性に関する知識があれば、もう少し違った結論に辿り着いたと思います。

デカルトの懐疑論疑っても疑い切れないものを、最も確実なものをとみなす。
この最も確かな事実を出発点にして、論理を展開する。

5.9 唯物論

唯物論も、この傾向を持っています。

現代科学を支えている哲学は、唯物論ですが、唯物論自体、創造神話に限りなく近い論法となっています。

唯物論では、「我々は、実体を認識の対象にしている。」と考えています。即ち、「認識しているものは、絶対に疑う事のできない真実だ。」と思っています。
この為、「『認識している事実』は、最も確かな事であり、この事実を出発点とした論法も、また、最も確かなものである。」と、思っています。つまり、「疑うことのできない事実に立脚した、最も確かな主張だ。」と思っています。

唯物論見えている事実は、最も確かなを事です。
認識されている事実は、実在しています。
その存在は、誰も疑う必要がありません。
存在している理由を、問う必要もありません。
この最も確かな事実を根拠にて、論理を展開します。
それゆえ、唯物論は、最も確かな話だと思われています。

認識している事実に立脚することによって、そこで、因果関係の鎖を断ち切ることが可能となっています。

その『最も確かな事実』を、話の始めに持ってくることで、もう、それ以上、その前を問題にする必要が無くなっています。即ち、そこで、因果関係の鎖が断ち切られています。『事実に立脚した話。』であり、『認識している実体』は、絶対に疑うことのできない真実だからです。これ程、確かな話はありません。

5.10 自然選択説と唯物論の先入観

自然選択説でも、この唯物論の先入観が使われています。

目の前に存在している生物は、なぜ、そこに存在しているかを問う必要がありません。存在している事実は、最も確かな真実です。

その事実に立脚して、論理を展開しています。ブロンズの像がブロンズの像として存在し続けていることと、生物が生物として存在し続けることとを同じだと見なしています。どちらも、認識できるので、つまり、実在しているので、疑うことの出来ない真実です。

存在している事実を、『疑う必要のない確実な真実』だと見なして、その確実な真実に自然選択が作用して、生物は進化したと考えています。そして、自然選択が作用して誕生した新しい生物は、同様に、認識可能な『存在している事実』です。その事実を『疑う必要のない確実な真実』だと見なして、また、そこに自然選択が作用すると考えています。

このようにして、確実な真実に、繰り返し自然選択が作用して、階段を、一歩、一歩、登っていくように、着実に、生物は進化したと考えています。階段を転げ落ちる心配をしていません。一度、『存在している事実』と認定されると、それは普遍的な真実と見なされるからです。ブロンズの像のように、その存在している事実は、確実で強固なものとして保証されます。

ネオ・ダーウィニズムの根拠と論法
唯物論見えている事実に立脚します。
現に、生物は存在しています。
存在している生物を、認識出来ます。
認識している事実は、その存在を疑う必要がありません。
最も確かな事実です。
進化論この最も確かな事実に、突然変異と自然選択が作用します。
この結果、生物は進化します。
唯物論この新たに出現した進化生物も、認識できます。
認識できるから、存在を疑う必要はありません。
最も確かな事実です。
進化論この認識している事実に、立脚します。
この事実に、さらに、新たに突然変異と自然選択が作用します。
さらに、新しく進化した生物が出現します。
唯物論これも認識できます。
認識できるから、存在を疑う必要はありません。
繰り返し
後は、これの繰り返しです。


斯くして、事実に立脚した最も確かな論理が展開されていきます。
生物は、階段を一歩づつ登っていくように、着実に進化していきます。
めでたし。めでたし。。。。

ところが、現実は、エントロピーが増大します。本来、現象は、秩序から無秩序に向かって進行します。砂山は、高くなれば、高くなる程、不安定になります。それが証拠に、死ねば、腐って、土に帰っていきます。混沌としたエントロピーの高い状態に戻ります。

例外的に、生きている間だけ、この肉体のエントロピーが低い状態、即ち、秩序が保たれ続けます。
この秩序を保つ仕組み(自己保存)こそが生命現象であり、その生命現象の一部が進化現象である筈なのですが、自然選択説は、唯物論の先入観によって、この問題を無視しています。いや、避けて通っています。

今、生物が存在し続けていること自体が問題なのに、その今を無視して、目の前に存在している事実を、当たり前の事、疑う必要のない確実な真実と捉えて、論理を展開しています。唯物論の先入観に従うなら、認識できる事実は、存在している事実であり、その存在は疑う必要がないからです。なぜ、エントロピー増大の原理に逆らって、存在出来ているのかを、問うことはありません。
存在し続けている仕組みこそが、問題の筈なのですけど。

自然選択説生物が目の前に存在してる事実は、疑うことができない。
この疑うことのできない事実に立脚して、論理を展開します。
この存在している事実に、自然選択が作用して、生物は進化した。
この既成事実の積み重ねによって、生物は進化発展した。

注)生命現象は、自己保存系の振る舞いに関する現象です。だから、自己が保存される仕組み、即ち、姿形が維持され続ける仕組みの解明こそが重要です。
生物進化の現象も、自己保存系の環境変化への適応行為の一種です。そこで保存されている自己は種です。
進化は、個体レベルでの適応行為ではありません。環境の変化に伴う、個体の変遷に関する現象では無くて、種の変遷に関する現象です。ダーウィンも述べているように、種の起源と変遷に関する現象です。種を自己保存しているゲンプール全体が、環境変化に対してどう振る舞うかの問題です。
工学的には、制御工学の問題です。環境の変化に対して、自己を保存する為に、どう制御するかの問題です。DNAを使った制御の仕組みを解明することです。ロボット制御と基本は同じです。

5.11 創造神話の一覧

このような、『創造神話』と同じ論理構造をもった話を、一覧に纏めてみました。これらに共通していることは、物語の始まりが明示され、そこで因果関係の鎖が断ち切られていることです。

様々な創造神話の一覧
現象名物語大本の始め
生命誕生神話最初のタマゴは、丸い石から、突然、生じた。突然
化学進化説生物は、突然変異によって、無機物から発生した。突然
神の奇跡人は、信じられない状況に直面した時、 「神の奇跡だ。」と叫びます。
奇跡の原因は、神です。
創造神話世界は、最初、神によって作られた。
ビッグバン仮説宇宙は、最初、ビックバンから始まった。ビックバン
デカルトの懐疑論疑っても疑い切れないものを、最も確実なものをとみなす。
この最も確かな真実を出発点にして、論理を展開しようとしています。
疑い切れないもの
唯物論見えている事実は、絶対に疑うことのできない真実です。
その真実を話しの出発点にすれば、これほど、確かな話しはありません。
見えている事実は、疑う必要がありません。
見えている事実
自然選択説生物が目の前に存在してる事実は、疑うことのできない確実な事実です。
この事実に自然選択が作用して、生物は進化した。
この既成事実の積み重ねによって、生物は進化発展した。
唯物論の一種です。
見えている事実

このように、大本の始まりを仮定して、そこで因果関係の鎖を断ち切る物語は、世間で、よく見かけます。

この種の物語は、起承転結がハッキリしていて、心の治まりが良く、受け入れ易い為です。『ニワトリが先か、タマゴが先か。』のように、始まりと終わりが曖昧で、虫唾が走るようなフラストレーションが溜まりません。

問題は、「大本の始まりに何を持ってくるか。」だけです。『 』か、『ビッグバン 』か、『偶然』か、『突然 』か、それとも、『唯物論 (見えている事実)』か、だけです。

要は、人智を超えた摩訶不思議な言葉、つまり、形而上学的に曖昧な言葉を、先頭に持ってくることがポイントです。

5.12 まとめ

冷たいようですが、生物進化の現象は、物理現象です。従って、物理的作用の因果関係に基づいて記述すべきです。

突然変異説は、言葉の曖昧さを利用した印象操作です。曖昧な言葉を論理の出発点に持ってくることによって、因果関係の鎖を断ち切っています。

その目的は、人間を説得する事、即ち、論争に勝つことみたいです。自然科学の説明をすることではないみたいです。およそ、自然科学には、程遠いものです。

参考1)突然変異の原因(生と死の問題)

生物が変異する原因は、論理的には、2つの可能性があります。
そのひとつは、適応の為の変異です。もうひとつは、システムの故障が原因の変異です。

この2つは、生物にとって、最も重要な生と死の問題で、その結果が正反対になります。だから、表面的な見かけが同じだからと言って、決して、混同していい問題ではありません。因果関係が確認できないからと言って、無視はできません。

変異の原因、目的世間での通称結果
生きる為。適応
故障、不具合。奇形

奇形

生物が変異する原因のひとつは、システムの故障に基づくものです。故障によって生じた変異を、世間では『奇形 』と呼んでいます。

生物は、非常に精巧なシステムです。一方、環境は危険に満ち溢れています。紫外線や宇宙線などの放射線や、化学物質などによって、常に、破壊の危機に瀕しています。細菌などの生物兵器も深刻な問題です。この為、常に、故障や障害に悩まされています。

生物システムは、多重化されて、相互に補完されていますから、少しぐらいの傷では、致命傷にはなりませんが、しかし、それでも、多くの障害が発生しています。このようなシステムの障害によって発生する変異を、一般に、『奇形』と呼んでいます。

この変異は、生物の生存に否定的に作用します。即ち、生存に不利です。通常は、死に繋がります。実際にも、ほとんどの突然変異は、有害です。

適応

もうひとつの変異の原因は、生きる為です。生きる為の変異を、世間では『適応 』と呼んでいます。

生物は、生きる為に、環境変化に適応して、自らを変えています。
個体レベルでの適応行為と、その変異は、理解して頂ける思います。飛んできたボールは、とっさに、避けます。いくら、自然選択説信者でも、自然選択の成り行きに身を任せて、ぼけっと突っ立ているような愚かな真似は、しないと思います。積極的に、自らの危機に対応します。姿勢を変えて、ボールを避けます。

彼らは、本音(体の痛み)では、自然選択が間違っていることを知っています。それが証拠に、成り行きには、絶対に、身を委ねないからです。積極的に、ボールから逃げます。当たると痛いから。

本当に自然選択説を信じているなら、ボールが飛んできても、自然選択(他力本願の成り行き)に身を委ねればいいのに、絶対に、そうはしません。信念をかなぐり捨てて逃げます。言っていることと、やっていることが違い過ぎています。

生物進化の現象も、あなたや私のような個体が生きる行為も、共に、生命現象の一部です。生物学者は、自分も生物の一員である現実を忘れています。まるで、自分は例外的存在、即ち、神のようなものだと思っています。

何処でどう間違えたのか、生物進化では、生物学者は、個体に見られるような積極的な適応行為を認めていません。成り行き任せ(自然選択)で結果が生じている現象と見なしています。種のレベルでの積極的な適応行為は、ラマルキズムとして、禁句になっています。
同じ生命現象なのに、ダブルスタンダードです。その根拠は、何処にあるのでしょうか。

見かけは同じ

確かに、目の前で起こっている突然変異の因果関係は確認できません。原因もなしに、突然、起こっている現象のように見えます。奇形と適応の区別は、簡単にはつきません。

しかし、見えている事実を、絶対的真理と見なしていいかどうかは、疑問です。進化においては、奇形と適応は、確かに、見かけは同じになりますが、その結果は正反対になるからです。
人間の一生程度の短時間の観察では、奇形と適応は区別が付きませんが、生物進化のような10万年、100万年掛かるような長時間の現象では、果たして、結果はどうなるでしょうか?

奇形と適応は、生物にとって、一番重要な、『生と死の問題』で、結果が正反対になります。システムの故障による変異は、死に繋がりますが、適応の為の変異は、生存に繋がります。無視できる些細な問題ではありません。

生物学者は、よく放射線によって遺伝子を破壊して、その結果を観察して、「突然変異のほとんどは有害である。」と嘆いておられますが、このような誤解が生じるのも、奇形と適応を混同しているからです。「自転車を壊せば、飛行機になる筈なのに、実際には動かなくなってしまった。」と言われても、返す言葉がありません。

生物が変異する原因と、その見かけと結果

変異の原因見かけの現象結果
システムの故障生物に変異が生じる
環境変化への適応生物に変異が生じる

注)表面的な見かけは同じになりますが、結果は正反対です。一番重要な生と死の問題で、結果が正反対になります。

見えている事実を絶対視するか、客観視するかは、もはや、科学に対する基本的な姿勢の問題です。信念の問題なので、何も言えません。現代科学を支えている主流の哲学は、唯物論です。見えている事実を、絶対視する傾向にあります。
ただ、見かけは同じでも、結果が正反対になってしまう2つの現象を混同していいものでしようか。生命にとって最も重要な『生と死の問題』で、結果が正反対になってしまうのです。たとえ、見かけが同じであっても、何らかの工夫が必要ではないでしょうか。無視できる程の些細な問題ではないような気がします。

参考2)時間尺度の問題

生物進化の現象は、非常に時間尺度の長い現象です。だから、注意しないと、因果関係を見失ってしまいます。

化石のデータを参考にするなら、生物進化の現象は数万年から数百万年掛けて起こる現象です。一方、我々人間の一生は、高々、50年程度です。ダーウィンからでも、まだ、200年しか経っていません。

周期1秒の振り子時計を、1ミリ秒(1/1000秒)間、観察しても、止まっているようにしか見えません。見えている事実を絶対視するなら、振り子時計は動いていないと結論されてしまいます。
たまたま、秒針が動く瞬間に出くわしたら、突然、何の前触れもなく動いて、驚いてしまいます。

現象の時間尺度を無視すると、原因と結果の因果関係を観察できなくなってしまいます。この為、ともすると、因果関係を観察できない為に、『原因も無しに、突然、生じた現象』、即ち、『突然変異』に見えてしまいます。

本当に、突然変異は、原因もなしに、突然、発生した現象でしょうか?。
ただ単に、観察時間が短すぎる為に、因果関係を観察出来なかっただけではないでしょうか。
もちろん、観察されている事実を否定するつもりはありませんが。

見えている事実を絶対視して、それを根拠にして論理を組み立てるのが、果たして、科学的に合理的な態度でしょうか?
この問題は、時間尺度が長い現象に共通するジレンマです。因果関係を、直接、観察できないからです。実験によって、白黒をつけることが出来ないからです。
歴史に、『もしも?』がないのと同じです。歴史は、やり直すことができません。一回切りの現象です。進化現象も同様です。やり直すことができません。一回切りの現象です。

もし、確認できる因果関係だけを対象にしたら、我々は、人間の一生よりも長い時間尺度の現象を、科学の対象にできなくなってしまいます。現象の一断面しか論ずることが出来ない、ただの単なる自己満足の世界に陥ってしまいます。

まとめ

生物進化の現象自体は、非常に時間尺度の長い現象です。

人間の一生程度の短い観察時間の範囲内では、その因果関係を観察できません。原因と結果の時間間隔が空き過ぎているので、目の前で起こっている現象の原因を確認できません。原因も無しに突然生じた現象、即ち、突然変異に見えてしまいます。

その見えている事実は、事実であって、真実ではありません。現象のいち断面に過ぎません。それを、突然変異説のように、絶対的真理だと見なすのは、根本的に間違っています。
時間尺度の問題を無視しています。見えている表面的事実に、執着し過ぎです。

人間の一生よりも長い時間尺度の現象を、どう理解するか、慎重な考察が必要です。
最低限、適応と奇形、即ち、生と死の問題は、区別すべきです。