2.2 二通りの説明方法


   人間という動物は、本質的に全く異なった2通りの説明方法を、臨機応変に使い分けています。

   身も蓋もない恐ろしい現実を指摘します。現代文明を根底から揺さぶります。進化論が陥った罠も、本質的には、ここに原因があります。

   人間という動物の習性を、注意深く観察してみて下さい。

   この動物は、『言葉で、何にでも、理屈を付けたがる。』という不思議な習性を持っています。この習性を、注意深く観察していると、そこに本質的に異なった2通りの方法が使い分けられていることに、気が付きます。

   そのひとつは、『いい悪い』の価値観を使った説明です。
   もうひとつは、『原因と結果』の因果関係に基ずく説明です。

人間という動物が使っている2通りの説明方法  
1) 『いい、悪い』の価値観を使った説明 -> 経験則による説明
2) 『原因と結果』の因果関係に基ずく説明 -> 自然科学の説明

   例えば、植物の光合成を例にとれば、次のような2通りの説明が可能です。「明るいから、光合成が起っている」と、『明るい、暗い』の価値観を使って説明する方法です。もうひとつは、「光が当たるから、光合成が起る。」と、『光が当たる。』という物理的作用の因果関係に基づいて説明する方法です。

光合成についての2通りの説明方法
1) 価値観を使った説明 明るいから、光合成がおこっている。
2) 因果関係を使った説明 光が当たると、光合成が起る。

   このどちらでも、人間を納得させることが出来ます。この2つの違いを、ほとんど、自覚していません。いや、自覚出来ていません。

   光合成が起っている現場では、光が当たっていますから、明るいと感じることが出来ます。つまり、『明るい、暗い』の価値観を使って現象を観察すれば、明るいと感じることが出来る場所では、光合成が起っています。だから、『明るいから、光合成が起っている。』という経験則は間違ってはいません。この経験則に基づく説明は、それゆえ、多くの人々を納得させることができます。

   しかし、光合成自体は、「光が当たる。」という物理的作用が原因になって起っている現象です。だから、自然科学の対象として、目の前の現象を説明する場合は、「光が当たるから、光合成が起る。」と、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべき問題です。

   「納得できれば、それで充分。説明の方法は問わない。」「問題は、直感的に納得できるかどうかだ。」と言ってしまえば、返す言葉もありませんが、しかし。。。


   ところで、進化論は、どちらでしょうか?

   もう、お解りですね。『いい、悪い』の価値観を使った説明 です。「明るいから、光合成がおこっている。」という説明方法と同じです。『原因と結果』の因果関係に基ずく説明ではありません。

   現代の哲学者も科学者も、この事実に気が付いていません。相変わらず、この2つの問題を、未分化のまま、グジャグジャにして論じています。人間の脳は、まだ、この2つの問題を的確に識別できるレベルにまで、進化していないように見受けられます。人間の脳の生物学的構造からも、このような識別は、あまり、得意ではないみたいです。

   現代進化論の混乱も、生物学的には、ここに、原因があります。この動物のこの習性に問題があります。

   相変わらず、『いい、悪い』の価値観を使った神学論争に夢中になっています。そして、絶対的価値観を使って説明することが、哲学や学問の真理への道であると錯覚しています。

   哲学者とか、宗教家、思想家、科学者と呼ばれる動物は、まだ、この「いい。わるい。」の価値観を使った説明習慣から抜け出せていません。その呪縛に囚われています。人間という動物のさが(性)に振り回されています。無批判に、無自覚に、『いい、悪い』の価値観を使った神学論争を振り回しています。

   人間は人間である前に動物です。動物である前に、生き物です。動物進化5億年の歴史を、生物進化30億年の歴史を背負っています。その歴史が生み出す、動物としての、或いは、生き物としての宿命や習性、さが(性)から逃れることはできません。

   自らのさが(性)に、目を向けることも大切です。哲学者のように、高らかに、知性の偉大な勝利を歌い上げる前に、「そのような、自己満足に浸りたい。」という欲望に、冷たい視線を向けてみることも大切です。

   『いきもの』を辞めない限り、そのさが(性)から逃れることはできません。いい悪いの問題とは無関係に、その現実は、受け入れていかなければなりません。
 
   時間と人生を無駄にしない為に、思考作業を開始する前に、まず、この点を確認されることをお勧めします。それが、『いい、悪い』の価値観を使った思考過程なのか、それとも、『原因と結果』の物理的作用の因果関係に基づく思考過程なのかを。どちらの性(さが)に振り回された行動かを。

   この違いを理解して頂けるなら、もうこれ以上、これを読む必要はありません。以下の内容は、手を変え、品を変え、これの補足説明に過ぎないからです。