3.集団遺伝学と自然選択説














































































































































































































































































































































































































































































































































前もって確率の決まっていない事象に、確率論は適用できません。
前もって生存確率を決定できるなら、それこそが進化の答えです。
その生存確率を導く手順こそが、進化の仕組みだからです。
わざわざ、集団遺伝学のように、確率論を持ち出す必要はありません。
彼らの主張は、「答えが分かっているなら、答えられます。」と言っているようなものです。
答えが分かっていることを前提にして、論理を展開しようとしています。

   中には、「生存確率を仮定すれば、集団遺伝学のように、進化をうまく論ずることができる。」と主張する方がいるかもしれません。でも、その仮定自体に問題があります。それは、環境によって異なっているからです。生物と環境との複雑な関係によって決まっており、環境が異なれば、生存確率も異なります。しかも、明日の天気が分からないように、環境の変化は誰にも予測できません。誰にも分からないので、仮定のしようもありません。

   無理やり、そのような複雑な現実を無視して、単純化しても、学問の為の学問にはなっても、現実に直面した場合には、何も説明できません。環境がどう変化するか予測できないからです。

   結局、「生き残ったものが、生存確率が高かったのだ。」という結果論に落ち着くだけです。


言葉尻の微妙な変遷

   進化論の表現が、昔と今では、微妙に異なっています。
   現代の進化論は、古典的表現を使わないで、反論し辛い微妙な表現を使っています。気になったので、その騙しのテクニックについて、解析します。
   不快だと感じたら、このページは読み飛ばして下さい。

古典的表現:
   『生存に都合のいい変異が選択された。(結果、生物は進化した。)

集団遺伝学を背景とした現代の表現:
   『変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(wikipedia より)

   この現代の進化論を表現した文章は、引用元によって、微妙に異なると思います。ここでは、wikipedia の文章を使いました。余りにも、素晴らしかったので。
   言葉の違いは、これからの話では、たいして問題になりません。多分、どこから引用しても結果は同じになると思います。

   重要なことは、自然科学なので、物理現象に言及する必要があります。それに、言及出来ているか、出来ていないかだけです。現実は、生物学者が考えているよりも、遥かに、冷酷です。

   現代進化論は、全て、物理的作用について、言及できていません。言葉の微妙な言い回しで、解決できたと錯覚しています。言葉の微妙な言い回しが問題になっている時点で、既に、それは、自然科学の理論として偽物です。印象操作、詐欺の世界です。

  
 現代進化論は、三流の恋占いです。


変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(wikipedia より)

という現代進化論の主張は、一種の占いみたいなものです。ここで使われてる騙しのテクニックを使って、恋占いを作ってみました。

世の中には色々な女性がいる。(変異が生じている。)
その中には、君に好意を寄せてくれる女性もいる。
(好意の程度に差が生じている。)

   これを聞いて、「ひょっとしたら、僕にも可能性があるかも。春は巡ってくるかも。」と、急に、心が軽くなった方もおられるかもしれません。

   しかし、大部分の方は、ムッときて、「金返せ。」となるだけだと思います。 こんな気休め、今更言われても困ります。

   重要なことは、「どうやって、彼女を振り向かせるか?」です。「花束をプレゼントするのか。」「食事に誘うのか。」それとも、もっとストレートに、「お金」なのか、その具体的方法です。

   女性の誘い方は、女性の気分や嗜好によって、様々です。厄介なことに、同じ女性でも、その気分は激しく揺れ動きますから、当然、その誘い方も、その時々で異なってきます。
   女性の気分に合わせて、臨機応変に変えなけらばいけません。原則論は、禁物です。相手も、自分の心を持て余している気分屋なので。

   生物進化でも、同様です。どの個体が生き残り、どの個体が死ぬかは、環境変化の種類によって、大きく異なります。寒さに強い個体も居れば、弱い個体もいます。暑さに強い個体も居れば、弱い個体もいます。
   しかも、環境変化は、気分屋です。明日の天気を、誰も予測できません。女性の心と同じです。ファジーです。

   結果として、どの個体が生き残るかは、気分屋の環境変化次第です。もし、真剣に、生存確率を問題としたいなら、まず、最初に、環境と、個々の生存確率の対応関係を、詳細に調べる必要があります。

   ある環境の時には、夫々の各個体の生存確率はどうなるか。別の環境の場合は、生存確率はどう変動するか。全ての場合について、詳細に調べる必要があります。
 
   でないて、現実に直面した時、何の説明もできません。「この個体は寒さに強いから、冬を越す確率は、何パーセントの筈だ。」と、冬が始まる前に論ずることはできません。
   その代わり、冬が終わったら、即ち、春になったら、簡単に、結果論として判ります。生き残った個体を数えればいいからです。
   なお、寒さに強い個体が生き残ったとは限りません。冬は、食糧事情が悪化するので、粗食に耐えた個体が、生き残った可能性もあります。結局のところ、本当の理由は判りません。全ては、結果論としてしか、判りません。

   歪なサイコロは、振る前には、確率は判りませんが、振った後なら、集計可能です。現実のサイコロは、歪んでいるので、必ずしも、結果は、1/6 になるとは限りません。実際にサイコロを振って、目の出た回数を集計して、始めて判りません。

   確率は、事が起こった後の集計ですから、事が起こる前には判りません。その本質は、結果論です。過去の似たような事例が参考になるだけです。
実際の確率は、結果を集計して求めています。あくまでも、結果論です。

   そのような現実を無視して、ただ漠然と、「好意を寄せてくれる女性もいる。」とか、「生存確率に差を与えるものがある。」とか、抽象的な可能性の話をされても、返答に困ってしまいます。

   確かに、占いとしては、間違ったことは言っていません。しかし、同時に、役に立つことも、言っていません。可能性の話をしているだけです。当たり障りのない一般論が述べられているだけです。

   占い師の最終兵器は、『結果を見て、結果論で説明すること。』です。結果を見れば、(顔を見れば)、女性を誘うことに成功したかどうかが分かります。失敗したら、『好意の程度に差が生じていたから。』と説明できます。逆に、成功しても、同様に、『好意の程度に差が生じていたから。』と説明できます。結果論は万能です。

   実際には、女性の気分を無視して、トンチンカンな誘い方をしたことが、失敗の原因かもしれません。最初から、脈が無かっただけかもしれません。その原因は、個々の事情で、様々です。決して、一様ではありません。

   しかし、それでも、これで、相手を論破できます。結果論は、結果に合わせて論理を組み立てるので、絶対に、結果は間違っていないからです。

   歴史に『もしも』がないのと同様に、進化の歴史にも、『もしも』はありません。やり直すことが出来ません。だから、結果の検証のしようもありません。結果論は、結果が間違っていないので、渋々、納得する以外に方法がありません。

   素朴な疑問なのですが、こんなんで、納得して、キチンと占い料を払って頂けるのでしょうか?


   騙しのポイント


   このトリックのポイントは、『生存確率』という言葉にあります。

   この言葉が、使いたくない単語を遮蔽して、それと同等の効果をもたらす役割を担っています。『選択する。』という能動的な表現ではなくて、選択された結果を受動的に表現する『生存確率』という言葉を使っています。だから、『生存確率の高い個体は生き残り、進化が起こるか。』かのような印象を受けます。

   この説明では、肝心の生存確率の具体的決定方法が述べられていません。

   そもそも、生存確率を、前もって、決める方法はあるのでしょうか?卵を前にして、或いは、雛を前にして、この鶏の生存確率を決定する方法があるのでしょうか?この方法が見つかれば、変異が、進化に繋がる説明も可能になります。

   いや、これこそが、最終的解答です。変異が生存確率に影響を与える仕組みが分かれば、進化の仕組みが分かったも同然です。これ以上の余分な説明は不要です。

   ところが、実際には、運命は、神にしか解りません。従って、生存確率を、前もって知りたければ、神に聞くしかありません。

   一方、後で知るのは簡単です。既に、運命が決まっているからです。結果論として、生存確率を論じることは簡単です。既に、結果が出ているので、その結果を数えればいいだけなので、絶対に間違うことはありません。

   結局、我々は、神でないので、生存確率を、結果でしか判断できません。

   「生き残ったものが、生存確率が高かった。」「生き残った個体が、都合のいい変異を持っていたので、生存確率が高かったのだろう。」としか、推測できません。

   現代の進化論も、具体的な仕組みについては、何も主張していないので、当然、未来予測は不可能です。生存確率同様、結果論でしか物事を説明できません。

   実際の現代進化論の説明手順も、そのようになっています。まず、結果を確認して、次に、過去の経緯に目を向け、結果を説明するのに都合のいい物理現象を探します。そして、見つかったら、それを使って、結果をうまく説明します。結果に説明を合わせる結果論になっています。だから、絶対に正しい説明になっています。
   進化論は、いつも、この頭の体操の繰り返しです。

 1.  まず、結果を確認する。
 2.  過去の経緯に目を向け、結果を説明するのに都合のいい物理現象を探す。
 3.  見つかったら、それを使って、結果をうまく説明する。

   この集団遺伝学の主張の恐ろしいところは、「変異が、生存確率に差を与える。」と、「変異が生存確率を前もって決定している。」かの印象を与えていることです。

   「変異が生存確率を決定している。」と能動的に表現すれば、直ぐに、「では、その決定方法は?」と、反論されてしまいます。
   そこで、変異によって決定された結果を、事務的に、「変異が、生存確率に差を与える。」と受動的に表現しています。
   このように表現すると、差が生じたのは運命的、自然な成り行きに思えてしまいますから、「では、差を与える方法は?」と、反論し辛くなります。 差が生じたのは、成り行きの結果でしかないからです。

   例えは、変異が生存確率を決定している場合、変異Aは、生存確率Aとなります。変異Bは、生存確率Bとなります。変異によって、生存確率に差が生じます。

   そこで、『変異が、生存確率を決定している。』と能動的に表現する代わりに、結果に差が生じている点に着目して、『変異によって、生存確率に差が生じる。』とか、『変異が、生存確率に差を与える。』と、(生じている)結果だけを受動的に表現します。

   このように表現すると、(差が生じている)結果だけを指摘しているので、結果が生じた理由を説明する必要がありません。この手口、どこかの新興宗教で見た気がするのですが、思い出せません。

意図していること。
(1) 生存に都合のいい変異が選択される。
『いい。わるい。』を、『確率が高い、低い』の価値観に言い換えます。
確率は、『高いか、低いか』の選択肢しかありません。
それ以外の選択肢はありません。
(2) 生存にいい変異は、生存確率が高くなる。
(3) 変異が生存確率を決定している。
 
(4) いい変異Aは、生存確率Aと高くなる。
悪い変異Bは、生存確率Bと低くなる。
 
  差が生じている結果に着目して
この差が生じている事実だけを、事務的に受動的に表現します。
重要事項の言及はしない。((4)の差が生じている仕組み』について)
 
(5) 変異によって、生存確率に差が生じる。 又は
変異が、生存確率に差を与える。 と表現する。
 
  結果、受身表現なので、生存確率は、自然に決まったかのように錯覚する。
重要事項(4)の説明は省略しています。
だから、差が生じる理由に関する質問や反論もありません。
この為、解ったような、解らないような、煙に巻かれた印象を受けます。
占いの言葉同様、受け手が、どうにでも解釈できる、突っ込み処も曖昧な文章に仕上がっています。

   つまり、(1)〜(5)は、同じ内容にも関わらず、(5)は重要事項の説明を省いています。しかも、受動表現なので、論争上、下記の違いが生じます。同じ内容でも、表現方法を少し変えるだけで、大きな差が生まれます。言葉の微妙な言い回しの違いが、論争バトルでは、決定的な差となって現れます。

表現方法 表現から受ける印象、効果
(1) 都合のいい変異が選択される いいの判定や、選択の仕組みを突っ込まれる
(3) 変異が生存確率を決定している 生存確率を決定している仕組みを突っ込まれる。
「どう、決定しているのか」を。
(5) 変異が生存確率に差を与える 差が生じている結果だけを、受け身で表現しています。
作為がなく、自然に決まったかの印象を与えます
「生存確率が高くなる。」と、具体的な仕組みに言及していないので、それに関する質問や反論もありません。

   このようにして、説明義務を回避しながら、現象の始まる前に、既に、変異によって、生存確率が決定しているかのような印象を与えています。言葉尻を利用した巧妙な印象操作です。

   この言葉で、過去と未来を、巧妙にすり替えています。本来は、結果論でしか説明できないはずの生存確率を、あたかも、一種の運命論か、未来予測であるかのように、錯覚させています。現象が始まる前に、既に、生存確率は決定しているかのような印象を与えます。

変異によって、生存確率が決まる。だから、進化を語ることが出来る。

かのような印象を与えています。理解力がある人間なら、能力が高いほど、そのように、先走って、趣旨を理解してしまいます。能動的文章に翻訳して、仕組みを理解しようとします。

   ところが、反論しようとして主張をチェックすると、何処にも、「変異によって、生存確率が決まる」とは書いていないのです。全ての表現が、受動的運命論なのです。成り行きで結果が生じているかのような表現になっています。反論不可能に陥ってしまいます。


   集団遺伝学の詭弁


(3)変異によって、生存確率が決まる。

 
   この仮定、よくよく、考えたら、集団遺伝学の大前提でした。集団遺伝学では、この前提と、確率論を組み合わせて、集団内に変異が定着する割合を論じていました。

   最初、集団遺伝学を読んだ時、余りにも、胡散臭い内容だったので、読む価値が無くて、そのまま、忘れていました。その胡散臭さの正体がこれだったのですね。
   やっと、あの時の違和感の理由が解りました。『生物の生存確率は、前もって決まっている。』ことを前提しないと、集団遺伝学のシミュレーションは、成り立ちません。

   このような話を、世間一般では、「たらたら話」と言います。「○○と仮定したら。。」「△△と仮定したら。」と、仮定を前提とした話しを総称した呼び名です。早い話が『胡散臭い話』の総称です。
   仮定が正しいなら、その仮定を前提とした論理は成り立ちますから、一瞬、「お〜。」と思いますが、冷静に考えてみると、大抵の場合は、その仮定自身に無理がありますから、聞くだけムダな話です。

   集団遺伝学も、『変異によって、生存確率が決まる。』と仮定したら、そこから先は、確率論を使って、色々な事を論じることが可能となります。
   ところが、実際には、生存確率は、結果でしか知ることが出来ません。結果が出てみないと、実際の生存確率は計算できません。結果論です。
   その結果が、議論の出発点で、既に決まっていることを前提にして、集団遺伝学の話は始まります。結果論と運命論を、すり替えて、あたかも運命論であるかの顔をしています。

   『生存確率』という言葉の中には、既に、『いい変異は生存確率が高い。』、即ち、『いい変異が選択された。』という暗黙の先入観が込められています。だから、もし、その暗黙の前提が正しいなら、『変異が生存確率を決める。』方法さえ分かれば、既に、進化の説明を完了していることになります。わざわざ、この後、確率論を持ち出して、話をややこしくする必要はありません。

   即ち、集団遺伝学の大前提そのものが、我々の知りたい最終回答です。


   もう一度、話を整理します。

   『変異が生存確率を決定する仕組み』そのものが、進化の仕組みであって、それが我々の知りたい最終解答です。

   予め、変異によって、生存確率が決まっていると仮定したら、

   即ち、変異によって、生存確率に差が生じているなら、
   そこに、確率論や統計論を適用して、ゲンプール内での遺伝子の浮遊や定着を論じることが可能となります。

   逆に、前もって、生存確率が決まっていないないなら、

   確率の決まっていない事象に、確率論は適用できませんから、集団遺伝学の話も成り立ちません。

   ところで、前もって、現象が起こる前に、生存確率を決める方法は、あるのでしょうか。

   つまり、集団遺伝学の主張は、『進化の仕組みが解っていれば、生存確率も前もって判るので、確率論を使って、集団遺伝学の説明も可能になります。』となってしまいます。「答えが解っていたら、答えられます。」と言っているようなものです。
   はたして、確率論を持ち出して、話をややこしくする必要はあるのでしょうか。単なる学問的自己満足、アライグマの儀式に過ぎないようにも思えます。

集団遺伝学の
暗黙の前提:
進化の仕組みが解って、
変異が生存確率に差を生じさせる仕組みが解れば
生存確率も、前もって判ります。
集団遺伝学の主張: 生存確率が前もって判っているなら、それを前提として
確率論を使って、各遺伝子の確率的振る舞いや、
ゲンプール内での浮遊を論ずることが可能となります
逆に、生存確率が、前もって決まっていないなら
現実: 確率の決まっていない事象に、確率論は適用できませんから、それ以後の集団遺伝学の話もできません。

それに、生存確率は、置かれている環境の状態によって、変化してしまうものです。この為、現実的な話をしたいなら、まず、環境と生存確率の関係を、詳細に分析する必要があります。

確率論を使って、シミュレーションしようとしたら、環境の変化も問題とする必要があります。
環境は、常に、揺れ動いていて、一定ではありません。気候変動は、予測不可能です。余りにも、たくさんのパラメータによって構成されているので、現代でも、全く、理解できていません。

初期値としての環境だけでなく、シミュレーション途中での環境の変化も考慮したら、そのテストパタンは、限りなく、複雑になってしまいます。

現実の複雑さを全て無視して、極限まで、単純化して、始めて、集団遺伝学の論法は成り立つものです。ここまで、単純化した、しかも、不適切な仮定の上に成り立ったシミュレーションに、はたして、どれだけの意味があるのでしょうか。

   進化の仕組みが分かったら、それを前提とし。。。。何か、気のせいか、同義の反復、即ち、トートロジーに陥っているような気がします。

   気になるのは、現代進化論では、やたらと、このような仮定を前提とした議論が多いような気がすることです。不適切な仮定の上に成り立った論法は無意味です。
ひょっとしたら、進化論自体が、壮大な「たらたら話」の集合体、つまり、おお嘘の世界なのでは。闇が深い。知れば知るほど、恐ろしくなってきました。

   確率論は、結果論です。
   確率は、現象の結果を集計して、始めて求まるものです。
   前もって、決まっているものではありません。
   従って、現象の原因には成れません。
   現象の仕組みを説明する手法でもありません。

   不適切な仮定に上に成り立った集団遺伝学の論法は無意味です。



  


注)環境と生存確率の関係を、全て、調べ上げることは不可能です。

生物進化は、限りなく複雑な現象系です。非常に、多くの要因が複雑に絡み合っています。この為、簡単に、前提条件を揃えることがでません。全てのパタンを、詳細に、実験することはできません。
現実の進化現象は、やり直しが利かない、1回きりの現象です。やり直しが利かない歴史に、『もしも』が無いのと同じで、生物進化にも、『もしも』はありません。前提条件を変えて、やり直すことができません。



注)集団遺伝学は、生物が進化できないことを証明しています。

集団遺伝学は、生物進化を説明しているつもりですが、実は、この方法では、生物は進化できないことを証明しています。意図とは逆のことを証明しています。

生物の生存に関連した要因は、非常に多岐にわたっており、我々は、そのほんの一部しか知りません。調べれば調べる程、生命現象の複雑さに驚かされて仕舞います。

例えば、キリンの首が長くなる問題ひとつをとっても、ことは、それ程、単純ではありません。首が長くなれば、それを支える骨格等の改善も必要です。高い位置に血液を押し上げる循環器系の改善も必要です。
もっと、本質的な問題として、キリンは、首が長くなることだけに専念できる訳ではありません。植物毒などの化学戦にも、病気などの細菌戦にも対応する必要があります。リスクは、多重に渡っており、そのどれもが、生存に関わっています。

キリンがキリンとして生き残っていく為には、多くの変異が協調して起こる必要があります。協調して起こらないで、単発で起こってしまったら、それは、システムのバランスを崩すことになってしまいますから、奇形、即ち、死を意味してしまいます。馬の体に、キリンの首を付けても、バランスが悪くて、満足に走ることさえ出来ません。せっかく、首が長くなっても、病気で死んでしまうかもしれません。

突然変異が、偶然の確率現象だと仮定したら、そのような都合のいい変異が協調して起こる確率は、限りなくゼロに近くなってしまいます。複数の事象が同時に起こる確率は、掛け算によって決まりますから、その確率は、幾何級数的に小さくなります。
例えば、一個のサイコロを振って、1の出る確率は、1/6 です。これだったら、充分に高い確率ですから、都合のいい事象が起こるかもしれないと思えます。ところが、10個のサイコロを同時に振って、全て、1になる確率は、(1/6)*(1.6)*...*(1/6) = 約(1/60000000)=約(1/6千万)です。限りなく小さくなってしまいます。ほとんど、偶然には期待できません。

生物の生存に関連したパラメータが、何個あるかは、全くの未知です。その概数さえ予測不可能です。膨大にあると思われます。少なくとも、遺伝子の数だけ、生存要因は存在していると思われますが、詳細は全く分かりません。
但し、知っているパラメータの個数は、極、少数です。我々は、無知なので、ほんの一部しかしりません。しかし、知っている分だけは、知っているので、我々は全てを知っていると錯覚して、全知全能だと思い込んでいます。


そのような大量にある生存要因が、協調して変異する確率は、限りなく、ゼロに近くなります。確かに、生存要因のひとつだけを取り出して、それについて、シミュレーションすれば、あたかも、進化が起こるかのような印象を受けますが、『複数が、協調して、一定の方向に向かって変異する。』ことを想定すると、確率的に、不可能に近くなってしまいます。即ち、生物は、進化できなくなってしまいます。


ところが、現実には、生物は進化しています。
推論結果と現実が一致しないのは、推論に何らかの欠陥がある為です。多分、推論の出発点となった仮定、『突然変異は、偶然の確率現象だ。』が、間違っていた為でしょう。

環境変化に適応する為に、生物は変異している。』と仮定すれば、複数の変異が協調して起こることも可能になります。環境変化を原因として、変異は起こるからです。その環境変化に適応する為に、変異の方向も、デタラメなものではなくて、合目的的で、協調したなものとなります。変異の原因が、環境変化なので。

今西錦司氏は、「種は、変わるべき時がきたら、一斉に変わる。」と、述べています。この禅問答が誤解され、多くの人々の批判を受けました。
しかし、彼の言葉の『変わるべき時がきたら』を、『環境が変化したら』に置き換えれば、彼の言葉は、平凡な環境変化の適応行為になってしまいます。

種は、環境が変化したら、適応の為に、一斉に変わる。

ネオ・ダーウィニズム的先入観を捨て、進化現象を、生命現象の一部だと見なせば、問題は非常に簡単になります。生命現象は、自己保存系の環境変化への適応行為です。
生物進化において、保存されている自己は、種です。ダーウィンも述べているように、進化は、種の起源と変遷に関する現象です。即ち、種のレベルでの自己保存系の環境変化への適応行為です。

個体レベルや、細胞レベルでの自己保存系の振る舞いに関する現象ではありません。細胞の集合によって個体が構成されているように、種は個体の集合によって構成されています。種を構成する各個体は、個体変異の範囲内で、ほぼクローンなので、環境変化に対しても、同様に振る舞います。一斉に変わることが期待されます。もちろん、個体変異の範囲内のバラツキはありますが。

この現象が、他の生命現象と異なっている特異な点は、次の2点のみです。後は、生命現象として、ごく平凡な、環境変化への適応行為です。

 1 進化は、種のレベルでの自己保存系の環境変化への適応行為です。
そこで、保存されている自己は、種です。
個体レベル、細胞レベルでの自己保存系の振る舞いではありません。 
 2 進化は、非常に時間尺度の長い現象です。
従って、原因と結果の因果関係を確認するのが困難です。

生物進化は、10万年、100万年かけて起こる現象です。
一方、我々人間の一生は、高々、50年です。
たとえ、そこに因果関係が存在していたとしても、この短い観察時間の範囲内では、それをを確認することは困難です。
ともすると、目の前で起こっている変異は、因果関係を確認できない為に、原因もなしに生じてしまった現象、即ち、突然変異に見えてしまいます。

目の前の変異が、『突然』に見えてしまうのは、現象の時間尺度に比べて、観察時間が短すぎる為です。
そこに、原因が存在しない為ではありません。
つまり、突然変異ではありません。我々が、無知なだけです。