6. 正統派進化論とは、何だったのか?














































































































































































































































   正統派進化論に対する批判作業は、結局、次の2点に集約されます。
  1. 物理的作用の因果関係に基づいて、説明されていない。
  2. なぜこんなものを、人々は信じてしまったのか?
    その騙しのテクニックは?

   物理的作用の因果関係に基づいて、説明されていない。

   物理現象が、物理的作用の因果関係の基づいて説明されていなければ、それは、自然科学の理論ではありません。何らかの騙しです。

   このような明確な物差しを持っていないと、現代の進化論争では、信じている側も、批判する側も、言葉の曖昧さに翻弄されて、トートロジーに陥ってしまいます。

   言葉の曖昧さに足を取られて、言葉遊びの底なし沼に、引きずり込まれてしまいます。曖昧さに突き当たって、訳が解らなくなった状態が、理解できた状態だと錯覚してしまいます。まるで、カント哲学や、西田哲学の世界です。

   哲学書は、一般に、『言葉』と、その言葉を生み出している『欲望』と、その言葉が指示している筈の『現実』。この三つの対応関係が曖昧です。この3つを厳密に識別し、対応関係を論じた哲学書を読んだことがありません。多くは、この3つを混同して、ひとつのものだと見なしています。哲学者は、言葉を思考の為の道具として使いこなす基礎訓練ができていません。

   カントも西田も、確かに、学者好みですが、言葉と現実の対応関係が脆弱です。「言葉には、真理が隠されている筈だ。その言葉を使って、哲学的思索を行えば、その隠されている真理にも到達できるはずだ。」と、思っています。

   つまり、素朴な『言霊信仰』を持っています。だから、いつも、言葉を勇ましく、頭の上で、振り回しています。言葉を振り回すことが、哲学的思索だと思っています。言葉と現実や欲望との対応関係には、あまり、関心がありません。言葉の中に隠されている筈の真理に関心があります。

   言葉と欲望の関係にも、無頓着なので、哲学に向いていません。無我夢中で『哲学したい。』、『真理を探究したい。』という欲望に振り回されているだけです。なぜ、自分が、このような欲望を持っているのか、なぜ、それに振り回されるのか、その心の奥底に潜んでいる欲望の存在に、気が付いていません。自分を、習性を持った動物だと、気が付いていません。自分を人間だと、思い込んでいます。動物としての自覚に欠けています。

言葉と、欲望と、現実の関係
 0 先入観  哲学者は、無意識の言霊信仰を持っています。
言葉の背景には、真理が宿っている筈だ。
何か、意味のある根拠が宿っている筈だ。
言葉を使った思索によって、それが明らかになる筈だ。
 1 言葉  習慣によって、音の綴りだけを覚えたもの。
人々が執着や拘りの対象としているもの。
 2 欲望 その言葉への拘りを生み出している心の中の原動力。
言葉には、人間の様々な思い入れや、欲望が投影されています。
 3 現実 本来、その言葉が指し示している筈の事象や、外界。
あくまでも仮定の産物です。言葉の範囲外にあるものです。

『現実』は、行動の結果によってしか、確認出来ません。
だから、みんな、不安になります。
必然的な結果なのか、たまたまなのか、区別つかなくて。
それゆえ、言葉で、固定(定義)したくなります。

しかし、言葉で定義した瞬間に、先入観になってしまいます。
人々は、言葉ばかりを、見つめ始めます。
あやふやで不安定な現実への興味を失います。
現実は、その認識において、常に、不安に溢れています。

   ハッキリ言って、世間知らずです。純粋培養されているだけなので、欲望まみれの現実が理解できていません。言葉を、習い性と、先入観に従って使っているだけです。これを、哲学者は、『純粋思考』と呼んでいます。

   言葉は、人間という動物の生き様から、作り出されていることを忘れています。そこにあるのは、泥まみれの苦しみと、一瞬の喜びだけです。幸福は、慣れと、インフレによって、知らぬ間に、享楽へと姿を変えています。幸福の追求が、実は、享楽の追求でしかないことに、気が付いていません。言葉が背負っている欲望は、常に、表裏一体です。

   このことは、現代進化論にも、そのまま、当てはまります。言葉だけが、ひとりで、踊っています。
   古典的自然選択説も、集団遺伝学も、突然変異説も、物理的作用の因果関係については、無頓着です。言葉と現実が対応関係にありません。自分を納得させる言葉ばかりに、夢中になっています。

   進化論は、「いい。わるい。」の価値観を使って説明していますが、その「いい。わるい。」の言葉に対応した物理現象は存在していません。言葉と物理現象が対応関係にないので、言葉や数式で表現されているような事象が、実際に起っているのかどうかも検証できません。物理現象が対応していないので、実験も成り立ちません。

   例えは、植物の光合成を例にとれば、この現象は、『光が当たる。』という物理的作用が原因となって起こります。『光が当たる。』という言葉には、『光が当たる。』という物理現象が対応しています。
   だから、実験では、この対応している筈の物理的作用を色々変化させて、その結果を検証します。光合成のメカニズムの説明は、理に適ったものです。途中に推論を挟む必要がありません。時計の歯車のように、物理的作用の因果関係が明確に一本に繋がっています。

   ところが、進化論では、この対応関係がありません。彼らは、ある特定の実験や、状況から、全体を推測しています。『ある実験結果から、都合がいいものが生き残ったと判断された。だから、他の状況でも、別の都合のいい事情によって、自然選択が起っているのだろう。』という推論を挟み込んで、その他の現象を説明しています。

   つまり、「自然選択説で説明できる事象が見つかった。」。だから、それを、拡大解釈して、「自然選択説は正しい。自然選択は、生物進化全体に適用可能だ。」と思っています。説明過程のどこかに、「ひとつの事例から、全体を説明する。」ような、推論の飛躍が挿入されています。光合成のように、因果関係の説明が、一本の糸に繋がっていません。推論を挿入した部分で、途切れています。


   なぜ、こんなものを、人々は信じてしまったのか?

   このようなものを、なぜ、人々は信じているのでしょうか。その納得させる心のメカニズムはどうなっているのでしょうか。

   人間という動物は、多くの他の動物同様、習性に従って生きています。広大な野山を自由に駆け回っているように見える獣たちも、実は、通り慣れたケモノ道を通って移動しています。だから、その習性に合わせて罠を仕掛けると、捕まえることが出来ます。

   人間も、一定の使い慣れた思考パタンを持っていて、それに合わせて、言葉を組み立てています。広大な思考空間を、自由に駆け回っている訳ではありません。哲学者は錯覚していますが、必ずしも、原因と結果の因果関係に基づいて、論理的に思考している訳ではありません。あくまでも、思考空間内のケモノ道に沿って、言葉を、置き石のように、並べているだけです。その中で、思考習慣に一致した言葉の並びに、敏感に反応して納得しています。

   現代進化論も、この動物の思考習性に合わせて、言葉が組み立てられています。『いい。わるい。』の価値観に合わせて説明されています。即ち、この動物の思考習慣に合わせた巧妙な罠(騙し)になっています。

  残念ですが、現代の進化論は、騙しのテクニックの宝庫、博物館状態です。非常に多くの騙しのテクニックが使われています。
  1. 自然選択説は、『いい。わるい。』の価値観を使ったトートロジーです。
  2. 集団遺伝学は、説明を省力し、それを気付かせない騙しの手法です。
  3. 突然変異説は、原因と結果の因果関係を断ち切る騙しの手法です。

   細かい騙しを指摘したら、キリがありません。言葉への先入観と曖昧さの隙を突いて、人間という動物の習性を逆手に取った巧妙な騙しばかりです。


   まとめ

   冷たいようですが、生物進化の現象は、生命現象の一部です。つまり、物理現象です。だから、それは物理的作用の因果関係の上に成り立っています。原因も結果も、物理的作用や現象です。物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。言葉と物理現象の対応関係を、慎重に、検証していくべきです。

   現代の正統派進化論のように、『いい。わるい。』の価値観を使って、説明すべきではありません。現代の科学文明のあり方そのものにも、問題があります。

   『いい。わるい。』価値観によって判断するのではなくて、
   『原因と結果』の因果関係に基づいて、現象を観察されることを希望します。
   物理的作用の因果関係に基づかない説明は、何らかの騙しです。