2.4 もうひとつの道

   我々人間(という動物)の未来には、新しい価値観を探し求める生き方以外に、もうひとつ、別の道もあります。そのような価値観を使った思考から離れ、原因と結果の因果関係に基づいて、現象を観察する道です。

   人々は、『いい、悪い。』の価値観を使った思考の呪縛から逃れられないでいます。むしろ、積極的に、その呪縛に、身を沈めています。絶対的価値観を見つけることが、哲学的真理への道だと固く信じています。
   その価値観を使って、説明することが、正しい道だと信じています。新しい価値観を見つけることが、進歩だと思っています。

   価値観に、必死にしがみ付いて、そこから、絶対的真理を得ようと一生懸命です。だから、哲学者を始めとして、誰もこれに気が付いていません。このトートロジーに気付かないままに、このトートロジーに振り回されています。


   その原動力となっているのは、価値観への執着と、その執着を生み出している欲望です。自覚されないまま、心の奥底で蠢いている欲望が、様々なものへの執着を生み出しています。人々は、その欲望と向き合う前に、脊髄反射的に、無批判に、その欲望に振り回されています。言葉を使って、その欲望を正当化しようと、一生懸命です。

   我々人間という動物の未来には、諸々の価値観への呪縛から解放される道もあります。価値観によって物事を判断するのではなく、価値観への拘りと、それを生み出している欲望から離れる道です。
   現実に目を向け、原因と結果の因果関係に基づいて、物事を観察する道もあります。もっとハッキリ言えば、価値観と、それへの拘りを捨て去る道です。ありとあらゆる欲望と、その欲望が生み出している様々な執着と、執着の対象である言葉や価値観への拘りから離れる道です。

価値観からの解放の道 
今までの道 絶対的価値観を探し求める道。
新しい価値観を身に着ける道。 
もうひとつの道 原因と結果の因果関係に基づいて、物事を観察する道。

   価値観から心を解放します。

   この21世紀初頭の現代は、人々の心を支配している価値観が、『神』から、『科学』に移り変わっている時代です。即ち、科学教の時代です。
   科学教の信者を、世間では一般に、『無神論者』と呼んでいます。なぜなら、『神』という言葉が使われていないからです。もの事が、言葉によって判断されています。音の違いによって判断されています。

   『無神論』という言葉は、『神』という言葉のアンチテーゼとして、存在しています。科学という新興宗教が、神と呼ばれている体制派既存教団の権威を否定する為に使っています。神から科学への宗教改革です。歴史のうねりの中で、今、大きな宗教改革が、静かに進行しています。それと、気付かれないままに。

   だれも、言葉で説明してくれないので、気が付いていません。口から出ている音が異なっているので、神と科学が同じ事象とは気が付いていません。神と科学は別物だと思われています。なぜなら、口から出る音(言葉)が異なっているからです。唯一の判断の拠り所である音(言葉)が異なっているからです。

   言葉で説明されない事象は、存在そのものが否定されています。うっ。。o0○o。

   言葉と現実、どちらが、先に存在していたのでしょうか。もちろん、言葉ですよね。言葉によって、現実が作り出されています。でないと、学問的論争が成り立たないからです。言葉で、きちんと、定義できない現実は、そもそも、言葉の定義を巡って混迷してしまい、学問的論争が成り立ちません。 (キリッ。

   何処かが本末転倒しているような ?????????


   もの事は、言葉によって、明らかになっているのではありません。ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。

   結果を生み出しているのは、『言葉』でなくて、『行い』です。そして、その『行い』の元になっているのは、心の中で蠢いている様々な『欲望』です。

   だから、物事は、この原因と結果の因果関係に基づいて、冷たく観察する必要があります。その『行い』の元になっている『欲望』は何かを、ジックリ観察する必要があります。全ての『行い』は、『欲望』を出発点として起っています。

   言葉は、その心の中で蠢いている欲望を、正当化する為に、使われているに過ぎません。この為に、多くの哲学者が、貴重な一生を無駄にしてきました。彼らは、現実に目を向ける前に、その欲望に衝き動かされて、言葉を振り回すことに夢中になってしまいました。脊髄反射的に、無批判に哲学の道を突っ走ってしまいました。

 

   真理という名のニンジンを目の前にぶら下げ、暴走している馬のように。哲学者は、「真理を探究する。」ことが哲学の道だと錯覚してしまいました。それが、ニンジンだと、気付かないままに。
   『真理』という言葉は、哲学的行為の為に設定されている『仮想目標』です。哲学者が、具体的に、行動の目標を設定できない為に、とりあえす、カッコつけの為に設定している仮想標的です。「哲学は真理を探究することである。」と言えば、言葉の治まりも良く、世間的体裁も格好が付きます。
   だから、真理という言葉は存在していても、その真理の具体的意味や、実体は、誰も説明出来ません。誰も、真理の姿を語ることはできません。
   当たり前ですね。仮想目標だから。ただ、漠然と、哲学的行為を正当化する為だけに掲げられている仮想目標です。目の前にぶら下げられたニンジンです。ニンジンを指差すことは出来ても、ニンジンを説明することはできません。

   マルクスも『労働者の欲望』を正当化することに夢中になって、結果とし、独裁政権を生み出してしまいました。世の全ての共産主義政権が、独裁に終わってしまった原因は、言葉が結果を生み出したからではなくて、『欲望を正当化する。』という『行い』が、結果を生み出してしまったからです。『行い』が、『結果』を生み出したからです。
   富への独占欲に振り回されて、自らの欲望と対立する人間を、『階級の敵』と勝手に名札を付けて、粛清(殺して)してしまいました。残念なことに、言葉は、欲望を正当化する為の手段としてしか、使われませんでした。その言葉が、赤い服を着ていただけでした。マルクス・レーニン教は、科学教の一派として、歴史のうねりの中で狂い咲いた、あだ花でした。


   科学教も、神の宗教も、『行い』、つまり、『価値観の奴隷』である現実は何ひとつ変わっていません。昔の人々は、『神』という言葉で象徴される価値観を信じて暮らしていましたが、今の人は、『科学』という価値観を信じて暮らしています。信じる価値観が変わっただけです。
   しかし、『行い』そのものは変わっていません。『価値観への執着』自体は変わっていません。信じる神の名前が代わっただけです。『神』から、『科学』に。言葉が替わったので、真理に一歩近づいたと、錯覚しているだけです。
   『言葉』は違うけど、価値観への執着という『行い』自体は同じです。行いが同じなので、結果も同じになります。心の中で蠢いている欲望が同じなので、結果も同じになります。

   心に欲望が存在する限り、その欲望によって、何度も、何度も、同じ間違いが繰り返されます。何度も、何度も・・・・・・・・間違いは、輪廻転生します。
   その間違いは、人々の心を棲家にして、次から次へと、広がっていきます。まるで、浜辺のヤドカリが、新しい殻を求めて、次から次へと彷徨っているみたいにです。
   心の中の殻への執着を捨て切れないで、新しい殻(価値観)を求めて彷徨っています。そして、新しい殻を見つける事が、進歩だと錯覚しています。価値観への執着を克服できていません。

   本来は、このような現実に気付くのが、哲学者の仕事だった筈ですが、その肝心の彼ら自身が、先頭に立って、言葉を頭の上で、勇ましく振り回すことに夢中になっています。「なぜ、振り回しているのか?」、それを自問する前に、それを衝き動かしている心の奥底の欲望に振り回されています。

   誰でも、心の奥底に潜む欲望と向き合うのは嫌です。自分が一番認めたくないものだからです。自己嫌悪に陥ってしまうほど、醜くて、恥ずかしいものです。その向き合いたくないものから目を逸らす為に、勇ましく、言葉を振り回しています。

   言葉を画期的な方法で並べ変えたら、何か新しいものが生まれるのでしょうか。哲学的思索と称して、言葉を弄り回していたら、何か現実が変わるのでしょうか。ただ、単に、新しい食感の自己満足が得られるだけのような気がします。自己満足に浸ることが、充実感を実感することが、人生の最終目標だと言うなら、それでもいいのですが。


  我々、人間の未来には、 価値観への拘りから、心を解放する道もあります。