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7.4 まぼろし(幻)体験


   まぼろし体験は、皆様、ほとんど、体験がないと思います。だから、不快だと感じたら、この話は無視して下さい。

   ここでお話しする内容は、事実ですが、誤解される内容を含んでいます。当たりの触りのない範囲に留めますが、それでも、抵抗があると思います。
   なお、話しの内容は、現代では、まだ理解されていない意識感覚器官の知識を前提にしています。

   まぼろし体験

   まぼろし体験は、死後幻覚とか、臨死体験と呼ばれている現象です。金縛りとか、心霊体験なども、この現象に属します。

   多くの場合は、睡眠不足とか、死に直面した時のように、非常に大きなストレスがかかった時に体験し易いみたいです。だから、多くの人たちも、最後の一瞬には、体験されることになるかもしれません。

   まぼろし体験の特徴は、非常にリアルな体感を伴っていることです。

   非常にリアルな体感を伴っている点において、うつつ体験と似ており、それが自らの生じさせた幻覚である点において、ゆめ体験に似ています。ちょうど、うつつ体験と、ゆめ体験を足したような世界を体験します。

   その体感が、あまりにもリアル過ぎて、うつつ体験と区別がつかないので、慣れないと、しばしば、別の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥ってしまいます。臨死体験者は、「死後の世界に迷い込んでしまった。」と錯覚しています。しかし、もちろん、それは夢と同じで、現実ではありません。死後の世界は存在しません。

   死後幻覚は、民族の文化の影響を強く受けているみたいで、民族によって、その世界が、其々異なった特徴を持っています。

   日本人の場合は、一般に次のような物語です。

日本人が体験する死後幻覚のパタン
   体からスーと抜け出して、気が付くと、とても綺麗なお花畑の中にいた。
   そこを通り過ぎると、川があって、向こう岸から、亡くなった筈の懐かしい人たちが、『おいで、おいで』と手招きをしていた。
   渡ろうと思ったら、後ろから、呼ぶ声がしたので、帰ってきた。

   『幽体離脱』と、 『お花畑』と、『』と、『懐かしい人たち』が、キーワードになっています。

   本当に、自分の体から、もう一人の自分が抜け出し、宙を舞ったりします。地球が球体に見える程、超、上空に舞い上がることもあります。

   お花畑は、とても綺麗です。無数のレーザー光線で飾られた、光り輝く、色鮮やかな世界です。今まで体験したことの無いような素晴らしさです。綺麗というよりは、感動的と表現した方か適切かもしれません。
   感動が心の底から、光の泉となって湧き上ってきます。とても満ち足りた気持ちになります。

   亡くなった筈の懐かしい人たちと出会うのは、脳内部の記憶痕跡が作り出した幻覚なのか、それとも、別の原因によって生じている幻覚なのか、明確な確信はありません。ただ、経験的には、別の原因によって作り出された幻覚が、多く混じっていることを知っています。

   川は、日本人の宗教観が影響していると思われます。日本人は、この世と、あの世は、三途の川で隔てられていると思っています。意味は少し違いますが、ルビコン川みたいなものです。心理的な境界線です。

   ヨーロッパ系の人たちの死後幻覚は、次のようなパタンが多いように見受けられます。

ヨーロッパ系の人が体験する死後幻覚のパタン
   ベットに横たわっている自分から、もう一人の自分が抜け出して、天井あたりから、下を眺めていた。
   自分の体の周りには、医者や身内が立っていて、色々話している。
   それを自分は聞いていた。
   自分の魂と、自分の体は、細い糸のようなもので、まだ繋がっていた。

   話の構成は、違っていますが、それを構成する部品は、結構、共通点が多いように見えます。『魂が、肉体から抜け出す。』所とか、『上から、下を見下ろす。』所とか、『魂と体が細い糸で繋がっている』ところとかは、似ています。日本の幽霊も、下半身は、尻すぼみで、細く途切れて、糸のようになっています。

   ストーリーは、宗教や文化の影響を受けているけど、イメージ自体は、人間という動物の性癖の影響を強く受けているように見えます。


  まぼろし体験自体は、自分の心の状態が、そのまま、イメージ化されたものなので、非常にバラエティに富んでいます。
   感動的なものから、怖いものまで、色々です。死後幻覚だけがまぼろし体験ではありません。ほとんどのジャンルを体験できます。どちらかと言えは、奇想天外なものが多いようです。
   「金縛り」とか、 「もののけ」、「へび憑き」、「きつね憑き」、「引き寄せ」、「幽体離脱」、「死者との遭遇」、「神との遭遇」、「心霊体験」、「UFO体験」など、殆どのジャンルをカバーしています。

   金縛りは、幻覚を見ている自分と、幻覚を作り出している自分との間にある不信感が、そのまま、イメージ化されたものです。
   対立関係がイメージ化されてしまうので、それは凍りついたイメージ、即ち、金縛りになってしまいます。心の奥底に、自分自身への不信感や、恐れが存在している為と思われます。
   この金縛りは、比較的体験者が多いのではないかと思います。

   「もののけ」や、ヌエ、キメラなども、まぼろし体験の定番です。
   頭がサルで、胴体が犬やヘビなどの合成動物(キメラ)とか、「もののけ(ものの気配)」が、部屋の中を飛び回っていて、それが時々、ギュンと自分の体に憑りついてきます。いわゆる『ヘビつき』や『キツネつき』の世界です。

   もちろん、それらの「ものの気配」が、怖い怪物になるのは、自分の心に潜んでいる恐怖心の為です。
   まぼろし体験という未知の世界に迷う込んでしまったので、その世界への恐れが心の片隅に残っています。その心の状態が、そのまま映像化されてしまうので、「もののけ」や、キメラなどの恐ろしい怪物になってしまいます。ヌエや「もののけ」は、そのような恐れや不信感、不安感が、そのままイメージ化されたものです。

   しかし、ここがややこしいのですが、慣れて恐怖心が消えても、相変わらず、「ものの気配」自体は飛び回っています。「もののけ」は、「ものの怪」ではなくて、「生き物の気配」のことです。皆様も、普段の生活の中で、人の気配や生き物の気配を感じたことがあると思いますが、そのような「いきものの気配」です。その気配が、部屋中を飛び回っています。

   もちろん、それらは、もう怖い怪物の姿はしていません。ホワイトノイズの塊になっています。恐怖心が消えているので、怪物としてイメージ化はされませんが、それでも、相変わらず、ホワイトノイズの塊は部屋の中を飛び回っていて、時々憑りついてきます。別に取りつかれても、気にはなりませんが。何もないので。

   自分の体験しているまぼろし世界と、それを作り出している原因は、別のようです。自分が直接、意識知覚しているイメージは、心の中の恐怖感や、不信感などの心の状態がそのまま映像化されたものですが、しかし、その世界を作り出している情報は、もっと、別のところからやってくるようです。

   平安時代の「もののけ」の話は、そのまま、まぼろし体験の世界です。「夜な夜な、もののけが空を飛びまわって、時々、人間に取り付いてくる。そこで、屋根に上って、退治した。」という話からすると、多分、平安時代の方々も、このまぼろし体験に頻繁に翻弄されていたのでしょう。

   まぼろし体験は、非常にややこしい世界を構成することもあります。
   慣れると、自分がまぼろし世界に落ち込んでいるのが解るので、苦労して、そこから抜け出そうと努力します。
   やっと、抜け出せたと思ったら、そこは、また、別のまぼろし世界でした。
   そこも、苦労して抜け出すと、また、また、別のぼろし世界でした。
   そこを抜け出すと、やっと、うつつ世界に帰ってこれました。3重トラップの世界です。最後のうつつ世界が、本当に、、、、、。
   カミソリの刃で、流れ落ちるものを確認したい誘惑に駆られてしまいます。痛みだけが、生きている証なんて、考えたくもありませんね。

   不思議なことですが、まぼろし体験は、同じ幻覚が、少しずつ形を変えながら、3度繰り返す性質を持っています。一度か、3度かのどちらかです。2度繰り返すことも、4度繰り返すこともありません。

   壊れたビデオテープのように、終わりまで来ると、また、最初から、同じ幻覚が始まります。前回とストーリーは、ほとんど同じですが、細部がほんの僅か異なっています。終わる場所は全く一緒です。

   これが、もう一度、繰り返します。同じものだという明確な自覚があります。とくに、終わりの場所については、「あ。また同じとこだ。」とハッキリと理解できます。
   夢と違って、意外と冷静に観察できるものです。冷静な観察眼と、うつつ体験と同じような自己分析も特徴です。

   なぜ、3度なのか、その理由は解りませんが、3度繰り返す場合は、多くの場合、その幻覚の理由を後で知ることになります。辛いことですが、うつつ世界で、実際にその原因に出合ってしまうからです。出合った時は、ハッキリ解ります。

   このまぼろし体験を作り出している情報が、どこから来ているのか、残念ながら解りません。必ずしも、全てが合理的に説明できるとは限らないようです。しばしば、あってはならない情報によって作り出されています。

   ゆめと異なって、まぼろし体験は、よく記憶に残っています。それと、これはとても重要なことですが、まぼろし体験から覚めた時、そのまぼろし体験に引き摺られて、何らかの具体的な肉体上の行動が、うつつ世界で発生してしまうことです。

   ゆめ体験は、基本的に願望充足行為ですので、ゆめを体験すると、それで、心の中の欲望は、取りあえず、消滅してしまします。従って、うつつ世界では、具体的行動は生じません。行動の原因となる欲望が夢によって消滅するので、つまり、夢は願望充足行為なので、願望が充足されてしまったら、現実の生活に影響えて、何らかの具体的行動を生じさせることはありません。行動の原因が、願望充足によって消滅しているからです。

   まぼろし体験の場合は、それを作り出した情報が消滅しないで、現実世界に、何らかの具体的肉体行動を引き起こしてします。覚めた後に、まるで、何かに導かれるように、体が動いて、その行きつく先で、やがて、その理由を知ることになってしまいます。

   これが、ゆめ体験と決定的に異なっている点です。従って、自分の肉体の行動を注意深く観察していると、ある程度、識別できるようになります。夢は、うつつ世界に影響を与えませんが、まぼろし体験は影響を与えます。
 
まぼろし世界の仕組み



   まぼろし体験に悩まされたら

   なお、これは、関係ないことだとは思いますが、もし、頻繁に、まぼろし体験に翻弄されて、悩んでいる方がおられたら、その対処療法をご説明しますので、参考にして下さい。

   信じる宗教を持たれている場合

   もし、信じている宗教をお持ちでしたら、その宗教の祈りの言葉を唱えて下さい

   仏教徒なら、「南無阿弥陀仏」などです。キリスト教徒なら、「アーメン」ですか。イスラム教徒なら、コーランを唱えてみて下さい。各宗教の細かなことは判りませんが、多分、宗派によって、異なっていると思いますので、自分の信じている宗派の祈りの言葉を唱えてみて下さい。

   もし、本当に信じているなら、取り合えず、問題はこれで解決します。
   もし、解決しないなら、心の片隅に、疑念が巣くっています。偽りの信仰です。自分も、そして周りも騙しています。まぼろし体験は、心の中が正直に反映してしまいます。上手に偽っている人々にとっては、都合の悪い体験です。

   宗教を持たれていない場合

   もし、信じている宗教がないなら、「こうなったらいいな。」と心の底から望んで下さい。(注1

   まかり間違っても、「こうなれ」と命令してはいけません。命令は、『幻覚を見ている自分』の、『幻覚を作り出している自分』への不信感ですから、その不信感が、そのまま、イメージ化されて、金縛りのような幻覚が作り出されてしまいます。

   全ての現実を、そのまま受け止めて下さい。現実からは逃げることはできません。まぼろし体験も、そのような現実のひとつです。「肯定したい。」とか、「否定したい。」とか、「恐ろしい。」といった心の働きを抑えて、その現実をそのまま受け止めて下さい。

   それは、恐ろしいものでも、邪悪なものでもありません。
   克服の対象でもありません。
   それを邪悪なもの、克服すべきものだと思ってしまう心の在り方こそが心配です。
   当人にとっては、知性の偉大な勝利のつもりでしょうが、そのような余分な感情の流れは、余分なものを作り出してしいます。
   心がその余分な混乱に苛まれてしまいます。


   これで、とりあえず、対処は可能です。
   だだし、その結果、何がおこっても、他の方には、出来るだけ話さないで下さい。

   あなたが出合ったものは神ではありません。一瞬、『神に出会った。』と錯覚してしまいますが、実は、出合ったものは、あなた自身の裸の姿です。あなたが、隠したいと思っている本心が、そのまま、映像化されたものです。

   自分には、まるであなたの裸を見ているようで、心が透けて、恥ずかしくて、聞くに堪えない話です。言葉で取り繕ったり、正当化してもムダです。その両方が見えてしまいます。


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注1)科学教の信徒
   多分、あなたは無神論者ではないと思われます。科学教の信徒だと思われます。

   この21世紀という時代は、人々の信じている価値観が、『神』から、『科学』に移り変わっている時代です。即ち、『科学教』の時代です。
   多くの「無神論者だ。」と主張する人々の言動を注意深く観察すると、『神』という価値観を信じないで、『科学』という価値観を信じています。そして、新興宗教が、既存の体制派宗教を否定するように、『神』という宗教を否定しています。その否定する姿勢こそが、進歩的だと錯覚しています。「自分は、古臭い因習に満ちた宗教など信じていない。科学的で、合理的な進歩的人間だ。」と。

   行いとその結果を観察する限り、残念ながら、価値観の奴隷である現実は、何ひとつ変わっていません。信じる価値観(殻)が変っただけです。

   もの事は、言葉によって、明らかになっている訳ではありません。
   ただ単に、『行い』によって、『結果』が生じているに過ぎません。
   だから、物事は、『行い』と、その『結果』によって、判断されます。