TopPage
2.基本的思考形式

   この考察作業では、今までとは異なった新しい哲学や、思考形式を採用しています。

   そこで、まず最初に、本題に入る前に、ここで使っている思考形式と、その哲学的背景を述べます。
   自分の向き合っている現実と、その現実を理解する為に使っている思考形式を区別する手助けに成れば、幸いです。

   退屈かもしれませんが、付き合ってください。意味不明の場合は、この章は読み飛ばされても結構です。



 2.1 現象論(相互作用の思考形式)

   現象は、相互作用によって構成されています。

   ものの性質は、その相互作用を通して、始めて、その姿を現します。

   現象と、その現象に付随して現れる物の性質について、人々はどの様に考えているのでしょうか。
   現代の唯物論は、「物の性質は、その物自身の中に宿っている。」と考えます。だから、それについて知るとは、それを細かく分解して、詳しく調べることだと主張します。

   例えば、脳について調べる場合、物体としての脳そのものを研究対象としており、それをメスで細かく分解したり、電極を差し込んだりして調べます。
   脳の本質は、物体としての脳そのものの中に宿っているはずだから、それを細かく、詳しく調べて行けば、いずれはその本質にたどり着けるはずだと考えます。
   しかし、ここでは、この様な伝統的方法は採用しませんでした。それとはもっと別の新しい哲学と方法を採用しました。

   我々にとって、現象の真の姿は不可知です。

   どの様な手段を使っても、現象の真の姿は、知ることはできません。なぜなら、我々は、物事を認識された範囲内においてしか、理解することができないからです。
   感覚器官で、信号を捉えた瞬間から、その感覚器官が発するパルス信号に変換されています。我々の脳に流入しているのは、このパルス信号の塊です。脳内部の神経系は、このパルス信号しか、情報処理の対象とすることができません。

   このとき問題となるのは、目の前の現象が、どの様な形の信号に変換され、脳内部に流入し、そしてどの様な情報処理が施されているかです。即ち、我々人間は、どの様な思考形式や、情報処理の形式を使って、認識や理解をしているかです。

   我々を取り巻いている現象は、変化に富んでおり、その種類は様々ですが、しかし、それを理解する側の人間は、それほど多くの思考形式を持っておらず、比較的少数の形式だけを使って、これらを理解しております。これらの思考形式のうち、いくつかは、すでに数学として形式化(定式化)されております。例えば、集合論や群論、記号論理学などのようにです。しかし、残りは、まだよく理解されておりません。

   相互作用の思考形式

   この様な我々が日常使っている思考形式の中で、自分がここで特に注目するのは、相互作用の思考形式です。物理学の分野でやっと自覚されはじめた、それでいて、まだ集合論のようには、数学化されていない新しい考え方です。

   我々が物事を理解する場合のひとつの特徴は、それを二つ、あるいは、それ以上の概念間の関連や対立、即ち、相互作用として理解していることです。
   例えば、ニュートン力学を例にとれば、この理論は、質点と呼ばれる概念の間に働いている重力相互作用について述べたものです。その定性的関係を簡単に図式化すれば、次のように表すことができます。

   この重力相互作用は、研究が進んでいるので、定量的に記述することもできます。その力の強さは、質量の積に比例し、距離の二乗に反比例します。だから、次のような式によっても、定量的に表現でいます。いわゆる有名な万有引力の公式です。


   電磁気学は、電荷間、あるいは、電荷と電磁場との間の電磁相互作用について述べたものです。だから、その定性的関係は、同様に次のように表すことが出来ます。


   この相互作用も、その力の強さは、同様に電荷の積に比例し、距離の二乗に反比例します。だから、その定量的関係は、全く同様の式によって記述されます。

   しかし、決定的に異なった面もあります。先の重力相互作用は、引力のみの一相なのに対して、この電磁相互作用は、引力と斥力の二相を持ちます。このために、このふたつの相互作用によって作り出される現象の姿や性質は、かなり異なったものとなります。

   例えば、重力相互作用は、非常に力の弱い相互作用ですが、引力のみの一相しかないので、寄せ集めれば、巨大な力となります。これに対して、電磁相互作用は、重力相互作用に比べれば、はるかに力の強い相互作用ですが、引力と斥力の二相を持つために、寄せ集めれば互いに打ち消し合って、ほとんど力を持たなくなってしまいます。

   このために宇宙規模の大きな現象では、重力相互作用が支配的となり、分子レベルのミクロな現象では、電磁相互作用が支配的となります。古典的な重力理論であるニュートン力学が、天体の運動を観察することによって、作り出された理由は、ここにあります。

   相互作用の思考形式の物理学以外での使用例

   この相互作用の思考形式は、現代科学の土台になっている唯物論においても、広く使われています。
   例えば、唯物論は、認識という現象を、『主観と客観』の対立であると考えていいます。それゆえ、この対立関係を論ずることが、認識論であると考えております。この哲学も、やはり現象を二つの概念間の対立として理解しております。この呪縛から自由ではありません。

   もっと世俗的な恋愛という現象を例にとってみます。
   この現象は、男という概念と、女という概念の間に働いている恋愛相互作用(?)として理解することができます。だから、その定性的関係は、物理学や哲学の場合と全く同様に表されます。

   この相互作用には、電磁相互作用と同様に、プラスの電荷(男)と、マイナスの電荷(女)が存在しており、それに対応して、引力と斥力の二相を持ちます。そして、その力の強さは、心の距離と体の距離に引きずられて複雑怪奇で摩訶不思議な様相を呈しています。愛と憎しみが、心と体の距離に翻弄されて、ひとり空回りしています。
 
   相互作用の思考形式の重要性は、実は、この世俗的例の中にあります。
   我々が観察している電磁相互作用と男と女の関係は、現象としては 全く異なったものです。次元そのものが違います。色恋ざたと、高尚な学問を、一緒くたにするなど不謹慎なこと思われるかもしれません。

   しかし、それにもかかわらず、この2つの間には、重要な関係があります。この二つの現象を理解するために使っている思考形式の性質が非常によく似ているからです。プラスとマイナスは引合い、プラスどうし、マイナスどうしは反発しあいます。

   それ故、男と女の関係は、しばしば磁石や電気に例えられます。男と女の関係が、電気や磁石に例えられるのは、偶然のためでもなければ、我々の頭がいいかげんなためでもありません。似ているからです。現象そのものは異質であるにもかかわらず、それを理解するために使っている思考形式が似ているからです。現象の形式的性質が、非常に、よく似ているからです。だから、類推が働いてしまいます。

   数学的には、群の話と似ているかもしれません。数学の世界では、色々な局面で、様々な演算規則が現れます。ところ変われば、品変るで、様々ですが、ところが、その形式的性質は、どれも、よく似ています。論じている内容は異なっている筈なのに、その演算規則の形式的側面は、似ています。この類似性を、一般化し、整理して、纏めたのが、『群』という概念です。即ち、『群』とは、演算規則の性質を、一般化した概念です。

   これと同じで、『相互作用の思考形式』も、我々の日常で、広く使われています。明確に、意識しているのは、まだ、物理学だけですが、実際には、日常生活の『男と女の関係』を理解する為にも、哲学上の認識論を理解する為にも、使われています。
   宗教は、『善と悪』の戦いですし、戦争は、『国家間の欲望の対立』として、理解されています。マルクスは、世の矛盾を、独占資本家の欲望と、労働者の欲望の対立と理解しています。そして、この欲望の対立を、『階級闘争』と位置づけています。即ち、労働者の欲望を実現する為には、階級闘争によって、独占資本家を殲滅する必要があると主張します。


   相互作用の思考形式の一般的構成

   このように、我々人間は、物事をふたつの概念間の対立として理解する性癖をもっています。この相互作用の思考形式は、学問上の問題から、世俗的問題に至るまで、広く使われています。そして、その一般的構造は、常に次のような図式によって表すことができます。

 
   物と物の相互作用として記述された理論を、物理学では、一般に、遠隔作用の理論と呼んでいます。離れた場所に存在する物(地球)と物(太陽)との遠隔相互作用だからです。ニュートン力学が、その代表です。一般に、古典物理学は、遠隔作用の理論として記述されています。

   それに対して、近代物理学は、物と場との相互作用として記述されます。この理論形式を、近接作用の理論、又は、場の理論と呼んでいます。物と、その物の近傍に形成された場との相互作用として、物理現象を記述します。マクスウェルの電磁気学や、アインシュタインの相対論、量子力学が、その代表です。ちなみに、今西の棲み分け理論も、場の理論です。彼が主張している『種の棲み分け』は、物理学上は排他律の問題に対応します。



   物の存在と相互作用

   さて、ここからが本題です。
   いま我々のもっとも関心のある『物の性質』というものについて考えてみます。『物の性質』というものは、そこに働いている相互作用の性質によって決定されています。原子論が主張するように、物の性質は、そのもの自身の中に宿っている訳ではありません。

   元々、性質と言うものは、そのもの単体では、意味を持ちません。その物が、他の物と出会って、そこで相互作用が起こって、始めて現象が形成され、それによって我々は物と、そのものに付随して現れる性質を観察しているからです。
   現象を通してしか、物の性質を理解することができませんが、その現象自体は、物単体では形成できません。常に他の物との相対関係の上に成り立っています。

   例えば、現在、太陽からは、大量の中性微子が放出されていますが、この素粒子は、他の素粒子と殆ど相互作用を起こしません。だから、この地球の中も平気ですり抜けて、宇宙の彼方へと飛び去って行っています。相互作用が起こらないので、現象も形成されず、それ故、その結果を観察することもありません。

   もっと正確に述べるなら、物の存在とか、非存在といった哲学的命題は、ここでは重要な意味を持ちません。物がそこに存在していようが、いまいが、相互作用と、それに基ずく現象が形成されなければ、物の存在は確認できないからです。確認できない物の、存在とか非存在を論じても意味がありせん。
   中性微子も、正確に述べるなら、地球の中をすり抜けているのではありません。地球と相互作用を起こすことがないので、その運動も邪魔されることがなく、従って、あたかも地球がそこに存在していないかのように振舞っているだけなのです。

   一般に、物質の排他性は、そこで現象が形成されて、始めて出現する性質です。相互作用が生じなければ、現象も形成されないので、従って、物と物が反発し合うこともありません。反発し合わなければ、あたかも、相手がそこに存在しないかのように、透過してしまいます。

   物の性質とか存在は、相互作用と、その相互作用によって作り出される現象によって始めて我々人間の眼に観察されます。他の物との関連を無視した、純粋な性質や存在などありえません。
   だから、物について理解したい場合、唯物論者のように、その物自体に注目するのではなくて、その物の属している現象全体に注目する必要がります。その全体の中の一部として理解する必要があります。

   ここでは、出来る限り、現象の全体像に注目し、その全体の中での位置づけとして、ものの性質を理解していきます。

   前へ  Top  次へ