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2.7 情報処理の3階層


   もし、周りに話し相手が誰も居なかったらどうするか。

   議論を互いに戦わせて、互いに刺激し合うことができません。自らの思考の誤りも検出できなくなります。新しいアイデアも、なかなか生まれ辛くなります。多くの不都合な弊害に直面してしまいます。

   しかし、自らの置かれた不幸を嘆いても、誰も助けてくれません。『できません。』では済みません。急遽、代替えの情報処理を準備する必要があります。

   そこで、ここでは、これらの不利な状況に対応する為に、新しい手法を導入して、使っています。それについて、参考までに、述べます。
   役立てて頂ければ、幸いです。

   情報の分析は、次の3階層から構成されています。

      1.欲望のコントロール
      2.概念構築(イメージ処理)
      3.記号処理、数値解析


2.7.1 記号処理、数値解析


   情報を、言葉や数値などの記号に置換して、処理する手法です。

   哲学者は、言葉(符号)を使って、哲学的思索に耽っています。情報を、言葉で表現して、その言葉を操作することによって、様々な処理を行っています。

   デジタルコンピュータは、情報を、数値に置換して処理しています。数値に置換された情報を、計算したり、集計したり、比較したりして情報を処理しています。

   現代において、情報処理と言ったら、ほとんど、このレベルの情報処理を意味しています。
   このレベルでは、何か新しいものが生み出されることはありません。既に、あるものを、分類や加工しているだけだからです。

   現代は、情報化社会だと、騒がれていますが、実は、コンピュータが処理可能な情報は、最下層の『記号処理、数値解析』のみです。それよりも上位に位置する『イメージ処理』や、『欲望のコントロール』は、まだ、メドさえ立っていません。

   これが、現代の情報化社会の正体です。



2.7.2 概念構築(イメージ処理)


   断片的な情報から、ひとつの概念を構築する作業です。

   解り易く言えば、ジグソーパズルです。
   一見、無関係なバラバラの情報を、寄せ集めて、ひとつの統一した概念を構築する作業です。

   もの事は、見る方向、見る立場によって、全く、異なったものに見えます。

   例えば、象は、近くて見るのと、遠くでみるのでは、全く、異なった姿に見えます。近寄って、長い鼻の先を見るのと、尻尾の先を見るのでは、当然、形が違っています。同じ象でも、見る方向、見る場所、見る距離によって違って見えます。

   同じ、象を見ているにも関わらず、そこから得られる情報はバラバラです。形式的な関連性や、統一性を見出すことは困難です。
   この種の情報は、たくさん集めて、統計等の記号処理を行っても、何も有効な結果を得ることはできません。

   象について知りたければ、寧ろ、バラバラな、互いに見かけが異なった、多方面から情報を集めて、ジグソーパズルを組み立てるように、象のイメージを頭の中に組み立てる作業が必要です。

   集める情報は、科学的データに限定されません。全く馬鹿げた素人の感覚も重要です。専門バカに陥らない為に。
   そして、ある程度イメージが固まったら、今後の作業が行い易いように、そのイメージに、『象』という新しいラベル(言葉)を付けます。

   言葉を割り当てなかったら、連想が働き辛いので、頭の中に、そのイメージを固定し、維持するのに、高い集中力を必要とします。結構、しんどい作業になります。他人との会話にも、支障が出ます。

   しかし、同時に、言葉を割り当てたら、弊害も生じます。人間は、言葉ばかりを見つめ始めて、現実を見なくなります。言葉の先入観に囚われてしまします。

   そこで、しんどいですが、言葉を割り当てる作業は、出来るだけ、後の方がいい結果が生まれます。
   言葉によって生み出される先入観の弊害を、避ける為にも。


   実際の作業手順は、下記の通りです。

   1) 科学的常識に囚われないて、できるだけ多方面の情報を集めます。

   専門バカに陥らない為に、馬鹿げた情報も丹念に集めます。一見、無関係な情報も、先入観を捨て集めます。

   常識の壁を乗り越えたかったら、集める情報も、常識に囚われてはいけません。
   全く当たり前のことですが、壁を乗り越えれないのは、学問的常識の範囲内にしか、目を向けていないからです。ヒントは、科学的常識の範囲外にあります。

   自分の能力は、他人と比べて、劣っています。その劣っている自分が、他人と異なった成果を出す為には、他人と異なった視点、他人と異なった手法を使うことです。
   そのような自分が、他人と同じ事をしていたら、自分の無能さを思い知らされるだけです。


   2) 神経を集中して、頭の中に叩き込みます。

   それらのバラバラな情報を頭の中に叩き込み、ひとつの概念(イメージ)を組み立てる努力をします。
   ちょうど、ジグソーパズルを組み立てるように、一生懸命、試行錯誤を繰り返します。
   しかし、多分、失敗すると思います。

   失敗したら。。。。。


   3) 一旦、今までの作業を、全て忘れます。

   全く、別の作業に熱中します。

   例えば、生物学の問題を処理していた場合は、全く、関係のない物理学の問題に集中します。綺麗さっぱり忘れて、思い出さない為に、別の作業に熱中します。

   「折角、覚えたことを、忘れてはいけない。」という欲望に振り舞わさて、不安になると思いますが、そのような不安を無視して、全て、綺麗さっぱり、忘れてしまうことです。その為にも、別のことに熱中すべきです。

   その忘れている期間は、経験的に、約3カ月です。


   4) 3カ月経って、心に衝動が起こったら、もう一度、心を振り絞ります。

   心をもう一度集中させ、イメージを組み立てる作業を行います。

   もう一度、同じ本を読んで、心の奥底から、絞り出すようにして、叩き込んだ情報を取り出します。
   もちろん、取り出された情報は、叩き込んだ時とは、微妙に、異なっています。重要だと思い込んでいた情報が、実は、重要ではなくて、抜け落ちていることもあります。
   全く、無関係だと思っていた別の情報と、結びついて、新しい姿になって、取り出されることもあります。

   忘れている3カ月の間に、意識の拘束から解放されて、情報の消化、吸収が始まり、互いに、想像もしなかったような場所で結びあって、新しい概念が生み出されるようです。
   想定した情報だけでなく、別の作業で取り込んだ想定外の情報とも、結びつくことがあります。生物学と、物理学が、思いもしなかった場所で結ばれることもあります。

   我々の脳は、このようなタイプの情報処理も可能なようです。皮肉なことに、この作業は、忘れている時に行われます。新しい概念(イメージ)は、忘れている時期に形成されています。その情報の消化吸収と、結合に、経験的に、約3カ月掛かります。

   意識知覚していると、即ち、忘れまいと努力していると、そこで情報が固定されて、消化吸収できない見たいです。常識の呪縛から、逃れられないようです。


   5) 一連の作業中には、絶対に、言葉は使わない。

   不安感から、ついつい言葉を付けたがりますが、言葉を割り当てた瞬間に、言葉の先入観に囚われてしまします。
   そこで、情報が、固定されてしまいます。

   しんどいですが、言葉を使わないで、心を集中して、頭の中に、そのイメージを保持して、直接、動かします。
   言葉を使わないと、この作業は、高い集中を要求されて、結構、しんどいですが、我慢して行います。何回も、何回も、トライしていると、そのうち、出来るようになります。

   『言葉に、しがみ付きたい。』という欲望を克服します。


   6) 最後に、その概念を固定する為に、言葉を割り当てます。

   言葉が割り当てられると、頭の中にイメージを思い浮かべ、維持、固定するのが比較的簡単になります。他人と会話することも、可能となります。

   しかし、同時に、言葉の先入観の虜になってしまいます。自由を失います。言葉を割り当てた瞬間に、メリットと、デメリットが交差します。


   イメージ処理のポイント

   この情報処理では、できるだけ異なった、多方面からの情報を集めることと、忘れること、言葉を使わないが、ポイントのようです。忘れることによって、始めて、新しい概念が形成されます。

      a) 出来るだけ多方面の情報を集める。
      b) 忘れること。(経験的には、3カ月です。)
      c) 言葉を使わない。

   このレベルの情報処理は、残念ながら、人間の心の中でしか、処理できません。

新しい概念の形成に要する時間
常識に囚われない新しい概念は、忘れている時に、形成されます。
その忘れている期間は、約3カ月です。
作業は、言葉を使わないで行います。


2.7.3 欲望のコントロール


   極めて戦略的な情報処理です。

   そもそも、情報を処理する必要があるのは、人間という動物が生きる為です。

   全ての哲学的問いは、最終的には、外部から流入した信号と、自己の生きることとの接点を求めています。「それは、生きることと、どのように係わっているのだろうか?」「生きる上で、どのように役立つのだろうか。」「それは、食べれるの?」「美味しいの?」etc。。。。様々な方向から、問いが発せられます。自分の生きる事との関わりについて。

全ての哲学的問いは、自己の生きることとの接点を探し求めています。

   始めて出会った事象に関しては、まず、事象の仕組みを理解しようとします。理解できたら、次に、その事象が、自己の生存と、どのように係わっているか、その接点を明らかにしようとします。

   自己の存在と関わりのない信号は、次回からは、雑音として無視されます。心に留まることなく、そのまま、流れ去ってしまいます。
   自己の存在と関わりのある信号のみが、心に留まって、情報に変身します。信号が、情報に変身する瞬間です。つまり、情報は、自己の存在と結びついた信号です。

   人間の心の奥底には、様々な欲望が蠢いています。人間の行動は、その蠢いている欲望によって、ドライブされています。
   例えば、人間の心の奥底には、食欲がありますが、この欲望は、肉体的空腹感と、外部からの信号(食べ物の匂いや、映像)が出会って、始めて活性化されます。活性化された食欲は、肉体の具体的行動を生じさせ、捕食行動へと駆り立てます。キツネなら、ウサギを追いかけます。人間なら、レストランへ入っていきます。
   肉体的空腹感がなければ、ウサギを見ても、追いかけません。肉体的要求と、外部からの信号が出会ったときにのみ、捕食行動が発生します。

   このレベルでの情報処理では、これを利用します。
   外部から流入した信号が、心の奥底で蠢いているどの欲望と、共鳴を起こすか、それをじっくり観察します。
   共鳴を起こした欲望こそが、その情報の正体です。

   感覚器官から流入した信号は、欲望と共鳴を起こさない場合は、雑音として、そのまま素通りします。何の結果も生じません。
   欲望と共鳴を起こすと、欲望が活性化されて、肉体的行動を生じさせます。行動は、様々な結果を生みます。結果は、様々な波及効果を生みます。
   その結果と波及効果こそが、我々が最も知りたいことだからです。



   音楽を楽しむ

   こう説明すると、難しく聞こえるので、音楽鑑賞を例にとってみます。

   みなさんも、音楽を聞くことは好きだと思います。難しい、音楽理論など無視して、楽しんでおられると思います。

   世の中には、色々なジャンルの音楽があります。ジャズや、クラシック、ラテンにシャンソン。ポップスにロック。ジャンルに関係なく、感性が合えば、楽しんでいると思います。

   それを注意深く観察していると、ジャンル毎に、それを楽しんでいる感性の場所が、其々違っていることに気が付きます。その時の気分によって、聞く音楽が異なっています。

   例えは、自分の場合、アフリカの民族音楽は、頭ではなくて、左腕の血管が楽しんでいます。あの強力なリズムを聞くと、血管がピクピクします。

   インドの民族音楽は、頭の上、10cm辺りで、シャンシャンと音が鳴り響いています。楽しむ感性の位置が、頭がい骨の外側にあります。其々の音楽には、それを楽しむ感性の場所が異なっています。その日の気分に合わせて、様々な音楽を楽しんでいます。

   興味深いのは、ジャズとバッハです。この2つは、同じ感性を使って楽しんでいます。両方の音楽とも、メロディーによって構成されていなくて、音の塊によって構成されています。音の塊が、気分の高揚と連想によって、次の音の塊を連れてやってきています。

   丁度、夢の構成形式と同じです。夢も、前後の脈絡がなく、連想によって、次のイメージの塊を連れてやってきます。夢の構成形式と、ジャズ、バッハが同じなのは、興味深いことです。多分、左脳の音楽(メロディー)ではなくて、右脳の音楽(イメージの連想)になっているのですね。



実際の具体的な処理手順は、下記のようになります。

処理手順1:外部からの信号を、そのまま、心に流し込みます。

   絶対に批判をしてはいけません。
   評価もしてはいけません。
   出来るだけ変更を加えないで、そのまま流し込むのがポイントです。

   まかり間違っても、批判的摂取など、行ってはいけません。
   批判的摂取は、アライグマの習性と同じで、自己満足に浸る為の儀式に過ぎません。

処理手順2:心の中を、注意深く観察します。

   流し込んだら、注意深く、心の中を観察します。その信号が、どの欲望と共鳴を起こすかを。
   性欲を擽るのか、虚栄心を擽るのか、宗教的欲望や、哲学的欲望、あるいは、自己を正当化できる言葉を探し求めているのか、それらを注意深く観察します。

   共鳴を起こした欲望こそが、その情報の真の正体です。

   できたら、その共鳴を起こした欲望が、行動を生みだす現場を観察できればベストです。欲望と行動と結果の因果関係を観察できれば申し分ありません。

   感覚器官からの信号によって、欲望が活性化され、その活性かされた欲望は、何らかの行動を生じさせます。
   そして、その行動は、何らかの結果を生み出します。我々にとって大切なのは、その結果です。これだけが、我々に影響を与えるからです。
   だから、物事は、行いと、その結果によって判断されます。

   ところが、人間は、その行いの基となった欲望を、言葉で正当化する事ばかりに夢中になっています。この為の、言葉が総動員されています。宗教や、イデオロギーが総動員されています。
   行いの結果に目を向けることもせずに、ただ、ひたすら、欲望を言葉で正当化することに夢中になっています。それを、何とか相手に押し付けようと、頭を巡らしています。

   正当化できる言葉が見つかったら、もう、それで安心しています。行いの結果なんて、無関心です。忘れ去られています。



   この手法の最大の問題点

   我々人間は、心の奥底にある欲望と、そのまま、向き合うことが苦手です。この為、心の中を、観察できません。

   欲望が視界に入った瞬間に、脊髄反射的に、それから目を逸らし、言葉を使って正当化し、飾り立て、その飾り立てられた言葉ばかりを、見つめ始めます。
   欲望の正当化作業は、しつこく繰り返されて、終わることがありません。
   この為、肝心の作業が出来なくて、訳が判らなくなってしまいます。

   まず、「正当化したい。」「飾り立てたい。」という欲望を抑えて、心の底で蠢いている欲望と、そのまま、向き合えるように、訓練する必要があります。
   欲望をコントロールする必要があります。

   特に、性欲などのように、反社会的で、恥ずかし欲望とは、なかなか向き合えません。
   生命としての宿命や、動物の性(さが)に根差した根源的欲望は、それが欲望だと自覚出来ない場合もあります。その場合は、自分の行動を観察して、そこから、欲望に辿りつく作業が必要になるかもしれません。自分の手足の動きを観察して、そこから、推測します。行動の原因や、出発点になっているものが、欲望なので。

   欲望とそのまま向き合えるようになって、始めて、外からの信号が、欲望と共鳴を起こす瞬間を、観察可能になります。

   その活性化された欲望が、行動の原因となって、結果を生み出す現場を観察できます。その結果こそが、その情報の真の意味です。

大切なこと
心の奥底で蠢いている欲望と、そのまま、向き合うこと。
感覚器官からの信号は、批判をしないで、そのまま流し込みます
共鳴を起こした欲望こそが、その情報の正体です。

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