参考:生命相互作用の物理学的意味について


   生命相互作用の物理的意味と性質については、今のところ、全く解りません。

   ただひとつだけ解っていることは、我々は、そこに生命現象を見出し、それを、他の物理現象と区別していることだけです。

   なぜ、生命現象を、他の物理現象と区別できるのか、その区別している根拠は何か。その根拠を、誰も説明できません。

   しかし、同時に、生命現象の存在を、誰も否定できません。誰も、現象の存在自体は否定できないけど、同時に、誰も、その認識の根拠を説明できません。
   見えているけど、なぜ、見えているか、誰にも、説明できません。

   ここでは、生命現象という他とは区別された現象が存在しており、その区別された現象を説明する為に、物理学の通例に倣って、その現象を構成している相互作用を、生命相互作用と呼んでいるに過ぎません。

   現状は、ニワトリが先か、タマゴが先かの問題に似ています。
   全ての現象は、相互作用によって構成されています。生命現象という他とは区別できる現象が、そこに存在しているなら、そこには、その現象を作り出している(他とは区別可能な)相互作用が存在している筈です。それを、生命相互作用と呼んでいるに過ぎません。
   つまり、現象と、それを支えている筈の相互作用を同一視しています。


物理現象を支えている4つの相互作用と、生命相互作用の関係

   現代物理学は、4つの相互作用によって、物理現象が構成されていると考えています。重力相互作用と、電磁相互作用強い相互作用弱い相互作用の4つです。

   問題は、生命相互作用が、この4つの相互作用の組み合わせで説明できるのか、それとも、これ以外の別の要素も持っているのかです。
   つまり、5番目の新しい相互作用を仮定する必要があるのかです。表面的には、生命相互作用は、電磁相互作用と密接な関係にあります。

   自分の今持っている考えでは、「7対3の割合で、新しい要素が含まれているのでは。」と、思っています。と、言うよりは、もっと、本質的に、「今見えている4つの相互作用は、見かけの性質であって、その背景には、もっと、基本的な相互作用が存在しているのでは。」と、思っています。

   「重力相互作用も、電磁相互作用も、強い相互作用、弱い相互作用も、もっと基本的な相互作用から派生している、表面的な見かけの性質ではないか。」と、思っています。「生命相互作用も、同じように、そこから派生した見かけの相互作用ではないか。」と、思っています。

   もし、これらが、もっと基本的な相互作用から派生した見かけの相互作用であるなら、例えば、原子の周期律表に見られるように、もっと、もっと、多様な見かけの相互作用が存在している可能性があります。これらは、「組み合わせ問題として発生してる。」と、思われるからです。


   存在と非存在に関する、簡単な思考実験です。

   存在と非存在に関する思索を、哲学では、形而上学と呼んでいます。
   ここでは、この形而上学の問題を別の視点から論じます。

   Aという相互作用から構成された現象界を α
   Bという相互作用から構成された現象界を β と仮定します。





   もし、相互作用、AとB が、過去においても、現在においても、未来においても、係り合いがなければ、現象界、α が、現象界 β の存在を知る術はありません。
   現象界、αβ の間で、相互作用が存在しないので、現象が形成されない為です。現象が形成されなければ、知る術はありません。

   当然、現象が形成されないので、排他律の性質も現れません。排他律の性質が現れないので、互いに、排他的に存在することもありません。互いの存在は、互いに影響しあうことはありません。

   そのいい例が中性微子です。中性微子と呼ばれている素粒子は、太陽から大量に放出されています。ところが、この素粒子は、他の素粒子と殆ど相互作用をしません。この為に、その存在状態や、運動も、殆ど、邪魔されることがありません。結果、地球を、突き抜けているように見えます。まるで、豆腐に釘を差すように、そこに地球が存在しないかのような振る舞いをします。
   中性微子が、地球をすり抜けるのは、地球を構成している大量の素粒子と、ほとんど、相互作用を起こさないからです。相互作用で現象が形成されないので、結果、その運動状態も、存在状態も乱されることがない為です。

   つまり、現象界同士が、全く相互作用をしないなら、現象界 α から見た場合、現象界 β は、存在していないと断言しても問題ありません。現象が形成されない為に、互いに影響し合うこともなく、それ故、存在を知る術は無いからです。現象界 β は仮定の産物に過ぎず、何の影響も与えないからです。


   では、現象界は何処に存在しているのか?

   『では、現象界 α β は、何処に存在しているのだろうか。』という問題も意味を持ちません。

   『コップという入れ物(空間)の中に物が存在している。』という発想自体は、我々人間という動物が持っている先入観、思考形式です。それは、現象の認識された形式、即ち、動物がそのような形式を使って、外界の情報を処理しているに過ぎません。
   現象の構成形式でありません。

   つまり、現象界 α、β の入れ物(空間)は、実在する実体ではありません。これらの現象界は、空間という入れ物の中に、入っている訳ではありません。

   冷たい言い方で、申訳ありませんが、我々は、ただ単に、相互作用によって生じた現象を観察しているに過ぎません。現実は、たった、それだけです。

   それ以外は、全て、先入観です。

   その現実を、『空間という入れ物の中に、ものが存在している。』という形式を使って、理解しているに過ぎません。そのような先入観で理解しています。
   この理解の仕方は、人間という動物が持っている情報の処理形式、発想の形式です。
   『時間、空間、物質』は、存在するする実体ではなくて、脳内部の情報処理の形式です。そのような実体は、存在していません。我々の存在しているこの宇宙は、そのような実在物で構成されている訳ではありません。

   もっと、ハッキリ言えば、この動物の習性です。近縁種である、イヌやネコと共通の習性です。
   昆虫たちも、このような情報の処理形式を持っているかどうかは、判りません。持っていない可能性もあります。実際に、制御工学のモデルを作ってみると、それに拘らなくても、生きていくことが可能に見えるからです。


   現実に目を向けると

   現実に目を向けると、我々の存在しているこの宇宙では、4つの相互作用が、ひとつの現象界、即ち、この宇宙を構成しています。

   重力相互作用によって作り出されている現象界も、電磁相互作用から構成された現象界も、互いに相手の現象界と係りを持っています。統合されて、ひとつの現象界、即ち、この宇宙を構成しています。
   逆に人間の立場から、表現してみます。この宇宙に存在している我々人間が、物理学的に実験や調査をしてみると、そこに、4つの基本的相互作用が見いだされました。物理現象は、この4つの相互作用から構成されていました。

   これは、これら4つの相互作用が、背後で結びついている。つまり、もっと基本的な相互作用から派生した見かけの相互作用であることを、意味しています。

   これらが見かけであるなら、もっと、もっと、たくさんの見かけの相互作用が存在している筈です。見かけの相互作用は、組み合わせの問題として、派生していると考えられるからです。

   丁度、原子の周期律表が、原子や分子の化学的性質として現れるように、素粒子より、もっと下のレベルで、このような相互作用の組み合わせ問題が発生していると考えています。

   生命現象と、それを支えている生命相互作用も、そのような数ある見かけの相互作用のひとつではないかと、考えています。


   自分の真の目的は、これを判断する為の情報収集と、その情報収集の為の基盤作りです。
   この為に、オーバースペックな論理展開になっています。
   進化論を論ずるだけなら、ここまで、掘り下げる必要はありません。



形而上学

   形而上学の定義は、曖昧です。人によって異なっています。
   だた、ひとつ言えることは、「訳が判らなくなって、混乱した思考」の事を、形而上学と呼んているみたいです。

   ここでは、ハイデッガーの『存在と無』に関する思索を、多分、形而上学だろうと見なして、それに沿って、話を進めています。

   ただ、ハイデッガーの作業自体は、失敗しています。あまり、参考になりません。

   彼は、先入観に囚われています。『存在』や、『無』という言葉には、真理が隠されている筈であり、その隠されている真理を探求することが形而上学だと思っています。哲学的欲望に、無批判に振り回されています。動物の性の虜になっています。

   実際には、言葉は、『人間』という動物が使っている道具です。だから、言葉の裏側に隠されているのは、真理ではなくて、『この動物の生き様』です。この動物の生きることと、言葉がどう結びついているか、その接点です。

   全ての哲学的問は、最終的には、人間という動物の生きることと、どのように結びつているか、その接点を探し求めています。
   だから、そこで、求められているのは、人間としての哲学ではなくて、動物としての哲学、生命としての哲学です。
   我々動物は、生命として、どのような性(さが)を持って生まれ、それに、どのように振り回されているかです。

   ハイデッガーは、自分では気づかないままに、この性(さが)に振り回されていました。自らの哲学的衝動が何処からきているのか、まず、最初に、そこから、スタートすべきでした。
   しかし、いきなり、哲学的衝動に突き動かされて、「『存在と無』という言葉には、真理が隠されている筈だ。」という先入観から、スタートしていました。結果は、「はずみ車を回し続けているネズミ。」と同じ状態になっていました。

   ここで行っている作業は、存在と非存在(無)に関する物理学的側面からの考察です。

   この問題を、脳、即ち、制御システムとしての側面からも、考察しています。時空認識を持った制御システムのモデルを作ってみました。こちらも、参考にして頂くと、より理解の助けになると思います。こちらの方が、形而上学の答えとしては、理解し易いかもしれません。存在と無を、生きることと、直接結びつけているからです。

   結果だけを簡単に述べますと、『存在』とは、自己と関りを持つもの、自己と競合するもの、自己の行動を阻害するものを意味しています。
   例えば、『壁』という存在を例にとれば、『壁』は、我々の行動を阻害します。勢い良くぶつかれば、我々はケガをします。運が悪ければ、飛行機が地面にぶつかった時のように、死にます。そこで、自己の存在が否定されます。

   『無』とか、『空』は、『存在』の反対の意味を持ちます。自己と関りのないもの、自己の行動を阻害しないものを意味しています。
   例えば、『壁』の前に広がっている空間は、我々の行動を阻害しないで、自由に動き回ることができます。そこで、自己の存在が否定されることはありません。

   『存在と無』は、我々人間という動物が『生きる。』という行為との接点で、このように関わっています。
   『存在』は、自己と関りを持つもの、時として、自己の存在を否定するものという意味を持っています。
   『無』は、『存在』の逆です。自己と関りを持たないものという意味を持っています。『空』又は、『空間』は、自己の行動を阻害することなく、自由に行動できます。

『生きる。』という行為との接点において 
 存在   自己の存在と、関りを持つもの。
 壁は、自己の存在や行動を否定するものです。
 我々は、壁によって、行動が阻害されます。
 銃弾は、自己の存在を否定します。つまり、死にます。
 無 or
 空間
 自己の存在と、関りを持たないもの。
 空間は、自己の存在と関わりをもちません。
 そこでは、自己の行動が阻害されること無く、自由に動けます。
 当然、自己の存在が否定されることもありません。

注)この『生きる。』という行為との接点を探究することが、『哲学的問い』の最終的目的です。哲学者は、哲学的衝動に突き動かされて、無意識に、この接点を探っています。

暗黙の哲学的問い: それは、自分の生きる事と、どう関わっているの?
危険なの? 食べれるの? 役立つの? etc

   人間は、知らないものに出会った場合、まず、最初に、安全か危険かに関心を持ちます。安全と判ったら、次に、「それ食べれるの?」と、食べれるかどうかに興味を持ちます。食べれないと判ったら、やっと、人間らしくなります。「他に役立つことないの?」と、考え始めます。残念ですが、保身と食欲は、動物の本能です。